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ふぁぼの早い5人に140字SS投げつける見た人も強制でやる
書下ろし三作、風にゆれる かなしの花のキャラクターで頂いたリクエスト二作

タイトル通りのタグで投げつけたSS

朔さんへ
 無防備に眠る顔は、普段の毅然とした表情よりも幾分あどけなさが勝る。いつからだろう。かつては無邪気だった笑みが、腕のいい彫刻家が作り上げた女神像のような微笑みに変わったのは。その表情を崩してしまいたい、でも変えたくない気持ちもある。矛盾を抱えながら、白い頬のまろみを指先でなぞった。

 朔さんへ投げつけた奴。ヘタレ男子友の会の会長様なので、やはりヘタレ男子を書きました(笑
 設定としては、幼なじみ主従。護衛とか側近的立場なヘタレ男子と、長じてからは人の上に立つ存在になった表向きは完璧女子。多分、幼なじみであるヘタレ男子の前でのみ気を緩められるんだろう。


ハルさんへ
 「いいものあげる」そう言って彼が放り投げたのは、赤地に手毬柄の布が巻かれた二十センチほどの長さの筒。いわゆる万華鏡という奴だ。「何で?」と返すと、「今夜は曇りだから」とドヤ顔だ。「これを望遠鏡にすれば、天気関係なく星が見えるだろう?」あまりの馬鹿馬鹿しい発想に涙が出るほど笑った。

 ハルさんに投げつけた奴。
 天気悪くても万華鏡なら星見られるって子供みたいな発想が嫌いではないですええ。この二人は、友達以上恋人未満みたいな関係だったらいいなーって思いましたまる。


悠さんへ
 雨が上がれば、虹を見に行こう。おろしたてのスニーカーを履いて、あの丘の上まで。街を見下ろす高台で、天に掛かった七色の橋を見上げて。きっと、虹の袂が見つかるはず。見つかったならこっちのもので、あとはその場に駆けるだけ。そこになくしたものが、待っているのだろう。

 悠さんに投げつけた奴。癒し系(?)を狙ってみました。
 最初最後の一文の「待っているのだろう」は「待っているはずだから」でした。何となく「はず」って断定するよりも「だろう」みたいな期待した感じの方がいいかなと。
 虹の袂には亡くした人がいるってお話もあるよね。みたいなね。見つけられる、そこに辿り着けるってことは、もしやこの主人公は……って勝手に深読みしてもらえても楽しいかなと思った(私の脳みそが不穏な方に行きたがるだけ)


りつかさんへ
 言動は軽い、やる気はない、信用できない。三拍子揃った上、女遊びは騎士団で随一。そんな男がどうして真面目で模範的な彼女の幼なじみなのかとずっと気に入らなかった。けれど最近、そこまで悪い奴ではないと思い始め――「お? セラの薄っぺらい胸でも見てんのか?」前言撤回。やはり気に入らない。

 りつかさんに投げつけた奴。風花のアルとレオンのお話でとリクエストを頂いたので。
 この二人好きなので書くの楽しいんですけど、いつも文字数に悩まされる。
 アルとレオンはきっと、何年経っても似たような感じの関係です。レオンがアルを見直しては前言撤回を繰り返す、みたいな。
 でも気づけば信頼できる友人の一人にはなってそうで、結局アルのお兄ちゃん属性の勝ちな気がする。


なのかさんへ
 フラワーシャワーを投げつけながら、友人である新婦の幸せそうな微笑みに自然と口元が綻ぶ。そういえば、あの二人も無事に式を挙げられたのだろうか。揃って不器用で、ついお節介を焼いてしまいたくなる大好きな二人。末永く幸せに。届くはずない祈りを、もう失われたはずの力にのせて。共に幸せに。

 なのかさんに投げつけた奴。リクエストは風花のカノンでした。
 これはカノンが元の世界に戻った後、友人の結婚式の最中にレオセラ思い出している感じです。
 二人の結婚式、見たかったんだろうな~。もし見てたらきっと号泣してたんだろうな~とか思いながら書いてました。



 と、こんな感じで書いたこれらのSSは初めての140字SSでした。
 短いの難しいね!畳む

#番外編 #140SS

風にゆれる かなしの花その他

Kissの日 2018年
はなひらかねど、風にゆれる かなしの花、夢のあとさきそめし朝、Song for Snow、Reciprocal EclipseシリーズのそれぞれのCPで。

『手の上なら尊敬のキス』 メレディス&アレクシア

 差し出された書類を右手で受け取り、もう片方の手で引き戻されようとしている手を捕まえる。訝る彼女のその手の甲に、そっと唇を押し当てた。途端に「何のつもりだ」と非難の声。だがその頬がわずかに赤く染まっていることは見逃さない。
「麗しの補佐官殿への愛情表現です」
「仕事してからにしなさい」

『額の上なら友情のキス』 晴希&咲子

 他愛無い話をしていたはずなのに、気づけば彼女はうとうとと微睡んでいた。最近仕事が忙しい所為もあるのだろう。終電までにはまだ時間はある。仮眠程度に休ませてあげる方がいいのかもしれない。
「まったく、無防備すぎるよ、咲子さん」
 苦笑と悪戯心を交えながら、こっそり額に掠るようなキスをした。

『頬の上なら満足感のキス』 ユキ&リツ

 隣から聴こえるギターの音が心地いい。その人柄を表したような音色に浸っていたくて瞳を閉じる。ふと旋律が途切れた。どうしたのかと目を開いた瞬間、頬に柔らかなぬくもりが触れる。
「な、何?」
「歌って。リツだけ満足そうなのズルいから」
 狡いとか言いながらも、その眼差しは柔らかで温かかった。

『唇の上なら愛情のキス』 レオン&セラ

 騎士団の礼装に身を包んだ彼は、いつも以上に凛々しくて眩しい。傍から見ると完璧としか言いようのない彼に手を引かれ、赤い毛氈の上をゆるりと歩んだ。神官に促されて宣誓を終え、互いに向き合う。目が合うと、翡翠の瞳が優しい弧を描いた。静かに瞼を伏せる。そして、私たちのこれからが重なりあった。

『閉じた目の上なら憧憬のキス』 ジェラルド&ラティ

 恋仲、と言っていい関係になったと思う。けれど彼は私よりもずっと大人で、未だに子供扱いされているような気がしてならない。キスをしてほしいとねだってみても、いつも寄越されるのは瞼の上に軽く触れるだけのもの。それでも拗ねた私に他の誰にも見せない笑みを見せてくれるから、許してしまうのです。

『掌の上なら懇願のキス』 キース&サクヤ

 重い使命を小さな肩に背負わされ、蹲るように眠るあなたの掌にそっと唇を押し当てる。
 あなたがもう二度と泣かないで済むように。大切な人を喪わなくて済むように。幸せに笑っていられるように。
 いつかこの手が離れ、届かなくなったとしても。あなただけはどうか、その輝きを曇らせないでいてほしい。

『腕と首なら欲望のキス』 サミー&ソフィア

 すれ違いざまに手首を掴まえられ、袖を捲り上げられた。
「あ、やっぱり怪我してる」
 隠していたのによりによってこの男に気づかれるだなんて。思うと同時に傷口に痛みが走る。
「何を!」
「傷が早く治るおまじない」
 ふざけた言葉が吐息と共に首筋にかかった。強引に振り払う。傷口は、熱く疼いていた。

『さてそのほかは、みな狂気の沙汰』 尚志&郁

 煩わしいほどのキスに埋もれて、呼吸すらままならない。否、初めは息の仕方を教えるための口づけだったような気がする。ただ、いつの間にかそれは別のものにすり替わった。
 息の仕方から生き方へ。共に生きろと傲慢に押しつけられた。
 その奢った態度すら心地いいのだから、疾うに私の気は触れている。


 元ネタはこちらです⇒グリルパルツァー名言集『接吻』 http://kakugen.aikotoba.jp/Grillparzer.h...

 ではでは、せっかくなのでこのSSの設定とか裏話とかを下記に。
 ネタバレ嫌な方は見ない方が良きです。





『手の上なら尊敬のキス』 メレディス&アレクシア
 アレクシアはメレディスの先輩で、見た目は可憐なのに性格はセラとめっちゃ似てます。チャラ男だったメレディスは軽い気持ちでアレクシアを口説くけども、全く相手にされず。躍起になって口説き続けてるうちに本気になって、でも最初のチャラい印象がぬぐえないので本気と受け取ってもらえない。
 「自分よりも弱い男になど興味はない」とか言われて、「じゃあ貴女に勝てるようになったら、結婚してもらえますか?」って返したら、アレクシアは鼻で嗤って「結婚? それなら騎士団長になったら考えてあげてもいいけど?」と。アレクシアはメレディスの性格じゃ絶対無理だと思っていたので、こう言えば引きさがるだろうと思っていたわけで。
 けれど元々剣や軍略の才があったメレディスは、みるみる頭角を現して騎士団長までのぼりつめてしまった。そして団長補佐になってしまったアレクシアは、観念してメレディスの求婚を受けるわけだけども、この話はその直後くらいかな。
 結局絆されてしまったアレクシアと、チャラ男から一転して超一途男になったメレディスのお話。

『額の上なら友情のキス』 晴希&咲子
 友情で額にキスするなんて、この二人しか思いつかなかった(笑 あと、前のキスの日SSでほっぺにちゅーさせてたので。
 時間軸的には、完結よりも前のまだ本当に友人同士の頃。晴希的には軽い悪戯と警告みたいな感じ。年頃の男の前で、そんなに気を許しちゃ駄目だよーみたいな。同時に、咲子がそんな風に気を許してくれているのが自分だけだとわかってるから、それはまた嬉しい。咲子が気づいて目が覚めたら目が覚めたで面白いからいいか、みたいなノリでもある(笑

『頬の上なら満足感のキス』 ユキ&リツ
 本編完結後。製本版のオマケペーパーに載せてたSSよりはまだ前かな。
 ユキのリハビリが終わって、少しずつまたギター弾けるようになった頃の二人のお話。きっと同棲とかしてると思う。リツはユキのギターをすぐ隣で聴けるだけで幸せで、そんな幸せそうなリツを見ているのがまた幸せなユキというどこまでもバカップル(笑

『唇の上なら愛情のキス』 レオン&セラ
 本編完結直後。よく考えたら結婚式のシーンはレオン視点でしか書いてないなって思ったので。しかし、レオンは両想いになったら結構キス魔なんじゃないかなと思うんだけどどうだろう?

『閉じた目の上なら憧憬のキス』 ジェラルド&ラティ
 ジェラルドにとってのラティは、やっぱり皇女様で自分にとっては手の届かない高嶺の花的なイメージがきっと長い間あったんじゃないかなと思ってます。ラティとの年齢差がそれを助長してて、自分が気持ちを伝えるまでにも相当葛藤があったはず。それをぶっ飛ばしていくほどラティが情熱的だったからくっついたけども、もし大人しい性格だったらこの二人は成立してなかったんだろうなと思う。
 このSSの時期は、ジェラルドが数々の戦功を立てて騎士団長になるだけでなく上の爵位をもらったりして、ようやく皇家からラティの婚約者と認められたくらいの頃。ジェラルドはラティを子供扱いしているわけじゃなくて、ただただ大切で、宝物みたいに扱っていただけと言う話。

『掌の上なら懇願のキス』 キースとサクヤ
 これは結構本編が進んだ後。はよ書け私(笑
 きっとキースは、こんな願いをずっと抱えながらサクヤを守り続けていたんだろうなってお話。たとえ掌だろうと、キースにとってこのキスは禁忌に近い行為だったりする。それでも見えないところで抑えきれなかった想いがあるんだよってお話。

『腕と首なら欲望のキス』 サミー&ソフィア
 二人が士官学校時代。この二人は同期入学同期卒業。ソフィアは常にトップの成績の優等生。サミーは逆にサボり魔だし女に手を出しまくるし問題児、なのに試験の成績なんかは普通にいいから、ソフィアはイライラしっぱなし。
 実はこの二人の実家同士はかなりの犬猿の仲。かなり小さい頃に何かの集まりの席で二人は他に人のいない庭の隅っこで出会って、家のことを知らずに仲良くなってたりする。お互い初恋だったりね! けれどそれっきり会うことはなくて、士官学校で再会する。ソフィアはすぐサミーだとわかったけども、サミーはしばらく思い出せずにいた。士官学校でのはサミーのあまりの軽さに愕然とし、幼い頃出逢ったのは別人だと思い込もうとするソフィア。家自体も仲が悪いとわかったので、関わらないようにしようとするのに、ようやくソフィアを思い出したサミーがちょっかいかけてくる。
 みたいな感じで、こう、人のいないときにちょいちょいこうやってソフィア口説いてたんだろうなって。ちなみに、他の女の子口説くときは、比較的人目を気にしません。ソフィアを影で口説くのは、家同士のわだかまりがあるから、表立って近づいたらいろいろ面倒だしソフィアにも迷惑かかるだろうからというサミーなりの気遣いが半分あります。
 まあ、もう半分は、他の女の子の場合だと口先だけだけど、ソフィアの場合はついついスキンシップ取っちゃいたくなるからという理由だったりもする(笑

『さてそのほかは、みな狂気の沙汰』 尚志&郁
 最初はこれは書くつもりなかったんだけど、何かないとおさまり悪いなと思って(笑 その他で表されているので、どこまでキスさせるかとか考えたけど、最終的にそこらじゅうキスというアダルトな展開しか思いつかなかった(笑
 となると、我が家で一番のアダルト要員はこのカプしかなくてですね。
 まあ、一番執着とか依存度とかが強いカプなので、こうなるのも仕方ないって感じです(笑


 ってことで、こんな長々失礼しやした!
 読んでくださった方、ありがとうございます♪畳む

#140SS

夢のあとさきそめし朝風にゆれる かなしの花禍つ月映え 清明き日影七夜月奇譚はなひらかねどSong for Snow

Everlasting Lie
テーマ楽曲:Ever lasting lie/BUMP OF CHICKEN

「ずっと待っているわ」
 その言葉だけが、俺にとっての心の支えだった。
 俺にとって、唯一無二の存在である彼女。その彼女を傍に取り戻す為ならば、俺はどんな苦労だって厭わない。
 そう、あの日決めたのだ。

 それは突然降りかかってきた悪夢だった。
「これで、手を打って下さい」
 近代的なオフィスの応接室。
 上等そうな革張りの座り心地抜群のはずのソファーに座らされた俺は、かえってその感触に心を落ち着けることもできなかった。そして、目の前に置かれているのは厚みのある茶色の封筒。隅にはこの会社の社名が印刷されている。
 その封筒を差し出したのは、これまた質の良さそうなブランド物のスーツを身に纏った壮年の男だった。きっちりと整髪料で髪を撫でつけた男は、彼女の所属している芸能プロダクションの社長だと数分前に自己紹介をした。
「手を、打てって……」
「わからないですか? 別れて下さいと言っているのですよ」
「なっ!? どうして!」
 思わずソファーから立ち上がり、感情のままに目の前のローテーブルに拳を叩きつけた。
 突然用件も告げられぬままに呼びつけられ、別れてくれと言われても、「はい、そうですか」とはいかない。いくわけがない。
「どうして? わからないですか?」
 社長である男は、こちらを小馬鹿にしたような目つきで口元を歪める。そして至極当然の提案だという表情で続けた。
「今彼女は飛ぶ鳥を落とす勢いで売れている。先月から公開されている映画も大ヒット。次の出演のオファーも山のようにある。そんな彼女に、『恋人』などという存在は邪魔でしかない」
「た、確かにそうかもしれないけれど……。でも! ちゃんとバレないように……!」
 この男の言うとおり、彼女は人気急上昇中の女優だった。
 主演映画のヒットのお蔭で、今では引く手数多。雑誌やテレビの取材、ドラマや映画の撮影など、分刻みでスケジュールが決まっている。
 そんな中、こっそりと二人で会う時間を見つけては、愛を育んできたというのに。
「バレないようにしたって、いずれバレるんですよ。マスコミはそんなに甘くはない。パパラッチだって人気と比例して増えていく。それなら、バレた時に少しでもメリットがある方がいい」
「……どういう、意味だ?」
「貴方の様な貧乏画家では、彼女の価値が下がると言っているんです。どうせスキャンダルになるのなら、大物俳優や超一流のアスリートの方がいい」
「ふざけるな!」
 飽くまでも損得勘定でしか考えない男に、俺の怒りは抑え切れなかった。
 けれど、俺が激しい怒りをぶつけても、男は涼しい顔を崩さない。
「ふざけてなどないですよ。だから貴方に手切れ金をご用意したのです」
「誰が金なんかいるか!」
「おや。じゃあ、無償で別れて下さるんですか?」
「別れるわけないだろう! 俺とアイツは結婚の約束までしてるんだ!」
 俺の怒鳴り声に、男は僅かばかり顔を顰める。
 その後わざとらしく大仰にため息をつくと、近くにあった電卓に手を伸ばした。
「……わかりました。では貴方にはコレだけ用意して頂きましょう」
 男は悪趣味な指輪をつけた指で軽やかに電卓を叩く。
 そして表示された数字を見せるように、俺の前にそれを差し出した。
「……コレだけって」
 そこに刻まれていた数字は、1の後に0が七つ。一千万だ。
 つまり、一千万ドル、俺に用意しろと言うのだ。
「こ、こんな金額……!」
「彼女が生み出す利益を考えれば、コレくらい安いものでしょう?」
 端から男は俺には無理な金額だとわかって、ふんと鼻を鳴らして嗤う。
 確かに彼女がもたらす様々な利益を考えたら、それくらい当然なのかもしれない。けれど一般人が用意するには法外な金額だった。
「まあ、貴方のような貧乏人には、石油でも掘り当てるか宝くじでも当てるしか無理でしょうけどね」
「くっ……」
「では、お引き取り頂きましょうか。おい、お客様がお帰りだ」
「ちょっと待てよ!」
 わかっている。これは俺に彼女を諦めさせるための作戦だ。
 こんな大金は確かに用意できない。けれど、俺には彼女と別れることの方がもっと無理なのだ。
「わかった。絶対に用意してやるさ」
 挑むように男を睨みつけ、俺は低くそう言い放った。男は一瞬片眉をあげたが、すぐにまた口元に嘲笑うような笑みを浮かべる。
「ほう? では期限は……そうですね。無期限でいいですよ」
「無期限?」
 どんなに無茶苦茶な条件を突きつけられるかと思ったが、意外にも男は甘い条件を設定した。とはいえ、金額が金額なだけに、その条件でもけっして楽ではない。
 けれど、幾分ホッとしたと言えばそうだった。しかし――。
「ただし、貴方がお金を用意できるまで、彼女には会わないでください」
「彼女に会うなだと!?」
「当然でしょう? こちらの提示した金額も用意できないうちに、彼女とのスキャンダルがバレたらどうするんです? それができないのなら、さっさとそこの封筒を懐にしまって帰ってくださって結構です」
 憐れみにも似た笑顔を浮かべ、男は先ほどの封筒を指差す。
 中には多分、一万ドルほどは入っているだろう。
「言っておきますが、勿論その金を受け取るのならば、今後一切彼女には接触できません。電話も、メールも、半径五百メートル以内に入ることも禁じます。警察に貴方の写真や身元を提出して、ストーカーとして扱って頂きますから」
「くっ……」
 男はあまりにも酷い二択を迫っていた。
 一万ドルを持って帰り、二度と彼女に会わないことか。
 それとも一千万ドルを払い切れるまで、彼女には会わないことか。
 どちらにしろ、俺はしばらくの間は彼女とはともに過ごせないのだ。
 けれど、俺の気持ちはそんなことでは揺らぐはずもなかった。
「わかった、金の支払いが終わるまで、彼女には会わない! だが、俺が全額用意できたなら、俺たちは自由だ!」
「結構ですよ。では、こちらで契約書を書いて頂きましょうか」
 そうして俺は無茶な契約を結ばされた。
 自分でも愚かだと思う。とんでもなく無謀なのだとわかっている。
 それでも俺は、彼女を失うことができないのだ。
 怒りにまかせた乱暴な字で、契約書にサインをし、ペンを放るように置いた。
「絶対、アンタの思い通りになんかさせないからな!」
「せいぜい頑張ってください。あぁ、最後に一度くらい彼女と会ってもいいですよ。ほんの数分でしたらね」
「……最後になんか、ならない!」
「そうなるといいですねぇ。彼女は三階の会議室にいます。案内させましょう」
 男の言葉とともに、秘書らしきスーツの男が俺を応接室の外へと促した。
 俺は案内されるまま、湧き上がる怒りとともに応接室を後にした。

 会議室はただ事務的で、シンプルで、全く温かさが感じられない。
 私はどこか不安と寂しさを感じながら、ブラインドから差し込む日の光をただ見つめていた。
 つい数分前、私は社長に呼び出された。
 大切な話があるとのことだったけれど、その声が必要以上に優しげな雰囲気を漂わせていて、かえって不安を覚えたのだ。
 漠然とした不安を抱えながら、私は会議室の椅子に深く身を沈めていた。
 コンコンと、硬質なノックの音が耳に届いた。
 短く返事を返すと、そこには社長の秘書の一人と何故か私の恋人である青年がいた。
「どうして貴方がここに? これはどういうことなの?」
 事態が飲み込めない私に、彼はひどく追い詰められたような表情で傍まで歩み寄る。
 そしてそのまま私の体を強く引き寄せた。私の体は、すっぽりと彼の腕の中へと包み込まれてしまう。
「ごめん」
「どうしたの? 何を謝っているの?」
 突然の抱擁と謝罪に、私の胸の内の不安は一気に大きく膨れ上がった。
 焦ったように問い続けても、彼はただ抱き締める腕を強めるだけ。
「しばらく、君とは会えない」
「会えないって、どうして? ねぇ、何があったの!?」
「大丈夫だから、絶対に俺は君を諦めたりはしないから!」
 その彼の言葉と視界の端にかすめた秘書の嘲るような表情で、彼と会社の間で何があったのかはおおよそ予測がついた。
 彼は大金を積まれて私と別れるように言われたのだ。
 今までにも他の女優や俳優たちの恋人がそんな取引の結果に別れさせられたことは知っていた。そして今度は、私たちの番だった。
「絶対、君を迎えに来るよ。何年掛ったって、絶対に……」
 まるでうわ言のように、彼は何度も何度も繰り返す。
 絶対に、どんなことをしてでも、と。
 無理よ。
 そう思った。
 私は社長の性格をよく知っている。
 彼はスター性のある役者や歌手を、絶対に手放したりはしない。
 徹底的にトップに上り詰めるための技術を教え込み、叩き上げ、そして宣伝力なども駆使して稼げるだけ稼ぐ。
 そして稼げるうちはどんなことがあろうとも、手綱は握って離さない。
 きっと彼も相当な無理難題をふっかけられたはずなのだ。
 多分、半端でない金額を提示されただろう。彼が到底払い切れるはずがないような金額を。
 けれど私は彼の性格も熟知しているのだ。
 彼は、言葉の通りに絶対に私を諦めたりなどしない。本当に、心の底から深く私を愛してくれているのだ。
 そして、そんな彼を、私もまた誰よりも愛している。
「……わかったわ。ずっと待ってる」
 だから、私にはそう返事することしかできない。
「ずっと、待っているわ。何年でも、何十年でも……」
 今の私にできることは、彼の言葉を信じること。ただそれだけしかなかった。
「貴方を、ずっと……」
 まるで不安を消す呪文のように、何度も何度も繰り返す。
 きつく抱き締めあった腕は、やがて秘書の促す言葉によって解けた。

 きっと迎えにくる。
 ずっと待っている。

 互いに、交わした約束を胸に刻んで一時の、そして永遠の別れを私たちは告げたのだった。

 とある小さな街の小さな一軒家。
 そこには年老いた女性が一人寂しく住んでいた。
 質素な室内には粗末なベッドとロッキングチェア。
 申し訳程度に備え付けられた暖炉の上には、美しい女性の描かれた油絵が飾られている。
 もうほぼ寝たきりと言っていい彼女には、近所の中年女性が時々様子を見に訪れるくらいで、来客など皆無に等しかった。
 そんな彼女が、古びたベッドの上で何度目かもわからない朝を迎えた。
 あの別れの日からどれだけの年月が過ぎたのかももうわからないほどだ。
 眩しい朝日を目蓋に感じながら、彼女は目覚めるたびに暖炉の上の若かりし頃の自分の肖像画を見つめる。
 そして、彼との約束を思い出し、毎日決まった言葉をおまじないのように小さく呟いた。

  さぁ、今日が約束の日。
  きっと彼は今日こそ迎えに来てくれる。

 そうして始まる彼女の一日。
 しかし太陽は天頂を越え、傾き、やがて山の端に埋もれていく。
 彼の訪れないまま、何も変わらないまま。
 それでも彼女はがっかりしたりはしなかった。

  大丈夫。私は信じている。
  彼は今も私を迎えに来るために、この場所に向かっているはず。
  だからきっと、明日には――。

 そして彼女はまた約束を胸に眠りにつく。
 毎日同じ思いを繰り返し浮かべ、そして祈り、叶えられるはずのない約束を信じ続けていた。
 もう彼女の体は年老いて、あの頃のような美しさはない。
 けれど、その瞳の奥には、あの頃と変わらぬままの穢れのない純粋な想いが溢れていた。
 眠りに就こうとする彼女の脳裏に、愛しい人の変わらぬ姿が思い浮かぶ。
 変わらぬ姿の恋人は、老いた彼女を抱きしめるとこう言った。
「待たせてごめん。会いたかったよ」と。
 そんな幻想とともに、ゆるやかに彼女の意識が沈んでいく。
 いつまでも変わらない、最愛の人の笑顔。
 再会の日を信じ、ゆっくりとじんわりと、彼女は深い眠りの淵へと落ちていった。

 そして、彼女の目覚めは、二度と訪れはしなかった。
 けれどその眠るような表情は、どこまでも穏やかで、どこまでも幸せそうで。
 まるで彼の描いた肖像画のように、美しかった。

 彼女が永遠の眠りについた頃。
 男は荒れ果てた部屋の片隅にいた。
 男は画家だった。
 とは言っても、全く売れていない、商業画家としての名などないようなものだった。
 イーゼルには未だ描きかけのキャンバスが立てられ、床には絵の具や油絵用の溶き油、パレット、様々なサイズの筆やペインティングナイフやパレットナイフが散乱している。
 何年も窓が開けられていないようで、室内の空気は埃っぽく淀んでいた。
 その中で彼はただひたすらに絵筆を振っている。
 ブツブツと、何か呟きながら。

 もう何十年も前に、彼は莫大な金額を負債とも言える形で背負った。
 しかし、彼にはそれを支払う術などなかった。
 知り合い中頭を下げまくったとしても、彼の知人にはそんなに金持ちなどいない。
 焼け石に水といった程度の金額しか手に入れることは出来ないと彼は考えた。
「石油でも掘り当てるか宝くじでも当てるしか無理でしょうけどね」
 そんな言葉を投げつけてきた憎たらしい男の顔が頭を過ぎる。
 しかし、実際にそんなに簡単に石油など掘り当てられないし、宝くじだって当たるはずがない。
 そう思った男は自分にできることは何かとひたすら考えた。
 そして思い至ったのだ。

  自分は画家だ。
  だったら、絵が売れればいい。

 有名な絵画コンクールでも、賞金の額など知れている。
 しかし、入賞すればそれだけで箔が付く。
 その影響でパトロンがつき、絵が売れれば、目標とする金額に手が届くかもしれない。
 何より、これと言って自分自身に取り柄がないことを男は理解していた。
 商売をしたって、ギャンブルをしたって、うまく行きはしない。
 一番の近道は、自分の得意分野しかないと思いついた。

 そして男は毎日毎日描き続けた。
 何枚も何枚も作品を描き上げ、次々とコンクールへと応募していった。
「今に見てろよ! あのニヤけた社長にひと泡吹かせてやる!」
 そんなことを呟きながら、キャンバスに絵の具を塗りつけていく日々。
 悔しさ、憤り、やるせなさ。そんなものが幾重にも塗り固められて出来上がった作品たちが、日が経つにつれ部屋に溢れていった。

 そうして過ぎ去った年月は、いつしか彼をひたすらに絵を描く妄執へと変化させた。
 今日も彼は呟く。
「コイツは傑作だ! 今度こそ、この作品こそ、最高傑作だ! これで次のコンクールで……」
 深く刻まれた皺の合間に見える眼光は、ギラギラとした光を放っている。
 しかしそれは、力強いというよりも鬼気迫るものであった。
 手にした筆は、すでに柄が折れ、パレットに乗っている絵の具も半分ほどが乾いている。
 キャンバスに描かれているのは、作者の男と同じように目をぎらつかせ、親の敵のように砂を掘り続けている若い男だった。
 男はすでにすべてを見失っていた。
 何故、自分がこれほど必死になって絵を描いているのかも。
 何のために、コンクールに入賞しようとしているのかも。
 ただ、狂ったように絵筆を振い、描き続け――。

 ある日の午後、その男の元を、一人の青年が訪れた。
 青年は近くの画廊に勤めていて、以前からこの画家と交流があった。
 ノックをしても返事がないことを不審に思い、青年は声を掛けながら部屋に入る。
 部屋の真ん中には描きかけの絵がイーゼルに掛けられたまま、散らかった部屋の隅に一枚の小さなキャンバスを抱え、蹲るように男は眠っていた。
 青年はそっと男に歩み寄る。
 静かにその手首を取ると、半ば予想していたとおり、生命の拍動は感じられなかった。
「……ようやく、解放されたんですね」
 青年はそう呟くと、切なさと安堵の混じった笑みを浮かべた。
 彼は、この画家の男が何かに取りつかれるように絵を描き続けていることに、憐れみを感じていたのだ。
 ふと、男が大事そうに抱きしめているキャンバスが気になり、そっと覗きこんだ。
 しっかりと抱き込んでいるその隙間から見えたのは、

 淡い色合いで描かれた、可憐な花を思わせるような女性の、優しく慈愛に満ちた笑顔だった――。畳む

#楽曲テーマ #過去ログ

その他


テーマ楽曲:涙/HY

 彼は、いつも決まった時にふらりと現れ、
 ただ、流れる歌声に、静かに耳を傾けていた。

 チリン、と、小さく軽やかな音が、静かに流れる音楽の合い間に聞こえた。
 私は入り口のドアに、ささやかな微笑みとともに目線を向ける。
「いらっしゃいませ」
 彼は軽く会釈をし、慣れたようにカウンター席の右から三番目に座る。
 それもいつものことだった。
 その位置は、決して私と完全に向かい合わせにはならない。
 尚且つ、グランドピアノ脇で歌う、私の店の看板シンガーの声が、一番聞き取りやすい位置。
 この店に常連として来る者たちにとって、そこは常に『予約席』状態。
 その場所を空けておくことが、暗黙の了解のようになっていた。
「……いつもの」
「はい」
 短く告げる彼に、私も短く答える。
 今目の前にいる彼は必要以上に話しはしない。
 だから私も、滅多に話しかけはしない。
「……珍しいな」
「え?」
 ポツリと呟かれた言葉に、そちらの方が珍しいと思って言葉が繋がらなかった。
 彼の視線は、少しだけ私のほうを向いている。
「何が、珍しいんですか?」
「あんなポップな曲歌ってる」
「あぁ」
 彼の言っている意味を理解して、私はふいとピアノの側に佇む彼女に目を向けた。
 いつもはほとんどJポップなど歌わない彼女が、今日はそれを歌っているのだ。
「あちらのテーブルのお客様からのリクエストですよ。女性の方がお誕生日らしくてね、そのお祝いにと……」
 目線だけでテーブル席を示すと、彼は納得したような表情を浮かべ、
「誕生日、か。たまにはこういうのもいいな」
 そう、わずかに笑みらしきものを見せた。

 私は彼を随分前から知っている。
 そして、今の彼が、こんな風な表情を見せることが、ごく稀であることも。
(少しは、癒えたのか?)
 心の中で問い掛けながら、私は視線を巡らせる。
 辿り着く先は、メニューなどが貼られたコルクボードの片隅。
 そこにあるのは、ポップなイラストの絵葉書一枚。
 どこか店の雰囲気にはそぐわないソレは、もう何年も剥がされることなくそこにある。
(……『ゆり』)
 流れる歌声に誘われるように、私の記憶は六年半前へと引き戻された。

 九月。
 日本の暦の上ではもうとっくに秋だというのに、日中はいまだ日差しが強く、暑さが緩む気配も見えない。
 季節柄、立て続けに上陸する台風が各地で猛威を揮っているが、その所為で幾らか涼を得られるかと言えば、そうでもなかった。
 鬱々と続く雨の所為で、今日は客足も遠のき、店内は私とカウンター席に客が一人、そして看板シンガーのナオの三人だけだった。
 ナオも、今は私と客の好意によって、客と同じくしてカウンター席に座って食事をとっている。
 かわりに店内に流れているのは、小さなテレビから流れるニュースの、ささやかな音だった。早々と店は『Close』の札を掲げていたのだ。
「そうそう、ゆりからエアメールが届いてたよ」
 そう言って屈託のない笑みを浮かべながら、スーツ姿の恒(ひさし)は私の目の前に一枚の絵葉書を差し出した。
「え!? ……アイツっ、俺には何の連絡も寄越さないくせにっ」
「匠(たくみ)さんより、俺に対する愛の方が深いってことだな」
「ひぃさぁしぃ、いくら本当のことでも、言ってはならんことを……」
 恨みがましい視線を送る私に、恒は声をあげて楽しそうに笑う。
 そんな私たちを見て、ナオもくすくすと笑っていた。
 ゆりは、私の三つ下の妹だ。
 明るく奔放で、冒険心が強く、突然一人旅に出ることもしばしば。『ゆり』なんておしとやかそうに思える名前とは、まったく正反対なじゃじゃ馬娘だった。
 そして恒は、私の店の常連客であり、ゆりとは二年ほど付き合っている恋人同士。
 最初ゆりに彼を紹介された時は、お互いに、客と店のマスターとして知っていたので、驚いたものだった。
 しかし、それ以来、以前よりも足繁く店に通ってくれるようになり、個人的にも友人と呼べるような存在になっていた。
 奔放なゆりに、自由気儘な恒。
 よく似たところを持つ二人は、ベタベタと甘えあうだけの恋人同士でなく、互いを尊重しあえる絶妙な距離を保って付き合っているように思えた。
 独り身の私としてはそんな二人が羨ましくもあり、けれど幸せそうなゆりを見るたびに私まで幸せな気分にさせられていた。
 だから、二人がこのまま上手くいって、結婚してくれれば兄として安心できるとも思っていた。
「ははは、冗談だって。単純に匠さんの住所をメモし忘れたらしいよ」
「……おまえのはきっちりメモしてるのにな」
「匠さん、ほらほら、ちゃんとココに匠さんへのメッセージもあるから」
 完璧に拗ねる私に、恒は苦笑しつつ宥めに入る。
 もう一度差し出された絵葉書を私は手に取った。
 『お兄ちゃんへ ゆりは元気だよん。帰ったらまたご飯作ってね~』
 短い、三行だけのメッセージ。
 それがいかにもゆりらしくて、思わず笑みが零れる。
「てか、『ご飯作ってね』って、俺は家政婦か?」
「仕方ないでしょ、ゆりは匠さんのご飯が大好物だから」
 言葉の割に私が嬉しそうにしているのをわかっていて、恒が続ける。更にそこに、「俺も大好物だし」と付け加えるものだから、ますます私は嬉しくなってしまうのだ。
「私もマスターの作るご飯、大好きですよ」
「おいおい、ナオちゃんまで」
「匠さんの飯、美味いもんなー、ナオさん」
「はい!」
 二人して持ち上げるのに、私は照れ臭くなりながらも、顔がにやけてしまう。
 仕方ないから、ゆりが帰ってきたら、その日は店を閉めて好きなものを作ってやろうと画策するのだった。
「で、今回はいつ帰ってくるんだっけ?」
「えっと、十五日には帰国するって言ってたかな? 今日、ボストンからロスに向かって、二日過ごして、その後……」
 恒には旅行の日程を詳しく教えていたらしい。
 何故私には知らせてないのか、理由は簡単にわかった。
 知らせても、どうせ私はすぐに忘れてしまうと思われているのだ。そして、それはまったく間違っていないのだから、何も言えない。
「ゆりさんって、いつも思いますけど行動力ありますよね。私、一人で海外旅行なんて、さすがに怖いです」
「あー、確かにナオさんだったら危なっかしくてしょうがないなぁ」
「あ、どういう意味ですか? 恒さん!」
 歌っている時のナオは大人びて落ち着いて見えるのだが、こうやって話していると、妙に可愛らしい。
 私からしたら、もう一人妹がいるような気分だった。
 いや、むしろ私だけでなく、恒やゆりからも、妹のように可愛がられていた。
 特にゆりは、休みの日にナオと二人で買い物に出かけたり、互いの家に泊まりに行ったりと、本当に姉妹のように仲良くしていたのだ。
「まあまあ、ナオちゃん。で、恒はいつが暇なんだ?」
「暇、か……。今はちょっと手が放せないからなー」
「ああ、プロジェクトの責任者だっけ?」
 一月ほど前に、恒は会社の社運を賭けたプロジェクトの責任者に任命され、毎日残業続きの生活を送っているらしい。それまではほぼ毎日来店してくれていたのに、最近はめっきり少なくなっていた。
 今日は久しぶりに早く終えられたのだと言う。
「ゆりが帰ってきた次の日曜くらい、休みがもらえるといいんだけど……」
「休めなくても、せめて残業せずに切り上げてこいよ。最近疲れ溜まってるだろ? 無理して倒れたりしたら、プロジェクトどころじゃなくなるだろうが」
「そうですよ。恒さん、少し痩せたんじゃないですか?」
 私とナオに揃って心配され、恒は観念したように頷いた。
「そうだな……。匠さんの飯、久しぶりにがっつり食べたいし」
「よし。んじゃ特製の滋養強壮ばっちりなメニューにしてやる」
「山盛りでよろしく。そしたらその勢いでプロジェクト成功して、昇進するから」
「お、デカイこと言ったな?」
「プロジェクト成功しても、昇進しなかったら罰ゲームですよー」
「罰ゲームー? ナオさん、それはないでしょー」
 顔を見合わせ、声を上げて三人で笑い合う。
 と、その時。
 不自然に割り込んできたレポーターの声が、耳についた。
 自然と三つの視線がテレビに集中する。
 何やら緊急の事件があり、速報が入ったようだった。
 画面に映し出されていたのは、炎上するビル。レポーターの言葉は、即座に理解するのが困難だった。
 簡単に言えば、『旅客機』が『ビル』に『激突』した、のだった。
「な、んですか、これ……」
 呆然と、ナオが呟く。
 恒も、食い入るように、画面を見つめたまま、静止している。
 尚も続くその臨時ニュースに、それまで盛り上がっていた空気は、一気に冷却されてしまった。
「え、これ、事故?」
「いや、事故でこういうのは……、ありえるのか?」
「あの、全然、わけわかんないんですけど……」
 ようやく出てきた言葉たちは、まったく目の前に映し出されている状況を理解できているものではなかった。
 何よりまず、詳しい情報自体が、ニュースの中から発せられていない。
 私たちが理解できたのは、『ニューヨーク』、『貿易センタービル』、『旅客機』。そんな断片的な名詞ばかり。
 場の空気が冷えきってしまった状態の中、新たな情報が流れるまでと、どこか神妙な面持ちで私たちは画面を見つめていた。

 どれほどそうしていたのだろう。
 待った甲斐があったと、言ってしまっていいのだろうか。
 いや、甲斐など、なかった。あったとすれば、それは、ただただ辛いばかりの、悪夢の始まりだった。
『あっ! 今、二機目の飛行機が突入したように見えましたが!?』
 そんな声とともに、飛行機が高層ビルへと激突する映像が、流れた。
 入り乱れる情報の中、ただの事故ではないことだけが私たちにはわかってきた。
「……マスター」
 しんとした店内に不安そうなナオの呟きが響く。俯いたその肩が、小刻みに震えていた。
「ナオちゃん?」
「……ゆりさん、大丈夫だよね?」
 確認するような言葉は、今にも消え入りそうなものだった。それとともに、一気に私の胸の内に、不安が押し寄せる。
 そう。
 ゆりは今、この悲惨な事件の起こっている、アメリカにいるのだ。
「なっ、何言ってんだよ、ナオちゃん! ゆりはね、めちゃめちゃ悪運強いんだから! なぁ、恒!」
「そ……うだ、ゆりは確かに悪運が強い! あいつはいつも、『私の乗った飛行機だけは落ちないから大丈夫よ』って言ってたし!」
 後から後から湧きあがる不安を、必死に明るさで打ち消そうとした。
 恒も同じだったらしく、泣きそうなナオを二人で必死に盛り上げた。
 それは、端から見たら、ひどく滑稽に映ったかもしれない。
 何故なら、私と恒の表情は、ナオに負けず劣らず、泣き出しそうなものだったから。

 そして、その翌日。
 眠れぬ夜を過ごした私に、朝一番に電話が入った。
 恒、からだった。
 内容は、短い一言に、集約されていた。

『ゆりが、乗ってた……』

 視線を、絵葉書からグランドピアノの側へと移す。
 シンプルな白いワンピースを纏ったナオは、今日も美しい歌声を響かせている。
 事件直後は、ショックの為に店に出てこられなくなっていたナオだが、それでも辞めずに今も続けてくれていた。
 今度は、ゆるりと視線を近場に戻す。
 目の前に座る恒は、あの頃よりも更に痩せた。
 それでも、職場では毅然とした態度で仕事をこなし、あの忌まわしい日に宣言した通りにプロジェクトを成功させ、昇進もしたらしい。
 ただ、口数は減り、私も以前のような軽口を叩けなくなった。
 私と恒とナオ、そしてゆりと、賑やかに笑い合っていた頃が幻のように思える。
 私の視線に気付いたのか、それとも偶然か、恒が徐に立ち上がり、手洗いへと向かっていった。
 知らず私の口から、溜め息が零れる。
「マスター」
 声に驚いて目線を上げると、歌い終えたナオが、カウンターの側までやってきていた。
「どうしたの? ナオちゃん」
「今日、何の日か、覚えてますか?」
「あぁ、当然だよ」
 今日は、ゆりの誕生日だった。
 そして、ふと気付く。ナオが着ている白いワンピースが、ゆりが譲った物だったことに。
「恒さんが席に戻ってきたら、一曲だけ、私の歌いたい歌を歌ってもいいですか?」
「勿論」
「ありがとう」
 うっすらと微笑んで、ナオはピアノの側へと戻り、ピアニストへと要望を伝えているようだった。
 タイミングよく、恒が席へと戻ってくる。
 程なくピアノの音色が聞こえ始め、ナオの澄んだ声が店内に広がった。
 グラスを傾けていた恒の、手が止まる。
 ゆっくりと、グラスがカウンターに戻されるのと同時進行で、恒の顔が俯いていった。グラスを置いた右手が、そのまま顔を覆うように持ち上げられる。
「……どうかしましたか?」
 恒の様子に、今では少し慣れてしまった他人行儀な言葉遣いで、遠慮がちに声を掛けた。
 具合でも悪くなったのかと思ったのだが、しかし、そうではなかった。
「匠さん」
 いつの間にか呼ばれなくなっていた名前を、何年か振りに呼ばれた。
「……ゆりの、好きだった歌だ」
「恒……」
 ナオが歌っていた歌は、私も聴き覚えがあった。
 七年前に流行っていた歌。ゆりが気に入って、よく口ずさんでいた、少し切ないメロディーラインのラブソング。
 ゆりの、恒への想いがこもっているとも言える――。
(ナオちゃん)
 ゆりの誕生日。
 ゆりの着ていたワンピース。
 ゆりの好きだった歌。

 ナオは、ゆりと恒の為に、歌っていた。

 私は、ナオがゆりに憧れていたことを知っていた。
 そして、もう一つ知っていたのは。

 ナオの、恒への、想い。
 ナオはずっと、恒に淡い想いを抱いていたのだ。
 けれど、二人の仲を裂くようなことは絶対にしなかった。
 『大好きな二人がずっと幸せでいてくれるのが嬉しいんです』と、笑ってさえいた。
 あの日まで、ずっと。
 そして、ゆりがいなくなった今でも、その想いは一度たりとて口にしていない。
 もしかしたら、この先もずっと口にしないかもしれない。
 ただ、今。
 ゆりの好きだった歌には、ナオの想いものせられているように思えた。

 一緒にいたい。
 笑っていて欲しい。

 そんな想い。
 笑顔と明るさを失い、悲しみと憎しみを抱えた恒の傷が、少しでも癒えて欲しいという、ひたむきな想い。
「恒……」
「……ゴメン、匠さん、俺……」
「恒、もう、いいだろう?」
 何が『もういい』のか、自分でもよくわからなかった。
 ただ私には、ずっと恒が自ら重い鎖に繋がれ、ぶつけようもない怒りと憎しみを抑えつけようとしているように思えて仕方がなかった。

 理不尽な、ゆりの死。
 蓄積されていく、憎悪。

 私もナオも恒も、誰もがそれらを抱え、うまく笑えない日々を過ごした。
 けれど今、ナオは真っ直ぐに前を向いて立って、歌い続けている。
 そして、未だに悪夢から抜け出せずにいる恒を、少しでも癒そうとしている。
 その想いに、私は気付いてやって欲しかった。
「ナオさんは、強いな……」
 ポツリと、零れる言葉。
 同時に。
 ポトリと、零れた涙。
 顔を覆った指の隙間から、幾筋もの雫が流れていた。
 あの日以来初めて見る、恒の涙だった。
「そうだな。俺たちも、見習わないと、な」
「……あぁ」
 今まで封じ込めてきた想いの分だけ、恒は涙を流し続けた。
(泣けるだけ、泣けばいい)
 そうして、怒りや憎しみを少しでも浄化して。
 いつか、笑うことが出来ればいい。

 また、いつか、ゆりがいた頃のように。
 みんなで、笑い合って、暮らせるように――。畳む

#楽曲テーマ #過去ログ

その他

We are.
テーマ楽曲:We are./Do As Infinity

 今月の頭から街角にはクリスマスソングが流れ始めた。
 並び立つどの店のショーウィンドウも、ディスプレイがクリスマスモード。ツリーやリースやサンタクロースが、溢れかえっている。街路樹などにも、イルミネーションが飾り付けられ、ゆるやかに暮れ始めた聖夜のムードを盛り上げていた。
 そんな、繁華街の人混みの中。

 ブーツの靴音高らかに、急ぎ足で雑踏をすり抜ける、小柄な人影。僅かに息を切らせ、時々時計を確認しながら、待ち合わせの場所へと彼女は向かっていた。
 そして、数分後、辿りついたのは、こぢんまりとした佇まいのカフェ。賑やかな通りからは少し奥まった場所にある、落ち着いた雰囲気のお店だった。
 急ぎつつも、入り口のドアを開ける前に、走って乱れた髪を軽く整える。一呼吸ついてから、そのドアをゆっくりと開けた。
「ゴメン、遅くなって……!」
「ホント、おっそーい!」
「寒かったでしょ? とりあえずコーヒーでも飲んだら?」
「すぐに淹れるね、特製カフェオレ」
 出迎えた友人たちに、彼女はニコッと笑みを浮かべた。
 女ばかり四人のクリスマスパーティー。
 高校の時からずっと仲の良い四人組だった。
 せっかくのクリスマスイブに、女四人というのも寂しいと思われるだろう。
 けれど、皆それぞれ、恋人や家庭がないわけではないのだ。
「もう、あんまり佳奈が遅いから、先に食べちゃおうかと思ったじゃない」
 そう文句を言いつつも、本当はまったく怒る気などないのは詠子。
 OLをしながら趣味でバンドのヴォーカリストをしている。
 彼氏は同じ会社の同僚で、不運にもイブ当日から二日間出張になったらしい。
「思ったじゃなくって、つまみ食いしてたじゃない。ねぇ、優里」
 詠子の言葉にすかさずツッコミを入れたのは、美帆だった。
 結婚三年目、旦那とは今でも新婚並みにラブラブで、一児の母。
 家族でのクリスマスパーティーは、毎年二十五日と決まっている為、本日は子供を夫に任せて出てきたらしい。
「うん。思いっきり食べてたね。鶏の唐揚げ」
 笑いながら美帆に続いた優里は、このカフェの経営者。
 結婚はしていないが、同棲中の彼氏がいて、結婚秒読み状態。その彼氏は、本日仕事が夜勤で、明朝にならないと帰ってこないらしい。
「だってー、めちゃくちゃ美味しそうだったんだもんー!!」
「はいはい、ゴメンネ、詠子。優里の料理、本当に美味しいもんね」
 彼女――佳奈は、言い訳する詠子に笑い混じりに謝り、優里の淹れてくれたカフェオレを一口含む。
「ん、おいし……」
 甘さを抑えた自分好みのカフェオレに、ほっと一息つく。冷え固まった体が、解れるようだった。
「さて、みんな揃ったところで、始めましょうか」
 佳奈がコーヒーカップを置くのを見計らって、美帆が声をかける。それと同時に、優里が店内の照明を落とした。
 店の中央近くに据えられたテーブルには、優里が腕をふるって作った料理の数々と見事なデコレーションケーキ。
 空いたテーブルやカウンター、飾り棚などの上には、幾つものキャンドルが淡い炎を揺らめかせていた。
 流れる音楽は、あえてクリスマスソングでなく、静かな洋楽のバラードソングばかり。
 その空間は、日常から遠く離れ、幻想的な雰囲気で満たされていた。
 優里が、乾杯用のシャンパンをそれぞれのグラスに注ぐと、席に着く。
 各々、グラスを挙げ、
「メリークリスマス!」
「メリークリスマス」
「メリークリスマース!!」
「メリークリスマス……」
 カチン……と、澄んだ音を響かせ、グラスを軽く合わせた。
 そして、始まるのは賑やかな宴。気心の知れた女友達だけの。

 こんな風に四人でクリスマスを過ごすのは、今年が初めてではない。もう五年も前からずっと続いているのだ。
 普通なら、恋人や家族と過ごすであろう、クリスマスイブ。
 それをこの五年間、毎年この四人で過ごしているのには訳があった。

 それは、六年前のクリスマスのこと。
「んじゃ、気をつけてね」
 佳奈は玄関先で自分より二十センチ高い位置にある顔を見つめた。
 その日は、クリスマスイブ。
 あと数時間で日付は二十五日に変わるその時間に、佳奈のマンションを後にしようとしていたのは、恋人の敬だった。
 つい先ほどまで、二人はイブの夜を満喫していた。しかし、急なトラブルで、翌日朝早くから会社に出勤を命じられた敬は、自分のマンションに戻り明日の用意をしなければならなくなった。
 佳奈としては、二人でゆっくり過ごしたかったのだが、仕事ならわがままを言うわけにもいかない。そう諦め、素直に敬を送り出すことにした。
「佳奈、明日は絶対何が何でも一緒に過ごそうな!」
「うん!」
 帰らなくてはならなくなったことを申し訳なく思っているのか、敬が翌日の約束をしてくれる。
 それが嬉しくて、佳奈は満面の笑みで彼の後ろ姿を見送り、気の早いことに翌日の晩ご飯のメニューを既に考え始めていた。

 敬は、佳奈が大学時代に知り合った。
 佳奈の入ったサークルの、二つ上の先輩だったのだ。
 入部してすぐに佳奈から一目惚れし、一年間想い続けた末の両想いだった。
 大学を出てからも付き合いは続き、そろそろ結婚なんかも考え出した佳奈の二十四回目の誕生日。
 祝ってくれた敬から、突然ある一言を言われた。
「そろそろ苗字変える気、ない?」
 その意味を理解するのに、佳奈は数十秒を要した。
 そして理解した途端、真っ赤になって頷き、ついには泣き出してしまったのだ。
 ずっと一緒にいたいと思った人からの、プロポーズ。どんな高価なモノよりも嬉しい言葉を、プレゼントされた。
 幸せすぎる、日々だった。年が明け、春を待って式を挙げることが決まっていた。
 なのに――。

 翌十二月二十五日。
 佳奈は仕事を手早く終わらせ、早々と帰宅して晩ご飯の準備に取りかかっていた。キッチンで鼻歌混じりに野菜を刻む。
 その歌声を遮るように、携帯の着信音が鳴り響いた。
 敬からだ。
 そう思い、いそいそと手を拭いて携帯を取った。
「もしもし」
『あ、佳奈ちゃん……?』
「え?」
 着信は間違いなく敬の携帯からだったのに、聞こえてきた声は別人のものだった。
 その声には聞き覚えがある。敬の同僚で、一番仲がいい神田という人物だ。佳奈も何度か会ったことがあり、気さくでユーモアの溢れた人柄だと覚えていた。
「神田さん? どうしたんですか?」
 問い返しながらも、佳奈の胸中は嫌な予感にジワジワと支配されていた。
 神田が個人的に佳奈に電話をしてくるなんて有り得ないのだ。しかも、敬の携帯電話から掛けてくるなど余計におかしい。
『佳奈ちゃんさ、今から出られる?』
「え? あの私、敬さんを待ってないと……」
『えっと……佳奈ちゃん、落ち着いて聞いてくれる? 敬が……』
 神妙な口調の神田にいつもの明るい彼らしさはなかった。
 神田の言おうとする言葉の先を、聞きたくないと、心の底から思った。
 けれど、意に反して体はまったく動かない。耳を塞ぐことも、携帯の終話ボタンを押すことも出来なかった。
『敬が、事故に巻き込まれた』
 苦渋に満ちた神田の電話越しの声が、耳を刺した。
 その後、何をどうやって、敬の運ばれた病院に辿り着いたのかは覚えていない。
 そして、必死の想いで辿りついた佳奈を待っていたのは、更に残酷で絶望に染まった報せだった。

 佳奈は永遠に、敬と過ごす時間を失ってしまった――。

 その次の年のクリスマスイブ。
 引きこもりがちになっていた佳奈のマンションに、突然美帆、詠子、優里の三人が訪れた。本当に突然、前触れも何もなくだ。
 呆気に取られている佳奈を三人は強引に酒宴に引きずり込み、お陰で佳奈は昨年の思い出に引きずられる暇も、悲しみに暮れる暇もなくなってしまった。
「んじゃ、また来年ー!」
 三人は帰り際にそう言い置き、その予告通り、次の年のクリスマスには今度はちゃんと事前に連絡を寄越してパーティーに誘ったのだった。
 以来、その聖夜の宴は毎年行われてきた。

「もう、五年も経つのかぁ……」
 乾杯をしたグラスを空け、佳奈はシミジミと呟いた。
 三人が揃って佳奈に視線を集中させる。
「敬さんいなくなってからは、六年だね……」
 この毎年の恒例行事に、敬を亡くした痛みは少しずつ癒されていた。
 そう、敬のことを、話題に出せるほどに。
「佳奈、敬さんのこと……」
 優里が何かを問い掛けようとして、先の言葉を途切れさせる。何をどう言えばいいのか、迷ったのだ。
「大丈夫だよ、優里。私ね、もう大丈夫」
「佳奈……」
 穏やかな笑みを浮かべ、佳奈が親友たちに視線を巡らせた。
 ゆっくりと手にしていたナイフとフォークを置き、そのまま両手を膝の上で重ねる。
「……みんなに心配ばっかりかけて、ゴメンね。毎年こんな風にみんながいてくれたから、私かなり救われた」
「佳奈」
「正直最初は、そっとしといてよって、少し思っちゃったんだけど……」
 申し訳なさそうに佳奈は苦笑を浮かべ、けれどすぐにまた、凪いだ海のような表情に戻る。
「あのね、敬さんのこと、私これからもずっと好きだと思うわ。敬さんが聞いたら、『さっさと俺を忘れて他にいい男見つけろ』って言うと思うけど、ね」
 目を瞑ると、まだ思い出せる愛しい人の笑顔。どんな風にどんな言葉をくれるのかすら、思い描くことが出来る。
 けれど、いつかそれも時間とともに薄れ、色褪せていくのだろうと佳奈にはわかっていた。
「結婚しないとか、誰も好きにならないとか、そんなコトは考えてない。確かに、一時はそれくらいネガティブになってたけど」
 本当にそれくらい後ろ向きだった。それくらいに無我夢中で、敬のことが好きだった。
「だけど、それでも今はもう少しだけ、敬さんを想う気持ちを大切にしたいと思うの」
 穏やかな表情のまま、佳奈はもう一度皆を見回す。そして、確かな意志を以て続けた。「自然に誰かを好きになれるまで」と。
「……そ、ならいいわ」
 しばしの沈黙の後、あっさりそう言い放ったのは美帆だった。
「佳奈がそう思うならそれでいいんじゃない?」
 優里も、静かに頷く。
「まぁ、佳奈のマイペースは今に始まったことじゃないしねぇ?」
 呆れたように言いつつ、詠子は食事を再開する。
 言葉だけ聞くと、ひどく突き放したように聞こえる。
 けれど、三人が三人とも口で言うよりもずっと表情が優しい。
 そんな風に押し付けすぎもせず、だからと言って放り出しているわけでもない女友達の存在が有り難かった。
「ありがとう……」
 自然と浮かぶのは、感謝と、微かな雫。
「あー、詠子が泣かせたぁー!」
「えぇ!? 何でそこで私の所為になるわけ!?」
「日頃の行いでしょ?」
「ちょっとぉ、どういう意味よ、優里ー!」
 涙ぐむ佳奈を余所に、三人がわいわいと盛り上がる。
 その様子に佳奈は、泣きながらも微笑った。

 賑やかなパーティーを終え、佳奈が自分のマンションに戻る頃には、日付はもう一日加算されていた。
 荷物を置き、寝室に飾られた敬とともに映った写真を見つめる。
「……敬さん」
 写真の中の敬は、六年前の姿のまま。
 もう、年を重ねることはないのだけれど。
「誕生日、おめでとう」
 それでも、呟く。
 永遠に止まった愛しい人の生まれた日を、祝福して。
 敬の命日としてより、敬がこの世に生を受けた日として、覚えていたいと思うから。
「敬さんが生まれてきてくれたこと、本当に良かった。敬さんと出逢えて、本当に良かったよ……」
 たとえ、これから先、誰かを好きになっても。
 たとえ、これから先、貴方が傍にいてくれなくても。
 貴方と出逢えたことは、自分にとってかけがえのないものだから。

 窓を開け、微かに煌く星たちを見上げて静かに願いをかける。

 きっと、いつか、と――。畳む

#楽曲テーマ #過去ログ

その他

Doesn't Fool catch cold?
過去のリレー小説『二重織』のログ
馬鹿は風邪を引くか引かないかという話

 『バカ』は風邪をひかない。
 それを否定して。
 風邪は『バカ』がひくもんだ。
 そう、君は笑った――。

 *

「やばい、な……」
 散らかり放題の部屋の中、怜はベッドに寝転がったまま見慣れた天井を見つめた。
 とはいっても、実際には天井を見つめているわけではなく、ただぼんやりとした視線がその方向を向いているというだけだ。
 ガンガンと響くように痛む頭。不愉快な悪寒が背中にはりつき、喉の奥がいがいがとした違和感を持っている。
 明らかに、『風邪の諸症状』と思われるそれらに、思わず眉間に皺が寄った。
 今受けているテープライターの仕事は締め切りが近い。
 集中しないと出来ない仕事にも関わらず、こうも頭が痛いと集中など出来るはずもなかった。当然、仕事は遅れるだろう。
 そしてそれよりも顔を顰めてしまう原因は。
「……斎に馬鹿にされる」
 怜の痛む頭の中に、傍若無人な友人が腹を抱え、自分を指差し、爆笑する姿が思い浮かんだ。
 何故なら、つい先日斎とかわしたやりとりがあったからだ。
「バカは風邪ひかんゆーけど、健康管理もちゃんと出来んようなヤツの方が、よっぽどバカやと思わん?」
 斎が怜と一緒にご飯を食べながら発した一言だった。
 たまたまつけていたテレビが、健康に関する情報番組で、その時の特集が風邪だったことに端は発している。
 珍しく斎がまともなことを言うと同意すると、その瞬間にニタリと笑って斎は高らかに宣言した。
「ほな、ウチよか怜ちゃんの方がバカやな。はい、怜ちゃんバカ決定ー!」
 あまりにも突然決めつけられ、怜は当然ムッとしてすぐさま反論に転じた。
「……何でそうなるんさ? 斎だっていっとき風邪ひきまくってただろうに」
「今はあんましひかんやん? 怜ちゃんなんか、毎月ひいてるやんか」
「今月はまだひいてない」
「ほな、今月風邪ひいたらバカやって認めるん?」
「いいけど、逆に斎が風邪ひいたら、そっちがバカ決定だからな」
「よっしゃ! 勝負や、怜ちゃん!」
 斎のペースにはめられてしまった自分は、風邪をひかなくてもバカだと今さらながらに怜は自覚した。
 よく考えなくても、怜と斎では圧倒的に斎の方が健康優良児――というよりもむしろ野性児だ。
 一時斎がよく風邪をひいていたというのも、バイトの掛けもちと学校での課題に追われていて、極度に睡眠や食事を削った結果であり、バイトの一本化と課題の終了以降は風邪どころか体調不良の欠片も見えない。
 それに引き換え、怜は体調をよく崩す。
 家に引き籠っているから体力自体も衰えているだろうし、仕事でのストレスも多い。ストレスが素直に体調に反映されやすいのも大きいだろう。
「健全な魂は健全な肉体に宿る、とか言うよなぁ……」
 ということは、自分は健全じゃないのか、と苦笑すると同時に。
 「あったり前やん! 怜ちゃんみたいな腹黒が健全なわけないやろ?」とツッコむ斎の声が聞こえてくるような気がして、プッと小さく噴き出してしまった。
「……怜ちゃん、何一人で笑っとるん?」
「…………は?」
 幻聴でも何でもなく、確かに聞こえてきた斎の声に怜は驚いて身を起こす。その瞬間頭痛がひどくなったのだが、それよりも声の正体を確かめる方が重要だった。
 いつの間に現れたのやら、部屋の入口に斎が立っている。その手には、二十四時間営業のスーパーの袋を提げていた。
「斎、いつ来たの?」
「さっき。ピンポン鳴らしたけど出てこんから勝手に上がったわ」
「鳴らした?」
「鳴らんかった?」
「……聞いてない」
 頭が痛すぎてわからなかったのか、それとも意識がぼーっとしていて気付かなかったのか、はたまたその両方か。どちらにしろ怜の記憶には玄関チャイムが鳴った記憶がなかった。
「ほなアレやな。チャイムさんの機嫌が悪かってん。ウチ、機械と相性悪いし」
 妙な納得をしながら、斎は一人うんうんと頷く。
 いつもより大人しい斎を珍しいなと思っていると、斎は徐にスーパーの袋を漁りだし、中から小さなカップを取り出した。
 見るとそれは、フルーツ入りのヨーグルトだ。
「ま、食っとき」
「は? 相変わらず突発的な……」
「どうせ何も食べてへんのやろ? そんなんやったら薬も飲まれへんやん」
 斎の言葉に、思わず怜は目が点になった。
(……斎に何か言ったっけ?)
 疑問に思い、今日一日の自分の行動を振り返ってみる。
 昨夜は斎と二人でオールナイトカラオケだった。
 斎が名倉も誘ったのだが、仕事を理由に断りと謝罪を寄越したので、結局二人だけで行くことになったのだ。
 散々二人で飲み、食い、歌った後、空も明るくなった頃にそれぞれの家へと帰宅した。
 疲れていた怜は、そのままベッドに倒れこみ、一瞬で意識を失った。
 目が覚めたのは、もう昼もだいぶ過ぎた頃。
 その時には既に気だるく、やたらと乾く喉を潤す為にミネラルウォーターをがぶ飲みした。
 それから、残っている仕事をしようとパソコンを立ち上げたのだが、どうにも頭がぼーっとして集中出来ない。
 眠気覚ましに淹れたコーヒーもひどく不味く感じて、結局流しに捨ててしまった。
 その時点で、自分の体調の悪さに拙いと思い始めたのだ。
 仕事が進まないのを気にしつつも、またベッドに戻り横になったのは、そのすぐ後。
 そのまま気付かぬうちにウトウトと微睡み、次に目が覚め時には、もう外は真っ暗になっていた。
 それから体を動かすのも億劫で、ベッドでボンヤリ過ごしているうちに斎が来てしまったわけである。
 つまり、どう考えても斎が怜の体調不良を知るはずもないのだ。けれど、現実として、斎は目の前にいて、怜の体調が悪いことを見越してきたような印象がある。
「怜ちゃん、食欲あるー?」
「……ないこともない」
「ほな、斎ちゃん特製の激ウマ雑炊を作ってしんぜよう」
 何だかやたらと楽しそうに、斎は買い物袋を持って台所へと向かっていく。
 よろめきながらも、怜はその後を追った。
「斎」
「何やぁ? 雑炊よりもうどん派か? やっぱり名古屋は味噌煮込みうどんか!? あかんでー、あんな濃いもん具合悪い時に食ったらー」
「食うか! ……ったぁ……」
 能天気に全く違う方向へ話を持っていく斎に、思わずいつも通りのツッコミを入れた瞬間、怜は頭を抱えてしゃがみこんだ。
 その様子に斎は呆れたような、けれどそれでもどこか嬉しそうな意地の悪い笑みを浮かべた。
「ほらほら、『おバカ』な怜ちゃん、ちゃんと横になっとらなアカンで?」
「……誰の所為だ……」
 力のない悪態を残し、怜はベッドへと戻り、体を横にした。
 それだけで強く痛む頭痛が少しだけ和らぐ。
 斎はというと、昨日さんざん歌ったにも関わらず、気分良さそうに歌を歌いながら野菜を刻んでいた。
「……なあ、斎」
「何やぁ?」
「何で自分が具合悪いのわかったんさー」
「昨日から怜ちゃんの声おかしかったやーん」
「おかしかった、っけ……?」
 確かに、歌っている途中から声が涸れ始めたのは自覚があった。しかし、二人でオールナイトカラオケなどという無謀なことをしたのならば、当然の結末だと怜は思っていたのだ。
 しかし、斎はそうは思わなかったらしい。当の斎本人が喉を潰していないからかもしれない。
「それに、昨日いきなり寒なったやろ? んでもって、喉を痛め、仕事で疲れ切った上にオールまでした『おバカさん』は元々の虚弱体質も手伝って、絶対風邪ひいてるやろうなぁと思ってなー」
 わざと斎は『おバカさん』の部分だけ強調してそう説明した。
 ついこの間の勝負のことを覚えていて、わざと連呼しているのだ。
 怜の体調の悪い今この時こそが、日頃の怜の仕打ちに対して報復できる唯一のチャンスといってもいいからだ。
 だから、思わず歌ってしまうほど機嫌がいい。
 反対に、怜の方が斎の機嫌の良さに腹が立つばかりである。
「名推理やろ? さすが斎ちゃんはミステリー好きやなぁ」
「どこが推理だ」
「当たっとるやろ。怜ちゃん、ほっといたら絶対まともなもん食べんと無理に仕事して悪化させるに決まっとるんやから!」
 怜の不機嫌な反論に、斎は更に力強い反論で返した。その言葉の後半には心配の色も滲んでいて、怜は口を噤んだ。
 確かに、ただでさえダルい体で食事を作る気なんて起きるはずもないし、かといって外で食事をするのも億劫だろう。
 そうなった自分の行動としては、適当に家の中にあるもので食い繋ぎ、とりあえず締切まで持ちこたえる。そうするだろう、間違いなく。
 そんな怜の行動の予測して、斎はわざわざ食事を作りに来たのだ。
 ベッドに寝転がりながら、楽しげな斎の背中を見つめ、
「ちゃんと食べられるもの所望」
 少しばかり悔しさを覚えつつそう投げかける怜に、
「何言うとんねん。バイト先の女の子には『嫁にしたいスタッフNo.1』って言われとるんやで?」
 ケタケタと笑いながら答える斎。
「女の子にかい、斎ちゃん」
「せやでー。女の子にモッテモテやねん。妬けるぅ?」
「妬く意味がわからんでしょ」
 呆れて冷たく言うものの、怜の口元には笑みが浮かんでいた。
 病気の時に誰かがいてくれるということは、本当にありがたい。それは一人暮らしをしている人間には尚更身に染みるのだ。
 会話の間にも斎は手際よく調理を終え、湯気とともに良い香りを漂わせている鍋をコタツの上へと持ってきた。
 それから食器を用意し、茶碗にたっぷりと雑炊をよそうとそれを怜の方へと差し出す。
 怜は頭に響かないようにゆっくりと上体を起こし、落とさないように注意深く茶碗を受け取った。
「斎は風邪ひいたらちゃんと怜さん呼びなさいよ」
「えー? 呼ばんでも来てやー」
「それはどうやって知るのかな、斎ちゃん」
「んーと、黒電波?」
 斎らしからぬ可愛らしい仕草で小首を傾げる。
 と、二人同時にプッとふき出し、声を上げて笑い出した。
 しばらく笑い続けた後、せっかくの出来たて雑炊が冷めてしまうのも勿体ないので、ありがたく頂くことにする。
 ダシがしっかりと利いていて、ネギや鶏、卵の入った栄養満点の雑炊を頬張りながら、怜はぼんやりと考える。
(『病は気から』か……)
 その言葉通り、心なしか体が楽になった気がする。
 それは気の所為でしかないのかもしれないけれど、斎がいることで気が紛れるのは確かだった。
(ま、斎自体がある意味病原体だし?)
 毒を以て毒を制するようなものだと思い、くすりと小さく笑みを零す。斎がそれに訝しげに首を傾げるのに、怜は何でもないと誤魔化したのだった。


 その、数日後。
「いやぁ、本当にバカは風邪ひかないってのは大嘘だよねー、斎ちゃん」
「……るさいで、怜ちゃん……」
 ベッドに横になった斎が、ガラガラに荒れた声で反論する。
 その声に力はないが、目だけは恨めしそうに怜を睨んでいた。
「ひどいなぁ。『おバカ』な斎ちゃんをわざわざ看病する為に来てあげた優しい怜さんに、感謝の言葉はないのかい?」
「……怜ちゃん、何でウチが風邪やってわかったん?」
「んー? 黒電波?」
 数日前に斎がやったのと全く同じ仕草で怜は返す。
 けれど、本当は単純な理由。
 風邪ひきの怜とあれだけ一緒にいて、更には怜の食べ残した雑炊を「ならウチが食う」と綺麗に平らげた。この時点で空気感染と経口感染である。
 それから斎はバイトが八連勤なのだと言っていた。その間、当然学校もあるわけで、睡眠時間も十分でなく疲労も溜まっているはず。
 そんな状態で体調を崩さないわけがないだろうと怜は思ったのだ。
「だから風邪感染るぞーって言ったのに……」
「大丈夫やって思ってんもん」
「バーカバーカ」
「怜ちゃんに感染して治しちゃる!」
「そしたらまた怜さんの看病だってわかってる?」
「う……、エンドレスや……」
 がっくりと息絶えるふりをする斎。そしてまたも二人で笑い出す。
 これでは結局二人してバカ決定だ。
 けれど、それでもいいかと、バカ二人はしばらくそのまま笑い続けた。

 *
 風邪は『バカ』がひくもんだ。
 しかも交代でひいてりゃ世話はない。
 けれど、君が温かさを分けてくれるのなら、  『バカ』もたまには、いいもんかもな――。畳む

#二重織 #過去ログ

その他

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過去のリレー小説『二重織』のログ
怜と斎がカラオケに行こうという話

 頭の中で、ノイズが響く。
 かきむしるように渦巻くソレに、苛まれては瞳を閉じる。
 『音』など、無くなってしまえ――。

 *

「本当に鬱陶しいです」
 怜の家に来るなり、開口一番に放った斎の台詞がそれだった。
 いつもの方言はどこへいったのやら、何故か標準語である斎。
 『不機嫌』  柴田斎科 バイト終了後属
 特徴――毒性が通常時の二倍増
 斎事典作ったならば、きっとこんな感じだろうとくだらないことを考えながら、怜は苦笑を浮かべて斎を出迎えた。
「今日は何があったんだぁ? 客か?」
「客もバイトも社員も! ホンマ、使えへんヤツばっかりやし……!」
 愚痴りながら斎は勝手に怜のベッドへと倒れ込んだ。
 怜はそんな斎の横たわるベッドにもたれかかって腰を下ろし、新しい煙草に火をつける。
 斎のバイト終了後の襲撃は、もはや日常化している。更に言えば、こんな風に不機嫌全開で来ることも怜にとっては慣れたものだった。
 すでにベテランと呼ばれる立場の斎は、バイトで過密なシフトを押し付けられることもしばしばある。そのおかげでいくら無駄に元気な斎とはいえ疲れは溜まるもので、それと比例して不機嫌メーターも上昇していくのだ。
 それがもとで怜に八つ当たりをすることも何度かあった。
「うっさいわ、ホンマ……」
 心底鬱陶しそうに斎が呟く。そう愚痴を零しはするのだが、仕事で何があったのかを斎はあまり怜には話さなかった。
 互いの仕事の分野が違い過ぎるからという配慮なのだろうと怜は納得している。
 だから怜は無理に聞き出そうとはせずに、別の話題で気を紛らわせてやる方法をいつも採るのだった。
「なぁ、斎。前にカラオケ行ってからどれくらい経つ?」
「カラオケぇ? あーっと、三週間くらい、ちゃうかな」
「んじゃそろそろアレだろう。禁断症状」
「……せやなぁ」
 苦笑まじりの同意が返る。
 歌うことは斎にとってストレス解消の重要な手段で、多い時には三日に一度くらいカラオケに行っていた。もちろん、カラオケに行かなくても常日 頃からよく歌っている。台所で食事を作ったり洗い物をしたりしながら歌っている斎を見て、本当に歌が好きなんだなとつくづく感心したことが怜には何度も あったのだ。
 そんな斎が最近カラオケに行っていないことは間違いなくストレスを溜める原因にもなっているのだろうと推測した。いくら日常で歌っているからとはいえ、やはりマイクを持っての熱唱とはわけが違うからだ。
「しかもあれやん。そのカラオケ、バイトの面子で行ったし」
「余計ストレス溜まるって?」
「聴くに耐えへんヤツおるからな」
 顔を顰めて斎は失礼な発言を躊躇いなく吐いた。
 基本的に斎は歌の下手な相手とカラオケに行くのを嫌う。音が外れているのが、気になって仕方ないからだ。
 自分で歌っていても、たまに音を外すと舌打ちするくらいだから、必要以上に完璧主義なのだろうと怜は分析する。
 更に言うと、斎の父親は歌を教える立場にあると怜は聞いていた。だから余計に耳がいい。
「音外してたらただの雑音やん」
「ま、そりゃそうだ」
「だぁーっ! 怜ちゃんがカラオケとか言うから歌いたなってきたやんか!」
「こんな時間に声張りあげないように」
 ただでさえ斎の声は通るから、と怜が穏やかに黒い笑みで釘を刺す。
(そう言う怜ちゃんもこんな時間に音楽流しとるやん)
 そう思ったのだが、それを口にしたら後の報復が怖いと思い、斎は何も言わずにおくことにする。
 一瞬訪れた静寂に、静かなイントロの曲が流れ始めた。エレキギターとアコースティックギターの重なり合った旋律が美しい曲だ。
「あー、この曲好き」
 曲に気が付いた斎が、部屋に流れる静かなメロディーを口ずさんだ。
 歌うというよりも、呟くように。
 たった、1フレーズだけ。
 切なげな声で歌い上げる女性ボーカルに、斎の歌声が重なる。
「……これに近いこと思っとった時期もあったなぁ」
 天井を仰いで、斎はもう一度、そのフレーズを呟く。
 歌好きな斎がどんな想いでその歌詞を聴いたのか。
 ふと浮かんだ思いを口にしかけて、怜はすぐに飲み込む。
 代わりに、別の質問を投げかけた。
「斎ちゃんはそんな歌バカだったんですかー?」
「え? ウチ、ケン様やったん?」
「そんなボケはいらん!」
 茶化しつつも真面目さも残して訊いた怜は、ツッコミつつも自分の浅はかさを呪った。
 斎はどんなときでもボケる精神を忘れない。更に言うと、自分の気持ちを他者に知られまいとする時には意図してボケるのだ。
 他人と、自分を誤魔化すために。
 溜め息とともに紫煙を吐き出す怜に、くくっと斎は喉の奥で笑った。
 妙に自嘲的な笑い方に気づいた怜は、煙草をもみ消し、斎に振り返る。
「おまえ、大丈夫?」
「何が? 頭?」
「ん、まぁ、それも」
「それもかいっ!」
 お約束なボケとツッコミに一通り笑った後、怜が真上から斎を見下ろす。
 笑顔のまま。
 目だけが、笑わないまま。
「つーか、マジで。ストレス、溜めすぎじゃない?」
「……貯蓄は大事やん?」
 放り投げるように答えて、斎は瞳を閉じる。
 怜はまた溜め息をつきつつ、本日何本目かも忘れた煙草に火をつけた。
「貯めるのは金だけにしといてね。んで、保険金の受取人は怜さんで」
「いやーん、怜ちゃん、鬼畜ぅ」
「鬼畜好きな鬼畜には言われたくないなぁ、斎ちゃん」
 視覚が閉ざされていても、斎には声音だけでわかる。
 銜え煙草のまま、にっこりと非の打ち所のない笑みを浮かべているだろう怜が。
 そしてそれは、目にしていたらきっと恐ろしいと感じる類のものであることも。
 こういうときの怜に逆らってもろくなことはないと、斎は身をもって理解している。
 だから、採るべき行動は限られていて。
「……なぁ、怜ちゃん」
「何だい、斎ちゃん」
「明日、カラオケ行こか」
 あまりにも突然な話の流れに、思わず怜の口から煙草が零れそうになり、慌てて銜え直す。
 カラオケの話をしていたことは確かだが、それにしても唐突だった。
 何も返せずにいる怜に、斎は更に続ける。
「んで、歌って」
 短く、簡潔に。
 そう言って、微笑った。
 目を、閉じたままで。
「は? 斎が歌いたいんだろうに」
「当然歌うけど、怜ちゃんの歌が聴きたいなぁと」
「何で?」
「いっつもあんまり歌わんやん」
「まぁ、そうだけど」
 確かに、いつも怜はあまり歌わない。
 それは斎が次々に自分の歌う曲を入れる所為もあるのだが、それだけではなかった。
 そんな考えに耽る怜の耳に、
「雑音聴くより、怜の声のがええわ……」
 そんな斎の笑み声が届いた。
 ベッドを覗くと、いつものような、悪戯っぽい顔で笑う斎がまっすぐな視線を寄越す。
「……口説き文句?」
「愛が溢れてるやろ?」
「返品お願いします」
「生憎、クーリングオフ期間が過ぎておりますので……」
 コテコテに作り上げた、営業用の声とスマイルで返す斎に、思わず怜は噴き出しそうになる。
 いつもの斎らしさが戻ったことに安心しつつ、けれどそれは表情には出さずに。
「悪徳押し売り業者か、おまえは」
 呆れたような声を出した。
「こんなゼンリョウな人間捕まえて何言うねん」
「『善良』の意味を知ってますか、柴田斎さん」
「当たり前やん。怜ちゃんのことちゃういうんは確かやな」
「ああ、確かに」
「認めるんかい!?」
 いつも通りのバカなやりとりが始まる。
 そこにある、互いの声に、ほっとする。
「なぁ」
「ん?」
「音はあったほうがええなぁ」
 斎が何を言いたいのか、なんとなくで察して怜は苦笑する。
 どうして、この唯我独尊な友人は、こう言葉を省略するのかとは思いつつ。
 けれど、それでも自分にはわかるのだから問題ないかと思い直した。
「今のうちに、明日歌う歌考えといてなぁ。ナクちゃんには連絡しとくしぃ」
 そう言ってさっさと寝る態勢に入る斎に、またも斎の強引な誘いを受けるだろうもう一人の友人に内心同情する。わかったとだけ答え、怜は短くなった煙草を揉み消し、いつの間にか止まっていた音楽プレーヤーの電源を落とした。
 仕事と学校で疲れていた斎が、早くも寝息を立て始める。
 それをBGM代りに、怜はそっと部屋の照明を落とし、
「怜さんも、斎ちゃんの声聴いてる方がいいんだけどね……」
 聞こえていないとわかっているからこそ言える言葉を、小さく零した。
 日常の鬱陶しい雑音よりも。
 耳に心地いい、歌声が。
 心に響く、歌声が。
 何よりも、救いになるから。

 *
 頭の中で、響くノイズ。
 ソレをかき消す、君の声。
 どんな『音』より 鮮明で 透明で 瞳を閉じて、耳を澄ます。
 『音』も君も あるから私は私でいられる――。 畳む

#二重織 #過去ログ

その他

Happy Birthday!
過去のリレー小説『二重織』のログ
怜の誕生日を祝う話

 誕生日って、何を祝うの?  ……今更だけど。

  *

 時計の針が真上で一つに重なる。時を示す数字はリセットされ、また新たに生まれ変わった日付へと移行した。
 そんな時間帯。
 ピンポーンとどこか間の抜けたインターホンの音がとあるマンションの一室に響いた。そして少し間隔を開けてから、今度はピンポンピンポン……と連打される。
 こんな時間にこんな訪問の仕方をする相手に、青柳怜はたった一人しか心当たりがなかった。溜息まじりに、冷えた空気に満たされた玄関へと向かう。
 サムターンをカタンと回すと、その音を耳聡く聴きとった玄関外の人物は、怜がドアノブを握るよりも先に、ドアを開けていた。
「寒いっちゅーねん! もっとはよ開けてーや!」
 開口一番そう言い放ったその人物――柴田斎に対し、怜は無言で、そしてかなりの勢いでドアを本来あるべき位置に戻した。もちろん再度鍵をかけて。
 途端に、ドアを壊しかねない勢いでドンドンと叩く音が聞こえてくる。もう既にノックなんて可愛らしい域ではなく、近所迷惑も甚だしい。
「ちょっ……! 怜ちゃん!? 何すんねん! 開けろー!」
「斎ちゃん、人にモノを頼む時は何て言うのかなー?」
 ドア一枚隔てた場所で怜がそう訊ねる。
 その口調はまるで小さな子供に話しかけるように優しげで、表情も笑みの形をとってはいた。しかし、斎にはその背後に黒々としたオーラが陽炎のように揺らめいているのが見えた。本人の姿は見えないのだが、しっかりと脳裏には思い浮かんだのだ。
 拙いと本能的に察した斎は、すぐさまノックするのを辞める。
「……スミマセン。開けてください、お願いします」
「はい。よくできました」
 そう言って満面の笑みで怜が斎を出迎えると、斎は感嘆するほどの素早さで部屋の中に滑り込み、真っ直ぐに奥の部屋にあるコタツへと潜り込んだ。
 今は十二月。京都の冬は厳しいことでも有名だ。
 寒い中歩いて怜の家まで来たことが、寒がりの斎には堪えたのだろう。
 コタツ布団を肩まで持ち上げて暖を取ろうとする斎が、恨めしげな視線を怜へと送る。
「わざわざ寒い中来たった友達にする仕打ちがそれですか、怜ちゃん」
「別に怜さんは斎ちゃんに来てほしいなーとか言ってないけど?」
 逆に言えば、普通は何の前触れもなく突然に押しかけられても迷惑極まりない。
 相手が斎だから怜は許しているだけなのだ。
「怜ちゃんのことやから、忘れとるんやろ」
「は? 何を?」
 忘れていると言われ、怜はここ数日の斎とのやりとりを思い返す。しかし、今日遊ぶ約束をした覚えはまったくなかった。思い当たる節を見つけられない様子の怜に、斎はアゴでコタツの上を示した。どうやら手を出すことすら嫌らしい。
 示した先には、真っ白い、ケーキなどを入れるような持ち手のついた箱。
「何ソレ」
「ケーキ」
「ケーキ? こんな時間に食べたら太るだろうに」
「おいっ! 今日は誕生日やんか!」
 斎がツッコミながら発したワンフレーズに、怜はしばしの間考え込み、ようやく状況を理解した。
「ああ、もう二十日だっけ」
 指摘されるまで完全に忘れていた。
 先ほど突入したばかりの『今日』は、十二月二十日。怜の二十三回目の誕生日だったのだ。
 斎は怜の誕生日を祝うために訪ねてきたのだろう。
「コレ、買ってきたん? よくこんな時間にケーキ屋さんが開いてたなぁ」
「いや、作った」
「作った? 誰が?」
「可愛い可愛い斎ちゃんが」
「って、斎が!?」
「可愛いにツッコミできんくらい驚かんでもええやろ」
 唖然として、怜はコタツにへばりつく斎を見つめ返した。
 もともと斎は器用で料理などは得意としている。だから驚くことではないのかもしれないが、まさかケーキまで作れるとは思っていなかったのだ。
「お皿とフォークとグラス出してー」
「何で? お祝いしてくれんなら、準備もしてくれるもんでしょ、フツー」
「怜ちゃん家やんか」
「その怜さんの誕生日でしょうが」
 祝ってくれる気がある人間の台詞とは到底思えなくてそう言うと、斎の目が点になった。
「何言うとるん?」
「いや、だから、本日は青柳怜さんのお誕生日でしょう? ってことは、接待されるのはこっちじゃないの? って言ってんの」
 そこまで丁寧に説明をしなくてもわかりそうなものを、あえて怜は嫌味なくらい丁寧に答える。
 しかし、斎には全く納得する様子がない。
「あんなぁ、怜ちゃん」
「何さぁ、斎ちゃん」
「誕生日ってもんは、誰の為にあると思っとるん?」
「当然、自分の誕生日は自分自身の為でしょうが」
「あぁっ、何と嘆かわしい……」
 怜が答えた途端に、斎は芝居がかった口調と仕草で頭を抱えた。
 一体いつの時代の人間だとツッコミを入れたくなるのを我慢して、怜は大きくため息をつく。
「斎、意味がまったくわからんのだけど」
「そんなん、怜ちゃんの誕生日はウチの為にあるに決まっとるやん」
 さも当たり前のように、それが唯一の正解であるかのように、斎はそう言い放つ。
 さすがの怜も、呆れてしばらく言葉が返せなかった。
 どこをどう考えればそういった思考に辿り着くのか、全く見当がつかない。見当がつかないので、怜は斎の思考回路を理解しようとする行為を放棄した。
「まさか、このケーキも自分で食べたいからとか?」
「レシピ見て美味しそうやったしなー。あ、お酒はちゃんと『とっておき』持ってきたし」
 自分の真横に置いていた紙袋を、斎は目線だけで示す。怜がちらりと中を覗くと、【国士無双】と銀色で書かれたラベルが見えた。
 二人が共通して気に入っている銘柄である。しかも今回は地方限定発売のものらしかった。斎なりに気を遣った結果のセレクトなのだろう。
「ほら、はよ皿とフォークとグラス! あと包丁は、お湯で温めてな」
「はいはい、わかった、わかりましたよ」
 斎の傍若無人さは今に始まったことではないので、怜は諦めて食器と包丁を用意する。
 ケーキの箱を開けると、予想していたよりもずっと見事なケーキが入っていた。デコレーションはほとんどなく見た目は至ってシンプルなのだが、買ってきたものだと言われても信じてしまいそうなほどの出来映え。
 せっかくだから、包丁を入れるのはもう少し後にしようと思い、先に酒の封を開けた。
 それぞれのグラスに、透明な液体が注がれる。
「かんぱーい!」
「……乾杯」
「何やテンション低いなぁ」
「斎が無駄に高いだけ」
 普通は「誕生日おめでとう」とか「ハッピーバースデー」とか言うもんじゃないか? と怜は心中で考えつつ、けれど実際斎にそんなことを言われても恥ずかしいだけだと思い直した。
 しかし、そんなことを考えていたのが顔に出ていたのか、怜の考えを見透かすようにニヤリと斎が笑う。
「しゃあないなぁ。ほな、『誕生日』――」
「うわっ! 斎! サムイからやめんか!」
 グラスを掲げて声高に叫ぼうとする斎を、怜は慌てて制した。
 そんな怜に、斎は悪戯な笑みを浮かべる。
「ええやん、別に」
「この年で『誕生日おめでとう』もないと思わん?」
「ちゃうって」
「は?」
 ひらひらと手を横に振って否定する斎に、怜は疑問全開の表情。
 何が違うというのかがわからない。
「『誕生日おめでとう』とちゃうよ」
「じゃあ、何さ?」
 まだわからないままの怜に、斎はニッと悪戯っぽい笑みを深める。
「さっき言うたやん? 誕生日は自分の為のものとちゃうって」
「あぁ」
「だから――」
 斎がグラスを持ち上げ、怜にも倣うようにと促す。
 訳のわからぬまま怜もグラスを手に取った。
 それに斎はカチンと軽く触れ合わせ、
「『誕生日ありがとう』や」
「……『ありがとう』?」
 その感謝を向ける相手が怜には分からない。斎はそれを察し、グイと国士無双をあおると、今度は柔らかく微笑んだ。
「年数える為に誕生日はあるんとちゃうやん? その人が生まれてきたことを、そんでもって今まで生きてきて出逢えたことを感謝する為にあるんとちゃうんかな?」
「斎……」
「ウチえぇこと言うたわー」
「それは自分で言わない方がいいと思うけどな」
 ツッコミながらも、怜の頬は自然と緩む。
 冗談ぽく茶化した言い方をする斎ではあったが、そこにはちゃんと本心が垣間見えているからだ。
 そして、怜も心の中で小さく感謝する。
 そんな友人と出逢えたことに。
「ちゅうことで、ウチの誕生日にはウチに感謝せなあかんで、怜ちゃん。あ、お酒はアレでええわ、【雪中梅】」
 押しつけがましく斎の指定したのは、新潟県の有名な銘柄。そして斎のお気に入りベストスリーに入るものだった。
「……おまえ、自分の誕生日は自分の為か」
「当たり前やん」
 即答する斎に、怜は反射的に黒い笑顔を浮かべていた。先ほどまで胸の内にあった感謝の気持ちを返してほしい気分になったのだ。
「こらこらー。さっき自分で何て言ったのか覚えているかいー?」
「んー。もう忘れたー」
「都合のいい脳味噌なのねー、斎ちゃん」
「そうそう、ホンマに忘れとった。もうそろそろナクちゃん来るしー」
「ナク?」
 ナクとは二人の共通の友人・名倉優のことだ。斎ほど怜の家に入り浸ってはいないが、遊びに来る頻度は非常に高い。といってもその半分近くが斎に強引に拉致されたり、呼び出されたりした結果であった。どうやら今回もそうなのだろうと怜は見当をつける。
「来る前にメール入れといてん。『怜ちゃん家集合!』って」
「……本人に了承取ってからにしようね、斎」
「えー? そんなん面倒臭いやん」
「面倒臭いじゃなくて、ここの部屋の主は誰ですか」
「怜とウチとナク」
「連名にすんな!」
 思わず怜がツッコミを入れた瞬間に、ピンポーンとインターホンが鳴り響いた。
 ドアの外にいるのは、おそらく斎の予告通り、無理やり呼び出された友人なのだろう。
「ほら、怜ちゃんはナクちゃんのお出迎え。ウチはナクちゃんの分の食器用意しとくし」
「いつも思うが、自分とナクの扱い違わないか?」
「だってナクちゃん見とったらオカンな気分にならへん?」
「……まあ、わからんでもない」
「やろ? ほら、行った行った」
 怜を玄関へと促して、斎は台所へと姿を消した。
 一息ついて、怜は玄関へと向かいながらこれから始まるだろう宴にそっと笑みを浮かべる。  多分、今夜は夜通し飲み続けることになるのだろう。
 好物の酒と、特製のビターチョコケーキと、そして居心地のいい友人たち。
 そんな誕生日もいいと、またも怜の口元から笑みが零れる。  斎を出迎えた時とは違う柔和な笑みを伴って、怜はゆっくりと玄関のドアを開けた。

 *

 誰にともなく、感謝を向けて――。
 生まれてきてくれて、ありがとう。
 出逢ってくれて、ありがとう。
 Happy Birthday!  I’m thankful to your birth for my fate.畳む

#二重織 #過去ログ

その他

お揃いワンピース
Pixiv公式企画 ポッキー300文字SS参加作

 夏の間にこんがりと焼けた娘たち。肌寒さを覚える最近では、色違いのお揃いワンピースがお気に入りのようだ。十歳の長女は、少し大人ぶりたいお年頃なのか落ち着いた茶色を、キラキラヒラヒラ可愛らしいものが大好きな七歳の次女は、案の定ピンクを選んでいた。

  秋晴れの綺麗な日曜日。家族四人でお弁当とおやつを持って、ピクニックにいくことにした。娘たちは、今日もお気に入りのワンピースだ。追いかけっこをする 娘の後ろから夫とついていくと、何かを思いついた風に夫が小さく笑った。「どうしたの?」と問うと、夫は肩から掛けていたバッグをごそごそと漁る。取り出 したのはお菓子の箱二つ。「そっくり」と夫が笑みを零すのに、私は前を歩く二人をもう一度見つめた。
 なるほど。日に焼けた肌に茶色とピンク。この瞬間、我が娘たちの新たなニックネームが決まった。夫から二つの箱を受け取り、大きく振る。

「おやつにするよ、ポッキー娘!」畳む

#企画

その他

人色50Title《泪》11 遅すぎた後悔
尚志・郁・片岡・井隼で麻雀するお話

 歪花。様のお題から。
 七夜、井隼片岡+郁&吉良兄妹の麻雀アホ話。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 井隼と片岡は、この場に足を運んだこと、軽い気持ちで彼らを誘ったこと、否、それ以前に彼らと友人関係を築いてしまったことを激しく後悔していた。
 こんなはずではなかった。
 何度その言葉が頭を過ぎっただろうか。
 しかし、今更そんな後悔は何の役にも立たない。
 井隼の震える指先を、片岡が固唾を飲んで見守る。
 溢れ出しそうな涙を堪えながら、井隼は自らの命運を、十四分の一のそれに掛けた。


「ローン! 高めゲットぉ!」
 死の宣告が井隼の希望を切り裂いた。
 郁の手元にパタンと倒された十三枚の牌は、綺麗に筒子(ピンズ)で染まっている。どこからどう見てもハネ満確定の面前清一色(メンゼンチンイーソウ)
 しかも、井隼の捨て牌は更に三役高くしてしまう、二盃口(リャンペイコー)までつけてしまう物だった。これで倍満にまで点数は跳ね上がる。
「またかぁっ!」
「井隼、とぶなよっ! 俺も焼き鳥つくだろうが!」
「俺なんか焼きトビっすよぉ!?」
 がっくりと麻雀卓の上に倒れ伏す井隼に、片岡が容赦のない罵声を浴びせた。
 片岡自身も、この半荘で一回も上がっていない。井隼の提案で採用された焼き鳥ルールは、一回も上がれない状態を『焼き鳥』といい、その状態で一半荘を終えるとペナルティーが科せられるのだった。
「これまた高いなー」
 すでに二回手早く上がり、点棒も浮いている尚志は涼しげな表情で郁の手牌を見つめる。
 「綺麗やろー」とウキウキした様子で郁が裏ドラをめくると、見事に筒子の四が現れた。
「お、乗った! メンチンリャンペー、裏裏で三倍まーん!」
「城宮さぁん! どんだけ絞り取ったら気が済むわけ!?」
「えー? そんなん言うても、井隼君とテル君が麻雀やろて言い出したんやん?」
 天使のような笑顔で答える郁だったが、今の井隼と片岡には悪魔にしか見えなかった。
 思えば、何故初めに気付けなかったのだろうかと、今更ながらに自分達の観察眼のなさを呪いたくなる。

 事の発端は、片岡の一言だった。
「久しぶりに打ちてぇなー」
 サークルのボックス内で片岡は退屈そうにそう呟いた。それを聞いた井隼は、最近ネットゲームの麻雀にハマっていたこともあり、真っ先に賛成をしたのだ。
 そして、その時ちょうどその場に現れた尚志と郁を誘った。
 尚志や郁が麻雀をできるかどうかは知らなかったのだが、それならそれで好都合と二人は考えていたのだ。
 尚志は少々渋っていたのだが、あっさりと郁が承諾した為に四人で打つことになった。
 しかし、家に麻雀セットがあると尚志が言った時点で、疑いを持つべきだったのだ。
 確かに、尚志の家に行って、全自動卓が置いてあることにも、慣れた仕草で卓の設定をする尚志にも、驚きはした。
 けれど、尚志の「親戚が好きでね。よく使うんだよ」という言葉に、『親戚が使う』イコール『尚志が頻繁に打つわけではない』と勝手に思いこんでしまった。
 考えてみれば、尚志の部屋なのだ。部屋の主が打たないのもおかしな話だ。しかも、『親戚』の一言。郁が尚志と親戚同士であることは、百も承知していたはずなのに。
 ルールを決め、ゲームを始めた瞬間、郁の手捌きが半端なく慣れていることに気付いた。
 華麗な小手返し、理牌(リーパイ)する早さ、ツモ牌は完璧に盲牌(モウパイ)し、見る前に河に捨てることもままあった。
「し、城宮さん、随分慣れてるんだね」
「んー? ウチ、家族麻雀するからなぁ。さすがに雀荘とかは行ったことないわ」
 焦りを隠せずに井隼が話しかけると、郁はそうあっけらかんと答える。
 何だ、家族麻雀か、と安心したのも束の間、郁に軽やかにリーチを宣言し、次巡には赤ドラをツモって上がりを決めた。
 その瞬間から、井隼と片岡の悪夢は始まったのだ。
 三半荘連続、井隼と片岡は焼き鳥。しかも毎回二人のうちのどちらかがラストになる。
 尚志は郁との対局に慣れているのだろう。安めの上がりで毎回焼き鳥を回避し、最終的にはプラスにしていた。
 郁の手は毎回高く、安いと思った場合でも裏ドラが三枚乗るなどして、簡単に満貫以上になってしまうのだ。
 驚異のヒキの強さに、井隼と片岡には為す術がなかった。
 そんな二人を哀れに思ったのか、尚志が煙草を持って立ち上がる。
「ちょっと疲れたし、一服していいか?」
「お、おお! いいぞいいぞ! ってか、俺も煙草休憩したい!」
「俺もノド乾いたッス! ジュースでも買ってきましょうか?」
 助かったとばかりに逃げ出そうとする片岡と井隼に、郁は苦笑するしかなかった。
 さすがにやり過ぎたと思ったのだろう。
「ジュースは買わんでも冷蔵庫に何か入っとるやろ」
 井隼を促しながら、勝手知ったるという風にキッチンへと向かい、冷蔵庫を開ける。
「井隼君、何がええ? 炭酸系はコーラしかないけど」
「あ、んじゃコーラで。っと、吉良さん、頂きまーす!」
 あまりにも自然な郁の態度に、つい当たり前のように答えてしまったが、部屋の主が彼女でないことに気付いて慌てて付け加えた。
 尚志は短く応え、片岡と並んで紫煙をくゆらせている。
「テル君はコーヒー?」
「お、サンキュー、郁ちゃん」
 郁はグラスを人数分出し、井隼にはコーラを、片岡と尚志にはアイスコーヒーを手渡す。それから自分の分のフルーツジュースを準備した。
 と、その途中で携帯電話が麻雀卓の上で鳴っているのに気づく。
 グラス片手で携帯を手に取ると、メールだったらしく、手早くキーを操作してまた携帯を置いた。
「尚志ー、茉莉がもうすぐ来るって」
「マツリ? 誰?」
 聞き覚えのない名前に、片岡が反応する。井隼も不思議顔で尚志に視線を向けた。
「俺の妹だよ」
「ちなみに茉莉は、逍女に通う女子高生よん」
 郁が悪戯な笑みを浮かべてそう付け足すと、あからさまに井隼の表情が明るくなった。
 逍遥女学院――通称・逍女は、久遠学院の姉妹校であり、この辺りでは有名なお嬢様学校なのだ。学園祭のチケットが高額で取引されていたりもするほど、周囲からは高嶺の花と目されている名門女子高だった。
「逍女!? すっげぇっ!」
「待て、井隼! 確かに逍女は魅力的だが、兄貴はコイツだぞ! 性格がまともなわけないだろ!」
「どういう意味だ、晃己」
「テルくーん、心配せんでも茉莉はええ子やでー」
 三人のやりとりを眺めながら、郁は小さく笑いを零した。そして、小さく「性格は、な」と付け加える。その声は、騒ぎ立てる井隼と片岡の声にかき消され、届きはしなかったが。
 そうこうしている間に、インターホンが軽やかに響いた。
 郁が当たり前のようにそれに出ると、数秒後に玄関のドアが開いた。
「おかえりー、茉莉」
「ただいま帰りました、兄様、姉様。あら、お友達がいらしていたのですか?」
 ポニーテールを揺らして小首を傾げる茉莉の姿に、井隼と片岡が一瞬で締まりのない顔になった。
 清楚、可憐と言った言葉がぴったりの茉莉に、憧れの逍遥女学院のセーラー服がよく似合っている。言葉遣いや物腰も淑やかな茉莉は、まさにお嬢様といった雰囲気を漂わせていた。
「サークルの友達だよ。片岡は俺と同回で、井隼は郁と一緒」
「片岡さんと井隼さんですね。初めまして、茉莉と申します。兄がいつもお世話になっております」
 丁寧に頭を下げる茉莉に、井隼と片岡はでれでれとしながら、「いや、お世話なんて」「こちらの方が」などと返していた。
 その茉莉の視線の端に、リビングに据えられた牌が乱雑にばらまかれている麻雀卓が入った。
「兄様達、麻雀なさっていたんですか?」
「え? ああ。この二人がやりたいって言い出したからな」
「丁度えぇわ。茉莉も混ざらへん?」
 にっこりと笑って誘いをかける郁に、片岡と井隼は驚いたように視線を行き来させた。
 二人には、茉莉と麻雀が繋がらなかったのだろう。
「でも、私なんかが入ってしまいましたら、片岡さんと井隼さんはつまらないのでは……」
「ええっ!? そんなことないっス!」
「うんうん! むしろ、美少女と卓を囲める方が、俺たちは嬉しいから!」
 柳眉を顰めて申し訳なさそうにする茉莉に、すぐさま二人は否定をして、茉莉の参加を歓迎した。
 それを面白そうに眺める郁と、呆れた溜め息をつく尚志には一切気付いていない。
「ほら、二人もそう言うとるし。ウチの勝ち分、茉莉に引き継がせてウチ抜けるわ」
「何だ、俺は面子確定なのか?」
「え? 尚志も抜けたい? そんなら三打ちにする?」
「おおっ! 三人打ち! 実は俺、最近三人打ちにハマってるんスよねー」
 郁の提案するまま、ノリノリの片岡と井隼は茉莉と三人で、卓を囲むということになった。
 それが、二人の更なる悲劇の始まりだとは知らずに――。

 後に二人は語る。
「吉良家親戚一同とは、何があっても麻雀を打つな」と……。
 遅過ぎた後悔は、彼らを破滅へと導いたのだった。畳む

#番外編

七夜月奇譚

人色50Title《月》27 初めから有り得ない
織月視点/輝行と織月

 歪花。様のお題から。
 織月視点。
 まがさや 章之壱 肆 逆賊 の05の後のお話。

 自室に入った瞬間、織月はこみ上げる疲労を溜め息に乗せて吐き出した。ノロノロとした動作で机の上にバッグを置くと、力なくベッドに腰を下ろす。脳裏には、つい数分前に別れた相手とのやりとりが再生されていた。
 基に車で駅まで送られてから、自宅までの数十分間。二人きりで交わす会話は、ほとんどなかった。そして、その数少ない会話の内容は――。
「……人の気も知らないで」
 パタンと仰向けにベッドに倒れ、織月は微かな苛立ちを吐露した。
『各務綺麗なのに』
 褒められて、嫌な気分になる人間はいないだろう。それが、自分が好意を持っている相手なら尚更だ。
 けれど、それも時と場合による。
 相手は――横木輝行は、織月の想いを知っている、はずなのだ。知っていなければおかしい。織月は、面と向かって想いを告げたことがあるのだから。
 しかも、織月の告白からまだひと月足らず。その事実を忘れたというならば、どれだけ物忘れが激しいのだと罵りたい気持ちにすらなった。
 とにかく、何事もなかったかのように、全て忘れてしまったかのように、あんな風に言わないで欲しい。些細な一言でも、心の奥に押し込めている気持ちは、簡単に揺らいでしまうのだから。
「どうせ、深く考えないで口にしたんだろうけど」
 単純で、明快で、思ったことはそのまますぐに言葉にしてしまう。輝行はそんな性格なのだと、知っている。それが、彼の長所であり、短所でもあるのだ。だからこそ、輝行に惹かれたのだと自分自身でもわかっていた。
 上手く整理しきれない己の感情に、苦笑いが浮かんだ。
「綺麗、か……」
 言われ慣れていない言葉だった。織月にしてみれば、『綺麗』というのは郁のような人にこそ相応しいと思う。実際、自分が綺麗だなどと思ったことはないし、誰かにそんな風に言われたこともない。
 なのに輝行は、ごく真面目な顔で言ってのけた。その表情からは、からかうような様子は見えなかったし、お世辞を言ったようにも思えなかった。第一、輝行が織月にお世辞を言うメリットもないし、そんな器用な性格もしていない。
 だから、素直にそう思ってくれているのだろうとは思う。
 嬉しいのだ。純粋に。嬉しいからこそ、不要な期待を抱いてしまう自分が、愚かな気がして堪らなくなった。
「未練がましい女になんて、なりたくないのに」
 なのに、ほんの小さなことにも、過剰に反応してしまう。
 きっと輝行は、あの後の自分の態度に戸惑っただろう。それに追い討ちをかけるように凪沙に「彼氏」発言されて、さらに気まずくなってしまった。
「凪沙のバカ。絶対に、有り得ないのに」
 自身と輝行が、恋人同士などという甘い関係になるはずがない。すでにフラれているという、厳然たる事実があるのだから。そもそも織月には、告白する気なんて全くなかったのだから。
 それでも口にしてしまったのは、本当にその場の勢いと、そして、遠くないうちに会えなくなるとあの時は思ってしまったからだった。
 その予定が今は保留になってしまっている。思いがけずに輝行にも戻士の血が流れていることが判明した今では、予定は延期となる可能性も充分にあった。
 こんなことになるならば、言わなければ良かったと思う。後悔しても、過去を変えることなどできないけれど、それでも思わずにいられない。
 同時に、思わずにはいられないけれど、嘆いている暇はないのだ。そう、自分に言い聞かせる。
「初めから、有り得ないんだから」
 消え入りそうな声で、言い聞かせる。
 今の織月には、自らの最大の望みを叶える為に、そう言い聞かせるしかなかった。 畳む

#番外編

禍つ月映え 清明き日影

人色50Title《月》25 無意味な力
響視点

 歪花。様のお題から。
 まがさや 章之壱 肆 逆賊 の05の後くらい。
 ほぼほぼ響の回想。
 響の本編には出てこない捻じ曲がった部分をクローズアップした奴。
 後半部分は昔本編にも載せてた。

 ――いいか、響。おまえの能力は希少なものだ。
 幼い頃から繰り返された言葉が、成人した今でも脳裏にこびりついている。
 ――今の乾坤(けんこん)四家には、月姫様に見合うような男子がいない。だから、これはチャンスなのだ。わかるな? おまえは自分の能力を磨き、月姫様に相応しい男となれ。
 今思えばずいぶんと無茶なことを望むものだと思いもする。だが、小学生にもならない響は父の言葉を素直に受け止め、律義に自分の能力を伸ばすための努力を重ねていた。
 ――月姫様に相応しい人間に……。
 その言葉を、半ば呪文のように繰り返しながら。
 しかし、その一方で、当時その『月姫様』――つまり嫦宮は不在だった。六条院宗家が総力を注ぎこんで探し回ってはいたのだが、嫦宮不在の期間は実に十年を越えようとしていた。十年も経てば、当然心身ともに成長する。中学生になった頃には、同世代の中で早熟だった響が、大きな疑問と反発を抱くのも当然の流れだった。
 何故、いもしない嫦宮のために自分は努力をしているのだろう。そもそも、本当に嫦宮などという存在がいるのだろうか? 宗家方の話すような、神のごとき存在が、本当に……。
 嫦宮に対する盲信と妄執が垣間見える父。そして一族の特殊性を理解すると同時に、嫦宮というまだ見ぬ存在に不信感が生まれた。
 それでも、表面上はそれを露わにすることもなく過ごしていたが、内心ではもう嫦宮などどうでもよい存在となっていた。
 そんな中、ようやく当代の嫦宮が見つかったと父から聞かされた。その盛大なお披露目が近々行われると知り、響は複雑な心境に陥った。
 本当に嫦宮は存在したのか、という驚き。
 今更現れたと言われても、という苛立ち。
 そして、そこまで必死になる嫦宮というものが如何程のものなのか、という好奇心。
 相変わらず嫦宮を崇め奉る父から、響もそのお披露目の会に出なさいと言われたときには、面倒臭さよりも好奇心が勝った。

 当代嫦宮のお披露目は、古都にある六条院宗家本邸で行われた。本邸を訪れるのは初めてで、ただただその規模に響は圧倒されながら、宗家のお偉方に父とともに挨拶をして回った。
 そうしていよいよ当代の嫦宮が登場する段になる。百人以上も入れる広い大座敷で、綺麗に並んで正座する一族の者たち。その末席で、響も大人たちに倣って正座し、頭を垂れていた。
 静かに障子の開く音。衣擦れ。ふわりと漂う極上品(ごくじょうぼん)の伽羅の香り。
 自ずと緊張が高まる中、上段の間に座する気配が伝わる。宗主の声掛けと共に周りと合わせて顔を上げた瞬間、響は息を呑んだ。
 白衣(びゃくえ)に緋袴、その上に菊重(きくがさね)千早(ちはや)をまとい、腰よりも長い射干玉(ぬばたま)の髪を惜しげもなく背に流すのは、自分とさほど歳の変わらない少女。だが、その少女の放つ空気は、とても同じ世界に住む人のものとは思えないほど神々しい。どこを見つめているのかわからない深淵のような黒耀の瞳が、更に神秘性を高めていた。
 美しい、などという言葉では足りない。人にして人に非ず。父があれほど心酔する理由が、初めてわかった。
 嫦宮は――生き神は、確かに存在する。

 この瞬間から、響は自分の手にした力全てを嫦宮に捧げようと決めた。誰の命令でもなく、自分自身の意思を以て。
 かつて父が飽きるほど繰り返した言葉は、自らの想いへと生まれ変わり、響の存在意義となったのだった。
 六年前の、あの時までは――。



「兄貴、帰らねぇの?」
 訝かる声に、響は思考の淵から浮上した。声の方へと顔を向ければ、弟が立ち上がろうとしている体勢のままだ。
 六条院家別邸の座敷の一間。開け放たれた障子の向こうからは、蝉が忙しなく鳴き続けていた。
 数十分前まで十人以上もの人数が集っていた場所には、すでに響、亨、帆香の三人だけとなっている。ほんの少し前までこの場に残っていた郁と尚志は、呼びに戻った輝行とともに奥座敷へと移動していた。
 もう必要な話は済んでいる。帰っても構わないはずだ。しかし、それでも響はなかなか腰を上げる気分にはなれなかった。
 どうして宗家の人間は横木輝行に肩入れするのだろうか。それが、納得できない。その想いがずっと頭の片隅から離れなかったからだ。
「兄貴?」
 何も答えない響に、亨の声が気遣わしげな色を強めた。それに響は落ち着きはらって笑みを作る。
「先に帰っていて構わないよ。俺は少し、訊きたいことがあるし」
 柔らかな声音だったものの、どこか突き放すような口調になってしまったのは、緊張があったからだろうか。常との微妙な対応の違いに、亨がひっそりと溜め息を洩らしたことに気づいた。呆れているのかもしれない。弟は自分とは違い、嫦宮や宗家に対してさほど思い入れがないようだから。
「亨」
 すでに濡れ縁まで出ていた帆香が控え目に促した。帆香も響の嫦宮崇拝を知っている。きっと、今も自分の気持ちを慮ってのことなのだと響にはわかった。
 亨が帆香に応え、先に帰るからと寄越す。気をつけてと返すと、二人は仲良く揃ってその場を後にした。
 人の声の無くなると、蝉時雨が耳に痛い。
 あの日も、こんな風に蝉の音が喧しかった。



 六年前の七月七日。
 それは当代嫦宮である郁が、十六の誕生日を迎える日だった。
 嫦宮が十六歳になる日というのは、特別な意味を持つ日でもある。とりわけ、響にとってはその日は重要であった。
 それは、『姫紲(きせつ)』が選ばれる日。父の言った、『月姫様に見合う者』が決められる日だった。
 この日が、響は待ち遠しくて仕方がなかった。姫紲は代々乾坤四家から選ばれることになっていたが、今の四家には年齢的に当代と釣り合う男子がいない。唯一の例外が吉良家の長男である尚志であったが、彼は吉良家血縁ならば本来受け継ぐはずである風精術使(ふうせいじゅつし)の力を微塵も有していなかった。
 姫紲は嫦宮の配偶者であると同時に、最も身近に仕える守護者でもある。何の能力も持たない者に務まる役目ではなく、当代の姫紲は例外的に他家から選ばれるのではないかともっぱらの噂だった。
 それが本当ならば、響が選ばれる可能性は限りなく高い。乾坤四家に次ぐ位置にあるのは、常磐家と守屋家。常磐家には累がいたが、彼はそれほど体が丈夫な方ではなかった。そうなれば、亨か響という選択肢しか残っておらず、当時それほど門の能力を開花させていなかった亨よりは、熱心に修行を積み着実に紋の戻士として成長していた響に決まることは火を見るよりも明らかだった。
 そんな夢を胸に抱きながら、一族の集いに響は向かった。父も長年の想いが実るかもしれない期待に、どこか落ち着かない様子だった。
 お披露目の時と同じ大座敷。外では蝉の声が、そして内には高鳴る鼓動が間断なく続いていた。
 末席に座し、当代の現れる瞬間を待つ。宗家身内の合図に全員が頭を垂れると、静かに障子が開いた。いつも通りの嫦宮の登場だ。そう思った。
 だが、本来次に声を発するはずの宗主の代わりに、凛とした少女の声で「面を上げよ」と聞こえた瞬間、ざわめきが拡がった。
 おずおずと顔を上げる一族の者たち。響も他の者たちと大差ない様子で上段の間に目を向けた。
 そこにいたのは、嫦宮の御装束(みしょうぞく)をまとった、ショートカットの快活そうな少女。神々しさも美しさも相変わらずで、それが当代嫦宮本人であることに間違いはない。けれど、その瞳に宿る力強い光が、以前とは別人かと思わせるほどだった。
「つ、月姫様……、その御髪(おぐし)は……」
「暑いから切った。別に問題はないだろう? それから、姫紲のことだが手短に言おう。吉良家の長子である尚志に決まった」
 何の前置きもなく、郁の口からさらりと滑り出た言葉が、響の思考を真っ白にする。しばらく放心の後、その白を塗り潰す勢いで疑問が溢れ出した。
 何故、尚志なのか。何の力もないのに。強いて挙げれば、彼にあるのは家筋だけ。
 自分は嫦宮のために力を身につけてきたのに。他の誰もが、自分ならば相応しいと言っている声を何度も聞いてきたのに。
 何の為に、今まで努力をしてきたのだろう。これでは、まったく無意味ではないか。
 次々に不満と落胆と失望が押し寄せ、響の積年の想いが踏み荒らされていく。父親が何か発したようにも思えたが、まったく耳に入ってこなかった。
「異論は認めない。これは、長老方も納得した決定だ。以上」
 そんな状況でも、郁の声だけは妙に頭に響く。項垂れていた顔を上げると、これ以上話すことはないと言わんばかりに、郁が颯爽と上段の間から降りていくところだった。そうしてふと障子の一歩手前で立ち止まり、振り返る。視線を向けたのは、ちょうど座敷の対角線上だ。
 そこにいたのは、響と同じ年の容貌麗しい少年――先ほど姫紲に任じられたばかりの吉良尚志。尚志がその視線を受け取ると、郁は無言で座敷を後にし、宗家の家人もそれに続いた。それに倣うように、尚志もその場を辞する。
 後にはただ、状況を飲み込み切れずにいる一族たちと、存在意義を見失った響が残されていた。



 不意に、床板を踏みしめる音で我に返った。
「あら、お帰りにならないのですか?」
 濡れ縁から鈴を転がすような可憐な声が零れる。そこに立っていたのは、両手で何かを抱え持っている茉莉だ。多分、その手に持つものは郁と尚志に指示されて持ってきたものだろう。向かう先はもちろん、その二人と基、織月、そして横木輝行が待つであろう奥座敷だ。
「茉莉さん、尚志さんに伝えて頂けませんか? あとでお時間を頂けないかと」
「……それは、結構ですけど」
 少し言い淀んでから、茉莉は微かに苦笑を浮かべて続けた。
「何を訊いたところで、兄様は結局重要なことは教えて下さらないと思いますわよ? もちろん、知る必要があると判断されたならば別ですが」
「では、茉莉さんは尚志さんの意図もわからないままに従っていると?」
「わからないわけではありません。一応、これでもあの人の妹を二十年近くやっているのですから。けれど、兄様は私などでは考えも及ばないくらい、先のことを見通しておられます。だからこそ姉様も絶対の信頼を置かれているわけですし、私如きが『こういう意図があるであろう』と推測したところで、それは兄様のお考えのほんの一部分でしかないのです。そしてそれは、私に限ったことではないと思っております」
 言外に、貴方にも理解が及ばないだろうと告げられ、響は膝の上に置いていた両の手を握り締めた
 しかし同時に、茉莉の言い分が正しいことを、痛いくらいに知っている。自分ではどう足掻いても敵わないほど、尚志は優れている。たとえ精術使としての能力は一切持たなくても、その頭脳が補って余りあるほどなのだ。そんな事実など知りたくもなかったのに。
「それに、私は兄様の意図を全て理解はできなくても、兄様のなさることに間違いはないと信じておりますから」
「……そう、ですね。確かに尚志さんならば、宗家や郁様に益のないことなどされないでしょう。しかし――」
 そこまで言って、響は言葉を途切れさせる。次の一言を言うには、相当の覚悟が必要だった。いくら年下といえども、響にとって茉莉は宗家中枢の人間に他ならない。大きく息を吸い込み、思いきるように口を開いた。
「しかし、織月にとってはどうなのでしょうか? 織月は今、かなり不安定な状態です。宗家の方々からはそうは見えなくても、かなり無理をしているのです。そんな状況では、織月に負担を強いるようなことになるのではないですか?」
 表面的には感情を抑えはしたけれど、内心では言葉よりももっと激しい焦燥感が襲っていた。その焦燥感の正体が何なのか、響は理解をしている。そして、そんな気持ちを持つことが馬鹿馬鹿しいことだと言うことも。
 それでも、その感情を消し去ることはどうしてもできなかった。そんな響の心の内の葛藤など全く気付かぬまま、茉莉はふわりとした笑みを浮かべた。
「本当に織月さんが大切なのですね」
 率直過ぎる茉莉の感想に響は気恥ずかしい思いを感じたものの、表には出さずに曖昧な表情を作るのみ。茉莉がそれをどうとったのはわからなかったが、視線を濡れ縁の遠く先へと向け直したことに安堵した。
「兄様には伝えておきます。ただ、今のお話を終えられるのにどの程度のお時間がかかるのかはわからないですが……」
「大丈夫です。お願いします」
「わかりました。それでは、ここでお待ちになっていて下さい」
「はい」
 茉莉がゆるりとその場から離れていく。
 微かな足音が遠ざかるに従い、辺りが静寂に占められていった。つい数分前まで騒がし鳴き声を響かせていた蝉達も、示し合わせたかのように黙りこくっている。
「よりによって……」
 響の呟きが静かな空気を震わせ、波紋となって拡がった。それに触発されたのか、一斉に夏の風物詩の大合唱が始まる。続く響の言葉は蝉時雨にかき消され、溶け去った。
 響はただ一人座敷で佇み、一族の最も無能にして有能な参謀役を待ち続けたのだった。畳む

#番外編

禍つ月映え 清明き日影

人色50Title《月》16 引き摺り続ける過去
尚志視点/尚志×郁

 歪花。( http://www.usamimi.info/~miuta/magari/ )様のお題から。
 恐らく大学時代の尚志×郁。
 二人は大学近くのマンションに同棲中です。
 微エロです。R-15にもならない?

 窓を叩く雨音が、一層激しさを増した。視線を目の前のディスプレイから半分だけカーテンの引かれた窓へと移すと、大粒の雨滴が数え切れないほど花開いては散っていく。
 夜半の深雨は、嫌いではない。だが、彼女にとっては思い出したくもない過去を無理やり引きずり出してつきつける、苦々しいものでしかないのだろう。
 それを知っているからこそ、彼は静かにその部屋をあとにし、隣の寝室へと続くドアをそっと開けた。
 彼女はまだ眠っていた。クイーンサイズのベッドの上で、ブランケットに埋もれるようにして身を縮めながら。
 その表情はとても穏やかと言えるものではない。苦悶に歪み、眦からは幾つもの雫が伝い落ちてはシーツを濡らしている。
 指先でそっと涙を拭ってやり、小さく名前を呼ぶ。呼応するように、彼女が大きく身を震わせて上体を起こした。かすれた声で、確認するように彼の名を口に乗せる。
 それを吸い取るかのように深く口づけると、強引に彼女の体を抱き寄せた。小柄な彼女は容易に彼の腕の中に囚われ、抗うことはない。
 常ならば、冗談めかしてその腕から逃れようとするだろう。否、こんなにあっさりと捕まること自体が有り得ない。
 けれど、今は違う。彼女は彼を絶対に拒まない。それどころか、そのぬくもりを欲するかのように強く縋りついてくる。
 纏わりつく、過去の悪夢から逃れたい一心で。
 はだけた胸元から滑らかな肌に手を這わせると、嗚咽にも似た悦楽を噛み殺した声が漏れる。
 甘い囁きなど必要はなく、繰り返し名を呼ぶだけ。二人の間には、「好き」も「愛している」も意味のない言葉だった。ただ、名を呼ぶ合い間に唯一彼が告げる言葉がある。
 ――俺は、どこにも行かない。
 その一言に、彼女が安堵することを知っていた。そうして言葉を与え、深く体を繋げることで、彼女の耳から激しい雨音を遠ざけてやる。
 そんなことくらいしかできないのだ。それほどに、彼女の背負う傷は大きい。十年ほどの年月が過ぎようとし、その傷の原因となったものを取り除いた今となっても、癒されることなく血と涙を流し続けるほどに。
 疲労と安堵で眠りについた彼女を腕の中に閉じ込めたまま、彼もまた眠る。
 翌朝にはきっと、いつも通りの太陽の如き笑顔で、彼女は彼を邪険に扱うだろう。鬱々しい雨など払いのけるほどの笑顔で。

 二人分の静かな寝息を、次第に弱まっていく夜半の雨音が優しく包み、やがて溶けるように消えていった。畳む

#番外編

禍つ月映え 清明き日影七夜月奇譚

「君をおいていきたくないんだ」
書き出しme.のお題/西城と少しだけ郁

「君をおいていきたくないんだ」
 突然目の前に現れた彼は、そう言って柔和な笑みを浮かべる。
 こんなところに、と続けながら。 

 彼は、かつて自分が想いを寄せた人だった。
 終わった恋だと思っていたのに、いざ彼と再会しそんな風に言われてしまうと、かつての想いが私の体中から溢れ出した。
 ゆっくりと一歩踏み出し、自らの手をその人に向かって伸ばす。
 すると、待ちきれないと言わんばかりに彼の手が私のそれを掴もうとした。
 が、私は慌てて手をひっこめた。
 得体の知れない違和感が、胸の内に影を落としている。
 何かが、違う。何かが、おかしい。
 その違和感の正体を探るために、私は自分の記憶を手繰る。

 彼は……、そう、彼は、私の高校時代の同級生。
 明るくて、調子者で、そして、とても優しい人。
 私は彼が好きだった。けれど、彼は誰からも好かれる存在で、私の一方的な片想いに過ぎなかった。
 告白することもないまま卒業し、それ以来一度も顔を合わせていない。
 同窓会にも彼は姿を現さなくて、イベント事が好きだったはずなのに来ないなんてね、などと友達とも言っていた。後から幹事の子にそれとなく訊いてみたら、連絡が取れなくなっていると言うので密かにがっかりした思い出がある。
 それを機会に、私はきっぱりと彼への未練を断ち切った。
 そうして職場の同僚として出逢った人とまた恋に落ちて……。

 そうだ。そうだった。
 私は今の恋人――広明と旅行に来ていたのだ。
 二泊三日の、ドライブ旅行。
 広明の好きな曲をかけて、海沿いの道を快適に飛ばす。内陸育ちの私には、それだけでも新鮮だった。
 お昼には宿泊先に着き、近くの名所を二人で回ることになっていた。
 なのに、何故?
 辺りを見回すと、何もない真っ暗な闇。
 いや、闇というのともまた違う気がした。
 暗いというよりも、黒い。
 どこまでもどこまでも、黒ペンキで塗りつぶしたように真っ黒だ。
 目の前にいる彼も、その黒に溶け込む黒いスーツを纏っている。
 色というものが、一切欠如しているかのような場所だった。
 わからない。
 ここはどこなの? 広明はどこに行ってしまったの?
「ねえ、おかしいわ。私、どうしちゃったの? 広明は? 私たち、ずっと一緒にいたはずなの」
「そうだね」
「貴方は? どうして貴方がここにいるの? ここは、どこなの?」
「……落ち着いて聞いてくれるかな。君はね、事故に遭ったんだよ」
「じ、こ……?」
 言われた瞬間に、全身を痛みが襲った。
 反射的に我が身を庇うように抱き締めると、ぬるりと濡れた感触。
 恐る恐る腕を解いて目を向けると、私の体は血に塗れていた。着ていた服は無残に破け、そこかしこから生々しい傷が覗いている。
「君の恋人の広明さんは、即死だった。けれど君は、まだ助かる。だから、迎えにきたんだ」
「広明が……死んだ?」
 声が、震える。体を苛む痛みなど一瞬で忘れ、代わりに訪れたのは氷点下にも思える寒さ。
 信じたくない。広明が死んでしまったなんて。
 ううん、きっと嘘だ。本当のはずがない。
 ずっと一緒にいようと誓ったのだ。広明は嘘が嫌いな真っ直ぐな人。そんな人が私をおいて死んでしまうはずがない。
「さあ、一緒に行こう。君はここにいてはいけない」
「……違う」
「このままここにいたら、『彼』が来てしまう」
「『彼』が、来る……?」
 彼の言う『彼』は――もしかしなくても、広明のこと?
 死んだ広明が、ここに来てしまう?
 ……やっぱり、おかしい。
 そもそも、どうして彼が私を助けに来るの?
 同じクラスではあったけれど、私と彼とはそんなに親しい間柄ではなかった。
 しかも、今では消息不明になっている彼が、いまさら元同級生を助けにやってくるなんて不自然すぎる。
「ほら、早く」
 急かすように彼が手を伸ばす。
 一歩、私は後ずさった。
「いや、行かない」
「心配しなくていい。すぐに戻れるから」
 安心させるように彼は微笑むけれど、私にはそれがどうしても恐ろしく思えた。
 彼についていってはいけない。
 ついていってしまえば、私は二度と広明には会えない。
 何の根拠もないのに、どうしてかそんな確信があった。
「大丈夫。俺を信じて。君だけでも、俺は救いたいんだ」
 言葉だけは優しい。けれど、彼の身に着けた黒いスーツは、まるで死を連想させるような不吉さだ。
 そうだ、きっと彼は死神だ。
 私の好きだった人の形をとって、私を惑わし、そうして連れて行こうとしているのだ。
 広明が死んだなんて、それも嘘。
 本当の広明は、先に助かって、私を待っていてくれるのだ。
 だから、彼は言ったのだ。
 早くしないと、広明が来てしまうと。
「……佳奈美」
 かすかな呼び声に、振り返る。
 そこにいたのは、広明だった。
「いけない! 早くこっちに!」
「いや! 広明!」
 捕まえられそうになるのをすんでのところでかわして、私は広明に向かって走り出した。
 大きく両手を広げて立つ広明の胸へと飛び込むと、きつくきつく抱き締められる。
「佳奈美、よかった」
「広明……。どこにも、行かないで……」
「もちろんだ。ずっとずっと、一緒にいるよ」
 この上ない幸福感に包まれる。
 体の痛みも、凍えるような寒さも、もう完全になくなっていた。
 これからきっと、それほど時間もかからないうちに私は目覚めるだろう。
 病院のベッドの上で。
 傍らにはきっと、心配そうな顔をした広明が、私の家族と一緒に待っていてくれるはず。
 そんな予想を胸に、私はゆっくりと闇に溶け込んでいった。

   ◇ ◇ ◇

「ダメやったん?」
「残念ながら。顔見知りだと上手くいくかなと思ったんだけど、かえって怪しまれちゃった」
「いや、多分、顔知らんでも彰ちゃん自身がもともと怪しいから」
「えー、郁さん、そういうこと言うー?」
 冗談めかした言葉は、慰めの代わりだろう。
 郁さんのこういう優しさに、いつも救われる。
「せめて、明るい方に行けるようにお祈りしてきぃな」
「……そうだね」
 短く答えると、意味をなさなくなった術具たちを片付け始める。
「助けたかったな……」
 ぽつりと呟くと、ポケットから煙草を取り出す。
 銜えた一本で、こぼれそうになった言葉に蓋をした。

 ――昔、好きだった人くらい。畳む

#番外編

七夜月奇譚

手首にくちづけ
2019年 Kissの日SS/ロレダーナ視点/後日談

 ずっとずっと片想いをしていたレナート様の正式な婚約者となって気づけば三か月。
 恒例のお茶会は続いているし、以前よりも互いの距離は近くなっている。
  なのに――。
「子ども扱いが変わらない気がする……」
 お茶会から帰った後の自室。かつての関係の進展を望む言葉の代わりに、現状に対する不満が零れ落ちた。
 いや、確かにレナート様との会話は以前よりもずっと甘くなったし、スキンシップも増えたとは思う。頬や額や髪にキスしてくれることもあるし、その度に心臓が跳ね上がるのは確かだ。
  けれど、
「唇には、してくださらないのかなぁ」
 ぽつりと呟いたあと、自分自身の言葉の大胆さに我に返った。かぁっと頬が火照っていくのがわかる。
  けれど、けれども。私がそんな風に思うのは自然なことだと思うのだ。
  想い合う恋人同士ならば――。
「こ、恋人同士……」
 熱くなった頬に、より一層熱がのぼった。今更だけれども、改めて言葉にすると恥ずかしすぎて幸せすぎて、ベッドの上でゴロゴロと転げまわってしまいそうになる。レナート様に相応しい淑女はそんなことはしないと知っているから、必死で我慢するけれども。
 そうして一通り悶えたあと、再びふりだしに戻ってため息が零れた。
「……やっぱり、まだ幼いって思われている部分があるのかなぁ」
 ちゃんと女性として見てもらえているのはわかっている。同時に、とても大切に扱われていることも。
 七歳の歳の差は歴然としてあって、私が必死で背伸びしようとしていることも、そんな私を私のままでいいと思ってくださっているのも理解はしているつもりだ。
  それでも、不安になる。レナート様にある日突然「やっぱり妹のようにしか思えない」なんて言われたりしないだろうかと。
 両想いになったはずなのに、以前よりもずっと後ろ向きな思考になっている自分に嫌気が差した。
 
  わからないからモヤモヤするのだ。
 一晩経って、結局私はそう結論づけた。わからなければレナート様に直接訊けばいい。
  そう決意して、今日もレナート様の待つバラのお庭へと向かう。
「ごきげんよう、レナート様」
「いらっしゃい、ロレダーナ」
 いつも通りの挨拶に、いつも通りの甘い笑み。
  以前と変わったことがあるとすれば、レナート様が当然のように私の腰に手を回し、テーブルまでエスコートしてくれるようになったことだろうか。その距離の近さになかなか慣れなくて、ついつい息を詰めてしまう。
「あ、あの、レナート様……」
「なんだい?」
 直接訊けばいいと思ったはずなのに、いざ目の前にすると言葉が出てこない。大体、「どうしてキスしてくれないんですか」だなんて、淑女として恥じらいがないにもほどがあるのではないだろうか。そんなことを訊いてしまえば、レナート様にはしたない女性だと思われたりしないだろうか。
  そんな考えが頭の中を巡ってしまい、何も訊けなくなってしまった。
「ロレダーナ?」
「あ、いえ、あの……!」
 顔を覗き込まれ、至近距離に天使のように整ったお顔が近づけられる。
  レナート様近いです近すぎますちょっとこの距離は無理です心臓が止まってしまいます!
 大混乱中の私に気づいたのか、レナート様のお顔が離れていった。そして、ふいっと顔が背けられる。
  どうしよう。レナート様に失礼な態度を取ってしまった。気を悪くされたんだ。
「あの、レナート様! 申し訳――」
「まったく君は……」
 謝ろうとした私の言葉に被さったレナート様の声は、震えていた。え? 震えている?
  どういうこと? と下げかけていた頭をもう一度上げてよくよく観察すると、レナート様は肩を震わせて笑いを必死に堪えているようだった。
「レナート様、あの……私、何かおかしなことをいたしましたか?」
「いや……。ロレダーナは相変わらず可愛いね」
 腰が砕けそうな甘い声。咲き乱れる赤バラよりも真っ赤になっている私は、もう全身が茹で上がりそうなまま固まってしまった。
  そんな私に構わず、レナート様は私の左手をとった。何をするんだろうと思う間もなく、その手首に柔らかなぬくもりが触れる。ほんの少しだけ濡れた感触。レナート様の艶やかな金の髪が腕をくすぐるのに、ぞくりと今までに感じたことのない感覚が背筋を駆けのぼった。
「レ、レナート、様……?」
 呼びかけると、レナート様からは常とは変わらない笑みが返った。その笑顔に、妙に安心して、知らず強張っていた体から力が抜ける。
「さて、喉が渇いたね。お茶にしようか」
 それまでのやりとりがなかったかのようなレナート様の誘いに、私は自然と首肯していた。
  いつもどおりの、和やかなお茶会が始まる。

 そうして私が、結局訊きたかったことを一つも訊けていないことに気づいたのは、お茶会を終えて自室に戻った後のこと――。

手首なら欲望【キスの場所で22のお題】( http://lomendil.maiougi.com/kiss-title.h... )畳む

#番外編

つぼみにくちづけ