No.12

人色50Title《月》25 無意味な力
響視点

 歪花。様のお題から。
 まがさや 章之壱 肆 逆賊 の05の後くらい。
 ほぼほぼ響の回想。
 響の本編には出てこない捻じ曲がった部分をクローズアップした奴。
 後半部分は昔本編にも載せてた。

 ――いいか、響。おまえの能力は希少なものだ。
 幼い頃から繰り返された言葉が、成人した今でも脳裏にこびりついている。
 ――今の乾坤(けんこん)四家には、月姫様に見合うような男子がいない。だから、これはチャンスなのだ。わかるな? おまえは自分の能力を磨き、月姫様に相応しい男となれ。
 今思えばずいぶんと無茶なことを望むものだと思いもする。だが、小学生にもならない響は父の言葉を素直に受け止め、律義に自分の能力を伸ばすための努力を重ねていた。
 ――月姫様に相応しい人間に……。
 その言葉を、半ば呪文のように繰り返しながら。
 しかし、その一方で、当時その『月姫様』――つまり嫦宮は不在だった。六条院宗家が総力を注ぎこんで探し回ってはいたのだが、嫦宮不在の期間は実に十年を越えようとしていた。十年も経てば、当然心身ともに成長する。中学生になった頃には、同世代の中で早熟だった響が、大きな疑問と反発を抱くのも当然の流れだった。
 何故、いもしない嫦宮のために自分は努力をしているのだろう。そもそも、本当に嫦宮などという存在がいるのだろうか? 宗家方の話すような、神のごとき存在が、本当に……。
 嫦宮に対する盲信と妄執が垣間見える父。そして一族の特殊性を理解すると同時に、嫦宮というまだ見ぬ存在に不信感が生まれた。
 それでも、表面上はそれを露わにすることもなく過ごしていたが、内心ではもう嫦宮などどうでもよい存在となっていた。
 そんな中、ようやく当代の嫦宮が見つかったと父から聞かされた。その盛大なお披露目が近々行われると知り、響は複雑な心境に陥った。
 本当に嫦宮は存在したのか、という驚き。
 今更現れたと言われても、という苛立ち。
 そして、そこまで必死になる嫦宮というものが如何程のものなのか、という好奇心。
 相変わらず嫦宮を崇め奉る父から、響もそのお披露目の会に出なさいと言われたときには、面倒臭さよりも好奇心が勝った。

 当代嫦宮のお披露目は、古都にある六条院宗家本邸で行われた。本邸を訪れるのは初めてで、ただただその規模に響は圧倒されながら、宗家のお偉方に父とともに挨拶をして回った。
 そうしていよいよ当代の嫦宮が登場する段になる。百人以上も入れる広い大座敷で、綺麗に並んで正座する一族の者たち。その末席で、響も大人たちに倣って正座し、頭を垂れていた。
 静かに障子の開く音。衣擦れ。ふわりと漂う極上品(ごくじょうぼん)の伽羅の香り。
 自ずと緊張が高まる中、上段の間に座する気配が伝わる。宗主の声掛けと共に周りと合わせて顔を上げた瞬間、響は息を呑んだ。
 白衣(びゃくえ)に緋袴、その上に菊重(きくがさね)千早(ちはや)をまとい、腰よりも長い射干玉(ぬばたま)の髪を惜しげもなく背に流すのは、自分とさほど歳の変わらない少女。だが、その少女の放つ空気は、とても同じ世界に住む人のものとは思えないほど神々しい。どこを見つめているのかわからない深淵のような黒耀の瞳が、更に神秘性を高めていた。
 美しい、などという言葉では足りない。人にして人に非ず。父があれほど心酔する理由が、初めてわかった。
 嫦宮は――生き神は、確かに存在する。

 この瞬間から、響は自分の手にした力全てを嫦宮に捧げようと決めた。誰の命令でもなく、自分自身の意思を以て。
 かつて父が飽きるほど繰り返した言葉は、自らの想いへと生まれ変わり、響の存在意義となったのだった。
 六年前の、あの時までは――。



「兄貴、帰らねぇの?」
 訝かる声に、響は思考の淵から浮上した。声の方へと顔を向ければ、弟が立ち上がろうとしている体勢のままだ。
 六条院家別邸の座敷の一間。開け放たれた障子の向こうからは、蝉が忙しなく鳴き続けていた。
 数十分前まで十人以上もの人数が集っていた場所には、すでに響、亨、帆香の三人だけとなっている。ほんの少し前までこの場に残っていた郁と尚志は、呼びに戻った輝行とともに奥座敷へと移動していた。
 もう必要な話は済んでいる。帰っても構わないはずだ。しかし、それでも響はなかなか腰を上げる気分にはなれなかった。
 どうして宗家の人間は横木輝行に肩入れするのだろうか。それが、納得できない。その想いがずっと頭の片隅から離れなかったからだ。
「兄貴?」
 何も答えない響に、亨の声が気遣わしげな色を強めた。それに響は落ち着きはらって笑みを作る。
「先に帰っていて構わないよ。俺は少し、訊きたいことがあるし」
 柔らかな声音だったものの、どこか突き放すような口調になってしまったのは、緊張があったからだろうか。常との微妙な対応の違いに、亨がひっそりと溜め息を洩らしたことに気づいた。呆れているのかもしれない。弟は自分とは違い、嫦宮や宗家に対してさほど思い入れがないようだから。
「亨」
 すでに濡れ縁まで出ていた帆香が控え目に促した。帆香も響の嫦宮崇拝を知っている。きっと、今も自分の気持ちを慮ってのことなのだと響にはわかった。
 亨が帆香に応え、先に帰るからと寄越す。気をつけてと返すと、二人は仲良く揃ってその場を後にした。
 人の声の無くなると、蝉時雨が耳に痛い。
 あの日も、こんな風に蝉の音が喧しかった。



 六年前の七月七日。
 それは当代嫦宮である郁が、十六の誕生日を迎える日だった。
 嫦宮が十六歳になる日というのは、特別な意味を持つ日でもある。とりわけ、響にとってはその日は重要であった。
 それは、『姫紲(きせつ)』が選ばれる日。父の言った、『月姫様に見合う者』が決められる日だった。
 この日が、響は待ち遠しくて仕方がなかった。姫紲は代々乾坤四家から選ばれることになっていたが、今の四家には年齢的に当代と釣り合う男子がいない。唯一の例外が吉良家の長男である尚志であったが、彼は吉良家血縁ならば本来受け継ぐはずである風精術使(ふうせいじゅつし)の力を微塵も有していなかった。
 姫紲は嫦宮の配偶者であると同時に、最も身近に仕える守護者でもある。何の能力も持たない者に務まる役目ではなく、当代の姫紲は例外的に他家から選ばれるのではないかともっぱらの噂だった。
 それが本当ならば、響が選ばれる可能性は限りなく高い。乾坤四家に次ぐ位置にあるのは、常磐家と守屋家。常磐家には累がいたが、彼はそれほど体が丈夫な方ではなかった。そうなれば、亨か響という選択肢しか残っておらず、当時それほど門の能力を開花させていなかった亨よりは、熱心に修行を積み着実に紋の戻士として成長していた響に決まることは火を見るよりも明らかだった。
 そんな夢を胸に抱きながら、一族の集いに響は向かった。父も長年の想いが実るかもしれない期待に、どこか落ち着かない様子だった。
 お披露目の時と同じ大座敷。外では蝉の声が、そして内には高鳴る鼓動が間断なく続いていた。
 末席に座し、当代の現れる瞬間を待つ。宗家身内の合図に全員が頭を垂れると、静かに障子が開いた。いつも通りの嫦宮の登場だ。そう思った。
 だが、本来次に声を発するはずの宗主の代わりに、凛とした少女の声で「面を上げよ」と聞こえた瞬間、ざわめきが拡がった。
 おずおずと顔を上げる一族の者たち。響も他の者たちと大差ない様子で上段の間に目を向けた。
 そこにいたのは、嫦宮の御装束(みしょうぞく)をまとった、ショートカットの快活そうな少女。神々しさも美しさも相変わらずで、それが当代嫦宮本人であることに間違いはない。けれど、その瞳に宿る力強い光が、以前とは別人かと思わせるほどだった。
「つ、月姫様……、その御髪(おぐし)は……」
「暑いから切った。別に問題はないだろう? それから、姫紲のことだが手短に言おう。吉良家の長子である尚志に決まった」
 何の前置きもなく、郁の口からさらりと滑り出た言葉が、響の思考を真っ白にする。しばらく放心の後、その白を塗り潰す勢いで疑問が溢れ出した。
 何故、尚志なのか。何の力もないのに。強いて挙げれば、彼にあるのは家筋だけ。
 自分は嫦宮のために力を身につけてきたのに。他の誰もが、自分ならば相応しいと言っている声を何度も聞いてきたのに。
 何の為に、今まで努力をしてきたのだろう。これでは、まったく無意味ではないか。
 次々に不満と落胆と失望が押し寄せ、響の積年の想いが踏み荒らされていく。父親が何か発したようにも思えたが、まったく耳に入ってこなかった。
「異論は認めない。これは、長老方も納得した決定だ。以上」
 そんな状況でも、郁の声だけは妙に頭に響く。項垂れていた顔を上げると、これ以上話すことはないと言わんばかりに、郁が颯爽と上段の間から降りていくところだった。そうしてふと障子の一歩手前で立ち止まり、振り返る。視線を向けたのは、ちょうど座敷の対角線上だ。
 そこにいたのは、響と同じ年の容貌麗しい少年――先ほど姫紲に任じられたばかりの吉良尚志。尚志がその視線を受け取ると、郁は無言で座敷を後にし、宗家の家人もそれに続いた。それに倣うように、尚志もその場を辞する。
 後にはただ、状況を飲み込み切れずにいる一族たちと、存在意義を見失った響が残されていた。



 不意に、床板を踏みしめる音で我に返った。
「あら、お帰りにならないのですか?」
 濡れ縁から鈴を転がすような可憐な声が零れる。そこに立っていたのは、両手で何かを抱え持っている茉莉だ。多分、その手に持つものは郁と尚志に指示されて持ってきたものだろう。向かう先はもちろん、その二人と基、織月、そして横木輝行が待つであろう奥座敷だ。
「茉莉さん、尚志さんに伝えて頂けませんか? あとでお時間を頂けないかと」
「……それは、結構ですけど」
 少し言い淀んでから、茉莉は微かに苦笑を浮かべて続けた。
「何を訊いたところで、兄様は結局重要なことは教えて下さらないと思いますわよ? もちろん、知る必要があると判断されたならば別ですが」
「では、茉莉さんは尚志さんの意図もわからないままに従っていると?」
「わからないわけではありません。一応、これでもあの人の妹を二十年近くやっているのですから。けれど、兄様は私などでは考えも及ばないくらい、先のことを見通しておられます。だからこそ姉様も絶対の信頼を置かれているわけですし、私如きが『こういう意図があるであろう』と推測したところで、それは兄様のお考えのほんの一部分でしかないのです。そしてそれは、私に限ったことではないと思っております」
 言外に、貴方にも理解が及ばないだろうと告げられ、響は膝の上に置いていた両の手を握り締めた
 しかし同時に、茉莉の言い分が正しいことを、痛いくらいに知っている。自分ではどう足掻いても敵わないほど、尚志は優れている。たとえ精術使としての能力は一切持たなくても、その頭脳が補って余りあるほどなのだ。そんな事実など知りたくもなかったのに。
「それに、私は兄様の意図を全て理解はできなくても、兄様のなさることに間違いはないと信じておりますから」
「……そう、ですね。確かに尚志さんならば、宗家や郁様に益のないことなどされないでしょう。しかし――」
 そこまで言って、響は言葉を途切れさせる。次の一言を言うには、相当の覚悟が必要だった。いくら年下といえども、響にとって茉莉は宗家中枢の人間に他ならない。大きく息を吸い込み、思いきるように口を開いた。
「しかし、織月にとってはどうなのでしょうか? 織月は今、かなり不安定な状態です。宗家の方々からはそうは見えなくても、かなり無理をしているのです。そんな状況では、織月に負担を強いるようなことになるのではないですか?」
 表面的には感情を抑えはしたけれど、内心では言葉よりももっと激しい焦燥感が襲っていた。その焦燥感の正体が何なのか、響は理解をしている。そして、そんな気持ちを持つことが馬鹿馬鹿しいことだと言うことも。
 それでも、その感情を消し去ることはどうしてもできなかった。そんな響の心の内の葛藤など全く気付かぬまま、茉莉はふわりとした笑みを浮かべた。
「本当に織月さんが大切なのですね」
 率直過ぎる茉莉の感想に響は気恥ずかしい思いを感じたものの、表には出さずに曖昧な表情を作るのみ。茉莉がそれをどうとったのはわからなかったが、視線を濡れ縁の遠く先へと向け直したことに安堵した。
「兄様には伝えておきます。ただ、今のお話を終えられるのにどの程度のお時間がかかるのかはわからないですが……」
「大丈夫です。お願いします」
「わかりました。それでは、ここでお待ちになっていて下さい」
「はい」
 茉莉がゆるりとその場から離れていく。
 微かな足音が遠ざかるに従い、辺りが静寂に占められていった。つい数分前まで騒がし鳴き声を響かせていた蝉達も、示し合わせたかのように黙りこくっている。
「よりによって……」
 響の呟きが静かな空気を震わせ、波紋となって拡がった。それに触発されたのか、一斉に夏の風物詩の大合唱が始まる。続く響の言葉は蝉時雨にかき消され、溶け去った。
 響はただ一人座敷で佇み、一族の最も無能にして有能な参謀役を待ち続けたのだった。畳む

#番外編

禍つ月映え 清明き日影