No.20


テーマ楽曲:涙/HY

 彼は、いつも決まった時にふらりと現れ、
 ただ、流れる歌声に、静かに耳を傾けていた。

 チリン、と、小さく軽やかな音が、静かに流れる音楽の合い間に聞こえた。
 私は入り口のドアに、ささやかな微笑みとともに目線を向ける。
「いらっしゃいませ」
 彼は軽く会釈をし、慣れたようにカウンター席の右から三番目に座る。
 それもいつものことだった。
 その位置は、決して私と完全に向かい合わせにはならない。
 尚且つ、グランドピアノ脇で歌う、私の店の看板シンガーの声が、一番聞き取りやすい位置。
 この店に常連として来る者たちにとって、そこは常に『予約席』状態。
 その場所を空けておくことが、暗黙の了解のようになっていた。
「……いつもの」
「はい」
 短く告げる彼に、私も短く答える。
 今目の前にいる彼は必要以上に話しはしない。
 だから私も、滅多に話しかけはしない。
「……珍しいな」
「え?」
 ポツリと呟かれた言葉に、そちらの方が珍しいと思って言葉が繋がらなかった。
 彼の視線は、少しだけ私のほうを向いている。
「何が、珍しいんですか?」
「あんなポップな曲歌ってる」
「あぁ」
 彼の言っている意味を理解して、私はふいとピアノの側に佇む彼女に目を向けた。
 いつもはほとんどJポップなど歌わない彼女が、今日はそれを歌っているのだ。
「あちらのテーブルのお客様からのリクエストですよ。女性の方がお誕生日らしくてね、そのお祝いにと……」
 目線だけでテーブル席を示すと、彼は納得したような表情を浮かべ、
「誕生日、か。たまにはこういうのもいいな」
 そう、わずかに笑みらしきものを見せた。

 私は彼を随分前から知っている。
 そして、今の彼が、こんな風な表情を見せることが、ごく稀であることも。
(少しは、癒えたのか?)
 心の中で問い掛けながら、私は視線を巡らせる。
 辿り着く先は、メニューなどが貼られたコルクボードの片隅。
 そこにあるのは、ポップなイラストの絵葉書一枚。
 どこか店の雰囲気にはそぐわないソレは、もう何年も剥がされることなくそこにある。
(……『ゆり』)
 流れる歌声に誘われるように、私の記憶は六年半前へと引き戻された。

 九月。
 日本の暦の上ではもうとっくに秋だというのに、日中はいまだ日差しが強く、暑さが緩む気配も見えない。
 季節柄、立て続けに上陸する台風が各地で猛威を揮っているが、その所為で幾らか涼を得られるかと言えば、そうでもなかった。
 鬱々と続く雨の所為で、今日は客足も遠のき、店内は私とカウンター席に客が一人、そして看板シンガーのナオの三人だけだった。
 ナオも、今は私と客の好意によって、客と同じくしてカウンター席に座って食事をとっている。
 かわりに店内に流れているのは、小さなテレビから流れるニュースの、ささやかな音だった。早々と店は『Close』の札を掲げていたのだ。
「そうそう、ゆりからエアメールが届いてたよ」
 そう言って屈託のない笑みを浮かべながら、スーツ姿の恒(ひさし)は私の目の前に一枚の絵葉書を差し出した。
「え!? ……アイツっ、俺には何の連絡も寄越さないくせにっ」
「匠(たくみ)さんより、俺に対する愛の方が深いってことだな」
「ひぃさぁしぃ、いくら本当のことでも、言ってはならんことを……」
 恨みがましい視線を送る私に、恒は声をあげて楽しそうに笑う。
 そんな私たちを見て、ナオもくすくすと笑っていた。
 ゆりは、私の三つ下の妹だ。
 明るく奔放で、冒険心が強く、突然一人旅に出ることもしばしば。『ゆり』なんておしとやかそうに思える名前とは、まったく正反対なじゃじゃ馬娘だった。
 そして恒は、私の店の常連客であり、ゆりとは二年ほど付き合っている恋人同士。
 最初ゆりに彼を紹介された時は、お互いに、客と店のマスターとして知っていたので、驚いたものだった。
 しかし、それ以来、以前よりも足繁く店に通ってくれるようになり、個人的にも友人と呼べるような存在になっていた。
 奔放なゆりに、自由気儘な恒。
 よく似たところを持つ二人は、ベタベタと甘えあうだけの恋人同士でなく、互いを尊重しあえる絶妙な距離を保って付き合っているように思えた。
 独り身の私としてはそんな二人が羨ましくもあり、けれど幸せそうなゆりを見るたびに私まで幸せな気分にさせられていた。
 だから、二人がこのまま上手くいって、結婚してくれれば兄として安心できるとも思っていた。
「ははは、冗談だって。単純に匠さんの住所をメモし忘れたらしいよ」
「……おまえのはきっちりメモしてるのにな」
「匠さん、ほらほら、ちゃんとココに匠さんへのメッセージもあるから」
 完璧に拗ねる私に、恒は苦笑しつつ宥めに入る。
 もう一度差し出された絵葉書を私は手に取った。
 『お兄ちゃんへ ゆりは元気だよん。帰ったらまたご飯作ってね~』
 短い、三行だけのメッセージ。
 それがいかにもゆりらしくて、思わず笑みが零れる。
「てか、『ご飯作ってね』って、俺は家政婦か?」
「仕方ないでしょ、ゆりは匠さんのご飯が大好物だから」
 言葉の割に私が嬉しそうにしているのをわかっていて、恒が続ける。更にそこに、「俺も大好物だし」と付け加えるものだから、ますます私は嬉しくなってしまうのだ。
「私もマスターの作るご飯、大好きですよ」
「おいおい、ナオちゃんまで」
「匠さんの飯、美味いもんなー、ナオさん」
「はい!」
 二人して持ち上げるのに、私は照れ臭くなりながらも、顔がにやけてしまう。
 仕方ないから、ゆりが帰ってきたら、その日は店を閉めて好きなものを作ってやろうと画策するのだった。
「で、今回はいつ帰ってくるんだっけ?」
「えっと、十五日には帰国するって言ってたかな? 今日、ボストンからロスに向かって、二日過ごして、その後……」
 恒には旅行の日程を詳しく教えていたらしい。
 何故私には知らせてないのか、理由は簡単にわかった。
 知らせても、どうせ私はすぐに忘れてしまうと思われているのだ。そして、それはまったく間違っていないのだから、何も言えない。
「ゆりさんって、いつも思いますけど行動力ありますよね。私、一人で海外旅行なんて、さすがに怖いです」
「あー、確かにナオさんだったら危なっかしくてしょうがないなぁ」
「あ、どういう意味ですか? 恒さん!」
 歌っている時のナオは大人びて落ち着いて見えるのだが、こうやって話していると、妙に可愛らしい。
 私からしたら、もう一人妹がいるような気分だった。
 いや、むしろ私だけでなく、恒やゆりからも、妹のように可愛がられていた。
 特にゆりは、休みの日にナオと二人で買い物に出かけたり、互いの家に泊まりに行ったりと、本当に姉妹のように仲良くしていたのだ。
「まあまあ、ナオちゃん。で、恒はいつが暇なんだ?」
「暇、か……。今はちょっと手が放せないからなー」
「ああ、プロジェクトの責任者だっけ?」
 一月ほど前に、恒は会社の社運を賭けたプロジェクトの責任者に任命され、毎日残業続きの生活を送っているらしい。それまではほぼ毎日来店してくれていたのに、最近はめっきり少なくなっていた。
 今日は久しぶりに早く終えられたのだと言う。
「ゆりが帰ってきた次の日曜くらい、休みがもらえるといいんだけど……」
「休めなくても、せめて残業せずに切り上げてこいよ。最近疲れ溜まってるだろ? 無理して倒れたりしたら、プロジェクトどころじゃなくなるだろうが」
「そうですよ。恒さん、少し痩せたんじゃないですか?」
 私とナオに揃って心配され、恒は観念したように頷いた。
「そうだな……。匠さんの飯、久しぶりにがっつり食べたいし」
「よし。んじゃ特製の滋養強壮ばっちりなメニューにしてやる」
「山盛りでよろしく。そしたらその勢いでプロジェクト成功して、昇進するから」
「お、デカイこと言ったな?」
「プロジェクト成功しても、昇進しなかったら罰ゲームですよー」
「罰ゲームー? ナオさん、それはないでしょー」
 顔を見合わせ、声を上げて三人で笑い合う。
 と、その時。
 不自然に割り込んできたレポーターの声が、耳についた。
 自然と三つの視線がテレビに集中する。
 何やら緊急の事件があり、速報が入ったようだった。
 画面に映し出されていたのは、炎上するビル。レポーターの言葉は、即座に理解するのが困難だった。
 簡単に言えば、『旅客機』が『ビル』に『激突』した、のだった。
「な、んですか、これ……」
 呆然と、ナオが呟く。
 恒も、食い入るように、画面を見つめたまま、静止している。
 尚も続くその臨時ニュースに、それまで盛り上がっていた空気は、一気に冷却されてしまった。
「え、これ、事故?」
「いや、事故でこういうのは……、ありえるのか?」
「あの、全然、わけわかんないんですけど……」
 ようやく出てきた言葉たちは、まったく目の前に映し出されている状況を理解できているものではなかった。
 何よりまず、詳しい情報自体が、ニュースの中から発せられていない。
 私たちが理解できたのは、『ニューヨーク』、『貿易センタービル』、『旅客機』。そんな断片的な名詞ばかり。
 場の空気が冷えきってしまった状態の中、新たな情報が流れるまでと、どこか神妙な面持ちで私たちは画面を見つめていた。

 どれほどそうしていたのだろう。
 待った甲斐があったと、言ってしまっていいのだろうか。
 いや、甲斐など、なかった。あったとすれば、それは、ただただ辛いばかりの、悪夢の始まりだった。
『あっ! 今、二機目の飛行機が突入したように見えましたが!?』
 そんな声とともに、飛行機が高層ビルへと激突する映像が、流れた。
 入り乱れる情報の中、ただの事故ではないことだけが私たちにはわかってきた。
「……マスター」
 しんとした店内に不安そうなナオの呟きが響く。俯いたその肩が、小刻みに震えていた。
「ナオちゃん?」
「……ゆりさん、大丈夫だよね?」
 確認するような言葉は、今にも消え入りそうなものだった。それとともに、一気に私の胸の内に、不安が押し寄せる。
 そう。
 ゆりは今、この悲惨な事件の起こっている、アメリカにいるのだ。
「なっ、何言ってんだよ、ナオちゃん! ゆりはね、めちゃめちゃ悪運強いんだから! なぁ、恒!」
「そ……うだ、ゆりは確かに悪運が強い! あいつはいつも、『私の乗った飛行機だけは落ちないから大丈夫よ』って言ってたし!」
 後から後から湧きあがる不安を、必死に明るさで打ち消そうとした。
 恒も同じだったらしく、泣きそうなナオを二人で必死に盛り上げた。
 それは、端から見たら、ひどく滑稽に映ったかもしれない。
 何故なら、私と恒の表情は、ナオに負けず劣らず、泣き出しそうなものだったから。

 そして、その翌日。
 眠れぬ夜を過ごした私に、朝一番に電話が入った。
 恒、からだった。
 内容は、短い一言に、集約されていた。

『ゆりが、乗ってた……』

 視線を、絵葉書からグランドピアノの側へと移す。
 シンプルな白いワンピースを纏ったナオは、今日も美しい歌声を響かせている。
 事件直後は、ショックの為に店に出てこられなくなっていたナオだが、それでも辞めずに今も続けてくれていた。
 今度は、ゆるりと視線を近場に戻す。
 目の前に座る恒は、あの頃よりも更に痩せた。
 それでも、職場では毅然とした態度で仕事をこなし、あの忌まわしい日に宣言した通りにプロジェクトを成功させ、昇進もしたらしい。
 ただ、口数は減り、私も以前のような軽口を叩けなくなった。
 私と恒とナオ、そしてゆりと、賑やかに笑い合っていた頃が幻のように思える。
 私の視線に気付いたのか、それとも偶然か、恒が徐に立ち上がり、手洗いへと向かっていった。
 知らず私の口から、溜め息が零れる。
「マスター」
 声に驚いて目線を上げると、歌い終えたナオが、カウンターの側までやってきていた。
「どうしたの? ナオちゃん」
「今日、何の日か、覚えてますか?」
「あぁ、当然だよ」
 今日は、ゆりの誕生日だった。
 そして、ふと気付く。ナオが着ている白いワンピースが、ゆりが譲った物だったことに。
「恒さんが席に戻ってきたら、一曲だけ、私の歌いたい歌を歌ってもいいですか?」
「勿論」
「ありがとう」
 うっすらと微笑んで、ナオはピアノの側へと戻り、ピアニストへと要望を伝えているようだった。
 タイミングよく、恒が席へと戻ってくる。
 程なくピアノの音色が聞こえ始め、ナオの澄んだ声が店内に広がった。
 グラスを傾けていた恒の、手が止まる。
 ゆっくりと、グラスがカウンターに戻されるのと同時進行で、恒の顔が俯いていった。グラスを置いた右手が、そのまま顔を覆うように持ち上げられる。
「……どうかしましたか?」
 恒の様子に、今では少し慣れてしまった他人行儀な言葉遣いで、遠慮がちに声を掛けた。
 具合でも悪くなったのかと思ったのだが、しかし、そうではなかった。
「匠さん」
 いつの間にか呼ばれなくなっていた名前を、何年か振りに呼ばれた。
「……ゆりの、好きだった歌だ」
「恒……」
 ナオが歌っていた歌は、私も聴き覚えがあった。
 七年前に流行っていた歌。ゆりが気に入って、よく口ずさんでいた、少し切ないメロディーラインのラブソング。
 ゆりの、恒への想いがこもっているとも言える――。
(ナオちゃん)
 ゆりの誕生日。
 ゆりの着ていたワンピース。
 ゆりの好きだった歌。

 ナオは、ゆりと恒の為に、歌っていた。

 私は、ナオがゆりに憧れていたことを知っていた。
 そして、もう一つ知っていたのは。

 ナオの、恒への、想い。
 ナオはずっと、恒に淡い想いを抱いていたのだ。
 けれど、二人の仲を裂くようなことは絶対にしなかった。
 『大好きな二人がずっと幸せでいてくれるのが嬉しいんです』と、笑ってさえいた。
 あの日まで、ずっと。
 そして、ゆりがいなくなった今でも、その想いは一度たりとて口にしていない。
 もしかしたら、この先もずっと口にしないかもしれない。
 ただ、今。
 ゆりの好きだった歌には、ナオの想いものせられているように思えた。

 一緒にいたい。
 笑っていて欲しい。

 そんな想い。
 笑顔と明るさを失い、悲しみと憎しみを抱えた恒の傷が、少しでも癒えて欲しいという、ひたむきな想い。
「恒……」
「……ゴメン、匠さん、俺……」
「恒、もう、いいだろう?」
 何が『もういい』のか、自分でもよくわからなかった。
 ただ私には、ずっと恒が自ら重い鎖に繋がれ、ぶつけようもない怒りと憎しみを抑えつけようとしているように思えて仕方がなかった。

 理不尽な、ゆりの死。
 蓄積されていく、憎悪。

 私もナオも恒も、誰もがそれらを抱え、うまく笑えない日々を過ごした。
 けれど今、ナオは真っ直ぐに前を向いて立って、歌い続けている。
 そして、未だに悪夢から抜け出せずにいる恒を、少しでも癒そうとしている。
 その想いに、私は気付いてやって欲しかった。
「ナオさんは、強いな……」
 ポツリと、零れる言葉。
 同時に。
 ポトリと、零れた涙。
 顔を覆った指の隙間から、幾筋もの雫が流れていた。
 あの日以来初めて見る、恒の涙だった。
「そうだな。俺たちも、見習わないと、な」
「……あぁ」
 今まで封じ込めてきた想いの分だけ、恒は涙を流し続けた。
(泣けるだけ、泣けばいい)
 そうして、怒りや憎しみを少しでも浄化して。
 いつか、笑うことが出来ればいい。

 また、いつか、ゆりがいた頃のように。
 みんなで、笑い合って、暮らせるように――。畳む

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