2023年11月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

放課後サイド バイ サイド
現パロ/レオン視点/レオンとセラ

 生徒会の仕事を終え、職員室へと書類を提出しにいったその帰り。ふと思い立って一年の教室のある階を通って見ることにした。別に、彼女がいるとは思っていない。もう授業が終わってかなりの時間が経っているのだ。いるはずがないのだが、何となく普段彼女が過ごしている空間を歩いてみたくなった。ただそれだけの話。
 彼女のクラスは一組だったはず。そんなことを思い出しながら何気なく教室内に視線を向ける。と、西陽の差し込む窓際の席に、見慣れた緋い髪を見つけて思わず足を止めた。
 放課後の教室。他には誰もいないその場所で、一つ年下の少女は机に突っ伏して微睡んでいる。誰か――例えば幼なじみのアルヴィンだとか――を待っていて、待ちくたびれてしまったのだろうか? そういえば、あの男は放課後になるや否やクラウスを捕まえて、さっさと下校してしまった。きっと繁華街にでも出て、好みのナンパにでも勤しんでいるのだろう。クラウスがいれば成功率が上がるなどとふざけたことをぬかしていたのだから。
 そんなことよりも、問題はこちらの少女だ。
 いくら暖かい季節になってきたとはいえ、夕方になれば冷え込んでくる。このままでは風邪を引いてしまうかもしれない。
 ――起こすしかないか。
 仕方なく、彼女の方に向かって歩き出す。
「セラ……」
 控えめに声を掛けるが、熟睡しているのか何の反応もない。
 改めて見ると、滑らかに弧を描く頬の白さと寝息を洩らす艶めいた赤い唇に、見てはいけないものを見た気分にさせられた。
 鼓動が大きくどくんと鳴る。触れてみたい、と頭の中に浮かんだ自分の欲望を、慌ててかき消した。
「セラ!」
 焦るように彼女の肩を揺すり、先ほどよりも大きな声で呼びかける。さすがにそこまでされると目が覚めた彼女は、驚いたように体を震わせて跳ね起きた。
「レ、レオンさん?」
「こんなところで寝ていたら、風邪を引くぞ」
「……あ、すみません。ありがとうございます」
 恥ずかしそうに頬を赤らめながら謝罪と礼を寄越す彼女に、気にするなと返すのが精一杯だった。
「って、あれ? もうこんな時間ですか?」
「ああ。アルヴィンでも待っていたのか? アイツなら授業が終わって早々に意気揚々と帰っていったんだが」
「あ、いえ。レオンさんを待っていたんです。この間お借りした本を返そうと思ってて。生徒会室覗いたらお仕事忙しそうだったんで、邪魔したら悪いと思ってここで待ってたらんですけど、陽射しが気持ちよくってついつい……」
「気にせず声を掛けてくれれば良かったのに」
 気遣い屋な彼女らしい選択だが、こちらとしてはそんな遠慮はしないでほしかった。きっと相手がアルヴィンならば、彼女は気にすることなく声を掛けただろうに。彼女に悪気はないとわかっていても、そうやって距離を置かれることが悔しかった。
「あ、でもちゃんと確認すればよかったですね」
「確認?」
「私がお手伝いできる仕事だったら、一緒にやった方が早かったかなって。その時は声掛けたらご迷惑かもって考えしか思い浮かびませんでした」
 気が回らなくて駄目ですね、と反省しつつ苦笑いする彼女に、自然と頬が緩む。
 どんな場合でも反省点を見つけてそれに前向きに対処しようとするところは、彼女の美点の一つだろう。
「セラは真面目だな」
「レオンさんに言われたくないですよ。ところで、もうお仕事終わったんですか?」
「ああ。これから生徒会室に戻るところだった」
「生徒会室? ……何で、この階通ってるんです?」
 彼女から指摘をされて、うっかり本当のことを答えてしまっていた。職員室は一階、生徒会室は三階、そして、この一年の教室のあるフロアは二階なのだ。通りすがりというには不自然過ぎる。
「あ、いや……」
「ああ、もしかして見回りですか? 私みたいにうっかり居眠りして下校しそびれてる生徒がいたら困りますもんね」
「……そう、だな」
 言い訳をする間もなく、勝手に良いように解釈してくれて助かった。日頃の行いのおかげだろう。
「じゃあ、気をつけて帰れよ」
「はい。レオンさんもお気をつけて」
 名残惜しいと思いながらも、そう告げて生徒会室に戻るべく教室を出た。
 本心としては、家の方向も同じなのだし一緒に帰ろうと言いたいところ。けれど、生徒会室に戻るまでの間待たせるのも申し訳ないし、何より誘うことで自分の気持ちがバレてしまうのではないかと思うと怖くてできなかった。
 せっかく先輩後輩として良い関係を築けているのだ。それを壊してしまうような真似はしたくない。
 生徒会室に戻り、自分の鞄を手にする。はぁと自分の情けなさにため息をつきながら、戸締りを確認して生徒会室を後にした。
 やっぱり誘えばよかったなどと今更な後悔をしつつ、昇降口で靴を履き替える。そうして校舎を出ようとした瞬間、昇降口の扉のところに帰ったはずの彼女の姿を見つけた。
「セラ? 何か忘れものでもしたのか?」
「本を返すつもりだったって言ったじゃないですか。さっき渡すの忘れてたので、待ってたんです。せっかくなんで、一緒に帰りませんか?」
 何の気負いもない自然な口調で、彼女は俺が言いたくても言えなかった言葉を口にした。
 別に明日でもよかったはずなのに、わざわざ俺のために時間を割いてくれることに喜びがこみ上げる。
「そうだな。日も暮れてきたし、危ないからちゃんと家まで送ろうか」
「え、さすがにそこまでは大丈夫ですよ! 私なんか襲う物好きいませんし、そもそもそう簡単に襲われるほど鍛錬を怠ってはいません!」
 これは遠慮、というよりも自分の強さに対する自負が上回っているのだろう。確かに、剣道部で全国大会常連なのだからそう思うのも当然だろう。自信満々に言い切るその姿がまた可愛いのだが、無自覚というのは怖いなとしみじみ思う。
「セラが強いのはわかっているが、最近は物騒な事件も多いからな。俺が安心したいだけだから、素直に送られてくれないか?」
「でも、レオンさんの家の方が手前にあるのに……」
「それに、セラを暗い時間に一人で帰したとなると、うちの父にも君のお父さんにも叱られそうだし」
「ああー……」
 渋る様子の彼女に、ダメ押しとして出した『お父さん』の一言に、何とも複雑そうな声が返る。彼女がそんな声を出すのは無理もない。彼女のお父さんは、度が過ぎていると言っていいほど過保護で、よく彼女自身もうんざりした様子で愚痴っていたのだ。
「そう、ですね。ありがたく送っていただきます。あ、でも、うちに着いたらできるだけ速やかに退避してくださいね! くれぐれも、兄には見つからないように、速やかに!」
 俺が送るを了承してくれたが、すぐに思い出したように彼女は付け加える。その表情には鬼気迫るものがあった。
 そう。彼女に対して過保護なのは父親だけではないのだ。いや、過保護を通り越して過干渉としか言えない超絶シスコンの兄君がいるのである。俺も今までに何度睨まれたかわからない。
「……そうだな。俺もまだ命は惜しいし……」
 彼女の兄のことを思い出すだけで一気に気が重くなる。彼女も同じなのか、ほぼ同時に大きなため息をついた。思わず顔を見合わせ、互いの疲れ切った表情にぷっとふき出す。
「あはは、レオンさん、ひどいですよー。一応あんなでも私の兄なんですよ?」
「一応、セラさえ絡まなければいい人だとは思っているんだが? そういうセラだって、まるで危険物扱いしているじゃないか」
「……だって、完全に馬に蹴られてほしい人ですし」
「馬?」
 言葉の意味がよくわからなくて訊き返すと、慌てたように彼女は何でもないですと誤魔化した。
「さて、帰りましょうか」
「そうだな。道すがら、貸した本の感想を聴いてもいいか?」
「是非! めちゃくちゃ面白かったんで、感想語り合いたかったんですよー!」
 眩しいばかりの笑顔を向けられ、ほんの少し前まで胸を占めていた憂鬱な気分は綺麗に吹き飛ばされる。
 沈む夕陽が、彼女の白い頬をほのかに染めていた。
 彼女の家まであと三十分。その短い時間だけでも彼女を独り占めできる。
 ささやかだが至福のひとときだった。畳む

#現パロ

風にゆれる かなしの花

「目、つむって」
書き出しme.のお題/ソフィア視点

「目、つむって」
「断る」
 言葉の最後までしっかり聞くことなく答えると、その男は表面上だけはがっかりしたような表情をして見せた。
 この男の、こういうところが心底嫌いだ。上っ面だけで、中身の伴わない言葉や表情。
 初めて会った時から、この男が癇に障って仕方がない。
「何で? てか、もうちょっと考えてくれてもいいんじゃない?」
「考える時間が無駄だ。貴殿の提案など、ろくなことがない」
 いつまでもこの男の戯言に付き合わされるのは御免だ。できる限り早く逃げ出そうと席を立った。
 しかしこの男は、当たり前のようについてきては言葉を繋ぐ。
「ひっどいなー。そんなに俺って信用ないのー?」
「むしろ、貴殿の何を信用すればいいのかを訊きたいくらいだ」
 毎度のことながら、どれほど冷たくあしらってもこの男はへこたれない。根気強いと言えばいいのか、それとも馬鹿なのか。
 こんなことになるならば、もっと早く退室しておけばよかった。考え事に捕らわれていて、他の面々が退室していることに気づかないとは、一生の不覚と言ってもいいだろう。
「何を信用すればってさー……」
 ノブに手をかけ、やっと逃れられると思った瞬間、顔の横を青い袖が通り過ぎた。剣ダコのできた無骨な手が、目の前の扉を押さえつけている。
「何の真似――!」
「言っとくけど俺はソフィアだけは裏切らないよ?」
 怒りを滲ませて振り返ると、至近距離にシルバーグレイの瞳。銀糸の髪の間から覗くそれは、思いがけず真剣なものだった。
 と、思ったのも束の間、すぐにいつも通りのふざけた笑みで口元が歪んでいることに気づく。
 からかわれたのだ。ほんの一瞬でも、この男の言葉を信じそうになった自分の浅はかさが恨めしい。
「……だから貴殿は信用ならんのだ」
 乱暴に扉を押さえる腕を払いのけると、振り返りもせず私は会議室を後にした。

 金輪際、あの男の言葉を鵜呑みにしないと、心に誓いながら。畳む

#番外編

夢のあとさきそめし朝

時初めの鐘に
2016年大晦日年越しSS/キース視点

 今年も、時忘れの鐘が鳴る。
 ここ数年一人で聴いていたこの音を、今年はサクヤと一緒に聴くことになるなどとは思いもしなかった。
「ねえ、キース。この鐘って何回鳴るの?」
 この国の風習に疎いサクヤは、大聖堂の尖塔を見つめながら訊ねる。外はひらひらと淡雪が舞っているというのに、一向に気にしていないようだった。風邪を引かないように早いうちに窓際から引き剥がしたいところだ。
「年の終わりを知らせる鐘、年が変わった瞬間、そして新年を祝福する鐘の三回だ」
 年の終わりを知らせる時忘れの鐘。年が変わったことを知らせる時告げの鐘。そして新年を祝福する時初めの鐘。時告げはそのまま時報の意味しかないが、時忘れと時初めにはちゃんと意味がある。
 時忘れはその年一年の悪いことを全て忘れるため。
 時初めは新たな年を新たな身で始めるため。
 因みにこの国では年が変わった瞬間に全ての人間が年を取るという考え方だ。以前サクヤに「誕生日いつ? お祝いしたいんだけど」と言われて、そんな風習があるのかと驚いた記憶がある。そして年の変わった時に祝うものだと教えると、逆に驚かれたのだ。
 それでも、サクヤは生まれた日を知っているなら教えてほしいとなおも訊いてきた。『大切な人の生まれた日は、大切な日でしょ?』と当たり前のように屈託のない笑みを向けて。
 その無邪気さがどれほど罪なのか、きっと彼女は気づいていない。
「それよりサクヤ、そろそろ窓を――」
「今のが最初の鐘だよね? 何か除夜の鐘みたい」
「除夜の鐘?」
「そう。私の世界ではね、年越しに百八つの鐘を鳴らすの」
「百八つって……結構気の長い話だな」
 話をしながら、少々強引にサクヤを窓際から引き離し、空いていた窓をしっかりと締める。俺が寒がっていると思ったのか、サクヤはごめんと小さく謝罪を零した。
「気にするな。それより、どうして百八なんだ? 随分中途半端な数だな」
「うーん、諸説あるらしいけど、百八って煩悩の数らしいよ。それを祓うための鐘? とか何とか……」
「煩悩って……」
「キースって煩悩とかなさそうだよね」
 あっけらかんと言い放たれて、内心頭を抱えたくなった。サクヤは俺を何だと思っているのだろう。サミーのような女タラシではないが、一応俺も健全な成人男子で、それなりに煩悩なるものがないわけではないのに。
「……そう言うサクヤこそ、そんなに煩悩ないだろ」
「そんなことないよ! 煩悩だらけだもん。美味しいもの食べたいし、おしゃれな服着たいし、大好きな人たちと楽しく暮らしたいし」
 並べたてられた望みは、ささやかで、けれど当たり前だと思うのは贅沢なものばかり。それを煩悩と言い切ってしまうのがサクヤらしい。
 けれど、俺が抱えている煩悩はサクヤとは違って自分の卑しさを嫌でも感じてしまう。
 もし、サクヤがアマビトでなければ。
 彼女には還る場所があるというのに、何度そう思っただろうか。
 サクヤがこの世界の人間だったならば、きっと――。
「あ! 二回目の鐘! 明けましておめでとー!」
「……明けまして?」
「そう。私の国での新年のご挨拶。年が変わるのを『年が明ける』って言って、明けましておめでとうございますってお祝いするの」
「へえ、明ける、か」
 聴き慣れないが、前向きなその表現は嫌いではなかった。
 時忘れの鐘は、悪いことはなかったこととして切り捨てる冷たさがあり、時告げによって強制的に年が終わらせられる。
 けれど、サクヤの語った除夜の鐘は悪いものを浄化しつつも受け入れ、年が明けるという考えには夜明けと同じように一続きの生を感じられた。
 こういう話を聴くたびに、サクヤの生まれ育った世界を見てみたいと思ってしまう。彼女と同じ世界に生まれたかったなどと思ってしまう。
 それはやはり、どうしようもない煩悩でしかないのだろうけれど。
「今年はいいこといっぱいある年になるといいね」
「そうだな」
 サクヤにとってのいいことには、元の世界に帰れることも含まれているのだろう。
 そう思うと、言葉とは裏腹にいいことなど起こらなくていいと思ってしまう自分がいた。
 醜いなと自嘲の笑みが零れそうになった瞬間、時初めの鐘が聴こえる。
 悪い過去を切り捨て、新たな自分になるための鐘の音。
 ああ、けれどやはり、自分にはこちらの鐘の音の方が相応しいのかもしれない。
 彼女に対する疚しい想いを捨てて、ただ真摯に彼女を守り、望みを叶えるために。
「今年こそは、ちゃんと帰してやるよ」
 ぽつりと小さく呟いた約束に、サクヤは一瞬驚いた顔をして、そして少しだけ眉尻を下げて微笑んだ。
「……焦らなくていいよ」
 時初めの鐘の余韻に紛れるほどの小さな囁きが聴こえた気がしたが、きっとそれは自分の願望なのだと聴こえなかったふりをする。
 俺はサクヤの守護者なのだから。
 そう言い聞かせ、ただの親愛の情でしかないと思わせるように彼女の髪を撫でた。 
 夜闇に紛れゆく時初めの鐘に、独りよがりな願望を無理やり溶かしながら。畳む

#番外編

夢のあとさきそめし朝

夜明け前
診断メーカーアンケート/サクヤ視点

しのぶへのお題は
・プレゼントを頂戴
・普段と変わらない一日だと思っていた
・媚びるような視線
・夜明け前
です。アンケートでみんなが見たいものを聞いてみましょう
 https://shindanmaker.com/590587

という奴の結果で書きました。
【夜明け前】です。
 夢あとのキース&サクヤのお話。

 夜が朝へと溶けてゆく、その直前の空が好きだ。山の端や建物の影からじわりじわりと陽光が侵蝕しようとするその瞬間を、あの人の隣で何度か見つめていた。
 その記憶はまだ鮮やかさを保っていて、けれどそれでも、以前よりは明らかに色褪せていて。まるで小さな画像を無理やり引き伸ばしたみたいなそれが、今までと違う胸の疼きをもたらす。
「眠れなかったのか?」
 背後から唐突に声をかけられ、慌てて振り返った。こっそりと寝床を抜け出してきたつもりだったのに、どうやらお見通しだったらしい。多忙を極めて疲れているだろう人の睡眠時間を奪ってしまったことに良心が疼く。
「ごめん。起こした?」
「いや、起きていた」
 当たり前のように隣にきて、当たり前のように肩にふわりとショールが掛けられた。日中は暖かいとはいえ、陽ものぼらないこの時間はまだまだ冷える。そのひやりとした空気がまた好きなのだけど、どうやら彼にとっては心配の種でしかなかったらしい。相変わらず、気遣いが細やかすぎて思わず小さく声に出して笑ってしまった。
「何かおかしかったか?」
「ううん。キースはやっぱりキースだなと思って」
「どういう意味だ?」
 よくわからないと訝るキースに笑みだけ返し、ほのかに赤が滲み出した方角を見遣る。
 朝が夜を、溶かしていく。
 私の夜も、少しずつ溶かしていかなくてはいけないのだろう。まだもう少し、それには時間がかかるだろうけども。
「ありがとう、キース」
「別に礼を言われるほどのことじゃないぞ?」
 不思議そうに返される言葉に、ショールのことじゃないんだけどと思いつつも、やっぱり私は微笑むしかできなかった。畳む

#番外編

夢のあとさきそめし朝

クワドラートの祈り
改稿前SS4/バレンタイン/キース視点→サクヤ視点

「はい、どうぞ!」
 昼食をとろうとサクヤの執務室を訪れた途端、そう言って目の前に差し出されたのは、甘い香りの漂う小さな紙袋。どうやら中身は焼き菓子のようだった。
 珍しい。菓子など今まで作ったことがなかったのに。
 料理上手なサクヤのことだから、菓子を作ることくらい大した手間ではないとはわかるが、どうしてこのタイミングなのだろうか?
 そんな疑問は、次の台詞であっさりと氷解した。
「アデーレに聞いたんだ。今日って聖リヴェ・メイヌの日って言うんでしょ?」
「あ、ああ、そういえばそうだったな」
 聖リヴェ・メイヌ。聖典にも記されている、コルモエール神教の聖人の一人だ。その生誕日が今日。現在では聖リヴェ・メイヌの日として広く知られている。
 だが、この聖リヴェ・メイヌの日には、ちょっと変わった風習がある。
 女性が意中の男性に菓子を贈るのだ。そう、『意中の相手』に、だ。
 贈られた相手は、翌日返事の代わりに花か菓子を贈り返す。是なら花を、否なら菓子を。
 その為、世間ではこの日には男女問わずそわそわしている。部下の中にも注意するほどではないにしろ、浮ついた態度の者が幾人か見られた。
 しかし明らかに、サクヤにそんな意図はないだろう。
 これはほぼ間違いなく、アデーレが真実を告げずに「日頃感謝している相手にお菓子を贈るのですよ」などと吹き込んだのだ。
 素直なサクヤなら、簡単にその嘘を信じるだろうし、俺にあてて菓子を焼くくらいの手間は惜しまないとわかる。もしかすると、複数準備して、リィナやアデーレ、リーヴなどにもふるまっているかもしれない。
 その場に残っていたアデーレにちらりと目を遣ると、案の定わざとらしく視線を外される。その口元が微かに緩んでいることから、俺の反応を楽しんでいるのは明白だった。
「あ、キース甘いもの苦手だった?」
 なかなか受け取ろうとしない俺を、サクヤが心配そうに覗き込む。
「いや、平気だ。ありがたくいただくよ」
 サクヤは真実を知らないのだし、その好意と手間を無駄にしたくはなかった。菓子を受け取ると、一瞬でサクヤの表情が明るくなる。
「よかったー! 甘いものは疲れとれるから、仕事の合間にでも食べてね!」
「ああ」
「サクヤ様、お返しに期待しましょうね」
 俺たちの様子を見守っていたアデーレが、こんな時だけしっかり口を挟んでくる。どうあっても俺に菓子か花かを贈り返させたいらしい。
「別に見返り欲しくてあげるんじゃないから、お返しとかいいの! キースも気にしないでいいからね!」
「でも、お返しするのが昔からの慣わしですから」
 俺をおいてサクヤと盛り上がり始めるアデーレを軽く睨む。その視線に気づいたアデーレは、一瞬肩を竦めるが、それでも意味ありげな微笑を隠そうとはしなかった。
 アデーレの悪戯は恨めしいが、無邪気に喜ぶサクヤの笑顔が見られたことには満足だ。そういえば、今までに何かサクヤに贈り物などしたことがないと気づく。お返しというわけではないが、何か贈るのもいいかもしれない。
 だが、贈り物といっても何がいいのかすぐには思い浮かばなかった。
 誰かに何かを贈るなんて滅多にしないことだし、更に言えば歳下の異性に贈る機会なんてなかったのだ。
 そもそも、サクヤにあまり物欲がないようだ。衣類なども必要最低限で、しかも俺の着られなくなったものでいいとさえ言う。宝飾品なども嫌いではなさそうだが、無駄遣いをするなと叱られてしまいそうだ。
 これはなかなか厄介な課題が出来てしまったと、心の中でだけ小さなため息をつく。
 昼食の最中も、サクヤと会話しながらも頭の片隅ではずっと何を贈るのか考えていた。
 こういうとき、きっとサミーならば容易に考え付くのだろう。だが、ここで奴に相談でもしようものなら、余計な勘繰りを入れられ、またあることないことサクヤや養父に吹き込まれるのは間違いない。
 アルゼに相談しようかとも思ったが、サミーと同じ結果になることだろう。
 これはどうあっても、何とか自力で解決するしかないようだった。

   * * *

 キースに申し訳ないことをしたかもしれない。
 いつも通り、諸々の執務や修練を終えて家に帰る道すがら、そんなことをずっと考えていた。
 お菓子を焼くなんて、本当に久しぶりだった。それでも、昔とった杵柄というか、劇団への差し入れでよく作っていたから、そんなに悪い出来ではなかった、……と思う。
 最近、以前にも増してお互い忙しい。特にキースは立場が立場だから、私なんかと比べ物にならないほど仕事を抱えているだろう。
 もちろん、キースは疲れた素振りなんて一切見せない。もし、私が体の心配でもしようものなら、「このくらい平気だ」と笑って見せるに違いないのだ。
 だから、心配を態度で表すんじゃなくて、少しでもキースの疲れが癒えたらいいなと、アデーレから聞いた聖リヴェ・メイヌの日の慣わしに乗っかってみたわけだ。
 けれど、まさかお返しする習わしまであったのが誤算だった。
 別に、お返しなんていらないし、そうキースにも伝えたけれど、真面目なキースがそれを蔑ろにするわけがない。現に、城を出てからずっと無言。昼食の時からずっと何かを考え込んでいるようだったのだ。
 これでは、キースに無駄な悩みを増やしてしまっただけじゃないか。
 ていうかキースさん、正直悩み過ぎですよー? そんな真面目に考えるほどのもんじゃないですよー? なんて心の声が届くはずもなく。
 結局、ほとんど会話もないまま、家まで辿り着いてしまった。
 先に立ってキースが扉を開け、家に入ってしまう。
 その後に続きながら、あーあとこっそり溜息をつこうとした時だった。
「サクヤ」
「へ? 何?」
 突然振り返ったキースが、両の手を自分の首の後ろへと回す。元に戻ってきた手には、ペンダントのチェーンが摘まれていた。円の中に正方形、正方形には対角線があり、その交差した中央には翡翠に似た緑の石が嵌まったトップが、ぶら下がっている。
 その形はどこかで見たことがあった。そう、確か宮城内にある大聖堂の壁にも、同じ形のレリーフがあった。ということは、神教に関わりのあるものなんだろう。ロザリオみたいなものだろうか?
 そんな考察をしていると、チェーンの金具を持ったままのキースの両手がそのまま私の首へと回った。
「キース、これは?」
「クワドラート」
「クワド、ラート?」
「お守りみたいなもんだ。俺はサミーと違って気の利いた贈り物なんてできないからな。これをやる」
「で、でも」
「ああ、心配すんな。特別高価なものじゃないから」
 そう言ってキースは軽く笑うが、私が気にかけていることはそんなことではない。
 このペンダントは、今の今までキースの首にかけられていたものだ。そして、私はキースがこれをつけたり外したりするのを、これまでの一度たりとも見たことがない。つまり、ずっと肌身離さず持っていた、ということじゃないんだろうか?
 となると、高価かどうかの問題ではなく、キースにとって大切なものだという可能性が高い。例えば、ヤーマさんからもらったものだとか、ご両親の形見だとか。もしそうなのだとしたら、私が受け取っていいものではない気がする。
「あの、これ、私なんかがもらっていいようなものなの?」
「違う」
「だったら――!」
「俺がサクヤに持っていてほしいんだ」
 慌てて外そうとしていたから、キースの表情を見逃してしまった。驚いて顔をあげた時には、既に背を向けて、奥へと歩き出していた。
 キースの声音はいつも以上に優しくて、けれどどこか照れたような色が滲んでいた。
「キー……」
「あら、おかえりなさいまし。お食事の準備はできておりますよ」
 呼び掛けようとしたが、ダイニングからのマミヤさんの嬉しげな声に遮られる。キースはマミヤさんに礼を言うと、着替えに行くのかまっすぐに自室へと向かっていった。
 その背中をぼんやりと見送りながら、胸元に揺れるペンダントにそっと指を添わせる。滑らかな石と、微細な銀細工のでこぼことした感触。微かに移ったぬくもりが、私の体温だけではないと思うのは気のせいかもしれないけれど、それでも何だかキースが常に傍で守ってくれているような安心感が生まれた。
 慎重な手つきでトップを摘まむと、襟元の隙間からするりと中に滑り込ませる。もう一度服の上から円い形を指でなぞると、無人の廊下で誰にも聞こえない祈りを囁いた。畳む

#番外編

夢のあとさきそめし朝

Lingering scent
改稿前SS3/ハグの日/キース視点

 一悶着あった着任式も終え、サクヤの正式な白騎士団所属が決まって四日が経った。しかも、着任早々に反乱軍の拠点が見つかり、そこへ我が軍が差し向けられることまで決まってしまった。おかげで俺もサクヤも今まで以上に多忙だ。今もサクヤは慣れない書類作成や剣の稽古に追われている。
 少しだけでも様子を見たい。そう思い、サクヤに渡す書類はいつも部下には頼まず、自ら持っていく。
 そうでもしなければ、すぐにサクヤは無理をする。サクヤの側には常に護衛騎士がいるのだが、彼女たちが頑固者のサクヤを止められるとは到底思えないからだ。
 今日も書類の束を片手に、サクヤの執務室の扉をノックする。返事とともに、中から扉が開かれた。
 部屋の中には、サクヤの他に赤騎士団から 異動してきたばかりの女性騎士が三名。その内の一人はアデーレだ。持ち前の明るさと人懐っこさのおかげか、それともアデーレが上手くまとめてくれているのか、サクヤは彼女たちと円満にやっているようだった。
 執務机で何やら書き物をしていたらしきサクヤに、書類の束を手渡す。
「これに目を通してサインを頼む」
「了解」
「それと、午後からはどうする? また書庫に籠るか?」
「ううん。今日は剣の稽古するよ。書庫は昨日随分長居しちゃったし」
 答えるサクヤの表情には、やはり多少の疲れが見えた。できれば少し休ませてやりたいところだ。何か良い理由がないものだろうか。
「キース? どうしたの?」
 サクヤを休ませるに充分な理由が思いつかずに考え込んでいると、逆に心配そうな視線を向けられてしまった。
「疲れてるんじゃない? 少しくらい休まなきゃダメだよ? キースの代わりはどこにもいないんだから」
「大丈夫だ。少し考えごとをしてただけだよ」
 笑みを作って誤魔化すと、それならいいけどと、とりあえずは納得した様子だ。
 このままこの場に留まっていては、サクヤ に余計なことを考えさせてしまうだろう。仕方なく、俺は自分の執務に戻るほかなかった。
「じゃあ、書類は昼までに片付けておいてく れ」
「うん。わかった」
 ハキハキとした口調で応じるサクヤに、踵を返して扉へと向かう。背後で、かさりと書類を捲る音が聞こえた。と、思った次の瞬間だった。
「キース!」
「――え? お、おいっ! サクヤ!?」
 椅子を蹴り倒さんばかりの勢いで駆け寄ってきたサクヤが、俺の胸へと飛び込んでくる。慌ててその体を受け止めると、すっきりと甘い香りが鼻腔をくすぐった。少し前にリィナがサクヤのために用意した香水の香りだ。
 その香りと突然の行動に、返す言葉が出てこない。
「さ、サクヤ、一体――」
「読めた! 書類の内容! 普通に全文すらすら読めたよ! 今までアデーレやリィナに読んでもらってたのに!」
「そ、そうか……」
 それは確かにめでたい。これまでずっと地道な努力を重ねてきた結果が出たのだ。俺も一緒になって喜んでやりたい。
 だがサクヤ、頼むから気づいてくれ。今ア デーレたちがどういう表情でこっちを見てるのかってことに。
「ちょっと、キース! さすがに少しくらいは誉めてくれてもいいんじゃない!? 私、 めっちゃ頑張ったんだよ!?」
「ああ、それはわかってる。わかってるからだな、その、この体勢をどうにかしてくれないか?」
 精一杯、冷静さを保ってそう提案する。と、サクヤが慌てて離れるのと、アデーレたちがささやかな忍び笑いを漏らすのが同時 だった。軽く彼女たちを睨み付けると、すぐに視線をそらしてわざとらしく誤魔化すような咳払い。だが、その口許がまだ微かに笑みを残しているのがわかった。
 これは、変な風に勘違いをされている気がする。ただでさえ、アデーレは俺とサクヤの仲を誤解している節があるようだし、一度きちんと説明しておいたほうがいいのかもしれない。
「ご、こめん、キース。あまりにも嬉しすぎたから、つい……」
「気にすんな。それより、よく頑張ったな」
 そう言ってそっと頭を撫でると、最近では滅多に見られなくなっていた眩しい笑みが花開いた。つられるように、俺の頬も緩んでしまう。
 ――やっぱり、サクヤは笑っているほうがいい。
 屈託なく、誰よりも力強く、太陽のごとき笑顔が、サクヤには一番似合う。
 この笑顔を守る為ならば、何だってやってやろう。そう思うのは、きっと俺だけではないはずだ。それほど、サクヤの笑顔には人を魅了する力がある。シヴァがサクヤをカリスマとして選んだのも、単にアマビトだからというだけではないのかもしれなかった。
「あ、ごめんね、引き留めて。キースも忙しいのに」
「たいした時間じゃないさ。じゃあ、また後でな」
「うん」
 今度こそサクヤの部屋をあとにして、仕事が山積みになっているだろう自分の執務室
と向かう。ほんの短いその距離を歩みながら、もう一度胸の内で誓いを立てた。
 ――絶対、無事に戻してやるから。
 強い想いとはうらはらに、小さな痛みが胸を刺す。
 ふわりと、サクヤの移り香が鼻先を掠めたが、何も思う間もないほどあっけなく溶けるように消えていった。畳む

#番外編

夢のあとさきそめし朝

ゲムニの鏡
改稿前SS2/ジューンブライド/サクヤ視点

 甘い花の香りがする。何の花だろうか? 詳しくはないから、全然わからない。けれど、その甘さはおしつけがましくなくて、とても心地いい。
 そんなことを思いながら、何だかいつもより紗がかかったような視線を巡らせると、目の前には大きな扉。木目の美しい、アンティーク調の両開きの扉だ。その扉が音もなくなめらかに開くと同時に、弦楽器の奏でるハーモニーが溢れ出した。
 ――あれ? 私はここで何してるんだっけ?
 そんな疑問が頭を過ぎる。
 その答えが出る前に、一歩前に進むように隣から促された。そこで初めてすぐ隣に立つ存在に気づく。そっと見上げると、黒い燕尾服に身を包んだ叔父の姿があった。
 緊張してるな。まあ、でも当然か。だって、私も思った以上に鼓動が速いし、体の動きもぎくしゃくしている。最初に出すのは右足だっけ? 左足だったっけ?
 そこまでごく自然に考えて、先ほどの疑問を自分はとっくに解消していることに気づいた。
 今、私がいるのは小さなチャペル。目の前には真っ白なヴァージンロードがのび、縁取るように淡い色合いの花々が、薄いブルーのサテンリボンで繋がれたガラスのポールに飾られている。
 そして、身に纏うのは純白のウェディングドレス。視界がはっきりしないのは、ヴェールのせいだった。
 そう、私は花嫁なのだ。
 人生で一度きりの大舞台で、いつになく緊張している。といっても、お芝居とはまた違う緊張感だった。
 ――そういえば、私誰と結婚するんだろう?
 何だかさっきから自分の思考が二重構造な感じだ。状況を全て理解している自分と、まったくわかっていない自分。
 全部わかっている方の自分が身体を動かしていて、そうじゃない方がどこか離れた場所から見ているような、そんな不思議な感覚だった。
 少しずつ前に進みながら、ヴァージンロードの先で待つ新郎の姿を確認する。けれど、聖壇の後ろの壁は見事なガラス張りで外光が燦々と注ぎこんでいた。完全な逆光で、肝心の新郎の顔が見えない。
 ――もっと近づければ、その顔が見えるのに。
 もどかしい思いが募るけれど、叔父を引っ張って駆け出すわけにもいかない。ヴァージンロードって意外に距離があるもんなんだなと、どうでもいいことを考えながらも一歩一歩前へと進んだ。
 ――ああ、でも、あともうちょっとで……。
 あとほんの少しで、顔が判別できる程度の距離になる。
 そう思った時、不意に誰かに名を呼ばれた。


「サクヤ、そろそろ起きないと、リーヴ様が来られるわよ」
 そっと肩を揺すられ、慌てて飛び起きた。最近寝不足がちだったから、登城してすぐに、少しだけ仮眠を取らせてもらっていたのだ。
「はい。眠気覚ましにお茶をでもどうぞ」
「……ありがと、リィナ。あれ、その花は?」
 ふと顔を上げると、執務机の片隅に見たことのない花が飾られていた。百合のような形で、全体的に白いのに、花びらの根元だけがほんのり蒼く染まっている。そして、柔らかな甘さの香りを漂わせていた。淹れたてのお茶の香りと混じって、何だか妙に安らいだ気分になる。
「綺麗でしょう? 『ゲムニの鏡』という、とても珍しいお花なの」
「『ゲムニの鏡』?」
「そうよ。この花を枕元に飾って眠ると、未来の旦那様が見えるっていう言い伝えがあるの」
「え?」
 未来の、旦那様? ってことは、さっきまで見てた夢は、正夢? いやいや、あくまでも言い伝えに過ぎないじゃないの。
「サクヤも誰か夢に出てきたんじゃない?」
「あ、いや、えっと……」
 うん、確かに出てきたといえば出てきたんだけど、肝心の顔は見えなかった。何となく、背格好が誰かに似てるような気はするんだけど、それが誰かはわからない。はっきりとわかるのは、当たり前だけど鏡吾ではないことくらいだ。
「あら、本当に出てきたの? どんな人だったのかしら」
「あはは……。出てきたんだけど、全然顔が見えなかったんだよねー」
「それは残念。でも、出てきたってことは、サクヤは幸せな結婚ができるということね」
「そうなの?」
「夢に出てきた相手とは、幸福の絆で結ばれてるそうよ」
「ふぅん、そうなんだー」
「ふぅんって、何だか随分他人事のようね。サクヤは結婚に憧れたりはしないの?」
 真面目な顔で質問されたけれど、正直今の状況で結婚なんて考えられるはずがない。そんなことより何より、元の世界に帰る方法を探す方が重要なんだから。
「結婚よりも、今は目の前の問題を片付けないと駄目だしねー」
 そう言いながら、もうすぐ始まるであろう朝の授業の準備を整える。
 そういえば、あの夢。叔父さんもいたし、明らかに元の世界の光景だった。ということは、私は無事元の世界に帰って、あちらでまた誰かと恋に落ちるのだろうか?
 何だか、それこそ夢物語のようだ。元の世界に帰るのはいいとして、もう一度誰かを好きになることができる気がしない。今の自分では、とてもそんなことが考えられなかった。
 コンコンと、私の思考を中断させる音が聞こえる。時間的にリーヴが来たのだろう。どうぞと声をかけると、リィナが手早くも優雅に扉まで移動し、そっと開けた。
 と、そこにいたのは確かにリーヴだったけれど、珍しくキースも立っていた。
「どうしたの? キースまで」
「ちょっとサクヤに署名を貰いたい書類がいくつかあってな」
 そう言いながら、数枚の紙束をひらひらと振って見せる。が、それくらいついでにリーヴに頼めばいいだけだ。多分、それを口実に私の様子を見に来ただけだろう。今朝は登城する前から誤魔化せないほど疲れ切っていた。目敏いキースがそれに気づかないわけがない。
「わかった。すぐ終わる量なら、今ちゃちゃっと書いちゃうよ」
「じゃあ、頼む。ほんの五枚ほどだから」
 そう言って手渡された書類に、さらさらと署名する。こちらでの綴りはわからないからローマ字表記だけど、どうやらそれで問題はないらしい。
「はい、できた」
「……うん、抜けはないな。手間を取らせたな」
 私の署名個所を確認して頷くキースに、手間というほどの手間じゃないよ、と笑顔で返す。そこに、大丈夫だという意味も込めて。
 それが伝わったのかどうかはわからないけれど、キースはいくぶん安心したような表情になった気がした。
「じゃあ、適当に頑張れよ」
「適当とか、教えてる本人の目の前で言わないでください」
「悪い悪い」
 キースの言い様にリーヴが小さく抗議する。それに本気で悪く思っていない軽さでキースが返し、そのまま踵を返した。
 キースには騎士団長としての仕事が毎日山積みだろう。本当はこんな風に私を気遣っている暇などないだろうに。
「ああ、そうだ」
 部屋の扉を開け、今にも回廊へ出ようという時になって、キースが思い出したように振り返る。逆光に照らされたキースのシルエットに、一瞬のデジャヴ。
「今日はマミヤが来られないらしいから、外に食事に行くから、そのつもりでいろよ」
「……え、ああ、うん」
 すぐに返事しなかった私に、キースが不思議そうな表情になる。けれど、すぐに何でもないと首を振ると、訝しみながらも自分の執務室へと戻っていった。
 ――いくら何でも、有り得ない。
 自分の中に湧き上がってきたのは、そんな感情。
 夢で見た相手が、キースなわけがない。だって、向こうの世界に戻ったら、キースはいないのだから。
 いや、それ以前にキースと私はそんな関係じゃないし。そりゃあ、好きか嫌いかと訊かれれば、間違いなく好きなんだろうけど、それは男女の好きとはちょっと違って……。
 ああ、もう! 何でこんなに動揺してるの、私! たかが夢だし、たかが言い伝えじゃないか!
「サクヤ、どうかした?」
「え? ……あ、いやいや。うん」
 すっかり存在を忘れていたリーヴに作り笑顔で誤魔化す。リーヴもリィナも不思議そうに首を傾げていた。
「さぁて、勉強勉強! リーヴ、今日は何からするんだっけ!」
 何か訊かれても困るので、さっさと授業の開始を促す。リーヴは気を取り直したようにそうですね、と今日の課題を提示し始めた。リィナも、いそいそと他の仕事のために退室していく。どうにか、これ以上詮索されずには済みそうだ。
 ――気の所為、気の所為。
 自分に言い聞かせながら、私は目の前の課題に集中しようとする。
 たまたま背格好が似てただけ。しかも、キースの服装が服装だから、新郎のフロックコートとシルエットが被っただけ。
 思い出すと赤面しそうな夢の記憶を何とか頭の隅に追いやって、私はその日も課題に悪戦苦闘するのだった。畳む

#番外編

夢のあとさきそめし朝

Strategist's secret plan
改稿前SS1/アルゼ視点

 ベルティリア帝国・帝都サンベルティ。
 国の主たる聖帝の住まう宮城内の一角に、騎士団長が会議を行う専用の部屋がある。そこでは毎日欠かさず私ことアルゼ・アビリットを含む四騎士団長と近衛騎士の筆頭が会議を行っていた。
 内容は、城内城下を問わず治安についてや兵の訓練状況など様々だ。しかし、毎日意見を交わしている為、大した意見交換を行うこともなく終わる日も当然出てくる。
 その日も、早々に話し合うべきことは無くなり、近衛筆頭騎士のロデオ殿が先に退室した。それを機に、サミーは椅子ごとガタガタと移動し、キースにすり寄るように近づく。そのどこかニヤついた表情にキースは嫌な予感を覚えたのか、あからさまに顔を引きつらせた。
「なあ、キース。ちょーっと訊きたいことあるんだけどさー」
「訊くな」
「ちょ、ちょっと、それはないでしょーがっ! 俺、まだ何も言ってないけど!?」
「どうせロクなことじゃないだろ」
 にべもなく言い捨てるキースに、話を聞いているだけの私も思わず頷いてしまっていた。同様にソフィアも。
 キースの言うように、サミーの『訊きたいこと』などロクなものだった例がない。私がエマと結婚した当初も、好奇心の塊を熟練の職人の手で磨き上げたような無駄に輝いた瞳で、不躾で下世話な質問を寄越したものだ。私のプライベートを聞いて何が楽しいやら、全く理解が出来ない。
 私達三人の態度に、サミーは少しばかり気を落としたようだったが、それでも懲りずに話を続けるつもりらしかった。
「せめて質問内容聞いてから返事してくれたっていいだろー? 嫌なら答えなくっていいからさー」
「あー、もう、わかったから揺するな! 零れるから!」
 お茶を飲もうとしているところを、駄々をこねるように揺すられ、キースは半ば自棄になって応じた。途端にサミーの表情がパッと明るくなる。
 何だかんだ言っても、キースは私やソフィアに比べればサミーに甘い。どうせ聞いたら後悔するだろうにと心の中で哀れに思ったのだが、キースが聞いてやるというものをわざわざ止める必要性も感じないので、私も黙って聞くことにした。
「さっすがキース! 優しいなぁー」
「お世辞はいいから、さっさと言えよ」
「うんとさ、サクヤちゃんとどこまでいってんの?」
「ぶっ!」
 サミーの直球過ぎる質問に、キースは思い切り口に含んだお茶を吹き出していた。そのまま、むせてゴホゴホと咳き込んでいる。
「キース、汚いぞ」
「……サミーっ! おまえなっ!」
 冷静に指摘をしたが、キースにその声は届いていないようだった。苦しそうな涙目になりながら、サミーの胸元を掴み詰め寄っている。
 それにしても、喜劇を見ているようなキースの反応は面白い。私自身としても、少々興味のある内容だっただけに、二人のやりとりをこのまま温かく見守ってやろうと思う。
「何でそんなに怒るのさー」
「当たり前だろ! 何考えてんだよ、おまえは!」
「でもさ、若い男女が一つ屋根の下で暮らしてんだよ? しかもサクヤちゃんみたいな可愛い子だし、何もない方がおかしいかなぁーっと……」
「何もなくてもおかしかないだろ。ええ?」
 低い声音でサミーに言い聞かせるキースの様子は、既に脅しの域に入っていた。
 しかし、意外だ。キースがサミーと違いストイックなのは充分過ぎるほどにわかっていた。だが、いくら何でも同じ家で好きな異性と暮らしていて我慢ができるとは流石に思えなかったのだ。一体、どこまでストイックなのか。それとも単に奥手なのか。
 そういえば、キースは今まで女性関係であまりいいことがなかったらしいから、慎重になっているのかもしれない。いや、それにしたってサクヤは裏表のあるような性格ではないし、慎重になる理由にはならないか。
 珍しいものでも見るような眼で凝視していると、視線に気付いたのかキースがこちらを振り返った。
「何だよ、おまえらまで」
 明らかに不服そうな表情だ。
 おまえらということはソフィアもかと気付き、横目でちらりと窺うと、呆然としたソフィアの顔が見えた。ここまで呆気にとられているソフィアというのも滅多に拝めない。しかし、すぐに気を取り直し、ソフィアは苦笑と共に謝罪した。
「ああ、いや、すまない。どこかの軟派な騎士団長と一緒にしてはいけなかったな。いくら一緒に住んでいるとはいえ、まだ結婚前なわけだし」
 ささやかにサミーに対しての嫌味をのせているのがソフィアらしい。が、言っていることは間違っていないので、私もその流れに乗って弁解しておくことにした。
「しかし、おまえがそこまで奥手だったとは思わなかったぞ」
「こらこらこら! ちょっと待てよ、おまえら! それ以前に俺とサクヤはそんな関係じゃないぞ!」
 慌てて否定するキースに、私は首を傾げざるをえなかった。ソフィアの方も、眉間に皺を寄せて思案顔。私と同じく合点がいかない様子だ。
 そんな私たちを呆れたように見つめ、キースは溜め息まじりに続ける。
「大体、何でそうなるんだ? いくら一緒に住んでるって言っても、サクヤは妹みたいなもんなの」
 なるほど、妹か。確かに、キースはアリストクラート家に引き取られる前は、教会で多くの孤児と一緒に暮らしていたという。その中には、妹のように思う存在もあっただろう。
 しかし、キースのサクヤに対する過保護ぶりは、ただの妹のような存在に対するものにしては過剰なように思える。
「じゃあさ、俺がサクヤちゃんの恋人になってもいいよね!」
 キースの言葉を受けて、俄かにサミーが元気になって乗り出した。
 しかし、キースはギッときつくサミーを睨みつけ、「駄目だ」と即答する。ほらみろ。やはり妹でないではないか。
「何でさー? 別にキースの恋人ってわけじゃないならいいだろうー?」
「絶対駄目。おまえみたいないい加減なヤツにサクヤは任せられない」
 兄妹というよりもむしろ父親のような言い方をするなと内心で思っていると、ソフィアがすかさず「それには私も同意する」と同調した。
 確かにキースの言い分も尤もだ。ただでさえ異世界に来て混乱しているサクヤが、こちらの生活や環境に慣れようと必死になっているというのに、サミーの面倒など看させるわけにはいかない。
「そうだな。サクヤ殿にこれ以上の負担を強いるわけにはいくまいし」
「何だよー。みんな揃って俺の邪魔するのかー?」
 私に駄目押しされたサミーは、口を尖がらせてぶつぶつと抗議の声を零すしかできないようだった。反対に、キースはわかりやすいほどにホッとしている。
 そこでふと、私の悪戯心がくすぐられた。我知らず笑みがニヤリと零れたけれど、幸いにも私の表情は異種族には読まれにくい。ただ、声音でバレてしまう可能性があるので、極めて冷静に口を開いた。
「別に私は邪魔をしているわけではないのだが。ただ、せっかくキースに訪れた春を、みすみす逃させるわけにはいかないだろう?」
 サミーを諭すように告げると、キースは予想通り顔を顰めて非難がましい視線を送ってくる。
「おい、アルゼ。何で話がまたそっちにいくんだよ。別にサクヤとはそんなんじゃないって――」
「今は違っても、この先どうなるかはわからないだろう?」
「いや、まあ、それはそうだけど……」
 言葉を遮って鋭く問い返すと、キースは面食らったように言葉を濁した。更に私は、畳みかけるように続ける。
「それに、前々から『そろそろ結婚して跡継ぎを』とか言われているのではないのか?」
「うっ……」
 完全にキースの言葉が詰まった。
 キースは今年で二十六歳だ。結婚に遅すぎる年ではないが、かといって早すぎるわけでもない。それに、アリストクラート家を継げるのはキースだけであり、早々に次の継嗣を望まれるのも無理のない話なのだ。
 何より、戦場に身を置く騎士の家系において、後継者のことは切実な問題でもある。周囲からのそういった声は、彼が騎士団長に就任した頃から既にあったはずだった。
「それは別にどうとでもなるだろっ」
「なっていないから、言われるのだろう? 先日もショーン様にお会いした時訊かれたぞ? キースに誰か良い娘はいないかと」
 キースの養父であるショーン・アリストクラート卿は、軍を退いてから体調も思わしくないらしい。その所為か、キースに浮いた話の一つもないことが気掛かりなのだろう。
 この様子では、近い将来ショーン様が選んだどこかの良家の令嬢と縁談があるかもしれない。
「ああ、それなら私も訊かれたな。とりあえず、一人心当たりがあるとは言っておいたが」
「ソフィア! ショーン様に何を吹き込んでんだよ!」
 血相を変えると言う表現がぴったりなキースに、ソフィアは悪びれた様子もなく微笑んだ。
 しかし、ソフィアに心当たりがあるとは予想外だ。女ながらに騎士となり家を継いだソフィアは、どちらかというと淑やかな令嬢たちを苦手としているような節があるのだ。とはいえ、ラスター家は親戚も多いから、それなり親しい仲の者に見合った令嬢がいるのだろう。
 そう思っていたら、これまた思ってもみない返答が返された。
「別に構わないだろう? サクヤなら、申し分ないと思うぞ。何より気も合っているようだしな」
 どうやらソフィアの心当たりは、サクヤのことだったらしい。確かにソフィアはサクヤを気に入っている様子だったので、すんなりと納得がいった。それと同時に、名案だと思う。私もショーン様にサクヤを薦めておけばよかったのだ。
「それはそうだな。では、私からもショーン様にそうお伝えしておこう」
「やーめーろー! ショーン様が本気で信じたらどうすんだよ!」
「別に構わないだろう? キースもサクヤなら上手くやっていけるのではないのか?」
 何を躊躇う部分があるのかと、私もソフィアも疑問で仕方がない。
 しかし、キースの「サクヤはアマビトだろうが」という言葉でようやく彼が激しく否定と抵抗を繰り返す理由が飲み込めた。
 サクヤはアマビト。異世界からの来訪者。それは同時に、いずれこの世界から本来の居場所へと帰ってしまうということだ。
「俺はサクヤに絶対元の世界に帰してやるって約束したんだ。そんな関係になれるわけがないだろうが」
 苦々しげに、けれど切なさを滲ませて、キースが呟く。そして徐に席を立つと回廊へと向かう扉に向かって歩き出した。
 そして、部屋を出る手前で足を止め、こちらに射るような視線を向ける。
「これ以上、そういうこと言うなよ? それと、ショーン様にもサクヤにも余計なことは吹き込むな。いいな?」
 戦場で見せるものと同様の威圧感を放ってそう言い残すと、キースはさっさと身を翻し、扉の外へとすり抜けていった。
 私もソフィアも、そして途中から完全に傍観者となっていたサミーも、キースの気迫に押されて全く何も言えずじまいだ。
 しばしの沈黙が、会議室内を支配する。それを破ったのは、途中からのけ者状態にされていたサミーだった。
「バッカだなぁ……」
 どこか同情するような色の見える声音だ。
「あの様子じゃ、完全に手遅れでしょ」
「……そのようだな」
 珍しくサミーの言葉にソフィアが同意を示した。そして、言葉にはしなかったが、私も同じ見解だった。
 本人は気付いていないのだろうが、以前のキースならあんな表情は絶対に見せはしない。育ちの影響か、他人に一切隙を見せないようにふるまってきたのがキース・アリストクラートという男なのだ。
 過去の女性関係にしても、何があっても取り乱した様子など見せなかった。それは勿論、相手に対してそれほど深い愛情を持っていなかっただけなのかもしれない。だとしても、淡々と関係を処理し、出逢いや別れがあったことすら後から知るほどだった。
 けれど、サクヤに関してはどうだろうか?  傍から見ていて過保護に思えるほどに細かい気配りを見せ、できうる限りの時間を彼女と過ごすことに割いている。少し前にサクヤが捕われて傷を負った時など、自分自身の失態にいらつくと落ち込むということを同時にやってのけたほどだった。
 何より、サクヤといる時やサクヤの話をしている時の表情は、今までに見たことがないほど優しく幸せそうに私の眼には映っていた。士官学校で出会って以来、もう十四年の付き合いになるが、その間一度たりとてそんな表情を拝んだことはなかった。
 そもそも、初めてサクヤと会った時にもおかしいと思ったのだ。
 キースは軽々しく他人に「守ってやる」などとは言わない。騎士などしていれば、それがどれほど大変なことかを身に染みて知っているからだ。
 無論、騎士になったからには、誰か――主に主君だが――を「守る」のが仕事だ。だからといって簡単にできることというわけではない。
 それでも「守る」とキースは口にした。口調は軽いものだったけれど、けっして意味までは軽くないはずなのに。それほどに思わせる『何か』が、サクヤにはあったのだろう。
「なーんかちょっとヘコんだなぁ。俺もそろそろ戻るわ」
 諸悪の根源ともいえるサミーが、白けた空気に堪りかねたように部屋を出ていく。
 ソフィアも居心地の悪さもあり、自分も執務に戻ろうと思ったのだろう。辞去の言葉もそれなりに残し、サミーの後に続いた。
「さて、どうしたものか」
 一人取り残された会議室で、呟いた声がいつになく響く。
 キースはああ言ったものの、素直に聞いてやる義理はないのだ。あのどうしようもなく色恋沙汰に無頓着な男に、ようやく似合いと思える存在がみつかったのだからどうにかしたいのが本当のところ。
「とりあえず、できうる限りのことをするしかない、か……」
 自らに言い聞かせるように呟くと、私は自分の執務室へと向かい、補佐の一人を呼びつけた。殴り書きのように幾つかの言葉を書き記し、その紙を補佐に手渡す。
「そこに書いてある資料を揃えてくれ。できる限り早くだ」
「了解しました」
 私の指示に従い、軽快な足取りで補佐が退室する。それを見送りもせず、私は今現在自分に課せられた職務を速やかに処理していくことに専念した。
 私にできることがあるとしたら、ただ一つ。
 アマビトであるサクヤと、こちらの世界の住人であるキースが共に在れる道を探すこと。
 その為に膨大な資料に目を通し、些細な事柄も見落としてはいけない。
 戦略を練る上で必要なのは、できる限り正確な情報とその量、そして固定観念に囚われないこと。さすがにこの件に関しては、生半可な気持ちではまともな答えは出ないだろうが、それでこそやりがいがあるというものだ。
 もしかすると、私にとって生涯で一番難しい攻略になるかもしれない。
 そう思いながらも、上手くいった時のことを考えて、人知れず私は笑みを零したのだった。畳む

#番外編

夢のあとさきそめし朝