No.10

「君をおいていきたくないんだ」
書き出しme.のお題/西城と少しだけ郁

「君をおいていきたくないんだ」
 突然目の前に現れた彼は、そう言って柔和な笑みを浮かべる。
 こんなところに、と続けながら。 

 彼は、かつて自分が想いを寄せた人だった。
 終わった恋だと思っていたのに、いざ彼と再会しそんな風に言われてしまうと、かつての想いが私の体中から溢れ出した。
 ゆっくりと一歩踏み出し、自らの手をその人に向かって伸ばす。
 すると、待ちきれないと言わんばかりに彼の手が私のそれを掴もうとした。
 が、私は慌てて手をひっこめた。
 得体の知れない違和感が、胸の内に影を落としている。
 何かが、違う。何かが、おかしい。
 その違和感の正体を探るために、私は自分の記憶を手繰る。

 彼は……、そう、彼は、私の高校時代の同級生。
 明るくて、調子者で、そして、とても優しい人。
 私は彼が好きだった。けれど、彼は誰からも好かれる存在で、私の一方的な片想いに過ぎなかった。
 告白することもないまま卒業し、それ以来一度も顔を合わせていない。
 同窓会にも彼は姿を現さなくて、イベント事が好きだったはずなのに来ないなんてね、などと友達とも言っていた。後から幹事の子にそれとなく訊いてみたら、連絡が取れなくなっていると言うので密かにがっかりした思い出がある。
 それを機会に、私はきっぱりと彼への未練を断ち切った。
 そうして職場の同僚として出逢った人とまた恋に落ちて……。

 そうだ。そうだった。
 私は今の恋人――広明と旅行に来ていたのだ。
 二泊三日の、ドライブ旅行。
 広明の好きな曲をかけて、海沿いの道を快適に飛ばす。内陸育ちの私には、それだけでも新鮮だった。
 お昼には宿泊先に着き、近くの名所を二人で回ることになっていた。
 なのに、何故?
 辺りを見回すと、何もない真っ暗な闇。
 いや、闇というのともまた違う気がした。
 暗いというよりも、黒い。
 どこまでもどこまでも、黒ペンキで塗りつぶしたように真っ黒だ。
 目の前にいる彼も、その黒に溶け込む黒いスーツを纏っている。
 色というものが、一切欠如しているかのような場所だった。
 わからない。
 ここはどこなの? 広明はどこに行ってしまったの?
「ねえ、おかしいわ。私、どうしちゃったの? 広明は? 私たち、ずっと一緒にいたはずなの」
「そうだね」
「貴方は? どうして貴方がここにいるの? ここは、どこなの?」
「……落ち着いて聞いてくれるかな。君はね、事故に遭ったんだよ」
「じ、こ……?」
 言われた瞬間に、全身を痛みが襲った。
 反射的に我が身を庇うように抱き締めると、ぬるりと濡れた感触。
 恐る恐る腕を解いて目を向けると、私の体は血に塗れていた。着ていた服は無残に破け、そこかしこから生々しい傷が覗いている。
「君の恋人の広明さんは、即死だった。けれど君は、まだ助かる。だから、迎えにきたんだ」
「広明が……死んだ?」
 声が、震える。体を苛む痛みなど一瞬で忘れ、代わりに訪れたのは氷点下にも思える寒さ。
 信じたくない。広明が死んでしまったなんて。
 ううん、きっと嘘だ。本当のはずがない。
 ずっと一緒にいようと誓ったのだ。広明は嘘が嫌いな真っ直ぐな人。そんな人が私をおいて死んでしまうはずがない。
「さあ、一緒に行こう。君はここにいてはいけない」
「……違う」
「このままここにいたら、『彼』が来てしまう」
「『彼』が、来る……?」
 彼の言う『彼』は――もしかしなくても、広明のこと?
 死んだ広明が、ここに来てしまう?
 ……やっぱり、おかしい。
 そもそも、どうして彼が私を助けに来るの?
 同じクラスではあったけれど、私と彼とはそんなに親しい間柄ではなかった。
 しかも、今では消息不明になっている彼が、いまさら元同級生を助けにやってくるなんて不自然すぎる。
「ほら、早く」
 急かすように彼が手を伸ばす。
 一歩、私は後ずさった。
「いや、行かない」
「心配しなくていい。すぐに戻れるから」
 安心させるように彼は微笑むけれど、私にはそれがどうしても恐ろしく思えた。
 彼についていってはいけない。
 ついていってしまえば、私は二度と広明には会えない。
 何の根拠もないのに、どうしてかそんな確信があった。
「大丈夫。俺を信じて。君だけでも、俺は救いたいんだ」
 言葉だけは優しい。けれど、彼の身に着けた黒いスーツは、まるで死を連想させるような不吉さだ。
 そうだ、きっと彼は死神だ。
 私の好きだった人の形をとって、私を惑わし、そうして連れて行こうとしているのだ。
 広明が死んだなんて、それも嘘。
 本当の広明は、先に助かって、私を待っていてくれるのだ。
 だから、彼は言ったのだ。
 早くしないと、広明が来てしまうと。
「……佳奈美」
 かすかな呼び声に、振り返る。
 そこにいたのは、広明だった。
「いけない! 早くこっちに!」
「いや! 広明!」
 捕まえられそうになるのをすんでのところでかわして、私は広明に向かって走り出した。
 大きく両手を広げて立つ広明の胸へと飛び込むと、きつくきつく抱き締められる。
「佳奈美、よかった」
「広明……。どこにも、行かないで……」
「もちろんだ。ずっとずっと、一緒にいるよ」
 この上ない幸福感に包まれる。
 体の痛みも、凍えるような寒さも、もう完全になくなっていた。
 これからきっと、それほど時間もかからないうちに私は目覚めるだろう。
 病院のベッドの上で。
 傍らにはきっと、心配そうな顔をした広明が、私の家族と一緒に待っていてくれるはず。
 そんな予想を胸に、私はゆっくりと闇に溶け込んでいった。

   ◇ ◇ ◇

「ダメやったん?」
「残念ながら。顔見知りだと上手くいくかなと思ったんだけど、かえって怪しまれちゃった」
「いや、多分、顔知らんでも彰ちゃん自身がもともと怪しいから」
「えー、郁さん、そういうこと言うー?」
 冗談めかした言葉は、慰めの代わりだろう。
 郁さんのこういう優しさに、いつも救われる。
「せめて、明るい方に行けるようにお祈りしてきぃな」
「……そうだね」
 短く答えると、意味をなさなくなった術具たちを片付け始める。
「助けたかったな……」
 ぽつりと呟くと、ポケットから煙草を取り出す。
 銜えた一本で、こぼれそうになった言葉に蓋をした。

 ――昔、好きだった人くらい。畳む

#番外編

七夜月奇譚