2023年11月(時系列順)23件]

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Strategist's secret plan
改稿前SS1/アルゼ視点

 ベルティリア帝国・帝都サンベルティ。
 国の主たる聖帝の住まう宮城内の一角に、騎士団長が会議を行う専用の部屋がある。そこでは毎日欠かさず私ことアルゼ・アビリットを含む四騎士団長と近衛騎士の筆頭が会議を行っていた。
 内容は、城内城下を問わず治安についてや兵の訓練状況など様々だ。しかし、毎日意見を交わしている為、大した意見交換を行うこともなく終わる日も当然出てくる。
 その日も、早々に話し合うべきことは無くなり、近衛筆頭騎士のロデオ殿が先に退室した。それを機に、サミーは椅子ごとガタガタと移動し、キースにすり寄るように近づく。そのどこかニヤついた表情にキースは嫌な予感を覚えたのか、あからさまに顔を引きつらせた。
「なあ、キース。ちょーっと訊きたいことあるんだけどさー」
「訊くな」
「ちょ、ちょっと、それはないでしょーがっ! 俺、まだ何も言ってないけど!?」
「どうせロクなことじゃないだろ」
 にべもなく言い捨てるキースに、話を聞いているだけの私も思わず頷いてしまっていた。同様にソフィアも。
 キースの言うように、サミーの『訊きたいこと』などロクなものだった例がない。私がエマと結婚した当初も、好奇心の塊を熟練の職人の手で磨き上げたような無駄に輝いた瞳で、不躾で下世話な質問を寄越したものだ。私のプライベートを聞いて何が楽しいやら、全く理解が出来ない。
 私達三人の態度に、サミーは少しばかり気を落としたようだったが、それでも懲りずに話を続けるつもりらしかった。
「せめて質問内容聞いてから返事してくれたっていいだろー? 嫌なら答えなくっていいからさー」
「あー、もう、わかったから揺するな! 零れるから!」
 お茶を飲もうとしているところを、駄々をこねるように揺すられ、キースは半ば自棄になって応じた。途端にサミーの表情がパッと明るくなる。
 何だかんだ言っても、キースは私やソフィアに比べればサミーに甘い。どうせ聞いたら後悔するだろうにと心の中で哀れに思ったのだが、キースが聞いてやるというものをわざわざ止める必要性も感じないので、私も黙って聞くことにした。
「さっすがキース! 優しいなぁー」
「お世辞はいいから、さっさと言えよ」
「うんとさ、サクヤちゃんとどこまでいってんの?」
「ぶっ!」
 サミーの直球過ぎる質問に、キースは思い切り口に含んだお茶を吹き出していた。そのまま、むせてゴホゴホと咳き込んでいる。
「キース、汚いぞ」
「……サミーっ! おまえなっ!」
 冷静に指摘をしたが、キースにその声は届いていないようだった。苦しそうな涙目になりながら、サミーの胸元を掴み詰め寄っている。
 それにしても、喜劇を見ているようなキースの反応は面白い。私自身としても、少々興味のある内容だっただけに、二人のやりとりをこのまま温かく見守ってやろうと思う。
「何でそんなに怒るのさー」
「当たり前だろ! 何考えてんだよ、おまえは!」
「でもさ、若い男女が一つ屋根の下で暮らしてんだよ? しかもサクヤちゃんみたいな可愛い子だし、何もない方がおかしいかなぁーっと……」
「何もなくてもおかしかないだろ。ええ?」
 低い声音でサミーに言い聞かせるキースの様子は、既に脅しの域に入っていた。
 しかし、意外だ。キースがサミーと違いストイックなのは充分過ぎるほどにわかっていた。だが、いくら何でも同じ家で好きな異性と暮らしていて我慢ができるとは流石に思えなかったのだ。一体、どこまでストイックなのか。それとも単に奥手なのか。
 そういえば、キースは今まで女性関係であまりいいことがなかったらしいから、慎重になっているのかもしれない。いや、それにしたってサクヤは裏表のあるような性格ではないし、慎重になる理由にはならないか。
 珍しいものでも見るような眼で凝視していると、視線に気付いたのかキースがこちらを振り返った。
「何だよ、おまえらまで」
 明らかに不服そうな表情だ。
 おまえらということはソフィアもかと気付き、横目でちらりと窺うと、呆然としたソフィアの顔が見えた。ここまで呆気にとられているソフィアというのも滅多に拝めない。しかし、すぐに気を取り直し、ソフィアは苦笑と共に謝罪した。
「ああ、いや、すまない。どこかの軟派な騎士団長と一緒にしてはいけなかったな。いくら一緒に住んでいるとはいえ、まだ結婚前なわけだし」
 ささやかにサミーに対しての嫌味をのせているのがソフィアらしい。が、言っていることは間違っていないので、私もその流れに乗って弁解しておくことにした。
「しかし、おまえがそこまで奥手だったとは思わなかったぞ」
「こらこらこら! ちょっと待てよ、おまえら! それ以前に俺とサクヤはそんな関係じゃないぞ!」
 慌てて否定するキースに、私は首を傾げざるをえなかった。ソフィアの方も、眉間に皺を寄せて思案顔。私と同じく合点がいかない様子だ。
 そんな私たちを呆れたように見つめ、キースは溜め息まじりに続ける。
「大体、何でそうなるんだ? いくら一緒に住んでるって言っても、サクヤは妹みたいなもんなの」
 なるほど、妹か。確かに、キースはアリストクラート家に引き取られる前は、教会で多くの孤児と一緒に暮らしていたという。その中には、妹のように思う存在もあっただろう。
 しかし、キースのサクヤに対する過保護ぶりは、ただの妹のような存在に対するものにしては過剰なように思える。
「じゃあさ、俺がサクヤちゃんの恋人になってもいいよね!」
 キースの言葉を受けて、俄かにサミーが元気になって乗り出した。
 しかし、キースはギッときつくサミーを睨みつけ、「駄目だ」と即答する。ほらみろ。やはり妹でないではないか。
「何でさー? 別にキースの恋人ってわけじゃないならいいだろうー?」
「絶対駄目。おまえみたいないい加減なヤツにサクヤは任せられない」
 兄妹というよりもむしろ父親のような言い方をするなと内心で思っていると、ソフィアがすかさず「それには私も同意する」と同調した。
 確かにキースの言い分も尤もだ。ただでさえ異世界に来て混乱しているサクヤが、こちらの生活や環境に慣れようと必死になっているというのに、サミーの面倒など看させるわけにはいかない。
「そうだな。サクヤ殿にこれ以上の負担を強いるわけにはいくまいし」
「何だよー。みんな揃って俺の邪魔するのかー?」
 私に駄目押しされたサミーは、口を尖がらせてぶつぶつと抗議の声を零すしかできないようだった。反対に、キースはわかりやすいほどにホッとしている。
 そこでふと、私の悪戯心がくすぐられた。我知らず笑みがニヤリと零れたけれど、幸いにも私の表情は異種族には読まれにくい。ただ、声音でバレてしまう可能性があるので、極めて冷静に口を開いた。
「別に私は邪魔をしているわけではないのだが。ただ、せっかくキースに訪れた春を、みすみす逃させるわけにはいかないだろう?」
 サミーを諭すように告げると、キースは予想通り顔を顰めて非難がましい視線を送ってくる。
「おい、アルゼ。何で話がまたそっちにいくんだよ。別にサクヤとはそんなんじゃないって――」
「今は違っても、この先どうなるかはわからないだろう?」
「いや、まあ、それはそうだけど……」
 言葉を遮って鋭く問い返すと、キースは面食らったように言葉を濁した。更に私は、畳みかけるように続ける。
「それに、前々から『そろそろ結婚して跡継ぎを』とか言われているのではないのか?」
「うっ……」
 完全にキースの言葉が詰まった。
 キースは今年で二十六歳だ。結婚に遅すぎる年ではないが、かといって早すぎるわけでもない。それに、アリストクラート家を継げるのはキースだけであり、早々に次の継嗣を望まれるのも無理のない話なのだ。
 何より、戦場に身を置く騎士の家系において、後継者のことは切実な問題でもある。周囲からのそういった声は、彼が騎士団長に就任した頃から既にあったはずだった。
「それは別にどうとでもなるだろっ」
「なっていないから、言われるのだろう? 先日もショーン様にお会いした時訊かれたぞ? キースに誰か良い娘はいないかと」
 キースの養父であるショーン・アリストクラート卿は、軍を退いてから体調も思わしくないらしい。その所為か、キースに浮いた話の一つもないことが気掛かりなのだろう。
 この様子では、近い将来ショーン様が選んだどこかの良家の令嬢と縁談があるかもしれない。
「ああ、それなら私も訊かれたな。とりあえず、一人心当たりがあるとは言っておいたが」
「ソフィア! ショーン様に何を吹き込んでんだよ!」
 血相を変えると言う表現がぴったりなキースに、ソフィアは悪びれた様子もなく微笑んだ。
 しかし、ソフィアに心当たりがあるとは予想外だ。女ながらに騎士となり家を継いだソフィアは、どちらかというと淑やかな令嬢たちを苦手としているような節があるのだ。とはいえ、ラスター家は親戚も多いから、それなり親しい仲の者に見合った令嬢がいるのだろう。
 そう思っていたら、これまた思ってもみない返答が返された。
「別に構わないだろう? サクヤなら、申し分ないと思うぞ。何より気も合っているようだしな」
 どうやらソフィアの心当たりは、サクヤのことだったらしい。確かにソフィアはサクヤを気に入っている様子だったので、すんなりと納得がいった。それと同時に、名案だと思う。私もショーン様にサクヤを薦めておけばよかったのだ。
「それはそうだな。では、私からもショーン様にそうお伝えしておこう」
「やーめーろー! ショーン様が本気で信じたらどうすんだよ!」
「別に構わないだろう? キースもサクヤなら上手くやっていけるのではないのか?」
 何を躊躇う部分があるのかと、私もソフィアも疑問で仕方がない。
 しかし、キースの「サクヤはアマビトだろうが」という言葉でようやく彼が激しく否定と抵抗を繰り返す理由が飲み込めた。
 サクヤはアマビト。異世界からの来訪者。それは同時に、いずれこの世界から本来の居場所へと帰ってしまうということだ。
「俺はサクヤに絶対元の世界に帰してやるって約束したんだ。そんな関係になれるわけがないだろうが」
 苦々しげに、けれど切なさを滲ませて、キースが呟く。そして徐に席を立つと回廊へと向かう扉に向かって歩き出した。
 そして、部屋を出る手前で足を止め、こちらに射るような視線を向ける。
「これ以上、そういうこと言うなよ? それと、ショーン様にもサクヤにも余計なことは吹き込むな。いいな?」
 戦場で見せるものと同様の威圧感を放ってそう言い残すと、キースはさっさと身を翻し、扉の外へとすり抜けていった。
 私もソフィアも、そして途中から完全に傍観者となっていたサミーも、キースの気迫に押されて全く何も言えずじまいだ。
 しばしの沈黙が、会議室内を支配する。それを破ったのは、途中からのけ者状態にされていたサミーだった。
「バッカだなぁ……」
 どこか同情するような色の見える声音だ。
「あの様子じゃ、完全に手遅れでしょ」
「……そのようだな」
 珍しくサミーの言葉にソフィアが同意を示した。そして、言葉にはしなかったが、私も同じ見解だった。
 本人は気付いていないのだろうが、以前のキースならあんな表情は絶対に見せはしない。育ちの影響か、他人に一切隙を見せないようにふるまってきたのがキース・アリストクラートという男なのだ。
 過去の女性関係にしても、何があっても取り乱した様子など見せなかった。それは勿論、相手に対してそれほど深い愛情を持っていなかっただけなのかもしれない。だとしても、淡々と関係を処理し、出逢いや別れがあったことすら後から知るほどだった。
 けれど、サクヤに関してはどうだろうか?  傍から見ていて過保護に思えるほどに細かい気配りを見せ、できうる限りの時間を彼女と過ごすことに割いている。少し前にサクヤが捕われて傷を負った時など、自分自身の失態にいらつくと落ち込むということを同時にやってのけたほどだった。
 何より、サクヤといる時やサクヤの話をしている時の表情は、今までに見たことがないほど優しく幸せそうに私の眼には映っていた。士官学校で出会って以来、もう十四年の付き合いになるが、その間一度たりとてそんな表情を拝んだことはなかった。
 そもそも、初めてサクヤと会った時にもおかしいと思ったのだ。
 キースは軽々しく他人に「守ってやる」などとは言わない。騎士などしていれば、それがどれほど大変なことかを身に染みて知っているからだ。
 無論、騎士になったからには、誰か――主に主君だが――を「守る」のが仕事だ。だからといって簡単にできることというわけではない。
 それでも「守る」とキースは口にした。口調は軽いものだったけれど、けっして意味までは軽くないはずなのに。それほどに思わせる『何か』が、サクヤにはあったのだろう。
「なーんかちょっとヘコんだなぁ。俺もそろそろ戻るわ」
 諸悪の根源ともいえるサミーが、白けた空気に堪りかねたように部屋を出ていく。
 ソフィアも居心地の悪さもあり、自分も執務に戻ろうと思ったのだろう。辞去の言葉もそれなりに残し、サミーの後に続いた。
「さて、どうしたものか」
 一人取り残された会議室で、呟いた声がいつになく響く。
 キースはああ言ったものの、素直に聞いてやる義理はないのだ。あのどうしようもなく色恋沙汰に無頓着な男に、ようやく似合いと思える存在がみつかったのだからどうにかしたいのが本当のところ。
「とりあえず、できうる限りのことをするしかない、か……」
 自らに言い聞かせるように呟くと、私は自分の執務室へと向かい、補佐の一人を呼びつけた。殴り書きのように幾つかの言葉を書き記し、その紙を補佐に手渡す。
「そこに書いてある資料を揃えてくれ。できる限り早くだ」
「了解しました」
 私の指示に従い、軽快な足取りで補佐が退室する。それを見送りもせず、私は今現在自分に課せられた職務を速やかに処理していくことに専念した。
 私にできることがあるとしたら、ただ一つ。
 アマビトであるサクヤと、こちらの世界の住人であるキースが共に在れる道を探すこと。
 その為に膨大な資料に目を通し、些細な事柄も見落としてはいけない。
 戦略を練る上で必要なのは、できる限り正確な情報とその量、そして固定観念に囚われないこと。さすがにこの件に関しては、生半可な気持ちではまともな答えは出ないだろうが、それでこそやりがいがあるというものだ。
 もしかすると、私にとって生涯で一番難しい攻略になるかもしれない。
 そう思いながらも、上手くいった時のことを考えて、人知れず私は笑みを零したのだった。畳む

#番外編

夢のあとさきそめし朝

ゲムニの鏡
改稿前SS2/ジューンブライド/サクヤ視点

 甘い花の香りがする。何の花だろうか? 詳しくはないから、全然わからない。けれど、その甘さはおしつけがましくなくて、とても心地いい。
 そんなことを思いながら、何だかいつもより紗がかかったような視線を巡らせると、目の前には大きな扉。木目の美しい、アンティーク調の両開きの扉だ。その扉が音もなくなめらかに開くと同時に、弦楽器の奏でるハーモニーが溢れ出した。
 ――あれ? 私はここで何してるんだっけ?
 そんな疑問が頭を過ぎる。
 その答えが出る前に、一歩前に進むように隣から促された。そこで初めてすぐ隣に立つ存在に気づく。そっと見上げると、黒い燕尾服に身を包んだ叔父の姿があった。
 緊張してるな。まあ、でも当然か。だって、私も思った以上に鼓動が速いし、体の動きもぎくしゃくしている。最初に出すのは右足だっけ? 左足だったっけ?
 そこまでごく自然に考えて、先ほどの疑問を自分はとっくに解消していることに気づいた。
 今、私がいるのは小さなチャペル。目の前には真っ白なヴァージンロードがのび、縁取るように淡い色合いの花々が、薄いブルーのサテンリボンで繋がれたガラスのポールに飾られている。
 そして、身に纏うのは純白のウェディングドレス。視界がはっきりしないのは、ヴェールのせいだった。
 そう、私は花嫁なのだ。
 人生で一度きりの大舞台で、いつになく緊張している。といっても、お芝居とはまた違う緊張感だった。
 ――そういえば、私誰と結婚するんだろう?
 何だかさっきから自分の思考が二重構造な感じだ。状況を全て理解している自分と、まったくわかっていない自分。
 全部わかっている方の自分が身体を動かしていて、そうじゃない方がどこか離れた場所から見ているような、そんな不思議な感覚だった。
 少しずつ前に進みながら、ヴァージンロードの先で待つ新郎の姿を確認する。けれど、聖壇の後ろの壁は見事なガラス張りで外光が燦々と注ぎこんでいた。完全な逆光で、肝心の新郎の顔が見えない。
 ――もっと近づければ、その顔が見えるのに。
 もどかしい思いが募るけれど、叔父を引っ張って駆け出すわけにもいかない。ヴァージンロードって意外に距離があるもんなんだなと、どうでもいいことを考えながらも一歩一歩前へと進んだ。
 ――ああ、でも、あともうちょっとで……。
 あとほんの少しで、顔が判別できる程度の距離になる。
 そう思った時、不意に誰かに名を呼ばれた。


「サクヤ、そろそろ起きないと、リーヴ様が来られるわよ」
 そっと肩を揺すられ、慌てて飛び起きた。最近寝不足がちだったから、登城してすぐに、少しだけ仮眠を取らせてもらっていたのだ。
「はい。眠気覚ましにお茶をでもどうぞ」
「……ありがと、リィナ。あれ、その花は?」
 ふと顔を上げると、執務机の片隅に見たことのない花が飾られていた。百合のような形で、全体的に白いのに、花びらの根元だけがほんのり蒼く染まっている。そして、柔らかな甘さの香りを漂わせていた。淹れたてのお茶の香りと混じって、何だか妙に安らいだ気分になる。
「綺麗でしょう? 『ゲムニの鏡』という、とても珍しいお花なの」
「『ゲムニの鏡』?」
「そうよ。この花を枕元に飾って眠ると、未来の旦那様が見えるっていう言い伝えがあるの」
「え?」
 未来の、旦那様? ってことは、さっきまで見てた夢は、正夢? いやいや、あくまでも言い伝えに過ぎないじゃないの。
「サクヤも誰か夢に出てきたんじゃない?」
「あ、いや、えっと……」
 うん、確かに出てきたといえば出てきたんだけど、肝心の顔は見えなかった。何となく、背格好が誰かに似てるような気はするんだけど、それが誰かはわからない。はっきりとわかるのは、当たり前だけど鏡吾ではないことくらいだ。
「あら、本当に出てきたの? どんな人だったのかしら」
「あはは……。出てきたんだけど、全然顔が見えなかったんだよねー」
「それは残念。でも、出てきたってことは、サクヤは幸せな結婚ができるということね」
「そうなの?」
「夢に出てきた相手とは、幸福の絆で結ばれてるそうよ」
「ふぅん、そうなんだー」
「ふぅんって、何だか随分他人事のようね。サクヤは結婚に憧れたりはしないの?」
 真面目な顔で質問されたけれど、正直今の状況で結婚なんて考えられるはずがない。そんなことより何より、元の世界に帰る方法を探す方が重要なんだから。
「結婚よりも、今は目の前の問題を片付けないと駄目だしねー」
 そう言いながら、もうすぐ始まるであろう朝の授業の準備を整える。
 そういえば、あの夢。叔父さんもいたし、明らかに元の世界の光景だった。ということは、私は無事元の世界に帰って、あちらでまた誰かと恋に落ちるのだろうか?
 何だか、それこそ夢物語のようだ。元の世界に帰るのはいいとして、もう一度誰かを好きになることができる気がしない。今の自分では、とてもそんなことが考えられなかった。
 コンコンと、私の思考を中断させる音が聞こえる。時間的にリーヴが来たのだろう。どうぞと声をかけると、リィナが手早くも優雅に扉まで移動し、そっと開けた。
 と、そこにいたのは確かにリーヴだったけれど、珍しくキースも立っていた。
「どうしたの? キースまで」
「ちょっとサクヤに署名を貰いたい書類がいくつかあってな」
 そう言いながら、数枚の紙束をひらひらと振って見せる。が、それくらいついでにリーヴに頼めばいいだけだ。多分、それを口実に私の様子を見に来ただけだろう。今朝は登城する前から誤魔化せないほど疲れ切っていた。目敏いキースがそれに気づかないわけがない。
「わかった。すぐ終わる量なら、今ちゃちゃっと書いちゃうよ」
「じゃあ、頼む。ほんの五枚ほどだから」
 そう言って手渡された書類に、さらさらと署名する。こちらでの綴りはわからないからローマ字表記だけど、どうやらそれで問題はないらしい。
「はい、できた」
「……うん、抜けはないな。手間を取らせたな」
 私の署名個所を確認して頷くキースに、手間というほどの手間じゃないよ、と笑顔で返す。そこに、大丈夫だという意味も込めて。
 それが伝わったのかどうかはわからないけれど、キースはいくぶん安心したような表情になった気がした。
「じゃあ、適当に頑張れよ」
「適当とか、教えてる本人の目の前で言わないでください」
「悪い悪い」
 キースの言い様にリーヴが小さく抗議する。それに本気で悪く思っていない軽さでキースが返し、そのまま踵を返した。
 キースには騎士団長としての仕事が毎日山積みだろう。本当はこんな風に私を気遣っている暇などないだろうに。
「ああ、そうだ」
 部屋の扉を開け、今にも回廊へ出ようという時になって、キースが思い出したように振り返る。逆光に照らされたキースのシルエットに、一瞬のデジャヴ。
「今日はマミヤが来られないらしいから、外に食事に行くから、そのつもりでいろよ」
「……え、ああ、うん」
 すぐに返事しなかった私に、キースが不思議そうな表情になる。けれど、すぐに何でもないと首を振ると、訝しみながらも自分の執務室へと戻っていった。
 ――いくら何でも、有り得ない。
 自分の中に湧き上がってきたのは、そんな感情。
 夢で見た相手が、キースなわけがない。だって、向こうの世界に戻ったら、キースはいないのだから。
 いや、それ以前にキースと私はそんな関係じゃないし。そりゃあ、好きか嫌いかと訊かれれば、間違いなく好きなんだろうけど、それは男女の好きとはちょっと違って……。
 ああ、もう! 何でこんなに動揺してるの、私! たかが夢だし、たかが言い伝えじゃないか!
「サクヤ、どうかした?」
「え? ……あ、いやいや。うん」
 すっかり存在を忘れていたリーヴに作り笑顔で誤魔化す。リーヴもリィナも不思議そうに首を傾げていた。
「さぁて、勉強勉強! リーヴ、今日は何からするんだっけ!」
 何か訊かれても困るので、さっさと授業の開始を促す。リーヴは気を取り直したようにそうですね、と今日の課題を提示し始めた。リィナも、いそいそと他の仕事のために退室していく。どうにか、これ以上詮索されずには済みそうだ。
 ――気の所為、気の所為。
 自分に言い聞かせながら、私は目の前の課題に集中しようとする。
 たまたま背格好が似てただけ。しかも、キースの服装が服装だから、新郎のフロックコートとシルエットが被っただけ。
 思い出すと赤面しそうな夢の記憶を何とか頭の隅に追いやって、私はその日も課題に悪戦苦闘するのだった。畳む

#番外編

夢のあとさきそめし朝

Lingering scent
改稿前SS3/ハグの日/キース視点

 一悶着あった着任式も終え、サクヤの正式な白騎士団所属が決まって四日が経った。しかも、着任早々に反乱軍の拠点が見つかり、そこへ我が軍が差し向けられることまで決まってしまった。おかげで俺もサクヤも今まで以上に多忙だ。今もサクヤは慣れない書類作成や剣の稽古に追われている。
 少しだけでも様子を見たい。そう思い、サクヤに渡す書類はいつも部下には頼まず、自ら持っていく。
 そうでもしなければ、すぐにサクヤは無理をする。サクヤの側には常に護衛騎士がいるのだが、彼女たちが頑固者のサクヤを止められるとは到底思えないからだ。
 今日も書類の束を片手に、サクヤの執務室の扉をノックする。返事とともに、中から扉が開かれた。
 部屋の中には、サクヤの他に赤騎士団から 異動してきたばかりの女性騎士が三名。その内の一人はアデーレだ。持ち前の明るさと人懐っこさのおかげか、それともアデーレが上手くまとめてくれているのか、サクヤは彼女たちと円満にやっているようだった。
 執務机で何やら書き物をしていたらしきサクヤに、書類の束を手渡す。
「これに目を通してサインを頼む」
「了解」
「それと、午後からはどうする? また書庫に籠るか?」
「ううん。今日は剣の稽古するよ。書庫は昨日随分長居しちゃったし」
 答えるサクヤの表情には、やはり多少の疲れが見えた。できれば少し休ませてやりたいところだ。何か良い理由がないものだろうか。
「キース? どうしたの?」
 サクヤを休ませるに充分な理由が思いつかずに考え込んでいると、逆に心配そうな視線を向けられてしまった。
「疲れてるんじゃない? 少しくらい休まなきゃダメだよ? キースの代わりはどこにもいないんだから」
「大丈夫だ。少し考えごとをしてただけだよ」
 笑みを作って誤魔化すと、それならいいけどと、とりあえずは納得した様子だ。
 このままこの場に留まっていては、サクヤ に余計なことを考えさせてしまうだろう。仕方なく、俺は自分の執務に戻るほかなかった。
「じゃあ、書類は昼までに片付けておいてく れ」
「うん。わかった」
 ハキハキとした口調で応じるサクヤに、踵を返して扉へと向かう。背後で、かさりと書類を捲る音が聞こえた。と、思った次の瞬間だった。
「キース!」
「――え? お、おいっ! サクヤ!?」
 椅子を蹴り倒さんばかりの勢いで駆け寄ってきたサクヤが、俺の胸へと飛び込んでくる。慌ててその体を受け止めると、すっきりと甘い香りが鼻腔をくすぐった。少し前にリィナがサクヤのために用意した香水の香りだ。
 その香りと突然の行動に、返す言葉が出てこない。
「さ、サクヤ、一体――」
「読めた! 書類の内容! 普通に全文すらすら読めたよ! 今までアデーレやリィナに読んでもらってたのに!」
「そ、そうか……」
 それは確かにめでたい。これまでずっと地道な努力を重ねてきた結果が出たのだ。俺も一緒になって喜んでやりたい。
 だがサクヤ、頼むから気づいてくれ。今ア デーレたちがどういう表情でこっちを見てるのかってことに。
「ちょっと、キース! さすがに少しくらいは誉めてくれてもいいんじゃない!? 私、 めっちゃ頑張ったんだよ!?」
「ああ、それはわかってる。わかってるからだな、その、この体勢をどうにかしてくれないか?」
 精一杯、冷静さを保ってそう提案する。と、サクヤが慌てて離れるのと、アデーレたちがささやかな忍び笑いを漏らすのが同時 だった。軽く彼女たちを睨み付けると、すぐに視線をそらしてわざとらしく誤魔化すような咳払い。だが、その口許がまだ微かに笑みを残しているのがわかった。
 これは、変な風に勘違いをされている気がする。ただでさえ、アデーレは俺とサクヤの仲を誤解している節があるようだし、一度きちんと説明しておいたほうがいいのかもしれない。
「ご、こめん、キース。あまりにも嬉しすぎたから、つい……」
「気にすんな。それより、よく頑張ったな」
 そう言ってそっと頭を撫でると、最近では滅多に見られなくなっていた眩しい笑みが花開いた。つられるように、俺の頬も緩んでしまう。
 ――やっぱり、サクヤは笑っているほうがいい。
 屈託なく、誰よりも力強く、太陽のごとき笑顔が、サクヤには一番似合う。
 この笑顔を守る為ならば、何だってやってやろう。そう思うのは、きっと俺だけではないはずだ。それほど、サクヤの笑顔には人を魅了する力がある。シヴァがサクヤをカリスマとして選んだのも、単にアマビトだからというだけではないのかもしれなかった。
「あ、ごめんね、引き留めて。キースも忙しいのに」
「たいした時間じゃないさ。じゃあ、また後でな」
「うん」
 今度こそサクヤの部屋をあとにして、仕事が山積みになっているだろう自分の執務室
と向かう。ほんの短いその距離を歩みながら、もう一度胸の内で誓いを立てた。
 ――絶対、無事に戻してやるから。
 強い想いとはうらはらに、小さな痛みが胸を刺す。
 ふわりと、サクヤの移り香が鼻先を掠めたが、何も思う間もないほどあっけなく溶けるように消えていった。畳む

#番外編

夢のあとさきそめし朝

クワドラートの祈り
改稿前SS4/バレンタイン/キース視点→サクヤ視点

「はい、どうぞ!」
 昼食をとろうとサクヤの執務室を訪れた途端、そう言って目の前に差し出されたのは、甘い香りの漂う小さな紙袋。どうやら中身は焼き菓子のようだった。
 珍しい。菓子など今まで作ったことがなかったのに。
 料理上手なサクヤのことだから、菓子を作ることくらい大した手間ではないとはわかるが、どうしてこのタイミングなのだろうか?
 そんな疑問は、次の台詞であっさりと氷解した。
「アデーレに聞いたんだ。今日って聖リヴェ・メイヌの日って言うんでしょ?」
「あ、ああ、そういえばそうだったな」
 聖リヴェ・メイヌ。聖典にも記されている、コルモエール神教の聖人の一人だ。その生誕日が今日。現在では聖リヴェ・メイヌの日として広く知られている。
 だが、この聖リヴェ・メイヌの日には、ちょっと変わった風習がある。
 女性が意中の男性に菓子を贈るのだ。そう、『意中の相手』に、だ。
 贈られた相手は、翌日返事の代わりに花か菓子を贈り返す。是なら花を、否なら菓子を。
 その為、世間ではこの日には男女問わずそわそわしている。部下の中にも注意するほどではないにしろ、浮ついた態度の者が幾人か見られた。
 しかし明らかに、サクヤにそんな意図はないだろう。
 これはほぼ間違いなく、アデーレが真実を告げずに「日頃感謝している相手にお菓子を贈るのですよ」などと吹き込んだのだ。
 素直なサクヤなら、簡単にその嘘を信じるだろうし、俺にあてて菓子を焼くくらいの手間は惜しまないとわかる。もしかすると、複数準備して、リィナやアデーレ、リーヴなどにもふるまっているかもしれない。
 その場に残っていたアデーレにちらりと目を遣ると、案の定わざとらしく視線を外される。その口元が微かに緩んでいることから、俺の反応を楽しんでいるのは明白だった。
「あ、キース甘いもの苦手だった?」
 なかなか受け取ろうとしない俺を、サクヤが心配そうに覗き込む。
「いや、平気だ。ありがたくいただくよ」
 サクヤは真実を知らないのだし、その好意と手間を無駄にしたくはなかった。菓子を受け取ると、一瞬でサクヤの表情が明るくなる。
「よかったー! 甘いものは疲れとれるから、仕事の合間にでも食べてね!」
「ああ」
「サクヤ様、お返しに期待しましょうね」
 俺たちの様子を見守っていたアデーレが、こんな時だけしっかり口を挟んでくる。どうあっても俺に菓子か花かを贈り返させたいらしい。
「別に見返り欲しくてあげるんじゃないから、お返しとかいいの! キースも気にしないでいいからね!」
「でも、お返しするのが昔からの慣わしですから」
 俺をおいてサクヤと盛り上がり始めるアデーレを軽く睨む。その視線に気づいたアデーレは、一瞬肩を竦めるが、それでも意味ありげな微笑を隠そうとはしなかった。
 アデーレの悪戯は恨めしいが、無邪気に喜ぶサクヤの笑顔が見られたことには満足だ。そういえば、今までに何かサクヤに贈り物などしたことがないと気づく。お返しというわけではないが、何か贈るのもいいかもしれない。
 だが、贈り物といっても何がいいのかすぐには思い浮かばなかった。
 誰かに何かを贈るなんて滅多にしないことだし、更に言えば歳下の異性に贈る機会なんてなかったのだ。
 そもそも、サクヤにあまり物欲がないようだ。衣類なども必要最低限で、しかも俺の着られなくなったものでいいとさえ言う。宝飾品なども嫌いではなさそうだが、無駄遣いをするなと叱られてしまいそうだ。
 これはなかなか厄介な課題が出来てしまったと、心の中でだけ小さなため息をつく。
 昼食の最中も、サクヤと会話しながらも頭の片隅ではずっと何を贈るのか考えていた。
 こういうとき、きっとサミーならば容易に考え付くのだろう。だが、ここで奴に相談でもしようものなら、余計な勘繰りを入れられ、またあることないことサクヤや養父に吹き込まれるのは間違いない。
 アルゼに相談しようかとも思ったが、サミーと同じ結果になることだろう。
 これはどうあっても、何とか自力で解決するしかないようだった。

   * * *

 キースに申し訳ないことをしたかもしれない。
 いつも通り、諸々の執務や修練を終えて家に帰る道すがら、そんなことをずっと考えていた。
 お菓子を焼くなんて、本当に久しぶりだった。それでも、昔とった杵柄というか、劇団への差し入れでよく作っていたから、そんなに悪い出来ではなかった、……と思う。
 最近、以前にも増してお互い忙しい。特にキースは立場が立場だから、私なんかと比べ物にならないほど仕事を抱えているだろう。
 もちろん、キースは疲れた素振りなんて一切見せない。もし、私が体の心配でもしようものなら、「このくらい平気だ」と笑って見せるに違いないのだ。
 だから、心配を態度で表すんじゃなくて、少しでもキースの疲れが癒えたらいいなと、アデーレから聞いた聖リヴェ・メイヌの日の慣わしに乗っかってみたわけだ。
 けれど、まさかお返しする習わしまであったのが誤算だった。
 別に、お返しなんていらないし、そうキースにも伝えたけれど、真面目なキースがそれを蔑ろにするわけがない。現に、城を出てからずっと無言。昼食の時からずっと何かを考え込んでいるようだったのだ。
 これでは、キースに無駄な悩みを増やしてしまっただけじゃないか。
 ていうかキースさん、正直悩み過ぎですよー? そんな真面目に考えるほどのもんじゃないですよー? なんて心の声が届くはずもなく。
 結局、ほとんど会話もないまま、家まで辿り着いてしまった。
 先に立ってキースが扉を開け、家に入ってしまう。
 その後に続きながら、あーあとこっそり溜息をつこうとした時だった。
「サクヤ」
「へ? 何?」
 突然振り返ったキースが、両の手を自分の首の後ろへと回す。元に戻ってきた手には、ペンダントのチェーンが摘まれていた。円の中に正方形、正方形には対角線があり、その交差した中央には翡翠に似た緑の石が嵌まったトップが、ぶら下がっている。
 その形はどこかで見たことがあった。そう、確か宮城内にある大聖堂の壁にも、同じ形のレリーフがあった。ということは、神教に関わりのあるものなんだろう。ロザリオみたいなものだろうか?
 そんな考察をしていると、チェーンの金具を持ったままのキースの両手がそのまま私の首へと回った。
「キース、これは?」
「クワドラート」
「クワド、ラート?」
「お守りみたいなもんだ。俺はサミーと違って気の利いた贈り物なんてできないからな。これをやる」
「で、でも」
「ああ、心配すんな。特別高価なものじゃないから」
 そう言ってキースは軽く笑うが、私が気にかけていることはそんなことではない。
 このペンダントは、今の今までキースの首にかけられていたものだ。そして、私はキースがこれをつけたり外したりするのを、これまでの一度たりとも見たことがない。つまり、ずっと肌身離さず持っていた、ということじゃないんだろうか?
 となると、高価かどうかの問題ではなく、キースにとって大切なものだという可能性が高い。例えば、ヤーマさんからもらったものだとか、ご両親の形見だとか。もしそうなのだとしたら、私が受け取っていいものではない気がする。
「あの、これ、私なんかがもらっていいようなものなの?」
「違う」
「だったら――!」
「俺がサクヤに持っていてほしいんだ」
 慌てて外そうとしていたから、キースの表情を見逃してしまった。驚いて顔をあげた時には、既に背を向けて、奥へと歩き出していた。
 キースの声音はいつも以上に優しくて、けれどどこか照れたような色が滲んでいた。
「キー……」
「あら、おかえりなさいまし。お食事の準備はできておりますよ」
 呼び掛けようとしたが、ダイニングからのマミヤさんの嬉しげな声に遮られる。キースはマミヤさんに礼を言うと、着替えに行くのかまっすぐに自室へと向かっていった。
 その背中をぼんやりと見送りながら、胸元に揺れるペンダントにそっと指を添わせる。滑らかな石と、微細な銀細工のでこぼことした感触。微かに移ったぬくもりが、私の体温だけではないと思うのは気のせいかもしれないけれど、それでも何だかキースが常に傍で守ってくれているような安心感が生まれた。
 慎重な手つきでトップを摘まむと、襟元の隙間からするりと中に滑り込ませる。もう一度服の上から円い形を指でなぞると、無人の廊下で誰にも聞こえない祈りを囁いた。畳む

#番外編

夢のあとさきそめし朝

夜明け前
診断メーカーアンケート/サクヤ視点

しのぶへのお題は
・プレゼントを頂戴
・普段と変わらない一日だと思っていた
・媚びるような視線
・夜明け前
です。アンケートでみんなが見たいものを聞いてみましょう
 https://shindanmaker.com/590587

という奴の結果で書きました。
【夜明け前】です。
 夢あとのキース&サクヤのお話。

 夜が朝へと溶けてゆく、その直前の空が好きだ。山の端や建物の影からじわりじわりと陽光が侵蝕しようとするその瞬間を、あの人の隣で何度か見つめていた。
 その記憶はまだ鮮やかさを保っていて、けれどそれでも、以前よりは明らかに色褪せていて。まるで小さな画像を無理やり引き伸ばしたみたいなそれが、今までと違う胸の疼きをもたらす。
「眠れなかったのか?」
 背後から唐突に声をかけられ、慌てて振り返った。こっそりと寝床を抜け出してきたつもりだったのに、どうやらお見通しだったらしい。多忙を極めて疲れているだろう人の睡眠時間を奪ってしまったことに良心が疼く。
「ごめん。起こした?」
「いや、起きていた」
 当たり前のように隣にきて、当たり前のように肩にふわりとショールが掛けられた。日中は暖かいとはいえ、陽ものぼらないこの時間はまだまだ冷える。そのひやりとした空気がまた好きなのだけど、どうやら彼にとっては心配の種でしかなかったらしい。相変わらず、気遣いが細やかすぎて思わず小さく声に出して笑ってしまった。
「何かおかしかったか?」
「ううん。キースはやっぱりキースだなと思って」
「どういう意味だ?」
 よくわからないと訝るキースに笑みだけ返し、ほのかに赤が滲み出した方角を見遣る。
 朝が夜を、溶かしていく。
 私の夜も、少しずつ溶かしていかなくてはいけないのだろう。まだもう少し、それには時間がかかるだろうけども。
「ありがとう、キース」
「別に礼を言われるほどのことじゃないぞ?」
 不思議そうに返される言葉に、ショールのことじゃないんだけどと思いつつも、やっぱり私は微笑むしかできなかった。畳む

#番外編

夢のあとさきそめし朝

時初めの鐘に
2016年大晦日年越しSS/キース視点

 今年も、時忘れの鐘が鳴る。
 ここ数年一人で聴いていたこの音を、今年はサクヤと一緒に聴くことになるなどとは思いもしなかった。
「ねえ、キース。この鐘って何回鳴るの?」
 この国の風習に疎いサクヤは、大聖堂の尖塔を見つめながら訊ねる。外はひらひらと淡雪が舞っているというのに、一向に気にしていないようだった。風邪を引かないように早いうちに窓際から引き剥がしたいところだ。
「年の終わりを知らせる鐘、年が変わった瞬間、そして新年を祝福する鐘の三回だ」
 年の終わりを知らせる時忘れの鐘。年が変わったことを知らせる時告げの鐘。そして新年を祝福する時初めの鐘。時告げはそのまま時報の意味しかないが、時忘れと時初めにはちゃんと意味がある。
 時忘れはその年一年の悪いことを全て忘れるため。
 時初めは新たな年を新たな身で始めるため。
 因みにこの国では年が変わった瞬間に全ての人間が年を取るという考え方だ。以前サクヤに「誕生日いつ? お祝いしたいんだけど」と言われて、そんな風習があるのかと驚いた記憶がある。そして年の変わった時に祝うものだと教えると、逆に驚かれたのだ。
 それでも、サクヤは生まれた日を知っているなら教えてほしいとなおも訊いてきた。『大切な人の生まれた日は、大切な日でしょ?』と当たり前のように屈託のない笑みを向けて。
 その無邪気さがどれほど罪なのか、きっと彼女は気づいていない。
「それよりサクヤ、そろそろ窓を――」
「今のが最初の鐘だよね? 何か除夜の鐘みたい」
「除夜の鐘?」
「そう。私の世界ではね、年越しに百八つの鐘を鳴らすの」
「百八つって……結構気の長い話だな」
 話をしながら、少々強引にサクヤを窓際から引き離し、空いていた窓をしっかりと締める。俺が寒がっていると思ったのか、サクヤはごめんと小さく謝罪を零した。
「気にするな。それより、どうして百八なんだ? 随分中途半端な数だな」
「うーん、諸説あるらしいけど、百八って煩悩の数らしいよ。それを祓うための鐘? とか何とか……」
「煩悩って……」
「キースって煩悩とかなさそうだよね」
 あっけらかんと言い放たれて、内心頭を抱えたくなった。サクヤは俺を何だと思っているのだろう。サミーのような女タラシではないが、一応俺も健全な成人男子で、それなりに煩悩なるものがないわけではないのに。
「……そう言うサクヤこそ、そんなに煩悩ないだろ」
「そんなことないよ! 煩悩だらけだもん。美味しいもの食べたいし、おしゃれな服着たいし、大好きな人たちと楽しく暮らしたいし」
 並べたてられた望みは、ささやかで、けれど当たり前だと思うのは贅沢なものばかり。それを煩悩と言い切ってしまうのがサクヤらしい。
 けれど、俺が抱えている煩悩はサクヤとは違って自分の卑しさを嫌でも感じてしまう。
 もし、サクヤがアマビトでなければ。
 彼女には還る場所があるというのに、何度そう思っただろうか。
 サクヤがこの世界の人間だったならば、きっと――。
「あ! 二回目の鐘! 明けましておめでとー!」
「……明けまして?」
「そう。私の国での新年のご挨拶。年が変わるのを『年が明ける』って言って、明けましておめでとうございますってお祝いするの」
「へえ、明ける、か」
 聴き慣れないが、前向きなその表現は嫌いではなかった。
 時忘れの鐘は、悪いことはなかったこととして切り捨てる冷たさがあり、時告げによって強制的に年が終わらせられる。
 けれど、サクヤの語った除夜の鐘は悪いものを浄化しつつも受け入れ、年が明けるという考えには夜明けと同じように一続きの生を感じられた。
 こういう話を聴くたびに、サクヤの生まれ育った世界を見てみたいと思ってしまう。彼女と同じ世界に生まれたかったなどと思ってしまう。
 それはやはり、どうしようもない煩悩でしかないのだろうけれど。
「今年はいいこといっぱいある年になるといいね」
「そうだな」
 サクヤにとってのいいことには、元の世界に帰れることも含まれているのだろう。
 そう思うと、言葉とは裏腹にいいことなど起こらなくていいと思ってしまう自分がいた。
 醜いなと自嘲の笑みが零れそうになった瞬間、時初めの鐘が聴こえる。
 悪い過去を切り捨て、新たな自分になるための鐘の音。
 ああ、けれどやはり、自分にはこちらの鐘の音の方が相応しいのかもしれない。
 彼女に対する疚しい想いを捨てて、ただ真摯に彼女を守り、望みを叶えるために。
「今年こそは、ちゃんと帰してやるよ」
 ぽつりと小さく呟いた約束に、サクヤは一瞬驚いた顔をして、そして少しだけ眉尻を下げて微笑んだ。
「……焦らなくていいよ」
 時初めの鐘の余韻に紛れるほどの小さな囁きが聴こえた気がしたが、きっとそれは自分の願望なのだと聴こえなかったふりをする。
 俺はサクヤの守護者なのだから。
 そう言い聞かせ、ただの親愛の情でしかないと思わせるように彼女の髪を撫でた。 
 夜闇に紛れゆく時初めの鐘に、独りよがりな願望を無理やり溶かしながら。畳む

#番外編

夢のあとさきそめし朝

「目、つむって」
書き出しme.のお題/ソフィア視点

「目、つむって」
「断る」
 言葉の最後までしっかり聞くことなく答えると、その男は表面上だけはがっかりしたような表情をして見せた。
 この男の、こういうところが心底嫌いだ。上っ面だけで、中身の伴わない言葉や表情。
 初めて会った時から、この男が癇に障って仕方がない。
「何で? てか、もうちょっと考えてくれてもいいんじゃない?」
「考える時間が無駄だ。貴殿の提案など、ろくなことがない」
 いつまでもこの男の戯言に付き合わされるのは御免だ。できる限り早く逃げ出そうと席を立った。
 しかしこの男は、当たり前のようについてきては言葉を繋ぐ。
「ひっどいなー。そんなに俺って信用ないのー?」
「むしろ、貴殿の何を信用すればいいのかを訊きたいくらいだ」
 毎度のことながら、どれほど冷たくあしらってもこの男はへこたれない。根気強いと言えばいいのか、それとも馬鹿なのか。
 こんなことになるならば、もっと早く退室しておけばよかった。考え事に捕らわれていて、他の面々が退室していることに気づかないとは、一生の不覚と言ってもいいだろう。
「何を信用すればってさー……」
 ノブに手をかけ、やっと逃れられると思った瞬間、顔の横を青い袖が通り過ぎた。剣ダコのできた無骨な手が、目の前の扉を押さえつけている。
「何の真似――!」
「言っとくけど俺はソフィアだけは裏切らないよ?」
 怒りを滲ませて振り返ると、至近距離にシルバーグレイの瞳。銀糸の髪の間から覗くそれは、思いがけず真剣なものだった。
 と、思ったのも束の間、すぐにいつも通りのふざけた笑みで口元が歪んでいることに気づく。
 からかわれたのだ。ほんの一瞬でも、この男の言葉を信じそうになった自分の浅はかさが恨めしい。
「……だから貴殿は信用ならんのだ」
 乱暴に扉を押さえる腕を払いのけると、振り返りもせず私は会議室を後にした。

 金輪際、あの男の言葉を鵜呑みにしないと、心に誓いながら。畳む

#番外編

夢のあとさきそめし朝

放課後サイド バイ サイド
現パロ/レオン視点/レオンとセラ

 生徒会の仕事を終え、職員室へと書類を提出しにいったその帰り。ふと思い立って一年の教室のある階を通って見ることにした。別に、彼女がいるとは思っていない。もう授業が終わってかなりの時間が経っているのだ。いるはずがないのだが、何となく普段彼女が過ごしている空間を歩いてみたくなった。ただそれだけの話。
 彼女のクラスは一組だったはず。そんなことを思い出しながら何気なく教室内に視線を向ける。と、西陽の差し込む窓際の席に、見慣れた緋い髪を見つけて思わず足を止めた。
 放課後の教室。他には誰もいないその場所で、一つ年下の少女は机に突っ伏して微睡んでいる。誰か――例えば幼なじみのアルヴィンだとか――を待っていて、待ちくたびれてしまったのだろうか? そういえば、あの男は放課後になるや否やクラウスを捕まえて、さっさと下校してしまった。きっと繁華街にでも出て、好みのナンパにでも勤しんでいるのだろう。クラウスがいれば成功率が上がるなどとふざけたことをぬかしていたのだから。
 そんなことよりも、問題はこちらの少女だ。
 いくら暖かい季節になってきたとはいえ、夕方になれば冷え込んでくる。このままでは風邪を引いてしまうかもしれない。
 ――起こすしかないか。
 仕方なく、彼女の方に向かって歩き出す。
「セラ……」
 控えめに声を掛けるが、熟睡しているのか何の反応もない。
 改めて見ると、滑らかに弧を描く頬の白さと寝息を洩らす艶めいた赤い唇に、見てはいけないものを見た気分にさせられた。
 鼓動が大きくどくんと鳴る。触れてみたい、と頭の中に浮かんだ自分の欲望を、慌ててかき消した。
「セラ!」
 焦るように彼女の肩を揺すり、先ほどよりも大きな声で呼びかける。さすがにそこまでされると目が覚めた彼女は、驚いたように体を震わせて跳ね起きた。
「レ、レオンさん?」
「こんなところで寝ていたら、風邪を引くぞ」
「……あ、すみません。ありがとうございます」
 恥ずかしそうに頬を赤らめながら謝罪と礼を寄越す彼女に、気にするなと返すのが精一杯だった。
「って、あれ? もうこんな時間ですか?」
「ああ。アルヴィンでも待っていたのか? アイツなら授業が終わって早々に意気揚々と帰っていったんだが」
「あ、いえ。レオンさんを待っていたんです。この間お借りした本を返そうと思ってて。生徒会室覗いたらお仕事忙しそうだったんで、邪魔したら悪いと思ってここで待ってたらんですけど、陽射しが気持ちよくってついつい……」
「気にせず声を掛けてくれれば良かったのに」
 気遣い屋な彼女らしい選択だが、こちらとしてはそんな遠慮はしないでほしかった。きっと相手がアルヴィンならば、彼女は気にすることなく声を掛けただろうに。彼女に悪気はないとわかっていても、そうやって距離を置かれることが悔しかった。
「あ、でもちゃんと確認すればよかったですね」
「確認?」
「私がお手伝いできる仕事だったら、一緒にやった方が早かったかなって。その時は声掛けたらご迷惑かもって考えしか思い浮かびませんでした」
 気が回らなくて駄目ですね、と反省しつつ苦笑いする彼女に、自然と頬が緩む。
 どんな場合でも反省点を見つけてそれに前向きに対処しようとするところは、彼女の美点の一つだろう。
「セラは真面目だな」
「レオンさんに言われたくないですよ。ところで、もうお仕事終わったんですか?」
「ああ。これから生徒会室に戻るところだった」
「生徒会室? ……何で、この階通ってるんです?」
 彼女から指摘をされて、うっかり本当のことを答えてしまっていた。職員室は一階、生徒会室は三階、そして、この一年の教室のあるフロアは二階なのだ。通りすがりというには不自然過ぎる。
「あ、いや……」
「ああ、もしかして見回りですか? 私みたいにうっかり居眠りして下校しそびれてる生徒がいたら困りますもんね」
「……そう、だな」
 言い訳をする間もなく、勝手に良いように解釈してくれて助かった。日頃の行いのおかげだろう。
「じゃあ、気をつけて帰れよ」
「はい。レオンさんもお気をつけて」
 名残惜しいと思いながらも、そう告げて生徒会室に戻るべく教室を出た。
 本心としては、家の方向も同じなのだし一緒に帰ろうと言いたいところ。けれど、生徒会室に戻るまでの間待たせるのも申し訳ないし、何より誘うことで自分の気持ちがバレてしまうのではないかと思うと怖くてできなかった。
 せっかく先輩後輩として良い関係を築けているのだ。それを壊してしまうような真似はしたくない。
 生徒会室に戻り、自分の鞄を手にする。はぁと自分の情けなさにため息をつきながら、戸締りを確認して生徒会室を後にした。
 やっぱり誘えばよかったなどと今更な後悔をしつつ、昇降口で靴を履き替える。そうして校舎を出ようとした瞬間、昇降口の扉のところに帰ったはずの彼女の姿を見つけた。
「セラ? 何か忘れものでもしたのか?」
「本を返すつもりだったって言ったじゃないですか。さっき渡すの忘れてたので、待ってたんです。せっかくなんで、一緒に帰りませんか?」
 何の気負いもない自然な口調で、彼女は俺が言いたくても言えなかった言葉を口にした。
 別に明日でもよかったはずなのに、わざわざ俺のために時間を割いてくれることに喜びがこみ上げる。
「そうだな。日も暮れてきたし、危ないからちゃんと家まで送ろうか」
「え、さすがにそこまでは大丈夫ですよ! 私なんか襲う物好きいませんし、そもそもそう簡単に襲われるほど鍛錬を怠ってはいません!」
 これは遠慮、というよりも自分の強さに対する自負が上回っているのだろう。確かに、剣道部で全国大会常連なのだからそう思うのも当然だろう。自信満々に言い切るその姿がまた可愛いのだが、無自覚というのは怖いなとしみじみ思う。
「セラが強いのはわかっているが、最近は物騒な事件も多いからな。俺が安心したいだけだから、素直に送られてくれないか?」
「でも、レオンさんの家の方が手前にあるのに……」
「それに、セラを暗い時間に一人で帰したとなると、うちの父にも君のお父さんにも叱られそうだし」
「ああー……」
 渋る様子の彼女に、ダメ押しとして出した『お父さん』の一言に、何とも複雑そうな声が返る。彼女がそんな声を出すのは無理もない。彼女のお父さんは、度が過ぎていると言っていいほど過保護で、よく彼女自身もうんざりした様子で愚痴っていたのだ。
「そう、ですね。ありがたく送っていただきます。あ、でも、うちに着いたらできるだけ速やかに退避してくださいね! くれぐれも、兄には見つからないように、速やかに!」
 俺が送るを了承してくれたが、すぐに思い出したように彼女は付け加える。その表情には鬼気迫るものがあった。
 そう。彼女に対して過保護なのは父親だけではないのだ。いや、過保護を通り越して過干渉としか言えない超絶シスコンの兄君がいるのである。俺も今までに何度睨まれたかわからない。
「……そうだな。俺もまだ命は惜しいし……」
 彼女の兄のことを思い出すだけで一気に気が重くなる。彼女も同じなのか、ほぼ同時に大きなため息をついた。思わず顔を見合わせ、互いの疲れ切った表情にぷっとふき出す。
「あはは、レオンさん、ひどいですよー。一応あんなでも私の兄なんですよ?」
「一応、セラさえ絡まなければいい人だとは思っているんだが? そういうセラだって、まるで危険物扱いしているじゃないか」
「……だって、完全に馬に蹴られてほしい人ですし」
「馬?」
 言葉の意味がよくわからなくて訊き返すと、慌てたように彼女は何でもないですと誤魔化した。
「さて、帰りましょうか」
「そうだな。道すがら、貸した本の感想を聴いてもいいか?」
「是非! めちゃくちゃ面白かったんで、感想語り合いたかったんですよー!」
 眩しいばかりの笑顔を向けられ、ほんの少し前まで胸を占めていた憂鬱な気分は綺麗に吹き飛ばされる。
 沈む夕陽が、彼女の白い頬をほのかに染めていた。
 彼女の家まであと三十分。その短い時間だけでも彼女を独り占めできる。
 ささやかだが至福のひとときだった。畳む

#現パロ

風にゆれる かなしの花

手首にくちづけ
2019年 Kissの日SS/ロレダーナ視点/後日談

 ずっとずっと片想いをしていたレナート様の正式な婚約者となって気づけば三か月。
 恒例のお茶会は続いているし、以前よりも互いの距離は近くなっている。
  なのに――。
「子ども扱いが変わらない気がする……」
 お茶会から帰った後の自室。かつての関係の進展を望む言葉の代わりに、現状に対する不満が零れ落ちた。
 いや、確かにレナート様との会話は以前よりもずっと甘くなったし、スキンシップも増えたとは思う。頬や額や髪にキスしてくれることもあるし、その度に心臓が跳ね上がるのは確かだ。
  けれど、
「唇には、してくださらないのかなぁ」
 ぽつりと呟いたあと、自分自身の言葉の大胆さに我に返った。かぁっと頬が火照っていくのがわかる。
  けれど、けれども。私がそんな風に思うのは自然なことだと思うのだ。
  想い合う恋人同士ならば――。
「こ、恋人同士……」
 熱くなった頬に、より一層熱がのぼった。今更だけれども、改めて言葉にすると恥ずかしすぎて幸せすぎて、ベッドの上でゴロゴロと転げまわってしまいそうになる。レナート様に相応しい淑女はそんなことはしないと知っているから、必死で我慢するけれども。
 そうして一通り悶えたあと、再びふりだしに戻ってため息が零れた。
「……やっぱり、まだ幼いって思われている部分があるのかなぁ」
 ちゃんと女性として見てもらえているのはわかっている。同時に、とても大切に扱われていることも。
 七歳の歳の差は歴然としてあって、私が必死で背伸びしようとしていることも、そんな私を私のままでいいと思ってくださっているのも理解はしているつもりだ。
  それでも、不安になる。レナート様にある日突然「やっぱり妹のようにしか思えない」なんて言われたりしないだろうかと。
 両想いになったはずなのに、以前よりもずっと後ろ向きな思考になっている自分に嫌気が差した。
 
  わからないからモヤモヤするのだ。
 一晩経って、結局私はそう結論づけた。わからなければレナート様に直接訊けばいい。
  そう決意して、今日もレナート様の待つバラのお庭へと向かう。
「ごきげんよう、レナート様」
「いらっしゃい、ロレダーナ」
 いつも通りの挨拶に、いつも通りの甘い笑み。
  以前と変わったことがあるとすれば、レナート様が当然のように私の腰に手を回し、テーブルまでエスコートしてくれるようになったことだろうか。その距離の近さになかなか慣れなくて、ついつい息を詰めてしまう。
「あ、あの、レナート様……」
「なんだい?」
 直接訊けばいいと思ったはずなのに、いざ目の前にすると言葉が出てこない。大体、「どうしてキスしてくれないんですか」だなんて、淑女として恥じらいがないにもほどがあるのではないだろうか。そんなことを訊いてしまえば、レナート様にはしたない女性だと思われたりしないだろうか。
  そんな考えが頭の中を巡ってしまい、何も訊けなくなってしまった。
「ロレダーナ?」
「あ、いえ、あの……!」
 顔を覗き込まれ、至近距離に天使のように整ったお顔が近づけられる。
  レナート様近いです近すぎますちょっとこの距離は無理です心臓が止まってしまいます!
 大混乱中の私に気づいたのか、レナート様のお顔が離れていった。そして、ふいっと顔が背けられる。
  どうしよう。レナート様に失礼な態度を取ってしまった。気を悪くされたんだ。
「あの、レナート様! 申し訳――」
「まったく君は……」
 謝ろうとした私の言葉に被さったレナート様の声は、震えていた。え? 震えている?
  どういうこと? と下げかけていた頭をもう一度上げてよくよく観察すると、レナート様は肩を震わせて笑いを必死に堪えているようだった。
「レナート様、あの……私、何かおかしなことをいたしましたか?」
「いや……。ロレダーナは相変わらず可愛いね」
 腰が砕けそうな甘い声。咲き乱れる赤バラよりも真っ赤になっている私は、もう全身が茹で上がりそうなまま固まってしまった。
  そんな私に構わず、レナート様は私の左手をとった。何をするんだろうと思う間もなく、その手首に柔らかなぬくもりが触れる。ほんの少しだけ濡れた感触。レナート様の艶やかな金の髪が腕をくすぐるのに、ぞくりと今までに感じたことのない感覚が背筋を駆けのぼった。
「レ、レナート、様……?」
 呼びかけると、レナート様からは常とは変わらない笑みが返った。その笑顔に、妙に安心して、知らず強張っていた体から力が抜ける。
「さて、喉が渇いたね。お茶にしようか」
 それまでのやりとりがなかったかのようなレナート様の誘いに、私は自然と首肯していた。
  いつもどおりの、和やかなお茶会が始まる。

 そうして私が、結局訊きたかったことを一つも訊けていないことに気づいたのは、お茶会を終えて自室に戻った後のこと――。

手首なら欲望【キスの場所で22のお題】( http://lomendil.maiougi.com/kiss-title.h... )畳む

#番外編

つぼみにくちづけ

「君をおいていきたくないんだ」
書き出しme.のお題/西城と少しだけ郁

「君をおいていきたくないんだ」
 突然目の前に現れた彼は、そう言って柔和な笑みを浮かべる。
 こんなところに、と続けながら。 

 彼は、かつて自分が想いを寄せた人だった。
 終わった恋だと思っていたのに、いざ彼と再会しそんな風に言われてしまうと、かつての想いが私の体中から溢れ出した。
 ゆっくりと一歩踏み出し、自らの手をその人に向かって伸ばす。
 すると、待ちきれないと言わんばかりに彼の手が私のそれを掴もうとした。
 が、私は慌てて手をひっこめた。
 得体の知れない違和感が、胸の内に影を落としている。
 何かが、違う。何かが、おかしい。
 その違和感の正体を探るために、私は自分の記憶を手繰る。

 彼は……、そう、彼は、私の高校時代の同級生。
 明るくて、調子者で、そして、とても優しい人。
 私は彼が好きだった。けれど、彼は誰からも好かれる存在で、私の一方的な片想いに過ぎなかった。
 告白することもないまま卒業し、それ以来一度も顔を合わせていない。
 同窓会にも彼は姿を現さなくて、イベント事が好きだったはずなのに来ないなんてね、などと友達とも言っていた。後から幹事の子にそれとなく訊いてみたら、連絡が取れなくなっていると言うので密かにがっかりした思い出がある。
 それを機会に、私はきっぱりと彼への未練を断ち切った。
 そうして職場の同僚として出逢った人とまた恋に落ちて……。

 そうだ。そうだった。
 私は今の恋人――広明と旅行に来ていたのだ。
 二泊三日の、ドライブ旅行。
 広明の好きな曲をかけて、海沿いの道を快適に飛ばす。内陸育ちの私には、それだけでも新鮮だった。
 お昼には宿泊先に着き、近くの名所を二人で回ることになっていた。
 なのに、何故?
 辺りを見回すと、何もない真っ暗な闇。
 いや、闇というのともまた違う気がした。
 暗いというよりも、黒い。
 どこまでもどこまでも、黒ペンキで塗りつぶしたように真っ黒だ。
 目の前にいる彼も、その黒に溶け込む黒いスーツを纏っている。
 色というものが、一切欠如しているかのような場所だった。
 わからない。
 ここはどこなの? 広明はどこに行ってしまったの?
「ねえ、おかしいわ。私、どうしちゃったの? 広明は? 私たち、ずっと一緒にいたはずなの」
「そうだね」
「貴方は? どうして貴方がここにいるの? ここは、どこなの?」
「……落ち着いて聞いてくれるかな。君はね、事故に遭ったんだよ」
「じ、こ……?」
 言われた瞬間に、全身を痛みが襲った。
 反射的に我が身を庇うように抱き締めると、ぬるりと濡れた感触。
 恐る恐る腕を解いて目を向けると、私の体は血に塗れていた。着ていた服は無残に破け、そこかしこから生々しい傷が覗いている。
「君の恋人の広明さんは、即死だった。けれど君は、まだ助かる。だから、迎えにきたんだ」
「広明が……死んだ?」
 声が、震える。体を苛む痛みなど一瞬で忘れ、代わりに訪れたのは氷点下にも思える寒さ。
 信じたくない。広明が死んでしまったなんて。
 ううん、きっと嘘だ。本当のはずがない。
 ずっと一緒にいようと誓ったのだ。広明は嘘が嫌いな真っ直ぐな人。そんな人が私をおいて死んでしまうはずがない。
「さあ、一緒に行こう。君はここにいてはいけない」
「……違う」
「このままここにいたら、『彼』が来てしまう」
「『彼』が、来る……?」
 彼の言う『彼』は――もしかしなくても、広明のこと?
 死んだ広明が、ここに来てしまう?
 ……やっぱり、おかしい。
 そもそも、どうして彼が私を助けに来るの?
 同じクラスではあったけれど、私と彼とはそんなに親しい間柄ではなかった。
 しかも、今では消息不明になっている彼が、いまさら元同級生を助けにやってくるなんて不自然すぎる。
「ほら、早く」
 急かすように彼が手を伸ばす。
 一歩、私は後ずさった。
「いや、行かない」
「心配しなくていい。すぐに戻れるから」
 安心させるように彼は微笑むけれど、私にはそれがどうしても恐ろしく思えた。
 彼についていってはいけない。
 ついていってしまえば、私は二度と広明には会えない。
 何の根拠もないのに、どうしてかそんな確信があった。
「大丈夫。俺を信じて。君だけでも、俺は救いたいんだ」
 言葉だけは優しい。けれど、彼の身に着けた黒いスーツは、まるで死を連想させるような不吉さだ。
 そうだ、きっと彼は死神だ。
 私の好きだった人の形をとって、私を惑わし、そうして連れて行こうとしているのだ。
 広明が死んだなんて、それも嘘。
 本当の広明は、先に助かって、私を待っていてくれるのだ。
 だから、彼は言ったのだ。
 早くしないと、広明が来てしまうと。
「……佳奈美」
 かすかな呼び声に、振り返る。
 そこにいたのは、広明だった。
「いけない! 早くこっちに!」
「いや! 広明!」
 捕まえられそうになるのをすんでのところでかわして、私は広明に向かって走り出した。
 大きく両手を広げて立つ広明の胸へと飛び込むと、きつくきつく抱き締められる。
「佳奈美、よかった」
「広明……。どこにも、行かないで……」
「もちろんだ。ずっとずっと、一緒にいるよ」
 この上ない幸福感に包まれる。
 体の痛みも、凍えるような寒さも、もう完全になくなっていた。
 これからきっと、それほど時間もかからないうちに私は目覚めるだろう。
 病院のベッドの上で。
 傍らにはきっと、心配そうな顔をした広明が、私の家族と一緒に待っていてくれるはず。
 そんな予想を胸に、私はゆっくりと闇に溶け込んでいった。

   ◇ ◇ ◇

「ダメやったん?」
「残念ながら。顔見知りだと上手くいくかなと思ったんだけど、かえって怪しまれちゃった」
「いや、多分、顔知らんでも彰ちゃん自身がもともと怪しいから」
「えー、郁さん、そういうこと言うー?」
 冗談めかした言葉は、慰めの代わりだろう。
 郁さんのこういう優しさに、いつも救われる。
「せめて、明るい方に行けるようにお祈りしてきぃな」
「……そうだね」
 短く答えると、意味をなさなくなった術具たちを片付け始める。
「助けたかったな……」
 ぽつりと呟くと、ポケットから煙草を取り出す。
 銜えた一本で、こぼれそうになった言葉に蓋をした。

 ――昔、好きだった人くらい。畳む

#番外編

七夜月奇譚

人色50Title《月》16 引き摺り続ける過去
尚志視点/尚志×郁

 歪花。( http://www.usamimi.info/~miuta/magari/ )様のお題から。
 恐らく大学時代の尚志×郁。
 二人は大学近くのマンションに同棲中です。
 微エロです。R-15にもならない?

 窓を叩く雨音が、一層激しさを増した。視線を目の前のディスプレイから半分だけカーテンの引かれた窓へと移すと、大粒の雨滴が数え切れないほど花開いては散っていく。
 夜半の深雨は、嫌いではない。だが、彼女にとっては思い出したくもない過去を無理やり引きずり出してつきつける、苦々しいものでしかないのだろう。
 それを知っているからこそ、彼は静かにその部屋をあとにし、隣の寝室へと続くドアをそっと開けた。
 彼女はまだ眠っていた。クイーンサイズのベッドの上で、ブランケットに埋もれるようにして身を縮めながら。
 その表情はとても穏やかと言えるものではない。苦悶に歪み、眦からは幾つもの雫が伝い落ちてはシーツを濡らしている。
 指先でそっと涙を拭ってやり、小さく名前を呼ぶ。呼応するように、彼女が大きく身を震わせて上体を起こした。かすれた声で、確認するように彼の名を口に乗せる。
 それを吸い取るかのように深く口づけると、強引に彼女の体を抱き寄せた。小柄な彼女は容易に彼の腕の中に囚われ、抗うことはない。
 常ならば、冗談めかしてその腕から逃れようとするだろう。否、こんなにあっさりと捕まること自体が有り得ない。
 けれど、今は違う。彼女は彼を絶対に拒まない。それどころか、そのぬくもりを欲するかのように強く縋りついてくる。
 纏わりつく、過去の悪夢から逃れたい一心で。
 はだけた胸元から滑らかな肌に手を這わせると、嗚咽にも似た悦楽を噛み殺した声が漏れる。
 甘い囁きなど必要はなく、繰り返し名を呼ぶだけ。二人の間には、「好き」も「愛している」も意味のない言葉だった。ただ、名を呼ぶ合い間に唯一彼が告げる言葉がある。
 ――俺は、どこにも行かない。
 その一言に、彼女が安堵することを知っていた。そうして言葉を与え、深く体を繋げることで、彼女の耳から激しい雨音を遠ざけてやる。
 そんなことくらいしかできないのだ。それほどに、彼女の背負う傷は大きい。十年ほどの年月が過ぎようとし、その傷の原因となったものを取り除いた今となっても、癒されることなく血と涙を流し続けるほどに。
 疲労と安堵で眠りについた彼女を腕の中に閉じ込めたまま、彼もまた眠る。
 翌朝にはきっと、いつも通りの太陽の如き笑顔で、彼女は彼を邪険に扱うだろう。鬱々しい雨など払いのけるほどの笑顔で。

 二人分の静かな寝息を、次第に弱まっていく夜半の雨音が優しく包み、やがて溶けるように消えていった。畳む

#番外編

禍つ月映え 清明き日影七夜月奇譚

人色50Title《月》25 無意味な力
響視点

 歪花。様のお題から。
 まがさや 章之壱 肆 逆賊 の05の後くらい。
 ほぼほぼ響の回想。
 響の本編には出てこない捻じ曲がった部分をクローズアップした奴。
 後半部分は昔本編にも載せてた。

 ――いいか、響。おまえの能力は希少なものだ。
 幼い頃から繰り返された言葉が、成人した今でも脳裏にこびりついている。
 ――今の乾坤(けんこん)四家には、月姫様に見合うような男子がいない。だから、これはチャンスなのだ。わかるな? おまえは自分の能力を磨き、月姫様に相応しい男となれ。
 今思えばずいぶんと無茶なことを望むものだと思いもする。だが、小学生にもならない響は父の言葉を素直に受け止め、律義に自分の能力を伸ばすための努力を重ねていた。
 ――月姫様に相応しい人間に……。
 その言葉を、半ば呪文のように繰り返しながら。
 しかし、その一方で、当時その『月姫様』――つまり嫦宮は不在だった。六条院宗家が総力を注ぎこんで探し回ってはいたのだが、嫦宮不在の期間は実に十年を越えようとしていた。十年も経てば、当然心身ともに成長する。中学生になった頃には、同世代の中で早熟だった響が、大きな疑問と反発を抱くのも当然の流れだった。
 何故、いもしない嫦宮のために自分は努力をしているのだろう。そもそも、本当に嫦宮などという存在がいるのだろうか? 宗家方の話すような、神のごとき存在が、本当に……。
 嫦宮に対する盲信と妄執が垣間見える父。そして一族の特殊性を理解すると同時に、嫦宮というまだ見ぬ存在に不信感が生まれた。
 それでも、表面上はそれを露わにすることもなく過ごしていたが、内心ではもう嫦宮などどうでもよい存在となっていた。
 そんな中、ようやく当代の嫦宮が見つかったと父から聞かされた。その盛大なお披露目が近々行われると知り、響は複雑な心境に陥った。
 本当に嫦宮は存在したのか、という驚き。
 今更現れたと言われても、という苛立ち。
 そして、そこまで必死になる嫦宮というものが如何程のものなのか、という好奇心。
 相変わらず嫦宮を崇め奉る父から、響もそのお披露目の会に出なさいと言われたときには、面倒臭さよりも好奇心が勝った。

 当代嫦宮のお披露目は、古都にある六条院宗家本邸で行われた。本邸を訪れるのは初めてで、ただただその規模に響は圧倒されながら、宗家のお偉方に父とともに挨拶をして回った。
 そうしていよいよ当代の嫦宮が登場する段になる。百人以上も入れる広い大座敷で、綺麗に並んで正座する一族の者たち。その末席で、響も大人たちに倣って正座し、頭を垂れていた。
 静かに障子の開く音。衣擦れ。ふわりと漂う極上品(ごくじょうぼん)の伽羅の香り。
 自ずと緊張が高まる中、上段の間に座する気配が伝わる。宗主の声掛けと共に周りと合わせて顔を上げた瞬間、響は息を呑んだ。
 白衣(びゃくえ)に緋袴、その上に菊重(きくがさね)千早(ちはや)をまとい、腰よりも長い射干玉(ぬばたま)の髪を惜しげもなく背に流すのは、自分とさほど歳の変わらない少女。だが、その少女の放つ空気は、とても同じ世界に住む人のものとは思えないほど神々しい。どこを見つめているのかわからない深淵のような黒耀の瞳が、更に神秘性を高めていた。
 美しい、などという言葉では足りない。人にして人に非ず。父があれほど心酔する理由が、初めてわかった。
 嫦宮は――生き神は、確かに存在する。

 この瞬間から、響は自分の手にした力全てを嫦宮に捧げようと決めた。誰の命令でもなく、自分自身の意思を以て。
 かつて父が飽きるほど繰り返した言葉は、自らの想いへと生まれ変わり、響の存在意義となったのだった。
 六年前の、あの時までは――。



「兄貴、帰らねぇの?」
 訝かる声に、響は思考の淵から浮上した。声の方へと顔を向ければ、弟が立ち上がろうとしている体勢のままだ。
 六条院家別邸の座敷の一間。開け放たれた障子の向こうからは、蝉が忙しなく鳴き続けていた。
 数十分前まで十人以上もの人数が集っていた場所には、すでに響、亨、帆香の三人だけとなっている。ほんの少し前までこの場に残っていた郁と尚志は、呼びに戻った輝行とともに奥座敷へと移動していた。
 もう必要な話は済んでいる。帰っても構わないはずだ。しかし、それでも響はなかなか腰を上げる気分にはなれなかった。
 どうして宗家の人間は横木輝行に肩入れするのだろうか。それが、納得できない。その想いがずっと頭の片隅から離れなかったからだ。
「兄貴?」
 何も答えない響に、亨の声が気遣わしげな色を強めた。それに響は落ち着きはらって笑みを作る。
「先に帰っていて構わないよ。俺は少し、訊きたいことがあるし」
 柔らかな声音だったものの、どこか突き放すような口調になってしまったのは、緊張があったからだろうか。常との微妙な対応の違いに、亨がひっそりと溜め息を洩らしたことに気づいた。呆れているのかもしれない。弟は自分とは違い、嫦宮や宗家に対してさほど思い入れがないようだから。
「亨」
 すでに濡れ縁まで出ていた帆香が控え目に促した。帆香も響の嫦宮崇拝を知っている。きっと、今も自分の気持ちを慮ってのことなのだと響にはわかった。
 亨が帆香に応え、先に帰るからと寄越す。気をつけてと返すと、二人は仲良く揃ってその場を後にした。
 人の声の無くなると、蝉時雨が耳に痛い。
 あの日も、こんな風に蝉の音が喧しかった。



 六年前の七月七日。
 それは当代嫦宮である郁が、十六の誕生日を迎える日だった。
 嫦宮が十六歳になる日というのは、特別な意味を持つ日でもある。とりわけ、響にとってはその日は重要であった。
 それは、『姫紲(きせつ)』が選ばれる日。父の言った、『月姫様に見合う者』が決められる日だった。
 この日が、響は待ち遠しくて仕方がなかった。姫紲は代々乾坤四家から選ばれることになっていたが、今の四家には年齢的に当代と釣り合う男子がいない。唯一の例外が吉良家の長男である尚志であったが、彼は吉良家血縁ならば本来受け継ぐはずである風精術使(ふうせいじゅつし)の力を微塵も有していなかった。
 姫紲は嫦宮の配偶者であると同時に、最も身近に仕える守護者でもある。何の能力も持たない者に務まる役目ではなく、当代の姫紲は例外的に他家から選ばれるのではないかともっぱらの噂だった。
 それが本当ならば、響が選ばれる可能性は限りなく高い。乾坤四家に次ぐ位置にあるのは、常磐家と守屋家。常磐家には累がいたが、彼はそれほど体が丈夫な方ではなかった。そうなれば、亨か響という選択肢しか残っておらず、当時それほど門の能力を開花させていなかった亨よりは、熱心に修行を積み着実に紋の戻士として成長していた響に決まることは火を見るよりも明らかだった。
 そんな夢を胸に抱きながら、一族の集いに響は向かった。父も長年の想いが実るかもしれない期待に、どこか落ち着かない様子だった。
 お披露目の時と同じ大座敷。外では蝉の声が、そして内には高鳴る鼓動が間断なく続いていた。
 末席に座し、当代の現れる瞬間を待つ。宗家身内の合図に全員が頭を垂れると、静かに障子が開いた。いつも通りの嫦宮の登場だ。そう思った。
 だが、本来次に声を発するはずの宗主の代わりに、凛とした少女の声で「面を上げよ」と聞こえた瞬間、ざわめきが拡がった。
 おずおずと顔を上げる一族の者たち。響も他の者たちと大差ない様子で上段の間に目を向けた。
 そこにいたのは、嫦宮の御装束(みしょうぞく)をまとった、ショートカットの快活そうな少女。神々しさも美しさも相変わらずで、それが当代嫦宮本人であることに間違いはない。けれど、その瞳に宿る力強い光が、以前とは別人かと思わせるほどだった。
「つ、月姫様……、その御髪(おぐし)は……」
「暑いから切った。別に問題はないだろう? それから、姫紲のことだが手短に言おう。吉良家の長子である尚志に決まった」
 何の前置きもなく、郁の口からさらりと滑り出た言葉が、響の思考を真っ白にする。しばらく放心の後、その白を塗り潰す勢いで疑問が溢れ出した。
 何故、尚志なのか。何の力もないのに。強いて挙げれば、彼にあるのは家筋だけ。
 自分は嫦宮のために力を身につけてきたのに。他の誰もが、自分ならば相応しいと言っている声を何度も聞いてきたのに。
 何の為に、今まで努力をしてきたのだろう。これでは、まったく無意味ではないか。
 次々に不満と落胆と失望が押し寄せ、響の積年の想いが踏み荒らされていく。父親が何か発したようにも思えたが、まったく耳に入ってこなかった。
「異論は認めない。これは、長老方も納得した決定だ。以上」
 そんな状況でも、郁の声だけは妙に頭に響く。項垂れていた顔を上げると、これ以上話すことはないと言わんばかりに、郁が颯爽と上段の間から降りていくところだった。そうしてふと障子の一歩手前で立ち止まり、振り返る。視線を向けたのは、ちょうど座敷の対角線上だ。
 そこにいたのは、響と同じ年の容貌麗しい少年――先ほど姫紲に任じられたばかりの吉良尚志。尚志がその視線を受け取ると、郁は無言で座敷を後にし、宗家の家人もそれに続いた。それに倣うように、尚志もその場を辞する。
 後にはただ、状況を飲み込み切れずにいる一族たちと、存在意義を見失った響が残されていた。



 不意に、床板を踏みしめる音で我に返った。
「あら、お帰りにならないのですか?」
 濡れ縁から鈴を転がすような可憐な声が零れる。そこに立っていたのは、両手で何かを抱え持っている茉莉だ。多分、その手に持つものは郁と尚志に指示されて持ってきたものだろう。向かう先はもちろん、その二人と基、織月、そして横木輝行が待つであろう奥座敷だ。
「茉莉さん、尚志さんに伝えて頂けませんか? あとでお時間を頂けないかと」
「……それは、結構ですけど」
 少し言い淀んでから、茉莉は微かに苦笑を浮かべて続けた。
「何を訊いたところで、兄様は結局重要なことは教えて下さらないと思いますわよ? もちろん、知る必要があると判断されたならば別ですが」
「では、茉莉さんは尚志さんの意図もわからないままに従っていると?」
「わからないわけではありません。一応、これでもあの人の妹を二十年近くやっているのですから。けれど、兄様は私などでは考えも及ばないくらい、先のことを見通しておられます。だからこそ姉様も絶対の信頼を置かれているわけですし、私如きが『こういう意図があるであろう』と推測したところで、それは兄様のお考えのほんの一部分でしかないのです。そしてそれは、私に限ったことではないと思っております」
 言外に、貴方にも理解が及ばないだろうと告げられ、響は膝の上に置いていた両の手を握り締めた
 しかし同時に、茉莉の言い分が正しいことを、痛いくらいに知っている。自分ではどう足掻いても敵わないほど、尚志は優れている。たとえ精術使としての能力は一切持たなくても、その頭脳が補って余りあるほどなのだ。そんな事実など知りたくもなかったのに。
「それに、私は兄様の意図を全て理解はできなくても、兄様のなさることに間違いはないと信じておりますから」
「……そう、ですね。確かに尚志さんならば、宗家や郁様に益のないことなどされないでしょう。しかし――」
 そこまで言って、響は言葉を途切れさせる。次の一言を言うには、相当の覚悟が必要だった。いくら年下といえども、響にとって茉莉は宗家中枢の人間に他ならない。大きく息を吸い込み、思いきるように口を開いた。
「しかし、織月にとってはどうなのでしょうか? 織月は今、かなり不安定な状態です。宗家の方々からはそうは見えなくても、かなり無理をしているのです。そんな状況では、織月に負担を強いるようなことになるのではないですか?」
 表面的には感情を抑えはしたけれど、内心では言葉よりももっと激しい焦燥感が襲っていた。その焦燥感の正体が何なのか、響は理解をしている。そして、そんな気持ちを持つことが馬鹿馬鹿しいことだと言うことも。
 それでも、その感情を消し去ることはどうしてもできなかった。そんな響の心の内の葛藤など全く気付かぬまま、茉莉はふわりとした笑みを浮かべた。
「本当に織月さんが大切なのですね」
 率直過ぎる茉莉の感想に響は気恥ずかしい思いを感じたものの、表には出さずに曖昧な表情を作るのみ。茉莉がそれをどうとったのはわからなかったが、視線を濡れ縁の遠く先へと向け直したことに安堵した。
「兄様には伝えておきます。ただ、今のお話を終えられるのにどの程度のお時間がかかるのかはわからないですが……」
「大丈夫です。お願いします」
「わかりました。それでは、ここでお待ちになっていて下さい」
「はい」
 茉莉がゆるりとその場から離れていく。
 微かな足音が遠ざかるに従い、辺りが静寂に占められていった。つい数分前まで騒がし鳴き声を響かせていた蝉達も、示し合わせたかのように黙りこくっている。
「よりによって……」
 響の呟きが静かな空気を震わせ、波紋となって拡がった。それに触発されたのか、一斉に夏の風物詩の大合唱が始まる。続く響の言葉は蝉時雨にかき消され、溶け去った。
 響はただ一人座敷で佇み、一族の最も無能にして有能な参謀役を待ち続けたのだった。畳む

#番外編

禍つ月映え 清明き日影

人色50Title《月》27 初めから有り得ない
織月視点/輝行と織月

 歪花。様のお題から。
 織月視点。
 まがさや 章之壱 肆 逆賊 の05の後のお話。

 自室に入った瞬間、織月はこみ上げる疲労を溜め息に乗せて吐き出した。ノロノロとした動作で机の上にバッグを置くと、力なくベッドに腰を下ろす。脳裏には、つい数分前に別れた相手とのやりとりが再生されていた。
 基に車で駅まで送られてから、自宅までの数十分間。二人きりで交わす会話は、ほとんどなかった。そして、その数少ない会話の内容は――。
「……人の気も知らないで」
 パタンと仰向けにベッドに倒れ、織月は微かな苛立ちを吐露した。
『各務綺麗なのに』
 褒められて、嫌な気分になる人間はいないだろう。それが、自分が好意を持っている相手なら尚更だ。
 けれど、それも時と場合による。
 相手は――横木輝行は、織月の想いを知っている、はずなのだ。知っていなければおかしい。織月は、面と向かって想いを告げたことがあるのだから。
 しかも、織月の告白からまだひと月足らず。その事実を忘れたというならば、どれだけ物忘れが激しいのだと罵りたい気持ちにすらなった。
 とにかく、何事もなかったかのように、全て忘れてしまったかのように、あんな風に言わないで欲しい。些細な一言でも、心の奥に押し込めている気持ちは、簡単に揺らいでしまうのだから。
「どうせ、深く考えないで口にしたんだろうけど」
 単純で、明快で、思ったことはそのまますぐに言葉にしてしまう。輝行はそんな性格なのだと、知っている。それが、彼の長所であり、短所でもあるのだ。だからこそ、輝行に惹かれたのだと自分自身でもわかっていた。
 上手く整理しきれない己の感情に、苦笑いが浮かんだ。
「綺麗、か……」
 言われ慣れていない言葉だった。織月にしてみれば、『綺麗』というのは郁のような人にこそ相応しいと思う。実際、自分が綺麗だなどと思ったことはないし、誰かにそんな風に言われたこともない。
 なのに輝行は、ごく真面目な顔で言ってのけた。その表情からは、からかうような様子は見えなかったし、お世辞を言ったようにも思えなかった。第一、輝行が織月にお世辞を言うメリットもないし、そんな器用な性格もしていない。
 だから、素直にそう思ってくれているのだろうとは思う。
 嬉しいのだ。純粋に。嬉しいからこそ、不要な期待を抱いてしまう自分が、愚かな気がして堪らなくなった。
「未練がましい女になんて、なりたくないのに」
 なのに、ほんの小さなことにも、過剰に反応してしまう。
 きっと輝行は、あの後の自分の態度に戸惑っただろう。それに追い討ちをかけるように凪沙に「彼氏」発言されて、さらに気まずくなってしまった。
「凪沙のバカ。絶対に、有り得ないのに」
 自身と輝行が、恋人同士などという甘い関係になるはずがない。すでにフラれているという、厳然たる事実があるのだから。そもそも織月には、告白する気なんて全くなかったのだから。
 それでも口にしてしまったのは、本当にその場の勢いと、そして、遠くないうちに会えなくなるとあの時は思ってしまったからだった。
 その予定が今は保留になってしまっている。思いがけずに輝行にも戻士の血が流れていることが判明した今では、予定は延期となる可能性も充分にあった。
 こんなことになるならば、言わなければ良かったと思う。後悔しても、過去を変えることなどできないけれど、それでも思わずにいられない。
 同時に、思わずにはいられないけれど、嘆いている暇はないのだ。そう、自分に言い聞かせる。
「初めから、有り得ないんだから」
 消え入りそうな声で、言い聞かせる。
 今の織月には、自らの最大の望みを叶える為に、そう言い聞かせるしかなかった。 畳む

#番外編

禍つ月映え 清明き日影

人色50Title《泪》11 遅すぎた後悔
尚志・郁・片岡・井隼で麻雀するお話

 歪花。様のお題から。
 七夜、井隼片岡+郁&吉良兄妹の麻雀アホ話。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 井隼と片岡は、この場に足を運んだこと、軽い気持ちで彼らを誘ったこと、否、それ以前に彼らと友人関係を築いてしまったことを激しく後悔していた。
 こんなはずではなかった。
 何度その言葉が頭を過ぎっただろうか。
 しかし、今更そんな後悔は何の役にも立たない。
 井隼の震える指先を、片岡が固唾を飲んで見守る。
 溢れ出しそうな涙を堪えながら、井隼は自らの命運を、十四分の一のそれに掛けた。


「ローン! 高めゲットぉ!」
 死の宣告が井隼の希望を切り裂いた。
 郁の手元にパタンと倒された十三枚の牌は、綺麗に筒子(ピンズ)で染まっている。どこからどう見てもハネ満確定の面前清一色(メンゼンチンイーソウ)
 しかも、井隼の捨て牌は更に三役高くしてしまう、二盃口(リャンペイコー)までつけてしまう物だった。これで倍満にまで点数は跳ね上がる。
「またかぁっ!」
「井隼、とぶなよっ! 俺も焼き鳥つくだろうが!」
「俺なんか焼きトビっすよぉ!?」
 がっくりと麻雀卓の上に倒れ伏す井隼に、片岡が容赦のない罵声を浴びせた。
 片岡自身も、この半荘で一回も上がっていない。井隼の提案で採用された焼き鳥ルールは、一回も上がれない状態を『焼き鳥』といい、その状態で一半荘を終えるとペナルティーが科せられるのだった。
「これまた高いなー」
 すでに二回手早く上がり、点棒も浮いている尚志は涼しげな表情で郁の手牌を見つめる。
 「綺麗やろー」とウキウキした様子で郁が裏ドラをめくると、見事に筒子の四が現れた。
「お、乗った! メンチンリャンペー、裏裏で三倍まーん!」
「城宮さぁん! どんだけ絞り取ったら気が済むわけ!?」
「えー? そんなん言うても、井隼君とテル君が麻雀やろて言い出したんやん?」
 天使のような笑顔で答える郁だったが、今の井隼と片岡には悪魔にしか見えなかった。
 思えば、何故初めに気付けなかったのだろうかと、今更ながらに自分達の観察眼のなさを呪いたくなる。

 事の発端は、片岡の一言だった。
「久しぶりに打ちてぇなー」
 サークルのボックス内で片岡は退屈そうにそう呟いた。それを聞いた井隼は、最近ネットゲームの麻雀にハマっていたこともあり、真っ先に賛成をしたのだ。
 そして、その時ちょうどその場に現れた尚志と郁を誘った。
 尚志や郁が麻雀をできるかどうかは知らなかったのだが、それならそれで好都合と二人は考えていたのだ。
 尚志は少々渋っていたのだが、あっさりと郁が承諾した為に四人で打つことになった。
 しかし、家に麻雀セットがあると尚志が言った時点で、疑いを持つべきだったのだ。
 確かに、尚志の家に行って、全自動卓が置いてあることにも、慣れた仕草で卓の設定をする尚志にも、驚きはした。
 けれど、尚志の「親戚が好きでね。よく使うんだよ」という言葉に、『親戚が使う』イコール『尚志が頻繁に打つわけではない』と勝手に思いこんでしまった。
 考えてみれば、尚志の部屋なのだ。部屋の主が打たないのもおかしな話だ。しかも、『親戚』の一言。郁が尚志と親戚同士であることは、百も承知していたはずなのに。
 ルールを決め、ゲームを始めた瞬間、郁の手捌きが半端なく慣れていることに気付いた。
 華麗な小手返し、理牌(リーパイ)する早さ、ツモ牌は完璧に盲牌(モウパイ)し、見る前に河に捨てることもままあった。
「し、城宮さん、随分慣れてるんだね」
「んー? ウチ、家族麻雀するからなぁ。さすがに雀荘とかは行ったことないわ」
 焦りを隠せずに井隼が話しかけると、郁はそうあっけらかんと答える。
 何だ、家族麻雀か、と安心したのも束の間、郁に軽やかにリーチを宣言し、次巡には赤ドラをツモって上がりを決めた。
 その瞬間から、井隼と片岡の悪夢は始まったのだ。
 三半荘連続、井隼と片岡は焼き鳥。しかも毎回二人のうちのどちらかがラストになる。
 尚志は郁との対局に慣れているのだろう。安めの上がりで毎回焼き鳥を回避し、最終的にはプラスにしていた。
 郁の手は毎回高く、安いと思った場合でも裏ドラが三枚乗るなどして、簡単に満貫以上になってしまうのだ。
 驚異のヒキの強さに、井隼と片岡には為す術がなかった。
 そんな二人を哀れに思ったのか、尚志が煙草を持って立ち上がる。
「ちょっと疲れたし、一服していいか?」
「お、おお! いいぞいいぞ! ってか、俺も煙草休憩したい!」
「俺もノド乾いたッス! ジュースでも買ってきましょうか?」
 助かったとばかりに逃げ出そうとする片岡と井隼に、郁は苦笑するしかなかった。
 さすがにやり過ぎたと思ったのだろう。
「ジュースは買わんでも冷蔵庫に何か入っとるやろ」
 井隼を促しながら、勝手知ったるという風にキッチンへと向かい、冷蔵庫を開ける。
「井隼君、何がええ? 炭酸系はコーラしかないけど」
「あ、んじゃコーラで。っと、吉良さん、頂きまーす!」
 あまりにも自然な郁の態度に、つい当たり前のように答えてしまったが、部屋の主が彼女でないことに気付いて慌てて付け加えた。
 尚志は短く応え、片岡と並んで紫煙をくゆらせている。
「テル君はコーヒー?」
「お、サンキュー、郁ちゃん」
 郁はグラスを人数分出し、井隼にはコーラを、片岡と尚志にはアイスコーヒーを手渡す。それから自分の分のフルーツジュースを準備した。
 と、その途中で携帯電話が麻雀卓の上で鳴っているのに気づく。
 グラス片手で携帯を手に取ると、メールだったらしく、手早くキーを操作してまた携帯を置いた。
「尚志ー、茉莉がもうすぐ来るって」
「マツリ? 誰?」
 聞き覚えのない名前に、片岡が反応する。井隼も不思議顔で尚志に視線を向けた。
「俺の妹だよ」
「ちなみに茉莉は、逍女に通う女子高生よん」
 郁が悪戯な笑みを浮かべてそう付け足すと、あからさまに井隼の表情が明るくなった。
 逍遥女学院――通称・逍女は、久遠学院の姉妹校であり、この辺りでは有名なお嬢様学校なのだ。学園祭のチケットが高額で取引されていたりもするほど、周囲からは高嶺の花と目されている名門女子高だった。
「逍女!? すっげぇっ!」
「待て、井隼! 確かに逍女は魅力的だが、兄貴はコイツだぞ! 性格がまともなわけないだろ!」
「どういう意味だ、晃己」
「テルくーん、心配せんでも茉莉はええ子やでー」
 三人のやりとりを眺めながら、郁は小さく笑いを零した。そして、小さく「性格は、な」と付け加える。その声は、騒ぎ立てる井隼と片岡の声にかき消され、届きはしなかったが。
 そうこうしている間に、インターホンが軽やかに響いた。
 郁が当たり前のようにそれに出ると、数秒後に玄関のドアが開いた。
「おかえりー、茉莉」
「ただいま帰りました、兄様、姉様。あら、お友達がいらしていたのですか?」
 ポニーテールを揺らして小首を傾げる茉莉の姿に、井隼と片岡が一瞬で締まりのない顔になった。
 清楚、可憐と言った言葉がぴったりの茉莉に、憧れの逍遥女学院のセーラー服がよく似合っている。言葉遣いや物腰も淑やかな茉莉は、まさにお嬢様といった雰囲気を漂わせていた。
「サークルの友達だよ。片岡は俺と同回で、井隼は郁と一緒」
「片岡さんと井隼さんですね。初めまして、茉莉と申します。兄がいつもお世話になっております」
 丁寧に頭を下げる茉莉に、井隼と片岡はでれでれとしながら、「いや、お世話なんて」「こちらの方が」などと返していた。
 その茉莉の視線の端に、リビングに据えられた牌が乱雑にばらまかれている麻雀卓が入った。
「兄様達、麻雀なさっていたんですか?」
「え? ああ。この二人がやりたいって言い出したからな」
「丁度えぇわ。茉莉も混ざらへん?」
 にっこりと笑って誘いをかける郁に、片岡と井隼は驚いたように視線を行き来させた。
 二人には、茉莉と麻雀が繋がらなかったのだろう。
「でも、私なんかが入ってしまいましたら、片岡さんと井隼さんはつまらないのでは……」
「ええっ!? そんなことないっス!」
「うんうん! むしろ、美少女と卓を囲める方が、俺たちは嬉しいから!」
 柳眉を顰めて申し訳なさそうにする茉莉に、すぐさま二人は否定をして、茉莉の参加を歓迎した。
 それを面白そうに眺める郁と、呆れた溜め息をつく尚志には一切気付いていない。
「ほら、二人もそう言うとるし。ウチの勝ち分、茉莉に引き継がせてウチ抜けるわ」
「何だ、俺は面子確定なのか?」
「え? 尚志も抜けたい? そんなら三打ちにする?」
「おおっ! 三人打ち! 実は俺、最近三人打ちにハマってるんスよねー」
 郁の提案するまま、ノリノリの片岡と井隼は茉莉と三人で、卓を囲むということになった。
 それが、二人の更なる悲劇の始まりだとは知らずに――。

 後に二人は語る。
「吉良家親戚一同とは、何があっても麻雀を打つな」と……。
 遅過ぎた後悔は、彼らを破滅へと導いたのだった。畳む

#番外編

七夜月奇譚

お揃いワンピース
Pixiv公式企画 ポッキー300文字SS参加作

 夏の間にこんがりと焼けた娘たち。肌寒さを覚える最近では、色違いのお揃いワンピースがお気に入りのようだ。十歳の長女は、少し大人ぶりたいお年頃なのか落ち着いた茶色を、キラキラヒラヒラ可愛らしいものが大好きな七歳の次女は、案の定ピンクを選んでいた。

  秋晴れの綺麗な日曜日。家族四人でお弁当とおやつを持って、ピクニックにいくことにした。娘たちは、今日もお気に入りのワンピースだ。追いかけっこをする 娘の後ろから夫とついていくと、何かを思いついた風に夫が小さく笑った。「どうしたの?」と問うと、夫は肩から掛けていたバッグをごそごそと漁る。取り出 したのはお菓子の箱二つ。「そっくり」と夫が笑みを零すのに、私は前を歩く二人をもう一度見つめた。
 なるほど。日に焼けた肌に茶色とピンク。この瞬間、我が娘たちの新たなニックネームが決まった。夫から二つの箱を受け取り、大きく振る。

「おやつにするよ、ポッキー娘!」畳む

#企画

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