No.10, No.9, No.8, No.7, No.6, No.5, No.47件]

「君をおいていきたくないんだ」
書き出しme.のお題/西城と少しだけ郁

「君をおいていきたくないんだ」
 突然目の前に現れた彼は、そう言って柔和な笑みを浮かべる。
 こんなところに、と続けながら。 

 彼は、かつて自分が想いを寄せた人だった。
 終わった恋だと思っていたのに、いざ彼と再会しそんな風に言われてしまうと、かつての想いが私の体中から溢れ出した。
 ゆっくりと一歩踏み出し、自らの手をその人に向かって伸ばす。
 すると、待ちきれないと言わんばかりに彼の手が私のそれを掴もうとした。
 が、私は慌てて手をひっこめた。
 得体の知れない違和感が、胸の内に影を落としている。
 何かが、違う。何かが、おかしい。
 その違和感の正体を探るために、私は自分の記憶を手繰る。

 彼は……、そう、彼は、私の高校時代の同級生。
 明るくて、調子者で、そして、とても優しい人。
 私は彼が好きだった。けれど、彼は誰からも好かれる存在で、私の一方的な片想いに過ぎなかった。
 告白することもないまま卒業し、それ以来一度も顔を合わせていない。
 同窓会にも彼は姿を現さなくて、イベント事が好きだったはずなのに来ないなんてね、などと友達とも言っていた。後から幹事の子にそれとなく訊いてみたら、連絡が取れなくなっていると言うので密かにがっかりした思い出がある。
 それを機会に、私はきっぱりと彼への未練を断ち切った。
 そうして職場の同僚として出逢った人とまた恋に落ちて……。

 そうだ。そうだった。
 私は今の恋人――広明と旅行に来ていたのだ。
 二泊三日の、ドライブ旅行。
 広明の好きな曲をかけて、海沿いの道を快適に飛ばす。内陸育ちの私には、それだけでも新鮮だった。
 お昼には宿泊先に着き、近くの名所を二人で回ることになっていた。
 なのに、何故?
 辺りを見回すと、何もない真っ暗な闇。
 いや、闇というのともまた違う気がした。
 暗いというよりも、黒い。
 どこまでもどこまでも、黒ペンキで塗りつぶしたように真っ黒だ。
 目の前にいる彼も、その黒に溶け込む黒いスーツを纏っている。
 色というものが、一切欠如しているかのような場所だった。
 わからない。
 ここはどこなの? 広明はどこに行ってしまったの?
「ねえ、おかしいわ。私、どうしちゃったの? 広明は? 私たち、ずっと一緒にいたはずなの」
「そうだね」
「貴方は? どうして貴方がここにいるの? ここは、どこなの?」
「……落ち着いて聞いてくれるかな。君はね、事故に遭ったんだよ」
「じ、こ……?」
 言われた瞬間に、全身を痛みが襲った。
 反射的に我が身を庇うように抱き締めると、ぬるりと濡れた感触。
 恐る恐る腕を解いて目を向けると、私の体は血に塗れていた。着ていた服は無残に破け、そこかしこから生々しい傷が覗いている。
「君の恋人の広明さんは、即死だった。けれど君は、まだ助かる。だから、迎えにきたんだ」
「広明が……死んだ?」
 声が、震える。体を苛む痛みなど一瞬で忘れ、代わりに訪れたのは氷点下にも思える寒さ。
 信じたくない。広明が死んでしまったなんて。
 ううん、きっと嘘だ。本当のはずがない。
 ずっと一緒にいようと誓ったのだ。広明は嘘が嫌いな真っ直ぐな人。そんな人が私をおいて死んでしまうはずがない。
「さあ、一緒に行こう。君はここにいてはいけない」
「……違う」
「このままここにいたら、『彼』が来てしまう」
「『彼』が、来る……?」
 彼の言う『彼』は――もしかしなくても、広明のこと?
 死んだ広明が、ここに来てしまう?
 ……やっぱり、おかしい。
 そもそも、どうして彼が私を助けに来るの?
 同じクラスではあったけれど、私と彼とはそんなに親しい間柄ではなかった。
 しかも、今では消息不明になっている彼が、いまさら元同級生を助けにやってくるなんて不自然すぎる。
「ほら、早く」
 急かすように彼が手を伸ばす。
 一歩、私は後ずさった。
「いや、行かない」
「心配しなくていい。すぐに戻れるから」
 安心させるように彼は微笑むけれど、私にはそれがどうしても恐ろしく思えた。
 彼についていってはいけない。
 ついていってしまえば、私は二度と広明には会えない。
 何の根拠もないのに、どうしてかそんな確信があった。
「大丈夫。俺を信じて。君だけでも、俺は救いたいんだ」
 言葉だけは優しい。けれど、彼の身に着けた黒いスーツは、まるで死を連想させるような不吉さだ。
 そうだ、きっと彼は死神だ。
 私の好きだった人の形をとって、私を惑わし、そうして連れて行こうとしているのだ。
 広明が死んだなんて、それも嘘。
 本当の広明は、先に助かって、私を待っていてくれるのだ。
 だから、彼は言ったのだ。
 早くしないと、広明が来てしまうと。
「……佳奈美」
 かすかな呼び声に、振り返る。
 そこにいたのは、広明だった。
「いけない! 早くこっちに!」
「いや! 広明!」
 捕まえられそうになるのをすんでのところでかわして、私は広明に向かって走り出した。
 大きく両手を広げて立つ広明の胸へと飛び込むと、きつくきつく抱き締められる。
「佳奈美、よかった」
「広明……。どこにも、行かないで……」
「もちろんだ。ずっとずっと、一緒にいるよ」
 この上ない幸福感に包まれる。
 体の痛みも、凍えるような寒さも、もう完全になくなっていた。
 これからきっと、それほど時間もかからないうちに私は目覚めるだろう。
 病院のベッドの上で。
 傍らにはきっと、心配そうな顔をした広明が、私の家族と一緒に待っていてくれるはず。
 そんな予想を胸に、私はゆっくりと闇に溶け込んでいった。

   ◇ ◇ ◇

「ダメやったん?」
「残念ながら。顔見知りだと上手くいくかなと思ったんだけど、かえって怪しまれちゃった」
「いや、多分、顔知らんでも彰ちゃん自身がもともと怪しいから」
「えー、郁さん、そういうこと言うー?」
 冗談めかした言葉は、慰めの代わりだろう。
 郁さんのこういう優しさに、いつも救われる。
「せめて、明るい方に行けるようにお祈りしてきぃな」
「……そうだね」
 短く答えると、意味をなさなくなった術具たちを片付け始める。
「助けたかったな……」
 ぽつりと呟くと、ポケットから煙草を取り出す。
 銜えた一本で、こぼれそうになった言葉に蓋をした。

 ――昔、好きだった人くらい。畳む

#番外編

七夜月奇譚

手首にくちづけ
2019年 Kissの日SS/ロレダーナ視点/後日談

 ずっとずっと片想いをしていたレナート様の正式な婚約者となって気づけば三か月。
 恒例のお茶会は続いているし、以前よりも互いの距離は近くなっている。
  なのに――。
「子ども扱いが変わらない気がする……」
 お茶会から帰った後の自室。かつての関係の進展を望む言葉の代わりに、現状に対する不満が零れ落ちた。
 いや、確かにレナート様との会話は以前よりもずっと甘くなったし、スキンシップも増えたとは思う。頬や額や髪にキスしてくれることもあるし、その度に心臓が跳ね上がるのは確かだ。
  けれど、
「唇には、してくださらないのかなぁ」
 ぽつりと呟いたあと、自分自身の言葉の大胆さに我に返った。かぁっと頬が火照っていくのがわかる。
  けれど、けれども。私がそんな風に思うのは自然なことだと思うのだ。
  想い合う恋人同士ならば――。
「こ、恋人同士……」
 熱くなった頬に、より一層熱がのぼった。今更だけれども、改めて言葉にすると恥ずかしすぎて幸せすぎて、ベッドの上でゴロゴロと転げまわってしまいそうになる。レナート様に相応しい淑女はそんなことはしないと知っているから、必死で我慢するけれども。
 そうして一通り悶えたあと、再びふりだしに戻ってため息が零れた。
「……やっぱり、まだ幼いって思われている部分があるのかなぁ」
 ちゃんと女性として見てもらえているのはわかっている。同時に、とても大切に扱われていることも。
 七歳の歳の差は歴然としてあって、私が必死で背伸びしようとしていることも、そんな私を私のままでいいと思ってくださっているのも理解はしているつもりだ。
  それでも、不安になる。レナート様にある日突然「やっぱり妹のようにしか思えない」なんて言われたりしないだろうかと。
 両想いになったはずなのに、以前よりもずっと後ろ向きな思考になっている自分に嫌気が差した。
 
  わからないからモヤモヤするのだ。
 一晩経って、結局私はそう結論づけた。わからなければレナート様に直接訊けばいい。
  そう決意して、今日もレナート様の待つバラのお庭へと向かう。
「ごきげんよう、レナート様」
「いらっしゃい、ロレダーナ」
 いつも通りの挨拶に、いつも通りの甘い笑み。
  以前と変わったことがあるとすれば、レナート様が当然のように私の腰に手を回し、テーブルまでエスコートしてくれるようになったことだろうか。その距離の近さになかなか慣れなくて、ついつい息を詰めてしまう。
「あ、あの、レナート様……」
「なんだい?」
 直接訊けばいいと思ったはずなのに、いざ目の前にすると言葉が出てこない。大体、「どうしてキスしてくれないんですか」だなんて、淑女として恥じらいがないにもほどがあるのではないだろうか。そんなことを訊いてしまえば、レナート様にはしたない女性だと思われたりしないだろうか。
  そんな考えが頭の中を巡ってしまい、何も訊けなくなってしまった。
「ロレダーナ?」
「あ、いえ、あの……!」
 顔を覗き込まれ、至近距離に天使のように整ったお顔が近づけられる。
  レナート様近いです近すぎますちょっとこの距離は無理です心臓が止まってしまいます!
 大混乱中の私に気づいたのか、レナート様のお顔が離れていった。そして、ふいっと顔が背けられる。
  どうしよう。レナート様に失礼な態度を取ってしまった。気を悪くされたんだ。
「あの、レナート様! 申し訳――」
「まったく君は……」
 謝ろうとした私の言葉に被さったレナート様の声は、震えていた。え? 震えている?
  どういうこと? と下げかけていた頭をもう一度上げてよくよく観察すると、レナート様は肩を震わせて笑いを必死に堪えているようだった。
「レナート様、あの……私、何かおかしなことをいたしましたか?」
「いや……。ロレダーナは相変わらず可愛いね」
 腰が砕けそうな甘い声。咲き乱れる赤バラよりも真っ赤になっている私は、もう全身が茹で上がりそうなまま固まってしまった。
  そんな私に構わず、レナート様は私の左手をとった。何をするんだろうと思う間もなく、その手首に柔らかなぬくもりが触れる。ほんの少しだけ濡れた感触。レナート様の艶やかな金の髪が腕をくすぐるのに、ぞくりと今までに感じたことのない感覚が背筋を駆けのぼった。
「レ、レナート、様……?」
 呼びかけると、レナート様からは常とは変わらない笑みが返った。その笑顔に、妙に安心して、知らず強張っていた体から力が抜ける。
「さて、喉が渇いたね。お茶にしようか」
 それまでのやりとりがなかったかのようなレナート様の誘いに、私は自然と首肯していた。
  いつもどおりの、和やかなお茶会が始まる。

 そうして私が、結局訊きたかったことを一つも訊けていないことに気づいたのは、お茶会を終えて自室に戻った後のこと――。

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#番外編

つぼみにくちづけ

放課後サイド バイ サイド
現パロ/レオン視点/レオンとセラ

 生徒会の仕事を終え、職員室へと書類を提出しにいったその帰り。ふと思い立って一年の教室のある階を通って見ることにした。別に、彼女がいるとは思っていない。もう授業が終わってかなりの時間が経っているのだ。いるはずがないのだが、何となく普段彼女が過ごしている空間を歩いてみたくなった。ただそれだけの話。
 彼女のクラスは一組だったはず。そんなことを思い出しながら何気なく教室内に視線を向ける。と、西陽の差し込む窓際の席に、見慣れた緋い髪を見つけて思わず足を止めた。
 放課後の教室。他には誰もいないその場所で、一つ年下の少女は机に突っ伏して微睡んでいる。誰か――例えば幼なじみのアルヴィンだとか――を待っていて、待ちくたびれてしまったのだろうか? そういえば、あの男は放課後になるや否やクラウスを捕まえて、さっさと下校してしまった。きっと繁華街にでも出て、好みのナンパにでも勤しんでいるのだろう。クラウスがいれば成功率が上がるなどとふざけたことをぬかしていたのだから。
 そんなことよりも、問題はこちらの少女だ。
 いくら暖かい季節になってきたとはいえ、夕方になれば冷え込んでくる。このままでは風邪を引いてしまうかもしれない。
 ――起こすしかないか。
 仕方なく、彼女の方に向かって歩き出す。
「セラ……」
 控えめに声を掛けるが、熟睡しているのか何の反応もない。
 改めて見ると、滑らかに弧を描く頬の白さと寝息を洩らす艶めいた赤い唇に、見てはいけないものを見た気分にさせられた。
 鼓動が大きくどくんと鳴る。触れてみたい、と頭の中に浮かんだ自分の欲望を、慌ててかき消した。
「セラ!」
 焦るように彼女の肩を揺すり、先ほどよりも大きな声で呼びかける。さすがにそこまでされると目が覚めた彼女は、驚いたように体を震わせて跳ね起きた。
「レ、レオンさん?」
「こんなところで寝ていたら、風邪を引くぞ」
「……あ、すみません。ありがとうございます」
 恥ずかしそうに頬を赤らめながら謝罪と礼を寄越す彼女に、気にするなと返すのが精一杯だった。
「って、あれ? もうこんな時間ですか?」
「ああ。アルヴィンでも待っていたのか? アイツなら授業が終わって早々に意気揚々と帰っていったんだが」
「あ、いえ。レオンさんを待っていたんです。この間お借りした本を返そうと思ってて。生徒会室覗いたらお仕事忙しそうだったんで、邪魔したら悪いと思ってここで待ってたらんですけど、陽射しが気持ちよくってついつい……」
「気にせず声を掛けてくれれば良かったのに」
 気遣い屋な彼女らしい選択だが、こちらとしてはそんな遠慮はしないでほしかった。きっと相手がアルヴィンならば、彼女は気にすることなく声を掛けただろうに。彼女に悪気はないとわかっていても、そうやって距離を置かれることが悔しかった。
「あ、でもちゃんと確認すればよかったですね」
「確認?」
「私がお手伝いできる仕事だったら、一緒にやった方が早かったかなって。その時は声掛けたらご迷惑かもって考えしか思い浮かびませんでした」
 気が回らなくて駄目ですね、と反省しつつ苦笑いする彼女に、自然と頬が緩む。
 どんな場合でも反省点を見つけてそれに前向きに対処しようとするところは、彼女の美点の一つだろう。
「セラは真面目だな」
「レオンさんに言われたくないですよ。ところで、もうお仕事終わったんですか?」
「ああ。これから生徒会室に戻るところだった」
「生徒会室? ……何で、この階通ってるんです?」
 彼女から指摘をされて、うっかり本当のことを答えてしまっていた。職員室は一階、生徒会室は三階、そして、この一年の教室のあるフロアは二階なのだ。通りすがりというには不自然過ぎる。
「あ、いや……」
「ああ、もしかして見回りですか? 私みたいにうっかり居眠りして下校しそびれてる生徒がいたら困りますもんね」
「……そう、だな」
 言い訳をする間もなく、勝手に良いように解釈してくれて助かった。日頃の行いのおかげだろう。
「じゃあ、気をつけて帰れよ」
「はい。レオンさんもお気をつけて」
 名残惜しいと思いながらも、そう告げて生徒会室に戻るべく教室を出た。
 本心としては、家の方向も同じなのだし一緒に帰ろうと言いたいところ。けれど、生徒会室に戻るまでの間待たせるのも申し訳ないし、何より誘うことで自分の気持ちがバレてしまうのではないかと思うと怖くてできなかった。
 せっかく先輩後輩として良い関係を築けているのだ。それを壊してしまうような真似はしたくない。
 生徒会室に戻り、自分の鞄を手にする。はぁと自分の情けなさにため息をつきながら、戸締りを確認して生徒会室を後にした。
 やっぱり誘えばよかったなどと今更な後悔をしつつ、昇降口で靴を履き替える。そうして校舎を出ようとした瞬間、昇降口の扉のところに帰ったはずの彼女の姿を見つけた。
「セラ? 何か忘れものでもしたのか?」
「本を返すつもりだったって言ったじゃないですか。さっき渡すの忘れてたので、待ってたんです。せっかくなんで、一緒に帰りませんか?」
 何の気負いもない自然な口調で、彼女は俺が言いたくても言えなかった言葉を口にした。
 別に明日でもよかったはずなのに、わざわざ俺のために時間を割いてくれることに喜びがこみ上げる。
「そうだな。日も暮れてきたし、危ないからちゃんと家まで送ろうか」
「え、さすがにそこまでは大丈夫ですよ! 私なんか襲う物好きいませんし、そもそもそう簡単に襲われるほど鍛錬を怠ってはいません!」
 これは遠慮、というよりも自分の強さに対する自負が上回っているのだろう。確かに、剣道部で全国大会常連なのだからそう思うのも当然だろう。自信満々に言い切るその姿がまた可愛いのだが、無自覚というのは怖いなとしみじみ思う。
「セラが強いのはわかっているが、最近は物騒な事件も多いからな。俺が安心したいだけだから、素直に送られてくれないか?」
「でも、レオンさんの家の方が手前にあるのに……」
「それに、セラを暗い時間に一人で帰したとなると、うちの父にも君のお父さんにも叱られそうだし」
「ああー……」
 渋る様子の彼女に、ダメ押しとして出した『お父さん』の一言に、何とも複雑そうな声が返る。彼女がそんな声を出すのは無理もない。彼女のお父さんは、度が過ぎていると言っていいほど過保護で、よく彼女自身もうんざりした様子で愚痴っていたのだ。
「そう、ですね。ありがたく送っていただきます。あ、でも、うちに着いたらできるだけ速やかに退避してくださいね! くれぐれも、兄には見つからないように、速やかに!」
 俺が送るを了承してくれたが、すぐに思い出したように彼女は付け加える。その表情には鬼気迫るものがあった。
 そう。彼女に対して過保護なのは父親だけではないのだ。いや、過保護を通り越して過干渉としか言えない超絶シスコンの兄君がいるのである。俺も今までに何度睨まれたかわからない。
「……そうだな。俺もまだ命は惜しいし……」
 彼女の兄のことを思い出すだけで一気に気が重くなる。彼女も同じなのか、ほぼ同時に大きなため息をついた。思わず顔を見合わせ、互いの疲れ切った表情にぷっとふき出す。
「あはは、レオンさん、ひどいですよー。一応あんなでも私の兄なんですよ?」
「一応、セラさえ絡まなければいい人だとは思っているんだが? そういうセラだって、まるで危険物扱いしているじゃないか」
「……だって、完全に馬に蹴られてほしい人ですし」
「馬?」
 言葉の意味がよくわからなくて訊き返すと、慌てたように彼女は何でもないですと誤魔化した。
「さて、帰りましょうか」
「そうだな。道すがら、貸した本の感想を聴いてもいいか?」
「是非! めちゃくちゃ面白かったんで、感想語り合いたかったんですよー!」
 眩しいばかりの笑顔を向けられ、ほんの少し前まで胸を占めていた憂鬱な気分は綺麗に吹き飛ばされる。
 沈む夕陽が、彼女の白い頬をほのかに染めていた。
 彼女の家まであと三十分。その短い時間だけでも彼女を独り占めできる。
 ささやかだが至福のひとときだった。畳む

#現パロ

風にゆれる かなしの花

「目、つむって」
書き出しme.のお題/ソフィア視点

「目、つむって」
「断る」
 言葉の最後までしっかり聞くことなく答えると、その男は表面上だけはがっかりしたような表情をして見せた。
 この男の、こういうところが心底嫌いだ。上っ面だけで、中身の伴わない言葉や表情。
 初めて会った時から、この男が癇に障って仕方がない。
「何で? てか、もうちょっと考えてくれてもいいんじゃない?」
「考える時間が無駄だ。貴殿の提案など、ろくなことがない」
 いつまでもこの男の戯言に付き合わされるのは御免だ。できる限り早く逃げ出そうと席を立った。
 しかしこの男は、当たり前のようについてきては言葉を繋ぐ。
「ひっどいなー。そんなに俺って信用ないのー?」
「むしろ、貴殿の何を信用すればいいのかを訊きたいくらいだ」
 毎度のことながら、どれほど冷たくあしらってもこの男はへこたれない。根気強いと言えばいいのか、それとも馬鹿なのか。
 こんなことになるならば、もっと早く退室しておけばよかった。考え事に捕らわれていて、他の面々が退室していることに気づかないとは、一生の不覚と言ってもいいだろう。
「何を信用すればってさー……」
 ノブに手をかけ、やっと逃れられると思った瞬間、顔の横を青い袖が通り過ぎた。剣ダコのできた無骨な手が、目の前の扉を押さえつけている。
「何の真似――!」
「言っとくけど俺はソフィアだけは裏切らないよ?」
 怒りを滲ませて振り返ると、至近距離にシルバーグレイの瞳。銀糸の髪の間から覗くそれは、思いがけず真剣なものだった。
 と、思ったのも束の間、すぐにいつも通りのふざけた笑みで口元が歪んでいることに気づく。
 からかわれたのだ。ほんの一瞬でも、この男の言葉を信じそうになった自分の浅はかさが恨めしい。
「……だから貴殿は信用ならんのだ」
 乱暴に扉を押さえる腕を払いのけると、振り返りもせず私は会議室を後にした。

 金輪際、あの男の言葉を鵜呑みにしないと、心に誓いながら。畳む

#番外編

夢のあとさきそめし朝

時初めの鐘に
2016年大晦日年越しSS/キース視点

 今年も、時忘れの鐘が鳴る。
 ここ数年一人で聴いていたこの音を、今年はサクヤと一緒に聴くことになるなどとは思いもしなかった。
「ねえ、キース。この鐘って何回鳴るの?」
 この国の風習に疎いサクヤは、大聖堂の尖塔を見つめながら訊ねる。外はひらひらと淡雪が舞っているというのに、一向に気にしていないようだった。風邪を引かないように早いうちに窓際から引き剥がしたいところだ。
「年の終わりを知らせる鐘、年が変わった瞬間、そして新年を祝福する鐘の三回だ」
 年の終わりを知らせる時忘れの鐘。年が変わったことを知らせる時告げの鐘。そして新年を祝福する時初めの鐘。時告げはそのまま時報の意味しかないが、時忘れと時初めにはちゃんと意味がある。
 時忘れはその年一年の悪いことを全て忘れるため。
 時初めは新たな年を新たな身で始めるため。
 因みにこの国では年が変わった瞬間に全ての人間が年を取るという考え方だ。以前サクヤに「誕生日いつ? お祝いしたいんだけど」と言われて、そんな風習があるのかと驚いた記憶がある。そして年の変わった時に祝うものだと教えると、逆に驚かれたのだ。
 それでも、サクヤは生まれた日を知っているなら教えてほしいとなおも訊いてきた。『大切な人の生まれた日は、大切な日でしょ?』と当たり前のように屈託のない笑みを向けて。
 その無邪気さがどれほど罪なのか、きっと彼女は気づいていない。
「それよりサクヤ、そろそろ窓を――」
「今のが最初の鐘だよね? 何か除夜の鐘みたい」
「除夜の鐘?」
「そう。私の世界ではね、年越しに百八つの鐘を鳴らすの」
「百八つって……結構気の長い話だな」
 話をしながら、少々強引にサクヤを窓際から引き離し、空いていた窓をしっかりと締める。俺が寒がっていると思ったのか、サクヤはごめんと小さく謝罪を零した。
「気にするな。それより、どうして百八なんだ? 随分中途半端な数だな」
「うーん、諸説あるらしいけど、百八って煩悩の数らしいよ。それを祓うための鐘? とか何とか……」
「煩悩って……」
「キースって煩悩とかなさそうだよね」
 あっけらかんと言い放たれて、内心頭を抱えたくなった。サクヤは俺を何だと思っているのだろう。サミーのような女タラシではないが、一応俺も健全な成人男子で、それなりに煩悩なるものがないわけではないのに。
「……そう言うサクヤこそ、そんなに煩悩ないだろ」
「そんなことないよ! 煩悩だらけだもん。美味しいもの食べたいし、おしゃれな服着たいし、大好きな人たちと楽しく暮らしたいし」
 並べたてられた望みは、ささやかで、けれど当たり前だと思うのは贅沢なものばかり。それを煩悩と言い切ってしまうのがサクヤらしい。
 けれど、俺が抱えている煩悩はサクヤとは違って自分の卑しさを嫌でも感じてしまう。
 もし、サクヤがアマビトでなければ。
 彼女には還る場所があるというのに、何度そう思っただろうか。
 サクヤがこの世界の人間だったならば、きっと――。
「あ! 二回目の鐘! 明けましておめでとー!」
「……明けまして?」
「そう。私の国での新年のご挨拶。年が変わるのを『年が明ける』って言って、明けましておめでとうございますってお祝いするの」
「へえ、明ける、か」
 聴き慣れないが、前向きなその表現は嫌いではなかった。
 時忘れの鐘は、悪いことはなかったこととして切り捨てる冷たさがあり、時告げによって強制的に年が終わらせられる。
 けれど、サクヤの語った除夜の鐘は悪いものを浄化しつつも受け入れ、年が明けるという考えには夜明けと同じように一続きの生を感じられた。
 こういう話を聴くたびに、サクヤの生まれ育った世界を見てみたいと思ってしまう。彼女と同じ世界に生まれたかったなどと思ってしまう。
 それはやはり、どうしようもない煩悩でしかないのだろうけれど。
「今年はいいこといっぱいある年になるといいね」
「そうだな」
 サクヤにとってのいいことには、元の世界に帰れることも含まれているのだろう。
 そう思うと、言葉とは裏腹にいいことなど起こらなくていいと思ってしまう自分がいた。
 醜いなと自嘲の笑みが零れそうになった瞬間、時初めの鐘が聴こえる。
 悪い過去を切り捨て、新たな自分になるための鐘の音。
 ああ、けれどやはり、自分にはこちらの鐘の音の方が相応しいのかもしれない。
 彼女に対する疚しい想いを捨てて、ただ真摯に彼女を守り、望みを叶えるために。
「今年こそは、ちゃんと帰してやるよ」
 ぽつりと小さく呟いた約束に、サクヤは一瞬驚いた顔をして、そして少しだけ眉尻を下げて微笑んだ。
「……焦らなくていいよ」
 時初めの鐘の余韻に紛れるほどの小さな囁きが聴こえた気がしたが、きっとそれは自分の願望なのだと聴こえなかったふりをする。
 俺はサクヤの守護者なのだから。
 そう言い聞かせ、ただの親愛の情でしかないと思わせるように彼女の髪を撫でた。 
 夜闇に紛れゆく時初めの鐘に、独りよがりな願望を無理やり溶かしながら。畳む

#番外編

夢のあとさきそめし朝

夜明け前
診断メーカーアンケート/サクヤ視点

しのぶへのお題は
・プレゼントを頂戴
・普段と変わらない一日だと思っていた
・媚びるような視線
・夜明け前
です。アンケートでみんなが見たいものを聞いてみましょう
 https://shindanmaker.com/590587

という奴の結果で書きました。
【夜明け前】です。
 夢あとのキース&サクヤのお話。

 夜が朝へと溶けてゆく、その直前の空が好きだ。山の端や建物の影からじわりじわりと陽光が侵蝕しようとするその瞬間を、あの人の隣で何度か見つめていた。
 その記憶はまだ鮮やかさを保っていて、けれどそれでも、以前よりは明らかに色褪せていて。まるで小さな画像を無理やり引き伸ばしたみたいなそれが、今までと違う胸の疼きをもたらす。
「眠れなかったのか?」
 背後から唐突に声をかけられ、慌てて振り返った。こっそりと寝床を抜け出してきたつもりだったのに、どうやらお見通しだったらしい。多忙を極めて疲れているだろう人の睡眠時間を奪ってしまったことに良心が疼く。
「ごめん。起こした?」
「いや、起きていた」
 当たり前のように隣にきて、当たり前のように肩にふわりとショールが掛けられた。日中は暖かいとはいえ、陽ものぼらないこの時間はまだまだ冷える。そのひやりとした空気がまた好きなのだけど、どうやら彼にとっては心配の種でしかなかったらしい。相変わらず、気遣いが細やかすぎて思わず小さく声に出して笑ってしまった。
「何かおかしかったか?」
「ううん。キースはやっぱりキースだなと思って」
「どういう意味だ?」
 よくわからないと訝るキースに笑みだけ返し、ほのかに赤が滲み出した方角を見遣る。
 朝が夜を、溶かしていく。
 私の夜も、少しずつ溶かしていかなくてはいけないのだろう。まだもう少し、それには時間がかかるだろうけども。
「ありがとう、キース」
「別に礼を言われるほどのことじゃないぞ?」
 不思議そうに返される言葉に、ショールのことじゃないんだけどと思いつつも、やっぱり私は微笑むしかできなかった。畳む

#番外編

夢のあとさきそめし朝

クワドラートの祈り
改稿前SS4/バレンタイン/キース視点→サクヤ視点

「はい、どうぞ!」
 昼食をとろうとサクヤの執務室を訪れた途端、そう言って目の前に差し出されたのは、甘い香りの漂う小さな紙袋。どうやら中身は焼き菓子のようだった。
 珍しい。菓子など今まで作ったことがなかったのに。
 料理上手なサクヤのことだから、菓子を作ることくらい大した手間ではないとはわかるが、どうしてこのタイミングなのだろうか?
 そんな疑問は、次の台詞であっさりと氷解した。
「アデーレに聞いたんだ。今日って聖リヴェ・メイヌの日って言うんでしょ?」
「あ、ああ、そういえばそうだったな」
 聖リヴェ・メイヌ。聖典にも記されている、コルモエール神教の聖人の一人だ。その生誕日が今日。現在では聖リヴェ・メイヌの日として広く知られている。
 だが、この聖リヴェ・メイヌの日には、ちょっと変わった風習がある。
 女性が意中の男性に菓子を贈るのだ。そう、『意中の相手』に、だ。
 贈られた相手は、翌日返事の代わりに花か菓子を贈り返す。是なら花を、否なら菓子を。
 その為、世間ではこの日には男女問わずそわそわしている。部下の中にも注意するほどではないにしろ、浮ついた態度の者が幾人か見られた。
 しかし明らかに、サクヤにそんな意図はないだろう。
 これはほぼ間違いなく、アデーレが真実を告げずに「日頃感謝している相手にお菓子を贈るのですよ」などと吹き込んだのだ。
 素直なサクヤなら、簡単にその嘘を信じるだろうし、俺にあてて菓子を焼くくらいの手間は惜しまないとわかる。もしかすると、複数準備して、リィナやアデーレ、リーヴなどにもふるまっているかもしれない。
 その場に残っていたアデーレにちらりと目を遣ると、案の定わざとらしく視線を外される。その口元が微かに緩んでいることから、俺の反応を楽しんでいるのは明白だった。
「あ、キース甘いもの苦手だった?」
 なかなか受け取ろうとしない俺を、サクヤが心配そうに覗き込む。
「いや、平気だ。ありがたくいただくよ」
 サクヤは真実を知らないのだし、その好意と手間を無駄にしたくはなかった。菓子を受け取ると、一瞬でサクヤの表情が明るくなる。
「よかったー! 甘いものは疲れとれるから、仕事の合間にでも食べてね!」
「ああ」
「サクヤ様、お返しに期待しましょうね」
 俺たちの様子を見守っていたアデーレが、こんな時だけしっかり口を挟んでくる。どうあっても俺に菓子か花かを贈り返させたいらしい。
「別に見返り欲しくてあげるんじゃないから、お返しとかいいの! キースも気にしないでいいからね!」
「でも、お返しするのが昔からの慣わしですから」
 俺をおいてサクヤと盛り上がり始めるアデーレを軽く睨む。その視線に気づいたアデーレは、一瞬肩を竦めるが、それでも意味ありげな微笑を隠そうとはしなかった。
 アデーレの悪戯は恨めしいが、無邪気に喜ぶサクヤの笑顔が見られたことには満足だ。そういえば、今までに何かサクヤに贈り物などしたことがないと気づく。お返しというわけではないが、何か贈るのもいいかもしれない。
 だが、贈り物といっても何がいいのかすぐには思い浮かばなかった。
 誰かに何かを贈るなんて滅多にしないことだし、更に言えば歳下の異性に贈る機会なんてなかったのだ。
 そもそも、サクヤにあまり物欲がないようだ。衣類なども必要最低限で、しかも俺の着られなくなったものでいいとさえ言う。宝飾品なども嫌いではなさそうだが、無駄遣いをするなと叱られてしまいそうだ。
 これはなかなか厄介な課題が出来てしまったと、心の中でだけ小さなため息をつく。
 昼食の最中も、サクヤと会話しながらも頭の片隅ではずっと何を贈るのか考えていた。
 こういうとき、きっとサミーならば容易に考え付くのだろう。だが、ここで奴に相談でもしようものなら、余計な勘繰りを入れられ、またあることないことサクヤや養父に吹き込まれるのは間違いない。
 アルゼに相談しようかとも思ったが、サミーと同じ結果になることだろう。
 これはどうあっても、何とか自力で解決するしかないようだった。

   * * *

 キースに申し訳ないことをしたかもしれない。
 いつも通り、諸々の執務や修練を終えて家に帰る道すがら、そんなことをずっと考えていた。
 お菓子を焼くなんて、本当に久しぶりだった。それでも、昔とった杵柄というか、劇団への差し入れでよく作っていたから、そんなに悪い出来ではなかった、……と思う。
 最近、以前にも増してお互い忙しい。特にキースは立場が立場だから、私なんかと比べ物にならないほど仕事を抱えているだろう。
 もちろん、キースは疲れた素振りなんて一切見せない。もし、私が体の心配でもしようものなら、「このくらい平気だ」と笑って見せるに違いないのだ。
 だから、心配を態度で表すんじゃなくて、少しでもキースの疲れが癒えたらいいなと、アデーレから聞いた聖リヴェ・メイヌの日の慣わしに乗っかってみたわけだ。
 けれど、まさかお返しする習わしまであったのが誤算だった。
 別に、お返しなんていらないし、そうキースにも伝えたけれど、真面目なキースがそれを蔑ろにするわけがない。現に、城を出てからずっと無言。昼食の時からずっと何かを考え込んでいるようだったのだ。
 これでは、キースに無駄な悩みを増やしてしまっただけじゃないか。
 ていうかキースさん、正直悩み過ぎですよー? そんな真面目に考えるほどのもんじゃないですよー? なんて心の声が届くはずもなく。
 結局、ほとんど会話もないまま、家まで辿り着いてしまった。
 先に立ってキースが扉を開け、家に入ってしまう。
 その後に続きながら、あーあとこっそり溜息をつこうとした時だった。
「サクヤ」
「へ? 何?」
 突然振り返ったキースが、両の手を自分の首の後ろへと回す。元に戻ってきた手には、ペンダントのチェーンが摘まれていた。円の中に正方形、正方形には対角線があり、その交差した中央には翡翠に似た緑の石が嵌まったトップが、ぶら下がっている。
 その形はどこかで見たことがあった。そう、確か宮城内にある大聖堂の壁にも、同じ形のレリーフがあった。ということは、神教に関わりのあるものなんだろう。ロザリオみたいなものだろうか?
 そんな考察をしていると、チェーンの金具を持ったままのキースの両手がそのまま私の首へと回った。
「キース、これは?」
「クワドラート」
「クワド、ラート?」
「お守りみたいなもんだ。俺はサミーと違って気の利いた贈り物なんてできないからな。これをやる」
「で、でも」
「ああ、心配すんな。特別高価なものじゃないから」
 そう言ってキースは軽く笑うが、私が気にかけていることはそんなことではない。
 このペンダントは、今の今までキースの首にかけられていたものだ。そして、私はキースがこれをつけたり外したりするのを、これまでの一度たりとも見たことがない。つまり、ずっと肌身離さず持っていた、ということじゃないんだろうか?
 となると、高価かどうかの問題ではなく、キースにとって大切なものだという可能性が高い。例えば、ヤーマさんからもらったものだとか、ご両親の形見だとか。もしそうなのだとしたら、私が受け取っていいものではない気がする。
「あの、これ、私なんかがもらっていいようなものなの?」
「違う」
「だったら――!」
「俺がサクヤに持っていてほしいんだ」
 慌てて外そうとしていたから、キースの表情を見逃してしまった。驚いて顔をあげた時には、既に背を向けて、奥へと歩き出していた。
 キースの声音はいつも以上に優しくて、けれどどこか照れたような色が滲んでいた。
「キー……」
「あら、おかえりなさいまし。お食事の準備はできておりますよ」
 呼び掛けようとしたが、ダイニングからのマミヤさんの嬉しげな声に遮られる。キースはマミヤさんに礼を言うと、着替えに行くのかまっすぐに自室へと向かっていった。
 その背中をぼんやりと見送りながら、胸元に揺れるペンダントにそっと指を添わせる。滑らかな石と、微細な銀細工のでこぼことした感触。微かに移ったぬくもりが、私の体温だけではないと思うのは気のせいかもしれないけれど、それでも何だかキースが常に傍で守ってくれているような安心感が生まれた。
 慎重な手つきでトップを摘まむと、襟元の隙間からするりと中に滑り込ませる。もう一度服の上から円い形を指でなぞると、無人の廊下で誰にも聞こえない祈りを囁いた。畳む

#番外編

夢のあとさきそめし朝