No.14, No.13, No.12, No.11, No.10, No.9, No.87件]

人色50Title《泪》11 遅すぎた後悔
尚志・郁・片岡・井隼で麻雀するお話

 歪花。様のお題から。
 七夜、井隼片岡+郁&吉良兄妹の麻雀アホ話。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 井隼と片岡は、この場に足を運んだこと、軽い気持ちで彼らを誘ったこと、否、それ以前に彼らと友人関係を築いてしまったことを激しく後悔していた。
 こんなはずではなかった。
 何度その言葉が頭を過ぎっただろうか。
 しかし、今更そんな後悔は何の役にも立たない。
 井隼の震える指先を、片岡が固唾を飲んで見守る。
 溢れ出しそうな涙を堪えながら、井隼は自らの命運を、十四分の一のそれに掛けた。


「ローン! 高めゲットぉ!」
 死の宣告が井隼の希望を切り裂いた。
 郁の手元にパタンと倒された十三枚の牌は、綺麗に筒子(ピンズ)で染まっている。どこからどう見てもハネ満確定の面前清一色(メンゼンチンイーソウ)
 しかも、井隼の捨て牌は更に三役高くしてしまう、二盃口(リャンペイコー)までつけてしまう物だった。これで倍満にまで点数は跳ね上がる。
「またかぁっ!」
「井隼、とぶなよっ! 俺も焼き鳥つくだろうが!」
「俺なんか焼きトビっすよぉ!?」
 がっくりと麻雀卓の上に倒れ伏す井隼に、片岡が容赦のない罵声を浴びせた。
 片岡自身も、この半荘で一回も上がっていない。井隼の提案で採用された焼き鳥ルールは、一回も上がれない状態を『焼き鳥』といい、その状態で一半荘を終えるとペナルティーが科せられるのだった。
「これまた高いなー」
 すでに二回手早く上がり、点棒も浮いている尚志は涼しげな表情で郁の手牌を見つめる。
 「綺麗やろー」とウキウキした様子で郁が裏ドラをめくると、見事に筒子の四が現れた。
「お、乗った! メンチンリャンペー、裏裏で三倍まーん!」
「城宮さぁん! どんだけ絞り取ったら気が済むわけ!?」
「えー? そんなん言うても、井隼君とテル君が麻雀やろて言い出したんやん?」
 天使のような笑顔で答える郁だったが、今の井隼と片岡には悪魔にしか見えなかった。
 思えば、何故初めに気付けなかったのだろうかと、今更ながらに自分達の観察眼のなさを呪いたくなる。

 事の発端は、片岡の一言だった。
「久しぶりに打ちてぇなー」
 サークルのボックス内で片岡は退屈そうにそう呟いた。それを聞いた井隼は、最近ネットゲームの麻雀にハマっていたこともあり、真っ先に賛成をしたのだ。
 そして、その時ちょうどその場に現れた尚志と郁を誘った。
 尚志や郁が麻雀をできるかどうかは知らなかったのだが、それならそれで好都合と二人は考えていたのだ。
 尚志は少々渋っていたのだが、あっさりと郁が承諾した為に四人で打つことになった。
 しかし、家に麻雀セットがあると尚志が言った時点で、疑いを持つべきだったのだ。
 確かに、尚志の家に行って、全自動卓が置いてあることにも、慣れた仕草で卓の設定をする尚志にも、驚きはした。
 けれど、尚志の「親戚が好きでね。よく使うんだよ」という言葉に、『親戚が使う』イコール『尚志が頻繁に打つわけではない』と勝手に思いこんでしまった。
 考えてみれば、尚志の部屋なのだ。部屋の主が打たないのもおかしな話だ。しかも、『親戚』の一言。郁が尚志と親戚同士であることは、百も承知していたはずなのに。
 ルールを決め、ゲームを始めた瞬間、郁の手捌きが半端なく慣れていることに気付いた。
 華麗な小手返し、理牌(リーパイ)する早さ、ツモ牌は完璧に盲牌(モウパイ)し、見る前に河に捨てることもままあった。
「し、城宮さん、随分慣れてるんだね」
「んー? ウチ、家族麻雀するからなぁ。さすがに雀荘とかは行ったことないわ」
 焦りを隠せずに井隼が話しかけると、郁はそうあっけらかんと答える。
 何だ、家族麻雀か、と安心したのも束の間、郁に軽やかにリーチを宣言し、次巡には赤ドラをツモって上がりを決めた。
 その瞬間から、井隼と片岡の悪夢は始まったのだ。
 三半荘連続、井隼と片岡は焼き鳥。しかも毎回二人のうちのどちらかがラストになる。
 尚志は郁との対局に慣れているのだろう。安めの上がりで毎回焼き鳥を回避し、最終的にはプラスにしていた。
 郁の手は毎回高く、安いと思った場合でも裏ドラが三枚乗るなどして、簡単に満貫以上になってしまうのだ。
 驚異のヒキの強さに、井隼と片岡には為す術がなかった。
 そんな二人を哀れに思ったのか、尚志が煙草を持って立ち上がる。
「ちょっと疲れたし、一服していいか?」
「お、おお! いいぞいいぞ! ってか、俺も煙草休憩したい!」
「俺もノド乾いたッス! ジュースでも買ってきましょうか?」
 助かったとばかりに逃げ出そうとする片岡と井隼に、郁は苦笑するしかなかった。
 さすがにやり過ぎたと思ったのだろう。
「ジュースは買わんでも冷蔵庫に何か入っとるやろ」
 井隼を促しながら、勝手知ったるという風にキッチンへと向かい、冷蔵庫を開ける。
「井隼君、何がええ? 炭酸系はコーラしかないけど」
「あ、んじゃコーラで。っと、吉良さん、頂きまーす!」
 あまりにも自然な郁の態度に、つい当たり前のように答えてしまったが、部屋の主が彼女でないことに気付いて慌てて付け加えた。
 尚志は短く応え、片岡と並んで紫煙をくゆらせている。
「テル君はコーヒー?」
「お、サンキュー、郁ちゃん」
 郁はグラスを人数分出し、井隼にはコーラを、片岡と尚志にはアイスコーヒーを手渡す。それから自分の分のフルーツジュースを準備した。
 と、その途中で携帯電話が麻雀卓の上で鳴っているのに気づく。
 グラス片手で携帯を手に取ると、メールだったらしく、手早くキーを操作してまた携帯を置いた。
「尚志ー、茉莉がもうすぐ来るって」
「マツリ? 誰?」
 聞き覚えのない名前に、片岡が反応する。井隼も不思議顔で尚志に視線を向けた。
「俺の妹だよ」
「ちなみに茉莉は、逍女に通う女子高生よん」
 郁が悪戯な笑みを浮かべてそう付け足すと、あからさまに井隼の表情が明るくなった。
 逍遥女学院――通称・逍女は、久遠学院の姉妹校であり、この辺りでは有名なお嬢様学校なのだ。学園祭のチケットが高額で取引されていたりもするほど、周囲からは高嶺の花と目されている名門女子高だった。
「逍女!? すっげぇっ!」
「待て、井隼! 確かに逍女は魅力的だが、兄貴はコイツだぞ! 性格がまともなわけないだろ!」
「どういう意味だ、晃己」
「テルくーん、心配せんでも茉莉はええ子やでー」
 三人のやりとりを眺めながら、郁は小さく笑いを零した。そして、小さく「性格は、な」と付け加える。その声は、騒ぎ立てる井隼と片岡の声にかき消され、届きはしなかったが。
 そうこうしている間に、インターホンが軽やかに響いた。
 郁が当たり前のようにそれに出ると、数秒後に玄関のドアが開いた。
「おかえりー、茉莉」
「ただいま帰りました、兄様、姉様。あら、お友達がいらしていたのですか?」
 ポニーテールを揺らして小首を傾げる茉莉の姿に、井隼と片岡が一瞬で締まりのない顔になった。
 清楚、可憐と言った言葉がぴったりの茉莉に、憧れの逍遥女学院のセーラー服がよく似合っている。言葉遣いや物腰も淑やかな茉莉は、まさにお嬢様といった雰囲気を漂わせていた。
「サークルの友達だよ。片岡は俺と同回で、井隼は郁と一緒」
「片岡さんと井隼さんですね。初めまして、茉莉と申します。兄がいつもお世話になっております」
 丁寧に頭を下げる茉莉に、井隼と片岡はでれでれとしながら、「いや、お世話なんて」「こちらの方が」などと返していた。
 その茉莉の視線の端に、リビングに据えられた牌が乱雑にばらまかれている麻雀卓が入った。
「兄様達、麻雀なさっていたんですか?」
「え? ああ。この二人がやりたいって言い出したからな」
「丁度えぇわ。茉莉も混ざらへん?」
 にっこりと笑って誘いをかける郁に、片岡と井隼は驚いたように視線を行き来させた。
 二人には、茉莉と麻雀が繋がらなかったのだろう。
「でも、私なんかが入ってしまいましたら、片岡さんと井隼さんはつまらないのでは……」
「ええっ!? そんなことないっス!」
「うんうん! むしろ、美少女と卓を囲める方が、俺たちは嬉しいから!」
 柳眉を顰めて申し訳なさそうにする茉莉に、すぐさま二人は否定をして、茉莉の参加を歓迎した。
 それを面白そうに眺める郁と、呆れた溜め息をつく尚志には一切気付いていない。
「ほら、二人もそう言うとるし。ウチの勝ち分、茉莉に引き継がせてウチ抜けるわ」
「何だ、俺は面子確定なのか?」
「え? 尚志も抜けたい? そんなら三打ちにする?」
「おおっ! 三人打ち! 実は俺、最近三人打ちにハマってるんスよねー」
 郁の提案するまま、ノリノリの片岡と井隼は茉莉と三人で、卓を囲むということになった。
 それが、二人の更なる悲劇の始まりだとは知らずに――。

 後に二人は語る。
「吉良家親戚一同とは、何があっても麻雀を打つな」と……。
 遅過ぎた後悔は、彼らを破滅へと導いたのだった。畳む

#番外編

七夜月奇譚

人色50Title《月》27 初めから有り得ない
織月視点/輝行と織月

 歪花。様のお題から。
 織月視点。
 まがさや 章之壱 肆 逆賊 の05の後のお話。

 自室に入った瞬間、織月はこみ上げる疲労を溜め息に乗せて吐き出した。ノロノロとした動作で机の上にバッグを置くと、力なくベッドに腰を下ろす。脳裏には、つい数分前に別れた相手とのやりとりが再生されていた。
 基に車で駅まで送られてから、自宅までの数十分間。二人きりで交わす会話は、ほとんどなかった。そして、その数少ない会話の内容は――。
「……人の気も知らないで」
 パタンと仰向けにベッドに倒れ、織月は微かな苛立ちを吐露した。
『各務綺麗なのに』
 褒められて、嫌な気分になる人間はいないだろう。それが、自分が好意を持っている相手なら尚更だ。
 けれど、それも時と場合による。
 相手は――横木輝行は、織月の想いを知っている、はずなのだ。知っていなければおかしい。織月は、面と向かって想いを告げたことがあるのだから。
 しかも、織月の告白からまだひと月足らず。その事実を忘れたというならば、どれだけ物忘れが激しいのだと罵りたい気持ちにすらなった。
 とにかく、何事もなかったかのように、全て忘れてしまったかのように、あんな風に言わないで欲しい。些細な一言でも、心の奥に押し込めている気持ちは、簡単に揺らいでしまうのだから。
「どうせ、深く考えないで口にしたんだろうけど」
 単純で、明快で、思ったことはそのまますぐに言葉にしてしまう。輝行はそんな性格なのだと、知っている。それが、彼の長所であり、短所でもあるのだ。だからこそ、輝行に惹かれたのだと自分自身でもわかっていた。
 上手く整理しきれない己の感情に、苦笑いが浮かんだ。
「綺麗、か……」
 言われ慣れていない言葉だった。織月にしてみれば、『綺麗』というのは郁のような人にこそ相応しいと思う。実際、自分が綺麗だなどと思ったことはないし、誰かにそんな風に言われたこともない。
 なのに輝行は、ごく真面目な顔で言ってのけた。その表情からは、からかうような様子は見えなかったし、お世辞を言ったようにも思えなかった。第一、輝行が織月にお世辞を言うメリットもないし、そんな器用な性格もしていない。
 だから、素直にそう思ってくれているのだろうとは思う。
 嬉しいのだ。純粋に。嬉しいからこそ、不要な期待を抱いてしまう自分が、愚かな気がして堪らなくなった。
「未練がましい女になんて、なりたくないのに」
 なのに、ほんの小さなことにも、過剰に反応してしまう。
 きっと輝行は、あの後の自分の態度に戸惑っただろう。それに追い討ちをかけるように凪沙に「彼氏」発言されて、さらに気まずくなってしまった。
「凪沙のバカ。絶対に、有り得ないのに」
 自身と輝行が、恋人同士などという甘い関係になるはずがない。すでにフラれているという、厳然たる事実があるのだから。そもそも織月には、告白する気なんて全くなかったのだから。
 それでも口にしてしまったのは、本当にその場の勢いと、そして、遠くないうちに会えなくなるとあの時は思ってしまったからだった。
 その予定が今は保留になってしまっている。思いがけずに輝行にも戻士の血が流れていることが判明した今では、予定は延期となる可能性も充分にあった。
 こんなことになるならば、言わなければ良かったと思う。後悔しても、過去を変えることなどできないけれど、それでも思わずにいられない。
 同時に、思わずにはいられないけれど、嘆いている暇はないのだ。そう、自分に言い聞かせる。
「初めから、有り得ないんだから」
 消え入りそうな声で、言い聞かせる。
 今の織月には、自らの最大の望みを叶える為に、そう言い聞かせるしかなかった。 畳む

#番外編

禍つ月映え 清明き日影

人色50Title《月》25 無意味な力
響視点

 歪花。様のお題から。
 まがさや 章之壱 肆 逆賊 の05の後くらい。
 ほぼほぼ響の回想。
 響の本編には出てこない捻じ曲がった部分をクローズアップした奴。
 後半部分は昔本編にも載せてた。

 ――いいか、響。おまえの能力は希少なものだ。
 幼い頃から繰り返された言葉が、成人した今でも脳裏にこびりついている。
 ――今の乾坤(けんこん)四家には、月姫様に見合うような男子がいない。だから、これはチャンスなのだ。わかるな? おまえは自分の能力を磨き、月姫様に相応しい男となれ。
 今思えばずいぶんと無茶なことを望むものだと思いもする。だが、小学生にもならない響は父の言葉を素直に受け止め、律義に自分の能力を伸ばすための努力を重ねていた。
 ――月姫様に相応しい人間に……。
 その言葉を、半ば呪文のように繰り返しながら。
 しかし、その一方で、当時その『月姫様』――つまり嫦宮は不在だった。六条院宗家が総力を注ぎこんで探し回ってはいたのだが、嫦宮不在の期間は実に十年を越えようとしていた。十年も経てば、当然心身ともに成長する。中学生になった頃には、同世代の中で早熟だった響が、大きな疑問と反発を抱くのも当然の流れだった。
 何故、いもしない嫦宮のために自分は努力をしているのだろう。そもそも、本当に嫦宮などという存在がいるのだろうか? 宗家方の話すような、神のごとき存在が、本当に……。
 嫦宮に対する盲信と妄執が垣間見える父。そして一族の特殊性を理解すると同時に、嫦宮というまだ見ぬ存在に不信感が生まれた。
 それでも、表面上はそれを露わにすることもなく過ごしていたが、内心ではもう嫦宮などどうでもよい存在となっていた。
 そんな中、ようやく当代の嫦宮が見つかったと父から聞かされた。その盛大なお披露目が近々行われると知り、響は複雑な心境に陥った。
 本当に嫦宮は存在したのか、という驚き。
 今更現れたと言われても、という苛立ち。
 そして、そこまで必死になる嫦宮というものが如何程のものなのか、という好奇心。
 相変わらず嫦宮を崇め奉る父から、響もそのお披露目の会に出なさいと言われたときには、面倒臭さよりも好奇心が勝った。

 当代嫦宮のお披露目は、古都にある六条院宗家本邸で行われた。本邸を訪れるのは初めてで、ただただその規模に響は圧倒されながら、宗家のお偉方に父とともに挨拶をして回った。
 そうしていよいよ当代の嫦宮が登場する段になる。百人以上も入れる広い大座敷で、綺麗に並んで正座する一族の者たち。その末席で、響も大人たちに倣って正座し、頭を垂れていた。
 静かに障子の開く音。衣擦れ。ふわりと漂う極上品(ごくじょうぼん)の伽羅の香り。
 自ずと緊張が高まる中、上段の間に座する気配が伝わる。宗主の声掛けと共に周りと合わせて顔を上げた瞬間、響は息を呑んだ。
 白衣(びゃくえ)に緋袴、その上に菊重(きくがさね)千早(ちはや)をまとい、腰よりも長い射干玉(ぬばたま)の髪を惜しげもなく背に流すのは、自分とさほど歳の変わらない少女。だが、その少女の放つ空気は、とても同じ世界に住む人のものとは思えないほど神々しい。どこを見つめているのかわからない深淵のような黒耀の瞳が、更に神秘性を高めていた。
 美しい、などという言葉では足りない。人にして人に非ず。父があれほど心酔する理由が、初めてわかった。
 嫦宮は――生き神は、確かに存在する。

 この瞬間から、響は自分の手にした力全てを嫦宮に捧げようと決めた。誰の命令でもなく、自分自身の意思を以て。
 かつて父が飽きるほど繰り返した言葉は、自らの想いへと生まれ変わり、響の存在意義となったのだった。
 六年前の、あの時までは――。



「兄貴、帰らねぇの?」
 訝かる声に、響は思考の淵から浮上した。声の方へと顔を向ければ、弟が立ち上がろうとしている体勢のままだ。
 六条院家別邸の座敷の一間。開け放たれた障子の向こうからは、蝉が忙しなく鳴き続けていた。
 数十分前まで十人以上もの人数が集っていた場所には、すでに響、亨、帆香の三人だけとなっている。ほんの少し前までこの場に残っていた郁と尚志は、呼びに戻った輝行とともに奥座敷へと移動していた。
 もう必要な話は済んでいる。帰っても構わないはずだ。しかし、それでも響はなかなか腰を上げる気分にはなれなかった。
 どうして宗家の人間は横木輝行に肩入れするのだろうか。それが、納得できない。その想いがずっと頭の片隅から離れなかったからだ。
「兄貴?」
 何も答えない響に、亨の声が気遣わしげな色を強めた。それに響は落ち着きはらって笑みを作る。
「先に帰っていて構わないよ。俺は少し、訊きたいことがあるし」
 柔らかな声音だったものの、どこか突き放すような口調になってしまったのは、緊張があったからだろうか。常との微妙な対応の違いに、亨がひっそりと溜め息を洩らしたことに気づいた。呆れているのかもしれない。弟は自分とは違い、嫦宮や宗家に対してさほど思い入れがないようだから。
「亨」
 すでに濡れ縁まで出ていた帆香が控え目に促した。帆香も響の嫦宮崇拝を知っている。きっと、今も自分の気持ちを慮ってのことなのだと響にはわかった。
 亨が帆香に応え、先に帰るからと寄越す。気をつけてと返すと、二人は仲良く揃ってその場を後にした。
 人の声の無くなると、蝉時雨が耳に痛い。
 あの日も、こんな風に蝉の音が喧しかった。



 六年前の七月七日。
 それは当代嫦宮である郁が、十六の誕生日を迎える日だった。
 嫦宮が十六歳になる日というのは、特別な意味を持つ日でもある。とりわけ、響にとってはその日は重要であった。
 それは、『姫紲(きせつ)』が選ばれる日。父の言った、『月姫様に見合う者』が決められる日だった。
 この日が、響は待ち遠しくて仕方がなかった。姫紲は代々乾坤四家から選ばれることになっていたが、今の四家には年齢的に当代と釣り合う男子がいない。唯一の例外が吉良家の長男である尚志であったが、彼は吉良家血縁ならば本来受け継ぐはずである風精術使(ふうせいじゅつし)の力を微塵も有していなかった。
 姫紲は嫦宮の配偶者であると同時に、最も身近に仕える守護者でもある。何の能力も持たない者に務まる役目ではなく、当代の姫紲は例外的に他家から選ばれるのではないかともっぱらの噂だった。
 それが本当ならば、響が選ばれる可能性は限りなく高い。乾坤四家に次ぐ位置にあるのは、常磐家と守屋家。常磐家には累がいたが、彼はそれほど体が丈夫な方ではなかった。そうなれば、亨か響という選択肢しか残っておらず、当時それほど門の能力を開花させていなかった亨よりは、熱心に修行を積み着実に紋の戻士として成長していた響に決まることは火を見るよりも明らかだった。
 そんな夢を胸に抱きながら、一族の集いに響は向かった。父も長年の想いが実るかもしれない期待に、どこか落ち着かない様子だった。
 お披露目の時と同じ大座敷。外では蝉の声が、そして内には高鳴る鼓動が間断なく続いていた。
 末席に座し、当代の現れる瞬間を待つ。宗家身内の合図に全員が頭を垂れると、静かに障子が開いた。いつも通りの嫦宮の登場だ。そう思った。
 だが、本来次に声を発するはずの宗主の代わりに、凛とした少女の声で「面を上げよ」と聞こえた瞬間、ざわめきが拡がった。
 おずおずと顔を上げる一族の者たち。響も他の者たちと大差ない様子で上段の間に目を向けた。
 そこにいたのは、嫦宮の御装束(みしょうぞく)をまとった、ショートカットの快活そうな少女。神々しさも美しさも相変わらずで、それが当代嫦宮本人であることに間違いはない。けれど、その瞳に宿る力強い光が、以前とは別人かと思わせるほどだった。
「つ、月姫様……、その御髪(おぐし)は……」
「暑いから切った。別に問題はないだろう? それから、姫紲のことだが手短に言おう。吉良家の長子である尚志に決まった」
 何の前置きもなく、郁の口からさらりと滑り出た言葉が、響の思考を真っ白にする。しばらく放心の後、その白を塗り潰す勢いで疑問が溢れ出した。
 何故、尚志なのか。何の力もないのに。強いて挙げれば、彼にあるのは家筋だけ。
 自分は嫦宮のために力を身につけてきたのに。他の誰もが、自分ならば相応しいと言っている声を何度も聞いてきたのに。
 何の為に、今まで努力をしてきたのだろう。これでは、まったく無意味ではないか。
 次々に不満と落胆と失望が押し寄せ、響の積年の想いが踏み荒らされていく。父親が何か発したようにも思えたが、まったく耳に入ってこなかった。
「異論は認めない。これは、長老方も納得した決定だ。以上」
 そんな状況でも、郁の声だけは妙に頭に響く。項垂れていた顔を上げると、これ以上話すことはないと言わんばかりに、郁が颯爽と上段の間から降りていくところだった。そうしてふと障子の一歩手前で立ち止まり、振り返る。視線を向けたのは、ちょうど座敷の対角線上だ。
 そこにいたのは、響と同じ年の容貌麗しい少年――先ほど姫紲に任じられたばかりの吉良尚志。尚志がその視線を受け取ると、郁は無言で座敷を後にし、宗家の家人もそれに続いた。それに倣うように、尚志もその場を辞する。
 後にはただ、状況を飲み込み切れずにいる一族たちと、存在意義を見失った響が残されていた。



 不意に、床板を踏みしめる音で我に返った。
「あら、お帰りにならないのですか?」
 濡れ縁から鈴を転がすような可憐な声が零れる。そこに立っていたのは、両手で何かを抱え持っている茉莉だ。多分、その手に持つものは郁と尚志に指示されて持ってきたものだろう。向かう先はもちろん、その二人と基、織月、そして横木輝行が待つであろう奥座敷だ。
「茉莉さん、尚志さんに伝えて頂けませんか? あとでお時間を頂けないかと」
「……それは、結構ですけど」
 少し言い淀んでから、茉莉は微かに苦笑を浮かべて続けた。
「何を訊いたところで、兄様は結局重要なことは教えて下さらないと思いますわよ? もちろん、知る必要があると判断されたならば別ですが」
「では、茉莉さんは尚志さんの意図もわからないままに従っていると?」
「わからないわけではありません。一応、これでもあの人の妹を二十年近くやっているのですから。けれど、兄様は私などでは考えも及ばないくらい、先のことを見通しておられます。だからこそ姉様も絶対の信頼を置かれているわけですし、私如きが『こういう意図があるであろう』と推測したところで、それは兄様のお考えのほんの一部分でしかないのです。そしてそれは、私に限ったことではないと思っております」
 言外に、貴方にも理解が及ばないだろうと告げられ、響は膝の上に置いていた両の手を握り締めた
 しかし同時に、茉莉の言い分が正しいことを、痛いくらいに知っている。自分ではどう足掻いても敵わないほど、尚志は優れている。たとえ精術使としての能力は一切持たなくても、その頭脳が補って余りあるほどなのだ。そんな事実など知りたくもなかったのに。
「それに、私は兄様の意図を全て理解はできなくても、兄様のなさることに間違いはないと信じておりますから」
「……そう、ですね。確かに尚志さんならば、宗家や郁様に益のないことなどされないでしょう。しかし――」
 そこまで言って、響は言葉を途切れさせる。次の一言を言うには、相当の覚悟が必要だった。いくら年下といえども、響にとって茉莉は宗家中枢の人間に他ならない。大きく息を吸い込み、思いきるように口を開いた。
「しかし、織月にとってはどうなのでしょうか? 織月は今、かなり不安定な状態です。宗家の方々からはそうは見えなくても、かなり無理をしているのです。そんな状況では、織月に負担を強いるようなことになるのではないですか?」
 表面的には感情を抑えはしたけれど、内心では言葉よりももっと激しい焦燥感が襲っていた。その焦燥感の正体が何なのか、響は理解をしている。そして、そんな気持ちを持つことが馬鹿馬鹿しいことだと言うことも。
 それでも、その感情を消し去ることはどうしてもできなかった。そんな響の心の内の葛藤など全く気付かぬまま、茉莉はふわりとした笑みを浮かべた。
「本当に織月さんが大切なのですね」
 率直過ぎる茉莉の感想に響は気恥ずかしい思いを感じたものの、表には出さずに曖昧な表情を作るのみ。茉莉がそれをどうとったのはわからなかったが、視線を濡れ縁の遠く先へと向け直したことに安堵した。
「兄様には伝えておきます。ただ、今のお話を終えられるのにどの程度のお時間がかかるのかはわからないですが……」
「大丈夫です。お願いします」
「わかりました。それでは、ここでお待ちになっていて下さい」
「はい」
 茉莉がゆるりとその場から離れていく。
 微かな足音が遠ざかるに従い、辺りが静寂に占められていった。つい数分前まで騒がし鳴き声を響かせていた蝉達も、示し合わせたかのように黙りこくっている。
「よりによって……」
 響の呟きが静かな空気を震わせ、波紋となって拡がった。それに触発されたのか、一斉に夏の風物詩の大合唱が始まる。続く響の言葉は蝉時雨にかき消され、溶け去った。
 響はただ一人座敷で佇み、一族の最も無能にして有能な参謀役を待ち続けたのだった。畳む

#番外編

禍つ月映え 清明き日影

人色50Title《月》16 引き摺り続ける過去
尚志視点/尚志×郁

 歪花。( http://www.usamimi.info/~miuta/magari/ )様のお題から。
 恐らく大学時代の尚志×郁。
 二人は大学近くのマンションに同棲中です。
 微エロです。R-15にもならない?

 窓を叩く雨音が、一層激しさを増した。視線を目の前のディスプレイから半分だけカーテンの引かれた窓へと移すと、大粒の雨滴が数え切れないほど花開いては散っていく。
 夜半の深雨は、嫌いではない。だが、彼女にとっては思い出したくもない過去を無理やり引きずり出してつきつける、苦々しいものでしかないのだろう。
 それを知っているからこそ、彼は静かにその部屋をあとにし、隣の寝室へと続くドアをそっと開けた。
 彼女はまだ眠っていた。クイーンサイズのベッドの上で、ブランケットに埋もれるようにして身を縮めながら。
 その表情はとても穏やかと言えるものではない。苦悶に歪み、眦からは幾つもの雫が伝い落ちてはシーツを濡らしている。
 指先でそっと涙を拭ってやり、小さく名前を呼ぶ。呼応するように、彼女が大きく身を震わせて上体を起こした。かすれた声で、確認するように彼の名を口に乗せる。
 それを吸い取るかのように深く口づけると、強引に彼女の体を抱き寄せた。小柄な彼女は容易に彼の腕の中に囚われ、抗うことはない。
 常ならば、冗談めかしてその腕から逃れようとするだろう。否、こんなにあっさりと捕まること自体が有り得ない。
 けれど、今は違う。彼女は彼を絶対に拒まない。それどころか、そのぬくもりを欲するかのように強く縋りついてくる。
 纏わりつく、過去の悪夢から逃れたい一心で。
 はだけた胸元から滑らかな肌に手を這わせると、嗚咽にも似た悦楽を噛み殺した声が漏れる。
 甘い囁きなど必要はなく、繰り返し名を呼ぶだけ。二人の間には、「好き」も「愛している」も意味のない言葉だった。ただ、名を呼ぶ合い間に唯一彼が告げる言葉がある。
 ――俺は、どこにも行かない。
 その一言に、彼女が安堵することを知っていた。そうして言葉を与え、深く体を繋げることで、彼女の耳から激しい雨音を遠ざけてやる。
 そんなことくらいしかできないのだ。それほどに、彼女の背負う傷は大きい。十年ほどの年月が過ぎようとし、その傷の原因となったものを取り除いた今となっても、癒されることなく血と涙を流し続けるほどに。
 疲労と安堵で眠りについた彼女を腕の中に閉じ込めたまま、彼もまた眠る。
 翌朝にはきっと、いつも通りの太陽の如き笑顔で、彼女は彼を邪険に扱うだろう。鬱々しい雨など払いのけるほどの笑顔で。

 二人分の静かな寝息を、次第に弱まっていく夜半の雨音が優しく包み、やがて溶けるように消えていった。畳む

#番外編

禍つ月映え 清明き日影七夜月奇譚

「君をおいていきたくないんだ」
書き出しme.のお題/西城と少しだけ郁

「君をおいていきたくないんだ」
 突然目の前に現れた彼は、そう言って柔和な笑みを浮かべる。
 こんなところに、と続けながら。 

 彼は、かつて自分が想いを寄せた人だった。
 終わった恋だと思っていたのに、いざ彼と再会しそんな風に言われてしまうと、かつての想いが私の体中から溢れ出した。
 ゆっくりと一歩踏み出し、自らの手をその人に向かって伸ばす。
 すると、待ちきれないと言わんばかりに彼の手が私のそれを掴もうとした。
 が、私は慌てて手をひっこめた。
 得体の知れない違和感が、胸の内に影を落としている。
 何かが、違う。何かが、おかしい。
 その違和感の正体を探るために、私は自分の記憶を手繰る。

 彼は……、そう、彼は、私の高校時代の同級生。
 明るくて、調子者で、そして、とても優しい人。
 私は彼が好きだった。けれど、彼は誰からも好かれる存在で、私の一方的な片想いに過ぎなかった。
 告白することもないまま卒業し、それ以来一度も顔を合わせていない。
 同窓会にも彼は姿を現さなくて、イベント事が好きだったはずなのに来ないなんてね、などと友達とも言っていた。後から幹事の子にそれとなく訊いてみたら、連絡が取れなくなっていると言うので密かにがっかりした思い出がある。
 それを機会に、私はきっぱりと彼への未練を断ち切った。
 そうして職場の同僚として出逢った人とまた恋に落ちて……。

 そうだ。そうだった。
 私は今の恋人――広明と旅行に来ていたのだ。
 二泊三日の、ドライブ旅行。
 広明の好きな曲をかけて、海沿いの道を快適に飛ばす。内陸育ちの私には、それだけでも新鮮だった。
 お昼には宿泊先に着き、近くの名所を二人で回ることになっていた。
 なのに、何故?
 辺りを見回すと、何もない真っ暗な闇。
 いや、闇というのともまた違う気がした。
 暗いというよりも、黒い。
 どこまでもどこまでも、黒ペンキで塗りつぶしたように真っ黒だ。
 目の前にいる彼も、その黒に溶け込む黒いスーツを纏っている。
 色というものが、一切欠如しているかのような場所だった。
 わからない。
 ここはどこなの? 広明はどこに行ってしまったの?
「ねえ、おかしいわ。私、どうしちゃったの? 広明は? 私たち、ずっと一緒にいたはずなの」
「そうだね」
「貴方は? どうして貴方がここにいるの? ここは、どこなの?」
「……落ち着いて聞いてくれるかな。君はね、事故に遭ったんだよ」
「じ、こ……?」
 言われた瞬間に、全身を痛みが襲った。
 反射的に我が身を庇うように抱き締めると、ぬるりと濡れた感触。
 恐る恐る腕を解いて目を向けると、私の体は血に塗れていた。着ていた服は無残に破け、そこかしこから生々しい傷が覗いている。
「君の恋人の広明さんは、即死だった。けれど君は、まだ助かる。だから、迎えにきたんだ」
「広明が……死んだ?」
 声が、震える。体を苛む痛みなど一瞬で忘れ、代わりに訪れたのは氷点下にも思える寒さ。
 信じたくない。広明が死んでしまったなんて。
 ううん、きっと嘘だ。本当のはずがない。
 ずっと一緒にいようと誓ったのだ。広明は嘘が嫌いな真っ直ぐな人。そんな人が私をおいて死んでしまうはずがない。
「さあ、一緒に行こう。君はここにいてはいけない」
「……違う」
「このままここにいたら、『彼』が来てしまう」
「『彼』が、来る……?」
 彼の言う『彼』は――もしかしなくても、広明のこと?
 死んだ広明が、ここに来てしまう?
 ……やっぱり、おかしい。
 そもそも、どうして彼が私を助けに来るの?
 同じクラスではあったけれど、私と彼とはそんなに親しい間柄ではなかった。
 しかも、今では消息不明になっている彼が、いまさら元同級生を助けにやってくるなんて不自然すぎる。
「ほら、早く」
 急かすように彼が手を伸ばす。
 一歩、私は後ずさった。
「いや、行かない」
「心配しなくていい。すぐに戻れるから」
 安心させるように彼は微笑むけれど、私にはそれがどうしても恐ろしく思えた。
 彼についていってはいけない。
 ついていってしまえば、私は二度と広明には会えない。
 何の根拠もないのに、どうしてかそんな確信があった。
「大丈夫。俺を信じて。君だけでも、俺は救いたいんだ」
 言葉だけは優しい。けれど、彼の身に着けた黒いスーツは、まるで死を連想させるような不吉さだ。
 そうだ、きっと彼は死神だ。
 私の好きだった人の形をとって、私を惑わし、そうして連れて行こうとしているのだ。
 広明が死んだなんて、それも嘘。
 本当の広明は、先に助かって、私を待っていてくれるのだ。
 だから、彼は言ったのだ。
 早くしないと、広明が来てしまうと。
「……佳奈美」
 かすかな呼び声に、振り返る。
 そこにいたのは、広明だった。
「いけない! 早くこっちに!」
「いや! 広明!」
 捕まえられそうになるのをすんでのところでかわして、私は広明に向かって走り出した。
 大きく両手を広げて立つ広明の胸へと飛び込むと、きつくきつく抱き締められる。
「佳奈美、よかった」
「広明……。どこにも、行かないで……」
「もちろんだ。ずっとずっと、一緒にいるよ」
 この上ない幸福感に包まれる。
 体の痛みも、凍えるような寒さも、もう完全になくなっていた。
 これからきっと、それほど時間もかからないうちに私は目覚めるだろう。
 病院のベッドの上で。
 傍らにはきっと、心配そうな顔をした広明が、私の家族と一緒に待っていてくれるはず。
 そんな予想を胸に、私はゆっくりと闇に溶け込んでいった。

   ◇ ◇ ◇

「ダメやったん?」
「残念ながら。顔見知りだと上手くいくかなと思ったんだけど、かえって怪しまれちゃった」
「いや、多分、顔知らんでも彰ちゃん自身がもともと怪しいから」
「えー、郁さん、そういうこと言うー?」
 冗談めかした言葉は、慰めの代わりだろう。
 郁さんのこういう優しさに、いつも救われる。
「せめて、明るい方に行けるようにお祈りしてきぃな」
「……そうだね」
 短く答えると、意味をなさなくなった術具たちを片付け始める。
「助けたかったな……」
 ぽつりと呟くと、ポケットから煙草を取り出す。
 銜えた一本で、こぼれそうになった言葉に蓋をした。

 ――昔、好きだった人くらい。畳む

#番外編

七夜月奇譚

手首にくちづけ
2019年 Kissの日SS/ロレダーナ視点/後日談

 ずっとずっと片想いをしていたレナート様の正式な婚約者となって気づけば三か月。
 恒例のお茶会は続いているし、以前よりも互いの距離は近くなっている。
  なのに――。
「子ども扱いが変わらない気がする……」
 お茶会から帰った後の自室。かつての関係の進展を望む言葉の代わりに、現状に対する不満が零れ落ちた。
 いや、確かにレナート様との会話は以前よりもずっと甘くなったし、スキンシップも増えたとは思う。頬や額や髪にキスしてくれることもあるし、その度に心臓が跳ね上がるのは確かだ。
  けれど、
「唇には、してくださらないのかなぁ」
 ぽつりと呟いたあと、自分自身の言葉の大胆さに我に返った。かぁっと頬が火照っていくのがわかる。
  けれど、けれども。私がそんな風に思うのは自然なことだと思うのだ。
  想い合う恋人同士ならば――。
「こ、恋人同士……」
 熱くなった頬に、より一層熱がのぼった。今更だけれども、改めて言葉にすると恥ずかしすぎて幸せすぎて、ベッドの上でゴロゴロと転げまわってしまいそうになる。レナート様に相応しい淑女はそんなことはしないと知っているから、必死で我慢するけれども。
 そうして一通り悶えたあと、再びふりだしに戻ってため息が零れた。
「……やっぱり、まだ幼いって思われている部分があるのかなぁ」
 ちゃんと女性として見てもらえているのはわかっている。同時に、とても大切に扱われていることも。
 七歳の歳の差は歴然としてあって、私が必死で背伸びしようとしていることも、そんな私を私のままでいいと思ってくださっているのも理解はしているつもりだ。
  それでも、不安になる。レナート様にある日突然「やっぱり妹のようにしか思えない」なんて言われたりしないだろうかと。
 両想いになったはずなのに、以前よりもずっと後ろ向きな思考になっている自分に嫌気が差した。
 
  わからないからモヤモヤするのだ。
 一晩経って、結局私はそう結論づけた。わからなければレナート様に直接訊けばいい。
  そう決意して、今日もレナート様の待つバラのお庭へと向かう。
「ごきげんよう、レナート様」
「いらっしゃい、ロレダーナ」
 いつも通りの挨拶に、いつも通りの甘い笑み。
  以前と変わったことがあるとすれば、レナート様が当然のように私の腰に手を回し、テーブルまでエスコートしてくれるようになったことだろうか。その距離の近さになかなか慣れなくて、ついつい息を詰めてしまう。
「あ、あの、レナート様……」
「なんだい?」
 直接訊けばいいと思ったはずなのに、いざ目の前にすると言葉が出てこない。大体、「どうしてキスしてくれないんですか」だなんて、淑女として恥じらいがないにもほどがあるのではないだろうか。そんなことを訊いてしまえば、レナート様にはしたない女性だと思われたりしないだろうか。
  そんな考えが頭の中を巡ってしまい、何も訊けなくなってしまった。
「ロレダーナ?」
「あ、いえ、あの……!」
 顔を覗き込まれ、至近距離に天使のように整ったお顔が近づけられる。
  レナート様近いです近すぎますちょっとこの距離は無理です心臓が止まってしまいます!
 大混乱中の私に気づいたのか、レナート様のお顔が離れていった。そして、ふいっと顔が背けられる。
  どうしよう。レナート様に失礼な態度を取ってしまった。気を悪くされたんだ。
「あの、レナート様! 申し訳――」
「まったく君は……」
 謝ろうとした私の言葉に被さったレナート様の声は、震えていた。え? 震えている?
  どういうこと? と下げかけていた頭をもう一度上げてよくよく観察すると、レナート様は肩を震わせて笑いを必死に堪えているようだった。
「レナート様、あの……私、何かおかしなことをいたしましたか?」
「いや……。ロレダーナは相変わらず可愛いね」
 腰が砕けそうな甘い声。咲き乱れる赤バラよりも真っ赤になっている私は、もう全身が茹で上がりそうなまま固まってしまった。
  そんな私に構わず、レナート様は私の左手をとった。何をするんだろうと思う間もなく、その手首に柔らかなぬくもりが触れる。ほんの少しだけ濡れた感触。レナート様の艶やかな金の髪が腕をくすぐるのに、ぞくりと今までに感じたことのない感覚が背筋を駆けのぼった。
「レ、レナート、様……?」
 呼びかけると、レナート様からは常とは変わらない笑みが返った。その笑顔に、妙に安心して、知らず強張っていた体から力が抜ける。
「さて、喉が渇いたね。お茶にしようか」
 それまでのやりとりがなかったかのようなレナート様の誘いに、私は自然と首肯していた。
  いつもどおりの、和やかなお茶会が始まる。

 そうして私が、結局訊きたかったことを一つも訊けていないことに気づいたのは、お茶会を終えて自室に戻った後のこと――。

手首なら欲望【キスの場所で22のお題】( http://lomendil.maiougi.com/kiss-title.h... )畳む

#番外編

つぼみにくちづけ

放課後サイド バイ サイド
現パロ/レオン視点/レオンとセラ

 生徒会の仕事を終え、職員室へと書類を提出しにいったその帰り。ふと思い立って一年の教室のある階を通って見ることにした。別に、彼女がいるとは思っていない。もう授業が終わってかなりの時間が経っているのだ。いるはずがないのだが、何となく普段彼女が過ごしている空間を歩いてみたくなった。ただそれだけの話。
 彼女のクラスは一組だったはず。そんなことを思い出しながら何気なく教室内に視線を向ける。と、西陽の差し込む窓際の席に、見慣れた緋い髪を見つけて思わず足を止めた。
 放課後の教室。他には誰もいないその場所で、一つ年下の少女は机に突っ伏して微睡んでいる。誰か――例えば幼なじみのアルヴィンだとか――を待っていて、待ちくたびれてしまったのだろうか? そういえば、あの男は放課後になるや否やクラウスを捕まえて、さっさと下校してしまった。きっと繁華街にでも出て、好みのナンパにでも勤しんでいるのだろう。クラウスがいれば成功率が上がるなどとふざけたことをぬかしていたのだから。
 そんなことよりも、問題はこちらの少女だ。
 いくら暖かい季節になってきたとはいえ、夕方になれば冷え込んでくる。このままでは風邪を引いてしまうかもしれない。
 ――起こすしかないか。
 仕方なく、彼女の方に向かって歩き出す。
「セラ……」
 控えめに声を掛けるが、熟睡しているのか何の反応もない。
 改めて見ると、滑らかに弧を描く頬の白さと寝息を洩らす艶めいた赤い唇に、見てはいけないものを見た気分にさせられた。
 鼓動が大きくどくんと鳴る。触れてみたい、と頭の中に浮かんだ自分の欲望を、慌ててかき消した。
「セラ!」
 焦るように彼女の肩を揺すり、先ほどよりも大きな声で呼びかける。さすがにそこまでされると目が覚めた彼女は、驚いたように体を震わせて跳ね起きた。
「レ、レオンさん?」
「こんなところで寝ていたら、風邪を引くぞ」
「……あ、すみません。ありがとうございます」
 恥ずかしそうに頬を赤らめながら謝罪と礼を寄越す彼女に、気にするなと返すのが精一杯だった。
「って、あれ? もうこんな時間ですか?」
「ああ。アルヴィンでも待っていたのか? アイツなら授業が終わって早々に意気揚々と帰っていったんだが」
「あ、いえ。レオンさんを待っていたんです。この間お借りした本を返そうと思ってて。生徒会室覗いたらお仕事忙しそうだったんで、邪魔したら悪いと思ってここで待ってたらんですけど、陽射しが気持ちよくってついつい……」
「気にせず声を掛けてくれれば良かったのに」
 気遣い屋な彼女らしい選択だが、こちらとしてはそんな遠慮はしないでほしかった。きっと相手がアルヴィンならば、彼女は気にすることなく声を掛けただろうに。彼女に悪気はないとわかっていても、そうやって距離を置かれることが悔しかった。
「あ、でもちゃんと確認すればよかったですね」
「確認?」
「私がお手伝いできる仕事だったら、一緒にやった方が早かったかなって。その時は声掛けたらご迷惑かもって考えしか思い浮かびませんでした」
 気が回らなくて駄目ですね、と反省しつつ苦笑いする彼女に、自然と頬が緩む。
 どんな場合でも反省点を見つけてそれに前向きに対処しようとするところは、彼女の美点の一つだろう。
「セラは真面目だな」
「レオンさんに言われたくないですよ。ところで、もうお仕事終わったんですか?」
「ああ。これから生徒会室に戻るところだった」
「生徒会室? ……何で、この階通ってるんです?」
 彼女から指摘をされて、うっかり本当のことを答えてしまっていた。職員室は一階、生徒会室は三階、そして、この一年の教室のあるフロアは二階なのだ。通りすがりというには不自然過ぎる。
「あ、いや……」
「ああ、もしかして見回りですか? 私みたいにうっかり居眠りして下校しそびれてる生徒がいたら困りますもんね」
「……そう、だな」
 言い訳をする間もなく、勝手に良いように解釈してくれて助かった。日頃の行いのおかげだろう。
「じゃあ、気をつけて帰れよ」
「はい。レオンさんもお気をつけて」
 名残惜しいと思いながらも、そう告げて生徒会室に戻るべく教室を出た。
 本心としては、家の方向も同じなのだし一緒に帰ろうと言いたいところ。けれど、生徒会室に戻るまでの間待たせるのも申し訳ないし、何より誘うことで自分の気持ちがバレてしまうのではないかと思うと怖くてできなかった。
 せっかく先輩後輩として良い関係を築けているのだ。それを壊してしまうような真似はしたくない。
 生徒会室に戻り、自分の鞄を手にする。はぁと自分の情けなさにため息をつきながら、戸締りを確認して生徒会室を後にした。
 やっぱり誘えばよかったなどと今更な後悔をしつつ、昇降口で靴を履き替える。そうして校舎を出ようとした瞬間、昇降口の扉のところに帰ったはずの彼女の姿を見つけた。
「セラ? 何か忘れものでもしたのか?」
「本を返すつもりだったって言ったじゃないですか。さっき渡すの忘れてたので、待ってたんです。せっかくなんで、一緒に帰りませんか?」
 何の気負いもない自然な口調で、彼女は俺が言いたくても言えなかった言葉を口にした。
 別に明日でもよかったはずなのに、わざわざ俺のために時間を割いてくれることに喜びがこみ上げる。
「そうだな。日も暮れてきたし、危ないからちゃんと家まで送ろうか」
「え、さすがにそこまでは大丈夫ですよ! 私なんか襲う物好きいませんし、そもそもそう簡単に襲われるほど鍛錬を怠ってはいません!」
 これは遠慮、というよりも自分の強さに対する自負が上回っているのだろう。確かに、剣道部で全国大会常連なのだからそう思うのも当然だろう。自信満々に言い切るその姿がまた可愛いのだが、無自覚というのは怖いなとしみじみ思う。
「セラが強いのはわかっているが、最近は物騒な事件も多いからな。俺が安心したいだけだから、素直に送られてくれないか?」
「でも、レオンさんの家の方が手前にあるのに……」
「それに、セラを暗い時間に一人で帰したとなると、うちの父にも君のお父さんにも叱られそうだし」
「ああー……」
 渋る様子の彼女に、ダメ押しとして出した『お父さん』の一言に、何とも複雑そうな声が返る。彼女がそんな声を出すのは無理もない。彼女のお父さんは、度が過ぎていると言っていいほど過保護で、よく彼女自身もうんざりした様子で愚痴っていたのだ。
「そう、ですね。ありがたく送っていただきます。あ、でも、うちに着いたらできるだけ速やかに退避してくださいね! くれぐれも、兄には見つからないように、速やかに!」
 俺が送るを了承してくれたが、すぐに思い出したように彼女は付け加える。その表情には鬼気迫るものがあった。
 そう。彼女に対して過保護なのは父親だけではないのだ。いや、過保護を通り越して過干渉としか言えない超絶シスコンの兄君がいるのである。俺も今までに何度睨まれたかわからない。
「……そうだな。俺もまだ命は惜しいし……」
 彼女の兄のことを思い出すだけで一気に気が重くなる。彼女も同じなのか、ほぼ同時に大きなため息をついた。思わず顔を見合わせ、互いの疲れ切った表情にぷっとふき出す。
「あはは、レオンさん、ひどいですよー。一応あんなでも私の兄なんですよ?」
「一応、セラさえ絡まなければいい人だとは思っているんだが? そういうセラだって、まるで危険物扱いしているじゃないか」
「……だって、完全に馬に蹴られてほしい人ですし」
「馬?」
 言葉の意味がよくわからなくて訊き返すと、慌てたように彼女は何でもないですと誤魔化した。
「さて、帰りましょうか」
「そうだな。道すがら、貸した本の感想を聴いてもいいか?」
「是非! めちゃくちゃ面白かったんで、感想語り合いたかったんですよー!」
 眩しいばかりの笑顔を向けられ、ほんの少し前まで胸を占めていた憂鬱な気分は綺麗に吹き飛ばされる。
 沈む夕陽が、彼女の白い頬をほのかに染めていた。
 彼女の家まであと三十分。その短い時間だけでも彼女を独り占めできる。
 ささやかだが至福のひとときだった。畳む

#現パロ

風にゆれる かなしの花