夢のあとさきそめし朝

第一幕 あるいは、絵空事

第二話 相方不在のエチュード  02

 市場は宮城へと向かう大通りから一本外れた筋にあるらしい。大通りより少しだけ幅が狭い道のその先、突き当りにある結構な広さの広場がそれだった。マミヤさんと他愛無い会話をしながら辿り着くと、そこは圧倒されるほどの人と活気で溢れていた。
 並べられているのは、魚に野菜に果物にお花。それから、日用雑貨や布など。何を売っているのかよくわからないところもたまにある。
 お祭りの露店みたいな感じというのが一番近いのだろうか。木と厚手の布で作られた簡易のテントみたいなお店がほとんどで、その下に籠や箱に入れられた商品が陳列――というよりも無造作に置かれていた。
 牛や豚や鶏なんかは、生きたまま囲いの中に繋がれている。魚くらいならさばけても、さすがに鶏や豚は経験がない。いや、さばく以前に生きているものをしめることもできそうにない。いや、いざとなればやらねばならないのか。そんな風に覚悟を決めかけていたら、マミヤさんが安心してと言わんばかりに微笑んだ。
「大丈夫よ。お肉は必要な分だけお店の人が切り分けて売ってくれるから」
「で、ですよねー」
 確かに、家族の少ない家なら鶏一羽まるごととかだと結構な量になるのだ。高性能な冷蔵庫があるわけでもないのに、日持ちしないものを大量に買うわけがなかった。
「キース坊ちゃんは、好き嫌いも特になくてねぇ。何でも残さず綺麗に食べてくださるんですよ」
「あ、そう言われてみれば、今までに作ったご飯、一度も残したりしてないですね」
 あまり気にしていなかったけれど、キースは食べ残したりしないし、苦手そうな様子を見せたこともないと気づく。
 坊ちゃんと言われるようないいとこのご子息様なら、きっと食べ物に困ったことなどないだろう。なら、食べたいものだけ食べるってこともできないことはないはずだ。嫌いなら残すことだってできたはず。なんて思ったけれど、そういえばキースはかなり信心深い感じの人だったと思い出した。
 偏見かもしれないけど、信心深い人って食べ物に対して常に誠実というか、感謝の気持ちを忘れないというイメージが強い。キースの場合が信心からくるものなのか、それとも単純にご両親の躾が良いのかわからないけれど、前者の可能性も充分にあるなと思えた。
「特に好きな食べ物とかはないんですか?」
 嫌いなものがないことはわかったので、逆に好きなものを訊いてみる。
 好物って、たまに出てくるとご褒美をもらったみたいな気持ちになるし、明日も頑張ろうという意欲も湧いてくる心の栄養剤みたいなものだ。
 キースは疲れた顔とか全然見せたりしないけど、世の中に疲れない人間なんているわけがない。見せないだけの話なのだ。
 お世話になっているからには少しでも恩返しをしたい。けれど、キースの仕事を手伝えるわけでもない。私にできることなど、せいぜいこんな些細なことくらいしかなかった。
「特に好きなもの、ねぇ……」
「マミヤさん?」
 そんなに変な質問をしたつもりはなかったのに、マミヤさんはどこか困ったような少し寂しげな笑みを浮かべる。何かを思い出すような素振りのあと、少しだけ作った笑顔で続けた。
「キース坊ちゃんは、昔から特別にこれが好きというのを口にしない方でしてね」
「好きを、口にしない?」
 それはつまり、好きなものが特にない、ということ?
 さっきマミヤさんの言った『好き嫌いがない』というのは、本当に言葉の通り『好き』も『嫌い』もないという意味だということなのだろうか?
 それとも、本当は好きなものがあって、でもそれを口にしてはいけなかった、もしくは自ら禁じてきたとか?
 前者なのか後者なのかはわからない。ただ単に私の考えすぎで、どちらでもないのかもしれない。けれど、マミヤさんの表情には、ただの考え過ぎでないような雰囲気がうかがえた。
 つまり、当たり前のことかもしれないけれど、私が見ているキースの顔はやっぱりほんの一部でしかないのだ。
「きっと私たちに気を遣ってくださってたんですよ。お優しい方ですから」
 曖昧な、けれどとても慈愛に満ちた笑みでマミヤさんはその話を締めくくる。
 それ以上キースのことを訊けなくなった私は、大人しく食材調達へと頭を切り替えることにした。
「さて、まずは何を買いに行きますか?」
「そうねぇ。重いものは後回しにしたいし、先に香草を見に行きましょうか」
「香草! 私そんなに詳しくないので、是非いろいろ教えてくださいね!」
 どこか沈んでしまった雰囲気を引きずりたくなくて、明るい声色で続けると、マミヤさんも元のにこにこ笑顔に戻ってくれる。どことなくホッとしているようにも見えたから、これでよかったのだろう。
 キースのことは、一緒に生活していれば見えてくる部分もあるだろうし、無理に知ろうとする必要もないのだ。そもそも、いつまでもキースの世話になるわけにもいかないのだし、深入りしない方がお互いの為じゃないだろうか。
 もしかしたらキースもそんな風に考えていて、だから私にあまり自分のことを話さないのかもしれない。そう思うと、キースが話そうとしないことを第三者から聞く行為もよろしくなかったのではないかと後悔し始めてしまった。
「サクヤさん? どうかしたかしら?」
「あ、いえ! 晩ご飯何にしようか考え込んでました!」
 目ざとく気づいたマミヤさんにもう一度笑顔を返す。こっちに来てから感情の起伏が激しくなったようでよろしくない。
 今はとにかく、マミヤさんとの市場巡りを満喫することに専念しよう。市場のことを知るのは、もしこの先キースの元を離れて一人暮らしをすることになったとき、絶対に必要なことの一つだから。
 余計な考えを頭の中から蹴り出して、マミヤさんとの会話を楽しみながら市場の仕組みやおすすめのお店を教えてもらう。そういえば、こうやって誰かと出掛けるなんてことも久しぶりだった。
「あら、いやだ。またうっかりいつものお茶を買い忘れるところだったわ」
 買い物も無事に終了し、市場を少し出たところでマミヤさんが思い出したようにそう呟いた。お茶の露店は確か市場の真ん中辺りにあった気がする。キースの家の棚の中にはたくさんの種類の茶葉があったから何も思わなかったけれど、マミヤさんの言葉からするに定番のものを切らしてしまっていたのだろう。
 出てきたばかりの市場の方を振り返り少し考えてから、マミヤさんは申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「サクヤさん、少しここで待っていてくれる?」
 マミヤさんだけで買いに戻ろうというのだろう。確かにたくさんの荷物を抱えたまま、また市場の中心部まで二人で歩いていくのは厳しい。これが日本だったならば、私が行ってきますよとも言えるけれど、馴染みのない土地での初めての場所ではさすがに任せてくれとは言えなかった。
「いいですよ。その荷物、預かっておきますね」
「ごめんなさいね、すぐに戻るから」
 マミヤさんは謝罪と荷物を残して、再び人混みに消えていく。私はその背中を見送りながら、道の脇に避けてマミヤさんの帰りを待つことにした。まとめ買いの結果、荷物は二人で抱えるのがやっとになっている。当然マミヤさんから預かったものは地面に置くしかなく、自分の分を抱えたまますぐ側の民家の塀に背をもたせかけた。
 市場の中はまだまだ人の数がすごい。出てくるときも結構苦労をしたから、市場の真ん中辺りまで往復するとなると結構な時間がかかるだろう。そんなことを考えながら、ぼんやりと人波を見つめる。
 行き交う人々の姿は、当たり前なんだろうけど現代の日本とは大きく違った。
 まず、髪の色。黒髪の人が全然いない。金髪、銀髪、赤毛に栗毛。さすがにゲームやアニメに出てくるような青だの緑だのピンクだのはないけれど、真っ黒がいないというのはなかなか新鮮だ。ちなみに、私は今明るめの色にカラーリングしている――出ていた舞台の役柄に合わせたせいだ――からそんなに違和感はないのかもしれないけれど、地毛のままだったら結構目立ってたんじゃないだろうか。
 いや、でも、別の意味で私は目立っているかもしれない。通り過ぎる人達が、ちらちらこちらを見ている気がするのだ。
 最初はその原因にまったく思い当たらなかったけれど、自分と通行人と外見を比較してみて理解する。おそらく私がキースから借りた男物の服を着ているからだ。
 こちらの女性は、ほとんどが丈の長いスカートやワンピースだ。たまたま見ないだけなのかもしれないけれど、パンツスタイルの女性を今のところ見ていない。キースが準備してくれた洋服も、同じロングスカートばかり。つまり、この国の女性の一般的な格好なのだろう。
 そして、もう一つ。大抵の女性が髪を長く伸ばしている。
 長いと言っても、もちろんずるずる引きずるような長さではないけれど、私みたいなショートヘアの女性は見かけない。どんなに短くても肩甲骨辺りまではあるから、こちらの女性に髪を短くする習慣はあまりないと思った方が良さそうだ。
 買い物のときはマミヤさんのお話に頭がいっていて気がつかなかったけれど、お店の人にも怪訝な目で見られていたのかもしれない。
 そういえば、マミヤさんは初対面でも何も言わなかった。言われなかったから今まで自分の格好とこちらの女性との違いに気づかなかったけれど、もしかしたらキースから私がこの国の人間じゃないことを聞いていたのかもしれない。
 そんな結論をつけた瞬間だった。
「邪魔よ!」
 そんな一言とともに、私の考えと置いていた荷物の一つが蹴り飛ばされた。
 っていうか、邪魔? 道の端っこに寄ってるのに、ジャマ?
 カチンときて声の方に振り向くと、フリルのいっぱいついた周りの人よりも上等そうな服を身にまとった、くるくるなツインテールの女の子が立っていた。その背後には、同じような格好の女の子が数人、取り巻きのように付き従っている。全員十代半ばから後半くらいに見えた。
 何というか、まあ、なんて古典的ないじめっ子お嬢様のサンプルでしょう! って言いたくなってしまった。一昔も二昔も前の少女漫画に出てきそうな、薄幸ヒロインをいじめる高慢なお嬢様。まさかリアルにお目見えできるとは思いもしなかった。その後ろに控えている取り巻き女子たちも、揃いも揃って高慢お嬢様に倣うような表情をしている。一人だけ大人しそうな子がおろおろしていたのが目に留まったけれど、多分気が弱くて無理やり付き合わされているんだろうなと思うと気の毒でしかなかった。
 とりあえず、リーダー格のお嬢様の視線からは、私に対しての悪意、いや、敵意かな? があるのは確かだった。荷物を蹴飛ばしたのも、明らかにこちらを挑発している。
 それはわかるけれど、肝心の敵視される原因がさっぱりわからなかった。
「あら、謝罪の言葉もないのかしら? 育ちが知れるわね」
 胸を逸らし、ふんと鼻を鳴らして仁王立ちするお嬢様。ちょっと前にも同じようなこと言われたけど何なんだろう。この国の上から目線なヤツは、他人の親を貶すのがデフォルトなんだろうか。そんなことを冷静に考えながら、真っ直ぐにそのお嬢様に視線を返す。私の方が背が高いから、少し見下ろす感じだ。
「人の物を問答無用で足蹴にする人間の方が、育ちが知れるんじゃない?」
「なっ……!?」
 言い返されるとは思ってなかったらしく、お嬢様は見事なまでに絶句した。追い討ちをかけるように続ける。
「この場合、どう考えても謝罪すべきなのはそっちなのに、逆に謝罪求めるって随分神経が図太いんだね。それともそんな一般常識的な考え方すらできない世間知らずなんだ? だったら、もう少し世の中勉強してきなよ、お嬢さん」
 基本的に、私はけんかっ早い。売られたケンカは迷わず買ってしまう。もちろん、手を出したりはしないけど、その分口からは流れるように滑舌よく反論の台詞が出てくる。その度に、藤夜や鏡吾にもよく窘められたり止められたりしたものだ。
 そしてお嬢様にとっては不運なことに、今はストッパー役が傍にはいなかった。
「そ、そんな男みたいな格好して、粗野な言葉遣いで……! 何で貴女のような野卑な人間をキース様はお側においていらっしゃるのかしら!」
 顔を真っ赤にして言い返すお嬢様の言葉で、ようやく絡まれた原因が判明した。
 彼女は私がキースの元にいるのがお気に召さないのだ。格好とか言葉遣いにケチをつけたのも、何でもいいから私を貶したいだけなんだろう。
「男みたいな格好って、キースの服なんだから仕方ないじゃん」
「な、な、なんですって!?」
 相手を刺激するだけなのはわかっていてそう呟く。案の定お嬢様が目を白黒させている様はなかなか面白かった。
「どうでもいいけど、言いたいことあるならはっきり言えば?」
 回りくどいのは好きじゃない。それに、さっさと用件を済ませてくれないと、マミヤさんが戻ってきてしまう。マミヤさんがこの状況を目撃したら心配させてしまうだろうから、それだけは避けたかった。
「じゃ、じゃあ言わせてもらうわ! レア様の誕生祝賀舞踏会にキース様のパートナーで出席しようだなんて十年早いのよ!」
「は?」
「貴女みたいな粗雑な人間が出たって恥をかくだけでしょうからやめておきなさい!」
「恥かくって」
「どうせまともにワルツも踊れないんでしょう? お願いだからキース様にまで恥をかかせるようなことだけはやめていただきたいわ! わかったわね!」
 私が口を挟む間も返事する間も与えずに怒涛のような言葉を叩きつけると、お嬢様はくるりと踵を返した。ひらひらと、スカートの裾と銀の巻き毛が翻る。そのまま、取り巻きどもを従えて去っていった。
「誰が、誰に、恥をかかせるって?」
 遠ざかる背中に、低く洩れる呟き。ここまで言いたい放題言われっぱなしで、黙っていられるだろうか。いやない。
「上等じゃない」
 自然と口角が上がる。そして、上がったのは口角だけじゃない。
「誰にケンカ売ったか、嫌ってほどわからせてあげようじゃないの」
 怒りに燃え上がった私のその声は、通りの喧噪に紛れて誰の耳にも届かなかった。



 夕食の準備を完璧に整えた私は、ダイニングでキースの帰りを今か今かと待ちわびていた。まるで忠犬ハチ公さながらだ。
 しかしその表情は、忠犬とはほど遠い。むしろ今にも飛び掛かりそうな勢いである。
 玄関の方から物音が聴こえると、ダイニングを飛び出し玄関へと向かった。私に気づいたキースが表情を緩める。
「サクヤ、ただいま。今日はアルゼを――」
「特訓よ!」
 最初に言うべきお帰りなさいは、今日は彼方にすっ飛ばされていた。唐突な私の発言にキースとその背後にいるアルゼさんがその場で面食らった表情で固まっている。ちなみにアルゼさんが面食らっているかは定かではない。ただ、二人揃って私を凝視していることは確かだった。
「サ、サクヤ? どうしたんだ、一体……」
「だから、特訓するの! 今日から舞踏会の日まで! 毎日、みっちりと!」
「何の?」
「ワルツに決まってんでしょ!」
「え、でもおまえ行かないって――」
「馬鹿にすんじゃないわよって感じよね。こっちは伊達に何年も舞台踏んでないっつーの。その辺のお気楽貴族なんかよりもよっぽど上手く踊ってやるんだから!」
「お、おい、サクヤ……?」
 どう声を掛けて良いのかわからないといった感じで、恐る恐るこちらを窺うキース。しかし私はそんなキースに目もくれず、遠くを見据えて怒りに燃えまくっていた。視線の先は、もちろんこの場にはいない例のお嬢様だ。
 買い物のあと家に戻った私は、マミヤさんとお茶しながらさりげなくあのお嬢様に関して探りを入れてみた。すると、ちょっと特徴をあげただけでマミヤさんは誰のことかわかったらしく、色々と教えてくれたのだ。
 あのお嬢様は、ベルティリアでも名家の一つとして挙げられるディッパー家のご息女でビスティという名前らしい。ディッパー家は今までに何度も騎士団長を輩出している家柄で、現在の騎士団長の一人は彼女のお兄さんだそうだ。
 つまりはあれである。身内の七光り的なもんで高飛車に振る舞っている、ってやつなのだろう。周りにいた取り巻きの女の子たちも、上位の家のものに追従しているというところかと。どちらにしろ、私は売られたケンカはしっかりと買うと決めている。
「サク――」
「キース!」
「お、おうっ」
「夕食のあと、すぐに練習始めるからそのつもりで! ワルツ苦手だとかほざいたら、容赦しないからね!」
 私の勢いに押されて返事したキースに、畳みかけるように宣言する。有無を言わせぬ私にこくこくと頷くキース。その肩にぽんと白手袋に包まれた手が置かれた。
「では、私は早々に失礼するとしよう」
 その声でハッと我に返る。怒りで暴走して、完全にアルゼさんを無視する形になってしまっていた。
「あ、アルゼさん、すみません! 気にしないでゆっくりしていってください! って、私の家じゃないですけども!」
 そのまま身を翻そうしていたアルゼさんを慌てて引き止める。けれど、アルゼさんは軽く声を立てて笑うと「私の用事は大方済みましたから」とまったく気にした様子はない。
 いや、それよりも用事が済んだとはどういうことだろう? ここに来た瞬間から私が騒いでいるのを目の当たりにしたくらいで、他には何もしていないはずだ。
 不思議顔の私に、アルゼさんが目を細めた。笑ってくれた、ように見える。
「お元気そうで何よりです。では、舞踏会の日を楽しみにしておきますね」
 そう言い残すと、アルゼさんは今度こそ踵を返して玄関を出ていってしまった。
「キース、あのさ」
「サクヤ、とりあえずいつまでもここで話してないで中入ろうぜ。話なら食事しながらでもできるだろ?」
「あ、うん。すぐ支度するね」
 話しながらもさっさとダイニングに向かうキースに、私も慌ててキッチンに戻り食事の準備を整える。作った料理に最後の仕上げをしながら、先ほどのアルゼさんの発言を思い返した。
 もしかしなくても、アルゼさんは私の様子を見に来てくれたんじゃないだろうか。先日宮城で会ったときも、私の派手な取り乱し具合を目にしているし、シヴァと一悶着があったことも多分キースから聞いているだろう。一応、そのあとキースの執務室で顔を合わせたときには多少落ち着いていたし謝罪もしたのだけれど、精神的に不安定な私を気にかけてくれたても不思議ではない。
 いきなりわけもわからず異世界にすっ飛ばされてきたけれど、私は運がいい方だろう。
 だってキースみたいな人に助けられ、その周囲の人からも親身になってもらえている。周囲の人の反応はもちろん、キースの人徳のなせる業だ。キースに助けてもらえたというのが、今の私にとって最大の幸運だったのだ。
 改めて感じた感謝をたっぷりと込めた料理を、綺麗に器に盛りつけてダイニングへと運んでいく。その料理を美味しそうに食べてくれるキースに、自然とこちらまで表情が綻んだ。
 けれど、ふと昼間に聞いたマミヤさんの「好き嫌いがない」という発言を思い出す。
「ねえ、キース」
「何だ?」
「好きな食べ物ってある?」
「好きな食べ物? ……あまり考えたことなかったな」
 考えたことがない? え、あれ? 好きな食べ物って、感覚的なものだから考えるっておかしくないだろうか?
「ああ、でも、サクヤの作る料理はどれも美味いから、俺の好みとか気にしなくても大丈夫だぞ」
「そっか。それならいいんだけど」
 軽く混乱していた私に、キースはフォローのような発言を付け加える。気を遣ったというよりも、純粋に気になったから訊いただけなんだけども。
「じゃあ嫌いなものは?」
「特にないな」
「嫌いとまではいかなくても、苦手なものとか?」
「それも別に。だから、サクヤの好みを優先していいぞ」
「……うん」
 釈然としないまま頷くと、キースは少し困ったように苦笑してから話題を切り替えた。
 キースの家にお世話になってからというもの、食事の際にこの世界のことを色々と教えてもらうことがお決まりになっていた。ベルティリアの簡単な地理や気候、風俗や慣習など、生活に必要な知識を中心に。キースは教えるのも上手だし、私から情報を引き出すのも上手かった。
 当然ながら日本とベルティリアでは様々なものが違う。私の話からその違いを見つけ出して、それをわかりやすい言葉に変換して説明してくれた。しかも小難しい話ばかりではなく、ちゃんと面白い。騎士なんて肉体労働をしているけれど、案外人に物を教える仕事なんかも向いているんじゃないだろうか。
 そんなことを考えながらも、楽しいディナータイムは終了する。食後の後片付けをさくさくっと済ませると、私は早速キースに「さて、始めましょうか」と声を掛けた。
「少しくらい休んだらどうだ?」
「舞踏会まで、そんなに日がないんでしょ? 時間がもったいない」
 キースの休憩を促す声をさくっと却下して、有無を言わせず手を引く。軽くため息をつきながらも断ったりしないキースは、やっぱり人がいい。
 ダイニングの空いたスペースまで移動すると、私が言葉を発する間もなくキースの左手が自然に私の右手をとった。そのまま流れるような所作で右手が肩甲骨の辺りに添えられて、あっという間に完璧なホールド姿勢が出来上がる。
 もしやと思ったら案の定、キースのダンスの腕前は練習の必要なんて欠片も存在しなかった。何だかこの人にはケチのつけようがないんじゃないかと思って、ちょっとばかり悔しい。が、そんなことを言っていられるほど、現状は甘くはなかった。
 何が問題って、思ったように体が動かない。ダンス自体にブランクがあるから仕方ない部分もあるだろうけれど、日本で毎日やっていた基礎トレーニングを一切できていなかったことが最大の要因だと気づいた。完全に、体力や筋力が落ちているのだ。
 上手く動けないことがもどかしくて、イライラが募っていく。
「サクヤ、そろそろ一旦休むぞ」
「え、でも」
「でもじゃない。時計見てみろよ」
 言われるまま立派な柱時計に目を向けると、始めてからすでに二時間も経過していた。キースは私の返事も待たずに、キッチンの方に消えていく。
 時間を認識した途端、どっと疲れが押し寄せてきた。普段は使わない筋肉を使っている所為で、いろんな所が痛み始めている。けれど、その疲労感は決して不快ではなかった。
「ほら、喉乾いただろ」
 戻ってきたキースの手には、お水の入ったグラスが二杯。その片方が私に向かって差し出されていた。礼を言って受け取ると、一気に飲み干す。運動したあとの水って、味がないはずなのに甘く感じるから不思議だ。思わずはぁーっと大きな息をついてしまう。
「大した集中力だな」
 私と違ってだまだま体力に余裕のありそうなキースが、感心したようにそう告げた。
「そう、かな?」
「新人の騎士に見習わせたいくらいだよ」
 笑みとともに促され、ダイニングの椅子に腰掛ける。
 疲労度はますます増していて、このまま立ち上がれなくなりそうだった。
「あと、楽しそうだし。ダンスは好きだって言ってたのは本当だったんだな」
「でも、体がなまってて上手く動けないんだよね。キースはさすがだなぁ。基礎体力が違うし、予想外にめちゃくちゃ上手いし」
「予想外とは失礼だな。一応騎士の嗜みとして必要なものなんだぞ」
「だって、ダンスとかめんどくさいとか思ってそうだったから」
「……否定はしない」
 何でわかったんだとでも言いたそうな表情のキースに、ぷっとふき出してしまう。
 キースはそれなりに偉い人のはずなのに、こういう気取ってないところがすごく楽だ。
「それにしても、体のなまりがヤバい。明日からトレーニングしたほうがいいかもなぁ」
 半分独り言のように呟いていると、見守るような眼差しが向けられていることに気づいた。その表情はとても優しいのに、どこか遠い。
「どうしたの?」
「いや、気合いを入れるのはいいが、ほどほどにな」
「うん。……あの、ごめんね。キースも仕事で疲れてるのに」
 そんなことは気にするなと、キースはまた柔らかく微笑む。
 その笑顔に安堵しながら、同時に小さな疑問が芽生えた。
 私はずっと、キースに救われてばかりいる。身体的にも、精神的にも。感謝してもし尽せないくらいに、キースにたくさんのものを与えてもらっているのだ。
 けれど、どうしてキースはたまたま拾っただけの私にここまでしてくれるのだろう。言い方は悪いけれど、キースには何のメリットもない。
 もちろん、騎士として困っている人間を助けない理由はないとか、そういうものがあるのかもしれない。だとしても、自分の家に住ませて生活に必要な一切合切を世話するっていうのは、いささかやりすぎ感を伴うのだ。そこまで支援しなくても、どこかの保護施設的なものに預けるとか、そういう選択肢だってあったはずだった。
 博愛主義者なのだと言われたら、ああそうなのかと納得するしかない。けれど、軍に所属するような人が、各地で反乱も起きているなんてご時勢に得体の知れない人間を懐に招き入れるようなことをするだろうか?
 そんな疑問は尽きないけれど、いくら目を凝らしても、キースに何か裏があって親切にしてくれているというようには見えない。
 ただ、可能性があるとしたら、先ほど見せた表情が答えなのかなとは思う。
 私に向けられていた遠くを見るような瞳。
 あの時、あの瞳の先にいたのは、私ではなくて誰か別の人だったように思えた。懐かしさと痛みを同時に覚えるような、そんな色があったから。
 もしかしたら、キースの亡くした誰かと似ているのかもしれない。近しい身内や友人、恋人という可能性もある。そうだとしたら、きっと私の気持ちも痛いほどにわかったはずだ。推測の域を出ないけれど、今さらながらにキースに対して吐いた暴言が悔やまれた。
「キース」
「何だ?」
 ごめんなさい、と口にしかけてやめる。前にも一度謝っていることを、また蒸し返すように重ねても意味がない。それにきっと、キースは気にするなと笑い飛ばすだけだろう。
「サクヤ?」
 声を掛けてきておいて黙り込んでしまった私に、キースが気遣うような表情を見せる。
「ありがとう」
 謝罪でないなら、と思って出てきたのはその五文字。
 キースは驚きと照れの入り雑じった顔で「何だよ、突然」と少々挙動不審気味だ。
「何か急に、そう言いたくなっただけ」
 そう。溢れてきた感謝を伝えたかっただけ。
 本当に優しくて、器が大きくて。色んな意味でキースは『毅い』と思う。
 その毅さが羨ましくもあり、ほんの少しだけ妬ましくもある。歳は確かに私よりも上だろうけども、さすがに十も離れていないはずだ。それなのに、あまりにも自分の幼さが目について、情けなくなってしまうから。
 私もキースみたいに毅くなりたい。鏡吾のことを考えると、今でも泣き叫びたくなるほど胸が苦しいけれど。でも、そんなもの私だけのものじゃない。誰かを亡くす痛みを、他の人間が知らないわけではないのだから。
 自分が誰よりも不幸だなんて悲劇のヒロインぶるのは好きじゃない。そんな役どころは舞台の上だけで充分だ。
「さて、今日はもう休もう。サクヤは覚えがいいから、舞踏会までには余裕で上達すると思うぞ」
「ホント? ありがとう。キースにそう言ってもらえるなら大丈夫な気がする。わがままにつき合わせちゃってごめんね」
 立ち上がって寝室に向かおうとしていた広い背中にそう言うと、キースは私の頭にぽんと優しく大きな手を置いた。
「気にすんなって。辛気臭い顔されてるより何十倍もいい」
 キースの浮かべる笑顔に、胸の奥があたたかい気持ちで満たされる。彼の与えてくれる安堵感に、頷きながら笑みを返した。



 朝起きて朝食の準備。キースを見送って家事を済ませたら筋トレやストレッチ。キースが帰ってきたらダンスの練習に付き合ってもらって……なんてのを繰り返していたら、あっという間にその成果を見せる日がやってきてしまった。
 そう。本日は聖帝陛下の妹君の誕生日を祝う舞踏会の当日である。
 大急ぎで仕立ててもらったドレスは、昨日ぎりぎりで届けられた。当然、試着する間も直してもらう間もないままだ。ドレスというのは一人で着られるようにできていないので、昼過ぎからマミヤさんが来てくれて、直しも含めて一手に引き受けてくれた。
 メイクは一応自分でもできるけれど、この国での流行りだとかマナーだとかはさすがにわからない。となるとお任せするのが正解だろうと、素直に全部お願いした。
 髪は短いので大丈夫かと思ったけれど、上手く編み込んでアップスタイルっぽくなっている。大ぶりな花の髪飾りで、元がショートヘアだとは思えない出来栄えだった。
 そうしてようやく淡い桜色のドレスに袖を通し、微妙な直しをしてもらったところなんだけども……。
「まぁー、本当に可愛らしい!」
 着付けを完成させたマミヤさんが、うっとりと感嘆の声を上げた。褒めてくれるのは嬉しいけれど、何だか瞳を過剰なまでに潤ませて感激しているご様子だ。
「あ、ありがとうございます」
「本当に、どこに出しても恥ずかしくありません! いえ、むしろどこにも出さずにこのままキース坊ちゃんの――」
 ぎゅっと私の手を握って、とんでもない発言が飛び出そうな瞬間、ドアをノックする音が響いた。
「はーい! はいはいはいっ!」
 助かったとばかりに、私は必要以上の元気さで返事する。やんわりとマミヤさんの手をほどいて、ドアにかけよった。急いで開けると、予想通りそこにはキースの姿。
 けれど、
「う、わぁ……」
 思わずそんな声を洩らし、ぽかんとしてしまった。
 そんな私に、キースはぷっとふき出す。
「何だよサクヤ、間の抜けた顔して」
「失礼な! せっかく褒めようと思ってたのに!」
 先ほどの声と表情の原因は、何を隠そうキースの礼装姿の所為だった。
 いつも着ているのは略装なのだろう。今はより細々としたオプションが多くついていて煌びやかだ。その上、普段のキースは一番上のボタンを外したりして軽く着崩しているのに、そんなこともなくきっちりと着こなしている。それはもう、文句のつけようもないくらいに凛々しく、見惚れてしまうのも仕方がなかった。
「悪い悪い、そんなに怒るなって。せっかくの美人が台無しだぞ?」
「び、美人……?」
 予期せぬ軽い台詞に絶句する。キースは気取ったところのない人だけれど、こんな口説き文句を安易に口にする人じゃないはずだ。一通り考えて、ああ、お世辞かと納得する。
 かと思いきや、
「その顔はお世辞だって思ってるだろ?」
 と恐ろしいほどどストレートに言い当てられてしまった。そんなところまで鋭くなくていいんですよ、キースさん。
「何でわかったの?」
「サクヤはすぐ顔に出るからだよ」
「……何か馬鹿にされてるような気がする」
「してないって。むしろ素直だなって褒めてるんだぞ?」
 ぽんぽんとあやすように、私の頭に優しい手が置かれる。まるでよくできた兄が拗ねた妹をあやしているかのようだ。
「そう、なのかなぁ……」
「そうだよ。それに、普段言う機会がないから言わないだけで、サクヤは充分に美人の部類に入ると思うぞ? なぁ?」
 突然キースに話を振られたマミヤさんは、それに動揺するでもなく「はい」とニッコリ笑顔で即答する。何の恥じらいもなく吐かれた台詞と頭に置かれたままの大きな手の平の熱に、一気に気恥ずかしさが増してゆく。
「じゃ、褒め言葉としてありがたくとっときます」
 ぼそっと素っ気なく呟くと、「おう、とっとけ」とキースはどこか満足げに答えた。
 顔を真っ赤にさせた私と、口元が弧に歪められているキース。そんな私たちを少し離れた場所からマミヤさんが目を細めて見つめているのが視界の隅に入る。
 何となく、誤解されているような気がするけれど、気の所為ということにしておこう。
「じゃあ、行ってくる」
「ごゆっくり楽しんでくださいまし。サクヤさんも」
「はい! マミヤさん、ありがとうございました!」
 支度を手伝ってくれたマミヤさんに、感謝を込めて勢いよく頭を下げる。するとキースが隣で呆れたように苦笑いを零した。マミヤさんも、くすくすと忍び笑いをしている。
「サクヤ、せっかく見た目は優雅なご令嬢なんだから、仕草もそれに合わせろよ」
「あ、そっか」
 キースの言葉ももっともだ。そもそも、これから行く場所も普段通りではいけない場所なのだ。
 ならば、とすっと背筋を伸ばした。滑らかな絹のスカートを少し摘まむ。その際の指先はもちろん一本一本が最も美しく見えるラインで。左脚を軸に、右脚を斜め後ろに引いて軽く膝を落とす。背筋は真っ直ぐに保ったまま、ゆるやかに腰を折った。優美に、たおやかに。舞姫が踊りを終えた後を思い出して。
 先ほどのお辞儀とはうってかわった私の所作に、キースとマミヤさんから感心したような声が漏れた。
 これくらいできますよ。役者ですから。そんな自負を込めて、満面の笑みを浮かべる。
「さて、行きましょ」
「ああ」
 キースが当然のように手を差し出し、エスコートしてくれる。ダンスの練習の際に何度も経験してはいるけれど、やっぱりまだ慣れなくて照れくさい。それでも断るわけにはいかないから、そっと手を重ねて一歩踏み出した。
 いざ、腹黒俺様陛下の待つ宮城へ。外面だけはエレガントな淑女を装いつつ、心の中は討ち入りに行く赤穂浪士さながらの気分だった。