夢のあとさきそめし朝

第一幕 あるいは、絵空事

第二話 相方不在のエチュード  01

「舞踏会?」
 それは宮城から帰ってきたキースが、夕食を食べながら切り出した話だった。
 そう。結局私はキースとアルゼさんの勧めるままに、キースの元でしばらく生活させていただいくことになったのだ。
 ちょっとばかり予想外だったのは、キースが一人暮らしだったこと。てっきりダンディなお父様やエレガントなお母様がいて、使用人とかもいっぱい抱えているようなお屋敷に住んでいるものと思って気後れしていた。けれど、案内された家は比較的小ぶりな、けれど立派な門扉のある一人暮らしには広すぎる感じの家だった。
 急な話だったせいでとりあえず客間の一室を使わせてもらうことになり、着替えなんかはキースのものを借りた。
 が、翌日のお昼頃、朝から仕事に出ていたはずのキースが戻ってきたかと思ったら、衣類はもちろん、生活に必要そうなものを全て揃えて渡してくれたから驚きだ。どうやら、前日に私がお世話になると決まった段階で、手配を済ませていたらしい。結構ノリが軽いと思っていたのに、実態はデキるお兄さんだったようだ。
 しかし、いくらなんでもこんなに至れり尽くせりでは申し訳なさ過ぎると思い、家事の一切を引き受けさせてほしいと頼みこんだ。それが二日前の話である。
 そんなこんなで、今キースが口にしている料理も私が調理したものだ。
 と、前説が長くなってしまったけれど、本題に戻そう。舞踏会の話だ。
 かいつまんで説明すると、この国の最高権力者である聖帝陛下には年の離れた妹姫がいて、そのお姫様の誕生日を祝う舞踏会が近々開催されるとのこと。キースは私に、その舞踏会に出席しないかとお誘いをしてくれたのだった。
「家に閉じ籠っているよりはいいんじゃないかと思ったんだが」
「うーん……」
 キース曰く、騎士団員は全員出席、且つ同伴者必須という決まりらしい。なんて非リア充に厳しい世界なんだと思うけれども、まあそれはこの国の決まりなんだから私がどうこう文句を言うところではない。ないんだけれども、
「ねえ、キース」
「何だ?」
「そういうのって、普通は恋人とか婚約者とか、そういう人がいなければ身内とかを誘うもんじゃないの?」
 真っ先にそんな疑問が思い浮かぶ。
 だって、キースは個人的判断ではあるけれど、引く手数多だと思うのだ。
 誰が見ても整っている顔立ちだし、年齢は私より少し上っぽいから二十代半ばから後半くらい。そんな若い歳にもかかわらず騎士として上位にいるらしいし、家も持っている。この世界でのエリートなんじゃないだろうか?
 そんな人なら、恋人というよりも婚約者とかいたって納得だし、むしろ結婚までしていてもおかしくはないと思うのだ。
 けれど、私の質問に対してキースは意外にも面食らったようだった。しばらく固まった後、逆に質問が返ってくる。
「俺に恋人や婚約者がいると思うのか?」
「うん。普通に」
「もしいたら、いくら何でもサクヤを自分の家で面倒見るなんて言うわけないだろうが」
「いや、まあ、そうなんだけどさ……」
 つまり、そういう相手はいないということだ。こんなにイケメンさんなのに。
 いやまて。もしやイケメンさんだからこそ、いくらでも相手がいて逆に選ぶのが億劫で手近なところで手を打とうとしているとか?
 その可能性は大いにありそうだ。ここ数日一緒に過ごしただけだけれど、人間観察にはそれなりに自信がある。キースは他人に対しては気配り上手な割に、自分自身のことには無頓着というか面倒臭がる傾向があるのだ。
「もしかして、相手を選ぶ手間を省きたくて私を誘ってる?」
「なんだそれは……」
「そんなあからさまに呆れないでよ。キースなら誰誘っても二つ返事でOKしてもらえるんじゃないかなって思っただけなのに」
「俺が誘って二つ返事で受けるような女なら、誰が誘っても同じように受けるだろ」
 放り投げるように返ってきたのは、キースにしては珍しいネガティブな発言だった。基本的に前向きな言動が多い人だから、その言葉の冷ややかさにらしくなさを感じる。
 もしかして、この手の話はキースにとって地雷だったのかもしれない。
 そもそも、ちょっと突っ込んだ話をしすぎてしまった自覚はある。キースが優しくて寛大だからって、会って間もない人間にプライベートの余計な詮索は受けたくないだろう。
「キー――」
「あ、もしかして、サクヤはダンス苦手だったりするのか?」
 謝ろうと口を開いたその一瞬早く、キースが新たな質問を寄越した。
 先ほどまで感じていた違和感は綺麗にかき消され、いつものような穏やかな笑みがそこにある。
「え、っと……、踊れないことはないし、ダンスは好きな方ではあるんだけど……」
 話を続けながらもキースの様子を窺うけれど、あの冷たい雰囲気の欠片も見つけられなかった。私の気の所為だったならいいんだけど、謝るタイミングを完全に逃してしまったのがいかんともしがたい。
「じゃあ、問題ないな」
「え? いや、問題ないって……」
「早速明日仕立て屋を呼ぶか。それから靴と宝飾品も必要だな」
 考え込んでいる間にキースの中では私が了承したものとして話が進んでいる。独り言のように段取りを組んでいくキースの声を、慌てて制止した。
「ちょっと待ってってば! キースにそこまで負担かけさせることなんてできません!」
「心配するな。こう見えても稼いでいる方だから」
「そういう問題じゃない!」
 確かに、キースの家の造りや調度品なんかは、どれをとってみても質のよさそうなものばかりだった。いかにもお金持ちって感じの派手さはないけれど、よく見ると繊細な彫刻があしらわれていたりと、さりげなく凝った意匠がなされている。用意してもらった私の洋服だって、普段着にしたらもったいなさそうな綺麗な生地が使われていて、結局初日に借りたキースの服の方が落ち着くくらいだ。
 つまり、それだけキースには財産があるということはいくらなんでもわかっている。
 けれど、稼いでいるお金が多いからってキースに甘えていい理由にはならないのだ。ただでさえ、今も居候の身だし、お金を稼げる当てもないのだから。
 そんな私の考えを見透かすかのように、キースは苦笑する。
「だったら、給料の前払いってことにしておけばいいんじゃないのか?」
「給料?」
「家事を一切引き受ける、って豪語したのはサクヤだろう?」
「それは、こんなによくしてもらってるんだし、当たり前じゃない」
 三食付きで家賃も光熱費も一切かからない一戸建ての物件で、一部屋与えてもらっているのだ。しかも高級住宅でイケメン付きである。いくら払えばいいんだろうと思うべきところに、これ以上何か受け取ってしまえばきっと一生家事をやったところで返すのは無理に決まっている。返すのが無理ならば、そもそも受け取らなければいいだけの話で、私の考えはまったく間違ってはいないはずだ。
「ちょうど少し前に通いのメイドが辞めたところだったんだ。サクヤが色々やってくれるおかげで、新しく雇わなくて済んで助かっている、ってのじゃ駄目か?」
「いや、あの、駄目とかじゃなくてですね……」
 メイドさんの給料がどの程度のものなのかは知らないけれど、ドレスだの宝飾品だのは明らかに働きと見合っていないことくらい想像がつく。しかも、参加しようとしているのは一国の主が主催する舞踏会なのだ。中途半端なものを身につけて出るなんてありえないだろう。地位が高い人ほど相応のものをパートナーに身につけさせなければ、恥をかくことになりかねない。
 これは断固として反対しないと、と決意して口を開きかけ、けれどキースのゆるやかに弧を描いた瞳にとどめられた。
 表情自体はとても穏和なのに、反論を許さない強い意志が含まれた眼差し。私が考えていることなどお見通しなのだろう。さっき思ったことを全て口にしたとしても、上手く言い包められてしまいそうな予感があった。
 これは観念するほかないのだろう。となれば、私にできることはただ一つ。
「わかった。じゃあ、これからもっと気合を入れて家事をこなす!」
「いや、別に今でも充分――」
「いいの! 働かざるもの食うべからず!」
 ビシッと気合を入れて宣言すると、途端にキースはふき出した。そのまま声を殺して笑い出す。
 というか、そんなバカウケされるような発言したつもりはないんだけど。
「笑い過ぎです、キースさん」
「ああ、すまん……、けどっ……」
 謝りつつもまた思い出したようにふき出し、さんざん笑ってからキースはようやく呼吸を整えて続けた。
 それでも目の端に微かに涙が浮かんでいる。涙出るくらい笑うって、どんだけドツボに入ったんだこの人。
「良家のお嬢様が、ポーズ決めて『働かざるもの食うべからず!』って……」
 そこまで言って、また思い出したようにキースは口元を押さえて笑いを噛み殺そうとしている。が、徒労に終わったらしく、思いっきり笑い声が漏れていた。
 呼吸困難になるんじゃないかと思うほど笑い続けているキースを見つめながら、私はキースの発言が不思議でしかたがなかった。
「キースは何で、私が『良家のお嬢様』だなんて思うの?」
 私の育ちや家族に関しては、まだほとんど話していない。キースに話したことは、初めて会った日に話したキースのことくらいだ。
 なのに、キースはごく当たり前の確定事項のように私を『良家のお嬢様』と言った。
 すると、ようやく笑いをおさめたキースが迷うことなく私の問いに答える。
「ダンスは好きだって言っていただろう?」
「それ、だけ?」
「あと色んな所作が綺麗だし。ダンスが好きってことはダンスをちゃんと習ったことがあるからだろうし、所作が美しいってことは美しく見せるための礼儀作法を習ったってことだ。当然、ダンスも礼儀作法もそれなりの家柄でなければ習うことなんてない。貴族、もしくは騎士の家系、もしくは豪商辺りか。日々の生活を送るのに精一杯な家庭なら、そんなものに割いている時間はないし、そもそも必要性がほとんどない」
 説明されてしまえば納得しかなかった。確かに、礼儀作法はともかくダンスは必要ない家庭の方が多いだろう。ただ、それをほんの少しだけの材料から導き出せるキースは、気遣いができるだけでなく洞察力もある、実はとても優秀な騎士なのかもしれない。実際、地位は高いようだけど、それはこの人自身の実力で得たもので、家柄とか親の七光りとかそういうのとは無縁な感じがした。
「聖廟前でも、地位のある人物との謁見に慣れているんだなと思ったしな」
 聖廟前、と言われて思わず顔を顰めてしまった。聖廟前とは、あのめちゃくちゃ唯我独尊で失礼極まりない俺様男と出くわした場所のことだ。
 何を隠そう、私が今ぶん殴りたい奴ナンバーワンであの超上から目線の男が、ベルティリア帝国第十五代聖帝――シヴァ・ティファレトその人だったのだ。
 あとでキースから正体を聴いて、そりゃあ偉そうで当然だわと思いっきり納得してしまった。だからといって、あの男の発言を許す気なんてさらさらないけれど。
「サクヤはわかりやすいな。陛下を思い出した途端にそんな顔するんだから」
「う……仕方ないでしょ。どれだけお偉い立場の人だろうと、尊敬する両親を貶される謂れはないんだもん」
 顔に出やすいだなんて言われるとさすがに役者をしていた身としてはショックだけど、それだけあの男が腹立たしかったのだ。いや、現在進行形でまだ腹が立っていると言っても過言ではない。というか、いっそ清々しいほどに好きになれる要素が一切ない。
「てか、舞踏会ってもちろんあの男もいるわけだよね?」
「あの男、じゃなくて陛下」
「はいはい、聖帝陛下様々」
 私の適当どころか馬鹿にしきった返答に、キースは深い溜息をついた。キースにとっては主君だから敬うのは当然なんだろうけれど、今のところ私には無理そうだ。
「……まったく。当然だろう、陛下が主催者なんだから。サクヤは勝手に俺から離れないこと。間違ってもこの間みたいに立ち入り禁止区域には入ってくれるなよ」
「わかってます。キースの立場を悪くしたいわけじゃないもの」
 キースの注意に対して、苦々しい思いを噛み潰しながらも頷く。
 先ほど話題に出た聖廟の前庭というのは、一部の者しか立ち入ることのできない場所だったのだ。私はあのとき自棄になって切り捨てればいいなんて大言を吐いたけれど、実際に手打ちにされてもおかしくない状況だったわけだ。それどころか、私を保護したキースにまで咎が及ぶ可能性すらあった。それはさすがに恩を仇で返すどころの騒ぎではない。今更ながらに、あの男が気まぐれを起こしてくれて良かったと思う。
「それにしても、サクヤはあまり令嬢らしくないな」
「何それ。さっきは良家のお嬢様って言ったくせに」
「確かに礼儀や所作は整っていてお嬢様みたいだ。だが、性格がそれらしくないと思ってな。貴族の令嬢にしては庶民の感覚に近いというか……」
 不思議そうに考え込むキースに、本当によく人を見ている人だなと感心する。
 その疑問も当然なのだ。私は別に、お嬢様なんかじゃないんだから。
 ダンスが踊れること。礼儀作法に則った所作がそれなりにできること。それらは確かにこの世界では家柄の良し悪しによって左右されるだろう。けれど、私の場合は違う。私の家は特別貧しくもなかったけれど、特別裕福でもなかった。ありきたりと言える、一般家庭だ。それらが不得手じゃないのは、
「全部、舞台の為だったから……」
「え?」
「ううん、何でもない。ごちそうさまでした。後片付けするね」
 誤魔化しながら立ち上がって、使った食器を運び始める。洗い場で一人になると、ぼんやりと『夢』のために必死だった自分を思い出した。



 物書きだった父と、ピアノを教えていた母。二人の影響なのだろう、昔から物語も音楽も大好きだった。
 そんな私が舞台に興味を持ち始めたのは、中学のとき。
 学校の文化鑑賞で初めて観た本格的なお芝居に、あっという間に心を奪われた。演じている劇団を調べ、役者さんを調べ、可能な範囲で公演に足を運ぶ。気づけばどっぷり演劇の世界にはまってしまっていた。
けれど、そのうち観ているだけでは飽き足らなくなって、役者になりたいと思い始めたのだ。それもテレビや映画で活躍する女優さんではなく、舞台演劇メインの舞台役者に。
本気で役者の道を目指したいと告げると、両親は惜しみなく援助をしてくれた。両親の理解と援助があったという点では、確かに私は『お嬢』と言えるのかもしれない。
声楽、ボイストレーニング、ダンス。必要だと思ったことは積極的に習った。舞台だけでなく映画もたくさん観に行ったし、本も小説から漫画、実用書の類まで何でも読んだ。
すべてが、舞台の立つ為だった。ただ立つだけでなく、スポットライトの中心に立つ為の努力だった。レッスンがきつくても、それが自分の演技の糧になるのだと信じて努力をし続けた。
そんな努力の甲斐もあって、私は憧れていた劇団に所属することができたし、主役の座まで勝ち取ることができたのだ。
――でも、もうそんな努力も要らないんだ。
小さなため息が零れ、胸の内にさざ波が立つ。
もう私が舞台に立つことはない。それは自分自身で決めたことだ。
それに、この世界にいる限りは芝居になど縁がないだろう。それこそキースに連れられて舞踏会にでも行かない限り、私の今まで習得してきたものが役に立ちそうな場面が思いつかない。そう思うと、虚しいような、けれどどこか滑稽なような気分になった。
けれど、いつまでもそんなことを気にしていても仕方がない。それよりも問題はキースに誘われた舞踏会だ。随分とブランクがあるはずだから、上手く踊れるだろうか。
いつ以来踊っていないのかと記憶を辿る。
「あ……」
 反射的に零れ落ちた声をとどめる為に、両手で口を覆った。
感情と声を抑えつけ、洗い場を離れる。ダイニングにはまだキースがいて、何かはわからない書類とにらめっこをしていた。
「キース」
「ん? どうした?」
 震えを押し殺した声音に、キースが顔を上げる。その顔をちゃんと見られなくて、私は視線を足元に落とした。
「ごめん。やっぱり、舞踏会ムリ」
「サクヤ?」
「気を使ってくれたのに、ごめんね」
 気力を振り絞って、精一杯の笑顔を作る。またキースに余計な心配をかけないように、平気な振りをしないといけないのだ。
「……そうか。こっちこそ、強引に話を進めて悪かったな」
「ううん。ありがとう。もう休むね。おやすみ」
 何とか笑顔を崩さないまま言い終えると、キースからもおやすみと穏やかな声が返る。
ゆっくりとダイニングを抜けて、寝室として与えられた客室の一つに向かった。ぱたんとドアを閉じると、そのままそこにもたれかかる。
「……踊れ、ないよ」
 呟きとともに、零れ落ちる一雫。ゆっくりと瞼を閉じると、まなじりからまた涙が頬を滑るように撫でていく。それに引きずられるように、ずるずるとドアに背を預けたままへたり込んだ。
「あれが最後なんて、思わなかったもんな」
 脳裏に甦るのは、楽しくてしかたがなかった、夢のようなひとときだった。



 今から約一年前に公演した舞台は、ダンスがふんだんに盛り込まれたものだった。
私は名もないダンサーの役。台詞はほとんどないけれど、メインの役者たちと代わる代わる踊るという見せ場があった。ただ、メインキャストの一人であった鏡吾とは、一度も踊るシーンはなかった。
公演は無事に千秋楽を終えて、打ち上げは行きつけのお店を貸し切ってのどんちゃん騒ぎ。舞台成功の安堵と高揚感と開放感で、誰もが上機嫌だった。
 派手に盛り上がるさなか、不意に店内BGMが芝居で使っていたものに切り替わる。音響オペレーターが、お店のスタッフに頼んで流してもらったようだった。当然、みんなのテンションは一層上がっていく。ダンスシーンの曲ともなると、誰が言い出したわけでもなく手に手を取って踊り始めた。
私の目の前にも、先輩の一人の手が差し出される。「踊っていただけますか、レディ」なんておどけた様子に笑いを誘われながら、その手を取ろうとした瞬間、後ろから抱きすくめられた。
「ダーメ。サクヤはオレ専属」
「きょ、鏡吾!?」
 背後から私を捕まえたのは、ほろ酔い加減の鏡吾だった。悪戯っぽく笑う鏡吾に、そのままぐいとより密着するように引き寄せられる。差し出したまま行き場を失ってしまった先輩の手が、そのまま持ちあがり鏡吾の額を小突いた。
「この独占欲のカタマリめ!」
「まーた始まったー。鏡吾のサクちゃん独り占め行為ー」
「はーい、それレッドカード。一発退場でーす」
「サク、そんな束縛キツイ男やめて俺なんかどう?」
 あちらこちらから上がる、呆れ混じりの苦笑と揶揄う声音。けれど、その中には確かな優しさが見える。仲間たちはみんな、私と鏡吾の仲を祝福し、見守ってくれていた。
もちろんそれは、鏡吾の人望のなせる業だった。誰よりも芝居を愛し、誰よりも芝居に真摯に向き合う鏡吾は、誰からも好かれ、誰からも信頼されていた。だから、
「うるさい。おまえらオレのサクヤにさんざん触りまくったんだからもういいだろ!」
 こんな自己中な台詞を吐いても、みんな笑うばかりだった。
「触りまくったって、語弊がある言い方しないでよ。セクハラされたみたいじゃない」
「え? なに、セクハラされたのか? あ、おまえだろ!」
「するか! んなことしたら、おまえ『オペラ座の怪人』に変貌するだろうが」
「安心しろ。一応大事な仲間だからな。苦しまない方法でやってやる」
「安心できるか!」
 こんな漫才みたいなやりとりもよくある光景で、みんながお腹を抱えて笑っていた。私も鏡吾の腕の中で、腹筋が痛くなるくらいだった。
音楽が、クライマックスシーンのワルツへと切り替わる。鏡吾は優しい笑みを一度向けると、そっと腕を解き、優雅な仕草で私の手を取った。
目線だけの合図。
軽やかに、流れるようにステップを踏み出す。三拍子の緩やかな旋律に合わせて。
本番では一度もパートナーを務めていなくても、私たちの息はぴったりだった。ダンスメインの私の練習に、鏡吾はよく付き合ってくれていたからだ。だからアドリブでステップやターンを入れられても何の問題もなく、ただただ鏡吾と踊ることが楽しかった。ずっと踊っていたいと思えるほどに。
「コレ、もし今後再演することになったら」
 踊りながら、鏡吾が周りに聞こえないように耳元に口を寄せて囁いた。
「サクヤはダンサー以外の役な?」
「何で?」
「今回かなり我慢したから。次はもう無理」
 拗ねた表情の鏡吾に、思わず頬が緩む。舞台に立っている時は、本当に堂々としていてどの役者にも負けないくらい頼り甲斐と存在感がある人だ。なのに、時々こんな風な子供っぽいところを私には見せてくれる。それはなにものにも代えられない喜びだった。
「大丈夫。私はずっと、鏡吾の専属パートナーだから」
 今思えばプロポーズじみた言葉だ。鏡吾は一瞬目を見開いて、けれどすぐに蕩けるような甘い微笑みをくれた。
そう、ずっと鏡吾だけのパートナーであり続けるはずだった。あの事故さえなければ。
もうあの大好きな綺麗な手が、この手を取ってくれることはない。もうあの優しさに満ちた手が、私の目の前に差し伸べられることもない。
唯一無二のパートナーを失った私に、もう一度踊ることなんてできなかった。



 後悔というものは、後からするから後悔というのであって。
 つまりはそう、私は後悔していた。何を後悔しているかというと、昨夜のキースとのやりとりだ。
 せっかくキースが私の気が晴れるようにと誘ってくれた舞踏会。けれど私はそれを無下にしてしまった。できる限り平静を装いはしたけれど、キースはとても聡い人だしきっと気づいていただろう。気づいていて、知らないふりをしてくれただけだ。
 他人の目から見れば、私はきっといつまでもどうしようもないことをうじうじと悩んでいる弱虫に見えると思う。実際、本当にそうなのだから言い訳のしようもない。
 けれど、それでも、私にとって鏡吾はそれだけ大きな存在だった。
 過去は戻らない。そんなことはわかっている。
 いずれこの傷を飲み込んで消化して、前を見て歩いていくべきなのだということだってわかっている。
 でも、わかっていたからってそれができるわけじゃない。簡単にできるなら、死を選ぶなんて馬鹿な考えも思い浮かんだりしなかっただろう。
 同時に、逃げてばかりいる自分にため息が零れた。キッチンで朝食の準備をしながら、自分自身の不甲斐なさに嫌気が差す。
 鏡吾を喪ってから、私は弱くなった。
 彼がいる頃の私はもっと、何にでも前向きで、困難だと思っても平気で立ち向かっていけた。役者としても一人の男性としても憧れて尊敬していた鏡吾。そんな彼に必要とされることが嬉しくて、彼に見合う人間になりたかったから。そして私のその想いを理解し、支えてくれたのも鏡吾だったから。彼がいたから、私は強くあれたのだ。
 目標であり支えでもあった鏡吾のいない今、私にできることがどれほどあるのだろう。
「おい、サクヤ」
「は、はい!」
 深く物思いに沈みこんだまま包丁を握っていた私の背後に、いつの間にかキースが立っていた。慌てて包丁を置き、笑顔を作って振り返る。
「おはよう、キース」
「ああ、おはようはいいんだが」
 キースの表情は、何とも言えない微妙なものだった。呆れているというか、心配しているというか、不審そうというか。
「どうしたの?」
「いくら何でも、それは多過ぎないか?」
「へ?」
 何のことかと思いつつキースの視線を辿っていくと、そこはまな板の上。そして山になったキャベツ――こっちではどう呼ぶか知らないけど、キャベツにしか見えないのでキャベツでいいよね――の千切り。付け合わせにしようと思っていたはずだったのだが、すでにその域は超えていた。むしろもう主菜と言っても過言ではない量だ。
「お野菜は、体にいい、よね?」
「あのな……」
 あからさまに無理やりな誤魔化し方に、キースは小さく息をついてぽんと私の頭に手を置く。私がまた暗い考えに埋没していたこともお見通しなのだろう。
「残った分はお昼にサラダにでもして食べるよ」
「結構な量だぞ?」
「大丈夫。私野菜好きだから」
「ならいいけど。これ、運べばいいのか?」
「あ、別にいいのに!」
「二人で運んだ方が早いだろ」
 言うが早いか、キースは出来上がっていた料理の皿をさっさと運んで行ってしまう。慌てて私も途中だった料理を仕上げて、キースの後に続いた。
 いつもと変わらない様子のキースにほっとする。けれどその『いつも通り』は、きっとキースの気遣いの一つなのだろう。まだほんの数日しか一緒にいないけれど、キースはそういうことを自然にしてしまえる人なのだとわかってきた。
 食事の最中に、すごくくだらない世間話なども交えながらこの国のことを教えてくれるのもその一つ。世間話の中から私とこの国の人達との価値観の違いなんかを拾い上げて、わかりやすく丁寧に説明してくれているようだった。おかげで、さほど頭の出来の良くない私にもそれなりに生活に必要な知識は得られたし、何よりどの話も新鮮で面白かった。
 いや、本当は話の中身どうこうより、誰かとこうしてお喋りしながら食事をとるということ自体が、大きかったのかもしれない。
 私の家には昔から、どんなに忙しくても可能な限り家族全員揃って食卓を囲むという決まりごとがあった。それは両親を亡くし叔父夫婦に引き取られてからも引き継がれていた習慣だった。
 けれど、鏡吾を亡くした後の私は、外で一人で食事を済ませてしまうことがほとんどだった。叔父夫婦や藤夜の顔を見たくなかったからだ。
 藤夜も叔父夫婦も、必要以上に労わるような素振りだったりするわけでなく、『いつも通り』だった。彼らもキースと同じように、そういう気遣いのできる人達だった。
 けれど私の側にそれを受け入れるだけの余裕がなかったのだ。
「……のか?」
「え? 何?」
 またも考え込んでいた私は、キースの質問に対して完全に上の空だった。我に返って訊き返した私に、キースは渋い表情をするでもなくもう一度質問を繰り返してくれた。
「だから、そろそろ食材がないんじゃないのかって訊いたんだ。前にマミヤが買い出しに行ってくれたのはサクヤが来る前日だったし」
「マミヤ?」
 知らない名前に首を傾げる。もしかしたら辞めたと言っていた通いのメイドさんのことだろうか? けれど、その割には親しげな雰囲気が言葉から滲み出ている。
「俺を育ててくれた母親みたいな人だよ。前のメイドが辞めてから、たまに家のことを手伝ってくれているんだ」
 ああ、なるほど。それなら親密感があっても納得だ。そう思うと同時に、今さらながらの疑問が浮かび上がってきた。
 どうしてキースは一人暮らしをしているのだろう。
 結婚はしていない。恋人はいないらしい。
 それは本人の言葉からわかったけれど、ならば家族は? マミヤという人が母親代わりということは、本当のお母さんはもうなくなっているのかもしれない。もしくは離婚? じゃあ、父親は? 兄弟とかもいないの? 一人で暮らすには、この家はあまりにも広すぎるんじゃない?
 気になり出したら次々と色んなことを訊きたくなってしまう。けれど、言葉にすることはできなかった。まだ知り合って間もないのに、プライベートに立ち入りすぎるようなことができないのはもちろん、もしかしたらキースが今までに亡くしてきた人たちの中に、家族も含まれているかもしれない。そう思うと迂闊な質問はしたくはなかった。
「そうだな……。昼過ぎにこっちにくるようにマミヤに伝えておくから、一緒に市場まで行ってこいよ。サクヤも閉じ籠りきりだと飽きるだろ」
「別にやることはあるし、飽きは――」
 答える途中で気がついて、すぐさま「わかった。行ってくる」と言い直した。
 一人になると、どうしても私は余計なことを考え過ぎてしまう。それを回避するためにキースは提案してくれたのだろう。
 私の了承に笑顔で応えると、キースは残っていた朝食を手早くも綺麗に平らげて、行ってきますと席を立つ。私も後を追ってキースが宮城へと向かうのを玄関で見送った。
 キースを送り出すと、朝食の後片付けと掃除や洗濯などの家事が待っている。後片付けは大した量ではないしそんなに手間はかからない。けれど、掃除機も洗濯機もないこの世界では、あとの二つはなかなかに骨が折れた。掃き掃除に雑巾がけ、洗濯はもちろん手洗い。普段いかに文明の利器に頼りきりだったのかがよくわかる。
 けれど、体を動かすこと自体は好きだし、苦ではなかった。しつこい汚れと格闘していると、余計なことを考えずに済むのも助かる。
 そうやって全ての作業を終える頃には、もう太陽が随分と高くなっていた。お腹もすいたことだし、マミヤさんがいつ来ても大丈夫なようにさっさと食事をとってしまおうと台所に向かう。
 今朝大量生産してしまったキャベツの千切りを、台所の隅にある石でできた保存庫から取り出した。この保存庫は特殊なものらしく、どういう原理か知らないけれど触れるとほんのりと冷たい。大きさ的には五十センチくらいで、ホテルによくある小さな冷蔵庫みたいな感じだ。
 千切りキャベツとハムをパンで挟んでサンドイッチにし、残ったキャベツに少し別の野菜を足してサラダにする。ドレッシングは適当に調味料を合わせて作ったが、それなりに美味しくできた。
 しかし、できればもうちょっとこの世界の人にお料理を教えてもらいたいものだ。キースは文句も言わずに食べてくれるけれど、どうせならちゃんと美味しいと思ってもらえるものを提供したい。
 マミヤさんに訊いてみようかななんて思いながら、簡単な昼食を終えて食後のお茶を淹れる。紅茶と同じように淹れたけど、充分に美味しかった。
 一人ほっこりしたところで、鈴の音のようなものが耳に届いた。玄関の呼び鈴だ。いそいそと玄関へと向かう。
「はぁい」
 応えながらそっとドアを開くと、そこには恰幅のよい、そしてにこにこ笑顔の可愛らしいご婦人が一人立っていた。年の頃は五、六十代だろうか? 白茶の髪を後ろで一纏めに三つ編みにしている。外国人、というか異世界人の年齢なんてわからないから当たっているかどうかは不明だけど。とにかく、暖炉の傍でロッキングチェアに座って編み物をしてたりするのが似合いそうな印象だった。
「こんにちは。貴女がサクヤさんね?」
「はい。えっと、マミヤさん、ですよね?」
「ええ、よろしくね」
 目を糸のように細めて笑うマミヤさんは、とても温かい感じがした。そして、その笑顔が懐かしい人と重なる。
 両親を中学の時に事故で亡くした私たち兄妹を引き取ってくれた叔父夫婦。
 叔父夫婦は子供に恵まれなかったために、両親を亡くす以前からずっと可愛がってくれていた。
 特に叔母さんは娘が欲しかったらしく、まるで実の娘のように愛情を注いでもらっていたように思う。
 料理や裁縫は母よりも叔母さんの方が得意でたくさん教えてもらった。だから、私の家事の技能は叔母さん譲りと言ってもいい。
 私にとって実の母と同じくらい『お母さん』だった人なのだ。
 知らず入っていた肩の力が抜ける。叔母さんと雰囲気のよく似たマミヤさんとは、すぐに仲良くなれそうな気がした。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げると、マミヤさんは笑顔のままで「はい、よろしく」と繰り返し、つられたようにお辞儀してくれた。どうやら悪い印象は与えなかったようだ。
「とりあえずお茶でも淹れますね!」
「あらあら、そんなに気を遣わないでくださいな。それに、市場を案内しないといけないでしょう?」
「あ、そうでしたね。じゃあ、さくっとお買い物済ませちゃって、その後ゆっくりお茶しながらお話しましょう!」
 私の提案に、マミヤさんは一瞬面食らって、それからくすくすと笑い出した。
「私、何か変なこと言いました?」
 キースにもよく笑われるし、もしかしたらこちらの常識から何か外れているのかもしれない。そんな不安に駆られていると、マミヤさんは笑顔のまま首を横に振った。
「いえいえ。元気の良いお嬢さんで、キース坊ちゃんが気に入られるのも納得だと思っただけですよ」
「ぼ、坊ちゃんって……」
 やっぱりと言おうか、でもらしくないと言おうか、キースは良いとこのボンボンだったらしい。『坊ちゃん』と呼ばれている姿を想像すると笑ってしまいそうになるけれど、それがキースの顔の一つであることは確かだった。
「じゃあ、ちゃっちゃと用事を済ませてお茶にしましょうね。サクヤさんとお話するのはとっても楽しそうだわ」
 マミヤさんが、建前でなく本当に楽しそうに同意してくれて嬉しくなる。せっかくだから、キースには直接訊けそうにないことも少しくらい知れたらいいなと思いながら、私たちは市場へと向かったのだった。