夢のあとさきそめし朝

第一幕 あるいは、絵空事

第一話 エピローグにはまだ早い 02

「サクヤ?」
 黙り込んでしまった私に、キースが案じるように声を掛ける。けれど、応えることもできないまま私は俯いていた。
 その代わりとでもいうように、ドアをノックする硬質な音が耳に届く。
 私が視線をドアに向けるのとほぼ同時に、キースは立ち上がりドアに向かった。ドア越しにいくらかやりとりを交わした後、自らドアを開けて廊下にいる人物を招き入れる。
 キースと同じような裾の長い黒い上着。長身のキースよりも更に身長が高いなと思いながら、するすると視線を上げていく。そして、視線がその人の顔に辿り着いた瞬間、反射的にソファーから腰を浮かせて逃げの体勢に入っていた。
「サクヤ、コイツは俺の同僚のアルゼ……って、どうしたんだ?」
 振り返って普通に紹介し始めたキースが、中途半端な格好で固まっている私に気づいて疑問顔になる。
 応えないまま、私は心中でこれ以上ないほど納得していた。
 うん、間違いない。ここは異世界だ。そうでないとこの状況はありえない。
 何故かというと、今しがたキースに紹介されたアルゼさんという人は、どこからどう見ても人間の顔ではなかったのだ。
 あ、いや、誤解しないでほしい。私はアルゼさんの容貌を貶しているわけでは決してない。本当に言葉通りの意味なのだ。
 犬、いや狼なのか? とにかくアルゼさんは獣面人身ってやつだった。
 見る限り作り物には見えない。頭の後ろ側にファスナーがあって「ちょっと悪ふざけが過ぎました」とか笑いながら外してくれたり……、なんてことはないようだ。
「サクヤ?」
「キース、彼女は私に怯えているのではないか?」
「ウソ、喋った」
 失礼極まりない台詞を飲み込むことができず、ぽろりと零れ落ちる。キースはともかく、狼の顔をした人が流暢な日本語を話す光景はなかなかに衝撃的だった。
「もしかして、サクヤはラン族見るのが初めてか?」
「……ラン族って、何?」
 もしかして、こちらの世界ではこういう獣人系の種族が当たり前のように存在しているんだろうか?
 もしそうなら、少し外の世界に出るのが怖い気がする。ゲームや漫画なら平気なのに、リアルに目の前にいられると挙動不審になってしまうもんなんだなと、変なことを実感させられてしまった。
「私のような外見を持つ種族ですよ。安心してください。ヒトを襲うようなことはありませんから」
 私の問いに、アルゼさん自身が答えてくれた。見た目の厳つさに反して、その言葉遣いや声音は穏やかで紳士的だ。
 私は慌てて姿勢を正し、立ち上がって頭を下げた。
「あの、すいませんでした。失礼なことを言ってしまって。その、私の住んでいたところには、アルゼさんのような種族はいないので……」
 ちょっとしどろもどろではあったけれど、精一杯謝罪の気持ちを伝える。
 今の私にとって唯一の味方といえるキースの同僚さんなのだ。悪い印象を持たれたくはなかった。
「そうか、それは俺も予想外だった。すまなかったな」
 キースの謝罪に私は首を振る。一方アルゼさんに気分を害した様子はなかったけれど、不思議そうに首を傾げていた。表情の違いはあまりわからないけれど、仕草は私たちと変わらない。
「失礼ですが、サクヤ殿はどちらから?」
「えっと、その……」
「それもあっておまえを呼んだんだよ。と言っても最初は、そんなとんでもないところから来たとは思ってなかったけどな」
「どういうことだ?」
 更に疑問を深めるアルゼさんに、キースはまあ座れよと先ほどまで自分が座っていた側のソファーを勧める。私にもう一度座るように促しながら、キース自身も私の隣に腰を落ち着けた。
「単刀直入に言うと、サクヤはベルティリアの民じゃない」
「ならばどこの国の?」
「『ニホン』って国から来たんだそうだ」
「『ニホン』? 聞いたことがないな」
「そりゃそうだ。この世界には存在しないらしいんだから」
 キースのその一言で、アルゼさんの動きがピタリと止まる。それからゆっくりと、私へ視線が向けられた。普通の人とは違うからか、それとも元々アルゼさんがポーカーフェイスなのか、その表情から考えを読み取るのは難しい。
 だからこそ、アルゼさんの反応が怖かった。
「それはつまり、『異世界』から来たと、そういうわけですか?」
「はい。その通りです」
 鋭い視線に少しびくつきながらも、私はきっぱりと言い切った。これまでに出た材料の上に、アルゼさんみたいな獣人の登場なのだ。これで異世界じゃないなんて言わせない。
「まさか、『アマビト』が本当に存在するとは……」
「なんですか、それ」
 呆然と――表情じゃなくて、声だけで判断したけれど――呟くアルゼさんに訊き返す。アルゼさんはゆったりと深く頷いて言葉を繋いだ。
「古くからある伝承で、天――つまり異世界からこの国に遣わされた者のことを『アマビト』、もしくは『天の御使い』というのです。しかし、それはあくまでも伝承だけの話であって、実際は遥か遠い異国の地から国を越えてきただけの異民族だと私は思っていたのですが」
 そう説明しながら、興味深いのかしげしげと私を眺める。しかし、そんなにじっくり見られても、見た目は特に変わったところもないわけだから、居心地が悪いことこの上なかった。
「まあ、大概の奴は胡散臭い伝承だとしか思ってないだろうな」
「一応建国に関わる伝承だぞ。胡散臭いなどと言うな」
「建国なんて大昔の話だから、確かめる術なんてないだろうが」
 少し前に聖典だ生まれ変わりだなんて言っていた人とは思えない言い草だった。キースのあの生まれ変わり発言だって、私からすればかなり胡散臭いものなんだけど。
 しかし、そこにツッコミを入れていては話が進まない。
「あの、それでその『アマビト』っていうのは、どういうものなんですか?」
 天から遣わされたなんて仰々しい説明をされるのだ。キースの言う通り胡散臭くはあるけれど、建国に関わる伝承にもなるくらいの何かがあるのだろう。
「『アマビト』は、時代の分かれ目に現れると言われています。特殊な力を有し、その力で数々の困難を退け、国を安寧に導くのだと」
 多少の予想はしていたものの、何だか壮大な話になってきた。うわー本当にファンタジーだーなんて棒読みの台詞が頭の中を駆け抜けていく。
 そんな棒読みの台詞と一緒に、脳裏をよぎっていった疑問があった。タイミングを逃すと訊けなくなると思い、すかさずそれを口にする。
「特殊な力って、一体どんな?」
 私は今までの人生で、一度たりとも不思議な経験をしたことがなかった。
 劇場には怪談じみた話がつきものだったけれど、実際にそういうものに遭遇したことはない。肝試しに行った時にも、いるだのいないだのとみんなが騒いでいるのにまったくそれがわからなくて、霊感の強い友達から「サクヤは鈍すぎる」なんて嘆かれたことすらあるのだ。そんな超常的なものと無縁な私が、特殊な力を持っていると言われてもにわかに信じられるはずがない。
 そもそもファンタジーな世界の人たちと私とでは、特殊の基準が違うような気がする。
 こちらの世界にはアルゼさんのような種族もいるわけだし、人魚や妖精、空飛ぶ魚なんてものもいるかもしれない。私たちの世界ではありえないが、魔法だって当たり前に存在するかもしれないのだ。そのラインを知らなければ、何が特殊で何が特殊じゃないのか判断できなかった。
「私が知っている限りでは、日照りの際に雨を降らせたとか、戦の時に嵐を呼んだりしたというのがありました」
 この世界でもその辺はさすがに特殊能力なんだと何だか少し安心する。確かにそんな力を持っている人が当たり前のように存在していたら、落ち着いて生活もできないだろう。
「あと、流石にこれは噂に尾ひれがついたものだと思いますが、死者を生き返らせたなんてものまでありますね」
「それはいくら何でも嘘だろうな。ありえない」
 アルゼさんが淡々と続けるのに、キースがすかさず否定し眉を顰めた。信心深いが故なのか、甦りはどうやら受け入れられない事象らしい。
 そして、黙って聞いていた私の胸には、キースとは違った憤りが湧きあがっていた。
 死者を生き返らせる。真偽のほどはともかく、そんな力があるとまことしやかに言われている『アマビト』。
 私がその『アマビト』なのだと言われて、馬鹿正直に喜べるわけがない。
 そんな力があるのなら、今すぐにその在り処を教えてほしい。その伝承を伝えた人をとっ捕まえて、どうすればそんなことができるのかと問い詰めたい。
 けれど、そんなものがあるわけない。そんな力があるなら――。
「……とっくの昔に使ってるわよ」
 ――あの日、あの時に。
 唸るような低い声を耳にして、我に返る。無意識に吐き出していた自分自身の声に。
 二人分の驚きと戸惑いに満ちた視線がこちらを見つめていた。
 事情を知らないアルゼさんはともかく、キースは私の苛立ちの原因に気づいただろう。彼の表情が、気遣わしげなものへと変わった。
「ごめんなさい。何でもないから」
 目の前の二人に怒りをぶつけてみても、何も変わらない。
 人の噂なんて、いつだっていい加減で、信憑性も薄くて、本人の気持ちもお構いなしに一人歩きをするものだ。そんなこと、嫌というほど知っているから。
 けれど、わかってはいても苛立ちはなおも生まれ続け、心の奥底に燻ってしまう。
「それで、サクヤ殿はこれからどうするおつもりですか?」
 アルゼさんの寄越した質問が私の耳に穏やかに届く。
「とりあえずは俺が面倒を見る」
 私が口を開くよりも早くキースがきっぱりと言い切った。その素早さと有無を言わせない口調にびっくりして、ささくれ立っていた気持ちが一瞬で吹き飛ぶ。
「あの、さっきもそんなようなこと言ってたけど、キースは迷惑じゃないの?」
「迷惑なら最初から助けてないぞ」
「でも、正直キースから見たら私って得体が知れないし、そんな人間側に置いてて大丈夫なのかなと……」
 キースやアルゼさんは異世界から来たことを一応認めてくれたけれど、周りの人が同じように受け入れてくれると期待するのは楽観的すぎるだろう。キースのところでお世話になるということは、キースの家族も当然いるわけで。その人たちに一体どう説明するつもりなのか、その辺も不安要素だった。
 けれど、私の心配をよそにキースとアルゼさんは顔を見合わせて小さく笑う。何だろうこの反応は。
「もしサクヤが俺に危害を加えようとしたって、簡単にやられるわけがないだろう?」
「あ……まあ、そう、だけど……」
 そういえば、キースはかなり屈強そうな男四人を一瞬で斬り伏せていたくらい強いんだった。私はキースと敵対しようなんて考えはさらさらなかったけれど、先ほど発した言葉が見当違いだったことは間違いない。二人に笑われても当然だった。
「それに、今は下手に一人でどうにかしようなんて思わない方が身の為です。大人しくキースの傍にいた方が安全ですよ」
 キースの言葉を後押しするように、アルゼさんが続けた言葉にハッとする。
 そうだ。ここは日本じゃないんだ。言葉は通じるけれど、お金もないし、そもそも常識も違う。日本と同じように考えていたら痛い目に遭う可能性が高いのだ。
 ならば、まずはこの国について知ることから始めないといけない。
「あの、ここって、そんなに治安が悪いんですか?」
 確かここは宮城――お城の中だ。ということは、国の中枢にいるということで、テイトは首都と同じ意味なんじゃないかと思う。首都の治安が悪いとなると、つまりは国自体もかなり荒れている可能性があるんじゃなかろうか。
「元々悪い方ではないんだが、今はちょっとな……」
「今は?」
 私の疑問に、キースはどことなく歯切れが悪い。アルゼさんもそれに頷くだけだ。
「サクヤも、さっき危ない目に遭っただろ?」
「あ……、うん。あの人たち、何?」
「アイツらは、少し前から『革命軍』なんて名乗って、あちらこちらで反乱を起こしているんだ」
「最近、奴らの行動も活発化してきていますしね。とは言っても、帝都内は警備も厚いので、それほど心配しなくてもよいのですが」
 そうか。だから、あの男たちはキースを見て目つきが変わったんだ。言い換えれば、あの男たちはテロリストでキースたちは国を守る自衛官や警察官のようなものだ。
 けれど、そうやって私たちの世界の言葉に置き換えても、正直ぴんとこない。ニュースで外国のテロだとか暴動だとかの映像は見たことあるけれど、多分この世界のそれとはまた違うだろうということしか思い浮かばなかった。
 ただ、一つだけ確実にわかることがある。
 この世界は人の死が近い。
 キースもアルゼさんも騎士――つまりは軍人だ。何かあれば前線に出て戦い、場合によっては自らの手で他者の命を刈り取らなければならない。私を守るために、キースがあの男たちを斬り伏せたように。
『死にたくなくても死んでいくヤツは山ほどいるんだ。死ねば良かったなんて、軽々しく口にするな』
 キースが厳しい口調で叱りつけた理由が、今更だけどもわかった。たくさん亡くしてきたのだろう。部下、同僚、上司。もしかしたら、親しい友人や家族までも。
 その積み重なってきた辛さを、計り知ることなどできなかった。
「そんな顔すんなよ。サクヤ一人くらい、俺が守ってやるから」
 私が反乱軍に対して恐怖を抱いていると勘違いしたのか、キースはお気楽とも言えるような口調で私の頭を撫でる。
 あまりにも軽い言い方だったので少し呆れたけれど、その反面、キースの芯の強さも感じた。いくつもの死を目の当たりにしてきただろうはずなのに、キースには荒んだ部分が見受けられない。それどころか、彼の笑顔には人を安心させるものがある。怯えていたわけではないけれど、妙にほっとしてしまった。
「で、住む場所はいいとして、問題は帰る方法だな。アルゼ、任せた」
「何故私に押しつける」
「おまえの方が知識は豊富だろ」
「調べるのは構わないが、私にも限界があるぞ」
 キースとアルゼさんは普段から仲がいいのだろう。会話からいい意味での馴れ合いが見えて、微笑ましい。
 けれど、元に戻った話題に私は加われなかった。
 帰るべきなのはわかっている。私はこの世界の住人じゃないのだから。
 けれど、帰れば鏡吾のいない世界をより強く実感してしまうだろう。それが怖くて、逃げ出したくなるのだ。
「『アマビト』は記録自体が少ない上に、極秘事項が多いからな。書庫にある史料からわかることはほとんどないとみていい」
「禁書扱い、か」
「そうだ。『アマビト』として限らないならば、転移の魔術の応用的なものがあるかもしれないが……」
「転移みたいな高位魔術、今のこの国にできる奴なんていないだろう。その応用となったら、あのリブロマギアでも数えるほどしかいないんじゃないのか?」
「そうだろうな。だが、最終的な手段としては考慮に入れておくべきだろう」
 真剣に話し合う二人の表情が、徐々に険しくなっていく。やっぱり、簡単に帰れるわけじゃないんだろう。
 そして、その方が今の私には好都合だった。
「そんなに一生懸命にならなくてもいいよ」
「サクヤ?」
「私、帰れなくてもいいから」
「何言ってんだ。いいわけないだろ」
「いいの。帰ったって……」
 その先に何が続くのか、言わなくてもキースはわかったようだった。そのまま、返す言葉もなく口を噤む。
 私は立ち上がり、アルゼさんに深々と頭を下げた。
「アルゼさん、色々と考えて下さってありがとうございます。でも、私のことは気にしないで下さい。こっちだろうが向こうだろうが、私には何の違いもないんです」
 そう、変わらない。鏡吾がいないという事実は。
「むしろ、こっちにいる方が気が楽なんです」
 鏡吾と過ごした場所。
 鏡吾と歩いた道。
 鏡吾と目指した、夢。
 向こうに帰ってしまえば、そんな思い出の欠片がいたるところに散らばっていて、その度に私の傷を抉ってしまう。そんな凶器だらけの世界に戻るくらいなら、何もないこの世界に留まっている方がいくらかマシだった。
 じゃあ、と短く付け加えると、私は真っ直ぐにドアに向かう。
「サクヤ!」
 すぐにキースがあとに続いてきたけど、私は振り向かずにドアノブを握った。
「キース、助けてくれてありがとう。でも、もう私のことは放っておいていいから」
「はいそうですか、って素直にきけるわけないだろう」
「いいからほっといて!」
 伸ばされた手をするりとかわして、勢いよく廊下に飛び出した。城の構造なんてわからないから、闇雲に走り抜ける。運がいいのか、足を運ぶ先には人影もなく、行く手を阻まれることも咎めだてられることもなかった。が、キースに追い付かれるのも時間の問題だろう。そう思った途端、前方にキースと同じような服を着た男の姿が見えた。このままでは間違いなく捕まえられてしまう。
 目についたのは、開け放たれた窓だった。格子は入っていない。考える間もなく桟に手を掛け、その身を宙に踊らせた。
「サクヤ!」
 焦りと驚きの混じったキースの声を聞きながら、すぐ近くに植えられていた木の枝でワンクッション置いて着地の衝撃を和らげる。が、せっかく上手くいったのに、下りた先に人がいたのは計算外だった。
 飛び降りてきた私に、そこにいた男はあからさまに胡散臭そうな視線を向けてきた。
 仕方ない。いきなり上から降ってくるなんて、不審人物以外の何者でもないんだから。
「何だ貴様は」
 切り裂くような冷たさを持ったアイスブルーの瞳を真正面から受けて、息を呑む。目の前の男には、圧倒的な威圧感と存在感が備わっていた。
「答えろ。どういった理由があってここに立ち入った? それなりの覚悟があってのことだろうな?」
 苛立った様子で男は吐き捨てると、次の瞬間、白銀の輝きが目の前に現れた。それは、ピタリと私の喉の辺りで静止する。
 私の息も、止まった。
「黙っていないで何とか言ったらどうだ」
 私が恐怖で固まっているのをわかっていて、男は馬鹿にするように嗤った。
 その態度が腹立たしくはあるけど、すぐ喉元に鋭い刃を突き付けられては、声を出せるはずがない。
「口がきけないわけでもあるまい。それとも、貴様の親は話し方すらろくに教えられないほどの愚昧なのか?」
 鼻先で嘲られ、我慢ならなくて思い切り睨みつけた。唯我独尊な態度からしてかなりお偉い立場の人なんだろうけど、そんなの知ったこっちゃない。
 私は自分の両親を尊敬しているし、誇りだと思っている。それを、こんな見ず知らずの相手に貶される覚えはなかった。生まれた腹立たしさは、容易に恐怖を押し退ける。
「……こそ」
「何だ?」
「そっちこそ何様のつもり? 初対面の人に対する口のきき方ってモンを知らないんじゃないの?」
 完全に自分のことは棚上げだ。けれど、こういう俺様なタイプは大嫌いだし、人を見下すことに慣れている人間なんてロクな奴じゃないに決まっている。そんな相手に、引く道理はない。
「……正真正銘の馬鹿か」
 片頬をひきつらせるように男が口角を上げた。その瞳に、より一層残忍な光が宿る。柄を握る手に力が籠められ、僅かに動いた切っ先が私の皮膚に触れるか触れないかのギリギリの位置まで近づいた。チクリと痛みが伝わったのは、事実なのか気の所為なのか。
「お待ちください!」
 そのまま刺し殺されるかと思ったとき、制止を望む声と駆け寄ってくる足音が背後から響いた。キースが私を追ってきたのだ。
「おまえの連れか、キース。どういう素性かは知らんが、育ちが知れるな」
「申し訳ございません! この者は、数刻前に賊に襲われていたところを保護したばかりなのです。今は少々取り乱しているだけですので、どうかご容赦を……!」
 キースが私と俺様男の間に割って入り、跪いて許しを請う。男は剣をおろしたものの、表情は冷たいままだった。
 その二人の様子を他人事のように眺める私の脳裏に、脈絡もなくとある台詞が浮かぶ。

 ――夢から醒めるにはね、

 それは、かつて出演した芝居の台詞。私の台詞ではなかったし、今までの芝居人生の中ではそれほど思い入れがある作品でもなかった。それなのに本当にふと、誰かが耳元で囁くかのように、

 ――その夢の中で……ばいいんだよ。

 その声は、再生された。
 跪くキースの肩に、そっと手を置く。先ほどまでの怒りは引いていて、むしろ穏やかな気持ちになっていた。
「顔上げてよ。キースが頭下げる必要なんてないんだから」
「ならば、貴様自身が詫びを入れるというわけか」
 にやりと、俺様男が口元だけで嗤う。どう見ても悪役にしか見えないその笑みは、まるで時代劇の悪代官みたいだ。
 刃をつきつけられていたときの恐怖は不思議なほど綺麗に消え失せていた。軽く息を吸い込むと、真正面から長身の不遜な男をキッと睨み上げる。
「謝罪なんてしないわ」
「何だと?」
「サクヤ! 何を――」
「キースは黙ってて」
 慌てて私を抑えようとするキースを、低い一言で制した。それまでにない私の気迫に圧されたのか、キースは声を失くす。
 私の態度が変わったことで、その場の空気が一気に張り詰めた。目の前の男の顔からも笑みは消えている。
 けれど、その緊張感がひどく心地よかった。そう、まるで開幕前の板付きのようだ。
 オープニングのSEが板付きの曲へと変わり、真っ暗な中を小さな蓄光テープのバミリを頼りに進んで定位置に立つ。そして幕が上がり明転するまでのあのささやかな時間。私が一番好きな、そして私が『私』でなくなるために必要な大切なひとときだ。
「私に非があるのならば、好きに処分なされば良いでしょう」
 それまでの無礼な私を捨て去り、わざと慇懃な口調を選ぶ。その変化に男は驚いたように目を見開いた。背後からは、キースの息を呑む気配が伝わる。
「例えば、その剣で斬り捨てるとか」
 口元に、仄かな笑みを刻む。自嘲に染まった心を覆い隠す為の、柔らかく穏やかな慈愛さえ感じさせるような微笑を。

 ――夢から醒めるにはね、

 頭の中に何度も響く台詞は誰の台詞だったのか、どんなシーンだったのかは、今はもう思い出せない。そして、どうして思い出したのかもわからない。

 ――その夢の中で

 ただ、それが今の私にとっての、『鍵』のような気がした。

 ――死ねばいいんだよ。

 悪夢の世界から抜け出す扉を開けるための、鍵。
「サクヤ、何を馬鹿なことを!」
「だから、うるさいってば」
「うるさいって、おまえさっきも――!」
 キースが窘めるも、私が全く取り合わないという不毛な会話が始まる。キースの言いたいことはわかるけれど、今は何も聞き入れたくなかった。
 すると、それを黙って見ていた男が、さもおかしげに喉を鳴らして笑い出した。耳障りなその声に思わず眉を顰める。キースも訝しむような戸惑った表情をしていた。
 男は私たちのことなど全く意に介さない様子で、手にした刃を鞘に収める。そして私ではなくキースに目線を向けた。
「キース」
「はっ」
「この女が聖廟前に立ち入ったことは不問にする。それから……」
 男の視線がするりと滑るように平行移動する。凍えた湖水のようなアイスブルーの瞳が私を捉えた。ふっと笑みが浮かべられる。嫌味のたっぷりと乗せられた、癪に障る笑み。
「コイツはおまえが守ってやれ」
 顎をしゃくるようにして言い放たれた言葉の意味が、瞬時に理解できなかった。
 何がどうなってそういう台詞が生み出されたのかがわからず、私はただ呆然とする。それに男はもう一度ふんと鼻で嗤った。
「サクヤといったか。せいぜい長生きしてみせろ」
「なっ……!?」
 その一言で、わかってしまった。あんな男に、理解されてしまったのだと。よりにもよって、一番理解などされたくないタイプの男に。
 唇を噛み締め、固く拳を握り締める。
 苛立ちを覚えた私をよそに、男は蔑むような表情を残して踵を返した。遠ざかっていく後ろ姿を見つめたまま、行き場のない感情が呟きとなって零れ落ちる。
「……サイテー」
「サクヤ!」
 吐き気がしそうなほどの悔しさが全身を覆いつくしていた。キースの窘める声も耳に入ってはこない。
 あの一瞬で、気づかれた。私が死を望んでいることを。だから斬らなかった。だからこそ『長生きしてみせろ』などと皮肉った。そう言われることが私にとって一番屈辱的なのだと、あの男は判断したのだ。 
「何考えてるんだよ、おまえは! ついさっきもちゃんと話したところだろうが!」
 しっかりしろと言わんばかりに、キースが私の両肩を掴んで揺さぶる。それでも一度落ち始めた私の気持ちは、一向に前向きになんてならない。それどころかキースの気遣いすら疎ましかった。
「キースに迷惑をかけるつもりはないよ」
「そうじゃなくて……ああもう! 何でそんなに――」
「私のことなんてほっとけばいいじゃない。どうせたまたま拾っただけの、何の関係もない人間なんだから」
 何故キースはこんなに必死に構うのだろう。私を助けても、何のメリットもないのに。
 キースは追われているところに偶然居合わせただけ。しかも異世界から来たなんていう胡散臭い人間相手だ。見返りなんて何一つ与えられないと知っているはずなのに。
 そこまで言葉にしなくても、私の投げやりな態度からキースには伝わってしまったらしい。ムッとした表情になり、明らかに怒っているのがわかった。
 この人がどれほど博愛精神に溢れていたとしても、さすがに見放されるだろう。それならそれでいい。きっと、見捨てられた方が私は楽になれるから。
「なら、関係のある奴はどうするんだ?」
「関係ある、人?」
 静かに投げかけられたのは、思ってもみない言葉。そしてそれは、医務室で頬を叩かれた以上に目が覚めるような痛みをもたらす。
 さらにキースは低い声音で続けた。
「家族とか、兄弟とか。おまえは『キョウゴ』ってヤツのことばかり考えているが、周りにはおまえを大切に思う人間が他にもいるんだろう?」
「それ、は……」
 今までそんなことを露ほども考えなかったひとりよがりな自分を、突きつけられる。
 キースの言うとおり、私には大切な家族がいた。
 幼い頃に他界した両親の代わりに育ててくれた叔父夫婦。いつも私のことを誰よりも理解し傍にいてくれた半身である双子の兄の藤夜。
 家族だけじゃない。一緒に舞台を作り上げてきた劇団の仲間に、励ましや応援やアドバイスを与えてくれる友人たち。
 みんな大切で大好きで、かけがえのない人たちだった。そして、鏡吾を失ってから誰もが私を支えてくれていた。
 それなのに、私はみんなの優しさに目を瞑り、時には煩わしささえ感じていた。キースのことを疎んじたのと同じように。
 誰も私のつらさなど理解できるはずがないだなんて、悲劇のヒロインぶっていた。思い返すと落ち込まずにはいられないほど、自分本位にみんなを蔑ろにしていたのだ。
「サクヤにとっても、大切なのはその喪った人だけじゃない。そうだろう?」
 今度は幼い子どもに言い聞かせるような優しさでキースが確認する。私は力なく頷くしかなかった。
「ごめん、なさい……」
 消えそうなほど小さく零れた謝罪に、キースは項垂れた私の頭をくしゃと撫でる。その手のあたたかさがまた心を締め付けた。
「それは、帰ってからその人たちに言ってやれ」
「うん」
「ちゃんと、帰してやるからさ」
「……うん」
 穏やかな声に促され、緩みそうになる涙腺を何とか締める。何度も頷きながら、私はこの世界に来て初めて心から思った。
 『帰りたい』と。帰って『謝りたい』と。
 そして、もう一つ。
「キース」
「何だ?」
「ありがとう」
 顔を上げ、しっかりとキースの目を見て伝える。
 助けられてから、キースには何度かお礼の言葉は向けていた。けれどそれは、表面的な形だけのもの。
 だからこそ、本物の感謝をどうしても伝えたかった。
 進むべき道も、本当に大切なものも、何もかも見失っていた私を正してくれたことに。
「礼を言われるようなことなんて何もしてないんだがな」
 キースが少し照れ臭そうに笑う。ヘイゼルの瞳が、陽光を受けて少しだけ緑色を濃くしたように見えた。
 もう一度優しく頭を撫でられ、その仕草に大切な人の影が重なる。まだ癒えない傷は疼くけれど、それでも私の心持ちは大きく変わっていた。
 今は、元の世界に帰ることを最優先で考えよう。そう考え直せる程度に。
 
 私の異世界生活はこうして開幕したのだった。