Song for Snow

#10 Trueness Name

 『Anastasia』と書かれた赤銅色の看板に向けられているスポットライトの明かりが消える。
 それは閉店を示すサインだった。
 僅かに残っていた客を店の外まで出て見送ると、槇野は奥のスタッフルームに向かった。
 今日はゆきが休みの日で、貴久と槇野の二人だけ。数日前から、この日が来ることを待ち侘びていた。
 槇野には、どうしても貴久に訊きたいことがあったからだ。
「店長ー、終わったでー」
「おう。お疲れ」
 まずは様子を窺うかのように、いつもと同じように話し掛けた。
 貴久は売り上げの計算を始めている為、顔も上げずに返答をする。
 そんな貴久の背中を見つめながら、槇野は変わらぬ口調で切り出した。
「なあ、店長」
「何だ?」
「トエって何モン?」
「『何モン』ってな……」
 貴久の電卓を打つ手が止まり、苦笑が漏れる。
 何者と訊かれても、貴久には答え様がなかった。
 実のところ、貴久は槇野が思っているほどゆきを知っているわけではないのだ。
「理恵子がトエのこと知っとったけど?」
「そりゃあ、スタッフの話くらい家でもするからな」
「せやなくて。大学時代の話」
「大学?」
「理恵子、軽音入っとったやろ? その後輩のバンドにトエがおったって」
 初めて聞く話に驚きはしたものの、貴久にはそれよりも気になったことがあった。今の話からいくと、理恵子がゆきに会ったことになるのだ。
 そんな話は、理恵子からもゆきからも聞いていなかった。
「理恵子、ここに来たのか?」
「こないだ店長がおらんかったときにな」
「……そうか」
 理恵子に気付かれるような素振りは見せていないと思っていたが、やはり女性はこういったものの勘が鋭いらしい。
 浮気なんて一生できないなと、貴久はまた苦笑を零した。
「バレてるて、気づいてたんか?」
「バレるなんて人聞きの悪い言い方するなよ。俺とゆきの間に疚しいことなんてないんだから」
 言い訳だとは思いつつ、貴久はそう続けた。周りから見たら、不倫以外の何物でもないとは思う。
 けれど、貴久はどうしてもゆきを放っておけなかった。
 ひどく不安定で、危うくて、思わず手を差し伸べずにはいられない。
 あの日、大丈夫だと浮かべた笑顔が、いつまで経っても頭の中から消えなかった。
 それは、最後に見た『幸緒』の笑顔とよく似ていたから。

 しかし、そんな話を槇野にするつもりはなかった。
 したらしたで、怒られそうな気がしなくもないのだ。
 そんなことを考えている貴久をよそに、槇野は話を進める。
「ま、とりあえずそれは置いといて。トエがあんななん、店長やったら何か知っとるんちゃうんか?」
「……大学は理恵子と違ったと思うけどな。同じだったら、履歴書見たときに何か思ったハズだし」
 面接に来たゆきを見て、そして履歴書を見て、確かに驚いた記憶はあった。
 けれど、いくら驚いていたとしても、理恵子と同じ大学に通っていたのなら、意識の片隅にくらいその記憶が残っているだろう。
「いや、せやから大学は違うねんて」
「え? でも、サークルの後輩のバンドだろ?」
「何か知らんけど、元々別の大学の子らも一緒にやってたらしいで。そんで理恵子の話によると、その後輩の律野某のバンド、なかなかヴォーカルが決まらんかったんやて。で、理恵子に半分決まりかけてたときに、突然他大学メンバーの一人が連れてきたんが、トエやったって」
 槇野は理恵子が来た日、ゆきの様子が気になって、改めて理恵子に昔何があったのかを聞いたのだ。理恵子は渋々ながら、自分の軽音部時代の話をしてくれた。
 槇野の話す内容を聞いて、貴久はそういえばと以前に理恵子に聞いた話を思い出す。
『後輩にね、すごくいい曲を作る子がいて、その子の歌を歌いたかったんだ。けど、その子には私の歌じゃ納得してもらえなかった。自信失くしたなー。だから卒業と同時に歌うことを辞めちゃったの』
 懐かしそうに、けれど少し悔しさを滲ませて理恵子は微笑っていた。
 貴久が聴いた限りでは、理恵子は十分に歌も上手かったし、声も綺麗な方だと思う。
 それでも認められなかったということは、根本的にその後輩の求めていたものを理恵子が持っていなかったということだろう。
 貴久は部分的にかいつまんでそのことを話す。
「へぇ、ソレは初耳やな。アイツ結構プライド高いから、ショックデカかったんやろなぁ」
「しかも、理恵子はその後輩のこと、好きだったみたいだし」
「そうなんか!?」
 途端に喜色を浮かべた槇野に、貴久は少しばかり喋り過ぎたと後悔した。これをネタに、槇野は理恵子をからかうだろうことが予想できたからだ。
「あくまでも俺がそう思っただけだよ。理恵子には言うなよ?」
「わかってるて。そぉかぁ、理恵子はトエにヴォーカリストの地位も惚れた男も取られたんかぁ」
「槇野」
「じょ、冗談やて!」
 釘を刺されても面白がることを辞めない槇野に、貴久の低い声と鋭い視線が飛ぶ。
 普段は穏やかな貴久だが、実は結構気が短く、更に言うと腕っ節のほうもなかなかのものなのだ。
 身の危険を感じた槇野は慌てて誤魔化すように笑い、態度と話題を改めた。
「で、でもな、理恵子が言うには、全然別人みたいやて」
「別人?」
「俺も話聞いてびっくりしたわ。あのトエが、歌てる理恵子に突然『違う』って言うて、歌止めたらしいから」
 槇野はいまだにその話が信じられないでいた。
 自分の知っているゆきは、絶対にそんなことはしない。
 いつも嘘のように柔らかな微笑を控えめに浮かべた、おとなしやかなゆきしか知らないのだ。
 それは貴久も同様だったのか、しばし呆然としていた。
「……それ、ホントにゆきか?」
「やろ? 俺もそう言うたんやけど、理恵子は『あんな声、聴き間違うはずがない』って。アイツ、耳だけは確かやからな」
 確かに理恵子は耳がいい。音楽が好きで、歌うのと同時に沢山の曲を聴き漁っていたからだろう。
 世の中にはよく似た声質の歌手もいるのに、それらを聴き間違うことなど皆無に等しいほどだ。
 槇野の言葉に納得しつつ、貴久は二人で会うときのゆきのことを思い出した。
 いつも、遠くを見ているゆき。
 見上げる灰色の空に、風に舞う白い花に、誰もいない並木道の向こうに、誰かの姿を見つけて足を止める。
 いつだって、ゆきの心は『どこか』を彷徨っていた。
 その原因にようやく辿り着ける。そんな思いが胸を過ぎる。
「理恵子の話がホンマなら、トエ、何で今みたいになってもうたんや?」
 貴久が無言で考え込んでいるのにも気づかず、槇野は眉間に皺を寄せながら呟いた。
 確かに今までにもゆきに対する違和感は持っていたけれど、ここまで疑問に思いはしなかった。
 けれど、理恵子の話を聞いた今、ゆきの違和感は危機感にすら変わってしまっていた。
 理恵子の話の中のゆきは、いつもメンバー達と楽しそうに笑って、じゃれ合って、怒って。それが当たり前だったらしい。
 ならば、今のゆきは『誰』なのだろうか?
 自分たちの知る『ゆき』は、一体――。
「……なぁ、トエのこと何とかならんのか?」
 槇野のどこか頼むような口調に、貴久は自分の考えを打ち切り頷いた。
「わかってる。……それに、おまえも気分悪いよな。自分の従姉の旦那が目の前で浮気してたら」
 気づいているのに気づかないフリをしてくれている槇野に、貴久は心の中で感謝していた。そして同時に、心苦しくもあったのだ。
 口では悪く言っていても、槇野にとって理恵子は大切な従姉なのだから。
 しかし――。
「そんなんどうでもええねんて!」
 突然、槇野が堪りかねたように声を荒げた。普段は飄々としているのに、いつになく真剣に怒っている。
 その怒りは、貴久に向けられているわけでなく。
「確かに理恵子のこと考えたれとは思うけど、それ以前にトエ見とったら腹立つねん! 何であんな辛気臭い顔しとるんか俺は知らん! けど、ハヤさんやって心配しとるちゅうのにあいつは……!」
「槇野?」
「……ダチなら、礼なんか言うより相談せぇっちゅうねん」
 友人だと思う相手から頼りにされない自分自身の不甲斐なさ。
 見守ってやるのも友達の役目だと思いつつも、少しくらい話してくれてもいいだろうと、槇野は思ったのだ。
 確かに付き合いは貴久よりも浅いし、ゆきは自分のことをほとんど話さないから、あまり深くは知らないけれど。
 それでも、もう少しくらいは、と。
「……おまえ、結構可愛いところあるんだな」
 意外な槇野の一面に、貴久が感心したように微笑む。槇野は決まり悪そうに、視線を逸らした。
「うるさいで、店長」
「ははは。ま、そんなに心配するな。近いうちに俺もどうにかしようと思ってはいたんだ」
「どうにかて?」
「それはまたな。槇野、コーヒー飲むか?」
「……飲む」
「よし、ちょっと待ってろよ」
 貴久はカウンターへと続くドアを開ける。
 そして、コーヒーの準備をしながら、理恵子に知られていることがかえって救いになるなと小さく笑みを浮かべ、一人言ちた。

 それとは対照的に、いつになく拗ねた子供をあやすような態度の貴久に、槇野は少しばかり不貞腐れていた。
 八つ当たりのように、目の前のデスクをガンッと蹴る。
 次の瞬間、バサバサと音を立ててデスクの上に積まれていた書類が崩れて散らばっていた。
 貴久は几帳面なくせに整理が下手なのか、デスクの上がいつも乱雑だったのだ。
「あっちゃー、店長、かんにんな!」
 貴久が戻ってくるまでに直してしまおうと、慌てて書類を掻き集める。その右手の指先に、槇野は奇妙なものを見つけた。
 一枚の履歴書だ。少し丸みを帯びた女性的な文字が、整然と並んでいる。
「……何やこれ。どういうこっちゃ?」
 住所。電話番号。学歴。
 ごく普通の履歴書だが、ただ一つだけおかしかった。
「『戸枝六花(トエダリッカ)』?」
 槇野の知らない名前が、そこにあった。
 呆然としつつ、その履歴書を手に取り、もう一度見直す。しかし、何度確かめても名前は『ゆき』ではなく『六花』だ。
 背後でドアの開く音がする。貴久が戻ってきたのだろう。
 槇野がしゃがみ込んでいるのを不思議に思ったらしい貴久が名前を呼んだ。
「……店長、戸枝六花て、誰?」
 そう問われるのに、貴久は槇野の手元に気付いた。そこに握られているのは、『戸枝六花』の履歴書だ。
 誤魔化しも効かないと理解し、静かに答える。
「『ゆき』の、本当の名前だよ」