Song for Snow

#9 Bond and Collapse

 新年も明け、仕事や学校も始まる頃。
 吐く息は白く溶け、ポケットに手を入れたまま通り過ぎる人も多く目についた。
 サラリーマンも学生も寒さの所為か足早に行き交っている、そんな人通りの多い交差点の側。
 薄闇の帳が下り始めたその時間には、何人ものストリートミュージシャンたちが自慢の歌を披露し始めていた。
 ギター一つ抱えて弾き語りする者や、アカペラで歌う者、バンド形式で演奏する者など様々である。

 そんな中、ユキの率いる『Weißer schnee』の面々も楽器や機材の調整などを行っていた。
 ライブハウス以外では、いつもここでユキたちは路上ライブをしていたのだ。それは、このメンバーになってからは数えきれないくらい行われている。お陰で、この路上でファンになってくれた人もいて、ちゃんとしたライブにまでわざわざ足を運んでくれたりもした。
「あれー? メジャーデビューまでしたバンド様がなーんでこんなところでまたライブするんだろー?」
 ライブの準備をしていたユキたちから数メートル離れた場所から、侮蔑と嫉妬を含んだ声が投げかけられる。
 思わずリツは立ち上がり、声の主の方を睨みつけたが、すぐ隣にいたユキに腕を掴まれて制された。
「リツ、バカは相手にしないの」
「でも」
「ユキの言うとおり。ああいう構ってちゃんは、反応するとつけ上がるからね」
 ユキとシュウの両方から言われ、リツは渋々頷いてユキの隣に腰を下ろした。
 それでも、先ほどの声の主はあからさまに貶す言葉を止めようとはしない。その連れであるだろう男も便乗し、二人でずっとユキたちを馬鹿にするような台詞を言い続けた。
「あれでしょー? どうせ、CDデビューしても大して売れてないから営業しないといけないんでしょー?」
「あ、そっかぁ。そうだよなー。所詮あの程度の歌が売れるわけねぇもんなぁ!」
「そうそう、ボーカルの顔も大したことないし、見た目で売ろうとしても無理じゃん?」
「そりゃそうだよなー!」
 わざと聞こえるような声で延々と続けられる中傷の言葉に、曲を聴きに来たと思しき人たちの間の雰囲気も徐々に気まずさを増していく。
 リツの性格上、それを黙って聞いていることなどできないのだが、それでも今は我慢しなければいけない理由があった。
 嫌味を言い続ける彼らが言うように、『Weißer schnee』はつい数週間前にCDデビューを果たしていたからだ。
 芸能プロダクションにも所属し、今では立派な商業ミュージシャンなのである。だからこそ揉め事を起こすわけにはいかなかった。
 リツの表情がどんどん曇っていくのを見て、ユキは軽くリツの柔らかな頬を抓った。
「痛っ! 何すんだよ、ユキ!」
「リツ、うるさい虫はね――」
 そう言いながら、ユキは愛用のギターを持って立ち上がり、リツの手を引いた。そのまま立ち上がるリツを真っ直ぐに見つめ、ユキは極上の笑みを浮かべる。
「リツの歌で黙らせてやんなさい」
 自信に満ちたユキの笑みに、リツは一瞬見惚れたものの、すぐさま不敵な笑みを口元に刻む。
「……了解っ」
 リツはそう頷きとマイクを持つ。ヨシノ、シュウと順に視線を巡らせると、それぞれから強い信頼を感じさせる視線が返った。
 シュウがカウントを刻む。完璧なタイミングでそれぞれの音とリツの声が重なった。
 一瞬で空気が変わる。悪口を言っていた二人組の声は四人の音にかき消され、代わりに『Weißer schnee』の演奏を待っていた人々の表情が綻んでいくのが見えた。
 そしてその瞬間、ユキたちは先ほどの無礼な輩の存在など綺麗に忘れ去っていたのだった。


 『きっかけ』は、ヨシノだった。
 ユキが作ったデモテープをヨシノがこっそりとコピーし、幾つかのレコード会社へと送りつけていたらしい。
 そして、『Weißer schnee』の音に興味を持ってくれたその会社の内の一つ――現在所属するレコード会社の人物が、ライブを見に来てくれたのが四カ月前の話だった。そして予想外の話を聞かされたのだ。
「メジャーデビューしませんか?」と。
 デモテープを送っていたことを全く知らなかった三人は驚く以前に戸惑った。テープを送った張本人のヨシノでさえ、まさか本当に声がかかるなどとは思ってはいなかったので、狼狽えていたくらいだった。
 結局何度も話し合いを重ねた末、CDデビューの話が決まった。
 ユキはリツの歌さえ作れればいいと思っていたし、リツはユキの歌を歌えればいいと思っていた。ヨシノはこのバンドをずっと続けていきたいと思っていたし、シュウは就職浪人をしていて、今後はどうなるものかと思っていたところだったので方向性が決まったことにひとまず安心をした。
 慣れないスタジオでのレコーディングやプロモーション活動、新しい人間関係に困惑しながらも四人は確実に前に進もうとしていることは確かだった。
 しかし、必ずしもいいことばかりではないのも当然である。
 先ほどの二人のように、やっかみの含んだ中傷などはやはり受けてしまう。
 デビューしたからといっても、まだ四人は新人だ。鳴り物入りでデビューしたわけではないから、仕事だってそれほど多くはない。
 だからプロモーションの意味も含んだこの路上ライブも、ある意味あの皮肉の通りなのだ。
 別に何を言われようと構わない。
 そうユキは思っていた。
 誰が何をどう言っても、自分の歌を最高に歌いあげてくれるリツがいる。
 そして、自分を信頼して支えてくれるシュウとヨシノがいる。
 レコード会社が紹介してくれたプロデューサーも、ユキの望む音楽を理解してくれた。ユキの描く音楽の世界を、更に広げようと親身に話を聞いてアドバイスをくれる。
 だから構わない。
 四人で作り出す音に浸れる瞬間が、何よりも居心地がよく、しかもそれを形にして世に送り出してくれるという人たちがいるのだから。
 だから、自分は最高に幸せ者なのだと、そう心から思う気持ちを音にのせ、ユキはリツの為のギターを奏で続けた。



 次のCDの告知をし、ライブがお開きを迎える頃、『Weißer schnee』を担当するマネージャーの須藤が姿を現した。
 まだ二十代後半の青年だったが、顔は少々童顔でメンバーと並んでいてもそんなに違和感がない。それでも明るく社交的な人柄且つ仕事はしっかりとこなすところから、メンバーたちから兄のように慕われる存在となっていた。
「お疲れさんー。来るの遅くなってごめんねー」
「いいっすよ。須藤さんいてもいなくても一緒だし」
「あ、シュウ君そういうこと言う? せっかく美味しいモツ鍋屋さん連れてってあげようと思ってたのに」
「あー、嘘嘘! 須藤さんいなくてめちゃくちゃ困ったよー!」
「シュウってホント現金だよなー」
 ライブの後の高揚感も手伝って、メンバーの笑い声がいつも以上に高らかに響く。
 須藤が少しだけ耳にした今日のライブの感想を述べ、それにますます全員の表情が、明るく彩られた。
 和気あいあいとした雰囲気で、須藤が予約を入れた店へと向かう為に移動を始める。
 彼らの間には、ずっと幸せそうな笑みが絶えることはなかった。


 その様子を少し離れた場所から面白くなさそうに見つめ、舌打ちを洩らす者がいた。
 ライブ前に絡んできた二人組だ。
 彼らも、ユキたちと同じく路上やライブハウスで活動するミュージシャンだった。そして、ユキたちよりもその活動歴は長い。
 当然、ユキたちのデビューは苦々しく思っていたし、報われない自分たちが腹立たしくもあった。
 アマチュアのミュージシャンたちの中にはユキたちの成功を素直に祝福する者も確かにいるのだが、やはり妬む者たちもいるのだ。
 この思いは、自分たちだけのものではない。
 そう言い訳のように思い込む彼らの頭の中は、既に暗く澱んだ闇に侵食され始めていた。



 遅い夕食を終え、メンバーは須藤が連れてきてくれたモツ鍋屋を気分良く後にした。
 リツはユキに支えられながら、たどたどしい足取りである。
「りっちゃん、大丈夫?」
「うーん、何とか……」
 心配そうに眉をしかめるヨシノに、リツは無理やり笑みを浮かべた。けれどそれは、かなり力ない。
 リツはアルコールに弱い。それこそ、一口飲んだだけでも真っ赤になってしまうほどだ。
 だからいつも飲まないのだが、今日はヨシノの頼んだチューハイを自分の頼んだジュースと間違えて飲んでしまったのだ。お陰で今現在、この様である。
「タクシー拾おうか?」
 須藤が気を利かせてそう提案するが、ユキはそれを申し訳なさそうに断った。
「リツ、車にもすぐ酔うから。近いですし、歩いて送っていきますよ。その間に少しは気分も楽になるでしょう」
「そうか。気をつけてね。何かあったらすぐに電話して」
「はい。ありがとうございます」
「須藤さん、ごめん」
 青褪めた顔で謝罪を洩らすリツの頭を、須藤は「気にするな」と優しく撫でる。
 次の予定を簡単に確認してから、ユキとリツは他の三人と別れた。
 シュウはヨシノを送っていくのだろうし、須藤はまだ仕事が残っているのでまた会社に戻るのだろう。まばらに行き交う車のヘッドライトに照らされる後ろ姿を見送ってから、二人は歩き始めた。
 冷たい木枯らしに、リツは少し身を竦める。ユキはそれに気付いて、寄り添う体をほんの少し近づけた。
「寒い?」
「ダイジョブ。あー、次からもうちょっと気をつけないと……」
「リツって見た目は酒豪そうに見えるのにねー」
「酒豪そうな外見ってどんなんだよ」
 ユキがしみじみと呟くのに、リツは思わず吹き出す。それと同時に頭に響く痛みに、顔を顰めることになってしまった。
 それでも、すぐ隣にある温もりに、すぐさま表情が和らぐ。
「あ、そうだ。ついでに見てく? 出来立てほやほやの新曲の歌詞」
「当然でしょ。でも、さすがにこの時間に歌ったら近所迷惑かな。リツの声は通るからね」
 くすくすと二人で顔を見合わせ、笑い合った。
 また、頭に響く。それでもリツは笑う。
 この幸せな時を、噛みしめて。
 しかし、その至福に満ちたときはすぐに崩れ去った。
「公衆の面前でいちゃついてていいのー?」
「そうそう。ゲーノージンはそういうところも気をつけなくちゃいけないんじゃないですかー?」
 不意に投げかけられた言葉に、二人の足が止まる。
 前方の街灯の下、二つの人影がある。あのライブ前に悪口雑言を放った二人組だった。
 ユキとリツの表情が揃って不快感に歪む。しかし、彼らを相手にするのは得策でないことも二人は承知していた。
「リツ、行こう」
「うん」
 無視を決め込み、足早に二人組の脇を通り抜けようとする。しかし、当然のように片方の男がユキの肩を掴んで引きとめた。
「あれー? 無視とか良くないでしょー?」
「そうそう。どんな時でも営業スマイルしとかないとねえ?」
 明らかに手出しができないとわかっていて、二人組は馬鹿にするような口調を続けていた。
 ユキは鋭く睨みつけると、それでも乱暴にならない程度に男の手を振り払う。意外にも男はそれ以上ユキを捕まえようとはしなかった。しかし、
「これから二人でホテルですかー? それともお部屋でー?」
「よくやるよなぁ。酔った振りして男誘うなんて、男っぽくしてるクセに随分な淫乱だねぇ」
 代わりに寄越されたのは、そんな蔑みの言葉。
 咄嗟にリツは隣のユキに手を伸ばしたが、遅かった。
 ユキは、片方の男の胸倉を掴み上げ、街灯の柱に押し付けていた。
「誰のこと言ってんだよ」
 普段は滅多に出すことのない、低く押し殺した声。
 掴まれている男は一瞬怯んだが、それでも侮蔑の視線も言葉も辞めなかった。
「誰って、決まってんでしょ。『Weißer schnee』ご自慢のボーカリスト様だよ」
「なあ、どうやって会社に取り入ったのー? やっぱりさ、君とベースの女の子で会社のお偉いさんにご奉仕でもしたわけー?」
 もう一人の男も下卑た笑みを浮かべながら、下衆な問い掛けをリツに向ける。そしてまだ足元のおぼつかないリツの腕を取って引き寄せようとした。
「リツに触るな!」
 ユキが掴んでいた男を放るように放し、リツに近づく男を捕まえよう手を伸ばす。が、その前に掴まれていた男がユキの腕を捕え、強く引いた。ユキがバランスを崩す。
 それに合わせて、男の拳がユキの腹に叩き込まれた。ユキの口から、苦しげな呻き声が洩れ、その場に崩れ落ちる。
「ユキ!」
「カッコつけてんじゃねぇよ! テメェらの音楽なんか誰も聴いちゃいねぇのに、デカイ面しやがって!」
 それまで溜まっていた鬱憤を一気に爆発させたように、男は苦しむユキの体を引き上げ、罵倒しながら更に殴りつけた。もう一人の男は、邪魔されないようにとリツを羽交い絞めにしている。
「やめろ、バカ! 放せ! ユキっ!」
 リツは必死で男の腕から逃れようとするが、力では敵わずにただじたばたともがくことしかできなかった。
 ユキも何とか抵抗をしようとはしているのだが、相手の力の方が強いのだろう。ほぼ一方的に暴行を加えられていた。
 そして、悪夢の瞬間は訪れた。

 男の渾身の一撃が、ユキを襲う。そのままユキの体は勢い余って車道へと転がり出てしまった。丁度走り抜けようとしているセダンの、その前へ。
 耳障りな甲高いブレーキ音の後に、鈍く何かがぶつかる音が聞こえた。
「ヤベ!」
「オイ! 行くぞ!」
 我先にと走り出す男二人組のそんな声も、走り去る足音もリツには聞こえていなかった。
「ユ……キ……?」
 ハザードを出して端に寄った車から、壮年の男性が慌てた様子で跳ね飛ばされたユキへと駆け寄る。
 しっかりしろ、と大きな声で呼び掛け、携帯電話で救急車を呼ぼうとしているその様子をしばらく茫然と見つめてから、リツは弾かれたようにユキの側へと駆けつけた。
「ユキ! ユキ!」
「駄目だよ! あんまり揺すっちゃ! すぐ救急車呼ぶから、君も落ち着いて!」
 車の持ち主は冷静にリツを諭すが、リツには到底無理な注文だった。
 何度も名を呼ぶ。応える声はない。
 地面には、真っ赤な水溜りができ始めていた。
 混乱するリツの頭の中に、別れ際の須藤の言葉が過ぎる。
『何かあったらすぐに電話して』
 震える手で携帯を取り出し、短縮ダイヤルで須藤の番号を呼び出す。それだけの行為なのに、かなりの時間を要した。
 短いコール音の後、須藤の声が耳に届く。リツはただ叫んだ。
「須藤さんっ! ユキが……っ! ユキが!」
 どうした、何があったという須藤の問い掛けにもリツは答えられず、懇願するように繰り返すしかできなかった。
「ユキを、ユキを助けて……。ユキ……」

 そして、リツの祈りの声は、『今』もまだ聞き届けられてはいなかった――。