Song for Snow

#1 Sepia Daily Life

 突然、ギターの音色が止まる。
 それにつられるようにベースとドラムも止まり、歌っている最中だったリツも声を途切れさせた。
 どうしたのかと誰かが訊ねる前に、ユキの視線がリツへと真っ直ぐに向けられる。
「リツ、今日調子悪い?」
 訊いているような口調ではあったが、ユキの表情からは確信しているような色が窺えた。
 リツは苦笑で誤魔化そうとしたが、ユキが軽く睨みつけると、それを断念するしかなかった。
「何? リッちゃん風邪?」
「駄目だろ、無理してちゃ」
 ベースのヨシノとドラムのシュウが、揃って心配そうな声を掛けるのに、リツは大丈夫だと首を振る。が、それを見ていたユキに、更にきつく睨まれて首を竦めた。
「大丈夫じゃないでしょ。何年リツと一緒にいると思ってんの? いい加減、その下手な嘘が通用するとか思わないで欲しいんだけど」
「けど、熱はもう――」
「問答無用。今日はもう終わり。家まで送ってくから」
 そう言いながら、ユキはさっさと自分のギターを片付け始めていた。
 こうなってしまったユキは、誰が何と言おうと自分の意見を曲げない。それはメンバー全員の知るところで、今のような状況ならば誰も逆らえるはずがなかった。
 何故なら、ユキだけでなくリツの強情さも相当なものだからだ。ここでユキを止めてしまえば、平気だと主張し続けるリツは倒れるまでやりかねない。
 ヨシノは素早くリツの荷物をまとめると、それをユキの方へと差し出した。ユキは荷物を受け取ると、椅子の背もたれに掛けてあったコートをリツに向かって放る。
 リツはそれを頭から被るようにして受け取った。
「リッちゃん駄目だよ。リーダーの言うことはちゃんと聞かなきゃね」
「そうそう。ユキ母さんは怒らせると後が怖いぞー」
 ヨシノに合わせるようにシュウも続ける。ユキは何食わぬ顔で、自分も上着を着込み、荷物をまとめていた。
「二人してユキの味方かよー」
 誰も自分の味方に回ってくれないことに、恨めしげにリツは文句を零す。
 その額をこつんと小突き、ユキはリツを促した。
「ほら行くよ、リツ」
「お大事にねー」
「ビタミンCと睡眠とれよー」
「あーい」
 ヨシノとシュウに見送られ、リツは半ば引きずられるように貸しスタジオの狭い階段を登る。
 外へ出ると、まだ日が暮れる時間でもないのに、少し薄暗かった。
 見上げれば、ビルの隙間から見える空には濃いグレーの雲が厚くのさばり、太陽の光の多くを遮断していた。
「さむっ」
 吹き抜ける朔風に、リツは思わず身を縮める。ハイネックのニットを着ていても、首筋をスカスカと風が通り抜けていくような感じだった。
 コートの襟を立てて何とかやり過ごそうとするリツの首に、ユキは自分のマフラーを掛けてやる。
「バカリツ。風邪ひいてるならマフラーくらいして来なさい」
「馬鹿じゃねぇよ。風邪ひいてるもん」
「自己管理の出来てないおバカだから風邪ひくの」
 『馬鹿は風邪をひかない』という格言を主張するリツに、ユキは論理的な返答を返した。
 しかし、リツはそれを聞いているのかいないのか、ユキを見て微かに笑っている。
 ユキは呆れて溜め息を洩らすが、リツはただ、ユキがいかにもユキらしい答えを返すことが可笑しかっただけだった。
 そんな風に笑うリツの目の前に、ひらりと白い物が舞い降りる。
「あ、ゆき……」
「何?」
「ユキじゃなくて、雪!」
 ああ、と納得したように、ユキは視線を頭上へと移した。リツも同じく、隣で空を仰ぐ。
 暗い灰色の雲を背景に、幾つもの白いカケラが舞っていた。
 それはまるで、ビルの高層からばらまかれた紙吹雪のよう。
「あ……、ユキ、ユキ! 出来たっ!」
「は?」
「ほらほら! この間ユキが聞かせてくれた新しい曲! 歌詞出来た! ってか、出来そう!」
 興奮してまくし立てるリツに、ユキは唖然とさせられる。そして、しばらくすると実に大きな溜め息へと変化した。
「リツ、真性馬鹿でしょ」
「何がさ?」
 心底呆れきった様子のユキの物言いに、リツは不満も露わに問い返す。
 それに対して、ユキは超特大の溜め息をついてから、一息で返答した。
「風邪! ひいてて練習切り上げたのはどこのどいつ!?」
「ここのこいつ」
 リツは目の前のユキを指差しながら、しれっとした表情で答えた。
 実際、練習を切り上げる指示を出したのはユキなので、リツの言い分は間違っていない。
 間違ってはいないのだが、
「……こんの、世紀末バカっ!」
 ユキの怒りに触れないわけがなかった。ピシッとリツの額にデコピンが炸裂する。
 あまりの痛みに、リツは額を両手で押さえてその場に蹲った。スタジオで小突かれた物とは比べ物にならなかったようだ。
「くぅっ! ユキ酷い! 鬼畜! サド! オニー!」
「何? リツ、一回じゃ足りないの?」
 涙目で抗議するリツに、ユキはにっこりと笑みを浮かべた。けれど、その目はまったくもって笑っていない。
「いえ、結構です」
 これ以上言うと、更なる悲劇が身を襲うだろうことを感じ取り、リツは引き攣りながら笑顔を作って短く答えた。
 心底、リツはユキに逆らえないのだと自覚する。
 一方ユキは、反省の色の薄いリツに、何度目かもわからない嘆息を洩らした。
「音楽バカ」
「ユキに言われたくないぞ、ギターバカの作曲バカ」
「歌バカ、作詞バカ」
『バンドバカ』
 最後には綺麗に二人の声が重なった。それに顔を見合わせ、堪え切れないように笑い出す。
 音楽が好きで、歌うことが好きで、作り出すことが好きで。
 そんな大好きなことが目一杯できる、バンドという存在が、大切で愛おしい。
 二人にとって、互いの馬鹿さ加減は理解しやすく、心地良かった。
 だからこそ、一緒に音楽をやっていけるのだ。
 未だに座り込んでいるリツに、ユキは柔らかな笑みとともに手を差し出した。
「まったく……。うちで書く?」
「おうっ!」
 差し伸べられた手を取って、リツは立ち上がる。そして、その手を繋いだまま、二人は歩き出す。
 触れている指先は、外気に晒されて冷たくなっていた。
「駄目だぞ、ユキ。ギタリストなんだからもっと指大切にしないと」
「だったら、リツももう少し喉を労わってね。たまには休めないと」
「歌ってないと、死んじゃうよー」
「バーカ」
 口の悪さとは裏腹の笑みを含んだ声音に、自然と零れる笑顔。
 いつものやりとりは、どこまでもいつも通りで、そのいつも通りさが嬉しい。

 そんな時間と空間は、いつまでも続くと、そう信じて疑いもしない冬の日だった。