Song for Snow

#2 Transparent Eyes

「ゆき、どこ行きたい?」
 そう訊くと、ゆきは何か言いかけて、すぐにやめる。
 いつも同じように何かを答えかけるのだが、数瞬後に返される答えは、きっと最初に言おうとしたものと違うのだろうと貴久は思っていた。
(ゆきの本当に行きたい場所は、どこなんだろうな)
 そんなことをぼんやりと思いながら、横目でちらりと助手席のゆきを窺う。
 案の定、ゆきは口を開きかけ、すぐに苦笑いでぼやかし、視線を外へと移した。
「天気、いいね」
「夜から雨らしいけどな」
「そうなんだ」
 後方に流れ去る景色を見つめたまま、ゆきは質問の答えとは違う呟きを洩らす。
 ゆきが何を考えて、その言葉を発しているのか、貴久には判断がつきかねた。一緒にいる時間はそれなりに長いはずなのに、いつまで経ってもゆきは掴みどころがない。
「貴久さん」
「何だ?」
「海、行きたい」
「海?」
「ほら、もうすぐ夏だし」
 そう、ふわりと微笑むゆきに、貴久の胸の奥がずきりと痛む。
 ゆきの、この笑い方。
 哀しそうな、切ないような、ここではないどこかを見るような瞳。
 初めて逢ったときから、ゆきはこんな風な笑顔を時々見せた。
 そして、その諦めに囚われたような瞳に、『ゆき』みたいだと思ったのだ。


 約一年半前。
 派手な水音が耳に届いた瞬間、やってしまったと貴久は思った。
 店までの道の途中、アスファルトの舗装が悪く、雨が降ればいつも大きな水たまりを作る場所がある。歩道も狭く、気をつけて通らないと、歩行者に盛大に泥水を被せてしまうことになるのだ。
 それを重々承知はしていたのだが、その時は少し油断をしていた。こんな時間には滅多に人通りがないからと。
 更に言うと、突然かかってきた仕事の電話に気を取られていたことも大きい。
「悪い! また後でかけ直す!」
 早口で電話の相手に告げ、携帯を放り出す。すぐさまハザードを出して、車を道路脇へと寄せた。
「ごめん、大丈夫!?」
 慌てて車を降り、被害者の元に駆け寄る。
 二十代前半だろうと思われる、小柄な女の子だった。突然車から現れて声をかけた貴久に、その少女は何故かひどく驚いたような顔をしていた。
「うわ……、これはヒドイな」
それ以外の言葉が出てこないくらい、無残な状況になっていた。
 少女の着ていた真っ白なはずのコートは、泥と排気ガスの色に染まっている。運の悪いことに、どこかの車が漏らしたオイルまでついていた。クリーニングに出しても、綺麗に落ちるかどうか怪しいところだ。
「大丈夫、です」
 予想外にも、少女は穏やかに微笑んだ。少し小首を傾げ、ふわりと。
 その表情に、貴久の鼓動が大きく跳ねる。
 今にも儚く消えてしまいそうな笑みに、心の中がざわめき立つのがわかった。
「い、いや、大丈夫じゃないと思うよ」
 何とか気を取り直し、貴久は続ける。
 暗くてわかりにくいが、少女の服は汚れている以上に激しく濡れていた。
 冷え込みはこれから余計に厳しくなる時間なのに、濡れた服のままで歩いていては、風邪をひいてしまうことは間違いないだろう。
 それに、こんな夜中に女の子を一人歩きさせるというだけでも十分に危険な気がした。
「乗って。君の家まで送っていくから」
「え、でも……」
「大丈夫、変なことしようとか考えてないから。これでも一応新婚ほやほやだし」
 少女を安心させようと、左手をひらひらと振って見せる。その薬指には、まだ真新しい光を放っているシンプルなデザインのプラチナリング。
 それを確認して信用してくれたのか、少女はこくりと小さく頷いた。
 貴久は安心して一息つくと、後部座席のドアを開け、置いてあった紙袋からタオルを一枚取り出した。これから自分の店に持っていくつもりだったものだ。
「とりあえず、これ使って。洗ってあるから綺麗だし」
「ありがとう、ございます」
 タオルを差し出すと、少女はか細い声で礼を述べ、それを受け取る。
 貴久は助手席のドアを開けて、少女を促しながら、問い掛けた。
「家、どの辺? あ、それと名前……」
「ユキ」
「え?」
 ぽつりと呟いた少女の声に、またも心臓が大きく脈打った。
 少女はそのまま視線を頼りなく彷徨わせ、暗い夜空を見上げている。その視線の先を追って辿り着いたのは、舞い始めたばかりの白い花。
 それに貴久は、少女が名を名乗ったのではなく、降り出した雪のことを言ったのだと思った。
「ああ、やっぱり降ってきたか。ますます早く送っていかないとな。ほら、乗って乗って、えーっと……」
「ゆき」
 もう一度、今度は貴久に向かってそう告げる少女に、貴久は考えを改めた。
「あ、ああ、ごめん。『ゆき』って名前のことだったんだ」
 なんという偶然なんだ、と胸中で思うが、貴久はそれを表情には出さずに謝罪する。
 苦笑混じりの貴久に、ゆきは少しだけ目を細めた。
 それがまた儚くて、名前の通り『ゆき』のようだと思えた。

 寒い寒い二月の、深い夜の出逢いだった――。