禍つ月映え 清明き日影

章之壱 清輝に惑う

弐 揺光 02

 廊下を駆け抜ける足音。あちらこちらで上がる笑い声。
 輝行にとってはごく見慣れた風景だった。けれど、今日は校内に行き交う生徒の誰もが、何となしに浮かれているように思える。
 それもそのはず。明日から待ちに待った夏休みに突入するのだ。
 今日は一学期最後の日。嬉しさと緊張の混じる終業式。勿論、嬉しさは休みが始まるということに対して。そして、緊張は成績表が渡されるということに対して。
 もっとも、輝行にしてみれば、休みが始まることよりも、成績表が返されることよりも、もっと気になっていることがあった。
 それは夏休みに入って間もなく行われる、陸上部の夏合宿だ。そして、それを楽しみにしているのは輝行だけではなかった。
「今年も去年と同じところだよな」
「いいんじゃねぇの? あそこ綺麗だし、湖とかあって泳いだりも出来るしさ」
 雑談飛び交う教室内で、輝行と隼人の頭の中は既に合宿のことでいっぱいだった。学校には勉強より何より部活の為に来ているといっても過言でない二人にとって、合宿は楽しみ以外の何物でもない。明日には、合宿用の買い物に行くつもりでいた。
「今年は女の子も多いし楽しみだよなー」
「やっぱりそっちか」
「え? だって、どうせなら可愛い子が一緒の方が張り合い出るだろ?」
「まぁ、男ばっかりでむさ苦しいよりはいいけどさ」
 相変わらずの女の子好きな隼人の発言に、輝行は呆れた笑いを洩らす。と、丁度その時だった。
 突然流れ始めた音楽に、輝行は慌てて自分の携帯を探った。マナーモードにし忘れていたのだ。
 ディスプレイを見ると、そこにはつい最近メールアドレスを教えてもらったばかりの相手の名前。
「テル、ちゃんと音切っとかないと担任うるさいぞ?」
「ああ、今切った」
 隼人に言われるまでもなく、サイレント設定に切り替え、さっさと携帯をしまう。輝行の様子を見て、隼人は少し不思議そうに首を傾げた。
「……いいのか?」
「何が?」
「メールの中身、見てないだろ?」
 隼人の鋭い指摘を受け、一瞬言葉に詰まるが、輝行はすぐさまそれを否定した。
「したした。短い文だったから、すぐ読めただけ」
「ふぅん? 返事は?」
「後でいいような内容だしな」
「そっか? 別におれのことは気にしなくていいんだぞ?」
 親切なのか、興味本位なのか、隼人が妙に今のメールを気にしているのが気になる。今までこんな風に言われたことは一度もなかったからだ。
「別におまえに気を遣ってるとかそんなんじゃねぇよ。どうしたんだ、一体」
「いやぁ、何か最近さー、先に帰ったり、用事あるとか言って付き合ってくれなかったりとかすること多いだろ?」
「え、別に、そんなこと……」
 口では否定を唱えつつ、輝行は内心冷や冷やしていた。
 もしかしたら、自分が妙なことに巻き込まれていることを隼人に勘付かれてしまったのだろうか。
 どうやって誤魔化そうかと、理由を探し始める。が、なかなか上手い言い訳が見つからなかった。
(正直に話したって、信じてもらえるはずないだろうしな)
 それに話すとなれば、織月のことも話さなければならなくなる。そうなると、色々と面倒くさい。相手が隼人だけに、余計に。
「なあ、テル、正直に言えよ。おまえ、何か隠してるだろ?」
「そ、そんなことねぇって」
「嘘だ。怒ったりしねーからはっきり言えって」
「怒る?」
 真剣な顔つきで訊いてくる隼人の言葉に少し違和感を覚えた。どうやら、隼人が疑っていることは、輝行が知られることを危惧しているような内容でないようだ。
「……彼女、できたんだろ?」
「はぁっ!? 何でそんな話になるんだよ!」
 隼人の大いなる勘違いに、輝行は思わず声を上げた。その大きさに、一瞬教室中の視線が集中する。
「あ、ははは…。何言ってんだよ、隼人くーん」
 気まずい空気を苦笑でぼかして、輝行は少し頭を抱えた。それに隼人は少し残念そうな表情になる。
「何だー? 違うのかー?」
「んな暇あるわけねぇだろうが」
「そうか? 同じ部活なら、毎日顔合わせるし」
「……おい」
「おれ的にはウチの一年ではピカイチだと思うし」
「コラ、隼人」
「何たって、性格的に尽くしてくれそうじゃね?」
「だからっ! 誰のこと言ってんだよっ!」
 訊きつつも、輝行の胸の内には朧げに嫌な予感が湧き上がっていた。すると思った通り、隼人はニンマリとからかうような笑みを浮かべる。
「誰って、各務に決まってんじゃん」
「どこをどうしたら各務が出てくるんだよ」
 呆れたような不満げな表情をしてはいても、実際は輝行の心は穏やかではなかった。
 別に本当に輝行は織月とは何の関係もない。いや、全く関係がないと言ってしまえば、嘘になってしまうが、ただの陸上部の先輩後輩の間柄であることに変わりはない。
 ただ、輝行を狙う魔という存在が介入してくると、その存在が不可欠になる。織月は、今の輝行にとって大事な存在であることも確かだった。
 けれど、隼人が言うような関係を疑われるような素振りは、全く見せていないはず。そう思っていたが、隼人にはそう見えなかったらしい。
「だってテル、最近よく各務のこと見てるじゃん」
「え? オレが?」
「あ、もしかして無意識ですかー? 輝行くん」
 ニヤニヤと笑う隼人に、輝行は思わず顔が熱くなってくる。
 確かに、織月のもう一つの顔を知ってから、気にならないとは言えなかった。けれど、そんな風に隼人に指摘されてしまうほど、彼女を見ていたつもりはなかったのだ。
「べ、別に、見てねぇよ!」
「いや、見てますよ」
「見てねぇって!」
「いいねー、若いって」
「隼人っ!」
 まるで年寄りのような隼人の言い方に、輝行は必死になって否定する。それが余計に怪しさを抱かせるとは、露ほども気付いていない輝行だった。


 太陽が天頂から少し退き始めた頃。
 輝行は一人、曖昧になりつつある記憶を辿りながら、ある場所に向かっていた。目的地は、ただ一度だけ行ったことのある場所。
(……ってかよ、同じ場所に行くなら、どっかで待っててくれてもいいんじゃねぇの?)
 心の中で、つい数時間前にメールを送ってきた人物に悪態をつく。
 そう。陸上部の後輩である、各務織月に。
《先に常磐事務所に行っています。食事を済ませてからでいいので来てください》
 そんな簡潔な文章が、織月らしい。そう思いはしたのだが、すぐにそれは不満にとって代わられた。
 たった一度だけ、しかも頭の中が混乱しまくっている状態でただ後ろについていっただけの道筋を、はっきりと覚えているわけがなかったのだ。
 案の定、道に迷ってしまった輝行は、途方に暮れていた。仕方がないので、織月にメールを送り返すことにする。
 ポケットから携帯を取り出していじり始めた途端――。
「うおっ!?」
 突然鳴り響いた着信音に、思わず間抜けな声が出てしまった。
 少々怪しい自分の行動に、周りに人がいないか確認する。運が良いことに、この周辺は人通りが少ないらしい。ほっとして携帯電話に視線を移すと。
 液晶に映し出されたのは「各務」の二文字。
 とりあえず、通話ボタンを押し、
「どっかでまた見てんのか?」
 輝行はそう、辺りを見回しつつ第一声を発した。
『はい? 何を言ってるんですか?』
 意味のわからない様子の織月が、訝しげに訊き返す。それに尾行されていたわけではないのだと納得し、いや、とだけ返した。
『もしかして、場所わからないですか?』
「もしかしなくてもそうだよ」
『今、どの辺りにいますか?』
「どの辺りって、近くには目印になりそうなもんもないし……」
 織月の問い掛けに、もう一度辺りを見回すが、目立った店や看板などがない。周りを取り囲むほとんどが普通の住宅なのだ。
『困りましたね』
「あんまり困ってなさそうな言い方だな」
 淡々とした口調の織月に、思わず輝行は嫌味を言ってしまう。電話の向こうからは苦笑混じりに否定の声が返った。
『いえ、困ってますよ。……え? あ、はい』
「おい? 各務?」
 突然、織月が話の流れに沿わない返事をする。よく聴くと、背後で誰かが話しているような、遠い声が聞こえた。しばらく、織月の返事が返ってこないので、輝行はその場で立ち尽くす。
『……先輩、少しそこで待ってて頂けますか?』
「待ってろって、場所わかんねぇんだろ?」
『大丈夫ですから。じゃあ』
「え? おい!?」
 ようやく話が戻ってきたと思ったら、織月は言いたいことだけ言って電話を切ってしまった。もちろん、輝行はその場で呆然とするしかない。
「……何か各務、オレの扱いひどくねぇか?」
 ぽつりと呟き、またも思い出すのは、織月の告白。
 初めて魔に襲われた時にも夢だったのかと思ったが、今になってみるとあの日のことの方が、よっぽど夢のようだった。
 手持無沙汰になった輝行は、携帯を片手に時間を潰すことにする。慣れた手つきで無料のソーシャルゲームにログインし、いつもやっているゲームを始めた。仲間と協力して魔物を倒していく、カードゲーム形式のもので、内容はそれほど凝ったものではない。けれど、アイテムをコンプリートしたり、自分のカードを強く育てていくと達成感があり、それなりにハマるものだった。そう、少し前までは。
 画面に現れた魔物を数十秒とかからずに倒しながら、その呆気なさに溜息が零れる。
 輝行の目の前に現れた化け物は、こんな簡単には倒せない。現実はもっと理不尽で不公平だった。
「つまんね」
 一言呟くと、終話ボタンでゲーム画面を消し、携帯をしまった。
 その輝行の目の前を、ひらりひらりと白い蝶が横切る。住宅街には不似合いなその存在は、輝行の周りを馬鹿にするかのようにひらひらくるくると舞っている。
「白い……揚羽蝶……?」
 その蝶の姿は、よく見るとかなり奇妙だった。大きさや形は、どう見ても揚羽蝶なのだが、色は紋白蝶よりも真っ白だ。そんな蝶の種類は聞いたことがない。
「すみません、お待たせしました」
「各務?」
 蝶に気をとられていると、背後から声を掛けられた。勿論、そこにいたのは織月だ。すでに着替えを済ませ、今日も私服姿になっている。
 織月は側まで近寄ると、おもむろに輝行の周りを飛ぶ蝶に手を伸ばした。すると、蝶は重力に従ってはらりと落下する。そのまま織月の手の平に収まった。
「え? それ……」
 織月の手に落ちた蝶は、もはや蝶の形をとっていなかった。
 そこにあるのは、真っ白なレース素材のハンカチが一枚だけ。明らかに女物のそのハンカチは、やはり何度見てもただのハンカチでしかなかった。
「おまえ、そんなことまでできたのか?」
「いえ。これは借り物です」
「借り物?」
「その話もまた後で。とりあえず、人を待たせているので行きましょうか」
「あ、ああ」
 疑問を後回しにされたのは不服だったが、どこかもわからないような場所で話すのもどうかと考え直す。輝行は、素直に織月と並んで歩き出した。
 輝行が迷っていた場所は、思っていたよりもずっと常磐事務所に近かったらしく、数分歩いたところで見覚えのある小奇麗なマンションの姿が見えた。織月の説明によると、輝行は一本曲がる筋を間違えていただけらしい。
 前と同じように人気のないロビーを抜け、階段で二階へと上がる。事務所のドアを織月はノックもせずに開けると、促すように一度だけ輝行を振り返った。
 前に響や累と会った、いかにも事務所らしい部屋を抜け、その右手奥にある木製のドアの前で織月は立ち止まる。軽く拳を作り、コンコンコンと三回ノックをした。
 中からそれに答える声が聞こえると、織月は静かにドアを開く。
「織月です。戻りました」
 その部屋は、応接室なのだろう。
 落ち着いた茶色の革張りの、二人掛けソファーが一脚、一人掛け用が二脚。その間にはガラス製のローテーブルが据えられていた。
 壁には淡い色合いで描かれた風景画が掛けられ、薄いブルーのカーテンが揺れる窓際には、紫色の花が生けられている。
「ご苦労様、織月。それから……、横木君、わざわざご足労だったね」
「……いえ」
 一人掛けのソファーから累が立ち上がり、穏やかな笑みとともに二人を迎え入れる。
 その笑みがやはり嘘くさく感じて、輝行は思わず不快感を表しそうになったが、何とか堪えた。それよりも、気になったことがあったのだ。
 二人掛けソファーの、累が座っていた丁度正面に位置する辺りに、もう一人の人物の姿があった。
 白大島に藍染めの帯をきっちりと締め、こちらの様子を楽しげに見つめている妙齢の女性。淑やかで、お茶やお花が似合いそうな風情だ。
宵子(しょうこ)さん、ありがとうございました」
 織月がその女性――宵子に向かって、先ほどの白揚羽のハンカチを手渡す。宵子ははんなりとした笑みとともに、それを受け取った。
「いえいえ、お役に立てたようで良かったわ。それで……」
 不意に、宵子の視線が輝行へと向けられる。それは輝行にとって、この事務所で出会った人物で初めてと言える好意的なものだった。
「貴方が、噂の『横木輝行』君?」
「え? は、はい」
「そう」
 にっこりと微笑む宵子は、そのまましばらく何も言わずに輝行を見つめている。
 ただ、じっと。
 無言で見つめられる居心地の悪さに、輝行は助けを求めるように織月に目線を送ろうとすると、
「やっだー! 織月ちゃん、ヒットよ、ヒット!」
 突然上がった黄色い声が、輝行には誰のものか咄嗟には判別できなかった。
「は?」
「宵子さん」
「このお仕事請けて良かったわぁー! 目の保養よね、うんうん!」
「宵子さんっ」
 妙にテンション高く浮かれまくっているのは、先ほどまで淑女然とした空気を放っていた筈の宵子だった。立ち上がって織月の手を握り、和服姿にも関わらず飛び跳ねている。
 織月はそれに呆れたように溜め息をつき、累はそれを楽しそうに傍観していた。
「あら、ごめんなさぁい。予想以上でテンションがっつーんと上がっちゃったわ」
「テンション上げるのは結構ですけど、仕事はちゃんとしてくださいね」
「わかってるわよぉ。他ならぬ織月ちゃんのお願いだもの」
 一気に第一印象を覆した宵子に、輝行は呆然とするばかりだった。
 そんな輝行の様子に、織月は宵子の手を振り払いながら、申し訳なさそうに苦笑を浮かべる。
「すみません、先輩。この人、いつもこんな感じなんで、適当に流してくださいね」
「あ、ああ」
「織月ちゃん、ちょっとその言い方冷たぁいー」
 少し拗ねたように抗議する宵子だが、織月はそれを黙殺した。
「じゃあ、改めて紹介しますね。符咒師の草薙(くさなぎ)宵子さんです」
「え? スルーなの? 何もないの?」
 構って欲しそうな宵子に、織月はまったく目もくれない。
 輝行は何か声をかけたほうがいいのかと迷ったが、織月の表情が相手にするなと訴えていたため、宵子の様子を気にしつつも素直に従い、織月の話だけを聞くことにした。
「この人が、この間言ってた符咒師?」
「うっ、二人して……」
「そうです。こんな性格ですが、腕は確かですよ」
「織月ちゃん、昔は宵子さん宵子さんって、懐いてくれてたのに……」
「先ほどの蝶も、ハンカチに咒を書いて、先輩の居所を探ってもらったんです」
「いいもんいいもん。宵子、拗ねちゃうもん」
「でも、草薙さんはオレのこと知らないのに?」
 会話している間にも、宵子は恨みがましくずっとブツブツと呟いている。そして、織月の表情がそれに比例して険しくなっていくのに、輝行は危機感を募らせていった。
「それは……」
「輝行君の封咒だってやっぱりあげないもん。んでもって、沙織ちゃんに、織月ちゃんが累くんところに入り浸ってるってチクっちゃ――」
「宵子さんっ!」
 宵子のしつこい恨み言攻撃に、とうとう織月が怒りの声をあげた。しかし、当の本人は、「やっとこっち向いてくれたぁ」などと無邪気に笑っている。どうやら累とはまた違った意味で厄介な性格をしているようだ。
「人が真面目に話してる時に!」
「だってぇ、そんなお話つまんないでしょう?」
「つまる、つまらないじゃなくて! 先輩はまだ知らないことがたくさんあるんです! それを説明してるのに邪魔ばっかり……!」
「まぁまぁ。そんなに怒ってばかりだと、せっかくの可愛い顔が勿体無いわよ? ねぇ? 輝行君」
 常に淡々としてる織月の剣幕に驚かされていると、何の前触れもなく宵子が輝行に話をふってきた。思わず勢いで、輝行は、
「あ、はい」
 そう頷いて、すぐさま話の前後の流れに気付く。
「え? あ、いや! そうじゃなくて!」
「あら? 織月ちゃんのこと、可愛いと思わないの?」
「いえ、その!」
「宵子さん!」
 宵子の問題発言に、輝行は慌てふためき、織月はますます顔を紅潮させて怒り出す。
 端からその様子をじっと見ていた累は、とうとう堪えきれないようにクックッと喉を鳴らして笑いを洩らした。
「宵子、そのくらいにしておいたらどうかな?」
「ふふっ、そうねぇ。一通り楽しんだことだし」
 累の笑み混じりの制止に、宵子はようやく気が済んだといわんばかりにソファーに座り直す。ローテーブルに置かれたお茶を優雅に口元に運ぶ様は、初見のイメージと全く相違なかった。
 すぐ側で、ガックリと項垂れた織月が、疲れきったように盛大な溜め息を落とす。
 しかし、すぐに気を取り直し、同じく疲れてしまっている輝行に、空いている二人掛けのソファー――つまり、宵子の隣を勧めた。
「少々嫌かもしれませんが、我慢してくださいね」
「織月ちゃん、どういう意味?」
「言葉通りです」
 輝行は一瞬ためらったが、累の隣よりはマシと判断し、少し宵子と距離を置くように腰を下ろす。輝行が座るのを確認してから、織月も累の隣に腰を落ち着けた。
 皆が座るのを見計らったかのように、宵子がソファーの端に置いていたバッグを開ける。いかにも着物に似合いそうな、正絹で作られた小振りなバッグ。そこから取り出されたのは、鮫小紋の袱紗に包まれている何かだった。
「織月ちゃんと同クラスの物、で良かったわね?」
 言いながら、宵子は袱紗ごとテーブルの上にコトリと置いた。音から察すると、重くはないが硬い物が入っているようだ。
「助かるよ、宵子」
「これもしずきちゃんの為ですもの」
 宵子の浮かべた微笑に、微かに愁いが滲む。
 織月がほんの一瞬、息苦しそうに悲痛な表情を見せたのを、輝行は見逃さなかった。
 けれど、それを問うこともできず、そんな間も、ない。
「輝行君、左手を出してくれる?」
「左手、ですか?」
「そうよ」
 請われるまま左手を差し出すと、宵子はその手首を軽く握った。そのまま目を瞑り、小さく何ごとかを呟く。その間に累は袱紗を広げ、中に包まれていた桐の箱を開けた。
 箱の中に入っていたのは、三十センチほどの紐状のもので、一見するとミサンガのような糸か細い布を編み上げたものだった。色はカラフルで、青、紫、赤、黄、緑などが使われている。
 それを累が宵子のほうに差し出すと、宵子は目を閉じたままで受け取り、輝行の手首に巻いた。しっかりときつく結ぶと、宵子は目を開け、手を放す。
「これが封咒、ですか」
「そうよ。夕方や明け方のような微妙な時間なら、この封咒があれば問題ないはずよ。完璧なものはもうちょっと待っててね。ごめんなさい」
「あ、いえ……」
 少し申し訳なさそうに微笑む宵子に、輝行は何と返していいのか、言葉に窮してしまった。
 確かにより完全な効果をもたらしてくれるものの方がありがたい。けれど、無償で力を貸してくれている宵子に、早くしろと急かすことなどできるはずがなかった。
「織月から離れないようにとは言ったが、実際どんな時でもついてあげられるわけじゃないからね。出来る限り、夜に一人にならないことに関しては引き続き気をつけてもらわなければいけないけれど」
 更に累がそう続けて説明するのに、輝行は黙って頷いた。
 累に対しては未だに不快感のような感情は抱くが、それでも助けてもらっていることには変わりはない。
 そんな輝行の心情も読んでいるのか、累はふっと微笑を浮かべ、「それから」と言葉を継ぎ足した。
「これも渡しておくよ」
「……それは……」
「護身用だよ。いざという時の為に、ね」
 累が差し出した物は、どこからどう見ても『短刀』と言われる類のものでしかなく、輝行は思わず眉を顰める。累は構う様子もなく、輝行の真正面にその短刀を置いた。
「そんなもん持ち歩いてたら、オレが警察に捕まると思うんですけど」
「その心配はないよ。持ってみればわかる」
 累の意味深な笑みに訝しみつつ、ローテーブルに置かれた短刀に輝行は手を伸ばす。
 そして、その鞘に触れた瞬間、「あっ」と反射的に小さな驚きの声を洩らした。
「消、えた?」
 つい数瞬前までその場にあったはずの短刀は、忽然と姿を消していた。一体どこに消え失せたのか、全くわからない。
 まるで手品でも見ているような気分だが、明らかにそれに作用を加えたのは自分自身なので、ますます輝行には不思議でならなかった。
「君がそれを必要だと思ったときに、銘を呼べばそれは現れる」
「オレが、必要な時」
「それはそういうものなんだよ。銘は『揺光(ヨウコウ)』」
 笑みを伴いながら続ける累の言葉に、今度は織月が驚きと動揺の混じった視線で振り向く。
「累さん、それは――!」
「大丈夫だよ。『持ち主』には了承を得ている」
「そう、ですか」
 柔らかな笑みで返された答えに、織月はすぐさま感情を収め、いつもの冷静な表情へと戻った。
 二人の様子を疑問に思いながらも、輝行は消えてしまった『揺光』の行方を探すかのように、自分の手の平を見つめる。けれど、幾ら見つめても、消えてしまった物体の行方はわからなかった。
「さて、重要な用件はこれで終わりだ。あとは二十四日から始まる合宿の件だが」
「それは私の方から説明しておきます」
「そうか。では、横木君、ご苦労様だったね」
 累がその場を締めるように寄こした言葉で、輝行は用件が終わったと理解した。立ち上がり、宵子の方に向き直って頭を下げる。
「草薙さん、ありがとうございました」
「あーら、いいのよ。可愛い男の子の為なら、何だってやっちゃうから」
 宵子の返答に苦笑を返し、輝行は織月に視線を向けた。それを受けて、織月も静かに立ち上がる。
「では累さん、家まで先輩を送ってきますので」
「うん。気をつけて」
「はい。先輩、行きましょうか」
 短く促す織月に従って、輝行は織月と共に応接室を後にした。
 後に残されたのは、累と宵子の二人だけ。
「……本当、厄介な子を拾っちゃったわね、織月ちゃん」
 宵子がため息混じりに二人の出て行ったドアを見つめながら呟いた。その物言いは相変わらずのんびりとしているが、表情にはどこか厳しさが漂っている。
「確かに厄介だが」
「厄介だけど?」
 口元を笑みの形に歪めて、累は立ち上がり窓際に近づいた。眼下には、マンションから出てきたばかりの織月と輝行の姿がある。
「彼は『使える』よ」
 何か企むような累の表情に、宵子は何かを言おうとして、突然鳴り響いた電子音に阻まれた。累のポケットに入っている携帯電話の着信音だ。
 累はそのディスプレイに刻まれた名に、いつになく笑みを深くして応える。
「……珍しいね。『姫』の方から連絡をくれるなんて」


 常磐事務所を出て、二人はまっすぐに輝行の家に向かうのではなく、近くにある公園に足を向けた。道すがら話すのでは落ち着かないと輝行が言い出したからだ。
 まだ日が暮れるには早い時間であると言うこともあって、織月も了承し、木陰にあるベンチに腰を下ろした。
「合宿中、やっぱり夜は各務と離れて行動しない方がいいんだよな?」
「そうですね。出来る範囲で、ですけど」
 その答えに、輝行は思わず不便だなと零し、織月のすまなさそうな苦笑を誘う。
 織月が悪いわけではないのに、そんな顔をさせてしまうことに、輝行まで申し訳なさを感じてしまった。
「でも、合宿では集団で行動することがほとんどなんじゃないですか? それに、夜に出歩くことなんてないでしょうし」
「あー、それがな、あるんだよ」
「え? でも、門限だってありますし、夜間外出は禁止ってしおりにも……」
「肝試しだよ」
 輝行の簡潔な言葉に、織月はやっと納得がいったようだった。そういえば合宿のしおりにも何日目かの夜に、『オリエンテーション』と称した項目があったことを思い出したのだ。それが輝行の言う肝試しなのだろう。
「……それは、一人ずつやるんですか?」
「いや、男女ペア」
「あ、じゃあさほど問題ないですね」
 織月が思いの外あっさりと解決づけるのに、輝行は少々呆れてしまった。確かに織月と輝行がペアになれば問題は解決する。だが、事態はそんな簡単にいかなかった。
「言っとくけど、ペアはくじ引きで決めるんだからな。そんなに上手くオレとおまえとかってならないと思うぞ」
 そう忠告しても、織月はそうですか、と困った様子もない。どこからその自信が出てくるのかはわからないが、織月が大丈夫というのなら大丈夫なのだろうと納得するしかなかった。
 しかしすぐに、実際織月とペアになった後に更なる悩みの種が生まれることに気付く。
(絶対、隼人に何か言われる)
 ただでさえ、隼人は輝行と織月の仲を疑っている。それが偶然にでも肝試しでペアになろうものなら、きっとあることないこと話が膨らんでいくに決まっているのだ。
「先輩? どうかしましたか?」
 無意識に頭を抱えていた輝行を、織月が気遣わしげに覗き込む。間近にある整った容貌に、跳ねるように顔を上げた。そんな輝行に、織月は不思議そうに首を傾げる。
「どうしたんですか?」
 いつも通りの、感情の薄い顔。それに対して湧き上がってくるのは、『どうして』という幾つもの疑問。
 織月は変わらない。輝行に告白した後も。それが、理解できない。
 どうして変わらないのか。どうして告白なんてしたのか。どうして、自分なのか。
「各務、おまえさ、何で……」
「織月?」
 輝行が理由を訊こうとした瞬間、絶妙のタイミングで割って入った、男の声。
 二人揃って声の方に振り向くと、公園のすぐ入り口に、響の姿があった。響は輝行に一瞥だけくれるが、その後は一切織月から視線を外さないまま側まで近づいてきた。
「響さん、今から事務所?」
「ああ。織月ももう戻るんだろう?」
「そうですね、先輩を送っていったら……」
 織月がちらりと輝行を窺いながらそう答えるが、響はその間も輝行がまるで存在しないかのように視界に入れていなかった。その嫌悪感丸出しの態度に、輝行は初対面の時の不快感を思い出す。
 何故かこの響という人物は、最初から輝行を嫌っている様子だったのだ。面識もなかったのに嫌われる理由がわからない。が、あえて好かれたいとも思わないので、輝行も響の存在を無視することに決定した。
「じゃあ、また後で」
「はい」
 結局、響は最後まで輝行を無視したまま、去っていった。遠ざかる響の背中を見送ってから、織月は輝行に向き直る。
「それで、何でしたっけ?」
「あ、いや、何でもない」
 タイミングを外してしまった所為で、輝行は結局織月に訊こうとしていたことは訊けなかった。改めて考えてみると、あまりにも質問の内容が不躾な気がして、訊かなくて良かったのだとも思える。
 織月とはこれからも一緒にいる時間は多い。馬鹿な質問をして気まずくなってしまうのは賢い選択ではないだろう。そう結論付け、輝行はベンチから立ち上がった。
「さて、そろそろ帰るわ、オレ」
「え? あの……」
「まだ三時だし大丈夫だろ。あんまり各務の手を煩わせてばっかりでも悪いしな」
「別に煩わしいなんて思ってないですけど」
 心外だとでも言うように、織月が少しだけ眉を顰める。それに輝行は思わず苦笑いした。
「悪ぃ。そうじゃなくて、どうせこれからも嫌ってほど世話になるだろうし、出来る範囲での自衛はするってことだよ」
「確かに、そうして頂けると助かりますが」
「だろ? だから、日が高いうちに帰るのもその一つ。心配しなくても真っ直ぐ帰るし、何かあったらすぐ呼ぶから」
「……わかりました。くれぐれも気をつけて下さいね」
「おう」
 威勢よく返事をし、少々心配そうな表情の織月を残して輝行は公園を出た。
 日陰から日向へと移動すると、焼け付くような午後の日差しが肌と目を灼いていく。そのジリジリとした熱を疎ましく感じながら輝行は一人歩み、誰にも聞こえない問いを呟いた。
「……何で、そんなに平然としてられるんだよ……」
 その小さな問い掛けは蝉時雨に紛れても、胸の内から消えることはなく、澱のように堆積するばかりだった。