禍つ月映え 清明き日影

章之壱 清輝に惑う

弐 揺光 01

 燦々と降り注ぐ太陽光線が、眩しく目を刺す。日に日に強くなっていく陽射しに、否が応でも夏を感じさせられるようになってきていた。そんなアスファルトに逃げ水が揺らぐ午後二時半前。
 輝行は、予定していた通りの時間に、目的の場所に到着した。ポケットの中から紙切れを取り出し、そこに書かれている店名と看板を見比べる。
 喫茶店『四季』。レトロな外観のこの店が、待ち合わせ場所であることは間違いなさそうだった。一息つくと、意を決してドアを押し開ける。涼しげなドアベルの音とともに、わずかにひんやりとした空気が輝行を迎え入れた。蒸すように暑い外気で火照った肌には、効き過ぎていない店内の空気が心地良い。
 音に気づいたマスターらしき男性が、落ち着いた声で挨拶を寄越す。同時に案内のウェイターが近づいてきた。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
「あ、えっと、待ち合わせを……」
 答えながら、きょろきょろと店内を見回す。しかし、見慣れた後輩の姿は、見つけ出せなかった。
「ああ、君が織月ちゃんの」
「え?」
「どうぞ。もう奥に来てるよ」
 輝行が何か答える間もなく、そのウェイターは店の一番奥まった方へと歩き出した。慌てて追いかけると、木製の衝立が立てられ、どこか人目を憚るような場所に、二人がけ用のテーブルがある。その一席には、一瞬モデルかと見紛うような美少女が、文庫本を開いて座っていた。
「織月ちゃん、待ち人のご到着だよ」
 それだけ言い残してウェイターは立ち去ると、織月は読んでいた本から目線を上げた。
「早かったですね。まだ二時になってないですよ」
 細い指先が栞を挟み入れ、本を閉じる。それをテーブルの端に置く所作までが妙に綺麗で、輝行は一体誰と話しているのだろうかと思ってしまった。
「横木先輩?」
「あ、ああ」
 名前を呼ばれ、相手が各務織月本人であることにようやく確信を持つ。曖昧に答えながら、輝行は空いていたもう片方の椅子に腰掛けた。それとほぼ同時、戻ってきたウェイターが、水の入ったグラスとメニューを輝行の前に置く。お決まりになったらお呼びください、と決まり文句を残し、またカウンターの方へと戻っていった。
「あの店員、各務の知り合いか?」
「私のというよりも、私の『知人』の、です。それより、先に注文決めちゃってください。その方がゆっくり話せるでしょう?」
 そう促す織月に素直に従い、輝行はメニューに目を落とした。と見せかけて、チラチラと織月の様子を窺っていた。
 普段はお下げ頭の黒髪は、ヘアカタログのように綺麗に結い上げられ、お洒落にはほど遠いデザインの眼鏡も今はない。身につけているのは、柔らかな印象の白いノースリーブカットソーに黒の七分丈のパンツと、至ってシンプルだがスタイルの良い彼女にはよく似合っていた。
 今の織月の姿を見て、陸上部の地味な後輩である『各務織月』だと気づく者はなかなかいないだろう。それほどに、今の織月は学校での彼女のイメージからかけ離れている。髪や瞳の色どうこうでなく、ただ単純に見た目が違い過ぎた。
「隼人の言うとおり、か」
「え?」
「あ、いや、何でもない」
 思わず口をついて出てしまった言葉を慌てて誤魔化してから、輝行は今度こそメニューに目を向けた。
 今日は土曜日。学校も部活も休みだった。輝行が、夜の学校で蟲の大群に追われ、織月達の監視を受け入れた日から、二日後である。
 蟲の大群から助けられた後、何も詳しい話を聞く暇もなく、織月は立ち去ってしまった。その為輝行は、翌日織月を捕まえて話を聞こうと考えたのだ。
 しかし、以前から親しくしていた仲ならばいざ知らず、ただの先輩後輩の間柄でしかなかった二人だ。織月のクラスは、陸上部の名簿で調べればすぐにわかったのだが、教室まで呼びに行くわけにもいかない。そんなことをすれば、隼人にあらぬ疑いをかけられることは目に見えていた。
 結局、良い案も浮かばぬまま部活の時間を迎え、その部活中にも話すことなど出来ずに悩んでいると、帰り間際、すれ違った織月からこっそりとメモを渡されたのだった。
 そこに記されていたのは、この喫茶店『四季』の名前と住所、そして「午後二時、詳しい説明をします」という走り書きだった。
「で、色々説明してくれるんだよな?」
 アイスコーヒーを注文し、ウェイターが離れていったことを見計らってから、輝行は切り出した。織月は、すでに運ばれてきていたミルクティーを一口含み、軽く息をつく。
「そうですね。話すことが多過ぎて、何からお話しすればいいのか困りますけど」
 言葉ほど困ってはいないような表情の織月を、改めて輝行は見つめた。
 見る限りではごく普通の――容姿的には、充分に普通以上ではあるが――彼女は、実際は全く普通ではない力を有している。それが、今になってもなかなか実感できないでいた。そして、自分自身が非日常的な世界に足を踏み入れつつあることも、どこか他人事のように思えて仕方がなかった。
「まずは、戻士についてお話ししないといけませんね」
「『レイシ』?」
 そういえば、数日前にトカゲに襲われた時にも、そんな言葉を耳にしていた。
「私も、そして常磐事務所で会った三人も、みんな戻士です。戻士とは、本来あるべき形に戻すことのできる能力の持ち主のことを言います」
「……えーっと、悪い。もうちょっとわかりやすく言ってくれ」
 織月の説明があまりにも抽象的過ぎて、まったく意味がわからない。それに織月は面倒臭がるそぶりもなく、そうですね、と少し考え込む様子だ。
「では、私を例にしましょうか。私は、『魔』の戻士です。『魔』と言うのは、この間先輩を襲ったトカゲや蟲のようなもののこと。ヤツらは本来こちらの世界の住人ではなく、仮の身体を得て異世界から侵入してきた存在なのです。それを元の姿――すなわち『(コン)』に戻すのが、私の能力。魔の戻士の力です」
 そこまで言うと、織月はバッグの中から手帳を取り出し、メモページを一枚破いた。そこに『魔…異世界からの侵入者』と書き、更にその横に自身の名前を書き入れる。綺麗な楷書の文字は、きっちりとした性格がそのまま現れているようだった。
「『魂』というのは、この間先輩も目にしましたよね? 光の陣の中に残された、青白い炎のようなものを」
 続けて『魂』と書きながら説明する織月に、輝行はトカゲが消滅した後のことを思い出した。六本の小刀で作られた陣の中の光が、ゆらゆらと揺れる。そして、亨の呪文のような言葉とともに消えていった。
 輝行が頷くと、織月は言葉を繋ぐ。
「魂の状態になった魔を、元の世界に送り返すことができるのが、亨の持つ『門』の戻士の能力です。門の能力は、何かの拍子にできてしまった『日隅(ヒズミ)』と呼ばれる次元の裂け目、つまり魔の進入口を閉じることもできます。その他にも、戻士には様々な能力があり、私の魔を戻す力と同じようなのが、『(ヨウ)』の戻士。『妖』とは、生き物が生み出した感情や想い、いわゆる『(ネン)』と呼ばれるものが変化したものです。よく怪談などで怨念とか呼ばれたりするものですね。一般的に幽霊と呼ばれるものに近いです。妖の戻士は、これを浄化することができます」
 織月は『門』、『日隅』、『妖』、『念』など、出てきた専門用語と説明を次々に書き記し、その度に輝行に向かって見やすいように紙をずらしてくれる。文字になっているお陰で、輝行にも比較的理解がしやすかった。
「じゃあ、この間の化け物たちとはまた違ったタイプの化け物がいるってことか?」
「はい、その通りです。私には妖は浄化できませんし、逆に妖の戻士には魔を戻すこともできません。そして――」
 言葉の途中で、織月は紙を押さえていた左手をすいと上げる。ゆっくりと指し示す先は、輝行の喉元だった。
「横木先輩の首につけられたその紋は、魔が自らの獲物だと見定めた印。魔からも妖からも狙われてしまう目印です」
 ひたと突きつけられた視線と指先に、輝行は知らず息を呑む。ぞくりと、背中を悪寒が駆けあがった。
 そこに、タイミングがいいのか悪いのか、お待たせしましたと声を掛けられる。ウェイターがアイスコーヒーを持ってきたのだ。
 輝行は、詰めていた息をふっと吐き出す。肩の力が、自然と抜けた。
 注文の品と伝票を置いていくと、ウェイターはごゆっくりどうぞと慇懃な言葉を残し、去っていく。それを見届けると、輝行は気を取り直す為にコーヒーを一口飲んだ。すっと喉を通り抜ける冷たさと苦みに、一瞬顔を顰める。否、正確には、とある人物のことを思い出して、苦い表情になったのだ。
「『紋』って……、この間、響とかいう奴に頼むだ何だ言ってたヤツだよな?」
 口に出すと、なおさら苦い思いが広がる。 常磐事務所で会った人物の中で、響の印象が最も悪かった。
 あからさまに嫌悪感も見せる輝行に、織月は苦笑しながら答える。
「そうです。響さんはの『紋』の戻士ですね。先輩のように『付紋』されたものを消す能力を持っています」
「でも、オレのは無理だったんだろう? 大した力じゃないんだな」
「そういうわけではないんです」
 嫌味の籠もった輝行の台詞に、織月はすかさず否定の言葉を返した。響の肩を持つ織月に輝行は内心ムッとする。が、織月の表情が先ほどよりもずっと真剣味を増していること気づき、続く言葉を大人しく待った。
「あの日、横木先輩を襲ったのは、『獣魔』と呼ばれるものです。魔は、その能力に応じてランク付けがされているのですが、獣魔はそれの中間、中位の魔になります」
「じゃあ、やっぱり――」
「ですが、先輩につけられた紋は、獣クラスより上位のものだそうです」
「どういうことだ?」
 織月の勿体ぶるような物言いに、輝行はわずかばかり苛立ちの混じった声で返した。
「獣クラスより上、『王』クラス以上の魔は、自分よりも下位のものを眷族にすることができます。あの獣魔も、上位の魔の眷族だったようです」
「けんぞく?」
「簡単に言えば、部下ですね。主の為に手足となって働く。魔同士でも、階級社会があるようです」
 少し冗談めかして答える織月だったが、輝行は少しも笑えない。これまでの説明を整理していくに従って、徐々に不安が押し寄せてきたのだ。
「なあ各務、訊いていいか?」
「どうぞ」
「その王クラス以上の魔って、あのトカゲより更に強いってことだよな?」
「そうですね」
「じゃあ各務は、王クラス以上の魔と、戦ったことはあるのか?」
「……一度だけ。倒せませんでしたが」
 その言葉を聞くや否や、輝行はガタンと大きな音を立てて席を立った。勢いで揺られたテーブルの上で、アイスコーヒーの氷が冷ややかな音を零す。
「ちょっと待てよ! それじゃあ、オレは四六時あの時以上の危険感じてなきゃいけねぇのか!?」
「落ち着いてください。確かに先輩は狙われてはいますが、王クラス以上と遭遇することは滅多にありませんから」
 輝行の激しい口調に怯むことなく、織月は淡々と説明した。静かに差し出された手に促され、輝行はまだ収まりきらない不安や苛立ちとともに椅子に戻る。
「そもそも魔は、本来こちら側に来ること自体が難しい存在なんです。自然に出来た日隅から出てこられるのは、ごく弱い魔蟲(マチュウ)魔鳥(マチョウ)、そして獣魔の中でも比較的力の弱いものだけ。それ以外は、何らかの形で召喚されなければ来られません」
 細かい仕組みはよくわからないが、そうなっているのだと織月はきっぱりと言い切った。だから、必要以上に怯えなくてもいいのだと。
 しかし、そんなことを言われてもとても安心はできない。できるはずがなかった。輝行自身には、何一つ身を守る術がないのだから。
 そんな思いが表情に表れていたのだろう。織月が不意に挑戦的な笑みを浮かべた。
「大丈夫です。何のために私がいると思っているんですか?」
 普段の織月からは全く想像のできない、自信満々な口調だった。そこには、思わず鼓動が高鳴るほどの、小悪魔的な魅力がある。
 翻弄される自分の心を落ち着かせるように、輝行は新たな質問を投げかけた。
「でも、各務でも対処できないこともあるんだろ?」
「そうですね。しかし、それについても累さんが既に手を打ってくれているようです。その為にも、また常磐事務所まで来て頂かないといけません」
 累と常磐事務所という二つの固有名詞に、輝行は反射的に苦虫を噛み潰したような顔をする。
 響とはまた違った意味で、累は苦手だった。あの掴みどころのなさと、得体のしれない不気味さ。響は笑顔に悪意を乗せていたが、累の笑顔は何も読み取れなくてより一層気味が悪かった。
「そんな顔しないでください。累さんも響さんも、悪い人じゃないんですよ?」
 輝行の気持ちがわからないわけではないのか、織月は控え目に常磐事務所の面々を庇う言葉を口にする。その申し訳なさそうな表情に、輝行は少しだけ笑みを作った。二度も助けてくれた織月に恩こそあれ罪はない。その織月に嫌な思いをさせるのは間違っているだろう。
「悪い。各務からしたら大事な仲間だよな。今度からはもうちょっと気をつけるよ」
「いえ。先輩が腹を立てても仕方のないようなことを累さんたちも言いましたし。だから、仲良くして欲しいとは言いません。でも、信頼はしてください。響さんも累さんも、すごくできる人ですから」
 織月の言葉から感じる誠実さに、今度は自然と笑みが零れる。相変わらず淡々とした口調ではあったが、少しずつ織月の性格がわかってきたような気がした。
「わかった。それで続きは?」
 改めて話の先を促すと、織月の表情から申し訳なさそうな色が消える。代わりに見えるのは、冷静で毅然とした態度だった。
「ここからが、先輩にとっては大きな問題になると思うんですが、魔や妖は基本的に夜になると活動が活発化します。というより、多くの場合が太陽の光の下では活動できないんですね。なので、夜中に一人で出歩くことは極力しないでほしいんです」
「夜中歩くなって、練習で帰りが遅くなることくらい、各務もわかってるだろ」
「わかってますよ。なので、学校から帰宅する場合に関しては、私が何とかするので大丈夫です。それ以外では一人にならないでくださいってことですね」
「え、それって、各務がついてくるってことか?」
「そうですけど、何か問題がありますか?」
 さらりと織月は言ってのけたが、その内容をじっくり考えるとなかなかに恥ずかしい。第一、その状況を誰かに――主に隼人に――見られでもしたら、間違いなく根も葉もない噂を流されてしまうだろう。
「……ああ、誤解させてしまいましたね。失礼しました。ついていくと言っても、一緒に並んで歩くわけじゃないですよ。この間みたいに見えない場所から尾行させて頂きます……って、これも先輩からしたらあまり気持ちのいいものではないでしょうけど」
「あ、いや、それは別に。ただ、誤解されたら困るだろうなって……」
「心配しなくても、先輩の迷惑になるようなことはしませんよ」
 織月の返答を聞いた瞬間に、しまったという思いが輝行の頭の中を駆け抜けていった。
 今の反応から見るに、織月は輝行が自分と一緒にいるところを人に見られたくないのだと思ったのだろう。それはある意味正しいのだが、輝行が迷惑に思うのは、隼人に織月との関係を勝手に捏造され、茶化されることだ。織月自身を嫌がっているわけではない。
 しかし、それを説明して弁解するのも、かえって気まずかった。輝行が織月をふったという事実は変わらないのだから。
 何とか話題を変えなければと輝行は焦る。だが、それが馬鹿馬鹿しくなるほど冷静に、織月はそれでですね、と話を続けた。
「終業式の日、午後から空いていますか?」
「え?」
 あまりにも淡々としている織月に気を取られ、咄嗟に反応が出来なかった。
「練習、ないですよね? それとも、宮崎先輩と何か約束でもありますか?」
「あ、ああ。ないない。何も入ってない」
「では、その日の午後は空けておいてください。また改めて連絡しますので」
 どこまでも落ち着きはらった声とともに、織月は小さな紙を輝行の前に置いた。それには、メモと同じく几帳面な筆跡で、「各務」の二文字と電話番号、そしてメールアドレスが並んでいる。
「私の仕事用の携帯番号とアドレスです。あとで空メでもしておいてください」
「わかった。それで、その終業式の日は何するんだ?」
 差し出された紙を財布の中にしまいながら、質問を口にした。織月はすでに冷めかけているミルクティーで喉を癒してから、また話を続ける。
「先ほど言った通り、累さんが用意してくれている対策を実行するんです。先輩の紋を、『封咒(フウジュ)』を使って封じます」
「封じる? でも、あの響とかいう人は無理だって……」
「それは、紋を消すことが無理だったんです。完全ではないですけど、効力を抑えることならできるんですよ」
「だったら、わざわざ終業式まで待たずに、今すぐにでもやってくれよ」
 思わず不満を漏らしてしまうと、織月はすみませんと小さく頭を下げた。こんな風に謝られるのは何度目だろうか。そして、毎回織月が謝るべきでないことばかりな気がする。今回も、その例外にはならなかったようだった。
「そうしたいのは山々なんですが、封咒を一つ作るのにもかなりの時間がかかるんです。特に、紋の封咒は特殊で、今回用意してもらうのも実は急ぎで作ってもらっている仮のものなんです」
「仮って、効果はちゃんとあるのか?」
「その点は大丈夫ですよ。腕のいい『符咒師(フジュシ)』にお願いしてますので」
 安心してくださいと微かな笑みを浮かべる織月に、輝行も納得するしかない。そして、またも出てきた聞き慣れない言葉について質問しようとしたが、その前に織月が口を開いた。
「ああ、『符咒師』というのは、様々な『(シュ)』を扱う人のことです。『咒』は特殊な文字で、簡単に言えばお札に書かれている文字ですね。『封咒』というのは、その名の通り何かを封じるための『咒』なんです」
 引き続き織月はメモに書きながら、丁寧な説明をする。さほど大きくはないその紙は、いつの間にかかなりの量の説明が書き並べられていた。しかし、織月が適度に行間を開けていることと、箇条書きにしてくれている為、非常に見やすい。
 そのまとめメモを眺めていて、ふと気づく。織月は魔、亨は門、響は紋。それぞれの項目に、名前が書かれているが、累の名前だけがない。常磐事務所で会った三人全てが戻士だと織月は言ったのだから、当然累も戻士であるはずだった。
「そういや各務、累さんって人は何の戻士なんだ?」
「累さんは、『時』の戻士です」
「『時』って、時間のこと、だよな? ってことは、もしかして時間を過去に戻せるとかできるわけか?」
 更に質問を重ねる輝行に、織月が珍しく難しい表情になった。
「簡単に言えばそうですが、厳密に言うと少し違うようです。私も正確な定義付けを知らないので、上手く説明はできないんですが」
「そっかー。でも、時間を戻せるんだったら、色々とやり直せたりして便利なんだろうなー」
 楽観的な考えで羨ましそうに輝行が言うと、織月は少しだけ眉を顰めた。しかし、輝行はそんな織月の様子には気づかない。
「てか、それだったら、時の戻士って万能に近いんじゃねぇの?」
「そんなわけないじゃないですか」
「でも、時間を戻せるんだっ――」
「累さんにも、絶対に戻せないものがあります」
 輝行の言葉を遮るように、織月が口調を少し強めた。そこでようやく輝行は、織月が不快感を感じていることに気づき、口を噤む。
「例えば、生物の『命』」
「……死んじまったものは、戻らないってことか」
「はい。最初にも言いましたが、戻士は本来あるべき形に戻すことしかできません。できないというより、してはならないと教えられました。死者を戻すような、自然の摂理に反することは許されないのです」
 そう説明する織月の表情は、今までに見たどれよりも厳しかった。まるで、親の仇でも見るような目つきで、メモを睨みつけている。
「もし、それに反したら、どうなるんだ?」
 恐る恐るといった態で問うと、織月の眉間に僅かに皺が刻まれた。そのまま、なかなか答えが返ってこない。しばらく待ってみても、織月に答えようという素振りはなかった。
「各務?」
「どうもなりません」
「え? どうもって……」
「そのまま、言葉通りです。ペナルティを受けるようなことは、特にありません」
 どっと身体中を脱力感が襲う。織月の表情や声音から、相当に恐ろしい何かが起こるのではないかと緊張していたからだ。
 しかし、織月の表情は変わらず硬い。
 どうして、と問う前に、織月が口を開いた。
「ペナルティはありませんが、例えば亨が、本来閉じるべき日隅を逆に作り出したらどうなりますか?」
「そんなこと、できるのか?」
「できますよ。理論上では」
 言われたことを想像して、息を呑む。
 日隅から出てこられる魔に、それほど上位のものはいない。けれど、何の力も持たない自分のような人間には、充分な脅威だ。現に最も位が低い魔蟲相手に、何も為す術がなかったのだから。
「わかりますよね? だから戻士を名乗る者は、そのような行為を絶対に行いません。それは、自らの首を絞める行為にしかならないと知っているからです」
 ゆっくりと織月の言葉を飲み込むように頷くと、輝行はアイスコーヒーのグラスに手を伸ばした。
 店内はさほど暑くはないのに、やけに喉が渇く。おそらく、話を聞くことに対する集中と緊張からだろう。すっかり薄くなってしまったコーヒーは、それでも渇きを癒す役目をしっかり果たしてくれた。
 織月も、長々と話し続けて疲れたのか、残っていた紅茶を飲み干し、一息ついている。その表情は先ほどまでと違い、いくぶん和らいでいた。
 細い指先がカップをソーサーに戻す。織月は輝行を見つめ、微かに笑みを浮かべた。
「とりあえず、今日はこれくらいにしておきましょうか。主要な部分はお話できたと思いますし。何かご質問はありますか?」
 言われて輝行は織月の手元のメモを見遣る。整然と並んだ特殊な言葉たちを一通り眺めてから、頭を振った。
「いや、今んところはいいや。ってか、これ以上頭に入れようとしたら、脳ミソがパンクしそうだ」
 大きなため息と一緒にそう零すと、織月はクスリと小さく笑った。
(あ、笑った)
 驚くあまり、動きを止めてまじまじと見つめてしまった。それに気づいた織月が、不思議そうに首を傾げる。
「どうかしましたか?」
「あ、いや……」
 織月の浮かべた笑顔が、自然だった。ただそれだけのことだ。
 けれど、丁寧に説明をする織月には、一度も見えなかった表情でもあった。戻士としての織月は、時折笑みを浮かべはするものの、上辺だけのものにしか見えなかったのだ。いわゆる、営業スマイルしか、輝行は見たことがなかった。
 だから、初めて織月が年相応の少女に見え、そのギャップに戸惑ってしまった。
 それをそのまま口にすることなどできるはずもない。
「あ、その、ソレ、もらってもいいか?」
 誤魔化すように、織月の手元を指差す。織月はどうぞと手書きのメモを差し出し、使用していたペンを手帳と一緒にしまった。
 どこかぎこちない動きでメモを受け取ると、それを小さく畳んでポケットに押し込む。
「じゃあ、出ましょうか」
 当たり前のように伝票を手に取り、先に席を立つ織月を、輝行は慌てて追った。
「各務、支払い」
「気にしないで下さい。お呼びしたのはこちらですし、事務所の経費で落とすよう言われてますから」
 財布を取り出そうとしている輝行を制し、織月はさっさと精算に向かってしまう。その姿は颯爽としていて、数瞬前に垣間見えた少女らしさは微塵もなかった。
 レジには例のウェイターがいて、織月を確認すると人好きのする笑みを浮かべる。
「領収書、事務所宛でいいよね」
「はい。西城さん、今日はありがとうございました」
「いえいえー。ちゃんと協力しないと、あとで怖ーいお姉さんに『投げ込み百本!』とか言われ……っと、こんなこと言ってると、それこそ後が怖いな。じゃあねー、織月ちゃーん」
 妙に軽いノリでウェイターが手を振るのに、織月は会釈で応えて輝行を促した。
 外に出た瞬間、淀んでいた蒸し暑さが、一気に身体を包み込む。途端に身体が重くなったような気がした。
「疲れましたか?」
「あー、いや、まあ、そうかな。テスト勉強より頭使った気がする」
「別に、無理やり全部頭に入れなくてもいいんですよ。当面は、夜に気をつけることだけ守ってもらえれば。それが付紋された場合の最重要事項ですから」
「夜は出歩くな、だよな。それはわかった」
 大丈夫だというように頷いてみせながら、輝行はポケットにしまっていたメモを取り出し、ざっと目で追う。織月の話を思い返しながらメモを見つめていると、微かな引っかかりを覚えた。
 何か、見落としてる気がしてならない。それも、付紋に関することで。
 改めて一から思い出していく。
 輝行の持つ紋は、魔がつけた目印。紋の戻士にも、上位の魔の紋は消せない。だから響も言った。
 ――織月、悪いがこれは俺には無理だよ。
 ――織月と同じく、王クラス以上の紋だ。
(『織月と、同じく』?)
 引っかかりの原因に気づくのと、織月へ振り向くのが同時だった。どうしました? と織月は訝る表情だ。
「各務は、大丈夫なのか?」
「何がですか?」
「各務も、付紋、されてるんだよな?」
 今度は織月が驚く番だった。足を止め、言葉を失くして、ただ立ち尽くす。
 だが、それも束の間だった。すぐにフッと不敵な笑みを浮かべ、
「私は、戻士ですよ? この世に侵入してきた魔を戻すのが仕事です」
 ならば襲ってこられるのはむしろ好都合。笑みを深め、織月はそう嘯いた。
「先輩は、先輩自身の心配だけしていてください」
「各務……」
「ああ、失礼。それも違いますね」
 目の前の少女には、自信に満ちた好戦的な笑み。それはどこか妖艶で、神秘的にも見える。
「貴方は、私が守ります。その紋が、無事に消える日まで」
 吸い込まれそうな黒耀の瞳に、ドクンと大きく鼓動が鳴る。そのまま徐々に心拍数は上がり、呼吸をするのも忘れてしまいそうだった。
 一体、彼女はどれだけの顔を持っているのだろう。
 大人しく地味で目立たない、陸上部の後輩としての顔。
 妖しいほど美しく、自信に充ち溢れた魔の戻士としての顔。
 そして、時折見せる、年相応の少女らしい顔。
 全てがバラバラで、けれどどれもが織月らしいようにも思えるのが不思議だった。
「では、私はこのまま事務所に戻りますね。失礼します」
 丁寧に頭を下げ、織月が踵を返す。その背中に、またな、と短く声をかけ、輝行も自宅に向かって歩き出した。その脳裏に、また一つ、違った織月の顔が思い浮かぶ。
 ――横木先輩のこと、好きです。
 頬を紅潮させ、それでもまっすぐに向けられた視線。気取りのない言葉に乗せられたのは、真摯な想い。
 あの日の織月だけが、どうしても輝行の中の彼女と、上手く重ね合わせられなかった。