禍つ月映え 清明き日影

章之壱 清輝に惑う

壱 少女 02

 二週間前の練習終わりのこと。
 その日、輝行は練習後のグラウンド整備の当番になっていた。グラウンドの整備は男女それぞれ三人ずつという決まりだ。
 しかし、その日はたまたま輝行以外の男子の当番が、早退や急用で出られなくなってしまった。どうしても抜けられない用事があるのだと頭を下げた先輩に、「女子もいますから大丈夫ですよ」と快く送り出したのだった。
 だが、練習後のミーティングを終え、整備の為にグラウンドに戻った輝行は、予想外の展開に情けない声を上げた。
「え? 女子はおまえだけ?」
「はい、加西先輩は委員会の急用で、橋本さんは今日欠席だったので」
 控え目な声量で答えるのは、地味な印象の一年生だった。重たい印象を与える真っ黒なおさげ髪に、お洒落にはほど遠い黒縁眼鏡。肌も白くて、陸上部よりも美術部や書道部の方が似合いそうだと思いながら、輝行はその場でこの事態をどうしようかと考える。
 グラウンド全体をレーキで均すことと、倉庫内の練習用具の整理が当番の仕事だ。男女合わせて五、六人もいればさほど手間のかかる作業ではないが、それが二人となると大きく変わる。どれだけ急いでやったとしても、三十分はかかるだろう。
 しかし、今更誰かを呼びに行ったとしても、すでに帰り支度を始めてしまっている部員たちが手伝ってくれるとは思えなかった。それならば、と輝行は指示を待つ後輩に向き直る。
「えっと……。悪い、名前何だっけ?」
「各務です。各務織月」
「んじゃ各務、レーキだけかけるぞ。倉庫整理は今日ナシ」
 勝手に決めた輝行に、後輩の少女――織月は不安そうな表情になった。決められている仕事をしないと、先輩や顧問から叱られるのではないかと思ったのだろう。
「あの、いいんですか?」
「いいっていいって。女子部のヤツが何か言ってきたらオレが説明してやるし、あとでみどりちゃんにもちゃんと説明しとくから」
 織月が少々不安を残しつつも納得したようなので、輝行は作業を始めようと促した。
 グラウンド整備用のレーキをフィールド内からかけていく。ザリザリと土の上を滑るレーキの音だけがグラウンド内に響いた。
「各務って、専門は何?」
 黙々と作業するのも気まずくて、輝行は当たり障りのない会話を持ちかける。大人しそうな織月と会話が成立するのか、少しばかり心配だったが、それは杞憂に終わった。
「先輩と一緒ですよ」
「ってことは短距離か。てか、よくオレの専門なんて知ってたな」
「先輩は有名ですから」
 織月の言うとおり、輝行自身は中学時代から大きな大会で優勝や入賞をしている。陸上部に籍を置いていて、なおかつ同じスプリンターならば、知っていてもおかしくはないだろう。
 それでも、ほぼ初対面に近い相手に「有名だから」と言われると、少々気恥ずかしかった。
「各務も中学の時からやってたんだよな?」
「はい、一応」
 他愛もない会話が続く。そして、少しずつ綺麗に均された部分が拡がっていく。
 やがて、グラウンド全体が整い、二人揃って一息ついた。
「さて、コレ片付けたら終わりだな」
 役目を果たしたレーキを見ながら言うと、織月が輝行の持つそれにそっと手をかけた。
「私がやっておきます。先輩は先に上がってください」
「おいおい、変な気遣うなって。それに、女の子に二本持てるほど軽くねぇだろ」
「大丈夫ですよ」
「大丈夫でも――」
「あっ」
 ひょいと、輝行は織月の持っていたレーキを反対に取り上げる。ニッと笑い、顔で部室の方を示した。
「各務こそ先上がっていいぞ。山村先輩、待たされるの嫌いだしさ」
 部室の施錠は、それぞれ男女の部長の仕事である。もちろん、輝行や織月が整備を終えて部室で着替え、荷物を持って出ない限り鍵をかけることはできない。今も部長たちは二人が当番を終えて戻ってくるのを待っているはずだった。
「あの、でも」
「気にすんなって」
 女子部の部長である山村はかなりキツイ性格だと輝行は知っている。女傑と名高い女子部長相手に、この大人しそうな後輩が整備終了が遅れたことを上手く説明できるとは思えなかったのだ。だから先に帰してやろうとしたのだが、それでも織月は輝行に後片付けを任せることを渋っているようだった。
「いいから上がれって」
「でも、先輩に押しつけたりしたら、怒られるというか、責められるというか……」
「は?」
「もし先輩達にバレたら、あとあと面倒なんです」
「何が?」
 織月の言おうとしていることが、さっぱりわからない。首を傾げていると、織月は困ったように俯いてしまった。
「その、横木先輩は、女子の先輩達から人気があるんで……」
 小さく躊躇いがちに続けられた言葉に、輝行は言葉を失った。
 つまり織月の言い分は、『人気のある輝行に仕事を押し付けたことが先輩に知られると責められるから困る』ということらしい。
 しかし、自分が人気者だという自覚など輝行には一切なかった。
「……誰の話?」
「だから、横木先輩です」
「はぁー? ないない!」
 織月の言葉を真っ向から否定すると、織月はますます困惑したように表情を曇らせた。ついでに言えば、少々苛立ちも混じっているようにも見える。
「あるんですよ。だから困ってるんです」
「いや、ないって。気のせいだって」
「気のせいじゃないです! 私だって……!」
「え?」
 堪りかねたように声を上げた織月に、輝行は反射的に聞き返してしまっていた。
 我に返ったように、織月が口を噤む。その頬が、あっという間に赤く染まっていった。
 そのまま、お互いの間に沈黙が流れる。時間にして僅かなはずの静けさは、実際の何倍もの長さに感じた。
(まいったな)
 織月の様子から、輝行はこの先の展開を予想して気が重くなる。その予想は的中し、織月の強い想いの宿ったまっすぐな視線が、輝行に向けられた。
「私だって、横木先輩のこと、好きです」
 シンプルな飾り気のない言葉だった。けれど、その分だけ真剣な想いが伝わってくる言葉でもあった。
 その純粋な想いが嬉しくないはずがない。けれど――。
「各務、ゴメン。オレ、まだ各務のこと全然知らないし、彼女作ろうとかも思ってないし……」
 今までにも何度か口にしたことのある台詞だった。こういう状況に置かれる度に、下手な断り文句だと思うのだが、それでもこれ以外の言葉が輝行には思い浮かばない。
「今は、走ることばっか考えてたいし」
「わかってます」
 輝行が全部言い切らないうちに、織月はあっさりとそう告げた。まるで、先ほどまでの他愛もない会話たちと同じように。
 経験上初めての反応に、輝行は大いに戸惑った。これまで断る度に、相手の女の子は泣いたり怒ったり、とにかく自分に感情をぶつけてばかりだったのだ。
「答えが欲しかったわけじゃないんです。言いたかっただけなんです」
「各務……」
「ちゃんと聞いてくださって、ありがとうございました」
 ぺこりと頭を下げると、呆然としている輝行の手から織月は二本のレーキを取り上げる。それを引きずりながら、何事もなかったかのように用具置き場へと向かっていった。
 輝行はただ、その背中を驚きと感心に満ちた視線で見送るばかりだった。

 その後、部活で顔を合わせることがあっても、織月は以前とまったく変わりがなかった。それは、告白という衝撃的な事実などなかったのではと思わせるほどの変わらなさだった。
 だから、この日の出来事を輝行は次第に忘れつつあったのだ。昨日、化け物から助けてくれたのが、織月だとわかるまでは。
 そんな織月の告白シーンを思い返しながら、輝行は部室へ行き、着替えを済ませた。その間も、どこにも持っていきようのない感情が、ぐるぐると頭の中で渦を巻いている。
(告白しといて、『知り合いと言えなくもない』って言い方はやっぱりな……)
 まるで、輝行に告白した事実をなかったことにしたがっているかのようだった。もし本当にそうだったとしても、せめて『部活の先輩』とでも言ってくれれば、ここまで悶々とはしなかっただろう。
 はぁと溜息が零れかけたが、慌てて輝行は飲み込んだ。悩む様子を見せれば、また隼人が騒ぎ出すのではないかと思ったからだ。
 しかし、肝心の隼人は他の部員たちと何やら盛り上がっていて、輝行の様子にはまったく気づいていないようだった。少し聞いた限りでは、まだ恋愛談議が続いているらしい。
 よくやるよなと呆れながらも、本来の男子高校生らしい姿はこちらなのかもしれないと思う気持ちも少なからずある。とはいえ、自分は一つのことしかできない不器用な性格だから、陸上と恋愛の両立はやはり無理だった。
 着替えを終えると、隼人たちの会話のタイミングを見計らって声をかける。並んでグラウンドに出ると、一年生たちが練習に必要な用具を準備する姿が目に入った。その中に織月の姿を見つけて、輝行は無意識に凝視してしまった。
 昨日は誰もが見惚れてしまうほどの美少女に見えた織月の今の姿は、どこまでも地味で、どこまでも控え目で、とても同一人物のようには思えない。
「おー? テルは各務みたいな子がタイプなのか?」
 輝行の視線に気づいた隼人が、ニヤニヤ笑いとともに肩を組んでくる。その腕を鬱陶しそうに振り払いながら、輝行はそんなわけないだろうと冷たく返した。
「えー? でも各務可愛いしいいじゃん」
「……どこが?」
 隼人の不思議そうな声に、失礼だと思いながらも本気でそう問い返してしまった。
 輝行の感覚的に、織月の外見は可愛いとはとても言えない。特別に不細工というわけではないが、可愛いというには花が足りなさ過ぎるように思えた。
「わかんないの?」
「だから、どの辺が?」
「各務、めっちゃ顔立ち整ってるぞ? 眼鏡とあの髪型の所為でわかりづらいけど、ちゃんとした格好させたら絶対に可愛い。てか、美人系かな。すらっとしててモデル体型だし。個人的には、もうちょっと胸がある方が好みなんだけどな」
 つらつらと淀みなく並べ立てる隼人の言葉に唖然としながらも、輝行はもう一度考え直してみた。
 確かに、昨日の織月は、思わず息を呑んで見惚れてしまうほどの美少女に見えた。そして、髪や瞳の色が違っていても、顔立ち自体が変わっているわけではなかったから、輝行も彼女だと気づいたのだ。ということは、やはり隼人の言うことは正しいのだろう。
 ただし、素直にそれを肯定してやる義理は、輝行にはなかった。
「おまえさ」
「ん?」
「後輩の女子の、そんなとこばっか見てんのか?」
「お、帆香(ほのか)様だ。やっぱり別嬪さんだねー」
「人の話を聞けっ」
 輝行の指摘を誤魔化すように、わざとらしく隼人が視線をグラウンドの外へと向ける。そこにいたのは、校内でも有名な女生徒だ。
 隼人につられて視線を向けると、その生徒が軽く手を振っているのが目に入った。それに応えているのは、織月だ。
 『帆香様』と隼人が呼ぶその女生徒は、織月と同じ一年生だった。
 ふわりと巻かれた髪は明るめの茶色。長い睫毛に縁取られた大きな瞳。いかにも日本人といった特徴の織月とは正反対で、帆香は華やかな存在感があり、入学早々から校内で大いに噂になった。今では久遠学院一の美少女との呼び声も高い。
 そんな美少女・帆香と、織月が一緒にいる姿は頻繁に見かけることができた。どうやら織月と帆香は高校に入学する以前からの友人らしい。しかし、二人の外見があまりにも対照的なため、陰では織月を帆香の引き立て役と言う者さえいるのだった。
(昨日の各務なら、誰もそんなこと言わねぇんだろうな)
 未だに夢か現かの判別もつかないまま、輝行はそんなことをぼんやりと考える。その横顔を隼人が意味深な目つきで眺めていたことには、まったく気づいていないようだった。
「あ、そだ。テル、今日の帰り、天竜軒でラーメン食ってかねぇ?」
「お、いいねえ。んじゃ、あとで家にメールしとくわ」
 隼人の提案に、輝行は二つ返事で了承する。天竜軒は陸上部の先輩から教わったラーメン屋で、二人共通のお気に入りだ。学校からはそれほど遠くはないが、帰り道からは少し外れている。値段の割に量が多く、部活のお陰でバイトができない輝行たちにとっては、ありがたい店でもあった。
「おれ、辛味噌チャーシュー大盛りプラス半熟煮卵ー。もうこれ鉄板!」
「ばーか。天竜軒なら旨塩ねぎ多め、麺固めだろ」
「テルは辛いの駄目なだけだろうが」
「あんなのは、せっかくの美味いラーメンを台無しにするだけだ!」
「コラ!」
「つっ」
「いてっ!」
 仲良く盛り上がっていると、背後から何かでパコパコッと頭を殴られた。振り返ると、口元をきりりと引き締めた小柄な女性が、仁王立ちしている。陸上部の顧問であり、先ほどの授業で輝行を注意した篠川(ささがわ)みどりだった。その手には、つい今しがた凶器となっていたと思われる丸められた小冊子が握り締められている。
「みどりちゃん、暴力はんたーい!」
「誰が『みどりちゃん』よ! ちゃんと篠川先生って呼びなさい!」
 教師を教師と思わないような隼人の態度を改めさせようと、みどりが強い口調で叱りつけるが、それもいつものやりとりの一つだった。みどりは年が若いこともあるが、小柄で童顔の為に学院内で最も親しみやすい教師と認識されていた。だから、隼人のように表立ってではなくても『みどりちゃん』と呼んでいる者は多い。
 当のみどり自身は、注意しても誰も素直に言うことを聞いてくれないことに、密かに頭を悩ませているようだった。
「篠川先生、それは?」
 みどりの持つ小冊子の表紙に『合宿』の文字が見えて、興味をそそられた輝行は、隼人とは違って丁寧に問いかけた。多分、今年の夏合宿に関するものなのだろうと見当をつける。
「コレ? 夏合宿のしおりよ」
「やっぱり」
「え? みどりちゃん、見ていい?」
「だから篠川先生! あっ、コラっ!」
 みどりの返事を待つどころか話すら聞いていない隼人は軽々としおりを強奪する。みどりは叱ることをとうとう諦め、深々と嘆息した。
「もう……。それ、あげるわよ。まだ試し刷りで修正前だけどね」
「マジで? みどりちゃんサンキュー!」
 一向に改善されない隼人の態度に、みどりは呆れを通り越して苦笑するしかないようだった。そんな彼女に同情しながら、輝行も合宿小冊子の内容が気になって仕方がない。二人して争うように小冊子を覗き込んだ。
「ほら、もうみんなアップを始めてるわよ。それは後にしてさっさと準備しなさい」
「はいはーい」
「了解でーす」
 二人の気のない返事に、脱力して溜め息を零したみどりだったが、そのまま踵を返しかけて、すぐに足を止めた。
「あ、それと」
「はい?」
「何ですか?」
「天龍軒なら、旨辛塩コチュジャン・ニラ多めが最高でしょ」
 にっこりと笑ってみどりはそう言い残し、その場を去っていく。
 輝行と隼人は顔を見合わせ、
「……おまえよりも上手がいたな」
「うん。さすがコチュジャン多めは俺無理」
 顧問の意外な一面に、声を上げて笑った。

 部活が終わると、約束通り輝行と隼人は天龍軒へと向かった。部活後で空腹も絶頂に達していた為、二人とも大盛りのラーメンと餃子、炒飯などを難なく平らげ、満足して店を出る。そのままみどりからもらったしおりを片手に、合宿や次の大会の話などをしながら五分ほど歩いた頃だった。
「あ、やべ」
 突然、隼人が焦ったような声をあげた。しばらくごそごそと制服のポケットを探った後、困ったように顔を顰める。
「どうしたんだ?」
「部屋の鍵、落としたかも」
「え? おまえ、それじゃ帰れねぇじゃん!」
 隼人は家庭の事情で現在一人暮らしをしているらしい。つまり、帰ってもドアを開けてくれる人はいないのだ。
「まいったなぁ」
「管理人とかに開けてもらえねぇの?」
「管理人様、ただいま温泉旅行中。昨日郵便受けにそのお知らせ入ってた」
「なんて間の悪い管理人だよ」
 不幸に不幸が重なるというべきか、これはどうあっても鍵を探すしか方法がなさそうだった。
 輝行としては自分の家に泊めてもいいのだが、隼人はきっと了承しないだろう。何故なら、今までに何度か家に誘ったことがあったのだが、一度として隼人はそれにのったことはなかったからだ。理由は訊いていないが、笑顔は崩さぬまま頑なに拒む様子からはただならぬものを感じた。もしかすると、一人暮らしをしている原因なども関係あるのかもしれないが、いくら親しいとはいえそこまで踏み込んだことは訊けず、以来誘うこと自体をしなくなってしまっていた。
 とはいえ、今回ばかりは状況が状況なので、最終手段として考えないわけにはいかないだろう。
「とりあえず、天龍軒に戻って訊いてみるか?」
「そうだな。あそこになかったら、あとは部室くらいか。練習前にはあったはずだし」
 二人の意見は簡単に一致し、今来たばかりの道を注意深く見ながら、天龍軒まで戻ることになった。
 日が暮れているとはいえ、街灯も多く辺りには探し物をするに充分な光がある。これならば案外すぐに見つかるのではと思ったのだが、どうやらその考えは甘かったらしい。途中の道では見つからず、残念ながら天龍軒でも鍵など拾っていないと言われてしまった。
 そのまま、引き続き道に注意を払いながら、学校へと戻る道を歩く。探し物をしながら引き返したため、学校に辿り着いた頃には午後八時を回っていた。
 それは丁度、昨日輝行が化け物に襲われたのと同じくらいの時刻。広々とした学校の敷地内にはすでに人気がなく、二人の足音が響くほどの静けさに満たされていた。
 重く閉ざされた門を乗り越え、グラウンド脇に並んでいる部室へと向かう。その途中で、輝行はふと気付いた。
「なあ、部室の鍵、閉まってんじゃねぇ?」
 部室の鍵は、顧問と部長がそれぞれ管理している。部活後に部長が施錠し、翌日の朝練前に顧問が開けるのだ。こんな時間まで部長が残っているはずもなく、間違いなく今は部室に入れないだろう。
「あ、そっか。職員室、誰か残ってねぇかな?」
「オレ見てくるわ。隼人は一応部室の周り探しとけよ」
「わかった。サンキュ」
 部室へと向かいかけていた足を、今度は校舎へと向けて輝行は歩き出した。
 途中窺った駐車場には職員の車が数台停まっている。誰かが残っているのは確かだった。
「さすがに気味悪ぃな」
 薄暗い校舎内に足を踏み入れた瞬間、輝行はわざと声に出して呟いた。
 夜の学校というものには、独特の怪しい雰囲気がある。だからこそ、七不思議などというものが生まれたり、多くの怪談が語り継がれているのだ。自分が特別に恐がりだというわけでもないのだが、それでもぼんやりと非常灯の明かりしか射さない廊下は、不気味以外の何ものでもなかった。
 上履きを履くのが面倒で、輝行はスニーカーを脱ぐと靴下のまま昇降口から上がる。そこから廊下を左に曲がれば、すぐに職員室だ。 
 そう、職員室があるはず、だった。
「え?」
 目の前には、真っ直ぐに続く暗いばかりの廊下。その両脇には、職員室どころか他にも並んでいるはずの校長室や宿直室もなかった。
 驚いて振り返ると、そこにも廊下が長く伸びているだけで、ついさきほど入ってきたばかりの昇降口すら綺麗に消え失せている。前を見ても、後ろを見ても、どこまでも伸びる無限の廊下が続くだけ。
「な、んなんだよ? これじゃ、昨日と……っ!」
 同じだと言う前に、数メートル離れた先の空間がゆらりと陽炎のように揺らいだ。その中心に、ぱっくりと切れ目が入り、ゾワリと何かが這い出してくる。
 目を凝らしてみると、それは一つ一つが十センチほどの甲虫のようだった。後から後から続いて這い出てくる様は、さながら滝のようだ。虫の群れは、真っ直ぐに輝行めがけて行進してきていた。
 昨日のトカゲも気味悪かったが、虫の大群というものは生理的に嫌悪感を覚える。考える間もなく、輝行は延々と続く廊下を駆け出していた。
 ゾロゾロと数を増やしながら、虫達は輝行を追ってくる。そのスピードは昨日のトカゲとは違い、さほど速いものではなかった。しかし、上履きを履いていない状態では、思った以上に足が滑る。
 じわりじわりと距離を詰める虫の群れ。そして、長距離の得意な隼人ならともかく、輝行はスプリンターだ。持久力がないわけではないが、あまり長くもたないことは目に見えていた。
 目の前には、真っ直ぐな廊下が何処までも果てなく続いている。そして、
「……各務!?」
 いつの間にか、暗い廊下の前方に、銀の髪を背に流した紫暗の瞳の少女が佇んでいた。
 その顔には、呆れた混じりの苦笑が浮かんでいる。
「だから言ったじゃないですか。先輩は狙われてるって」
「わかってんなら助けろ!」
「あれ? 昨日先輩、言いましたよね? 『誰がテメェらに守ってもらうか! 自分の身は自分で守る!』って」
 意地悪く笑う後輩に、輝行は絶句した。
 確かにそう言ったのは事実だ。事実だが、詳しい説明も何もないままで狙われているなどと言われても、信じられるわけがなかった。まさか、本当にこんな風に襲われるなどとは思ってもみなかったのだ。一般人の自分には、得体の知れない存在相手に身を守る術など、当然あるはずがない。
 困惑する輝行に、織月はふっと柔らかく微笑んだ。
「条件があります」
「条件?」
「先輩が、私たちの監視を大人しく受けること」
「監視を、受ける……」
 輝行の頭に、先日の累の言葉が蘇った。
『織月から離れないように』
 つまり、これからは織月とともに行動をしなければならない状態になるということだ。
「心配しなくても、四六時中べったりはりつくわけじゃないですよ」
 輝行が考えていることを読みとったかのように、織月が付け足す。
 輝行はちらりと背後を振り返った。虫の群れは徐々に近付き、既に五メートルほどの位置に迫っている。
 選択肢は、なかった。
「ああ、もう! わかったよ! 勝手にしやがれ!」
「了解しました」
 言うが早いか、織月は昨日と同じ六つの刃を廊下の床に投げ放った。一直線に並んだそれらは薄い光の幕を生み出し、虫の群れを堰き止める。
「ナグカゼ、ヒサシ」
 一言呟き、織月は白銀に輝く三日月形の刃を光の幕に、虫達に向かって放った。光の幕に刃が達した瞬間、目が眩むほどの強烈な閃光が辺りを包む。輝行は反射的に目を覆い、身を竦めた。
「終わりましたよ」
 淡々とした声に、輝行は恐る恐る目を開く。
 薄暗い、非常灯だけが灯る廊下。すぐ横には宿直室の扉が見え、同じ並びに校長室と職員室も見える。職員室には誰か残っているのだろう。少し開いたドアの隙間から、蛍光灯が細く白い筋を作っていた。
 目の前にあった廊下だけの世界は消え去り、常日頃から目にしている光景が今はある。
「どう、なってんだ?」
「詳しい説明は、また後日に。宮崎先輩、待ってるんじゃないですか?」
「あ、そうだ!」
 職員室に部室の鍵を借りに来たこと思い出し、慌てて輝行は職員室に向かう。しかし、すぐにあることに気付いて織月に振り返った。
「おまえ、尾けてたのか?」
 織月の現れたタイミングが、あまりにも良過ぎる。当たり前のように襲われている現場に出くわし、隼人と一緒にいたことまで知っているからには、それ以外に考えられなかった。
 またはぐらかされるかもしれないと思いながらも問うと、織月は意外にも申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「すみません。付紋された状態の先輩を放っておくわけにはいかなかったので」
 行儀よく頭を下げて謝罪をする織月に、輝行の方こそ謝りたいような気分になった。
 昨日に引き続き、織月は自分の危機を救ってくれた。暴言を吐いて、守りの手を撥ね退けた自分を。
「いいよ、別に。結局助けてもらったんだし。それに、これからも世話にならなきゃならないみたいだし」
 自分の子供じみた態度にどうしてもきまり悪さを感じ、けれど素直に礼を言うのも気恥ずかしさを覚え、輝行は視線を逸らして素っ気なく告げることしかできなかった。
 織月はそれに対し、何故か自嘲気味に微笑む。
「世話になるとか思わないで下さい。別に先輩の為ではないですから」
「え?」
「じゃあ」
 疑問を投げかける輝行に答えもせず、織月は颯爽と身を翻して昇降口とは逆方向に歩き出した。
「ちょっ、待っ――!」
「テルー! 何やってんだよー!」
 織月を追おうと一歩踏み出した瞬間、後方からの呼び声に輝行は振り向く。
「隼人?」
 職員室のドアのすぐ側、廊下に差し込む光の中に、親友の姿があった。遅れて中からみどりが出てくる。すぐに廊下の電気が灯り、二人揃って輝行の元に駆け寄ってきた。
「横木君、何処に行ってたの? 心配したじゃない!」
「え?」
「『え?』じゃねえだろ! いつまで経っても戻ってこないから心配して見にきたら、みどりちゃんも来てないって言うしー!」
 隼人の言葉に違和感を覚え、携帯を取り出し時間を確認する。すると隼人と別れてから、既に二十分ほど経過していることがわかった。
「もう、こんな時間?」
「おいー! 何ボケてんだよー! こっちは本気で心配してたってのにー!」
「悪ぃ」
 事情を説明して釈明したいのはやまやまだったが、本当のことを話したとしても信じてはもらえないだろう。ここは謝り倒して、誤魔化すしかなかった。
「あー、もういいよ……。テルの天然は今に始まったことじゃないし」
「オレは天然じゃないぞ?」
「天然のヤツに限ってそう言うんだよ」
「だーかーらー!」
「はいはい、そこまで!」
 輝行と隼人がキリのない言い争いを始めようとしていることを素早く察知したみどりが止めに入る。
「とりあえず、横木君も無事だったんだしよしとしましょう。もう遅いし、二人とも送っていくわ」
「さっすが、みどりちゃん! やっさしー!」
「ありがとうございます、篠川先生」
 精神的にも肉体的にもどっと疲れが押し寄せている輝行にとって、みどりの提案は心底有り難いものだった。
 が、みどりはにっこりと悪意のない笑顔を浮かべながら、
「天龍軒の旨辛塩コチュジャン・ニラ多めでいいわよ」
 そう続ける。途端に隼人の表情が一変した。
「げぇー! 生徒にたかるのかよ、悪徳教師!」
「誰が悪徳教師よ! ラーメン一杯くらい安いもんでしょ」
 隼人とみどりの日常的なやりとりを聞きながら、輝行は密かに安堵の息を洩らした。
 確かに今、自分は現実の世界にいるのだと、実感できる。昨日今日と立て続けに遭遇した非現実的な空間を、体験を、忘れることができる。
 けれど。
 ――条件があります。
 紫暗の瞳が、脳裏をかすめる。
 ――先輩が、私たちの監視を大人しく受けること。
 あれが夢ではないのだと、実感したのも事実だった。
 これから先に一抹の不安を抱きつつ、それでも輝行は、目の前の現実の象徴たちにそっと笑みを向けた。


「邪魔が、入りましたね」
 昏く暗い闇の中。闇に溶け込みそうなほどにささやかな声が響く。
「それもまた一興」
 短く答える声もまた、穏やかに低い。しかし、微かな笑みが混じっていた。
「彼は、本当に『ラゴウ』なのでしょうか?」
「さあ。けれど、あちらも動いているようだから、可能性は高い。そうだろう?」
 問いかけるような声に、ゆるりと頷くような気配が伝わった。
「もう一人、面白い素材も……」
 気配の先から、また別の声が返る。主人らしき人物よりも力強く、更に低い声だった。そして、何やら含みがある。
「各務織月、か。因果なものだな」
「あの娘ならば、珠暉(シュキ)様も気に入られることでしょう」
 興味深そうな主の言葉。それに返される声には、下卑た愉悦が滲んでいた。
 微かに従者の口元が不快感を示すが、この暗闇の中では相手の目に留まってはいなかっただろう。軽く咳払いをして、主に指示を仰ぐ。
「次は、如何様になさいますか?」
「そうだな……」
 考え込むような素振りの主だったが、声音からは既にいくつかの策が用意されていることが窺えた。従者は静かに次の言葉を待つ。
「いくつか、二人に準備をしてもらおうか」
「御意」
「若様の仰せのままに」
 恭しく二人から返る言葉に、主は満足げな笑みを口元に刻んだ。

 静かに、緩やかに、けれど確実に、闇は動き始めていた。