禍つ月映え 清明き日影

章之壱 清輝に惑う

壱 少女 01

 じっとりと湿り気を帯びた熱気が、身体中にまとわりつく。夜空に白く浮かぶ円い月を包み込む薄雲が、まるでそれを具現化しているようだった。振り払うように足を速めても、涼が得られるどころか、余計に暑さを助長するだけ。
 早く家に帰りつきたい。横木輝行(よこぎてるゆき)は切実にそう思っていた。
 時節は、いよいよ夏が本格化しようとしている七月。時刻はもうすぐ午後八時になろうという頃だ。
 昼間はうだるように暑く、それに耳障りな蝉の鳴き声などもあいまって、とても授業など聞いてはいられなかった。夕刻を過ぎても暑さが緩む気配はなく、陽の完全に落ち切ったこの時間でさえ、まだ余熱を多分に残している。
 ここ数日、天候が優れなかった所為で湿度も高く、それに比例して不快指数も上昇する一方だった。風が生温く湿気を含み、部活を終えて汗をかいた身体に、より一層の不快感を付け加えていた。
 陸上部のキツい練習で疲れ切った身体を叱咤しながら、輝行は黙々と自宅へ向かって足を動かす。
 とにもかくにも先ず風呂に入り、この気持ちの悪さを払拭したい。そして料理上手の母親が作った夕食を腹いっぱい食べ、その後は好きな音楽でも聴きながら、ベッドに寝転がって漫画でも読もう。そんなことを考えながら、急ぐ足を更に速めたが、すぐに少しばかり後戻りをした。
 目線の先には、街灯の光も届かない細い裏路地。当然、人気も全くない。
 その路地の先は、長く空き地になっていて、そこをつっきると自宅のある団地の裏庭に出ることができるのだ。いわゆる『近道』である。
 その空地は私有地なので、入っていいわけはない。だが、今の輝行の理性には、風呂と食事への欲求に打ち勝てるだけの力はなかった。
 こんな時間ならば、誰かに見つかることもないだろう。そう軽く考えて、暗い路地へと足を向ける。
 それが、輝行の今後の人生を大きく変える選択になるとは、その時は微塵も思っていなかった。

 細長いその道は、もともと私道のようだった。街灯などはなく、両脇の家々も塀に囲まれているため、予想以上に圧迫感がある。更に、つい先ほどまではささやかながら朧げな光を零していた十六夜月も、今は完全に厚い雲の陰に姿を隠してしまっていた。
 周囲の明かりは皆無に等しい。それでも暗闇に充分目が慣れていた輝行は、しっかりとした足取りで先を急いでいた。しんとした闇の中、自分の足音とカバンの中身が揺られる音だけが、規則的に響く。
 だが、次第にその静寂が奇妙に思え、輝行は歩みながらも辺りを見回した。
 この辺りは住宅街で、周りもほとんどが民家のはず。すぐ横に続いている塀の向こう側にも、誰かが生活しているはずなのだ。
 そのはずなのに――静かすぎる。話し声が聞こえない。テレビの音も聞こえない。風呂の音や、台所の音も。
 そんなことを思い、不安を感じたその瞬間。
 ――ひた。
 奇妙な音が、耳に届いた。足音、と言えなくもない。
 ――ひた、ひた……。
 否。紛れもなく、足音だった。そしてそれは「靴音」ではない。プールサイドを裸足で歩くような、どこか濡れた音だった。
 背中にそれまでとは違う冷たい汗が流れる。暑くて堪らなかったはずなのに、悪寒が身体中を駆け抜けていた。
 背後から近づいてきているだろうナニカに、振り返るなと本能が危険信号を送っている。
 振り返ってはいけない。同時に、焦ってもいけない。できる限り自分を落ち着かせるように言い聞かせながらも、輝行は少しずつ足を速めた。すると足音も、合わせるように歩調を上げる。むしろ、追いつかんばかりに、一気に速まったように感じた。
(ヤバいっ!)
 追いつかれたらどうなるかなどわからない。けれど、ろくでもない結果しか輝行の頭には浮かばなかった。
 背中越しに伝わってくる言い様のない不気味な気配に、押し出されるように走り出す。そして、恐怖に堪え切れなくなった輝行は、背後を一瞬確認した。確認、してしまったのだ。
(な、んだよ、アレ……)
 我が目を疑った輝行は、再度背後に視線を向け、今自分が置かれている状況を激しく否定したくなった。
 二足歩行のトカゲ、とでも言えばいいのだろうか。しかし、身長は輝行よりもずっと高く、ゆうに二メートルを超えているだろう。黒光りする鱗に覆われた皮膚、腕や肩は逞しく盛り上がり、手には鉈のような凶器を持っている。それが、輝行と同様のスピードで追ってきていた。
(ちょっと待てよ! こんなの夢だろ!)
 現実ではありえないこんな事態も、夢ならばおかしくはない。よくやるゲームにも、これに似たモンスターなら出てくる。
(夢ならさっさと覚めろよ!)
 誰に向けられたのかもわからない罵倒を頭の中で繰り返しながら、ようやく路地を抜け、空地へと辿り着く。家まではあとわずかの距離。このまま逃げ切れれば、と思った直後――背後で地を蹴るような音。暗い影が真上を過ぎったかと思うと、トカゲの化け物が輝行の行く手を塞いでいた。慌てて方向転換し、出てきたばかりの路地へと戻ろうとする。が、
「え?」
 目の前にあるはずの路地が、消えていた。確かに、ほんの数秒前に通ったはずなのに。
 振り返ると、巨大トカゲがじりじりと距離を詰めている。焦って周囲を見回すも、どこにも出口はない。四方がぐるりと壁に覆われてしまっていた。
「う、ぁ……」
 声が震える。悲鳴にも言葉にもならない。
 一歩、また一歩と輝行が退くと、一歩、また一歩と異形も近づく。やがて輝行の背中が壁につき、トカゲはすぐ手の届く位置で立ち止まった。ぬっと鋭い爪を備えた左手が、輝行の喉元へと伸びる。逃れようと振り払っても、頑強な手はびくともせず、容易に輝行の首を捕まえた。
「うぐっ」
 呻き声をあげる輝行に、トカゲは観察するようにグッと顔を近づける。
《コレハ、ナカナカノ拾い物ダ》
 生臭い息と軋んだ声が、輝行の顔吹きつけられる。
 言葉を喋れることは驚愕だったが、息苦しさがそれを上回っていた輝行は、必死にトカゲの手を放させようともがいた。けれど、圧迫された喉から、酸素を求めるヒューヒューと頼りない音が洩れるばかり。トカゲの手は一向に緩まなかった。
《『あの方』ヘノ良い土産ガデキタゾ》
 満足そうな化け物の声を聞きながら、徐々に意識が薄れていく。なおも呟くよう声がするように思えたが、白み始めた頭では何も認識できなかった。
(オレ、死ぬのかな……)
 遠くなる意識の片隅で考えたのは、そんなこと。そして、その後はどうでもいいようなことばかりが、脈絡もなく思い浮かぶ。
(隼人に借りてた漫画、返してねぇや。そういや、明日整備当番だけど、誰か――)
 そのまま気を失いかけた瞬間、気味の悪い呻き声が輝行の聴覚を刺激した。それとほぼ同時、乱暴に地面に投げ出された痛みで、完全に意識を取り戻す。喘ぐように空気を取り込みながら、何が起こったのかと顔を上げた。
 目の前にいたトカゲは、苦悶の表情を浮かべながら、右手で左腕を庇うように抱いている。そして、本来あるはずの肘から先がなかった。
 いや、あることにはある。輝行の倒れている場所から少し離れた地面の上に。
 何が起きたのか状況が飲み込めないでいると、
「こんなに月が明るいのに、出てくるなんて不用心」
 嘲りと憐みを含んだ声が、耳に届いた。
 弾かれたように化け物が声の方向へと振り返る。輝行もごく自然にそちらへと視線を向けていた。
「……お、んな?」
 少し離れたブロック塀の上、不敵な笑みを浮かべた少女が一人佇んでいた。その容貌を明らかにするように、雲の切れ間から皓々と輝く月が現れる。
 月光が曝け出したのは、輝くような銀髪。妖しく笑みを形作る唇は紅く、挑戦的で意志の強そうな瞳は、魔性を帯びた紫暗だ。
 僅かな月明かりの中でもはっきりとわかる、人とは思えないほどの美貌に、今の状況も忘れて見惚れてしまった。
《キ、サマッ!》
「遅いよ」
 怒りに任せて武器を振るうトカゲをからかうように、少女は軽やかに攻撃をかわす。そのまま跳躍して、輝行を背に庇うように立ちはだかった。
「少しの間、大人しくしててくださいね」
「え?」
 短く告げられた言葉が、自分に向けられているのだと理解した時には、少女は既に駆け出していた。その細く白い手には、少女の髪と同じように輝く銀色の刃がある。
「ちゃんと、元の姿に返してあげる」
 冷たく簡潔に、少女は告げた。
《クッ……コンナ小娘風情ニ!》
「小娘だからって、『戻士(レイシ)』を見縊る時点でそっちの負け」
 たじろぐ化け物に、少女は冷淡かつ妖艶な笑みを向ける。体勢を立て直そうとするトカゲだったが、声すら出せない様子で、不自然に固まった。その足元には、いつの間にか放たれた小さな刃が、取り囲むように六つ、等間隔で打ち立てられていた。刃は微かに発光し、それぞれの点と点を結んだ図形が地面に浮かび上がる。
《ヤ、メ……》
「悪いけど、そのお願いを聞いてあげる義理はないの」
 最期の悪足掻きのような懇願を断ち切って、少女は優雅に右手を舞わせた。白銀の煌きが、空を裂き、化け物の身体を貫く。刃はそのまま弧を描いて、少女の手に戻ってきた。
 それが合図であったかのように、化け物の身体は乾いた砂のように崩れ去り、サラサラと風に流されてゆく。断末魔の声が上がる暇すらなかった。後には、白銀の光を帯びた陣の中央に、青白い朧な光の塊が残っているだけ。
 一部始終を、輝行は呆然と眺めていた。まるで映画やドラマでも見るように、非現実的な感覚で。ほんの数分前まで、自分が当事者であったにも関わらず。
 ふわりと優しい風が輝行の頬を撫でる。同じ風が少女の銀髪も揺らしていく。その姿はひどく幻想的で、月の女神のようだと非常に自分らしくない比喩が頭に浮かんだ。
 そんな輝行を気にかける様子もなく、少女は唐突にくるりと振り向いた。つられて輝行も同じ方に目を向ける。目線の先は、少女が最初現れた辺りだ。
(とおる)、いつまで寛いでるつもり?」
「あー? 終わったら呼んでって言ったでしょー?」
 いつからそこにいたのか、くわえ煙草の青年が何ともだるそうな様子でブロック塀にもたれかかっていた。軽く塀を蹴った勢いでその場を離れると、両手をポケットに突っこんだままで少女の方へと近寄ってくる。
「いつものことだけど、やる気なさ過ぎ」
織月(しづき)さんはいつもやる気あり過ぎですねー」
「馬鹿にしてるでしょ」
「シテナイシテナイ」
「……とにかく、さっさと終わらせてくれる?」
「ほいさー」
 緊張感の全くない様子で、亨と呼ばれた青年は、織月の側で今なお淡い光を零している六本の刃の陣へと向き直った。
 自分の存在を完全に無視された形の輝行だったが、かける言葉も見つからず、ただただ二人のやりとりを眺めるばかり。
 けれど、何かが妙にひっかかる。その『何か』がなかなか掴めず、もどかしかった。
「ソハジョウ、コハケン。カイセシモンニ、キセルコン――」
 流れるように亨が紡ぎ出す言葉は、聞いたことがないものだった。けれど、すぐにそれが特殊な呪文のようなものなのだとわかった。
 光の陣の六つの辺が徐々に狭まっていき、中央の陽炎のような光の塊が飲み込まれてゆく。やがて光は漆黒へと塗り変わり、何事もなかったかのように夜闇に溶け込んでいった。
「はい、オシマイー」
「まったく。もっとてきぱきやってくれる?」
 呆れように呟く少女の姿を、輝行は身動きも忘れて見つめていた。
 そして、ようやく気づいたのは、少女が身につけているその衣服。白いポロシャツに緑を基調としたチェックのスカートは、輝行が今身に着けている制服と揃いの物だった。
 更にまじまじと見つめて、あっ、と小さな驚きの声を上げた。
 銀髪と紫の瞳という日本人離れした二点にばかり気を取られていた。けれど、覚えのある声と顔。そして、名前。
「か、がみ……?」
 気づいた瞬間、吐息のような呟きが洩れた。
 その声を聞いてか、ゆっくりと少女が輝行へと振り返る。妖しくも美しい紫暗の視線を受け止めながら、輝行は確信と疑問をない交ぜにした問いをもう一度ぶつけた。
「各務、なのか?」
 輝行の問い掛けに、驚いたような表情を浮かべたのは、問われた本人ではなく、隣の青年の方だった。
「何? 織月、知り合いなわけ?」
「……まあ、知り合いと言えなくもないけど」
 窺うような視線を向ける亨に、少女――各務織月はさほど表情を変えず、溜め息まじりにそう答えた。
(言えなくもないって)
 織月の突き放したような言い草に、輝行は一瞬ムッとしたものの、我慢するように拳を握り締める。
 各務織月は、輝行の所属する陸上部の後輩だ。特別に親しいわけではなかったが、「知り合いと言えなくもない」と言われてしまうほど、関わりがないわけではない。
 更に、輝行の脳裏には二週間ほど前のある場面が過ぎる。今目の前にいる織月と、その時の彼女とが上手く重ならず、余計に輝行を苛立たせた。
「ちょっと待って」
「お? どしたー?」
 輝行の感情などお構いなしに、織月が無造作に近寄ってきた。
「な、何だよっ!」
 無言で近付く織月が、輝行の側に跪くと、至近距離まで顔を近づける。
 滅多に見ないほど整った顔がすぐ目の前という状況で、輝行は苛立ちも忘れて焦ってしまった。急激に早くなる鼓動を抑えられず、身動きも出来ずに固まってしまう。
 戸惑う輝行をよそに、織月の視線は日に焼けた首筋に注がれていた。輝行が化け物に捕まった際、ちょうど掴まれていた場所だ。強く締めつけられた所為か、それとももがいて擦れた所為か、赤くなって微かに鬱血している。
 しかし、織月が注目していたのは、その表面的な怪我の状態ではなかった。
「亨、響さんは事務所にいる?」
「と思うけどー? って、おい、それって……」
「『付紋(フモン)』されてる」
 織月が秀麗な顔を僅かに顰め、立ち上がった。亨もそれまでのだらけた様子が嘘のように、苦々しい表情で舌打ちを零す。
 何の話をしているのかさっぱりわからない輝行は、織月が離れてくれたことにほっと息をつくだけだった。
「まー、でも、あのクラスだったら、兄貴が何とかするだろー」
「だといいけどね。横木先輩」
 改めて名前を呼ばれ、視線を向ける。織月は再び膝をついて輝行と目線を合わせると、どこか困ったような微笑を浮かべた。
「すみませんが、ちょっと一緒に来てもらえますか?」
「い、一緒に来いって、どこに?」
「それほどお時間は取らせません。怪我の手当てもしないと、このまま帰ってはご家族も心配されるでしょう?」
 言われてみれば、制服は汚れ、首筋には明らかに絞めつけられたような痕がある。襟元のボタンを一番上まで留めたとしても、隠せるものではなかった。何より、この暑い時期にいつもは緩めているボタンをきっちりと留めていたりすれば、母親は間違いなく訝しむだろう。手当てさえしてあれば、言い訳を考えるのもさほど難しくはないと思い、輝行は素直に従うことにした。
 輝行が頷くと、織月は安堵したように軽く息を吐き、立ち上がる。
「じゃあ、行きましょうか」
 一言そう告げると、織月は亨と並んでさっさと先に歩いていってしまった。慌てて近くに落ちていたカバンを拾い上げ、後を追う。
 数歩進んだ時点で、周りの景色の変化に気づいた。無くなっていたはずの路地が、すぐ目の前にあったのだ。
(どうなってんだ?)
 つい数分前までは、四方は完璧な壁で囲まれていた。けれど、この景色が本来の姿なのだとわかる。わかるからこそ、輝行の混乱は深まるばかりだった。
 そんな輝行に追い打ちをかけるように、亨がチラと視線を投げかける。
「そういや織月、何でコイツ、ここにいたんだー?」
「それは私が訊きたいくらいなんだけど。亨、ちゃんと仕事してるの?」
「しっつれいだなー。してますよ、これでも」
「じゃあ、どうして……」
 会話の合い間に、何度も二人は輝行を振り返る。その居心地の悪さに、視線をすぐ横の塀へと逃がした。
 塀の向こうからは、僅かに家の明かりが洩れている。母親が子どもに向かって叱りつけるような声も聞こえた。
 そこではたと気づく。人の気配があるという事実に。路地に入った直後に、静か過ぎると感じたのは、単なる思い過ごしではなかったらしい。今ではささやかではあるが、塀の向こうのそこかしこから生活の気配が漂っていた。
 狐につままれたようとはこんなことを言うのかと思いながらも、輝行はただ無言で織月と亨の後について歩く。二人もそれ以上何も言うことはせず、躊躇うことない足取りで道を進んでいった。

 先に歩く二人に無言で従い、歩くこと十数分。辿り着いたのは、どこにでもあるようなごく普通のマンションだった。
 織月たちは慣れた様子で閑散としたロビーを抜け、エレベーターではなく階段で上がっていく。二回のフロアにつくと、一番手前のドアを亨が無造作に開く。そのドアには『常磐(ときわ)事務所』とだけ書かれた、シンプルな銀色のプレートが取り付けられていた。
 それとなく他の部屋の様子も窺ってみるが、どの部屋にも表札は出ていない。見た目は普通のマンションなのだが、不自然に生活感が欠如しているように感じる。そんな奇妙な場所に来てしまったことを、輝行は少なからず後悔し始めていた。だが、織月から目線のみで部屋へと促され、気が進まないながらも奥に進むしかない。
 しかたなく踏み込んだその先は、その名の通り事務所というより他にない様相だった。いくつもファイルの並んだスチール製のロッカーに、ビジネスデスクが三つ。そのデスクの上にはパソコンが二台あり、いくらかの書類やファイルが整然と置かれていた。しかし、室内に人の気配はない。
「兄貴ー」
 亨がやや大きめの声で呼び掛けると、右手手前のドアが開いた。中から二十代前半と思われる物静かな雰囲気の青年が現れると、二人に向かって穏やかな笑みを浮かべる。
「おかえり」
「ただいま、(ひびき)さん」
「あれ? 兄貴だけ?」
(かさね)さんは少し出ているよ。すぐに戻ってくると思うけどね」
 纏う雰囲気は正反対であるが、兄弟というだけあって亨とその青年――響の顔立ちはどことなく似ている。そんなことを考えていると、不意に響の視線が輝行へと向けられた。
「で、彼は?」
 穏やかなままの、一般的に好青年と評されるであろう笑顔。けれど、輝行はその表情に言い知れぬ不快感を覚え、思わず眉間に皺を刻んでしまった。
 織月はそんな輝行の様子には気づかず、響の問いに答えた。
「例の『日隅(ヒズミ)』のところで『獣魔(ジュウマ)』に襲われてたから」
「あそこは、この間亨が封じたはずじゃなかったのか?」
「おいおい。まるでおれが悪いみたいな目で見るなよー。ちゃんとしましたよー。草薙(くさなぎ)さんの『封咒(フウジュ)』に何か問題があったんじゃねーの?」
 何やら聞き慣れない言葉がいくつも飛び交う中、響から再び送られた視線に、輝行の不快感は嫌悪感へと変わった。
 一見普通の、むしろ温和に見える態度だが、明らかに響は輝行の存在を歓迎していなかった。その証拠に、笑顔を浮かべてはいるものの、全く目が笑っていない。それどころか、敵意さえ感じるほどに、その瞳は冷めきっていた。
 織月に言われてついてきただけ。自分の意思でこの場に来たかったわけじゃない。そう思いはしたものの、輝行は空き地での出来事の説明と、傷の手当て待つしかできなかった。
「それはともかく、付紋されてるの。視てもらえる?」
「……わかった」
 織月の言葉を受けて、響が輝行の側まで歩み寄る。そうしてあの空き地で織月がしたように、傷ついた首筋を凝視した。
 しばらく静かに見つめた後、忌々しげに響は眉を顰める。
「織月、悪いがこれは俺には無理だよ」
 溜め息とともに吐き出された声は、言葉ほど申し訳なさそうではなく、どこか面倒臭そうにさえ感じた。
「兄貴で無理って」
「織月と同じく、王クラス以上の紋だ」
「じゃあ、あの獣魔は、眷族……」
「そういうことになるね」
 淡々と答える響に、織月の表情があからさまに曇った。亨も驚いたように輝行を見つめている。
「随分と厄介なものを拾ってきたね」
「なっ……!」
 蔑むような響の物言いに、思わず掴みかかろうと一歩踏み出した。しかし、
「拾ってしまったものはしかたがない。捨て猫ではないんだから、『元の場所に戻してきなさい』とも言えないだろう?」
 涼やかな、そしてどこか場違いな声が割って入り、輝行は毒毛を抜かれてしまった。
 声の先は玄関のドアのすぐ側。パーテーションにもたれるように、全身黒の洋服に身を包んだ、漆黒の髪の青年が可笑しそうに目を細めていた。歳の頃は二十代とも四十代とも見える。そして、年齢不詳さもさることながら、その身にまとう空気がどこか妖しさを湛えている。
「累さん」
「織月、しばらく彼の側を離れないようにね」
 漆黒の青年――累は音もなく歩み寄ると、織月の頭を優しく撫でながらそう告げる。そのまま視線を巡らせ、ピタリと止まった先は、話についていけていない輝行の元だった。
「君も、織月から離れないように」
「……は?」
 言われた言葉を理解するまで、少しの間があった。頭の中で累の言葉を反芻し、飲み込めた途端に、それまで忘れていた苛立ちが口をついて出た。
「な、何でオレが各務から離れないようにしなきゃならねぇんだよ!」
「君は狙われているんだよ。横木輝行君」
「狙われてるって、オレが何かしたってのかっ?」
「何もしてはいないね。とりあえず、不運だったと思って諦めてくれればいいよ」
 にっこりと同性でも見惚れてしまうほどに魅力的な笑顔で累は答える。しかし、言っている内容は、何とも乱暴極まりない。当然、輝行は納得できるはずがなかった。
「っざけんなっ! 何でオレが狙われなきゃなんねぇんだよ!」
「うん、そうだね。でも、それを説明すると長くなるから」
「意味わかんねぇだろ、それじゃ! だいたい、あのバケモンといいアンタらといい、何なんだよ!」
「それの説明も長くなるかな」
「馬鹿にしてんのか、テメェは!」
 怒りに任せて怒鳴り立て、詰め寄る輝行だったが、当の累はどこ吹く風といった様子で全く動じない。それどころか、どこか楽しむような風情さえあるのが始末に悪い。
「馬鹿になんかしていないよ。ただ――」
 不意に、累の表情から笑みが消えた。人形のように無機質な顔に、視線だけが刺すように鋭い。周りの空気が一瞬で零下にまで下がったような気がして、輝行はそれ以上言葉を告げられなくなった。
 そんな輝行の喉元を、累の指先が微かに触れる。ゆっくりとなぞるように動かされ、ちりりと微かな痛みが走った。
「下手に君に動き回られると、色々と面倒なことが発生してしまうからね。それを避けるためにも、監視は必要なのだよ。もちろん、君自身のためにもね」
「か、んし……だって?」
 ぞっとするほど冷酷な瞳をした累に、声を荒げて反論したいはずなのに、できない。呼吸一つすら難しいほどに、身体が強張っていた。恐怖のために。
「大人しくさえしていてくれれば、君のことはちゃんと守ってあげるよ」
 輝行の怯えを感じ取ったのか、累はもとの優しげな笑顔に戻る。一瞬で凍てついた空気が溶け去り、それとともに輝行は脱力した。が、すぐに我に返り、目の前の累を睨みつける。
 どう考えても累は、何もわかっていない輝行をからかって遊んでいるようにしか思えなかった。しかも、ここに来てから『監視』だ『面倒』だ『厄介』だと、好き勝手なことばかり言われている。挙句の果てには『守ってあげる』と上から目線な発言だ。
「……冗っ談じゃねぇ!」
 怒り、混乱、恐怖、嫌悪感、不可解さ。様々な感情が輝行の心の中でぐるぐると渦巻き、全く整理がつかないままに言葉となって溢れ出した。
「誰がテメェらみたいな得体の知れねぇヤツらに守ってもらうかよ! 自分の身くらい自分でどうにかするってんだ!」
 早口でまくしたてながら、累、響、亨と順に睨みつける。ピンチを助けてくれた織月にまで怒りを向けるのはお門違いな気もしたが、罵声を止めることはできなかった。
「二度とテメェらの面なんか拝みたくもねぇ! じゃあなっ!」
 言い終わるや否や身を翻し、足早にその場を後にする。
 憤慨して勢いよく出ていく輝行の背中を、四つの視線が様々な表情で見送っていた。
 一人は、さも楽しげで、満足しているかのように。
 一人は、完全に呆れ果て、侮蔑するように。
 一人は、驚きながらも、感心するように。
 そして一人は、どこか困ったように、憂い顔で。
「織月」
 短く、累が呼び掛ける。織月は誰もいない玄関へと向けた視線をそのままに、答えた。
 わかっています、と、ただ一言だけ――。



 いつもと変わらぬ級友たち。いつもと変わらぬ校内風景。授業の退屈さまでもがいつも通り。
 窓の外には、久方ぶりに澄み渡った爽やかな空が広がっているのに、忙しないセミの合唱が輝行のやる気をことごとく削いでいた。
 その上、クラスメイトが音読する明治時代の文豪の傑作は、まるで輝行を眠りへと誘う子守り歌のようだった。何度も欠伸を噛み殺し、舟を漕いでは我に返る。
 そんな輝行に、担当教師も気づかぬはずがなかった。
「はい。次、横木君」
「……え、は、はいっ!」
 突然の指名に一瞬で眠気が吹き飛び、慌てて教科書を持って立ち上がる。しかし、ほとんど目も耳も働いていなかった輝行は、どこから読めばいいのかわからなかった。
 咄嗟に隣の席の友人が、こっそりと読むべき箇所を指差してくれる。
 焦りながらも読み始め、段落の切れ目で教師から止められると、ホッと息をついて着席した。が、
「友達が親切で助かったわね。次はちゃんと寝ないで聞いていなさいよ」
「す、すみません」
 にこやかに嫌味をプレゼントされると、教室中から小さな笑いが零れた。
「はい、じゃあ次は――」
 教師の一言で笑いが収まり、授業が元の筋道へと戻っていく。
 焦りと気恥ずかしさですっかり目が覚めてしまった輝行は、素直に教科書を目で追いながら、小さなため息をついた。
 勉強は得意なわけではないが、比較的授業態度は真面目な方だ。その為、今日のように居眠りをして授業中に注意されることは滅多にない。
 にもかかわらず、今日の輝行は一日中睡魔と戦い続けていた。睡眠不足だったのだ。
 原因は夢見の悪さ。昨日の帰り道での出来事の所為で、繰り返し悪夢を見ていたからだった。
 トカゲの化け物に襲われ、しかも夢の中では誰も助けに現れない。もう駄目だと思った瞬間に目が覚め、再び眠りについても同じ夢が最初から始まる。結局目覚ましが鳴るまでそんなことを繰り返していたので、とても眠れたと言える状態ではなかった。
 それでも、常と変わらず朝練にも参加し、授業も耐えに耐え続けたのだが、最終授業まではやはりもたなかったようだ。しかも、よりによって、この現代文の授業の担当は、輝行の所属する陸上部の顧問である。きっと部活時に何か言われるだろうと思うと、ため息を零さずにはいられなかった。
(……でも、本当にあれは現実だったのか?)
 改めて昨日の出来事を思い返しながら、輝行は自分の喉元にそっと触れた。
 今朝歯を磨いているとき、首に全く違和感がないことに気づいた。よく考えれば、怒りに任せて手当ても受けず、常磐事務所から家に真っ直ぐ帰ったのだ。累が触れた時には確かに痛みを感じたし、傷を負っていたことは間違いない。傷が残っていたならば、母親に何か言われてもおかしくはなかった。けれど、母親にも妹にも何も指摘されなかったし、風呂で身体を洗った際にも、沁みるようなことはなかった。
(もしかして、夢だったのかも)
 そう考えた方が自然に思えるほど、昨日の出来事は非現実的であったし、今に残る痕跡もなかった。
 けれども、そう考えると納得のできないことがいくつも出てくる。
 常磐事務所と謎だらけの人物たち、そして意味のわからない幾つかの単語。それほど想像力が豊かではないと自負している輝行には、あれが自分の脳内で生成された出来事とは思えなかった。
「おい、テル! いつまでぼーっとしてんだよ!」
 突然ごく間近から声を掛けられ、輝行は驚いて顔を上げた。いつの間にか授業は終わっており、既に数人の生徒は教室を出ていっている。すぐ側に立つ声の主――親友の宮崎隼人(みやざきはやと)も、既に帰り支度を終え、部活に行く気満々な様子だった。
「もしかして、目開けたまま寝てたのか?」
「寝てねぇよ。ちょっと考えごとしてただけだっつーの」
 反論しながら、輝行も出しっ放しだった教科書やノートをカバンにしまい、席を立つ。
「ほほう? 悩みごとですか、輝行君。では、その悩みごとをずばりこの隼人様が解決してあげようではないか!」
「別に悩みってほどのもんでもねぇよ」
「まずは、何年何組の女子か教えてくれたまえ!」
「……は?」
 あまりにも脈絡のない隼人の言葉に、輝行は思わず間の抜けた疑問を投げかけてしまっていた。当の隼人本人は、どこか得意げにすら見える表情だ。
「だーかーらー! 『陸上が恋人』と言わんばかりの陸上バカなテルにも、恋の季節が到来したんだろ? 奥手な親友のために、この恋愛プロフェッショナルなおれが一肌脱いでやろうって言ってんの!」
「どっからどういう流れでそうなるんだよ。大体、いつ隼人が恋愛のプロになったんだ?」
 呆れとともに溜息を吐き出しながら、また始まったとこっそり辟易する。
 隼人は自他ともに認める女好きで、可愛い女の子を見れば声をかけずにはいられない性質だ。それだけならまだいいが輝行がそれに巻き込まれることも多々あった。その上、何かと輝行の恋愛事情に首をつっこみたがるのが困りものだ。
 輝行自身は現在、恋愛にも異性と付き合うことにも興味がない。もし、想いを告げられることがあったとしても、全て丁重にお断りしていた。しかし、それをどこからともなく聞きつけては、もったいないなどの言葉とともに、あれこれと詮索を始めるのだ。最終的には輝行に叱り飛ばされてやめるのだが、全然懲りている様子はなかった。それどころか、今回のようにまったく恋愛に関係のない話から無理やり結びつけたりと、何かと言えば恋愛話にしたがるのが隼人の欠点だった。
 これさえなければ最高の友達なのに、と何度思ったことだろう。しかし同時に、この性格が無くなったら無くなったで、隼人らしくないと思ってしまうもので、結局全部ひっくるめて隼人という存在が輝行にとっては大切なのだった。
「なーんだ、そうなのかー。テルにしては神妙な顔で考え込んでるもんだから、ついつい恋わずらいかと思っちまったぜ」
「『オレにしては』で悪かったな。どうせいつも能天気だよ」
「能天気さならおれの方が上だけどな! それより、もし本当に好きな子できたら、ちゃんと教えてくれよ! 告白まできっちりサポートしてやるからさ!」
 はいはいと適当な相槌を返しながら、隼人の口にした『告白』のフレーズに、つい二週間前の光景が頭に浮かぶ。それは、輝行にモヤモヤとした思いを抱かせているもう一つの原因だった。