禍つ月映え 清明き日影

章之壱 清輝に惑う

参 疑惑 01

 大型の観光バスから次々と人が吐き出されてくる。
 ある者は、照りつける太陽を眩しげに、自らの手で遮るようにしながら。ある者は、クーラーで冷え切って固まってしまった体を解すように伸びながら。またある者は、バスに酔ってしまったのか少々覚束ない足取りで、友人に支えられながら。
 そんな彼らはまだ十代半ばといった年頃。そう、久遠学院大学付属高校の陸上部の部員たちだった。
「はーい、みんな道路に出ないでもっと固まってー!」
 降りてきた部員達に、大きな声を張り上げて誘導しているのは顧問の篠川みどりだ。
 部員が全員降りると、今度は中年の男性が運転手に挨拶を告げてから降りてくる。もう一人の顧問の芦田である。芦田はすでにバスでの移動で疲れ切ってしまったのか、部員たちへの指揮は完全にみどりに任せきりだった。
「とりあえず荷物全部出しちゃってねー! バスが帰れないからー!」
 厳しい暑さも何のその、みどりは元気よくてきぱきと指示を与え、さほど時間がかからないうちにバスはその場を後にすることとなった。
 部員たちは各々の荷物を探し当て、みどりの指示に従って一か所にまとまる。
「よし、じゃあ行きましょうか、芦田先生」
「そ、そうだね」
 みどりの溌剌とした促しに、芦田はもう少しゆっくりと休みたそうだったが、それでも渋る様子はなく重い腰を上げる。みどりは荷物のたくさん詰まった自分のカバンを軽々と持ち上げると、もう一声大きな声を響かせた。
「さ、合宿所までほんの五分ほどだから、ちゃきちゃき歩くわよ!」
 久遠学院は全国数ある高校の中でも、五指に入るほどの陸上名門校である。しかし、その部員数は男女各三十人弱。近隣の県からスカウトしてきた逸材もいれば、ただ陸上競技が好きで入部してきた者もいた。
 ただし中途半端な気持ちで入部すると、そこは名門。やはり練習は厳しく、入部して一か月も経たないうちに、初期入部人数の半数近くが脱落し、辞めていく。
 この夏休み突入直後の合宿に参加できる人物は、それなりにやる気や根性といったものを兼ね備えている部員ということに自然となるのだ。おかげで引率をするみどりたち顧問にとっても、指導しやすく助かっていた。
 ある意味精鋭部隊ともいえる部員たちをぞろぞろと引き連れながら、一行が目指す先は陸上部が毎年お世話になっている合宿所。合宿所と言うと小汚く手狭で古臭い印象を持ちかねないが、この建物はまだ新しく、設備も充実していて広々としている。
 合宿所のオーナーは久遠学院のOBで、その好意を受けて好条件の施設を破格の金額で借りられることになっていたのだ。
「なー、テルー」
「何だ?」
 荷物を肩に掛けなおし、額に汗を浮かべながら、隼人は隣を歩く輝行に呼び掛けた。
 輝行も同じく盛大に汗をかきながら答える。
「今年は合宿所に綺麗なお姉さん来てると思うか?」
「……何の心配してんだよ、おまえは」
 どこに行っても考えることは変わらない隼人に、輝行は思わず力が抜け、バッグが肩からずり落ちそうになった。慌てて担ぎなおすが、隼人はその話を真面目な顔で続けている。
「だってさ、合宿は五日間もあるんだぜ? その間にはやっぱり潤いってもんが必要だろう」
「女子ならいっぱいいるだろうが」
「またそれとは別! あーあ、去年みたいに可愛いお姉さんがバイトしてねぇかなー」
 隼人が大いなる期待を込めて呟くのには、ちゃんと理由があった。
 去年の合宿の際、たまたま合宿所でアルバイトをしていた大学生が、美人とまではいかないがなかなか愛嬌のある可愛らしい人物だったからだ。しかも彼女も陸上部経験者だったこともあり、話しかけると気さくに応じてくれる気取ったところのない人物でもあった。
 だから隼人も彼女を気に入って、暇があったら話をしに行っていた。そして何故か毎回当然のように輝行も連行されていたのだった。それを思い出した輝行は、呆れ交じりに前もって釘を刺しておくことにする。
「もしいても今年はついてかないぞ」
「わかってるって。テルにはちゃーんと心に決めた子がいるもんなー」
「……隼人、おまえまだソレ言ってんの?」
 ニヤニヤと笑いながら答える隼人に、輝行はますます疲労感を覚えた。
 隼人は何度言っても、輝行が織月を気にかけていると主張し続けている。もう半分は諦めかけているのだが、あまりに放っておくと隼人が織月に何を言うかわかったものではないので窘めないわけにはいかなかった。
「まーまー、照れない照れない」
「おまえがそういうこと言うのはもう諦めたけど、各務に変なことだけは吹き込むなよ?」
「おおっ! とうとう認めましたな、輝行君!」
「だーかーらー、違うって……」
 端からこちらの言い分を聞く気のない隼人に、輝行は頼むから大人しくしていてくれと心の底から願った。
 さすがに隼人の方も輝行の気持ちを尊重したいとでも思っているのか――そんな気遣いは大きなお世話でもあるのだが――織月と輝行を無理にくっつけようとは思っていないらしいことだけが救いだった。
「さ、着いたわよー! みんな、合宿所のスタッフの方にはちゃんと元気よく挨拶すること!」
 さほど歩くことなく辿り着いた合宿所の玄関前で、みどりが大きな声で呼びかける。それに部員たちはバラバラと返事を返した。
 いくら避暑地として有名な高原にあるこの場所が涼しいとはいえ、夏の暑い盛りである。すでにバテ始めているものもいれば、バス酔いから回復していないものもいて、当然の元気のなさだった。
 しかし、みどりはそんな情けない部員に活を入れる。
「こら! 気合いが足りん! 返事は大きな声で!」
「はいっ!」
 今度はそろって大きな声での返事が返った。普段は明るく気さくなみどりだが、怒らせると怖いことは部員全員が承知していたからだ。気持ちの良い返事に気分を良くしたのか、みどりはにっこりと満面の笑みになると、合宿所の玄関を開いた。
 いよいよ合宿の始まりである。
 合宿所の責任者に全員揃っての挨拶を済ませると、前もって配られていた部屋割どおりに各自移動を始めた。
 予定では一旦部屋に荷物を置き、再び集合して全体ミーティング、そしてその後は男女に分かれてのミーティングとなっている。
「去年も思ったけどさ、あの責任者の人結構若いよな?」
 部屋に向かいながら、隼人が少し声を落として輝行に話しかけてきた。
 代表者は隼人が言うように結構な若さに見える。推測でしかわからないが、二十代後半から三十代半ばあたりだ。隼人の声が聞こえていたのか、同室に向かう数人も話に混ざってきた。
「それ、俺も思った」
「あれくらいの年でこんな立派な場所経営してんだから、結構な金持ちなんじゃねぇ?」
「そうかもなぁ。しかもかなり安い金額で貸してくれてんだろ? 金持ちの道楽ってとこか?」
「ま、お陰で快適な合宿できるんだから、ありがたい話じゃん」
「そうそう。他の高校いった奴に訊いたら、結構どこの合宿所の汚いらしいしな」
 口々に思ったままを口にしているが、やはり感じることは同じらしく、羨ましそうに言いながらも感謝の気持ちの方が大きいようだ。それなりの期間滞在をするのだから、少しでも快適な方がいいというのは当然の意見だろう。
「あ、そういや今年まだ一人もスタッフ見てねぇや」
 思い出したように呟いた隼人に、その場の全員がそういえばと辺りを見回した。しかし、見える範囲ではスタッフらしき人物は見当たらない。
 前回の合宿の時はスタッフが六人ほどいた。これから嫌でも顔を合わすだろうが、隼人が気に掛けているのがそんなことではないとその場にいる全員がわかっている。そして、彼らも全員年頃の少年である。隼人の気持ちは全面的に共感できる事柄だった。
「今年は可愛いお姉さんいても独り占めするなよ、隼人」
「そうそう。去年のおまえひどかったぞ!」
 周りから揃って釘を刺され、隼人は誤魔化すように苦笑いを浮かべた。助けを求めるように輝行に視線を向けるが、自業自得とばかりに輝行は顔を背けて知らないふりを通す。
「ぬけがけ禁止だからな!」
「横木はちゃんと隼人見張ること!」
 わいわいと盛り上がり始めるうちに、輝行は隼人の監視役まで仰せつかってしまった。
 面倒を押し付けられた感もないではないが、言うほど困る内容でもない。むしろこれだけみんなに釘を刺されたら、隼人も去年の様なことを活発に行えないので、巻き込まれる可能性が減って助かったと言えるだろう。
「隼人、日頃の行いだな」
「そういうこと言うかー?」
「ほら、ぼやいてないで、さっさと荷物置いて行くぞ」
「チクショー。横暴だー」
 早くも当初の予定を大幅に狂わされてしまった隼人は、情けなく抗議の声をあげるが、誰一人同情を寄せることはなく、さっさと用意された部屋に荷物を放り込んでいった。
 なおも文句を言い続ける隼人に輝行ははいはいと宥めるような返事を返す。もちろん、真面目に話を聞いてなどなく、完全な生返事だった。
 そうこうしているうちに集合場所である食堂前のロビーに戻ってきた。
 ロビーは何故だか妙に盛り上がった声に溢れている。そして一人を取り囲むように出来た人の群れ。その群衆は不思議なことに二年と三年の部員ばかりで出来ていた。
 しかしすぐにその疑問も解決する。
 群れの中心にいた人物を認めて、輝行は思わず声をあげて駆け寄った。
「基先輩!?」
「よ。久しぶりだな、横木、宮崎」
 片手をあげて応える姿は、輝行も隼人もよく知った姿だった。去年まで同じ陸上部に在籍していた先輩の六条院基(ろくじょういん もとい)だ。基は輝行と同じく短距離の選手で、当時の部内ではナンバーワンの実力を持っていた。そんな基は、輝行にとって憧れの存在に等しい。
「えー? 何で基先輩がいるんすかー?」
「随分な言い草だな、宮崎。いつからそんな偉そうな口きけるようになったんだ? ん?」
「いてっ! 痛いってば、基先輩!」
 にっこりとさわやかな笑顔を浮かべたまま、基は隼人を捕まえるとすばやく左肘の関節を極めていた。そういえば基は陸上だけでなく武道も得意だったことを輝行は思い出す。
 今日の隼人はとことんついてないなと苦笑しつつも、頭の中に浮かんだ疑問を基にぶつけた。
「でも、本当にどうして? もしかしてここでバイトですか?」
「うん、まぁ、そんなようなもんかな? ここのオーナー、オレの親戚だから」
「ええっ!? 基先輩の家って金持ちなの!?」
 基の言葉を受けて、関節を極められたままの隼人が何とも率直な疑問を投げかけた。それに基は気分を害した様子もなく、呆れと溜め息の混じった苦笑を洩らした。
「別に金持ちじゃないって。オレんちじゃなくて、『オレの親戚』がオーナーなだけだから」
「なーんだ。基先輩と結婚したら玉の輿かもとか思ったのにー」
 話を聞いていた女子部員の一人が残念そうに呟くと、他の女子部員も倣ったように残念そうな溜息をつく。
「コラコラ、オレに対する愛情はないのか、おまえら」
「冗談ですよ、基先輩! 私たち皆、先輩のこと愛してますから」
「嘘臭いぞ、その笑顔」
 そう言いながらも、基の表情に不機嫌さはなかった。
 実際、基は陸上部では人気が高く、女の子からモテるという意味でもナンバーワンだったのだ。それを理解しているのか、基は本気で彼女たちの言葉を嘘だとは思っていないようだ。
「さて、もうミーティング始まるんだろ? みどりちゃんに怒られる前にさっさと行けよ」
「はーい! 基先輩、あとでお話してくださいねー!」
「せっかくなんで先輩も一緒に練習しましょう」
 基に促されて、名残り惜しそうに部員たちが一人また一人と食堂へと向かっていく。それぞれが基に声を掛け、基もそれにいちいち応えながら見送っていた。
「基先輩、手が空いたらでいいんで、練習見てくださいよ」
 輝行も例に洩れずそう基に誘いをかけた。
 輝行にとっては尊敬する大先輩がせっかく同じ場所にいるのだ。少しでもいい走りを見つける為のチャンスと言ってもいい。
 そんな輝行の思いを読み取ったのか、基は嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。
「いいぞ。おまえにはオレも期待してるからな」
「ありがとうございます!」
「ほら、行った行った。みどりちゃんが恐いぞー」
「はい! 失礼します!」
 嬉しさのあまり、勢いよく頭を下げて輝行は食堂へと走り出そうとして、
「……あのー、基先輩? いい加減おれは放してもらえないんですか?」
 背後から聞こえる萎れきった隼人の声に足を止めた。完全に隼人の存在を忘れてしまっていたのだ。
「あ、隼人……」
「おまえは別にみどりちゃんに怒られてもいいだろ? というよりも、一度豪快に叱られとけ」
「基先輩、そりゃないでしょー!」
 どうやら基は隼人をいじって遊ぶことが楽しくて仕方ないらしく、わざと解放せずにいたようだった。
 哀れにも思えるが、基の言うとおり一度隼人は痛い目を見た方がいいのかもしれないと思っていると――
「基、茉莉が探してるぞ?」
 基を呼びにきた声に輝行は何となし振り返り、そしてその場で絶句して立ち尽くした。
 基は少々残念そうに隼人を解放すると、その声の主の方へと歩み寄っていく。
「もう戻るよ。あ、姉さんも一緒かな?」
「ああ。無駄にはしゃいでるけどな」
「それはいつものことだろう? おっと。んじゃな、横木、宮崎」
 そのまま二人並んで歩き出しかけたが、思い出したように振り返って基は挨拶を寄越す。しかし輝行はそれに反応もできずに、基ともう一人の人物の背中を見送った。
 織月とともに輝行を助けた、門の戻士である、守屋(もりや)亨。
(もしかして、常磐さんの指示で?)
 頭に思い浮かんだのは、常磐累の含みのある笑顔。どう考えても、亨がこの合宿所にいるのは、累の差し金でしかなかった。多分織月一人では荷が重いと思ったのだろうと容易に想像がつく。しかし輝行にとって常磐事務所の人間はあまり好意的には感じることができなかった。
(ま、もう一人よりはマシか)
 自分を守ってくれるためにわざわざ他県まで足を運んでくれているのだ。文句など言えはしない。何より響でなく亨であることが、輝行にとっては少しだけ救いだった。
 たった二回しか顔を合わせたことのない響だったが、輝行の中では印象が最も悪い。
 亨も印象がいいわけではないが、響ほどあからさまな嫌悪を向けられるわけではない。それだけでも充分に心持ちが違った。
「テル? どうかしたのか?」
 いつまでも基たちの消えた方角を見つめている輝行に、隼人が不思議そうに声を掛けた。
「あ、いや。ヤベっ! 早く行こうぜ!」
 隼人の呼びかけで我に返った輝行は、慌てて隼人を促し食堂へと駆け出した。とうの昔にロビーからは人気がなくなっている。間違いなく輝行と隼人が最後だろう。
 案の定、食堂にはすでに部員全員が集合しており、二人が辿り着いた瞬間に烈火の如きみどりの怒りの声が合宿所内に響き渡ったのだった。

 ミーティングも無事終了した後、その日の昼食は合宿所のスタッフが用意してくれたものだった。
 合宿中の食事は基本的に部員が分担して作るのだが、初日の昼食だけは合宿所側が準備してくれることが慣例となっていた。到着してすぐにミーティングがあるため、食事の準備をする時間がさすがに足りないからだ。
 用意された昼食をセルフサービスで受け取る。その給仕の一端を担っているのは基を含めた合宿所スタッフだった。
「何だか今年はエラく美形ぞろいだなぁ」
 喜ぶよりも少々圧倒されたように隼人が箸を口へと運ぶ。その思いはどうやら他の部員たちも同じようだった。
 基は以前から知っているので今さら美形だと意識したりはしない。
 しかし、彼以外のスタッフが男女問わず揃いも揃って整った容姿を持っていた。そのスタッフたちと並んでも見劣りしない基は、結局のところやはり美形なのだという結論に至る。
「アレかぁ? もしかしてスタッフの採用基準は顔なのかぁ?」
 隼人が唸るように呟きつつ、給仕をしているスタッフへと視線を巡らせた。輝行もつられるように、観察する。
 ご飯をよそってくれているのは、スタッフの中では一番年下だろうと思われる少女だった。多分、自分たちとさほど年は違わないだろうと推察できる。
 艶やかな長い黒髪を高い位置でポニーテールにしていて、愛らしいぱっちりとした黒い瞳が印象的だ。やたら丁寧な言葉遣いがお嬢様然とした雰囲気を漂わせている。
 その隣で味噌汁を準備してくれているのは、黒髪ポニーテールの少女よりも少し年上に見える少女。明るい茶色に染めた髪をさっぱりとしたショートカットにしていて、快活そうに見えるのだが、その整った目鼻立ちは作りものかと思うほど完璧なバランスで配置され、間近で見ると思わず息を止めて見惚れてしまうほどだった。
 そんな美少女が二人並んでいれば、声を掛けることさえ躊躇われ、話す口調も自然と敬語使いになってしまう。
 女性陣だけでなく、男性陣もそれに遜色なかった。食堂の奥にいてあまり顔を出していないが、基と亨以外にもう一人、二十代前半の青年がいる。
 この青年は赤に近い茶色に髪を染めていて、左耳にはピアスが二つと、一見すると派手に遊んでいそうに見えた。しかし面と向かって相対すると、その切れ長の瞳の奥に見え隠れする理知的な光の為にむしろ切れ者であるような印象を与える。
 それに加え、去年の卒業生の中でダントツ人気だった基と、黙っていれば十分に端正な顔立ちをしている亨。隼人の望むように「綺麗なお姉さん」は存在したのだが、去年のような気さくな親しみやすいタイプではなく、思わず一歩引いてしまいそうなほどの美男美女のバーゲンセール状態だ。さすがの隼人も気後れしてしまったのか、遠巻きに見つめるだけだった。
 隼人でさえもそうなのだから、もちろん他の男子部員どもも何もできるはずがない。食事の最中もチラチラと様子は窺いつつも、結局話しかけようという者は誰一人いなかった。
「残念だったな、隼人。あんだけの美少女だったら、絶対に相手にされないだろうぜ?」
「それを言うなよー、テル。……ま、目の保養にはなるしさー」
 隼人には珍しく、そうそうに諦めをつけたらしい。茶化したつもりだったのだが、思った以上に隼人が沈んだ声音でそう返すのに、輝行は少々同情の念が湧く。仕方なく励ますように隼人の背中を叩いた。
「さ、飯食い終わったら自由時間あるし、気を取り直して遊ぼうぜ」
「そうだな! 今年は一年の女子に燃えるか!」
「……おまえ、立ち直り早すぎ」
 驚くほどの変わり身の早さに、輝行は同情した自分が馬鹿だったとがっかりせざるを得なかった。
 呆れる輝行をよそに、隼人は残っていたご飯を勢いよくかき込むと、その勢いのままにごちそう様と手を合わせる。
「ほら、早く食えよ、テル」
「あのな……」
「あー! おれ的一年生ランキング第三位の宇津木ちゃんが行ってしまう! テル! おれは先に行くからな!」
 そう言い置くと、隼人は輝行が言葉を発する間もなく食器の乗ったトレイ片手に行ってしまった。
「『おれ的一年生ランキング』ってなんだよ、おい」
 そんなものを作成しているのかと、隼人の残した言葉に突っ込むようにぼそりと呟く。隼人なら各学年のソレを作っていても不思議ではないと思えるのが少々悲しい。
 そう考えているのも馬鹿馬鹿しくなり、輝行は仕方なく残りの食事を平らげるのに専念することにした。
 と、輝行の目の前のテーブル上に、華奢な指先が見えた。誰かが、そこに片手をついたのだ。そのまま視線を指先から腕、そして顔へと辿っていくと、意外な人物に行き着いた。
「こんにちは。君が横木君でしょ?」
 屈託のない笑みを向けるのは、茶髪ショートカットの美少女スタッフだ。
 何故彼女が自分の名前を知っていて、しかもわざわざ声を掛けてくるのかわからない。けれどそんなことよりも、彼女が話しかけてきたということ自体に輝行は動揺し、上手く返事も返せなかった。
「あ、ごめんね。びっくりした? 君のことはね、基から聞いてたんだ」
「基、先輩?」
「そ。あの子、私の弟だから」
「……ええ!? 基先輩のお姉さんなんですか!?」
 そういえば先ほど基が亨に呼ばれたときも「姉さん」という単語を発していたことを思い出す。
 基とこの目の前の美少女が姉弟だとは思いもしなかったが、言われてみればこれだけの美形同士。血の繋がりがあるという方が自然に思えた。
「うん。六条院基の姉の(かおる)です。よろしくね」
「は、はぁ……」
 それだけ言うと、郁は踵を返そうとする。一体何なんだろうと呆気にとられていたが、輝行が我に返る前に郁は思い出したように振り返った。
「言い忘れてた。森の奥にね、古い社があるんだ」
「え? 社、ですか?」
「うん、そこには気をつけてね。それだけ」
「気をつけて?」
「ほなねー」
 疑問だらけの輝行に構うことなく、郁はその場を後にする。
(何なんだ、あの人)
 森の奥の古い社。それの何に気をつけろと言うのだろうか? 古いから壊れるかもしれないし、危険だとでも?
 しかし、そんな理由ならわざわざ輝行に言わず、顧問に伝えてほしいところだ。
「あー、もう!」
 どうとればいいのかもわからない言葉を残して去った郁に対する苛立ちを、何の意味も持たない言葉とともに吐き出す。輝行はグシャグシャと髪をかきまわすと、そのまま頭を抱えこんだ。
「最近よくわかんねぇヤツ多すぎ」
 郁も。そして、自分を守ると言った織月も。
 そんな輝行の様子を、幾つかの場所からひっそりと窺っている幾対かの瞳。
 新たなシナリオが静かに、だが確実に動き始めていた――。


「聞いてないんだけど……」
 昼食を済ませた織月は、自由時間にある部屋を訪れていた。
 その部屋は、この合宿所の三階にあるスタッフ専用の部屋の一つ。そしてそこにいるのは当然ながら、この合宿所でスタッフとして働いている亨だった。
「そりゃあ聞いてないだろー。言ってねーもん」
 不機嫌全開の織月の言葉を受けて、悪びれもせずに笑いながら亨は答える。相変わらずの脱力感満載の相方を織月は軽く睨みつけたが、亨のやる気ない態度がそれで改善された例はなかった。
「帆香は? 来てないの?」
「んー、来てるけど、あいつは裏方さんだからなー。近くの別荘で待機中」
「そう」
 織月は短く返事を返すと、考え込むように押し黙る。その眉間に深く皺が刻まれているのを見て、亨はケラケラと笑いだした。
「織月、そんな顰めっ面してたら、『憧れの君』に笑われるぞぉー」
「な……っ、『憧れの君』って……!」
「えー? だって、この合宿の間中、ずーっと同じ屋根の下にいるんだぞー? どこでそんな顔してるの見られたとしても、おかしくないだろー?」
 滅多なことでは動揺しない織月だったが、亨の一言はそれを簡単に覆す威力を持っていた。更に言い続ける亨に、頬を紅潮させ必死で言い返そうとするが、なかなか言葉が出てこない。
「織月はこういうとこだけ反応が可愛くなるよなー」
「うるさいっ。……それで、累さんは何て?」
 心底面白そうにからかいの言葉を吐く亨に、織月は何とか話の方向転換を図ろうと試みた。亨はこれ以上いじめるとあとあと自分が酷い目に遭うことは承知しているので、素直に話を切り出す。
「ここがどういう場所か知ってるか?」
「念が溜まりやすいとは聞いたけど」
「溜まりやすいというか、溜まってしまう元凶があるってことだ」
「元凶?」
「そう。森の奥にある社。ちょっと厄介なヤツがいるらしいわ」
 面倒くさそうに亨はセブンスターを取り出し、一本くわえた。愛用のシルバーのジッポーで火をつけると、オイルと紫煙の匂いが混ざって広がる。
 その煙草の匂いに一瞬織月は顔を顰め、逃げるように窓際へと向かい外気を取り入れた。窓の下には、自由時間を満喫している部員たちの姿がある。
「何でそんな場所に合宿所なんかが――」
「だから『あえて』、らしい。不思議なら要さんにでも訊いてみろよ」
 亨の提案に、織月はますます眉間に皺を寄せた。どうやら亨の言葉を不快に感じたらしい。
「そんなの軽々しくできることじゃないでしょ」
「そうか? あの人なら全然気にしないと思うぞ?」
「亨はもっと気にしなさいよ!」
「織月は気にしすぎだ」
 織月の注意に、亨は逆にはっきりと言い返す。
「あの人たちは祀り上げられたいわけじゃないって知ってんだろ?」
「知ってる、けど……」
 いつになく真面目な亨の口調に、織月の声は次第に弱まる。その様子に、亨はまた普段通りのやる気のない表情へと戻った。
「ま、おまえの性格が真面目すぎるのはわかってるけどな。もう少しおれを見習え」
「……亨なんか見習ったら、方々に迷惑かけすぎるじゃない」
「あー、まあ、そっかー」
 あっけらかんと笑う亨に、織月はため息を漏らす。
「社か。誰も近づかなければいいけど」
 窓の外に広がる景色に、織月は視線を彷徨わせた。建物の西側には鬱蒼とした森があるが、そのどこに件の社があるのかは見当がつかない。
 そんな織月の様子を、亨は考え込むように、ただ黙って見つめていた。


 深更。
 昼間はみずみずしい緑の葉を陽光に輝かせていた森も、暗闇の中に蠢く不気味な化け物のように感じる。新月の為に夜空には月もなく、遠くからこぼれてくる常夜灯の明かりも、この森を照らすには何の役にも立ってはいなかった。
 その森の入口近く。闇の中にさらに濃い闇をまとった人影が四つ固まっていた。
 四人のうち最も背の高い青年が、何かを感じ取ろうとでもするかのように、瞳を閉じている。その髪は明かりのない中でも淡く銀色に輝いていた。
 やがて、ゆっくりと双眸が開かれる。不思議なことに、その瞳は右だけが蒼い色を宿していた。
「思った通り、だな。わずかだけど騒ぎ始めてる」
 銀の髪の青年が小さく呟く。それにあとの三人が静かに頷いた。
「……それで、どうするつもりだ?」
 もう一人、赤茶けた髪の青年が銀髪の青年の隣に並び問い掛ける。それに銀髪の青年は妖しげに微笑み振り返った。
「別に、当初兄さんが立てた計画通りでいいよ」
「『兄さん』とか呼ぶなよ。不気味だな」
「不気味はないでしょ、不気味は。そのうち本当にそうなるんだから」
「その言い方がすでに嫌がらせだ」
 赤茶の髪の青年と銀の髪青年がちょっとした言い争いを始める。
 それを見ていた小柄な人影が呆れたように溜息をついた。長く艶やかな黒髪を揺らし、二人の間に割って入る。
「兄様方、いい加減にしておかないと姉様に叱られますよ」
 その声はまだ幼さを残す少女のもの。
 一番年が下であろうと思われる少女の言葉に、二人の青年は口をつぐむ。代わりに、もう一人の人影が口を開いた。
「……別に怒りはせんけどね」
 呆れ交じりの笑み声だ。しかし、その声音はどこか蠱惑的に響き耳に残る。
 声の主は腰まで届くほどの漆黒の髪に右目が紅、左目が銀髪の青年と同じ蒼という異相の女性だった。
「だよな。姉さんはオレたちに甘いし」
「それに関して否定はせんよ。でも……、ええんか?」
 紅と蒼の瞳の人物が、確認するように銀髪の青年を窺う。その表情は厳しさとともに案じるような色もみてとれた。
「自分の可愛い後輩やろ?」
「まあそうだけど、それとこれとは話が別だろ? 利用できるものは何だって利用するさ」
「さすが、いい教育してるな」
 何の気負いもない様子で答える銀髪の青年に、赤茶の髪の青年は口元を笑みで歪めて皮肉にも取れる褒め言葉を吐く。それに銀髪の青年はニッと笑みを返し、放り投げるような物言いで続けた。
「それにいい機会だから、自分の置かれてる状況を把握すればいいよ」
 重なる苦笑と微笑。
 その場にいるもの全てが、納得と合意を含んだ表情で視線を巡らせた。その先は、まだ新しい建物――陸上部が合宿所として利用している施設だ。
「さて、餌につられて上手く出てきてくれるかな……?」
 誰の呟きとも知れぬ声を最後に、彼らは音もなくその場を後にする。
 後にはただ、森の樹々の風にざわめく音だけが響いていた。