七夜月奇譚

伍 月下の咎人 02

 頼りない二筋の光が、ゆるゆると揺られながら下りの参道を照らす。その揺れとほぼ同じテンポで、二人分の足音が光の後を追った。
 一の峰を出てから、尚志と中田はほぼ無言だった。尚志は特に気にしている様子はないのだが、中田には気まずさと幾ばくかの不信感があるのだろう。
 その沈黙に耐えかねたのか、中田は不満を滲ませた声音で問いかけた。
「吉良さん、さっきの話は本当なんですか?」
「ツクヨミのことか? 別に珍しい話でもないだろう。全国的にもツクヨミの別名表記が女性名のところは――」
「それじゃありません!」
 わざとらしく話の方向を捻じ曲げようとする尚志に、中田は珍しく声を荒げる。中田にとって尚志は尊敬に値する先輩だ。知識も豊富で、中田が専門に扱っているジャンルでも、自分以上に知っていることが多く、教わることも多い。だが、彼のこういう人を食ったような態度が心底苦手だった。それでも、常なら軽く流すことができるのだが、今はそんな余裕がまったくない。
「犯人が、わかっているって……」
「ああ、それか。……気になるか?」
「むしろ、この状況で気にならない方がおかしいじゃないですか」
「そりゃあそうだな」
 ムッとした表情の中田に、何が面白いのか尚志はうっすらと笑みを浮かべている。外灯にちらちらと照らされるその顔は、どこか不気味にさえ思えた。
「はぐらかさないでください。こんな風に行きたくもない場所に無理やり連れて行かされるからには、少しくらい説明してくれたっていいじゃないですか」
「じゃあ、中田には特別に教えてやるよ。教えられる範囲で、だけどな」
「え……?」
 尚志の返答は、中田にとって思いもよらないものだった。これまで、自分一人だけわかった風な態度を取り続け、核心に触れる発言は避け続けていた尚志だ。今更文句の一つも言ったところで、またのらりくらりとかわされるだけだと思っていた。
「何が知りたい?」
 挑戦的ともとれる笑みを浮かべ、尚志は中田を振り返る。その余裕たっぷりの視線に、中田は投げかけるべき問いが喉の奥で凍りつくのを感じた。この博識な先輩に出会ってから初めて覚えた、恐怖だった。
「……っと、立ち話してたら、用事を済ませるのが遅くなるな。歩きながらでいいか?」
「あ……、は、はい」
 先ほどまでの強気な口調が綺麗に消え去った中田は、頼りなげな声で首肯する。歩き始めた尚志が、何から訊きたい? と改めて問うと、ようやく一歩踏み出した。
「あの、犯人がわかったって……」
「正確には、犯人というよりも、事件の概要がわかったってところかな」
「事件の概要?」
「いつどこで誰が何をして、その結果誰が何をするに至ったか」
「随分とまわりくどい言い方をするんですね」
「直截的な言い方ができないもんでね」
 それは尚志の性格的な問題なのか、それとも事件の内容がなのか。そんな疑問が頭を過ぎった中田だったが、あえて訊かずに話を進めた。
「じゃあ、犯人がわかった、というわけではないんですか?」
「そもそも、『犯人』という言い方がおかしいんだよ。そして、あえて『犯人』という言葉を借りるなら、『犯人たち』が正しい」
「え? じゃあ、何人かによるグループの犯行だってことですか?」
「それもまた正しくはない」
 一歩話が進んだかと思えば、すぐさま尚志は解決への道筋を閉ざしてしまう。もどかしい思いのまま、中田は辛抱強く尚志の言葉を待った。
「今までにあった事象を一つ一つ挙げてみろよ。初めは、後藤がいなくなった。次は?」
「次と言っていいのかわからないですけど、多分、城宮さんがいなくなった、ですよね」
「そうだな。そして、その後に後藤が不断桜で見つかった」
「それから、今度は僕が城宮さんを見つけて――」
「違う」
 思い出しながら順を追っていた中田を、尚志がぴしゃりと否定する。何が違うのか、中田はすぐにはわからない。
「中田が黒い人影を見つけて追っていった。その前後くらいに、坂野さんは桜の側から後藤が消えているのを確認している。中田が郁を見つけたのはその後だ」
「あ、ああ……。そう、でしたね」
 細かい指摘に頷く中田に、尚志はつまりだ、と言葉を繋いだ。
「井隼も言っていたが、この短時間に、誰とも会わずに後藤を移動させ、一旦姿をくらまし、その後で郁に危害を加える、もしくは郁の体を移動させるなんてことは、一人では相当厳しいんだよ。だが、最低でも二人いれば、これは比較的容易に可能になる」
「じゃあ、二人組の犯行、ということですか」
「だから、それが違うんだよ。犯人は、二人組じゃない」
「まさか、三人組だ、なんて言うんじゃないでしょうね」
 尚志ならそういう冗談も言いかねないと、半ば本気で思いながら呟くと、当の本人は小さく噴き出した。こんな状況なのにひどく楽しそうなのが、中田の癇に障る。
「ああ、悪い。まさか、中田がそんなこと言うとは思わなかったんだ。いや、まあ、その可能性もないとは言わないがな」
「じゃあ、何なんですか? ふざけてないで説明して下さいよ」
「だから、数人が徒党を組んでるわけじゃないんだよ。それぞれが、それぞれの思惑で動いた結果。個人プレーが連携された、というわけだ」
「個人、プレー?」
「一・後藤の行方不明はAという人物。二・後藤の殺害はBという人物。三・後藤がいなくなったのはB、四・郁の殺害はA、って感じにね。ああ、郁がいなくなったのは、自分でみんなの側から離れたわけだから除外した」
 淡々と説明する尚志に、中田は思わずなるほど、と洩らしていた。少しだけ振り返った尚志が、中田の様子にニヤリと口元を歪める。中田はそれに気づかず、何度も納得するように頷きを繰り返していた。
「さて、ここで中田に質問だ。このAとBだが、誰だと思う?」
「誰って……、一人は例の黒い人影じゃないんですか?」
「へぇ? じゃあ、ついでにもう一つ訊くが、おまえが片岡を振り切って追いかけていった黒い人影は、どんな感じだった?」
「どんなって言われても、暗かったのであまりはっきりとは。ただ、全体的に黒っぽい格好の男だとしか……」
「黒い服装の男、ね」
 意味深に確認する尚志に、中田は反射的に眉を顰める。今までのやりとりの中から、どうやら尚志は中田に対して何か思うところがあるようだった。
 しかし、不満を訴えるより早く、尚志が更に問いを重ねる。
「もう一つだけ訊かせてほしい。中田はやっぱり、郁をまだ疑っているのか?」
「それは……」
 尚志の問いに、何とも言いにくそうに中田は口籠ってしまった。
 坂野とサトカによって、郁に他殺の可能性が高いと判断されてしまった今、この質問に是とは言えない。だが、あれほど強く郁を疑うような台詞を吐いてしまった後では、もう疑っていないなどと簡単に意見を翻しても空々しいだけだった。
「まあいい。アイツが挙動不審だったのは確かだし、何かしでかしていないとも言い切れないからな。というか……」
 黙り込んだ中田に構わず、尚志は一人納得した様子でブツブツと独り言を零している。それは中田が今までにずっと感じていた疑問を、明確な形に変えるのに充分だった。
「あの、吉良さん」
「何だ?」
「吉良さんにとっての城宮さんって、何なんですか?」
「……随分と話の方向性が変わったな」
 斜め後方にいる中田からははっきりとはわからなかったが、どうやら尚志にとってかなり予想外の質問だったようだ。珍しく少し戸惑ったような声音にも思えた。
「僕は、絵梨香が見つかってからずっと吉良さんの態度が不思議だったんです。普段の仲の良さから考えると、冷静すぎるって。いくら城宮さんが自主的にいなくなったとはいえ、殺人犯がいるかもしれない状況で一人境内を彷徨っていると思ったら、もっと心配して探しまわるものだと思うんです。城宮さんがあんな姿で見つかった後だって、まったくといっていいほど動揺してなかった。感情的になったのは、僕が城宮さんを犯人扱いした時くらいです」
 中田の疑問は、おそらく彼だけでなく他の面々も感じていただろうことだった。民俗学研究会のメンバーの誰もが、尚志と郁の仲は認識している。二人の関係について、親戚同士という情報しか得られてはいないが、それ以上の何かがあることは、誰の目から見ても明らかだったのだ。
 だからこそ、事件が起きてからというもの、尚志に対する違和感が付きまとっていた。
「俺が冷静なのが、そんなにおかしいか?」
「違います。『被害者が城宮さんなのに』冷静なのがおかしいんです」
 中田が強く言い切った瞬間、尚志はその場で足を止めた。ちょうど、『不断桜』が視界に入る辺りだ。
 二人の到着を待ちわびていたかのように、桜の古木がざわざわと揺れる。木立をざわめかせる夜風は妙に生温く、そのくせ肌を粟立たせる不快さを併せ持っていた。
「着いたな」
 中田とのやりとりがなかったかのように、尚志は小さく呟く。視線の先は、まっすぐに桜の根元に向いていた。
 尚志を追い越すように前に出た中田は、その場を見て息を飲む。
 ――郁の姿は、どこにも見当たらなかった。
「なくなって……」
 大樹の根元にもたれかかっていた小柄な少女の姿はなく、ちょうどその手が投げ出されていた辺りに、ぽつんとナイフが取り残されていた。まるで、彼女の姿だけが、雪のように溶け去り、地面に吸い込まれてしまったかのようだ。
 尚志が予言した通りのことなのだが、それでも中田には信じられなかった。皆でそろって一の峰まで上ってから、それほど時間は経っていない。となると、郁を動かした犯人は、自分たちの行動を逐一監視でもしていたことになるのではないだろうか。
 しかし、どうして郁が握っていたはずのナイフが残されているのか。わざわざ残していった? 何の為に? 何か、意味があるのか?
 ぐるぐると中田の脳内に疑問が溢れ返る。
「俺にとっての郁が何か教えてやろうか」
「吉良さん?」
 驚き固まったままの中田に、尚志が場違いなほど穏やかな声を放った。先ほどの質問について答えようというのだ。
 中田の返答を待たずに、尚志はゆっくりと不断桜に向かって歩き出す。そうして郁の倒れていた辺りに辿り着くと、足元に落ちている小さな凶器を拾い上げた。
「郁は、俺の全てだよ。俺は郁の為に生きてるし、郁の敵は俺にとっても敵になる。だから――」
 冴え冴えとした刃のような月が、微かだが鋭い光を二人の頭上へと投げかける。月光に照らされた尚志の顔には、優しくも冷たい微笑みが浮かんでいた。
「だから、俺はおまえを許さないよ」
 弔いを歌う鳥の声が、嘲笑うように遠くで聞こえた。



 尚志と中田の去った後の一の峰は、沈黙に支配されていた。誰もすすんで会話をしようとはしない。坂野やサトカでさえも、不安と焦燥からか口を噤んでいた。
 どこかで鳥が、枝葉を揺すりながら飛び立つ音が聞こえる。麻子は小さく身を震わせ、隣の聖に身を寄せた。だが、すぐに音の正体に気づくと、小さく息をついて元の位置に戻る。そんな麻子の行動にも、聖はほとんど反応しなかった。
「聖ちゃん?」
 不思議に思って窺うと、彼女は二人の下りていった参道をじっと見つめていた。今までに見たことのない、どこか切迫した表情だ。麻子の呼び掛けに振り向きもしないのも、聖らしくない。
「どうし――」
 再度の呼び掛けより早く、聖が立ち上がり走り出す。繋いでいた手は、思いのほか容易にするりと解けていた。
「聖ちゃん!」
 慌てて後を追う麻子の背後から、焦ったような他の面々の声が上がる。しかし、聖を捕まえるまでは止まるわけにはいかないと、麻子は無視をして前を走る白い後ろ姿を追いかけた。
 もともと麻子は脚に自信があった。高校までは陸上部に所属していたし、体の弱かった聖にならそれほど急がなくてもすぐに追いつくと思ったのだ。予想通り、参道をいくらかも下らないうちに、麻子は聖の右手を捕まえた。
「聖ちゃん! 危ないってば!」
「危ないのは私じゃなくて吉良さんなの!」
「吉良先輩、が……?」
 切羽詰まった形相で訴える聖に、麻子の力がわずかに緩む。その隙に聖は麻子の手を軽く振り払ってまた走り出した。
「ちょ、ちょっと待って聖ちゃん! 吉良先輩が危ないってどういうこと!?」
 再度すぐに追いつくが、今度は引き止めずに並走する。無理に押しとどめることより、聖の発言の真意が気になって仕方がなかった。
「……だって、おかしいんだもの、あの人。最初会ったときから変な感じがしてたけれど、やっとその正体がわかったの」
「おかしいって、吉良先輩が? 確かに先輩らしくないところもいくつかあったけど」
「違う、そうじゃないの。そうじゃなくて……」
「そうじゃないなら、何なの?」
 麻子は先を促すが、聖は違うと繰り返すだけ。それ以上を告げようとはしない。
(聖ちゃん、どうしちゃったんだろう。何か混乱しちゃってるみたいだし。でも……) 
 尚志が危ないという聖の叫び。祟りなす不断桜の樹。絵梨香が、郁が――桜に触った二人が相次いで無残な姿で見つかり、そして尚志も花枝に触れた。
 いくつものピースが組み合わさり、麻子の胸中にえもいわれぬ胸騒ぎが拡がる。祟りなどないと断言した尚志だったが、本当にないのだろうかと、嫌な想像ばかりが膨らんでいった。それを振り払うように、麻子は頭を激しく振る。
(大丈夫だよ! だって中田先輩も一緒だもん!)
 自らに強く言い聞かせ、それでもまとわりついてくる不安感から逃れんばかりに、必死に脚を前へと運んだ。
 足場の悪い参道を、時折転びそうになりながら下り続ける。ほんのりと明かりの灯る社務所を横目に走り抜け、不断桜まではあとわずか。生い茂る樹々のトンネルの切れ間が見えた瞬間、背後からガサガサと激しく揺さぶられる枝葉の音が聞こえた。
 思わず、麻子も聖も足を止め、振り返る。背後の闇の中には、特に目立った物は何もない。どちらからともなく手が握られ、身を寄せ合うと、互いの体が震えているのがわかった。
 しばらく付近の暗い茂みに視線を彷徨わせる。何もない。誰も、いない。
 どれほど立ち尽くしていただろう。麻子には、ほんの数秒のようでもあり、数十分経っているようにも感じた。結局なにごともなかったのだと、ようやく胸を撫で下ろす。
「いこっか」
「はい」
 ぎこちない笑みと仕草で、二人は一歩踏み出した。その頭上から、
 ――カァ……。
 短い鴉の鳴き声。背中を、悪寒が這い上がる。
「ひ、聖ちゃん、いこ」
 あるはずのない視線を背後に感じながら、麻子は手を引き先を急いだ。
 早足でその場を立ち去ると、すぐに不断桜のどっしりとした幹が見え、その側に立つ二人分の人影が目に入る。それだけで、一気に安堵感が生まれ、麻子は取り戻した元気を声に乗せて発しようとした。
 だがその前に、聖が制するように麻子をぐいと引っ張る。
「聖ちゃん?」
「何だか、様子がおかしいわ」
「おかしいって、別に何も……」
 改めて先輩二人の方に視線を向けるが、この暗さでは表情もよくは見えない。何か話をしているようだったが、その声もさほど大きくはない。よくよく耳を澄まさなければ上手く聞き取れない程度だ。
「いいから、ちょっと待って」
 聖が半ば強引に麻子の体をすぐ脇にある樹の影へと押しやった。麻子は何故かそれに逆らうこともできず、大人しく身を潜める。
「どういう、意味ですか?」
 静寂の中に埋もれると、中田の押し殺したような声が遠いながらもしっかりと聞こえた。そこにあるのは、苛立ちと不快感。中田がそんな感情を尚志に向けることなど想像もできなくて、麻子は木陰から再度二人の様子をまじまじと眺める。遠いながらも、どことなく張り詰めた空気が、自分たちの方にまで流れ込んでくるようだった。
「そのままの意味だよ。俺は、郁をあんな目に合わせたヤツを許さない。たとえそれが、自分とどれだけ親しい相手でも」
「僕が、城宮さんを殺した、と?」
 中田の声が鼓膜を震わせた瞬間、麻子の頭の中は真っ白になった。
 何を、言っているのだろう。尚志も、中田も。郁を殺した? 誰が? 中田が?
(そんなこと……あるはずない……!)
 その場から飛び出し、二人の先輩目指して駆け出そうとした麻子だったが、すんでのところで聖の手に阻まれる。何故と詰るような視線を向ければ、もう少し待ってと囁くような懇願が落ちた。
 けれど、このままでは尚志と中田が完全に仲違いしてしまう。そう焦る麻子の視界に、ほんの一瞬小さな光が飛び込んだ。懐中電灯の明かりではない。もっと鋭角的かつ断片的なきらめきだ。
 その出所が無性に気になり、見回した麻子が辿り着いたのは、尚志の左手だった。尚志のその手に握られているのは、小さな刃。そんなものをどこで手に入れたのかと思うと同時に、郁の手の中にあったものだと思いついた。そこで、ようやく小さな異変に気づく。
「……いない」
「麻子ちゃん?」
「桜のところに、郁ちゃんが……」
 尚志が一の峰で言ったことが、頭の中に蘇る。
『どうして誰も動かしていないはずの後藤の姿が消えたと思う?』
『後藤と郁の状況はかなり似通っている』
『もしそれが意図的に行われたことならば、……今頃郁はどうなっていると思う?』
 問いであって問いでない言葉。そして、その答えは、はっきりと今目の前に現れていた。郁の遺体の消失、という状況として。
「どうして僕が城宮さんを殺さなければいけないんですか? 動機は?」
 愕然としている麻子の耳に、先ほどよりも尖った声が届いた。しかし尚志は、更に中田の神経を逆撫でするような挑発的な笑みを浮かべ、
「そんなものはなくても、人は殺せるんじゃないのか?」
 中田がかつて口にしたままの言葉を返す。
 尚志と中田の距離は、ほんの数メートル。けれど、そこには見えない大きな溝が出来てしまっている。そして尚志は、その溝を一段と抉るような発言をやめようとはしなかった。
「しいていうならば、おまえが郁に見られたくないところを見られた、ってところだろうな。例えば、後藤に対して何かした、とか」
「いい加減にしてください! それじゃあ、城宮さんどころか絵梨香まで僕が殺したみたいじゃないですか! 絵梨香は僕の彼女ですよ!?」
「誰もおまえが後藤を殺したなんて言ってないだろう。それに俺はさっきも、後藤の件と郁の件は容疑者が別だと言ったはずだ」
「だったらどうしてそんな風に――!」
「おまえは何をする為に、一人になろうとしたんだ?」
 遮る口調は一転して穏やかで、とても同一人物が発しているものとは思えないほどに慈しみが籠もっていた。それに虚をつかれたのか、中田は言葉を詰まらせる。
 離れて見守っていた麻子も、尚志の変わり様に戸惑いを覚えていた。今の尚志は、麻子がよく知る彼とは別人だ。麻子が憧れてやまないその姿は、どんなときでも冷静沈着で理知的、そして飄々として笑みを崩さない。
 それがどうだろう。感情が不安定で、暴走しているともとれる発言ばかりが目立つ。言っている内容自体は常の尚志が発していてもおかしくはないのに、その発し方がまったくもって彼らしくなかった。
(まるで、取り憑かれてるみたい)
 ふと自分の中に浮かんだ考えに、麻子はハッと口元を押さえる。声になど出していないのに、自然と声に、そして現実になりそうで怖かった。だが、
「やっぱり、憑かれているのね」
「聖ちゃ……」
 心を読んだかのようなタイミングでぽつりと落ちた呟きに、麻子の眦にじわりと雫が浮かぶ。泣きたくなどないのに、悲観的な想像ばかりが脳内を占め、勝手に涙へと変換されていた。
 やはり尚志は、祟りに触れたのだ。絵梨香や郁と違うのは、おそらく尚志が男だから。女が触れれば、伝承と同じく不断桜の根元で首を切られて死ぬ。男が触れれば、女の怨念が取り憑く。きっとそういうことなのだと、麻子は推理した。
 ならば、尚志はこの後どうなるのだろう? 女の怨念の望みが、捨てた男に対する恨みをそのまま尚志に対して晴らすのだとしたら? つまりそれは、絵梨香や郁よりももっと惨い仕打ちが待ちうけているのではないだろうか。
 溢れ出す涙と同じだけ、様々な感情が零れ落ちる。もうこれ以上、麻子は何も見たくも聞きたくもなかった。
「泣かないで、麻子ちゃん」
 嗚咽すら殺して落涙する麻子の耳元に、労わるような囁きが届く。ふわりと華奢な腕が背中にまわり、赤子をあやすように撫でさすられた。
「ひ……じり、ちゃん……、ど、しよ……」
「大丈夫よ、麻子ちゃん」
「でも、吉良せんぱ……が……っく」
「大丈夫。まだ、きっと間に合うから」
 聖の穏やかな励ましも、今は何の根拠もない慰めにしか聞こえない。何が『大丈夫』なのか。何が『間に合う』のか。そんな反論が自ずと脳裏に浮かんできた。八つ当たりのようにそれを口にしようとした瞬間、
「麻子ちゃんの大好きな人たちは、絶対に助けるから……」
 決意に満ちた、聖の言葉。ぎゅっと抱き締められる腕の力が強くなった。
「ひじり、ちゃん……?」
「麻子ちゃんは、初めてできた私の大切なお友達だから、絶対に悲しませるようなことはしない。私みたいな想いはさせない」
 その言葉に、麻子は唐突に気づかされた。聖の想い人が、どういう存在なのか。『絶対に約束を破らない人でした』と、聖は過去形で語った。そう、もう過去の人なのだ。存在しなくなった人。だからこそ、その人物に似た尚志が現れたことに、聖は驚いたのだ。
 麻子は、ぐいと強引に泣き濡れた頬拭う。顔を上げると、真っ直ぐに聖を見上げた。
「ごめん、聖ちゃん。ちょっと私ダメ人間になってたわ」
 目の前の現実が受け入れられなくて、悲劇のヒロインぶっていた自分自身が恥ずかしかった。そんなことはいつでもできると、麻子は軽く自分の頬を張って気合いを入れる。
「私に何かできることある? 聖ちゃん、何か知ってるんだよね?」
「私にも、大したことはできないかもしれない。でも、――っ!?」
 不自然に聖が言葉を途切れさせ、振り返った。反射的に麻子もその目線を追う。振り返ったその先は不断桜の根元だ。そして、地面には横たわった人影と、その上に馬乗りになっているもう一人。上の人物が下になった方の首を絞めているように見えた。
「そんな……」
 話の経緯を聞き逃がしていたため、どうしてこうなったのかはわからない。けれど、麻子は自分が大きな思い違いをしていたことにこのとき初めて気づいた。
 鬼気迫る表情で下敷きになった相手の首を絞めているのは、いつもの穏やかさの欠片もなくなった、中田博雅だった。