七夜月奇譚

陸 揺蕩の果て 01

 俯きがちに肩を震わせ、泣きそうになるのを必死に堪えながら言葉を紡ぐ彼女を、そのとき初めて「愛おしい」と思った。
 そう、思ったのだ。
 ひとたび彼女の本質に触れてしまうと、日を追うごとに惹かれていくのを止められなかった。
 普段はあまり感情の動かない自分が、彼女の言動一つで一喜一憂してしまう。
 ――これが、好きだということなんだろうか。
 少しずつ変わっていく自分を実感し、彼女への想いを噛みしめる。

 そんな風に幸福に浸っていられたのは、いつまでだったのだろう。



 その日は、例年よりも一足早く告げられた梅雨入り宣言を裏付けるように、憂鬱な雨がしとしとと降る日だった。
 民俗学研究会の部室は、少々年代物の建物の中にある。もちろんエアコンなどは効いていない。古い建物に湿気が加わり、カビ臭さにも似た独特の臭気が漂っている。
 その不快な匂いとまとわりつくような湿気に辟易しながら、中田は濡れた傘を丁寧にたたみ、部室へと向かった。
 少しでも涼を取り入れようとしてか、多くのサークルが入り口のドアを開け放っている。その為、廊下には方々から溢れ出した会話が喧噪となって満ちていた。
それは自らの在籍するサークルも例外ではなかったらしい。通い慣れた経路を辿っていくと、目的の部屋から耳に馴染んだ幾種類かの声が零れ出ていた。
 一番よく聞こえてくるのは、元気の良い明るい声。これは井隼だろう。それに相槌を打つのは多分片岡で、時折窘めるような落ち着いた声は貴子だ。また井隼が調子に乗りすぎて貴子に怒られているのだろうか。
 そんな推測に小さく笑みを零した時だった。
「でも、後藤と同じゼミの奴に聞いたんすよ! 後藤は吉良さんのこと好きなんだって!」
 歩む足が、止まった。
 それまで騒がしかった周りの音もぴたりとやんだ。代わりに、部室から聞こえる声だけが、妙にクリアだった。
「あのねー、井隼。何の根拠もなくそういうこと言うのやめなさいよ。後藤さんが言ってるのを聞いた訳じゃないんでしょ?」
「……そうっすけどー」
 不服そうな井隼の声を聞きながら、足元からじわりじわりと這い上がってくる何かに全身が麻痺をする。
 彼らは、何の話をしていた?
 彼らの話していた後藤とは、自分の恋人のことだろうか?
 そんなはずはない。何故なら、付き合ってほしいと言い出したのは、彼女の方からなのだから。
 ならば、誰の話だ?
 あの三人の共通の知人で後藤という名前――そんな人物に心当たりは、ない。民俗学研究会のメンバーである後藤絵梨香以外には……。
「中田? どうしたんだ?」
 廊下で立ち尽くしていた中田の背後から、訝るように声が掛けられる。
 音量スイッチが再度入れられたかのように、周囲に喧噪が蘇った。
 悟られないように小さく息を吸い込み、吐き出す。いつもと変わらぬ態度を装って振り返った。
振り向いた先には、モデル顔負けの容姿を持つ男女の二人組。男は先ほどの――思い出したくもない――話題にも出ていた一つ年上の先輩・吉良尚志、女の方はその腐れ縁の城宮郁だった。
「顔色悪いで? 風邪でもひいたん?」
 郁が下から覗き込むように、大きな黒眼がちの瞳で見上げてくる。間近で見ると、正真正銘の美少女というのは郁のような存在を言うのだろうと溜息が出そうだった。
 一瞬頭を掠めた思いを絵梨香の前で一言でも漏らした日には、一日中拗ねられるだろう。
 そんな思考に辿り着き、中田は我に返って笑みを浮かべた。
「いや、別に風邪という訳じゃないから」
「そんならええけど」
 くるりと軽快に郁は身を翻すと、部室に向かって歩き出す。
 尚志は軽く肩を叩いて部室内へと促すと、郁と並ぶように中田の横をすり抜けた。
「どうでもいいが、何で郁は当たり前のようにうちに入り浸ってるんだ?」
「ええやん。ちゃんと手伝いしとるし、減るもんでもないやろー?」
「減りはしないな。むしろ増えるか。俺の心労が」
「そうかそうか。それは嬉しいやろ。もっと増えるように頑張るわ」
 腐れ縁同士特有の軽口の叩き合いが始まる。だが、二人の間にはただの腐れ縁と言うだけでない独特の空気が漂っていた。
 本人たちは何一つ明言していないが、きっと腐れ縁以上の深く強い絆のようなものがあるのだ。それは、中田だけでなく、他のメンバーも感じているのだろう。二人の間に割って入るようなことをするものは一人としていなかった。
 そう、尚志には郁がいる。何人も入り込めない、入り込もうとしたとて微塵も揺らぐことのない貴石のような関係。それほど強固な二人の繋がりに、中田自身も羨望の眼差しを送ってしまうほどだった。
 それと同時に、胸を刺す痛みを自覚する。
 絵梨香と自分の関係は、どんなものなのだろうか。告白されて付き合い始めはしたが、今では自分の方が絵梨香を好きなのではないかとしばしば感じている。
 ――絵梨香は、本当に自分を好きで告白してきたのだろうか? 
 数分前の井隼の話がじんわりと脳裏に浮かぶ。郁の存在を差し引いて考えれば、自分などよりもよほど尚志の方が絵梨香と釣り合うだろう。
 華やかな容姿で服装のセンスも良い尚志。知識も豊富で、話題の一つ一つに惹き込まれていく。多くの女性が彼に好意を持つのも無理はない話だった。
 それに引き替え、自分は容姿・服装ともにごく平凡だ。絵梨香と付き合い始めてからは、彼女が服を選んでくれたおかげでそれなりに垢抜けたとは思う。それでも、絵梨香と並ぶと分不相応な気がするのは今も変わらなかった。
 見た目だけではない。話下手で、絵梨香を楽しませるような会話できない。その為、ついつい黙って話を聞くだけに徹してしまうのだ。
 こんな自分の、どこを絵梨香は気に入ってくれるのだろう?
 ほんのわずかな疑問は、ゆるやかに波紋を広げ、自信という名の脆い砂山を簡単に削り取っていく。
 ――エリカハ、ボクノコトナンテ……。
「もう! こんなところで何やってんのよ!」
 ヒステリックな声に背中を叩かれ、中田は廊下に立ち尽くしたままでいたことに気づいた。
 振り返ると、不機嫌全開の恋人がまさに仁王立ちしている。
「メール」
「え?」
「やっぱり。メール見てないでしょ」
 押し殺すような確認の声に、慌てて携帯を取り出した。言われた通り、新着メールのアイコンが出ている。そして、その横にはスピーカーに斜線の入ったアイコンが並んでいた。
「ごめん。講義終わった後、マナー解除するの忘れてたよ」
「そんなことだろうと思ったわ。傘ないから入れて欲しかったのに」
「本当にごめん。あれ? でも濡れてないね」
 雨音は、周囲の雑音に紛れてはいるが、まだ確かに聞こえている。
 素朴な疑問を指摘しただけだったのだが、絵梨香は途端にムッとした表情になった。そして、少し間を置いてからふいと顔を背ける。
「……同じ授業出てた男の子がここまで入れてくれたのよ!」
「そうだったんだ。濡れなくてよかったね」
 蒸し暑くなってきたとはいえ、雨に濡れては風邪を引いてしまうこともある。親切な子がいてくれて助かったと素直に思った。
 だが、絵梨香はこの返答が存外お気に召さなかったらしい。さらにむくれ、中田をその場に置いてずかずかと部室へと向かってしまった。
 どうすれば絵梨香は笑ってくれるのだろう。
 最近は何を言っても、何をしても怒られてばかりのような気がする。
 仕方なく追いかけながらそんな考えに頭を悩ませていると、絵梨香は部室の入り口でぴたりと足を止めた。
「あ、後藤さんおっはよー」
 真っ先に底抜けに明るい挨拶を寄越したのは郁だ。続いて他の者たちからも挨拶の言葉が飛ぶ。
 それで、絵梨香が立ち止まった理由を理解した。
 絵梨香は、以前から何故か郁に対してだけやたらと非友好的なのだ。
 もともと積極的に誰とでも話すタイプではないが、それは見かけによらず人見知りな性格だったからだ。理由もなく誰かを嫌ったり避けたりすることはない。
 そう知っているからこそ、やはりという思い支配されてしまうのだ。やはり、絵梨香は尚志のことを、と……。
 そんな中田の気も知らずに、絵梨香はさっと踵を返すと、中田の腕を強引に引いた。
「絵梨香?」
「お買い物! この間付き合ってって言ってたでしょ!」
「え? あ、うん。えっと、そういうことで、すみません」
 ぐいぐいと力任せに促されながらも、中田は部室内の面々に謝罪を残す。謝られた側は、唐突な絵梨香の行動に驚いてはいたが、特に咎めるような様子はなかった。それどころか、またいつものわがままかと、片岡や井隼などはむしろ中田に同情的な視線を送っていたほどだった。
 ――ヤッパリ、エリカハ……。
胸の内を黒く蝕み始めた感情を何と呼べばいいのだろう。
 嫉妬とは違う。かといって、憎しみというわけでも絶望というわけでもない。そんな風に身を焦がすような、烈しいものではないのだ。
 代わりにじわりじわりと、乾いた布にインクが染み入るように心を侵す。じわりじわりと、確実に。
 けれどそれは、絵梨香が次々と繰り出す要望に埋もれ、正体を掴むことのないまま心の片隅へと追い遣られていったのだった。

 中田の中に眠っていたその感情が目覚めたのは、その日から約一月後。七夕の星見と称して水鏡神社を訪れ、絵梨香が井隼と盛大な喧嘩を繰り広げた後だった。
井隼の言動に腹を立て、他のメンバーから離れた絵梨香の機嫌は、いつにも増してひどい。
 井隼に悪気があったわけではないのだが、今回ばかりは絵梨香が気分を害するもの仕方がなかった。
 皆から離れて少しばかり時間を置けば、絵梨香にも冷静さが戻るだろう。そう判断して早数十分。絵梨香はまだ怒りの渦中にあった。
 このまま険悪な雰囲気を残せば、これからの付き合いにも差し障る。どうにか絵梨香の怒りを治め、もう一度みんなで仲良く飲み会を続けられる状況に戻そうと中田は必死になり始めた。
 やみくもに前に進む絵梨香の足は、気づけば摂社の方へと向かっている。
 ぽつりぽつりと点る外灯は、先ほどまでより間隔が広くなっていた。参道も次第に狭まり、二人横並びになるには少々窮屈さを感じる。
 時折脇から飛び出した笹の葉が頬を撫でるのに脅かされながら、三歩先を歩む絵梨香の手をそっと掴まえた。
「絵梨香、そろそろ戻らないか? 井隼はほら、つい考えなしに勢いで言っちゃうところあるしさ」
 できるだけ穏便に、彼女を責める口調にはならないように言葉を選ぶ。絵梨香も大人しく足を止めた。が、振り向いた彼女の瞳には、静かな怒りがあった。
「……博雅って、いつもそうね」
「え?」
 怒りの矛先が自分に向いているのだと理解し、中田は小さな驚きの声を上げるしかできない。
「いつだって、アタシより他の人を庇う。井隼君とか麻子とか、城宮さんとか……」
「そんなことは……!」
「あるじゃない。そんなにアタシが嫌い?」
「嫌いなわけ……!」
 どうして突然絵梨香がこんなことを言い出すのか、中田にはまったく理解不能だった。
 絵梨香を嫌うだなんてありえない。もちろん、嫌っていると思わせるような態度だって一度たりともしていない。それどころか、常に彼女を最優先で動いてきたつもりだった。
 けれど、絵梨香にはそんな中田の気持ちなど届いていなかったらしい。
「いいわよ、別に。いまさら言い訳なんてしなくたって。どうせアタシは城宮さんみたいに綺麗でもないし、人当たりも良くないし、民研の仕事だってできないわよ」
「城宮さんは関係ないだろう?」
「関係ない? いつも吉良さんと楽しそうにしてるのを羨ましそうに見てるくせに?」
「それは……」
 郁を見ていたわけではない。ただ、自分たちもあの二人のような関係になれたらと、そんな風に眺めていただけだ。
 そう言い返したかった。けれど、それを言ってしまえば、絵梨香に鼻で笑われてしまうのではないかという思いが頭をよぎる。
 そうして口を閉ざしてしまうと、絵梨香はそれを肯定と取ったようだった。
「いいじゃない、別に隠さなくたって。好きなんでしょ? 城宮さんのこと。アタシと違って素直で明るくて捻くれてないもんね。でも残念だったわね。吉良さんが相手じゃ敵わないわよね」
 皮肉るような嘲笑に、胸の内に沈んでいたモノが目を覚ます。ソレは再びじわりじわりと中田を侵蝕していった。
 ――吉良サンガ相手ジャ敵ワナイ。
 そんなこと、誰よりも自分が知っている。改めて言われるまでもなく、思い知らされている。
もし自分が尚志のようだったなら……。何度そう思ってきたことか。
「……それは、絵梨香も同じだろう?」
 喉の奥からせり上がるように吐き出された言葉は、一瞬誰のものかと疑問に思うほどに冷え切っていた。
 その言葉をぶつけられた当人も、驚きのあまりにか言葉が出てこない。かろうじて絞り出されたのは「どういう意味?」という短い問い。
「そのままの意味だよ。君こそ、吉良さんのことが好きなんだろう?」
 絵梨香が息を呑み、目を見開く。けれど声はなく、ただ中田の顔を固まった表情のまま見つめ返していた。
 今までに何度も頭の中を掠めては、そんなはずはない、言葉にしてはいけないと思い続けてきた想い。
 それを堰き止めていたものが、今、決壊した。
「否定も肯定もしなくていいよ。言われなくても、吉良さんと違って冴えない平凡な男だって自覚くらいはあるし。民研に入ったのだって、吉良さんに近づきたかったからだろう? 僕と付き合ったのは……そうだなぁ、さしずめ利用価値があったから、ってところかな?」
 よどみなく流れ出る言葉には、皮肉と自嘲と怨嗟が渦巻き、容赦なく絵梨香を襲う。
 いつも温厚な中田から思わぬ反撃を食らった絵梨香は、常の強気な態度が嘘のように顔色を失くし立ち尽くしていた。
「僕なら御しやすいとでも思った? でも、君の見る目は確かだったと思うよ。片岡さんも井隼も、明らかに君とは性格が合わないし。それに僕は女慣れしてないからね。君の狙い通り、告白されて簡単に舞い上がったよ」
 茫然自失の絵梨香に構わず、中田はさらに暴言とも言える台詞を紡ぎ続ける。言葉が一つ付け加えられるたびに、絵梨香の大きな瞳には涙が溜まっていった。
「馬鹿みたいに君のわがままをきく僕の姿は、さぞかし可笑しかっただろうね」
「……ずっと、そんな風に思ってたの?」
「え?」
「そんな風に思いながら、アタシと付き合ってたの?」
 両目いっぱいに湛えた雫を必死に零すまいとする絵梨香の表情は、ひどく傷ついているように見えた。
 ――どうして、そんな顔を今更する?
 散々傷つけられたのは、自分の方だというのに。裏切られ、陰で嘲笑われ続けていたのは自分の方なのに。
 それなのに、どうして傷つけた本人が、そんなに悲しそうな瞳をするのか。
 納得のいかない想いが、腹立たしさになり変わる。
気づけば、右手を思い切り振り抜いていた。
 勢いで絵梨香の体は参道脇へと飛ばされる。ガサガサと葉擦れの音を立てながら、絵梨香の体は参道脇に生える杉の木に叩きつけられた。くぐもった呻き声が小さく漏れる。
 その声に、中田は今自分が絵梨香に放った行為に気がついた。
 絵梨香は杉の木にもたれかかったまま、ぐったりと座り込んでいる。慌てて助け起こそうと側に跪いた。
「ご、ごめん。絵梨香、大丈夫――」
 手を掴んで引き起こそうとする前に、脱力した体がずるりと滑り落ちる。咄嗟に抱き留めると、髪の毛の隙間からじっとりと染み出したぬめりが手の平にへばりついた。
 片手で絵梨香を支えながら、恐る恐る濡れた手の平を目線の位置まで持ち上げる。
 薄暗い外灯の灯りでも確認できる、赤い滴り。
 血の気が引く。苛立ちなどとうにどこかに吹き飛んでいた。代わりに生まれるのは焦りだ。
「で、電話……。救急車を、呼ばないと……」
 自らを落ち着かせようと呟いた言葉は、頼りなく震えていた。声だけではない。全身に生じた小刻みな震えで、携帯電話を取り出すことすらままならない。
 ――デモ、何テ説明スルンダ?
 ようやく準備できた携帯電話を目の前にして、脳裏でもう一人の自分の声が響く。
 どくん、と鼓動がひときわ大きく鳴った気がした。
 感情に任せて絵梨香を殴り飛ばし怪我をさせたのは、他ならぬ自分自身だ。それなりの処罰が下されるのは明白だった。
――ソンナモノ、オマエガ負ウ必要ガアルノカ?
 問われる声に当たり前だと返すが、それでも脳裏に次々と新たな問いが届けられる。
 ――コノ女ニ、救ウ価値ガアルノカ?
 ――オマエヲ騙シタ女ダゾ?
 ――オマエノコトナド、欠片モ考エテイナイ女ダゾ?
 ――他ノ男ニ惚レテイルノニ。
 浮かんでは消えていく言葉たち。絵梨香を蔑む幾つもの言葉を、否定しては打ち消す。
 ――放ッテオケバイイ。
 ――オマエハ何モ悪クハナイ。
 ――コレハ、因果応報ダヨ。
 だが、繰り返す否定の言葉が、いつしか肯定へと変化していることに、中田は気づかなかった。
 しばらく後、絵梨香の体がをざらついた地面の上にそっと横たえられる。
 ふらりと立ち上がった中田の瞳は虚ろで、何の感情も見えない。
 ゆるりと踵を返し、覚束ない足取りでその場を後にする中田。
 暗い参道には、力なく横たわる絵梨香の姿。
 そんな二人の姿を、薄雲から覗く月が冷やかに見つめていた。