七夜月奇譚

伍 月下の咎人 01

 不断桜にもたれかかり、力なくだらりと腕を垂らして、首筋から鮮血を滴らせる少女の姿。それは、少し前にも見た光景と酷似していたが、大きく一つだけ違うことがあった。
 倒れているのは、後藤絵梨香ではなく、城宮郁。行方の知れなかった、もう一人の少女へと姿を変えていたのだ。
 坂野によると、絵梨香の姿が無くなっているというだけだったが、今はその代わりとでも言うかのように郁がそこに横たわっていた。
 温い夜風が、雲を、樹々を、そして物言わぬ郁の黒髪を揺らす。もう一歩、尚志は歩み寄り、ゆっくり跪くとその細い手首に軽く触れた。本来ならばとくとくと指に伝わるはずの拍動は、まったく感じられない。ただ、まだ微かに残る体温が、それほど時間を経過していないことを伝えていた。
「吉良君」
 控えめに呼び掛ける坂野に、尚志はゆるりと頭を振った。それだけで、その場の誰もが手遅れであったことを知る。
 その場に縫い止められたように動けなくなっているメンバーを置いて、坂野とサトカが郁の側まで歩み出た。それぞれに膝をつき、遺体の検分を始める。
「後藤絵梨香さんの場合と同じ、と見ていいわね」
「そのようですね。……サトカさん、これは……」
 坂野の声と視線に促されるように、尚志とサトカの視線が郁の右手へと向けられた。その細い指先には、外灯の光を鈍く反射させ、赤黒い液体の付着したナイフが握られていた。その事実が示す可能性に、坂野とサトカの表情に翳りが差す。一瞬尚志に視線を向けた後、坂野はいまだ項垂れている中田に振り向いた。
「君が来た時から、彼女はこの状態だったのかな?」
 坂野の問いに力なく頷くと、中田はゆっくりと顔を上げた。その蒼白な顔を、郁へと向けると、震えた声で続ける。
「まさか、こんな……。確かに僕は城宮さんを疑いましたけど、本当に彼女が……」
 郁の右手に握られたナイフは、明らかに首筋の傷の原因だろう。そうなると、郁自身が自ら首を切ったものだと解釈するのが自然だった。坂野とサトカも、そして中田も当然そう考えたのだ。そして、もし郁の死が自殺なのだったら、絵梨香の死も郁の手によるものと疑わざるを得なかった。
 信じられない、と絞り出すような声で呟く中田に、坂野とサトカも続けるべき言葉を見つけられなかった。だが――。
「どうして、郁が自殺だって決めつけるんだ?」
 一際低い声を発したのは、尚志だった。常から纏う冷静さに、今は冷然とした鋭さが加わっている。その迫力に気圧され、中田は言葉を詰まらせた。
「どうして、って……」
「郁の手に、ナイフがあった。それは事実だ。だが、第三者に殺害されて、その後握らされたという可能性だって充分にある。それに郁は、何があっても自殺なんてしない」
「で、でも、もしかしたら、良心の呵責に耐えられなくなって、ってことも……」
「私も!」
 それまで黙っていた麻子が、離れた場所から割って入るように叫んだ。今の状況が受け入れ難い為だろう。瞳は潤み、すでに幾筋かの涙の痕が見える。それでもまだ、力強さを残した声で、反論をした。
「私も郁ちゃんは、絶対に自殺なんてしないと思います! そして、絵梨香ちゃんのことも! 郁ちゃんは自分自身も含めて、命を粗末にするような子じゃ……っ」
 後半は溢れ出した涙に埋もれ、言葉を途切れさせてしまう麻子。慰めるように貴子がその肩を抱いた。
 尚志は一旦目元を緩ませ、麻子に穏やかな視線を送ると、再び厳しい表情へと戻った。郁の傍から立ち上がると、尚志は何かを確認するように辺りをぐるりと一周見回す。それから、ピタリと隣の坂野達に視線を定めた。
「それに、もし郁が後藤を殺した犯人で、これが自殺なのだとしたら、こんなに回りくどい真似をする必要があると思いますか? 郁の身長は一五〇センチ程度。後藤とは十センチ近く違います。いくら武道の心得のある郁でも、自分よりも大きな体の後藤を動かすのはかなりの労力を必要とするでしょう。何より、あれほど出血していた後藤を運べば、郁の衣服にだって血痕がつくはず」
 そう言われてみればと、慌てて坂野はハンカチを取り出し、慎重に郁の身体を動かし、本人の出血以外の血痕がないかを確認する。サトカもそれを手伝いながら、改めて細かく遺体を調べ始めた。それまで黙って話を聞いていた他のメンバーたちも、坂野とサトカの作業を祈るような思いで見つめていた。
 絵梨香に続く、郁の死。それだけでもメンバーにとってはショックな事実なのに、その上で郁が自殺であり、絵梨香を殺害した犯人だったなどということになれば、その苦痛は二倍にも三倍にもなってしまう。しかし、他に犯人がいるのであれば、そこに悲しみや怒りの矛先を向けることができるのだ。
「不自然な血痕は見当たりませんね」
「ええ。頸動脈を切った割に出血量も少ない。それに、わずかだけど扼痕(やくこん)がある」
「扼痕? じゃあ……」
 皆まで言わずとも、坂野の言いたいことが伝わったのだろう。緊張した面持ちでサトカはゆっくりと頷いた。それを受けて、坂野は硬い表情のままの中田に振り返る。
「君は、怪しい人影を見つけて追っていったんだろう? その男は?」
「……え?」
 突然だった為か、中田は咄嗟に坂野の問いに反応できずにいた。しかし、ややあって我に返ると、すみませんと弱々しい謝罪が零れた。
「それは、そいつに追い付けなかった、ということでいいのかな?」
「……はい。ここにくる途中の分かれ道で見失って……。どっちに行ったのかわからなかったので、二の峰の方に向かったんです。やっぱり、その……また絵梨香の姿を見るのは辛かったですし。でも、摂社の辺りまで行った時に、何だか妙な胸騒ぎがして桜の方が気になってきて、それで引き返してここに来てみたら……」
 絵梨香ではなく郁が横たわっていたのだとそう続け、中田は蒼白な顔を伏せた。
 時間的な関係からいけば、中田の説明には納得がいく。しかし、坂野には幾つか合点がいかないこともあった。
 坂野は間の峰を出てから、もう一度確認の為に三の峰まで下りていた。その後二の峰を経由して一の峰まで上り、不断桜のところまで戻ってきた時点で絵梨香の遺体が無くなっていることに気付いたのだ。その間、当然誰とも遭遇していない。
 しかし、中田の話と照らし合わせると、一旦犯人は中田を撒いて絵梨香の遺体を移動させた後、坂野に会わないように姿を隠し、それからまたこの場に戻って郁を殺害、もしくは郁の遺体を運んだことになるのだ。
 随分と手間をかけている。追われる立場であるのに、そんなことをするのだろうかという思いと同時に、まるで坂野や中田の行動をすべて見通しているかのようだった。
 何もかもわかって、網の目をかいくぐるように立ち回る、姿なき殺戮者。得体の知れない不気味さが、背中を這い上がるような薄ら寒さへと成り変わってゆく。その気味悪さを感じているのは、坂野だけではなかった。
「やっぱり……おかしいっスよ」
 皆が黙り込んでしまった中、顔色を失くした井隼が、震えた声で沈黙を破った。
「おかしいじゃないっスか! これだけ坂野さんや俺たちが走り回っても、全然犯人らしき相手を捕まえられないなんて! いくらこの神社が広いからって、どっかで出くわしても全然おかしくないのに!」
 井隼のヒステリックに叫びながら、その場の全員に同意を求めるような視線を送る。そして、憎悪と恐怖の入り混じった瞳を不断桜に据えた。
「『祟り』とでも言わなけりゃ、説明できないじゃないですかっ!」
 井隼が『祟り』を持ち出す度に否定してきた貴子や聖も、今回は何も言わずにいた。否、何も言い返せなかったのだろう。それほど、今の状況は特殊で奇異なもののように感じられたのだ。
「……『祟り』、か。本当にそんなものがあると思うのか、井隼」
 そんな中、そうぽつりと問いかけたのは、尚志だった。
 質問を向けられた井隼は、強く言い切っていた割にはたどたどしく、「それはその……」と口籠る。『祟り』だとしか思えない。けれど正面切って『祟り』があるのかと訊かれてしまうと、全面的に肯定するには何かが足りない気がしていた。
「なら、簡単な実験をしてみよう」
「え?」
 尚志は短くそう言うと、誰かが止める間もなく、もう一度不断桜の側にしゃがみ込み、皆の目の前でその花枝に触れてみせた。
「吉良さん!」
「吉良先輩っ! 何して……!」
 井隼と麻子が悲鳴にも似た声を上げ、貴子や片岡、そして中田までもが目を瞠る。しかし、当の尚志本人は、何食わぬ顔で立ち上がると、不敵とも思える笑みを見せた。
「これで俺が郁や後藤と同じような目に遭えば、『祟り』は本物になる」
「何考えてるんですか! もし本当に吉良先輩に何かあったら……!」
「何もあるわけがないんだよ、亘理。『祟り』なんてない。この事件は心霊的な何かじゃなくて、人為的なもので全て説明がつくんだから」
 妙に確信を持った尚志の物言いに、それでも麻子は不安を隠しきれなかった。麻子だけではない。井隼も、貴子も、片岡も。誰もが『祟り』の存在を信じそうになっているこの状況では、尚志の行動は軽率なものにしか見えなかったのだ。
「それで、どうしますか、坂野さん」
「あ、ああ、そうだね。……君達は、やっぱりここにいるのは辛いんじゃないか?」
 絵梨香の時と同様、坂野は大学生達の心中を考慮して、この場を移動した方がいいと判断したようだった。何より話を聞く限り、自分に指示を仰いだ青年自身が、遺体となった少女ともっとも親しかったはずだ。確認の意味も込めて、坂野はまた間の峰に戻った方がいいのではないかと提案をした。
 だが坂野の意に反して、尚志はゆっくりと首を横に振った。
「いえ、間の峰はちょっと……」
「何か都合が悪いのかい?」
「郁や後藤が発見されたのはここです。何らかの意図があってこの『不断桜』の側が選ばれている。だとしたら、ここからかなり離れた場所にある間の峰だと、次に何か起こった場合に遠過ぎると思いませんか?」
 尚志の説明に、それを聞いていた誰もが、ますます血の気の引いた表情へと変わった。
 『次』に『何か』が起こった時。『何か』が起きると決まったわけではない。けれど、起きないとも言い切れない。そして、その発言元である尚志が、自ら『祟り』などないと証明しようとして『不断桜』に触れた。もし『祟り』が本物ならば、『次』の『何か』は尚志の身に起こる可能性が高いのだ。
「ちょっと待て、尚志。おまえの言ってることは矛盾してるだろ」
 それまで黙って聞いていた片岡が、尚志の意見に異を唱えた。その顔は、悲痛とも思える色を滲ませている。対照的に尚志の方は、常にも増して淡々とした、言い替えれば冷淡とも思えるような声音で「何が?」と短く返した。
「『祟り』はないって言うなら、『次』に『何か』起こるなんて有り得ないんじゃないのか?」
「そうだな。俺は『祟り』はないと思ってるよ」
「だったら!」
「だが、まだ証明されていない段階では、その可能性は残っていると思うんだが?」
 あまりにも他人事のように言い放つ尚志に、片岡はグッと言葉を詰まらせた。そして、悲痛を通り越し、怒りを滲ませた鋭い視線を送る。
「おまえ……!」
「坂野さん、一の峰に向かうのはどうですか?」
 文句を言おうとした片岡の言葉を無視して、尚志は坂野へと話しかけた。
「一の峰に?」
 片岡に気遣うような視線を向けながらも、坂野はそれに応える。片岡はそのまま言葉を飲み込むしかなく、代わりに溜め息を吐き出した。
「はい。あそこならば社務所も近いので、いざとなればドアを蹴破ってでも中に入って、連絡を取れると思います。『不断桜』からもそれほど離れていないですし、境内の中では一番外灯が多かったですよね? 参道も広いので、見通しだって良い」
「……うん。確かに、それはそうかもしれないね。それに、他の場所と違って参道が一か所しかない。犯人が現れる方向を限定できるというのは大きいね」
 坂野が尚志の意見に賛同し、そのまま一同の行動が決定されてしまった。その決定に反対する者はいない。だが、尚志の強引とも言える態度に誰もが不安を感じてはいた。郁の惨状を目の当たりにして、自暴自棄になっているのではないか。そんな風に見えてしまっていたのだ。
 各々が悲しみと恐怖と不安の入り混じった複雑な気持ちを抱え、それでも一の峰へと延びる参道に向かうことにする。先頭を坂野、殿を尚志が受け持つことに決まると、重い足取りでぞろぞろと歩き始めた。
 麻子は隣を歩く聖の手を握りながら、そっと最後尾の尚志の様子を窺う。樹木の影ではっきりと表情が見えず、何を考えているのかも読み取れなかった。けれど、その心中を推し量ると、どこまでも胸が塞がるような思いになる。それを堪えるようと、自然と手を強く握り締めていた。
「麻子ちゃん」
「あ、ごめんね、聖ちゃん」
「ううん、いいの。むしろ、私の方こそごめんなさい」
「何で聖ちゃんが謝るの? 聖ちゃんは、私たちの所為で事件に巻き込まれちゃったのに……」
 自分が聖を誘わなければ。そんな後悔が、どうしても麻子の頭から離れない。聖はただ、思い出の桜を見に来ただけだ。強引に誘ったりしなければ、今頃は家で家族と平和な時間を過ごしていただろう。
(それに、郁ちゃんも……)
 思わずこみ上げる涙に、胸が詰まる。
 この星見の宴に郁を誘ったのは麻子だ。七夕に星見を開くと決まったとき、真っ先に郁を誘おうと言い出したのだ。理由はいたって単純。今日七月七日が、郁の誕生日だったからだ。折を見て、郁の誕生日だということをみんなに伝え、全員で盛大に祝おう。そんなサプライズ企画を考えていた。それなのに――。
 脳裏にチラチラと浮かぶ、郁の無残な姿。祝うべきめでたい日に、おめでとうの一言をかける間もなく、物言わぬ姿になってしまった。
「麻子……」
 後ろを歩いていた貴子が気づき、そっと麻子の肩を抱く。不気味なほど静かな参道に、麻子のすすり泣く声が余計に寂しさをかきたてた。
 そろそろと歩みを進めると、やがて神明造の屋根が雑木の合間から顔を出し始める。薄ぼんやりとした常夜灯の灯りが、その場を厳かに演出していた。
 尚志の言うとおり、一の峰はその他の場所よりも明るい。その所為か、それまで感じていた忍び寄るような気味の悪さは少し薄れ、代わりに清浄な空気に満たされているようだ。だが、それで楽観的になどなれるはずもなく、口数の少なさは変わりようがなかった。
 麻子、聖、貴子は石段に身を寄せ合って腰掛け、そのすぐ傍に三人を庇うように片岡と井隼が立っている。中田は未だにわだかまりが溶けずにいるのか、少し離れて石灯籠にもたれていた。一方尚志は、皆から少し離れた石段に座り、顎に手を当てて深く考え込んでいるかのよう。
 その様子に溜息を零したいような気持ちで、サトカは坂野に話しかけた。
「携帯も通じない。外にも出られない。そして、姿が見えない殺人犯。八方ふさがりね」
「そうですね。せめて、社務所に叔父君が残って下さっていたら良かったんですが」
「……叔父様がいたからって、どうにかなる事態かっていうと怪しいけどね」
 どこか意味深な物言いをするサトカに、坂野はどういう意味なのかと問い質す。するとサトカは、ちらと大学生たちに目を向けながら、坂野にだけ聞こえる程度の囁くような声で語り始めた。
「携帯のことも出られないことも、どう考えても異常でしょ? それこそ、超常現象だとか心霊現象って言葉じゃないと、説明の付けようがないじゃない」
「じゃあ、あの子たちの言う『不断桜の祟り』だとでも言うんですか?」
「それはないわ、絶対に。何度も言ってるけど、あの樹には祟りなんてないし、あの樹の伝承も血塗られたような話じゃないのよ」
「だったら、他に何が……」
 坂野の声には、自らの手に負えないとつくづく実感し、諦念と失望が入り混じっていた。
「『この世の中には、私たちが知り得ないような存在や出来事がたくさんある。それは気づかないだけで、いつだってすぐ側にいるのだ』。叔父様は、そう言ってらっしゃったわ。そして、『そんな時、自分のような取るに足らない存在にできることなど何もない』ともね。多分、今のこの現象もそういうものの一つなんだと思うの」
「もし本当にそうだったなら、僕たちにはなおさらできることがないじゃないですか」
 坂野は本来、我が身を顧みずに一般市民を守るべき立場の警察官だ。しかし、今直面している事態の前では、その肩書きも経歴も身につけた知識や逮捕術さえも、一切役に立たない。それが、歯噛みしたくなるほどもどかしかった。そんな坂野の思いを汲み取ったのか、サトカは励ますようにそっと肩に手を置く。
「そんなことないわよ。今目の前にいるあの子たちを守るくらいのことはできるんじゃない?」
 自信ありげにサトカがそう微笑んだ丁度その時、それまで黙って考え込んでいた尚志が二人に向かって歩み寄ってきた。
「坂野さん、中院さん。一つお願いをしてもいいですか?」
「どうしたんだい?」
「『不断桜』のところに、戻りたいんです」
 その短い一言は、その場の静寂に大きな波紋を広げた。途端に空気が張り詰める。
「吉良君、今ここに着いたばかりじゃないか。大体、君がここに移動しようと提案したんだろう?」
「ですから、みんなで戻ろうと言っているんじゃありません。俺が戻りたいんです」
「バカか尚志! わざわざ一人になったりしたら、殺してくれって言ってるようなもんだろうが!」
 さきほど蔑ろにされた所為か、片岡が尚志の胸倉に掴みかかり罵倒した。それは怒りもあるが、それ以上に尚志の身を案じてのことだ。しかし、尚志はそれに動じる様子もない。
「それはわかってるよ。だから、中田についてきてもらうつもりだ」
「え? 僕、ですか……?」
 意表を突かれた中田が、呆然と尚志を見つめ返す。あまりに突拍子もない発言だったため、片岡の手からも力が抜け落ちていた。その隙に尚志はするりとすり抜ける。
「吉良君、ちゃんとした説明をしてくれないか? 何故いまさら桜に戻る必要があって、それに中田君を連れていこうと言うんだい?」
「そうですね……」
 坂野のもっともな台詞に、尚志はぐるりと周りを見回す。一人一人の表情を確認するように見つめたかと思うと、携帯電話を取り出した。ディスプレイには、相変わらず圏外の文字。通じる気配はない。特にそれを操作するわけでもないままポケットに戻すと、何かに納得するように小さく頷いた。
「簡単に言うと、俺はこの事件の真相にだいたい見当がついているんです」
「本当ですか! 吉良さん!」
「じゃあ、犯人がどこにいるのか、何してるのかもわかってんのか?」
 にわかに表情を明るくする井隼とは対照的に、片岡は厳しい表情のままで問い詰める。それは尚志の言葉をほとんど信用していないことを示していた。他のメンバーも半信半疑といった色を隠せず、尚志に対して絶大の信頼を置いている麻子でさえ例外ではない。
 疑問の色濃い視線を仕方がないと言わんばかりに嘆息で受け止めると、尚志は少しばかり億劫そうに口を開いた。
「犯人、ね。まあ、わかっているといえばわかってるな。だからこそ、桜に戻って確認したいことがあるんだ」
「何だよ、その勿体ぶった言い方は。わかってるならはっきりと言えよ」
「そうだよ、吉良君。それに、桜に戻って確認するって一体何を――」
「郁が消えているかどうか、ですよ」
 ピシリと坂野の声に尚志が被せる。誰もが、思いもしなかった答えに声を失った。
「そもそも、どうして誰も動かしていないはずの後藤の姿が消えたと思う? そして、消えた後藤はどこに行ってしまったんだ?」
 不断桜にもたれかかるように蹲り、こと切れていた後藤絵梨香。そして、まったく同じ格好で発見された城宮郁。絵梨香の姿は消え、郁が現れた形だ。だが、郁が遺体で発見されたことにばかり気を取られ、絵梨香の行方について誰もがすっかり失念していた。
「後藤と郁の状況はかなり似通っている。いなくなった時間帯。見つかった場所とその時の状態。もしそれが意図的に行われたことならば、……今頃郁はどうなっていると思う?」
 誰に向けられたわけでもない問い。否、問いの形を取ってはいるが、明らかに一つの答えに導いていた。誰かがごくりと喉を鳴らす音が聞こえる。震える声で答えたのは、井隼だった。
「まさか、城宮さんも、消えてる……?」
「それを確認する為に行く必要がある」
「でも、どうして僕なんですか?」
 指名された中田は、あからさまに訝しむ様子だった。当然だろう。今までにも何度も対立し、未だにわだかまりは消えていないことは明白だ。いつもの尚志ならその辺りを考慮して人選してしかるべきだった。
「もし、郁が消えていなければ、後藤の時と状況が違うと考えるのが妥当だ。そしてその場合、郁と後藤の状況の違いを再確認しなければならない。二回とも現場をしっかり見ているのは俺と中田、そして坂野さんたちだけだ。だが、坂野さんに来てもらうとここに残るメンバーに不安が残る。もちろん、中院さんが一緒に行くのは危険すぎる。だから、俺と中田が二人だけで行くのが最善だ」
 淡々と、だが淀みなく流れ出る説明に、反論する声はない。本来止めるべき立場であるはずの坂野やサトカまで、一言も発さずに押し黙っていた。尚志は坂野たちの方に向き直り、更に続ける。
「確認さえ済めば、さっさとここに戻ってきます。その時にはちゃんと俺の考えも今後のことについてもお話しするつもりです」
「しかし……」
「わかったわ」
 渋る様子の坂野に代わり、サトカが簡潔に返事した。迷いのない声だった。
「サトカさん、いくら何でも危険ですよ」
「じゃあ訊くけど坂野クン、この事件を解決するために何かできることが他にある?」
「そ、それは……」
 尚志に言われるまま一の峰に移動はしたものの、これからどうすべきなのか、建設的な考えが一つも思い浮かばない。何もできることがないと、ほんの数分前に嘆いていたのは他でもない坂野自身だったのだ。
「吉良クンには何か考えがあって、今のところそれ以外に縋るものがない。だったら躊躇う理由がないじゃない。ここでみんなで固まって蹲ってても、何も変わらないでしょ」
 サトカの言葉を噛み締めるように、坂野は地面を睨みつける。しばらくそのまま黙りこんだが、覚悟を決めたように顔を上げた。
「……わかりました。吉良君、絶対に無茶はしないと約束してくれるかい?」
「当然です。俺だってこの歳で死にたくはないですからね。すぐに戻ってくるので、とりあえずここで月の女神様にでもお祈りしておいてください」
「月の女神?」
 突然軽い口調で言う尚志の言葉が、この状況にはひどくそぐわない気がして、坂野は思わず訝しげに問い返す。すると尚志は、いつになく余裕溢れる笑みを口元に刻んだ。
「あれ? 知りませんか? この神社の主祭神はツクヨミ、水鏡とは月の別称なんですよ」
「ツクヨミって男じゃなかったっけ?」
「一般的にはそうですね。でも、ここのツクヨミはちょっと変わり者で、罪科を浄化してくれる女神様なんですよ」
 不敵にさえ見える笑顔で、尚志は空を見上げる。それを見計らったかのように、それまで厚く空を覆っていた雲が切れ、仄かな光を放つ弓張り月が顔を出した。
 果たしてそれは吉兆なのか、それとも凶兆なのか。今はまだ、誰にもわからなかった。
「じゃあ、行ってきます。中田は懐中電灯を持っていたよな?」
「はい」
「井隼、おまえのを俺に貸してくれないか?」
「もちろんっす! あの、吉良さん、気をつけて行ってきてくださいね」
「わかってるよ。すぐに戻る」
 不安げに電灯を差し出す井隼に常と変わらない穏やかな笑みを向け、それをしっかりと受け取る。そして残される研究会メンバー全員を見渡すと、片岡のところで視線を止めた。
「こっちは任せたぞ」
「……ったく、おまえのそういうところがオレは嫌いなんだよ」
「知ってるよ。で、それをわざわざ言わずにはいられない晃己のそういうところが俺は好きなんだよ」
「バーカ! 気持ち悪いこと言ってないでとっとと行ってこい!」
 片岡の照れ混じりの怒声に背を押され、尚志は中田を促して参道へと向かい始めた。数分前に通ったばかりの下り道の闇の中に、二人の影が飲み込まれていく。尚志の残した言葉の所為ではないが、自然と皆が祈るような思いでそれを見送っていた。