七夜月奇譚

肆 紐帯の綻び 02

 声の主は井隼だ。今まで以上に強張った表情で小刻みに震え、自らの身体を抱き抱えるように縮こまっている。
「俺がいい加減な気持ちで桜を触らせたりしたから……、だから俺達もここから出られないんだ! みんな殺されるまで……!」
「馬鹿なことを言うな! 『祟り』なんてあるはずないだろう!」
「じゃあ、何で後藤がこんなことになってるんですか!? 携帯も通じないし、外にだって出られない! これが『祟り』じゃなきゃなんなんですか!?」
 いつもは尚志に逆らうことなどない井隼が、真っ向から反論する。尚志はそれに上手く答えることができず、言葉を詰まらせた。
 『不断桜の祟り』の話を知っている他の面々も、井隼の言葉に納得する要素しか見いだせない。
 だが、
「そんなもの、ありません」
 それまで大人しく見守っていた聖が、ぽつりと呟いた。その声は小さいながらも、力強さを含ませている。
「この桜に、『祟り』なんてありません」
 更に言葉を重ねる聖には、今までに見せた優しく儚げな印象はどこにもなく、どこまでも毅然とした声と表情だった。
 その強い思いに押されるように、井隼はそれ以上祟りだと主張することができなくなる。
「何で……そんなこと……」
 それでも納得はしきれないのか、井隼は弱々しく問い返した。聖は桜へと視線を向け、ゆっくりと口を開く。
「井隼さんが仰っていた『祟り』の由来になる話が、そもそも間違っているからです。そうですよね?」
 そう同意を求めた先はサトカだった。突然話をふられてサトカは戸惑ったが、混乱している大学生たちを冷静にさせる好機だと判断し、素直に頷く。
「そうよ。君達がどんな話を聞いてきたのか知らないけれど、この樹が祟るなんて事実はないし、この花が咲き続けている理由にも祟る要素なんて全くないわ」
「でも、それじゃあ何でそんな噂が……」
「大方、こんな風に咲いているのが珍しいから、誰かが勝手に元の話を面白おかしくねじ曲げたんでしょう。こっちとしては不愉快なだけだけどね」
 憤慨するように説明するサトカに、井隼は黙り込む。しかし、結局電話が繋がらないことや外に出られないことには変わりがなかった。それを説明できる者は、ここにはいない。
「さ、こんなことを言ってても何かが変わるわけじゃないわ。とりあえず建設的なことを考えましょう」
 サトカは気を取り直してそういったものの、内心ではこの状況をどうすればいいのか皆目見当がつかなかった。
 携帯電話が突然圏外になったり、境内を出ようとした坂野がこの場に戻されたり、本来なら有り得ない出来事が起こっているのだ。得体の知れない力が働いているとしか思えなかった。
「あの……」
 控えめに麻子が声を上げる。不安そうに尚志の方へと視線を向けていた。それだけで、尚志は麻子が何を思っているのか想像がつく。
「郁ちゃん、探さないと……」
「わかってる。俺が行ってくるよ」
 絵梨香がこんな姿で発見された以上、未だ行方の知れない郁の安否が気遣われるのは当然だった。尚志は郁の無事を確信しているのだが、他のメンバーはそうもいかないだろう。皆を安心させるためにも、早急に郁と合流すべきだと思い、尚志は参道に向かって歩き出す。
「吉良君、ちょっと待った! いくら何でも、殺人犯がいるかもしれないのに一人で動き回るのは危険だよ」
「けど、郁を一人にしておくわけにもいかないでしょう」
「それはそうだけど……」
 坂野は尚志を上手く説得する為の方法を考える。
 確かに、単独行動をしている少女の安否は気遣われるのだが、かといって自分がこの場を離れ、残された大学生達やサトカの身に何事も起こらないとは言い切れない。
 尚志が有段者だとは聞いていたが、それでも彼一人に任せることも気が進まないのだった。
 せめてもう一人、自分の信頼できる相手がいて欲しいと坂野は切実に願った。
「……そもそも、どうして城宮さんはいなくなったんですか?」
 力なく零れた声に、全員の視線が集中した。未だ虚ろな表情のままの中田が、尚志へと視線を向けている。
「どうしてって、忘れ物をしたからって……」
「忘れ物? 大した荷物も持ってなかったのに?」
 たどたどしい麻子の説明に、中田は鋭く問い返す。その声にいつもの穏やかさはなく、暗い闇のような色に染まっていた。
 そして誰もが、中田の言わんとしていることに気付かされる。
 郁がいなくなった原因が、絵梨香の惨事と関係があるのではないかと言いたいのだ。
 当然、それに対して尚志が黙っているはずがなかった。
「郁が後藤を殺した、とでも言いたいのか?」
 激情するでもなく、常と変わらない落ち着いた様子に見えるが、声のトーンは低く、目つきにも僅かな鋭利さがあった。
 二人の間に、張り詰めた空気が流れる。
 しかし、中田は一分の躊躇いも見せずに答えた。
「今の状況を考えたら、それが一番自然な答えじゃないですか? 僕達以外の人間をこの神社に来てから見ましたか? 今ここにいるこの人たち以外、誰一人見てないじゃないですか」
 中田の理路整然とした説明を受けて、誰もがその言葉に納得させられそうになる。
 しかし、郁に絵梨香を殺す動機などないという思いも同時に生まれるのだった。
 尚志はそれを盾に反論をしようとするが、それよりも早く中田は言葉を続けた。
「何より、絵梨香と城宮さんがいなくなった時間は一致している。僕を振り切った後に、城宮さんと絵梨香が出くわしたって考えれば、辻褄が合うでしょう。城宮さんが忘れ物なんて嘘ついて、一人離れた理由は絵梨香と接触する為だったとしたら……」
「だが、郁に後藤を殺す動機なんかないだろう。後藤は郁を嫌っていたようだが、郁は別にそれを気にしてはいなかった」
「動機? そんなもの、なくたって人は殺せますよ。もし絵梨香の方から城宮さんに突っかかっていったんだったらどうです? 幾ら城宮さんが温厚な性格してたって、カッとなることだってあるんじゃないですか?」
 尚志が何を言おうと、中田は郁を犯人として疑っているようだった。
 どう論破すべきか考えていると、意外なところから助け船が出された。
「あのさ、君達は見てないみたいだけど、僕たちの他にも黒ずくめの男がいたよ。吉良君は一度見てるよね」
 そういって坂野が確認を取るのに、尚志は丁度いいとばかりに頷いた。
 自分自身以外の証言というのが、何よりもありがたい。
「ああ、はい。ちょっと動揺してて、すっかり忘れていました」
「黒ずくめ?」
 中田の表情が、少しだけ緩む。
 あ、と思い出したように麻子が声を上げた。
「そういえば絵梨香ちゃん、着いた時に変な男に追いかけられたって言ってましたよね」
 麻子の言葉に、全員が絵梨香の到着した時のことを思い返す。絵梨香が「変な男にも付きまとわれるし散々よ!」と当たり散らしていた記憶が確かにあった。
 それに触発されたように、中田は絵梨香を捜している時のことを思い出した。
 二の峰へと向かう参道の途中、摂社のすぐ側。髪も服装も漆黒に彩られた、謎の人影を見たことを。
「……僕も、見ました」
「中田も?」
 先ほどまで完全に郁を疑う態度だった所為か、少しばかり中田の言葉に力がない。
 尚志の促すような問い掛けに、きまり悪げな表情で頷いた。
「少し前に、二の峰へ向かう参道の途中で。暗かったんで、顔も見えませんでしたけど、その人の言うように黒ずくめで……まるで死神みたいだって思ったんです」
 最後の一言で、誰もが息を呑むのがわかった。
 絵梨香の発言や坂野達の証言では、ただ怪しいだけの黒ずくめの男の存在が、一気に不気味さを増す。
「それで、その男の行方は?」
 坂野が穏やかな声音で訊ねるが、中田はそれに項垂れて首を振る。
「見失いました。忽然と、いなくなったんです」
「それは、どれくらい前の話かな」
「ここに来る、十分くらい前だと思います」
「じゃあ、僕たち三人があの男を見つけた少し前だね。吉良君は?」
「俺も、結局すぐに撒かれました。それに、その少し後に井隼の叫び声が聞こえてきたんで……」
「なるほど。じゃあ、その男は被害者を殺害後に二の峰方面に逃げようとしたけど、中田君を見つけて方向転換したんだね。そのあと今度は僕たちに見つかって、吉良君を撒いて逃げ切ったってことか」
 二人の証言を照らし合わせ、坂野が冷静な口調で犯人と思われる男の行動を推測する。
 坂野の推理が正しいかどうかは誰にも判断はできない。
 けれど、少なくともこの神社には自分達以外の第三者がいて、その人物が事件の発端だと考えることが自然に思えた。
 否、そう思うことが、一番楽な方法だった。
「それより、郁を捜しに行かないと」
「わかった、僕が行こう。君達はここ……はさすがに居づらいよね」
 遺体の――しかも無惨な姿に変わり果てた仲間の側には、流石にいられないだろう。
 かといって、警察が来るまでに移動をさせてしまうわけにもいかなかった。
 学生たちを少しでも安全な場所に避難させたくはあったのだが、残念ながら最適と思われる社務所には現在誰もいないことを知っている。
 しばらく考えてから、坂野は彼らがここに来る前はどこにいたのかを訊いた。
「間の峰です。あそこが一番広くて、星もよく見えるからと」
「星?」
「今日は七夕じゃないですか。だから星見をしようってことだったんです」
「ああ、そういうことだったの。祟りだとか言ってたから、てっきり肝試しでもしに来たのかと思ったわ」
 確かに肝試しにも似た気持ちを持っていた麻子、片岡、井隼の三人は、ひどく苦々しい気分になる。肝試し自体が何か問題があったわけではないのだが、それでも軽々しい気持ちで『不断桜』を見物に言った自分自身が、愚かで浅はかな人間に思えて仕方がなかった。
「間の峰なら見晴らしもいいし、外灯もそこそこあったな。よし、一旦全員で間の峰に戻ろうか。その道すがら、もう一度君達の行動を確認させてもらうよ」
 坂野が指示を出すのに、ばらばらと全員が頷く。
 出来る限り固まって歩き、少しの音でも意識しながら、坂野は一人一人に話を訊いていった。話をしていない他の者たちも、怯えを隠しきれない様子でのそのそと歩みを進める。
 普通に歩けば二十分もかからない距離なのだが、不安を抱えて歩む暗い参道は、まるで永遠に続いているかのような気持ちにさせた。
 参道を抜け、ようやく視界が開けると、それぞれの口から微かな安堵の息が零れ落ちた。
「うん、怪しい人影もなさそうだし、とりあえず君達はここで待機しているように」
「坂野さん、郁をお願いします」
 尚志が頭を下げると、任せておけというように坂野が大きく頷く。そのまま勢いよく今来たばかりの参道へと駆け出していった。
 ぼんやりと立っていても仕方がないと、尚志は宴会の名残りが見えるブルーシートへと腰を下ろすように促した。
 女性メンバーはそれに素直に従い、そろそろと固まって座る。
 けれど、靴を脱いで上がるわけでなく、ブルーシートの上に腰だけ据える形で誰もが座った。
 完全に腰を落ち着けてしまえる気分でもない。そして、平和にお酒を飲んでいた痕跡が視界に入ることに息苦しさを覚えたからだろう。
 うっと小さく嗚咽を洩らすと、麻子はこみ上げてくるものを抑え込むように、立てた両膝の上に顔を伏せた。その震える肩を、隣に座った貴子が抱き締める。
 反対側の隣に座っている聖も、蒼白な顔ながら麻子の手をぎゅっと握っていた。
 身を寄せ合う女子達とは違い、男性陣はそれぞれ視線を合わせることもなく、ただ無言でバラバラの場所に佇んでいた。特に、中田は井隼とも尚志ともかなり距離をとり、自分の視界に入らないようにしているかのよう。
 一時よりは落ち着いたとはいえ、それでも井隼が不断桜の話を持ちかけたことや、郁の不在を訝しむ気持ちが完全には消えていないのだろうと、尚志は心の中でだけ溜め息を零した。

 どれほどそうして無言の時が流れたのだろう。
 それまで項垂れるような格好で、皆より少し離れた場所に腰を下ろしていた中田が、むくりと立ち上がった。そのままフラフラと、参道に向かって歩き始める。
「ちょっとキミ、どこに行く気?」
 慌てて引き止めたサトカの声に、中田は緩慢な動きで振り返った。その表情はほんの数十分の間に憔悴しきり、今にも倒れてしまいそうなほど血の気が失せている。
「すみません。少し、一人になりたいんです」
「駄目よ。今が非常時だってことはキミもわかってるでしょ?」
「ほんの少しだけでいいんです。何なら、誰かに少し離れた距離でついてきてもらってもいいですから」
 どうしてもこの場から離れたいらしく、中田は退こうとしなかった。
 二人のやりとりを、他のメンバーも静かに見守る。
 現段階で最年長であり、この場での監督責任を坂野から請け負っているサトカにとっては、どうしても単独行動を許すことなどできない。
 けれど同時に、中田の気持ちも理解できないものではなかった。
 自分の恋人を突然亡くし、また原因になった――と本人は思っている――相手が同じ空間にいる。いたたまれない気持ちになっても仕方がないだろう。
「俺がついていきます。少しだけでいいんだろ、中田」
 迷うサトカに向かって声を発したのは片岡だった。
 片岡に向かって、中田は小さく頷く。
 相手が女性でない限り、片岡はこういう時に率先して動くタイプではない。けれど、状況的に自分が行くのが一番中田にとって気が楽だろうと思っての立候補だった。
 井隼と尚志では、中田にとってこの場を離れる意味がないのだ。そして、二人を除けばあとは女の子ばかり。そうなると自分が行くしかないと思えた。
「離れるっつっても、三、四メートルくらいしか離れないですよ。それに、十分もすれば絶対にここに戻ってきます。それでも駄目ですか?」
 片岡が中田の気持ちを慮って言葉添えをする。
 それでもサトカはすぐに承服するわけにはいかなかった。
 ここで彼らがこの場から離れることがいかに危ないことなのか。それを考えると、安易に頷くことはできない。
 けれど、このまま中田をここに留めおいては、彼が精神にますます追いつめられてしまうことも容易に想像がついた。
 散々考えた末、サトカはようやく結論を口にする。
「吉良クン、キミにここを任せてもいいかしら?」
「ええ、いいですけど……、もしかして貴女が中田についていくつもりですか?」
「そうよ、こっちの彼と一緒にね。それでもいいかしら、中田クン」
 サトカにとっての、最大の譲歩だった。それが中田にも伝わったのか、ありがとうございますと、囁くように答えて頭を下げた。
 中田を先頭にし、その数メートル離れた辺りをサトカと片岡が並んで後に続く。
 心配そうに見守る五対の瞳に見送られながら、三人の姿は参道へと消えていった。
「中田さん、やっぱり俺のこと許せないんでしょうね」
 完全に姿が見えなくなると、井隼が今にも泣き出しそうな悲痛な声で呟いた。
 それに対し、誰も言葉を返せない。いつもならば真っ先に励ますだろう麻子も、重く口を閉ざしていた。
 否定の言葉を口にしても、それは空々しく響くだけ。余計に井隼を苦しめるだけなのだとわかっていたから。
 重苦しい沈黙が降りると、風の音が妙に耳についた。
 ざわざわと周辺の樹々が一斉に枝を揺らす。そこにバサバサと鳥の羽ばたく音が混じった。数秒遅れて聞こえたのは、カァーという鳴き声。鴉だ。
 普段ならばそれほど気にはならない鴉の鳴き声。しかし、あんな事件のあった直後では、とてつもなく不気味に思えた。
 しかも、今はもう夜だ。鴉の活動する時間ではないはず。
 そう思った瞬間、井隼は我慢しきれなくなり、口を開いた。
「カラスが夜鳴くと人が死ぬって言うよな……」
「ちょっと井隼! 縁起でもないこと言わないでよ!」
「す、すんません。でも……」
 迷信であり、何の根拠もないとわかってはいても、嫌な予感がひたひたと忍び寄ってくる。井隼は落ち着きなく辺りを見回したかと思うと、突然立ち上がり、中田達の消えていった参道の方へと早足で近付いていった。
「井隼君!?」
「大丈夫。追いかけるわけじゃないから。ちょっと、ここで待ってたくて」
 居ても立ってもいられないといった様子で、井隼は暗い参道の奥を見つめていた。
 一方尚志も徐に歩きだし、井隼とはまったく違った方向へと向かっていく。
「吉良先輩?」
「さっきの鴉、こっちの方だろ? 気分のいいもんでもないから、追い払ってくるよ。まあ、鴉は自分の縄張りに近付く人間がいたら、夜だろうが威嚇して鳴くんだけどな」
 そう言いながら笑みを見せる尚志に、麻子はほんの少しだけ安堵し、同時に尚志の気遣いに感謝した。
 口には出さなくても、鴉の鳴き声に不吉な考えが頭を過ぎったのは麻子も同じだったのだ。同様に貴子や聖も、僅かばかりだが表情が和らいだように見えた。
 少し離れた樹上に鴉は止まったらしく、尚志がそちらに向かっていくとしばらくして飛び立っていった。暗い中でもちゃんと見えているのか、尚志はその姿が遠く離れていくのを見届けると、元の場所に戻り腰を下ろす。
「ちなみに、鴉が縁起悪いもののように言われるのは、西洋のイメージが強いからなんだけどな。東洋では、神の遣いという見方が多いから」
 更にその場を和ませるように、尚志が続けた。
 無言でいるよりずっと気が紛れると思ったのか、それに貴子が乗る形で頷く。
「そういえばそうね。記紀神話の神武東征の八咫烏もそうだし。中国では太陽にはカラス、月にはヒキガエルがいるって話もあるしね」
「え? 月にはウサギじゃないんですか?」
「もちろんウサギの伝説もあるわよ。飢えた老人の為に、火の中に飛び込んだウサギの話があるけど、聞いたことない?」
「あ、私知ってます。『今昔物語集』にあるお話ですよね」
 ぎこちなさを残すものの、まったく関係のない話をすることで、少しずつ嫌な緊張感が解れていく。
 それを持続させようと思ったのか、それまで口数の少なかった聖も積極的に言葉を繋いだ。
「カエルの方は、不老不死の薬を盗んで月に逃げた女神のお話じゃないですか?」
「よく知ってるわね、聖さん」
「外にあまり出られなかったので、本ばかり読んでいましたから」
「おおぅ、聖ちゃんにも知識で負けた……」
 がっくりと項垂れる麻子。それを見て小さな笑いが零れるほどまでに、その場は穏やかさを取り戻しかけていた。
 しかし、その数瞬後、その空気は氷点下にまで叩き落とされた。
「どうしたんですか!?」
 参道の前で中田の帰りを待ち構えていた井隼が、突然驚きの声を上げた。
 ブルーシートにいた四人の視線が一斉にそちらへと向く。
 尚志が素早く立ち上がり、駆け寄ると、他の三人も倣うようにその後に続いた。
 参道の入り口には、息を切らしたサトカの姿があった。
「途中で、人影を……見掛けたの。黒づくめの、男よ」
 切れ切れに話すサトカの言葉に、全員の表情が強張った。
 サトカは何とか呼吸を整え、一気にまくし立てた。
「中田クンがいきなり男を追って駆け出していったの。片岡クンは彼を追ってくれてるわ。中田クンはかなり思い詰めていたようだったから、何をするかわからないって……。君達に伝えないとと思って、私は戻って来たのよ」
「じゃあ、俺たちも早く探しに――」
 焦って飛び出そうとする井隼の腕を、サトカが掴まえて留めた。
 何故と言いたげな井隼に、サトカが柳眉を顰めて、青ざめた表情を向ける。
「違うのよ」
「違うって、何がですか?」
 サトカは今までにないほどに狼狽している様子に、ますます皆の不安がかき立てられる。
 それでもできる限り冷静な口調で尚志は問い質した。
「私達が見たダークスーツの男とは、違ったの」
「え?」
「もう一人いたのよ、私達の知らない男が。真っ黒で、影みたいな男が……!」
「影、みたい?」
 言葉にすると、薄ら寒い漆黒の影が実体を得て、背後から忍び寄ってくるような気がした。
 今にも飛び出そうとしていた井隼でさえ、蒼白な顔でその場に縫い止められ、立ち尽くしている。
 誰もが身動ぎもできず、声も発せず、ざわざわと騒ぐ葉擦れの音がただ、彼らの思いを代弁しているかのようだった。
「……とりあえず、こうしていても仕方がないです。二人を追いましょう」
 重い沈黙を破り、尚志が参道の奥へと目を向けた。その表情は、しっかりとした口調に反して硬く暗い。
 取り乱しかけていたサトカも、気を取り直したのか重々しく頷いた。
「そうね、行きましょう。走りたいところだけど……、ごめんなさい」
「いえ、いいですよ。無理に走って怪我でもしたら元も子もないですし」
 申し訳なさそうなサトカに気遣いの言葉を返すと、尚志はメンバー全員を見回し、行こうと促した。
 先頭に尚志が立ち、その後にサトカが続く。その後ろを女子三人が身を寄せ合うようにして歩き、最後尾を井隼がついていった。
 風が樹々を揺らすのに、砂利混じりの土を踏む音だけが重なる。
 声なく進む彼ら彼女らの姿を、飲み込もうとせんばかりに包む深い闇。ポツリポツリと点在する外灯はあまりにも頼りなく、かえって闇の濃さを強調するばかり。
 井隼から尚志の手に渡った懐中電灯の光も、ほんの数メートル先までしか照らし出すことができず、か細く寒々しかった。
 やがて、焦りと不安を押しとどめながら何とか進んだその道の先に、何か動くものを捉えた。
 明らかに人とわかるその影は二つ。こちらの懐中電灯の明かりに気付いたのか、足早に近寄ってくる気配がした。
「晃己、坂野さん」
 尚志の口から、見知ったものの名前が安堵と共に零れ落ちる。
 片岡と坂野も、ほっと息をつくのがわかった。
「晃己、中田は?」
「悪い、見失った。坂野さんにも訊いたけど、見てないって……」
 片岡の言葉を受けて、尚志は視線を坂野へと移す。坂野は神妙な面持ちで頷くが、その表情が皆の前から姿を消した時よりも優れない。何かあったのだと、すぐに予想はついた。
「坂野さん? どうしたんですか?」
「ああ、ちょっと、言いにくいことなんだが……」
 青褪めた顔の坂野が、そこで言葉を途切れさせる。言うべきか言うべきでないか、しばしの逡巡を見せた後、思い切ったように続けた。
「一通り、境内を回ってきたけれど、誰にも……、あの怪しい男にも若い女の子にも出くわさなかった。それで、君達のところに一旦戻ろうと思って、不断桜の側を通ったら――」
「通ったら、何なんスか?」
 勿体ぶるような坂野に我慢ができないのか、井隼が続きを促した。それでも、坂野はすぐには言葉を発しない。
 何がそこまで彼を言い淀ませるのか、その理由はすぐにわかった。
「……遺体が、消えていた」
「え?」
「遺体がって……」
「だから、後藤絵梨香さんの遺体が、跡形も無く消えていたんだ」
 馬鹿なことを言うなと、誰も言い返すことはできなかった。
 普段ならば、そう言えてしまう。親しい間柄ならば、冗談だと思って、一笑してしまうことすらできただろう。
 けれど。
 祟りの噂を実証するかのような絵梨香の死。
 突然繋がらなくなった携帯電話。
 出ようにも出られない神社の境内。
 影のように不気味な謎の男の存在。
 それらの事象が重なって、坂野の話を否定するよりも、恐怖と共に受け入れてしまっていた。本来なら、有り得ないことであるにもかかわらず。
 足に根が生えたかの如く、誰もがその場に立ち竦んでいた。
 嘲笑うように、遠くから鴉の鳴き声と羽ばたきが聞こえる。
 背筋にまとわりつく悪寒を振り払うように、坂野は声を絞り出した。
「と、とにかく、二人を捜さないと」
「坂野クン、実は――」
 焦りの見える坂野の言葉を、サトカが遮るように切り出す。
 中田の追いかけていった人影が、坂野も一緒に目撃したあの男とは違うことを、手短に説明した。坂野の表情が、ますます険しいものに塗り替えられていく。
「じゃあ、まだ他にも疑わしい人間がいるってことなんですね」
「あの、話の腰を折るようで悪いんだけど……」
 サトカと坂野のやりとりを見守っていた片岡が、珍しく割って入った。
 視線は、まっすぐにサトカへと向けられている。
「アレ、本当に人だと思いましたか?」
「どういう意味?」
「俺には、ただの黒い影にしか見えませんでした。確かに何となく人の形っぽくはありましたけど」
 片岡の問い掛けに、サトカは押し黙ってしまった。彼女の硬く強張った表情から、片岡の話を肯定していることを裏付けているとわかる。
 そうなんですか? と坂野が重ねて訊ねると、サトカは重々しく頷いた。
「ちょ、ちょっとやめてよ、片岡! 変なこと言わないで! 暗かったからそう見えただけじゃないの!?」
「俺だって勘違いだったらいいなって思ってたさ! でも、いくら暗くても、人の輪郭がぼやけて見えるのっておかしいだろ!?」
「じゃあやっぱり、不断桜の祟りが……」
「井隼まで何言ってるのよ!」
「だって、後藤の死体も消えてたって言うじゃないっすか! 他に何があるんスか!?」
 我慢していた恐怖が頂点に達し、貴子がヒステリックな否定の声を上げる。それに触発されて、片岡や井隼も堪りかねたように叫んだ。
 三人とも、姿の見えない恐怖相手に、気持ちのやり場が無くなってしまったのだろう。それが、苛立ちとなって一気に噴き出したのだった。
「祟りなんかないって、聖ちゃんが――!」
「何でそう言い切れるんだ! この子が祟りについて何か知ってるって言うのか!? だったら、祟りがないってのを、俺たちに証明してみせろよ!」
「井隼!」
 反論しようとする麻子に反論を重ね、更には聖にまで掴みかからんばかりの勢いの井隼の肩を、尚志が強く掴み鋭い一喝を放った。
「落ち着け。今はそんな言い争いをしている暇はない。郁と中田を捜すことが先決だ」
 言い含めるような口調で冷静に次の行動を示す尚志に、井隼も我に返り、バツが悪そうに口を噤んだ。取り乱していた貴子や片岡も、今やるべきことに気付き、僅かながら落ち着きを取り戻していた。
「坂野さん、とりあえず不断桜の方に行ってみましょう。あそこは神社のほぼ中心になっていますし、起点にして捜せば見つかりやすいかもしれません」
「そうだね。そうしようか」
 努めて穏やかな口調で坂野は同意し、刺々しくなっていた空気を和らげようとする。
 それは到底成功したとは言えなかったが、それでも皆は素直に従って歩き始めた。
 緩慢な動きで参道を歩む。
 揃ってより一層無口になっていたが、そんな中尚志は坂野に控え目に問いを投げかけていた。
「今更ですが、社務所に行けば電話はあるんじゃないですか?」
「あるにはあるけど、今は誰もいないはずだよ。僕たちが帰ろうとする少し前に、サトカさんの叔父上は急用が入ったらしくてね。今から出ないといけないと言われたから、僕たちもお暇してきたんだ」
「そうですか。でも、時間的にその宮司の方も外に出られていないかもしれないんじゃないですか?」
「そういえば……。いや、しかし、社務所の明かりも消えてたしなぁ……」
 考え込む坂野の横顔を眺めながら、尚志も自分の中で考えをまとめ始める。
 まだ、真実に辿りつけるほどの要素を得られていないのだが、それでも少しずつ、繋がり始めた事柄に、自然と表情が歪んだ。
「あれは……」
 不断桜のある場所に辿り着いた途端、先頭を歩いていた坂野が呟いた。
 考えに沈んでいた尚志も、坂野の視線の先を辿る。そこには、不断桜と、その場に蹲るように膝をつく人影が見えた。
 中田だった。
「中田さん!」
「中田! 良かった!」
 中田の無事な姿を確認して、喜色を交えた声を上げ、井隼と片岡が走り出す。
 つられるように全員が走り出すが、声に気付いて振り返った中田の表情に、そして、その足元に見えた物体に、すぐに足が止まった。
 中田の陰になってほんの少ししか見えないが、それは明らかに人間の足だった。
 その足には、見覚えのあるスニーカー。
「……吉良、さん」
 震える声で中田が呼んだのは、その靴の持ち主と最も近しい存在の名。
 ゆっくりと、尚志は桜へと近づく。
 一歩、また一歩と。
 そして、見つけたのは、首筋から血を流し事切れた腐れ縁の少女の姿だった。