七夜月奇譚
参 凶事の訪れ 01
どうしてあの人は戻ってこないのでしょうか?
どうして約束の日なのに、あの人は……。
誓いは果たされることなく、待ち続けた女はやがてその生を終える。
けれど、愛しい人を想う気持ちは果てることなく、やがてその古い桜の大樹へと宿った。
彼女の想いを受けてひっそりと根元に花を咲かせ続ける桜の花は、いつ誰が言い出したのかはわからないが『不断桜』と呼ばれるようになったのだった。
祟りがあると言われている不断桜のその周り。合計九名の男女が桜を取り囲むように佇んでいた。その中心には、桜と九名の内の一人――後藤絵梨香がいる。
絵梨香は少しばかり緊張しながら、その花枝へと触れた。井隼の言葉を馬鹿にした通り、祟りなどは信じていない。けれど、その桜の持つ独特の重々しい雰囲気が、僅かに恐れを感じさせた。しかし、井隼が自分を凝視している手前、怖がるような素振りは一切見せずに桜を触って見せたのだ。
「……ほら、何も起きないじゃない」
体に何の異変も感じなかった絵梨香は、立ち上がると得意気な表情で井隼に振り返った。
その表情が癇に障ったのか、井隼はムッとして言い返す。
「たった今触ったばっかりじゃないか。まだわかんないだろ」
こういった時、本当に互いが引かない性格だというのは厄介である。井隼がここで素直に状況を認めていれば、それで話は終わったのだろう。
しかし、そうはならずに言い返してしまったことで、全てが始まってしまった。
「あったまきた……。井隼君は何が何でも私に死んでもらいたいみたいねっ」
「べ、別にそんなこと言ってないだろ!?」
絵梨香の予想外の言葉に、井隼はぎょっとして慌てて否定をする。しかし、絵梨香は更に強い口調で井隼に詰め寄り、まくし立てた。
「『祟り』信じてるならそういうことでしょ。博雅から聞いたもの。『不断桜』の祟りって触ったら死ぬっていう話らしいじゃない。なのにそれを触らせようなんて、よっぽど私がお嫌いなようね!」
「そうじゃない! 俺は――!」
「気分悪いわ! 少しその辺歩いてきます!」
井隼が必死に言い訳をしようとしたが、絵梨香は聞く耳も持たずに一人で暗い参道へと向かって歩いて行った。井隼の顔を見ていたくないという意思表示だろう。慌てて中田が後を追うように踏み出す。
「おい、絵梨香! あ、井隼ごめんな。えっと、ちゃんと連れ戻すんで心配しないで下さい」
振り向きながら早口でそう言うと、絵梨香の背中を追って中田は駆け出した。取り残されたメンバーは複雑な表情で井隼を見つめる。
確かに絵梨香の言うように、『死ぬ』という噂のある桜に触らされた絵梨香は気分が悪いだろう。けれど、井隼が本気で彼女の死を願ってそう仕向けたわけでないこともわかるのだ。売り言葉に買い言葉。まさにその通りに、井隼はつっかかってくる絵梨香に過剰反応した結果がこれだった。
「あーあ、怒っちまったなあ、お嬢様」
「……別に、俺、そんなつもりじゃ……」
力なく呟きながらも、井隼は自分自身にも十分に非があったことを改めて実感する。正直に言えば、井隼は絵梨香が好きではない。いつも自分を馬鹿にしたような態度だし、人のいい中田が彼女にいいように使われているのを見るのも不愉快だ。
けれど、だからといって死んでほしいと願うほど子供でもない。もうちょっとあの性格をどうにかしてほしいと思うが、直らないなら直らないで関わらなければいいと思っているだけだった。
「井隼、そんなに落ち込まなくても中田が上手く宥めてくれるさ」
「そうっすかねぇ……」
「そうよ! 絵梨香ちゃんって、怒っても後ひかないもの。ちゃんと『ごめん』って謝れば、すぐに許してくれるって」
「そ、そうか?」
尚志と麻子に立て続けに励まされ、井隼はようやく僅かばかり明るさを取り戻した表情を浮かべる。しかし、
「でも、今回のはちょっとやそっとじゃ怒りが収まらねぇんじゃねぇの?」
意地悪く片岡がそう付け加えると、やっぱり、と頭を抱えて再び自己嫌悪の沼に沈み込んでしまった。
ウジウジと悩む井隼を見かねて、貴子がその背中にパシンと一発平手を入れる。
「イテっ!」
「ほら、しゃんとしなさい、井隼。あの子だって馬鹿じゃないんだから、謝ればちゃんとわかるわよ」
「そうそう。ポジティブ、ポジティブ! 前向きに生きよう!」
井隼を元気づけようと明るく言う麻子に、井隼はようやく笑みらしきものを浮かべることが出来た。
それを見て麻子がホッと一息ついた瞬間。
「……亘理、おまえ悩みなんてなさそうだな」
「ちょ、失礼ねー! 井隼君に言われたくないわよー!」
せっかく励ましたのに、思いもよらないお返しをくらって、今度は麻子がご立腹することとなってしまった。
「そうだぞ! 悩みがないんじゃなくて、悩みの方が逃げて行くほどのパワーを秘めているんだ!」
「片岡先輩、それ、フォローじゃないような……」
相変わらず的の外れたフォローをする片岡に、麻子は怒ることも忘れてがっくりと項垂れる。しかし、
「悩みがないように見えるヤツほど、思慮深いもんだよ」
「吉良先輩ぃ……」
尚志の入れる正真正銘の救いの言葉に、麻子が瞳をキラキラと輝かせながら視線を上げた。井隼もなるほどと頷きながら、ちらりと片岡の方を窺う。
「さっすが吉良さん、いいこと言いますね。誰かさんと違って」
「ああ? 誰かさんたぁ誰のことだぁ?」
「あ……イテっ! か、片岡さん、男前っすねー!」
「当たり前だ!」
いつものようなやりとりに、ようやく井隼は完全に元の調子を取り戻したようだった。それを確認して、尚志は元の場所に戻ろうと全員を促すことにする。
「じゃあ、いい加減戻って呑みなおすか」
「そうだな、ここで待ってても仕方ねぇし」
「そうよ。こんなところさっさと離れましょ」
尚志の言葉に三回生二人が揃って同意を示したのだが、貴子の言い方に片岡はニヤと人の悪い笑みを浮かべた。いつもやり込められている貴子にささやかな仕返しができると考えたのだ。
「何だ? もしかしておまえ、微妙に『祟り』信じてるのか?」
「ば、馬鹿なこと言わないでよ! そんなわけないでしょ!」
予想以上に大きく語尾の震えた声に、その場にいた全員の驚いたような視線が貴子に集中する。
貴子はつい過剰反応し過ぎたことを後悔したが、すぐさま通常通りの冷静さを装って続けた。
「でも、人が死んだ場所だって言うじゃない。そんなところ気持ち悪いに決まってるでしょ?」
何とかもっともらしい理由を述べることが出来たのだが、片岡は尚も「それだけか?」とニヤニヤと笑っている。「それだけよ」と素っ気なく返して貴子が歩き始めると、他の面々もつられたように元いた宴会の場の方へと移動し始めた。
麻子もそれに続こうと歩き始めたのだが、すぐ傍にいたはずの聖がついてこないことに気付き、数歩進んだところで振り返った。
「聖ちゃん、どうしたの? 元気ないよ?」
「そんなことないわ。ただ、ちょっと、ね……」
否定の言葉を返しつつも、聖の表情は冴えない。何か落ち込むようなことがあったのだろうかと考えるが、麻子はすぐには思いつけなかった。
「ちょっと、なぁに?」
「ここは、私には大切な場所だから……」
「あ」
聖の言葉で、麻子はようやく腑に落ちた。
聖にとっては、思い出の場所であり、大切な場所。
けれど、井隼や貴子にとっては、人の死んだ気味の悪い場所であり、忌まわしい場所。
その互いの抱く感情の違いが、聖には心苦しかったのだろう。
「ごめんね。貴子先輩も悪気があって言ったわけじゃないんだよ」
「うん、わかっているわ」
麻子に言われるまでもなく、聖自身もわかっていたのだろう。井隼の話していた噂を知れば、大半の人間は良い印象を持たないと。それは仕方のないことなのだと、半ば諦めたような微笑みを浮かべた。
「麻子ちゃーん、聖ちゃーん、何やってんのー? 行くよー!」
先を歩いていた片岡が、なかなかその場を動かない二人に気付いて声を張り上げる。慌てて麻子はそれに応え、聖を促した。
「いこっか」
「うん」
頷き合って二人は小走りに少し先で待ってくれているメンバーの後を追う。
二人が追いつくと、再び一行はぞろぞろと歩き出した。が、さほど歩かぬうちに、今度は郁が足を止める。
「あー、ゴメン、先行っといて」
「どうしたの?」
「ちょっと忘れモン。すぐ取って戻ってくるし」
それだけ言って、郁は踵を返す。その走り去ろうとする郁の背中に、尚志が短く呼び掛けた。郁は首だけ振り返り、尚志の言葉の続きを待つ。
「迷うなよ」
「……善処するわ」
郁にしては珍しく素直に、そして苦笑まじりに返し、今来たばかりの道をもう一度戻っていった。
「大丈夫かなぁ」
郁の背中を見送りながら、麻子は心配そうに小さく呟く。尚志はそれに軽く笑い、また迷ったら電話してくるだろう、と楽観的だ。しかし、その返事に麻子はムッと不服そうな表情になる。
「そうじゃなくてですねー、郁ちゃんがいくらおっさん臭くたって見た目は可愛い女の子なんですよー? 変な男にでも捕まったらどうするんですか」
「それこそ不要な心配だろう。あいつはその辺の男よりもずっと強いよ。柔剣合気、全部段持ちだから」
「え……」
郁が有段者と聞き、前を歩く井隼や貴子までもが驚いたように振り返った。片岡だけはその事実を知っていたのか、何の不思議もなさそうにああと思い出したような声を上げる。
「そういや、初めて郁ちゃんに会った時、俺投げ飛ばされたよなー」
「そんなこともあったな。あの時は郁をナンパしようとしたおまえの勇気に心から敬意を示したくなったよ」
片岡の身長は一七六センチあり、郁とは二十五センチ以上の差がある。その片岡を小柄な郁が投げ飛ばしたという事実に、各々思うところがあったらしい。
「コエー。俺絶対城宮さんだけはからかうのやめよー」
「郁ちゃん、そんなに強かったのね」
「あんなに小柄で華奢なのに……」
「確かに見た目よりも結構筋肉質だなーとか思ってたけど……。あ、でも、何で郁ちゃん、そんなに色々やってるんですか?」
麻子が不思議そうに尚志に訊ねると、尚志は少し考えるような素振りを見せる。いつもならすぐさま返ってくるはずの返事がなかなか返ってこないことに、麻子は微かに疑問を覚えた。
「吉良先輩?」
「……まあ、必要に迫られて、かな? 本人もそれなりに楽しんでたから問題はないんだろうけど」
「必要に、迫られて?」
様々な武道の習得が必要に迫られる事態というのが思いつかなくて、麻子はますます疑問顔になる。しかし、尚志はそれ以上語らず、それよりも、と他愛もない話題へと話を変えた。
そのまま元の宴の場に戻り、郁や中田が戻るのを待ちながらの酒宴再開となる。
先ほどの井隼と絵梨香のやりとりが嘘のように、宴は賑やかさを増していった。片岡と井隼が揃って聖を口説こうとしては貴子に妨害され、それを見て麻子は笑い尚志は呆れる。喧嘩の元凶がいなくなった所為か、その場は和やかで楽しげな雰囲気に満たされていた。
ふと麻子が腕時計に目を遣ると、この場所に戻ってきてからすでに三十分近くが経過していることに気付いた。怒りまくっていた絵梨香と、その付き添いの中田はともかく、郁が戻ってくるには遅すぎる時間だ。
「吉良先輩、郁ちゃん遅くないですか?」
微かな不安を覚えて、麻子は尚志に確認をとる。郁が連絡をするとしたら、尚志だからだ。
尚志は自分の携帯電話を開くが、どうやらメールや電話の着信はないようだった。
「また迷ってるんじゃないか?」
そう言って、尚志は郁に電話を掛けようと、携帯を操作し始めた。
しかし、丁度その時――。
「すいません!」
参道から大きな声を上げて駆け寄ってきたのは、中田だった。
ひどく慌てた様子の中田の傍に、絵梨香の姿はない。
「中田君? 後藤さんは?」
感じた疑問そのままに貴子が聞き返すと、中田の表情がますます焦りを強め、悲壮感さえ漂わせた。
「やっぱり、こっちには戻ってきてないんですかっ?」
「おまえ、追っかけてったんじゃないのか?」
「そうなんですけど……、途中でまた絵梨香が怒り出して、走っていってしまって……。暗かったんでその後見失ってしまったんです」
さんざん探したんですけどと、自分の不甲斐なさを責めるように中田の言葉が弱々しくなっていく。
「この辺は枝道が多いからな。女の子一人じゃ危ないし、手分けして捜すか」
「そうっすね。こうなったのは俺にも責任がありますし」
立ち上がり靴を履く尚志に、井隼も続いて懐中電灯を持って準備をした。
それに謝罪と礼を重ねる中田だったが、片岡はその後に少し困ったように続ける。
「俺はここに詳しくないぞ」
迷子を捜しあてる前に自分が迷子になってしまうと言外に伝えると、それはそうかと尚志は思い直す。
ただでさえ入り組んだ造りの境内で、陽も落ちた時間に不慣れな人間が動き回っては反って手間が増えるだろう。それだけでなく、残されるメンバーのことも考えて、尚志は返事をした。
「じゃあ、晃己はこのままここで待っててくれ。女の子ばかりじゃ危ないし、後藤も戻ってくるかもしれないしな」
「片岡さんと女の子を一緒にしとく方が危なくないですか?」
「何ぃ?」
半ば本気で心配する井隼に、片岡が毎度の如く反論しようとするが、その前に、貴子がいるから大丈夫、と尚志の簡潔な返答が返る。
尚志の言い草に貴子は複雑な表情を見せるが、すでに捜索担当の三人がどの方向に手分けをするかを話し合い始めたので、そのまま口を噤んだ。
「そうだ。中田、郁もまだ戻ってないから、見つけたら保護しといてくれ」
「城宮さんも、ですか?」
言われて初めて気づいたのか、中田は全員の姿を見渡すように視線を巡らせる。それと同時に気遣わしげに表情を曇らせた。
「まあ、アイツは心配しなくても大丈夫だとは思うけどな」
中田の更なる心配を軽減させるように、尚志は軽く言ながらその背を軽く叩いて促す。そして中田の手に、余っていたもう一つの懐中電灯を握らせた。
さすがに集合前とは事態が違う為、中田もそれを大事そうに受け取る。
「じゃあ行くぞ。見つけたらまず晃己に連絡してくれ。ここから一度に連絡した方が早いしな。無理して林の奥とかには絶対に入るなよ」
「わかりました。僕はもう一度絵梨香を見失った辺りまで戻ります」
「俺は一の峰に向かって上がりますね!」
「なら俺は下の社……と一応駅方面まで足を延ばすか。さすがに帰ってはないと思うんだが」
参道へと向かい始める三人の背中に片岡が「気をつけろよ」声を掛け、尚志が短く「そっちは任せた」と頷いた。
参道の奥に広がる闇が三人の姿を呑み込んでゆくと、辺りには不気味な静寂が訪れる。
その静か過ぎる空間がどこか不吉に感じた麻子は、無理やりに喉から声を押し出した。
「大丈夫かな」
零れた声は、自身が思ったよりもずっとか細く、余計に不安な気持ちを増加させてしまった。
貴子も聖も、麻子と同様に暗い表情で三人の消えた方向を見つめている。
「だーいじょうぶだって!」
不意に能天気な声が響き、麻子はガシっと肩を抱き寄せられた。もちろん、声と手の主は片岡である。
「あいつらみんなここに詳しいんだし、こんな寂れた神社じゃねぇか。俺達以外誰も見てねえんだから、襲われるようなこともないって」
どこまでも楽観的な口調で話すその内容は、根拠の確かなものではなかった。けれど、麻子達の重く沈む気持ちを、幾らか軽くすることには成功したようだった。
麻子は何とか笑みに近いものを浮かべ、貴子もキリっとした表情を取り戻し、聖も少しだけ落ち着いた様子も見せる。
「ま、暗い想像してたって、何にもならないものね」
「そうですね。案外すぐに戻ってくるかもしれないですし」
「そうそう! せーっかくハーレム状態なんだから楽しまないとな」
「アンタはもう少し心配してなさい!」
麻子だけでなく聖の肩にまで手を伸ばそうとした片岡は、結局貴子の平手にそれを阻止される。
しかし、その見慣れた光景に笑いを取り戻しつつも、どこか拭いきれない不安がまとわりついていた。
ザワリと、木立が騒ぐ。
ビクリと震えかけた肩を、他の三人に気付かれないようにと抱き締めるように押さえながら、麻子の胸の内には切実な願いが繰り返されていた。
(お願いだから、みんな無事に戻ってきて……)
その願いを嘲笑うかのような生温い風が、またもザワザワと樹々を揺らして吹き抜けていった。
懐中電灯の頼りない明かりを心許なく思いながらも、井隼は上の社へと向かう参道を歩いていた。
樹々が風にざわめくたびに、心細い思いに拍車がかかる。けれど、感じている恐怖の原因は暗闇でも葉擦れの音でもなかった。
後藤絵梨香の行方不明。
自分自身が触らせた『不断桜』の祟りだとは思いたくはないのだが、あまりにもタイミングが良すぎるのが不気味だった。
一刻も早く、絵梨香を見つけて他のメンバーに報告をしたい。もしくは、他のメンバーから絵梨香の無事を知らせる報告を受けたい。
頭の中にはそんな思いでいっぱいだった。
「てか、こんな方までさすがに上がってこないかな」
絵梨香は『不断桜』のあった場所から下りの参道の方に向かって歩いて行った。井隼の今いる一の峰とは全く正反対の方向である。
神社内は枝道も多く、絵梨香の去った方向からも一の峰に向かうことはできるが、大きく迂回しなくてはならないし、利用する人も少ない為に道もより一層悪いはずだった。いくら絵梨香が腹を立てていたとはいえ、そんな道を好んで進むとも思えない。むしろそのまま帰ってしまう可能性の方が十分高いように思えたのだ。
だからこそ、井隼はこの一の峰の方向の捜索を受け持ったと言ってもいい。
一の峰方面は傾斜がきついし距離もあるということもあったのだが、それ以上に井隼は自分自身で絵梨香を見つけたくなかった。
絵梨香のことは心配だし、早く見つかってほしいと切実に思っている。
けれど、もし実際に絵梨香を自分が見つけたら、また喧嘩になってしまうのではないかという危惧。
それにたとえ喧嘩にならなくても、やはり気まずさを感じてしまう。
絵梨香だって、どうせなら自分でなく中田や吉良に見つけてほしいだろう。
「ってか、中田さんを振り切ったくらいだから、吉良さんに見つけてほしいのかな」
ぽつりと呟いた一言が、やけに暗闇の中に響く。誰も聞いていないことはわかっているが、井隼は予想以上に大きく聞こえた自分の声に口を押さえた。
しかし、言葉は抑え込んだものの、気になりだしたら頭からその考えがなかなか去ってくれない。
そして、今日郁が口にした言葉が尚更その考えが正しいものであると主張しているように感じた。
郁は絵梨香に嫌われている。
その原因は部員でもないのにサークルに入り浸っていることだと郁は言っていたが、実際はそうではないのだと井隼は思うのだ。
それよりも、郁が尚志と仲がいいことが大きいのではと。
「やっぱり、後藤は吉良さんのこと……」
サークルに入ってまだ初期の頃、井隼はどこからか絵梨香の好きな人の噂を聞いたことがあった。『民俗学』などという、派手好きな絵梨香が興味を持ちそうにないサークルに所属しているのも、ひとえにその人物を目当てにして入ってきたからだという話だった。
そして、その目当ての人物というのが中田ではなく、尚志だったのだ。
そんな噂を知っていたからこそ、絵梨香と中田がつき合い始めたと聞いた時には驚いた。
どちらから言い出したとか全く経緯は知らなかったが、多分中田からに違いない。そして中田の人の好さを知っている絵梨香は、それを利用しようとしたのではないだろうか。それに、尚志と郁の絆は、誰にも入っていけそうにないものを感じる。だから諦めて――。
無粋だが、そんな風に憶測していたのだ。
我に返り、軽く頭を振って脳内の不躾な考えを拭い去ろうとする。
そんなことは今じゃなくても考えられる。それよりも、絵梨香の行方の方が重要事項だと思い直した。それに、郁もまだ見つかっていない。
できれば見つけるのは絵梨香よりも郁の方がいいと思いながら、井隼は暗い参道を駆けあがっていった。
足場の悪い参道を、中田は焦りも露わに駆け抜けていた。
早く。早く。絵梨香の元へ。
その想いばかりが募り、蓄積されていく。
嫌な予感が頭の中を占領し、ろくでもない想像だけが幾らでも膨らんだ。
どうしてこんなことになってしまったのだろうか。今日はただみんなで楽しく宴会を楽しめればいいと思っていただけなのに。
そう思った時、ふと目に入ったのは不断桜へと向かう方の参道だった。
「『不断桜』の、祟り……」
自然と口を衝いて出ていた言葉に、ハッと我に返る。
それと同時に頭の中に浮かんだ暗い考えを振り払うように大きく頭を振り、もう一度絵梨香を見失った方の参道へと視線を向け直した。
今は余計なことを考えている暇はない。
それよりも、一刻も早く絵梨香の元へと辿り着かなくてはいけなかった。
それに、こちらの方向に郁も残ったはずなのである。もしかしたら、絵梨香よりも先に、郁と遭遇するかもしれない。
「……でも、城宮さんはどうして」
走り出しかけた足を、再び止める。
郁が何故あの宴の場に戻っていないのかが、やけに気になった。
絵梨香についていっていた中田は、郁が「忘れ物」を理由に元の場所に戻っていったことなど知らなかったのだが、たとえ知っていたとしても訝しんだことに変わりはないだろう。
何故なら、郁は忘れ物をするというほど大した荷物も持っていなかったのだから。
腑に落ちはしなかったが、答えの出ないことをいつまでも考えている場合ではなかった。気を取り直して今度こそ中田は走り出す。
頭上にのしかかるように鬱蒼とした枝を広げる樹木たち。
いまだなお、晴れることない夜空。
か細い懐中電灯の光で前方を照らしながら、数十分前に通った道を駆け抜ける。
樹々のざわめきがまるで自分を嘲うかのうようだと感じながら、焦りを飲み下してようやく絵梨香と別れた摂社の近くまで戻ってくることができた。
「絵梨香? いないのか?」
不安が色濃く滲んだ声音が、ざわざわと鳴る葉擦れの音に紛れていく。しかし、返る声はない。半ば予想はしていたものの、中田は落胆を隠せなかった。それでもここで諦めるわけにはいかない。
このまま進んでいけば、摂社を抜け、その奥には二の峰へと続く参道があるはずだった。
摂社から二の峰への参道は、参拝者が少ないのか他の参道よりも少し荒れている。その上外灯も他よりは少ない為、絵梨香がそちらに向かうとは到底思えない。けれど、だからといってそちらに向かわないとも言い切れなかった。
そちらに向け、足を踏み出そうとした瞬間、――がさり。
背後で茂みの揺れる音がした。反射的に振り返った中田の視界に、黒く蠢く影が映る。
漆黒、だ。髪も服装も全て。
後ろ姿しか見えないが、どこか死神を思わせるような、不吉なほどに昏い色の人影だった。
その闇に溶け込むような人影は、そのまま中田の通ってきた曲がり道の先にゆうゆうと消えていく。
「ま、て……!」
硬直した足を無理やり地面から引き剥がし、中田は人影の向かった方へとUターンした。
明らかに不審な人物だ。もし、絵梨香の姿がなくなったことが、今の人物に関係あるのならば、何が何でも捕まえなければならない。
焦って脚が縺れそうになりながらも、必死で追いかける。
しかし――。
「え?」
道を折れた先に、件の人影はいなかった。
持っていた懐中電灯で周辺をくまなく照らしてみるが、やはり人影どころか猫の子一匹いない。
付近には多くの樹木が茂っているので隠れられなくはないだろうが、それにしても不自然な樹々の揺らぎもない。忽然と姿を消したという方が正しいようだった。
絵梨香……と、中田が小さく呟いた声だけが、取り残されたように響いた。