七夜月奇譚

弐 星祭りの宴 02

「すごく、息ぴったりなんですね」
 感嘆の響きを持った聖の声に、郁は一瞬何に対しての感想なのかわからなかったが、すぐに喜ぶべきか悲しむべきか微妙に迷ったような複雑な笑みを浮かべた。
「え? ……ああ、尚志と?」
「付き合い長いからな。初めて会ってからもう十年近く経つし」
「昔っから性格悪かったやんなー、尚志は」
「昔っから可愛げなかったよなー、郁は」
 郁がにっこりと満面の笑みで言うと、それに倣ったように尚志も同じ口調で返す。そして、互いの笑顔は果てしなく作り物じみていた。
「ホント吉良さんって、城宮さんには容赦ないですよね」
「だから言うてるやん。外面だけええねん、尚志は」
 呆れを通り越して賞賛しそうな井隼に、郁はもっともらしく忠告する。「大体尚志は」と更に悪行を暴露しようとした郁だったが、それよりも先に尚志の言葉に邪魔をされた。
「ところで、誰一人星見てなくないか?」
「あー! そうですよ! 織姫と彦星!」
「……上手いこと逃げたな」
 見事につられた麻子が慌てて空を見上げる。尚志の立ち回りの上手さに悔しい思いを抱きつつも、まあいいかと郁も暗い夜空を見上げた。
 その場にいた全員が一斉に上空を見上げるという、いささか間抜けな構図になる。しかし、見上げた空には厚くもってりとした雲が我が物顔でのさばり、織姫と彦星どころか星一つ、月さえも見えなかった。
「あーらら、見事に曇ってるわね」
「ううー。どっちも見えないよー」
 貴子のあっさりとした感想に、麻子が嘆きの声を上げ、がっくりと項垂れる。それを見た井隼は、意外そうな、そして少し感心したような視線を麻子に向けた。
「っていうか、亘理はどれが織姫と彦星かわかるんだな」
「ううん、わかんない」
「おいっ」
 麻子と井隼のやりとりに、皆が声を上げて笑う。その笑い声が収まりつつあるのを確認して、尚志は口を開いた。
「琴座のα星ベガが織姫、漢名では織女(ショクジョ)星。で、わし座のα星アルタイルが彦星、漢名は牽牛(ケンギュウ)星。どちらも白色光を放つ一等星で、初夏から秋にかけて北天に見える。
今の時間なら、大体あの辺りに見えるはずだな」
 尚志が指差す方向をまたも全員がそろって見上げた。しかし残念ながら切れ間ない雲のおかげで、光の欠片すら見えない。
 残念そうなため息の中、更に尚志は説明を続けた。
「今現在の七夕は古代中国の神話にある『牽牛織女』の伝説、それから古代中国の宮廷行事である『乞巧奠(キコウデン)』と日本古来の『棚機津女(タナバタツメ)』の行事が合わさってできたものなんだ。よくやる七夕の笹飾りは江戸時代から始まったものだそうだから、案外歴史は浅いな。もともとは(ミソギ)の儀式なんだが――」
「わーかった! わかったからそれ以上はもういい。全部聞いてたらレポート一本仕上がりそうだ」
 つらつらとよどみなく説明する尚志に、聞いていた片岡の方が先にギブアップをしてしまう。
 そして麻子と井隼はもちろん、聖までも驚嘆を込めた眼差しを尚志に送っていた。
「さすが吉良先輩、博学ー」
「やっぱり片岡さんとは違いますねー」
「井隼、片岡なんかと一緒にしたら失礼でしょ」
「何をー!? 俺だって知ってるぞ! そのベガとアルタイルと、白鳥座のデネブを繋いだら、夏の大三角形になるんだ!」
「小学生レベルの知識ね」
 意気込んで自分の中のあらん限りの知識を披露する片岡であったが、残念ながら貴子の短い感想で撃沈された。もともと尚志はどの分野でも知識が豊富なため、対抗しようというだけ無駄なのである。しかし、可愛い女の子を前にするとどうしても対抗せずにはいられないのが片岡の性分らしい。
「その白鳥座が橋渡しをするという話もあるな」
「ああ、それは知ってるわ。(かささぎ)の渡せる橋ね」
 駄目押しのように補足をする尚志に、貴子も頷いて続ける。やはり会長だけあって、貴子も尚志に次いで知識は深いのだ。
 完全に話についていけなくなった片岡はがっくりと項垂れる。そんな片岡に、郁が近くにあった酒を紙コップへと注ぎ、慰めるように勧めた。それを受取って飲み干すと、今度は片岡が井隼にその酒を飲むようにと注ぎ始める。この二人はもはや話を真面目に聞く気はないらしい。
 片岡と井隼を酒で黙らせた郁は、二人を放っておいて話に参加しだした。意外にもこういった分野に郁は詳しいのだ。
「織姫が西王母で彦星が東王父、二人がバラバラにいるのは盛大な夫婦ゲンカだーって話もあるみたいやけどな」
「郁ちゃん、夢がないよぉ」
 笑いながら全く別の説を挙げる郁に、麻子が嘆くように表情を曇らせる。麻子は少々ロマンティックなものを好む傾向があるので、郁の説は完全に自分の好みから外れていたのだろう。そんな麻子に郁は呆れたように苦笑をこぼし、手近にあった缶チューハイを手に取る。缶を開け、グイと一口ノドに流し込んでから続けた。
「麻子ちゃん、恋愛なんぞに夢持ったらアカンよー」
「郁ちゃん、そういうところは妙に枯れてるわよねぇ」
 妙に悟ったような郁の言い方に、貴子がしみじみと呟いた。その途端に「枯れてる言うな!」と郁の反論が返る。
「それに、星が見えなくてもお酒は飲めるから問題ない」
「私たちはそうかもしれないけど、織姫と彦星は一年で唯一会える日なのに会えないんだよー? 切ないじゃなーい」
 チューハイ一缶を満足そうに空けて、更に次の酒へと手を出そうとしている郁に、麻子はなおも不満そうに言い募る。
 そんな二人のやりとりに、周りは全員苦笑気味だ。麻子は夢見過ぎで、郁は現実的過ぎ。そんな風に感じているようだった。
「……まるで、『不断桜』の恋人たちの様ですね」
「え?」
 ぽつりと小さく呟かれた言葉に、麻子は思わず隣の聖を振り返った。それまで穏やかに笑っていた聖が、何だか少し寂しそうな表情を浮かべている。
「約束の日に、会えないなんて……」
 不断桜の伝承の恋人に感情移入しているのか、聖の声はひどく切なそうだ。麻子はそんな聖に同情するような気持ちが起こったのだが、しかしそれよりも強く感じたのは疑問だった。
「ねえ、聖ちゃんって『不断桜の祟り』は知らなかったんでしょ?」
「え? ええ」
「じゃあ、どうして『不断桜』の恋人同士の話を知ってるの?」
 井隼が話した『不断桜の祟り』。一部の高校生の間で噂になるほど有名な話ではあったが、聖はきっぱりとその話を知らないと言い切った。
 なのに、今、『不断桜』の恋人たちと言ったのだ。恋人たちの話は、祟りの話に付随する話のはずなのに。それが麻子には不思議で仕方がなかった。
「それは――」
「どーでもいーじゃん、亘理ぃー」
 聖が答えようとした瞬間、井隼が間延びした口調で麻子の肩に強引に寄りかかってきた。間近で吐かれた息はかなりアルコール臭く、麻子は思わず顔を顰める。
「井隼君! お酒くさい!」
「ちょっと井隼、もう酔っちゃったの?」
「いーじゃねぇか。今日はめでてぇ七夕なんだぁ。なぁー、尚志ぃー」
「何がめでたいんだ、何が」
 いつの間にやら片岡と井隼が完全な酔っぱらいと化していた。言動も怪しげな二人に、世話を焼かないといけない羽目になるのが目に見えている貴子と尚志は大きなため息を零す。
「これじゃあ情緒も何もあったもんじゃないわね」
「こうなったら仕方ないだろう。晃己も井隼も飲み過ぎるなよ。潰れたら放置して帰るからな」
「だーいじょうぶ! 酒は呑んでも呑まれるなぁ! って、アレ? 尚志の目が四つあるぞぉ?」
「何言ってるんすかぁ。片岡さんこそ目が六つありますよぉ?」
「えー? そうなのかぁ? 俺ってすげぇー」
 どんどん言っていることがおかしくなっていく片岡と井隼は、とうとうそのままバタと倒れ、眠りの世界へと旅立っていった。二人の様子に、尚志がふと思いついたように郁に振り向く。
「郁、おまえさっき二人に何呑ませたんだ?」
 井隼はいつも飲み会で真っ先に潰れるタイプなのでまだわかるのだが、片岡は酔いはするもののアルコールには強い方なのだ。ここまで急激に酔って正体不明になることなど珍しい。
「ん? それ」
 郁は尚志の質問に答え、宴の輪の中にある酒瓶の一つを指差した。ちょうど麻子のすぐ側にあったそれを見て、麻子がひきつったような表情へと変化する。
「郁ちゃん、コレ、アルコール度六十度とかって書いてあるんだけど」
「六十度!? そんなの買った覚えないわよ?」
「うん、それウチが友達にもらったヤツやから。てる君がお酒好きって言うたから、前もって渡しといた」
 にっこり笑って悪気のない様子の――しかし、本当に悪意がないのかは甚だ疑わしいのだが――郁に、尚志が呆れきった視線を向ける。
「おまえね。もらったって草薙さんからだろう?」
「あれ? あかんかった?」
「あんなウワバミの呑む酒が普通なわけないだろうが」
「大丈夫やって! キツイけど抜けるんは早いお酒だからって言うてたし」
「まあ、いつもうるさい二人が静かなのは助かると言えば助かるけど」
 尚志は説教じみた言葉を口にするが、郁はあくまでも楽観的な様子だった。
 もう呑ませてしまったものは仕方がないと言った風に、貴子が諦めに入る。実際、この二人は起きていても騒がしいだけか、問題を起こすだけなのだ。
「まだ中田先輩と絵梨香ちゃんが戻っても来てないのに潰れちゃうなんて……」
「そういえば、あのお二人遅いですね」
 麻子の言葉に、聖が参道の方を振り返る。そこにはもちろん、人影はない。
「そうね。そろそろ戻ってもいい頃だとは思うんだけど」
「見に行こか?」
 心配を滲ませた貴子に、気を利かせた郁が立ち上がりかける。しかしすぐさま隣の尚志に手を掴まれた。代わりに尚志が立ち上がる。
「おまえが行ったら俺の手間が増える。俺が行ってくるよ」
「ほなついでやしトイレ行くわ。尚志は中田さんと後藤さん探しとってええから」
「あ、それなら私も行くわ。ちょうど行きたかったし」
 郁は一人では道に迷う可能性が高いし、貴子は一人でお手洗いに向かうのが怖かったのだろう。結局酔っぱらい二人と麻子、聖の四人を残していくことになったようだった。
「麻子、すぐに戻ってくるから聖さんとそっちの酔っぱらい二人を頼むわね。何かあったら、すぐにその馬鹿どもを叩き起こすのよ」
「はーい」
 留守番を任せる母親のような貴子に、麻子もこれまた娘のように元気よく返事を返す。尚志、郁、貴子と並んで去っていく後ろ姿が参道の奥の闇へと消えていくと、麻子は小さく溜め息をついた。
「やっぱりお似合いだなぁ」
 思わず呟いた麻子の脳裏には、つい先ほどのワンシーンがもう一度再生されていた。
 立ち上がろうとした郁の手を掴んで制する尚志の姿。特別でも何でもないだろう仕草だったのだが、麻子には羨ましいとしか思えなかったのだ。
「吉良さんと城宮さんってお付き合いなさっているんですか?」
「うーん、そういうわけじゃないらしいんだけど、美男美女だし、何かわかりあっちゃってるし、入り込めないなーって感じがするっていうか」
 その説明に聖も納得したように頷いた。あの二人が互いを理解し合っているというのは、出会って間もない聖にも感じたのだろう。
「亘理さんは――」
「『亘理さん』ー? やめてよ、聖ちゃん。せっかく友達になったんだもん、麻子でいいよ。それに敬語も」
「じゃあ、麻子ちゃん」
 慣れていないのか、聖が少々気恥ずかしそうに名を呼ぶ。その初々しい様に麻子の頬はつい綻んでしまった。
「はい。なぁに?」
「吉良さんのことが好きなのね」
「はい。……はい?」
 勢いで返事をしてしまってから、麻子は質問の意味をじっくりと考え、そして我に返った。
「ちょちょちょっと聖ちゃん! ななな何言ってんの!」
「ふふ。隠しても全部顔に出ているわよ」
 ジタバタしながら顔を真っ赤に紅潮させる麻子を、聖は楽しそうに笑って見つめている。両手で顔を覆うように抑え、麻子は既にパニック寸前だった。
「ちょっとぉ! 井隼君たちだっているのにぃ!」
「大丈夫よ。お二人とも熟睡しているもの。そんなに大きな声出していたら、起こしてしまうわよ?」
 冷静に、けれどどこか悪戯っぽく笑う聖に、麻子は慌てて声を抑えた。寝ている二人を窺うと、幸いにも目覚める気配はない。少し落ち着こうと深呼吸を二、三度繰り返すと、「聖ちゃん鋭すぎ」と溜め息とともに吐き出した。
「見ていればわかるわ。すっごく好きなんだなぁって」
 聖の答える言葉にはからかうような色はなかった。ただ、純粋に恋をしている麻子を微笑ましく思っているのだろう。
「そういう聖ちゃんは好きな人っているの?」
「え?」
「あ、今の反応はいるなぁ?」
 反射的に頬を赤らめた聖に、麻子の瞳が一気に輝きを増した。周りにいる女性陣が女性陣の為、麻子は正直男女の色恋沙汰の話に飢えていたのだ。
 貴子は恋愛に興味なさそうだし、絵梨香はそういうことを話したがらないし、郁はそれ以前に枯れている。
 第一、サークルボックス内でそんな話をしたら、麻子の好きな人に関してバレかねないという危機感もある。だからこそ、聖と恋の話に花を咲かせられる今は、何とも貴重で魅力的に思えた。
「ね、ね、どんな人?」
「どんなって……」
 麻子の少々強引とも言える質問に、聖はたじろぎながらも答えようと考える。相手を想い返すように、瞳を閉じ、ゆっくりと語り始めた。
「優しくて、頼りになって。そして、絶対に約束を破らない人でした」
「うんうん、それで?」
 身を乗り出すように質問を重ねる麻子に、聖はくすっと小さく笑みを漏らした。見た目から判断すると麻子の方が年上のはずなのだが、その優しく見守るような笑顔は麻子よりもずっと大人びて見える。
「少し、吉良さんに似ているの。だからはじめに見た時、あの人かと思ってびっくりしちゃった」
「吉良先輩に? そりゃあつまり、かっこいいんだろうなぁ」
「ふふ、麻子ちゃんったら」
 自分の好きな人が基準の全てとでも言った風な麻子の発言だったが、聖は悪い気はしなかった。誰だって、自分の好きな相手を貶されたら腹が立つし、褒められたら嬉しいものだ。
「あ、でもさ、吉良先輩と郁ちゃんって本当になんでもないのかな? 聖ちゃん、どう思う?」
「どうと言われても、私は今日初めてお会いしたばかりだし」
「そんなに気になるのなら、本人に訊いてみなさいよ」
「えー? そんなこと訊けるわけ……」
 そこまで答えて、麻子ははたと声の主へと振り返った。
 そこには、知的な面立ちに少し意地悪そうな笑みを浮かべる貴子が立っていた。
「たた貴子先輩! か、か……」
「郁ちゃんならいないわよ。後藤さんたち見つけたって走って行っちゃったから」
 動揺して言葉にならない麻子の問いを的確に判断して返し、貴子はもともと座っていた聖の隣へと腰を落ち着けた。反対に麻子の動揺は全く収まらない。
「あ、あの、貴子先輩? もしかして今の話……」
「今の話も何も、いつもの麻子見てたら一目瞭然じゃない」
「うわぁー」
 身も蓋もなく言われ、麻子は頭を抱えてへたり込んだ。知られていないと思っていたのに、それは見事な思い込みでしかなかったらしい。打ちひしがれる麻子の頭を、貴子が慰めるように撫でる。
「心配しなくてもこの馬鹿二人には言わないわよ」
「絶対ですよ! 絶対絶対ぜーったいですよ!」
「わかってるって」
 しつこいくらい何度も念を押す麻子の声が境内に響き渡った。それが耳についたのか、酔いつぶれて寝ていたはずの井隼が身動ぎした後、うめき声を上げつつ伸びをする。
 思わず麻子は飛び跳ねるように井隼を振り返った。
「うーん、うるさいぞぉ、亘理ぃ」
「あら、思ったより早く起きたわね」
「うえぇ……頭いてぇ……。あ、れ? 吉良さんと城宮さんは?」
 頭を抱えつつ周りを見回した井隼は、その場にいるはずの二人の姿がないことに気づく。焦って声も出ない麻子と、そんな麻子を落ち着かせようとしている貴子に代わって、聖が短く答えた。
「あのお二人を捜しに行かれましたよ」
「『あのお二人』? ……ああ、中田さんと我がまま女」
 忌々しそうに呟く井隼に、麻子は顔をしかめた。麻子は絵梨香のことを嫌いではないし、そんな風に悪し様に言われるのが気持ちのいいものではなかったのだ。
「もう、井隼君! 絵梨香ちゃんのことそんな風に言っちゃダメだってば!」
「あー? だって我がまま女は我がまま女だろ? いーっつも中田さん振り回して困らせてさー」
「我がままで悪かったわね」
 突然降ってきた声に、井隼は思わずびくりと肩を震わせた。恐る恐る振り返ると、険しい表情を浮かべた後藤絵梨香がゆっくりと歩み寄ってくる途中だった。その後ろには焦ったような表情の中田と、少し呆れ気味の尚志と郁がいる。
「井隼君、いつもいつも顔見るたびに難癖つけるけど、そんなにあたしが気に入らないの?」
「い、いや、別に……」
 先ほどまでの勢いはどこへやら、井隼はしどろもどろになって答える。その様子にますます苛立ったように、絵梨香は声を荒げた。
「男らしくないわね! 言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ!」
「何だと! 誰が男らしくないんだよ!」
「いい加減にしなさい!」
 激しく言い争いが始まろうとした瞬間、貴子の鋭い一喝でその場が治まる。キッと鋭い視線を絵梨香と井隼に交互に向け、貴子は静かに、けれど有無を言わせぬ雰囲気をまとって続けた。
「貴方達はここに何しに来たの? 喧嘩する為?」
「いえ、すみません」
 素直に謝罪する井隼に頷き、貴子は絵梨香へと視線を向ける。
「後藤さんももう少し他の人のことも考えてくれない? 遅刻もそうだし、こんな風にすぐにつっかかって喧嘩になるのも迷惑だわ」
 貴子の正論に、気の強い絵梨香も返す言葉がなかった。けれどプライドが許さないのか、謝罪もなく、貴子の言葉に頷くわけでもない。
 重苦しい空気がその場を支配する。
 麻子はどうにか元の明るい雰囲気に戻そうと考えたのだが、残念ながら何も思いつかなかった。
 そんな時だった。
「んぁー? なぁに騒いでんだぁー?」
 能天気な声とともに、片岡が目を覚まし、起き上った。そのままきょろきょろと全員の姿を見回すと、状況が飲み込めないのか不思議そうに首を傾げる。
「何固まってんだ? ん? みんな揃ってんのか? そうならそうと言えよなぁ。呑もうぜ、ほら」
「そ、そうですよ! やっと全員集合したんですし! ね、吉良先輩、郁ちゃん!」
 状況回復の糸口が掴めたと、麻子は一気にまくしたてて無理やり暗い雰囲気を払拭しようとする。そんな麻子の健気な努力に気付いたのか、郁はニッと笑いながらスニーカーを放るように脱いで元いた辺りに腰を下ろした。
「麻子ちゃん、ウチと呑もうなんて勇気あるなぁ。もう呑めん言うても許さへんで?」
「え、郁ちゃん、私を酔わせてどうするつもり!?」
「郁ちゃんも麻子ちゃんも、何のコントよ、それ」
 麻子と郁のやりとりに、片岡がツッコミを入れると、ようやく張り詰めていた空気が緩んでいくのが感じられた。貴子もほっと息をつくと、厳しかった視線を和らげ、中田と絵梨香を促す。
「ほら、中田君も後藤さんも座りなさいよ」
「はい。絵梨香」
 中田の言葉に、絵梨香は小さく頷くと、履いていたサンダルを脱いでブルーシートに上がろうとした。しかし、一瞬何かに気が付き、動きを止める。
「絵梨香? どうかしたのか?」
「……何でもないわ」
 様子に気づいて問い掛けた中田に、絵梨香は短く答える。そして自分のショートパンツのポケットに入っていた『ゴミ』をブルーシートから離れた場所へと投げ捨てると、そのまま何事もなかったかのように中田の隣へと腰を下ろした。

 ようやくメンバー全員が顔を揃え、今度こそ正式な宴が始まる。
 各々希望の酒を開け、大量に買ったスナック菓子をつまみに話が盛り上がった。幸い、井隼と絵梨香も先ほどの貴子の言葉が効いているのか、口論になるようなことはなく、若干のぎこちなさを残しつつも、宴は順調に進んでいるようだった。
 そんな中、貴子が思い出したように『不断桜』の話題を持ち出した。「『例の桜』はちゃんと咲いてたの?」と。
 この季節に桜が咲いているなどとは半信半疑だったのだろう。どんな曰くがあるのかを知らない貴子は、純粋に興味があったらしい。
「そうなんですよ! 咲いてたんですよ、貴子先輩!」
「へぇ、井隼の話でも信じていいものあったのね」
「貴子さんひどいっすー」
 自分の話の信憑性を疑われていたことに対し、井隼が情けない声を上げる。しかし、日頃の行いなのか、哀れにも誰一人井隼を庇うものはいなかった。
「でも、井隼君の言ってた『祟り』の話はやっぱり信じられないよねー」
「『祟り』?」
 麻子が井隼をいじるように言うと、郁が疑問の表情を浮かべた。郁も桜の存在は知っていたが、『祟り』の噂は知らなかったらしい。それに気付いた井隼は、本領発揮とばかりに再び『不断桜』にまつわる祟りの話を始めた。
「……で、あの桜に触ったら『祟り』が起きるって――」
「ばっかみたい」
 朗々と得意気に話していた井隼の話に、突然嘲るような声音が割って入った。その声の主は、案の定井隼の天敵である絵梨香だ。
「『祟り』なんてあるわけないじゃない」
「何でそんなこと言い切れるんだよ。この世の中、おかしなことはいっぱいあるんだ。幽霊だってUFOだっているかもしれないだろ?」
 あからさまに馬鹿にしきった絵梨香の物言いに井隼はムッとしつつも、また貴子に怒られてはという思いで何とか怒りを抑えつつ返す。しかし、
「幽霊? UFO? いるわけないじゃない。そんな非科学的なこと信じてるなんて、子供なのね」
「何だと!」
「触ったって何も起こるわけないじゃない。『ただの桜』なんだもの」
「ただの桜じゃないだろ! こんな時季に咲いてるんだから!」
「『ただの突然変異の桜』でしょ? こんなくだらないことに必死になれるなんて、ホントお子様よねー」
 ますます馬鹿にする口調の絵梨香に、井隼も次第に荒々しく言い返す。徐々にエスカレートする二人のやりとりに、周りはなかなか口が挟めずにいた。
 そして、とうとう井隼の堪忍袋の緒が切れたのか、最後には鋭く睨みつけながら押し殺した声を発した。「だったら触ってみろよ」と。
「おまえが触って『祟り』なんかないって証明してみろよ」
「はあ? 何であたしがそんなことしなきゃならないのよ」
「何だ、怖いのか? 結局おまえ、口だけじゃないか!」
「井隼、やめなさい。さっきも言ったとこでしょ」
「ここまで馬鹿にされて黙ってなんかいられないっすよ!」
 貴子の窘める声にも、井隼は耳を貸さない。今までのやりとりでも井隼は何とか抑えようとしていたことはわかるために、貴子もそれ以上強く言うことが躊躇われた。素直に絵梨香が謝ってくれればことは円く治まると誰もが思ったのだが、負けん気の強い絵梨香が当然ながら井隼の言葉を受けて立つ形になった。
「わかったわよ。触ればいいんでしょ。どうせ何もないんだから。で、その『不断桜』ってどこにあるのよ」
「どうせならこれからみんなで行って証人になってもらおうじゃないか。後藤がちゃんと『桜』に触ったってな。いいですよね?」
 メンバー全員に向けて確認を取る井隼に、そこまでしなくてもと言いたげに貴子が溜め息をつく。
「あのねぇ、井隼」
「いいじゃねぇか。こうなったら井隼も後藤も引くに引けないだろ? とっとと行って確認して呑みなおそうぜ。そしたら井隼の気も済むだろうし」
 このままでは埒も明かない上に、まともに酒も楽しめないと思ったのか、片岡が井隼の提案にあっさりと賛成する。それに対して貴子も尚志も難しい表情をしていたが、争う二人が互いに引かなさそうな様子に、渋々頷いた。
「仕方ないわね。行くならさっさと行ってすぐに戻ってくるわよ」
「はい。後藤もそれでいいな」
「ええ、いいわよ。馬鹿馬鹿しいことこの上ないけどね」
 険悪な雰囲気のまま、井隼が先頭になって歩き出す。その後を絵梨香と中田が、更に片岡、貴子、尚志、郁の順で続いた。最後尾になった麻子は、焦った様子で前を歩く郁の手を捕まえる。
「どしたん?」
「郁ちゃん、どうしよー。もし絵梨香ちゃんに何かあったら」
「何や、麻子ちゃんも祟りとか信じとるん? 大丈夫やて、あれはただの噂やから。なあ、聖ちゃん」
 狼狽する麻子に対し、自信満々で郁は答え、更には聖に同意を求める。どうして郁が自分に同意を求めるのかが不思議ではあったが、聖もとりあえず麻子を安心させようと思い、郁の問いに笑顔で頷いた。
「ホントにー? だって吉良先輩だって知ってる噂だって言ってたし」
「ホンマに大丈夫。あの樹に触って死ぬんやったら、ウチこそ死んでなあかんやん」
「え?」
「来る前に触ってきたし」
「えぇーっ!? 郁ちゃん、大丈夫!?」
 思いもよらぬ郁の告白に、麻子は途端に真っ青になってその体を検分するようにさぐり始める。郁はその手を押しとどめて苦笑した。
「だーかーらー、大丈夫やって! あの噂はホンマにただの噂。あの樹には祟る力なんてないんやから」
 やけにはっきりと言い切る郁に、麻子はそれでもなお心配そうな視線を向けていた。その心配の無意味さに郁は笑い、麻子の背中を軽く叩いて促す。
「ほら、みんなもう行ってもうたで? はよ行こ」
「う、うん」
 郁の言葉に、麻子は他のメンバーに置いていかれてしまったことに気づいて慌てる。三人は小走りに前を行く者たちを追った。

 その後ろ姿を少し離れた場所で見つめている人影が一つ。闇に紛れるような黒装束を身にまとった男だった。
「あーあ、厄介な事態になっちゃったなー」
 小さく呟くと同時に、大きなため息を吐く。男は取り残されたブルーシートの傍に落ちている『ゴミ』を拾い上げてその砂埃を払った。
「せっかくの発信機付きストラップも気づかれちゃったし」
 男は絵梨香がこの神社に辿り着いたときに追いかけまわしていた黒スーツの人物だった。名を、西城章吾(さいじょう しょうご)という。
 西城はふざけた口調とは裏腹に、鋭い目線を麻子達の向かった参道の方へと向ける。
「とりあえず、『ターゲット』を追いますか。さっさと『始末』しないと、ね」
 口元にニヤリと笑みを浮かべると、足取りも軽く歩み出し、やがて暗闇に溶け込むように姿が見えなくなる。

 こうして星明りのない、昏い星祭りが始まりを告げた――。