七夜月奇譚

弐 星祭りの宴 01

 ガサガサと、ビニールの擦れ合う音が仄暗い参道に響く。整っているとは言い難い足場に自ずとゆっくりとなるのか、たどたどしい靴音がそれに重なった。その靴音は二人分。ささやかな外灯の明かりを頼りに足を進めているのは、まだ年若い男女だった。
 男の名は中田博雅(なかた ひろまさ)、女の名は宮崎貴子(みやざき たかこ)。二人も麻子たちと同じ久遠学院大学の民俗学研究会の一員だった。
「貴子さん、もうそこですよ」
「ああ、ここ? 確かにいい感じに広いわね」
 中田の言葉に、貴子は満足げに辺りを見回した。
 全体的に鬱蒼を樹木が茂っている境内であったが、この場所は二十メートル四方ほどの広場のようになっており、空も広く望める。外灯も遠く離れているので、星空を愛でるにはうってつけの場所だった。すでに先客があったことを告げるように、その広場の中央辺りには缶ビールや缶チューハイの入った袋が二つとお菓子の入った袋が一つ置いてある。
 貴子は持っていたトートバックの中からレジャーシートを取り出し、その荷物たちのすぐそばに広げた。中田はその上に重石代りに持っていたビニール袋と先客の荷物を置く。
「それにしても遅いわね。吉良君はすぐに追いつくからって言ってたのに」
 貴子が溜息交じりに今自分たちが通ってきた参道の方を振り返る。そこには誰の人影も見えなかった。

 今日の星見の宴は、駅で研究会メンバー全員が待ち合わせた。それから買い出しを済ませて目的地に向かうことになっていたのだが、予定していた六時にメンバー全員が揃わなかったのだ。そこで先に買い出しを始めたものの、なかなか遅れているメンバーとの連絡がつかない。
 仕方なく駅で待っていたのだが、待ち切れなかったのか一回生の井隼雄介と亘理麻子、そして三回生の片岡晃己の三人が先に行くと言い出したのだった。どうやら井隼が話した『不断桜』の話が原因であるらしい。先に荷物を置いてその場所に行きたいとのことだった。
 別に目的地は同じなので、先に行くことに対して問題はないと判断し、貴子と尚志、中田を駅に残して麻子たちは先にこの水鏡神社へと向かった。

 結局遅れていたメンバーは現地集合ということになった為、遅れて貴子たちも神社へと向かったのだが、尚志が三人を呼んでくると言って途中で違う参道へと別れていったのだ。しかし、尚志は軽く駆け足で去っていったにも関わらず、未だに戻ってくる気配は全くなかった。
「暗いですし、見つけるのに手間取っているんじゃないですか?」
「でも吉良君も『不断桜』、だったかしら? その場所知ってるんでしょ? だったらすぐに見つかるんじゃないの?」
「そう、ですね。どうしたんでしょう」
 貴子はこの神社についてはよく知らないが、中田の話によると尚志と別れた辺りから『不断桜』の位置まではそれほど離れていないらしい。ただ複雑に参道が入り組んでいる為、慣れないものが来たら迷うことが多々あるそうだった。しかも今は陽も傾き視界が良くはない。慣れたものでも迷ってしまう可能性はあった。
「僕も見に行きましょうか」
「ちょ、ちょっと! こんなところに一人にしないでよ!」
 言いながら立ち上がろうとする中田を、貴子は慌てて引き留めた。
 そのひどく焦った様子に、中田は驚いたように貴子を見つめ返す。貴子は研究会の会長もしており、常に毅然とした態度を崩さないからだ。こんな風に慌てふためく様子は、中田が研究会に入部して以来、一度も見たことがなかった。
「……貴子さん、もしかして怖いんですか?」
「な、何を言ってるの! 怖いわけないでしょ! だ、大体、幽霊なんて存在しないのよ! 大抵は目の錯覚や偶然が重なっただけで……!」
 どもりながらも早口でまくしたてる貴子に、中田は思わず小さく噴き出してしまった。どうやら本格的に貴子は怪奇現象が苦手らしい。
「誰も『幽霊』が、なんて言ってないですよ?」
 笑み声で中田に指摘され、貴子は自ら自滅してしまったことを悟り、言葉を失う。が、すぐさま気を取り直し、
「な、中田君! 後藤さんはどうなのよ、後藤さんは!」
 何とか態勢を立て直そうと、話題転換を図った。後藤というのは遅れているメンバーの一人であり、中田の彼女でもある後藤絵梨香(ごとう えりか)のことだ。
「さっきからメールは送っているんですけど、返事がなくって」
 中田は困ったように笑みを浮かべ、自分の携帯電話を取り出してディスプレイを確認する。そこにはやはりメールの新着の知らせは届いていなかった。
「ちょっと電話してみますね」
「そうね、お願い。……貴方も大変ね」
 同情するような貴子の言葉に中田は苦笑を洩らし、携帯をすばやく操作すると耳に押し当てた。
 それとほぼ同時に。
「ごめんなさーい! 貴子センパーイ!」
 元気のよい声とともに、麻子が駆け寄ってきた。その後をぞろぞろと他のメンバーが続いてくる。
 中田は互いの話が邪魔にならないように思ったのか、少し離れた場所で電話口の相手と話し始めていた。
「遅いわよ。何やってたの?」
「わりぃわりぃ。桜見てたらこの子と会ってさ」
 そう言って片岡は聖を紹介するように押し出した。突然話を振られた聖は、おずおずと頭を下げる。貴子は聖の顔を見ると軽くため息を吐き出し、片岡に白々とした視線を投げかけた。
「で、片岡がその子をナンパしてて、麻子たちに迷惑かけたってわけね」
「そう、その通り! って違う!」
 貴子の冷淡なセリフに、思わずノリツッコミをする片岡。それに井隼が「あながち間違ってもないですけど」とぼそりと付け加えた。
 それを聞いて、勿論片岡が黙っているはずもなく、井隼はヘッドロックをされてしまう。そんな二人のやり取りは放っておいて、麻子は話を続けた。
「私が誘ったんです。せっかく遊ぶんだったらいっぱいいた方が楽しいと思って」
「あら、そうなの。てっきり片岡がいつもの手口で――」
「人聞きの悪い言い方すんなよ! それじゃあ俺が誰彼構わずだまくらかして、手出してるみたいだろうが!」
 更に冷たい言葉を続ける貴子に、片岡は誤解されては困ると大いに反論するのだが、
「違うのか?」
「違うの?」
「違うんですか?」
「違うんすか?」
 全員がそれぞれの言い様で同時にそう問い返す。まるで示し合わせたかのように息のぴったり合ったメンバーに、片岡はショックを受けたように固まった。やがて肩をふるふると震わせたかと思うと、「違あうっ!」と木霊が響くほど大きな叫びを上げる。
「違う、違うぞ! 何なんだよおまえらは!」
 情けない声で否定と批判をする片岡の様子に、聖は口元を押さえてふふっと楽しそうに、そしてどこか眩しそうに笑った。
「本当に皆さん仲がよろしいんですね」
「聖ちゃあん! これのどこが仲良く見えるのよ? 俺はね、こうやっていつも苛められてるの。可哀想でしょ?」
 あからさまに嘘臭い泣き真似をして、片岡は聖の同情を引こうとする。しかしその後頭部に、ツッコミにしては些か激しい貴子の平手が入った。
 途端に片岡は呻くように頭を抱えてしゃがみ込む。
「何が可哀想よ。えっと……」
 貴子が窺うように聖から麻子へと視線を巡らせた。麻子はすぐにその意味に気づき、「中院聖ちゃんです」と改めて紹介する。聖はそれに合わせて、もう一度お辞儀を した。
「中院さん、気をつけてね。片岡は油断も隙もない男だから」
「たぁかぁこぉ」
「なぁにぃよぉ」
 貴子の評価に不満全開な片岡だったが、自分の口調よりもさらに低い声音で一睨みされ、それ以上の抗議はできずに終わったのだった。
 そんなやりとりが終わったのを見計らっていたのか、中田が携帯をしまいながらメンバーの元へと近づいてきた。
「貴子さん、絵梨香もうこっちに来てるそうです。どうやら途中で迷っているらしくって」
 半ば予想してたのだろう。中田は面倒臭そうな顔一つせず、けれど他のメンバーに対しては申し訳なさそうに説明する。
「あー、ここの中、ごちゃごちゃしてますもんね」
 中田の様子を見て、仕方ないことだというように井隼が納得の声を上げた。初めてこの神社に来た麻子や片岡も、確かにそうだといった風に頷いている。
「ちょっと迎えに行ってきますね」
「気をつけてね」
「はい、じゃあ」
「あ、中田さん、懐中電灯!」
 勢いよく駈け出した中田に、井隼が思い出したように呼び止めた。
 暗い中、人を探しに行くのだ。少しでも明かりがあった方がいいと思い、持っていた懐中電灯を振って示してみせる。
「大丈夫だよ。もう結構近い場所にいるみたいだから」
 しかし中田はそう言って断ると、危うげない足取りで暗い参道へと再び駆け出した。
 その背中が参道の重い闇の中に消えると、「とりあえず座りましょう」と貴子がレジャーシートへと促す。
 「あいつも大変だなあ、後藤のお守りは」
 最後まで見送っていた片岡が、なおも中田の消えた方角を見つめながら呟いた。それを聞いて、尚志は意外そうな表情を浮かべる。
「何だ、おまえ。前は後藤のこと結構気に入ってただろう?」
 新入生の入部当初に片岡が絵梨香のことを可愛いと評しているのを尚志は聞いていた。それがいつの間にやら変化していたらしい。
「あー、あの子なー。顔は結構好みなんだけど、性格キッツイし我がままだろう? ああいう性格はちょっとなー」
「へー、片岡さんって誰でもいいわけじゃないんすね」
「当たり前だ! 俺は好みにはうるさいぞぉ! まず、女らしくて、気が利いて、しっかり者で――」
 指折り数えながら幾つも条件を片岡は挙げていく。それに伴い麻子は徐々に首を傾げ、なおも言い募ろうとする片岡の言葉をやんわりと遮った。
「それって貴子先輩じゃあ」
「ち、違あう! 断じて違う!」
 何故だか片岡は必要以上に焦った様子で否定の言葉を繰り返す。
 が、なかなか次の言葉が出てこないようで、「あー」とか「うー」とか意味を成さない声だけを洩らしながら視線を彷徨わせ、そうしてようやく聖にそれを定めた。
「あー、そ、そう! 聖ちゃんみたいな子がいーの! あいてっ!」
 聖の肩に腕を回しながらそう宣言した途端、貴子のスナップのきいた右手が聖の右肩に陣取る片岡の手の甲を軽やかにはたいた。
 片岡は痛む右手の甲をさすりつつ、恨めしげに貴子を睨む。しかし、そんなことでは微塵も動じない貴子は、反対に片岡を睨みかえしていた。
 聖はといえば、貴子のあまりの素早さに、目を瞠って驚きの表情で固まっている。研究会のメンバーから見れば、この二人のやりとりは日常的なものなのだが、初対面の聖にとってはかなりの衝撃だったようだ。
「本当に油断も隙もないわね。中院さん、こっちどうぞ」
「あ、聖でいいです。呼びにくいでしょう?」
 優しく貴子に促され、聖はようやく我に返ったように答えた。「わかったわ」と貴子が短く返すと、聖は貴子と麻子の間に腰を下ろした。
「ほら、何やってるの? ボサッとしてないで、あんたも座りなさいよ」
 いまだに拗ねたような眼差しを送っていた片岡だったが、貴子の言葉に素直に従い、不本意ながらも井隼の隣に腰を下ろした。
「これで後は、中田さんと後藤が来れば全員集合、ですか?」
 全員を見回して井隼が貴子に確認を取る。貴子はそれを受けて尚志に水を向けた。
「吉良君、郁ちゃんは? 結局来れないの?」
 郁は本来民族学研究会のメンバーではない。しかし、どういった理由なのかはわからないが、今回はどうしても一緒がいいと麻子が誘ったのだった。
 それに対し、郁は「行けるかどうかわからないけど」と曖昧な返事を返し、今日にいたるまでその予定は確定していなかった。
「いや、もうこっちには向かってるはずだし」
 貴子に言われて尚志は携帯電話を引っ張り出す。そして確認するのは、着信の有無と時間だった。
「そうだな。そろそろか。ちょっと電話してみるよ。多分俺も迎えに行く羽目になるだろうけど」
 苦笑を残して尚志がメンバーから少し離れた場所へと移動する。尚志の言葉に、井隼が不思議そうに首を傾げた。
「あれ? 城宮さんって、ここ来たことあるんじゃなかったっけ?」
 この神社で星見をしようと井隼が提案した時、郁もその場にいた。そして、井隼に同意するように言ったのだ。「あそこなら確かによく見える」と。
「さっき吉良先輩から聞いたんだけど、実は郁ちゃん、方向音痴なんだって。意外でしょ?」
 すかさず麻子が電話中の尚志の代わりに説明する。それを聞いて、郁を知る他三人も意外に思ったようだった。
「あら、本当に意外ね。郁ちゃんよりも麻子の方がよっぽど方向音痴でも納得できるのに」
「貴子先輩ヒドイですー!」
「そうだぞ、貴子! 確かに郁ちゃんはしっかり者で麻子ちゃんはちょっと抜けてるけど、それがまた可愛いんじゃないか!」
「片岡先輩、フォローになってないデス」
 片岡の擁護に麻子はがっくりと肩を落とし、井隼は無遠慮に笑う。
 聖は誰の話をしているのかわからなかったため、控え目に隣の貴子に問い掛けた。
「その郁さんっていう方は、そんなにしっかりした方なんですか?」
「そうねえ。麻子や井隼と同じ年なんだけど、妙に落ち着いているところがあるわね」
「そうですかー? 結構吉良さんとは馬鹿なやりとりしてるじゃないですか」
「バーカ、尚志は特別だろ。郁ちゃんは他の奴には全く隙を見せないの!」
 貴子の説明に反論する井隼だったが、あっさりとそれを片岡に却下される。
 麻子は片岡の発した「特別」という言葉に微かな痛みを覚え、それとなく電話をしている尚志の方を窺った。郁との会話に、尚志は普段めったに見せない穏やかな笑みを浮かべている。すると、麻子の視線に気づいたのか、尚志が突然振り向き、電話をしまいながら戻ってきた。
「ちょっと行ってくる。ちょうど今不断桜のところにいるらしいから、すぐ戻ってくるよ」
「そう。気をつけてね」
「あ、吉良さんは懐中電灯」
「中田に同じく」
 冗談っぽく笑うと、尚志は軽快な足取りで参道へと歩き出した。
 中田の時と同様に断られてしまった井隼は、そのまま愛用の懐中電灯を荷物の端に置く。
 全員がそろう前に宴会を始めてしまうわけにもいかず、話題も途切れてしまったために少しばかりの沈黙が横たわった。
「あの……」
 それを気まずそうに破ったのは、一番話を聞く側にまわりそうな聖だった。
「なあに?」
「私、まだ皆さんのお名前を伺ってないんですけど……」
 話を聞いているだけでも聖は大体の名前はわかってはいたのだが、間違って呼んでしまっては失礼だと聖は考えたのだろう。
 せっかく時間もあることなので、自己紹介する流れへとその場は落ち着いた。
「じゃあ、私からいきまーす」
 まずは麻子が手を挙げて立ち上がる。目の前に置かれていたペットボトルをマイクの代わりなのか握っていた。
「亘理麻子、十八歳。久遠学院大学の一回生で、えーっと趣味は美味しいお店巡りでーす。あとは――」
「はいはい! 次俺!」
 麻子の言葉が終わりきらないうちに、井隼が挙手して主張する。麻子は一瞬面食らったが、すぐに呆れたように笑ってマイク代わりペットボトルを差し出した。
「井隼雄介、亘理と同じくぴっちぴちの十八歳」
 そこまで言うと、井隼は何故か咳払いをし、妙に真剣な表情を作って聖をまっすぐに見つめる。
「ただいま彼女募集中。よろしく――あっ!」
「俺は片岡晃己、もうすぐ二十一歳」
 今度は片岡が、井隼がすべて言い終わらぬうちに強引にペットボトルマイクを奪い取った。そして聖にぐっと近づき、
「君のような可愛い子と出会えて光栄――うがっ!」
 言いながら細い両手を握ろうとした瞬間、貴子が片岡のシートの上についた手の上に素早く五百ミリリットルの缶ビールを落とした。片岡はその場で負傷した手を抱えて蹲る。
 聖は驚いて呆然とし、井隼はざまーみろとでも言いたげに笑い、麻子は毎度のことに呆れていた。
「聖さん、馬鹿はほっといていいからね」
「は、はい」
 片岡に冷たい制裁を加えた貴子が、にっこりと優しげな笑みを聖に向ける。そのギャップに聖はますます戸惑うように返事した。
「私は宮崎貴子。この研究会の会長をしているの。さっきまでここにいたのが吉良尚志君。それから、その前にいた彼が二回生の中田博雅君で、あと後藤絵梨香さんと城宮郁さんって子が来れば全員集合よ」
 簡単にこの場にいないメンバーも貴子が代表して紹介する。
 すると麻子が再びペットボトルをマイクのようにして聖の口元へと向けた。
「では、聖ちゃんもどうぞ!」
「はい、えっと、中院聖です。今日は突然お邪魔してすみません。よろしくお願いします」
「聖ちゃん、可愛いー!」
「よっ! 日本一!」
 行儀よく聖が頭を下げる姿に、片岡と井隼が酔っぱらい親父のようにはやし立てる。調子のいい二人に貴子と麻子は顔を見合せて溜息をついたのだった。
 その直後、
「もう! 何なのよ、この神社!」
 ヒステリックな甲高い声が暗い参道の奥から響いてきた。そちらを見なくても、聖を除くメンバー全員が誰の声だかすぐにわかったらしい。
「やれやれ。わがままお嬢様はようやくご到着か」
 井隼がそれまでと打って変わって、渋い表情を浮かべる。その間にも愚痴まじりの苛立った声は近付いてきていた。
 全員の集まっている場所に近づいても、その愚痴はやむ気配はなく、延々と続いている。
「やたら枝道も多いし、街灯も少なくて暗いし! せっかく頑張って一人で来たのに、全然わかんないじゃない! 途中で変な男にも付きまとわれるし散々よ!」
「だから六時に駅に集合ってちゃんと言っただろう?」
 宥めるような中田の声に、彼女――絵梨香はキッと鋭い視線を返した。
「しょうがないでしょ! 間に合わなかったんだから! ……誰よ、こんなわかりにくい場所選んだの!」
 誰と訊いてはいるものの、絵梨香は明らかに場所を選んだ人物がわかっているかのように井隼に忌々しそうな目線を送った。それに対し井隼もムッとしてそっぽを向くと「すいませんね、俺ですよ」と言い捨てる。
「井隼が悪いわけじゃないだろう。約束の時間に遅刻したのはおまえの方なんだから」
「何よ! 全部あたしの所為だって言うの!?」
「そうは言ってないだろう」
 中田が何とか治めようとするが、絵梨香の機嫌の悪さは全く鎮まる様子はない。耐えかねた貴子が、大きく息をつくと低い声を吐き出した。
「後藤さん、遅れてきておいて言うことは文句だけなの?」
 強い口調ではなかったが、毅然とした貴子の雰囲気に絵梨香は思わず言葉を失った。黙ったところに、中田が謝るようにと絵梨香を促す。
「……すみませんでしたぁっ。大変待たせてごめんなさいぃ」
 嫌々言わされているのを隠しもしない絵梨香の謝罪。どう見ても反省している様子のない態度に、中田がまたしても窘めるが、絵梨香は全く聞く気がないようだった。
「何だよ、その態度! だいたいおまえいっつも――!」
「博雅ぁ、あたしお手洗い行きたいからついてきてよぉ。どこにあるのかわからないわぁ」
 怒りを爆発させた井隼がくってかかろうとしたが、絵梨香は無視して中田の腕に自分のそれを絡ませて歩きだした。
 強引に連れて行かれる形になった中田は、振り返って詫びの言葉を言い残し、そのまま引きずられていく。
 怒りのやり場がなくなった井隼は、それをぶつけるようにどかっと座りなおすしかなかった。
「ごめんなさい、聖さん。驚かせてしまったわね」
「い、いえ」
 否定の言葉を口にはしていたが、聖が井隼と絵梨香のやりとりに驚きと戸惑いを覚えていたのは一目瞭然だった。それまでの陽気でお調子者な井隼を見ていたので、なおさらだろう。
 せっかく盛り上がりかかっていた場が、白けた空気で充満する。どうにか明るい方向性に持っていきたいと誰もが思っていたのだが、なかなか上手く話題をひねり出すことができない。
 すると、ちょうど良いタイミングで明るい声が降ってきた。
「あれ? どうしたん? 珍し井隼君とてる君が大人しいやん」
「あ、郁ちゃん!」
 尚志に連れられた郁が、無事に到着したのだった。全員がホッとしたように、詰めていた息を吐き出す。
「郁ちゃーん、俺と井隼を同列に置かないでくれる?」
「それはこっちの台詞ですよ、片岡さん」
「どっちもどっちやろ」
 途端にそれまでのような軽口が飛び交い始め、笑い声も生まれ出した。本来の雰囲気に戻り、麻子はほっと胸を撫で下ろす。貴子も穏やかな笑顔に戻り、合流したばかりの二人を宴の輪に促した。
「さ、吉良君と郁ちゃんも来たことだし、始めちゃいましょ」
「いいのか? 何だか妙にキレた後藤と宥めながら歩いてる中田にさっきすれ違ったけど」
「絵梨香ちゃん、お手洗いに行きたいからって中田先輩がついて行ったんです」
 困ったように笑いながら、麻子はそれまでの騒動を省略して説明した。しかしすぐさま井隼が、憮然としながら「自分の都合が悪くなったから逃げ出しただけだろうけどな」と続ける。いつものことらしく、それだけで二人ともどういったやりとりがあったのか悟ったようだった。
「なんや。ウチが来るから嫌がって帰ったんかと思った」
 レジャーシートに腰を下ろし、両手でスニーカーを引っ張りながら郁がぽつりと笑み混じりに呟いた。どうやら靴を脱ぐのに苦戦しているらしい。尚志はさっさと先ほどまで座っていた貴子の隣に腰を下ろしていた。
「あれ? 城宮さん、後藤と仲悪かったけ?」
 井隼が郁の呟きに意外そうに問いを返す。記憶にある限りで、郁が誰かと特別に仲が悪いというイメージがなかったからだ。もちろん井隼だけでなく、麻子や片岡にとっても初耳だったらしい。
「ううん。勝手に嫌われとるだけ。どうやらウチが自分の所属でもないのに入り浸ってるんがお気に召さんらしいわ」
「後藤より郁ちゃんの方がよっぽど貢献してるのにな」
 特別気にするようでもない郁に、片岡が呆れ交じりに付け加える。片岡が言うとおり、郁は部員でないにも関わらず、色んな作業を手伝ったりしていたのだ。入り浸らせてもらっているお礼だと、郁はいつも進んで参加していたので、当然真面目に活動している貴子や中田にも重宝がられていた。
「だから余計に気にくわんのやろ……って」
 ようやく脱げた靴を揃えて置き、尚志の隣へと移動した郁が、ふと貴子と麻子に挟まれた場所にいる聖に気づき、動きを止めた。そのまま視線を並行移動し、貴子に向ける。
「えーっと、たかちゃん、いつの間にか部員増えた……なんてことないわな?」
「ああ、彼女は飛び入り参加よ」
 貴子が簡潔に答えると、今度はまたも視線を約180度違う位置にいる片岡へと移した。郁の表情には呆れたような色が窺える。
「てる君がナンパしてきたん?」
「だから何で俺よ、郁ちゃん!」
 貴子に引き続き、郁にまで自分がナンパしてきたのかと疑われ、片岡は情けない声を上げた。そんな誤解をされたくないのなら、もっと行動に気をつければいいのにと、その場の誰もが思ったが口にはしない。
「あ、違った? んじゃ麻子ちゃんかな」
 今度はにっこりと笑顔で麻子に尋ねる郁に、麻子は何故わかったんだろうと不思議に思いつつも頷く。
「そう、不断桜のところでたまたま会ったんだ。彼女は中院聖ちゃんです」
「初めまして、中院聖です」
 麻子の紹介に、聖は本日三度目になる自己紹介とお辞儀を繰り返した。
 しかし、いつもなら明るく「こちらこそ」と返す郁なのだが、無言でただ笑みを浮かべている。
「郁ちゃん? どうかした?」
「……『初めまして』とちゃうよ」
「え?」
 思いもしなかった郁の発言に、この場の全員が驚いたように視線を集中させた。もちろん、郁と長年の付き合いである尚志も例外ではない。
「郁ちゃん、聖ちゃんのこと知ってるの?」
「え、私は……」
 麻子がどちらに確認しようかと迷うように、何度も聖と郁の顔を見比べる。
 当の聖本人は、全く思い当たる節がないのか、困惑した表情で口籠ってしまった。それを見て郁は諦めたように苦笑を浮かべる。
「ま、かなり昔の話だし、覚えとらんでもしゃーないか」
「あ、あの」
「あー、気にせんでええから! それよりさっさと酒呑も、酒!」
 思い出せないことを申し訳なさそうにする聖に、郁は片手を振って話を終わらせ、さっさと宴会に突入しよう言わんばかりだ。
「郁ちゃん、オッサン臭い……」
「麻子ちゃん、オッサン臭いんとちゃってオッサンやから」
「もう。せっかく可愛いのにもったいないでしょー」
 麻子から見て、郁は羨ましいくらいに整った容姿を持っている。それこそ尚志と並んでも絵になるほどに。それなのに口を開けば女の子らしさの欠片もないのが本当に惜しかった。どうせなら完璧なくらい女の子らしければ、諦めもつくというものなのに。
 けれど同時に、自分の容姿を鼻に掛けたりしない郁だからこそ、友人として付き合っていて楽しいということもわかっていた。
 女心は複雑だわ、と心の中でこっそりと溜め息をつく。
「亘理、郁に可愛げを求めるだけ無駄だぞ」
 麻子の気持ちを知ってか知らずか、尚志が笑み交じりにそう忠告をする。すると当然のように郁がそれに頷いた。
「そうそう。尚志に優しさだとか労いの心を求めるんが無駄なようにね」
「えー? 吉良先輩は優しいよ、郁ちゃん」
 本当に心の底から麻子はそう思っているのだが、郁からの同意は得られたことはなかった。不思議なことに、貴子や片岡もこの件に関しては同意してくれたことはない。
「ダーメダメ、麻子ちゃん騙されとるって。尚志は外面がええだけで、腹と肺の中は真っ黒なんやから」
「郁ほどじゃないけどな」
「肺は黒ないわ!」
 郁と尚志のやりとりはまるで漫才のようだ。研究会のメンバーはこのやりとりを見慣れているが、聖はまたしても尚志の第一印象が覆されたのだろう。驚いたような表情で二人のやりとりを見守っていた。