七夜月奇譚

壱 花枝の謂れ 02

 麻子達と入れ替わるように、暗い参道を登ってくる人物が二人。一人はスーツ姿に眼鏡をかけた、如何にも真面目そうなサラリーマン風の男。年は二十代後半から三十代といったところだろうか。どこか幸薄そうな顔立ちである。もう一人はブランド物のシックなワンピースを身につけたすらりと背の高い女性。モデルと言っても遜色ないようなルックスの持ち主で、男よりは少し年若いように見受けられる。並んで歩く二人の姿は少々アンバランスで、恋人同士というよりも、女王様と従者といった方が近いかもしれない。
「サトカさん、本当に桜なんか咲いてるんですか? 今は七月ですよ? もう夏ですよ?」
 足場のあまり良くない境内の地面にも拘らず、ピンヒールでもよろめくことなく歩く女の背中に、キョロキョロとあたりを見回しながら男は問いかけた。
「咲いてるわよ。ここの『不断桜』はこの辺りでも有名なのに知らないの?」
「フダンザクラ? そんな品種は初めて聞きましたけど」
「『不断桜』は品種じゃなくて通称よ」
「通称、ですか」
「そ。断つことなく咲き続ける桜。だから『不断桜』って呼ばれてるの。ほら、こんな時季なのに花をつけているでしょう?」
 そう説明をしながら、サトカは真っ直ぐに不断桜の下へと足を進める。男はそれに続き、白く細い指の示す先に視線を向けた。そこには暗闇に白く浮き上がるように、可憐な花弁が揺れている。
「ほ、本当ですね。でも、どうしてでしょう? 突然変異ですかね?」
「違うわよ」
「じゃあ?」
「女の未練、かしらね」
「未練?」
 意味深に呟くサトカに、男はその意味を問いただそうとした時だった。
「んもう! しつこいわね!」
 つい今しがた二人の上がってきた参道の方から聞こえてきた若い女の声に、二人は同時に振り返った。
 背中と胸元が大きく開いたペールブルーのトップスに、白のショーパンツという、露出度の高い服装の二十歳くらいの少女だった。サトカと同じくピンヒールのサンダルを履いているのだが、その足元は覚束なく、急いでいる為に今にも転んでしまいそうだった。
 その少女が何故急いでいるのかというと、更に後に続いて現れた存在の所為だろう。
 年の頃は二十四、五歳だろうか。真っ黒のスーツに真っ黒のカッターシャツ。靴も黒、髪も黒、更には既に日が暮れているにもかかわらず黒のサングラスまで掛け、彩りがあるとすればその人物の持つ肌の色と、濃いグレーのネクタイだけだった。その全身黒ずくめの男は、必死に逃げる少女の後を訳のわからないことをのたまいながらついていく。
「いやだからね、今日の君は、十二星座でも血液型でも四柱推命でもはたまた六星占術でも運勢最悪なんだよ!」
「占いなんて当てにならないわよ!」
 少女は吐き捨てるように言うが、黒の男はめげずに食い下がる。そしてスーツの内ポケットから何やら銀色に輝く小さなものを取り出した。
「そんなことないって! だからさ、これ買っといた方がいいよぉ? キリストも使った聖なる銀のスプーン! 銀にはもともと邪悪なものを払う力があるし、何よりスプーンってどうやって使うものかわかるよね?」
「カレーとかスープとか食べるものでしょ」
「どうやって?」
 真剣な男の言葉に圧倒されたのか、少女はいつの間にやら足を止め、素直に話を聞いてしまっている。男に手渡されたスプーンを持ち、
「どうやってって……こう、すくって……」
「あー! 今何て言った!?」
 物をすくう仕草をすると、男は大きな声を上げた。あまりの大きさに、少女はビクリと肩を震わせつつも、おずおずと答える。
「……すくって……」
「そう!『すくう』もの! つまり、君自身を『救って』くれるものなんだよ!」
 自信満々、声高らかに男が宣言する。少女はあまりの馬鹿馬鹿しさに、一瞬言葉を失ったがすぐさま我に返り、持っていたスプーンを無造作に投げ捨てた。そのまま何事もなかったかのように再び歩き始める。男は慌てて先を塞ぐように少女の前に回り込んだ。
「あぁーっ! ちょっと待って! 今のは軽ぅいジョーク」
 貼り付けたような笑顔でまたもスーツの内ポケットをごそごそと探っている。
「今度は真面目に、はい、これ!」
「何よコレ」
 取り出したのは、古ぼけた和紙。何やら人物の顔が書いてあるようだった。
 少女はそれにあからさまに眉を顰めている。
「かの有名な臨済宗の開祖・栄西を書いた頂相(ちんぞう)!」
 説明を耳にした途端に、少女はそれをびりびりと破り捨てる。男の説明が本当ならば、かなりの文化財的価値があるのだが、少女は端から男の言葉など信じていなかったので問題はない。
「あたしの家、浄土真宗だから」
 宗派が違うと一応正当らしき断わり文句を短く告げる。しかしやはり男はそのまま諦めたりはしなかった。
「浄土真宗! だったらこれ! 『善人なおもて往生を遂ぐ』悪人正機説の書かれたお守り携帯ストラップー!」
 またも取り出されたのは、やたら長々と文章の書かれた携帯のストラップ。もうここまでくればご利益も何もあったものではない。
 少女は憤慨しきってそれを地面に叩きつけ、思いっきり踏みつけた。「あぁ」と情けない声を上げ、男は踏みつけられたストラップを拾い上げる。
「あたし急いでるの! 下らないことに付き合わせないでよね!」
「まぁまぁ、悪いこと言わないからさ、今買わなきゃ損だよー? 今なら全品半額! 更にはこの恩徳賛のCDまでつけちゃうよー!」
 足早に立ち去る少女の後を、男はなおもしつこく追いかけていく。騒がしい二人の声が徐々に遠のき、しばらくしてようやく元の静寂が戻ってきた。
「……恐ろしく下手くそな霊感商法ですね」
 一部始終を見ていたサトカのお供の男は、呆れを通り越して感心しているような声で呟く。サトカもため息をつきながら同意した。
「ホント。悪質商法全部があんなにバカだったら、誰もひっかからないでしょうに」
「まったくです」
 サトカの言葉に苦笑を以て答え、男は地面に散らばっている栄西の頂相の残骸を拾い集めた。その姿を見つめ、サトカは微かに口元を綻ばせる。
「さ、行きましょ。伯父様待たせるとうるさいから」
「はい。せっかくのお土産も、ぬるくなってしまいますしね」
 騒がしい二人組が消えていった道とは別の参道を、サトカたちはゆっくりとした足取りで上がっていった。


 そして、サトカ達二人と入れ違うように、またも新たな人物が下方の参道から現れる。年の頃は先ほど奇妙な男に追われていた少女と同じくらい。けれど派手な装いだった彼女とは正反対に、シンプルなタンクトップに黒のパンツ、足元はスニーカーと軽快な出で立ちだった。うすぼんやりとした外灯の光が、辺りを見回す彼女の左の耳朶に並んだピアスに反射する。不断桜の近くまで来るとぐるりと一周見て周り、腰に手を当ててどこか自慢げな表情を浮かべた。
「さっすがウチやなぁ。み・ご・と・に……迷った」
 引き攣ったように笑い、彼女は小さく呟く。それをかき消すように、ザワザワと葉擦れの音が耳をくすぐってゆく。それ以外に響く音はほとんどなく、寂しげな雰囲気が辺り一面に満たされていた。
「ん? でも、ここ……」
 しかし、その景色に見覚えがあったのか、彼女はもう一度視線を一通り巡らせる。何かを探すようなその視線は、不断桜の前でピタリと静止した。
「ああ、やっぱり。久しぶりやな」
 懐かしそうに彼女は不断桜に近づき、その幹にそっと触れる。彼女――城宮郁は、この場所を知っていたのだ。この絶えず咲き続ける桜のことも、そして――。
「けど、何か……」
 その場に違和感を覚えたのか、首を傾げながら郁は桜の大樹を見上げ、それから根元の花枝を見下ろす。そして何かを感じ取ろうとでもするかのように、静かに瞳を閉じた。
 が、次の瞬間――。
 いきなり神聖な境内に不似合いなアップテンポの音楽が鳴り響く。その音に飛び上がらんばかりに驚き、急いでその音源を止めようとヒップポケットから携帯を取り出した。通話ボタンを押すと、相手が誰かも確かめずに話し始める。
「尚志! いきなり電話鳴ったらビックリするやろ!?」
『今から電話しますって知らせる方が難しいだろうが』
 電話の先から聞こえてきたのは、馴染みのある男の声。呆れ混じりの冷静なツッコミの言葉に、郁は返す言葉もなく納得してしまった。
『で、今どこにいるんだ?』
「桜の傍。でも、何かここ前と違うんだけど……」
 話しながら郁はもう一度不断桜の薄紅の花弁を見つめる。風に枝葉の擦れる音は、なおも鳴り響き、それとともに花枝も揺れていた。
『ああ、それなら気にするな。すぐにわかるから』
「尚志? 何か知っとるん?」
『来たらわかる』
「……わかった」
 桜の違和感の理由を尚志は知っている。彼が来ればわかると言うのなら、その通りなのだろうと郁は素直に頷いた。
 しかし、それよりも大きな問題がまだ一つ残っていることにすぐさま気付く。通話を切られる前にと、慌てて口を開こうとしたが、その前に尚志が次の言葉を告げた。
『迎えに行ったほうがいいのか?』
「う。お願いします」
 今まさに、郁が言おうとしていたことを、さっくりと訊ねられる。
 付き合いの長い尚志のことだから、郁が迷子になってしまっていることも予想の範囲内だったに違いない。それはそれで気が楽であり助かりもするのだが、何だか少々悔しい気分にもなる。
『大人しく待ってろよ』
「あのねぇ、そこまでウチはオマヌケさんとちゃうねんけど」
『そうだな、ちょっとした方向音痴なだけだよな』
「うるさいっ」
 そう噛み付くように叫ぶと、尚志は電話口でくっくっと喉を鳴らして笑い、じゃあ今から行くからと言って電話を切った。郁は憮然としながら携帯をしまうと、三度見つめるのは闇に仄白く浮かび上がる花枝。
「もうすぐ五十年くらい、だったか?」
 何に対する問いかけかも知れぬ言葉を、郁は呟いた。答えるように、葉擦れの音が大きくなったようだったが、それはきっと偶然だろう。
「五十年、か」
 咲き続ける花から鬱蒼と茂る樹々、そしてその隙間より覗く空へと視線を移し、なおも郁は一人言ちた。
 小さな声音をより響かせようとするか如く、不意に風がやみ、樹々のざわめきが声をひそめる。それまで以上の静謐が闇の中に広がり、寂寥感がその空間を支配した。
「私にはもう、それが長いのか短いのかすら、わからないな」
 吐息のように紡がれた言葉は、夜の澄んだ空気を微かに振動させた後、ただただ静かにほどけていく。ザァと、強い風が思い出したかのように吹きぬけ、郁の声の残滓すら拭い去った。

 何も応えぬ桜は、ただ揺れていた。