七夜月奇譚

壱 花枝の謂れ 01

 鬱蒼と繁る木々に、夕闇が更に暗く遮られる神社の境内。外灯もほとんどなく、頼りになるのは懐中電灯の小さな明かりが二つのみ。そのささやかな灯火で足元を照らしつつ、歩みを進める三つの人影があった。三人のうちの一人が残る二人より少し先を歩きながら何やら語る低い声音が、静寂に満ちた境内に響く。
「ところが約束の日も間近になったある日、女は信じられない噂を耳にする。男が女を裏切って、所帯を持ってしまったというんだ。絶望した女は、桜の下で首をかき切り、恨みの言葉を残して死んだ。それが約束していた七月七日の日だったんだって……」
 神妙な顔で、井隼雄介(いはや ゆうすけ)は長話を締めくくった。ずっと黙ってその話を聞いていた亘理麻子(わたり あさこ)は、しばしの沈黙の後、不思議そうに首を傾げる。
「井隼君、それのどこが『不断桜(フダンザクラ)』と関係あるの?」
「そうだぞ、井隼。説明になってないだろう」
 麻子の疑問に乗るように、二人の先輩である片岡晃己(かたおか てるき)は続けた。それに井隼は憮然として反論する。
「だーかーらー! その裏切られた女の怨念が籠もって、一年中咲くようになったっていうのが、この『不断桜』の伝承なの!」
「ああ、なるほど」
「そうなのー?」
 井隼の説明にあっさりと片岡が納得する。しかし麻子はまだ納得できていないような面持ちで、目の前に大きく枝を広げる葉桜を見上げた。
「でもどこに桜なんて咲いてるの? どこからどう見ても完全な葉桜じゃない……」
 目に映る限り青々と繁る、艶やかな緑の葉。その中には、些かの花びらも見受けられない。いくら暗い宵の口とはいえ、花が咲いているのならば少しくらい白く浮き上がって見えそうなものだった。
「そうだよねぇ。俺もそう思ってたんだよ。おいっ! 井隼っ!」
 麻子の疑問にまたも簡単に片岡が便乗し、責めるように井隼を呼ぶ。それに煩しげに溜め息を零し、井隼は請われるままに説明を繋げた。
「うるさいっすねぇ。上じゃなくて、ほらここ。咲いてるでしょ? 少しだけ」
 そう指し示した先は、大樹の根元すぐ側。小さな若枝が脇から伸び、その先に薄紅の花房がささやかながらその存在を主張していた。
「うわぁ、マジで咲いてんのかよ」
「ホントだぁ。もう七月なのに……」
 麻子は驚くというよりも不思議でたまらないといった風に、その花枝を見つめる。
 麻子の中に湧き上がる好奇心が、その花に触れようとするという行動を選ばせた。ごくごく自然にその桜に手を伸ばし――。
「気をつけろよ、亘理。その花に触ると女の『祟り』があるってウワサなんだから」
「げっ! 嘘っ!」
 井隼のタイミングよい言葉に、麻子は慌てて伸ばしていた手を引っ込めた。その焦った様子に、井隼は意地悪く笑っている。
「んもう、もっと早く言ってよ! 危うく触るとこだったじゃない!」
「そうだぞ! 麻子ちゃんにもしものことがあったらどうすんだよ! 麻子ちゃん、大丈夫?」
 麻子と片岡の二人から責められ、井隼は少々拗ねたように嘆息した。
「すみませんねぇ。でも、亘理はともかく、片岡さんまでこんなこと信じるんですね」
 井隼と麻子は、同じゼミで仲も良い。同じ講義を取ることも必然的に多いから、一緒にいて話す機会は多いのだ。だから麻子は井隼の怖い話好きも知っているし、井隼も麻子が存外そういう話を信じてしまう性質なのはよく理解していた。
 しかし片岡にこういう話をしても、いつも大した反応が返ってこない。だから、この手の話を全く信じていない部類の人間だと思っていたのだ。
「何をぅ? 俺はこれでも霊体験は豊富だぞ?」
「えー? 片岡先輩がぁ?」
「えー? 片岡さんがぁ?」
 予想外の片岡の返答に、麻子と井隼が口を揃えて不信の声を上げた。
「何だ、二人して。そんなに意外か?」
「だって、そういう人って、もっとこう……」
「もっとこう、何なんだよ」
 言葉を濁す井隼に、むっとして片岡が詰め寄る。しかし、
「繊細っていうか……」
 身も蓋もない麻子の言葉で、片岡はがっくりと肩を落とし項垂れた。
「麻子ちゃあん」
「そうそう。片岡さんみたいな人だと、幽霊の方が逃げ出していっちゃいそうだよな」
「吉良先輩とかの方が『らしい』よねぇ」
「確かに。見えないものが見えてそうだもんな」
 先輩に対して容赦ない言葉が次々と繰り出される中、引き合いに出された友人の名に反応し、片岡は不貞腐れつつ反論した。
「言っとくが、尚志は霊感とか全然ないぞ。妙に勘が鋭いトコはあるけどな」
「そうなんですか? 吉良先輩なら、絶対見えてそうなのになぁ」
 宵風が木立を揺らし、麻子の言葉をかき消すようにざわめく。それに促されるかのように、麻子はもう一度桜の大樹を見上げた。
「それにしても、ホントに立派な樹」
 感嘆も込めて、ポツリとそう呟いた瞬間――。
「でしょう?」
「ぬわぁーっ!」
「うひぃーっ!」
 麻子の言葉を受けるように背後から返された、女の声。
 突然のことに井隼と片岡が情けない叫び声を上げ、逃げるように飛びずさる。
「ちょっと、井隼君! 片岡先輩!」
 唯一冷静だった麻子は、逃げ出そうとしている二人に向かって叱責するように呼び掛けた。
「ごめんなさい。驚かせてしまいました?」
 更にそれに被せるように紡がれたのは、少し焦ったような謝罪の言葉。それがさらりと耳に心地の良い女の子の声音だと気付き、ようやく意気地のない男二人組は声の主をしっかりと確かめた。
 そこにいたのは、自分達よりも少し年下、高校生くらいにも見える、華奢な少女。真っ白なワンピースに、薄い水色のカーディガンを羽織っていて、今は少し申し訳なさそうに儚げな笑みを浮かべている。
「え? あ、女の、子……?」
「もうっ。井隼君、失礼だよ?」
 呆れかえる麻子に、井隼は面目なく頭を掻いた。自分の意気地のなさが露呈してしまった気恥ずかしさもあり、誤魔化すように笑みを作る。
「わりぃ。……えっと、ごめんね。白い服着てるから、一瞬幽霊かと……」
「井隼君! 失礼だってば!」
 重ねて失礼な言い訳を零す井隼に、麻子は慌ててそれを制する。すると、ついさっきまで井隼と同じく逃げようとしていた片岡が、何事もなかったかのように続けた。
「まったくだ! こんな可愛い女の子に向かって幽霊だなんて」
「片岡さんだって驚いてたじゃないっすか!」
「あれはおまえの声に驚いたんだ。彼女に驚いたんじゃない」
「ったく、ホントかよ……」
 疑いの眼差しを片岡に送ってから、井隼はもう一度目の前の少女に頭を下げた。
「本当にごめん。こんな時間にこの神社に俺たち以外いるなんて思わなかったからさ」
「いいんですよ。いきなり声を掛けた私も悪かったんですから」
 素直に謝る井隼に、少女は気分を害した様子もなく、穏やかに笑って許してくれる。
 麻子は心底呆れたようにわざとらしく溜め息をついた。
「まったく。さっきまで『不断桜の祟り』だ何だって嬉しそうに話してたくせに」
「『祟り』?」
「麻子ちゃんの言う通りだ。だらしないぞ、井隼」
「片岡さんもね」
「だから俺は驚いてないって!」
「あの!」
 またも言い争いになりそうな三人の会話を聞いていた少女が、突然少しばかり強めの声を上げる。それに盛り上がりを見せかけていた会話は寸断され、三人の視線が一気に集中した。
「あの、この桜の『祟り』って……」
「あ、君も知ってる? 『不断桜』の怪! 『一年中咲き続けるのは裏切られた女の怨念か?』っての!」
 訝しそうな表情の少女に、井隼の舌が本来の調子を取り戻したように括舌良く回る。しかし、少女はますます怪訝な色を強めて呟いた。
「……そんな話、初めて聞きました」
「え? そう? この辺に住んでるわけじゃないんだ?」
「いえ、そうじゃなくて……」
 井隼の無邪気な問い掛けに、少女の表情はますます曇っていく一方だ。その様子を麻子は案じるように、片岡と井隼は不思議そうに見つめる。
「私、幼い頃からこの樹とは馴染みがあるんです。ずっとこの樹を見て育ってきましたから。でも、そんな話は初めて」
 少女がどこか悲しげに話すのにつれて、麻子の表情は強張っていった。そしてジロリと睨みつけた先は、勿論この怪談話を持ってきた井隼。
「いぃはぁやぁくぅーん! さっきの話、ガセなんじゃない! ごめんね、そんな想い出の場所を『祟り』だなんて」
「ガセなんかじゃないって! この辺じゃ結構有名な話なんだからな! 俺の高校ではみんな知ってたぞ!」
 頭ごなしに井隼を非難し、少女に謝る麻子に、井隼はムッとしてすぐさま反論した。しかし麻子は白々とした視線を改めない。
「ホントー? 井隼君の周りでだけ有名だったんじゃないの?」
「ホントだって! そうだ! ウチの高等部のヤツだって知ってたぞ! 片岡さんも聞いたことないっすか!?」
「んー? 知らん」
「いい加減謝りなさいよー」
「嘘じゃないってー!」
 全く以て信じてもらえない井隼の悲痛な声が境内にこだまする。そのあまりにも哀れな様に、少女は申し訳なくなってきたのか、庇うように口を挟もうとした。
「あ、あの、もう……」
「何ケンカしてんだ、おまえら」
 少女が全て言い切る前に、割って入ったのは新たな人物の声だった。呆れ返った声の主に、その場にいた全員が振り返る。
 少女はその人物を見て、小さく声を上げ、動きを止めた。その声は、他の三人の声に紛れて、誰の耳にも届きはしなかったが。
「お、尚志、どうしたんだ?」
「どうしたじゃないだろ? 貴子達には先に行ってもらっておまえらを呼びに来たんだよ。そしたら、ケンカしてるみたいだし」
「吉良さん! 吉良さんも知ってますよね! 『不断桜の祟り』!」
 何とか信じて欲しい状況の井隼は、片岡と高校時代からの友人である吉良尚志(きら なおし)にも同意を求める。今の井隼にとって、片岡と同じ高校出身の尚志が最後の砦であった。
「『不断桜の祟り』? ……あぁ、触ったら死ぬってヤツか?」
「そう! そうっす! ほらみろ! 吉良さんだって知ってるじゃないか!」
 鬼の首でも取ったかのように、萎れていた井隼が復活する。その様子が何となく気に食わなかったが、麻子は尚志に確認するように問いを重ねた。
「本当にそんな話あるんですか?」
「まあな。ここの桜はちょっと特殊だからそんなウワサが出来たんだろうが。でも、実際に誰かが死んだって話は聞いたことないけどな」
 補足するように説明する尚志に、ようやく麻子は納得する。麻子にとって井隼の言葉は信憑性が薄いが、尚志の言葉は大いに信用に値するのだ。
 話が一段落ついたと悟った尚志は、この場にいる見ず知らずの人物に目を向けた。
「それで、そっちの子は?」
 話を振られて、少女は我に返ったように姿勢を正した。育ちがいいのだろう。綺麗に両手を膝上辺りでそろえ、ゆっくりとお辞儀をする。
「失礼しました。私は中院聖(なかのいん ひじり)と申します。あまり皆さんが楽しそうに桜を見ていらっしゃったから、つい……」
 声を掛けてしまったのだと、少し恥じ入るように微笑む。
 尚志はその自己紹介を聞いて、ふと気付いたように訊ねた。
「『中院』って、じゃあ、君はこの神社の身内か何か?」
「え? えぇ。よくわかりましたね」
 突然の尚志の問い掛けに、聖は驚き混じりに肯定する。あとの三人もどうして尚志がそんなことがわかるのか不思議顔だ。
「この水鏡(みかがみ)神社は村上源氏と縁が深いし、宮司は代々中院家の人間が受け継いでるはずだからな」
「いつも思うが、何で法学部のおまえがこういうのに詳しいのかが謎だぞ、俺は」
「ちょっとした趣味だよ」
 理由を説明すると訝しげな表情をする片岡に、尚志は軽く笑ってみせる。しかしその言葉は井隼や片岡の疑問を深めるだけ。そして、麻子の尊敬の眼差しを深めるだけだった。
 その麻子が、我に返って慌てる。
「あ、じゃあもしかして、私達お邪魔しちゃったかな?」
 その問い掛けは、もちろん聖に対してだ。けれど聖は何の話だか俄かには思いつかない。
「邪魔?」
「だって、桜、見に来たんでしょ? それなのに私達かなり騒いでたし」
「確かに桜に用があってきましたけど、でも、邪魔だなんて……」
 麻子の確認で聖は意味を理解すると同時に、すぐさま柔らかく否定する。そのまま、少し淋しそうに桜を見上げ、微笑んだ。
「ただ、少し羨ましくて」
「羨ましい?」
 何の脈絡もなく出てきた『羨ましい』という言葉に、一同が揃って疑問の声を上げる。聖は視線を桜から外しはしないが、けれどどこか違う遠い場所を見つめるような風情だ。
「私、ずっと独りきり、でしたから」
 ぽつりと続けられた言葉は弱々しく、深く沈んだ夜闇に溶け込む。
 聖の言う『独りきり』の意味を正確に捉えられたわけではなかったが、彼女が孤独を感じていることだけはその場にいる全員にはっきりと伝わった。それほど、彼女の声は儚げなものだったのだ。
「えーっと、聖ちゃん!」
「は、はいっ」
 麻子が突然大きな声を上げ、聖の両手をぐっと握り締める。驚いたのか、それとも麻子の勢いにつられたのか、聖も幾分大きめの声で返事をした。
「一緒に遊ぼう!」
「……はい?」
 麻子の突拍子もない誘いに、聖は完全に虚をつかれ、少々間の抜けた返事を返した。しかし、麻子の聖を見つめる瞳は真剣そのものである。
 聖が真意を問いかけようとする前に、麻子は聖の手を握ったまま、大袈裟に身振り手振りまで加えつつ朗々と話し始めた。
「今日は七夕! せっかくだからみんなで星でも見ながら一杯やろうってことになったの! だから聖ちゃんも一緒に呑もう!」
「お! 麻子ちゃん、ナイスアイディア!」
「亘理にしては気が利く提案じゃん」
 麻子の言葉に、片岡、井隼が次々とのる。聖が口を挟む間もなく、三人の間で話が一気に盛り上がっていった。
「『亘理にしては』は余計! いいですよね、吉良先輩!」
「そうだな。せっかくの『七夕』だしな」
「あの、でも……」
「あ、迷惑だった?」
 聖が何か言いかけようとしたのに気付くと、麻子は途端に捨てられた仔犬のようにシュンとなり、哀しそうに聖を見つめ返す。そのあまりにも元気のない姿に、聖は焦って大きく首を横に振った。
「そんなことは! でも、いいんですか?」
 偶然知り合っただけの人間が、この仲の良さそうなグループの集まりに参加などしていいのか、不安に思ったのだろう。聖は窺うように順にその場にいる全員の表情を見回した。
「全然いいって! 俺たち大学で民俗学研究会ってサークルやってんだけど、要は何かと行事にかこつけて宴会やってるようなトコだから!」
「そうそう気兼ねしないで!」
 当然女の子好きな片岡と井隼からしてみれば、可愛い女の子が増える方が嬉しい。迷惑なはずなどなく、むしろ大歓迎なのだ。二人揃って、何とか聖も参加する方向性に持っていこうと、かなり適当な、そして本来の部活動の内容とは違うことを説明する。
 盛り上がってしまっている二人には無駄だと知りつつも尚志は口を挟んだ。
「おいおい、真面目に活動してる人間もいるんだぞ」
「そんなの吉良さんと貴子さんだけじゃないっすか」
「失礼ね! 私だってしてるわよ!」
「まったくだ。真面目じゃないのはおまえら二人だけだろう」
 呆れる尚志と少々ご立腹の麻子。それに片岡はまあまあと口だけは宥めるように割って入る。しかし、その耳には二人の小言じみた言葉は勿論聞こえておらず、さっさと次の段階へと持っていこうとしているのがありありと窺えた。
「そんなことより貴子たちがあっちで待ってるしさ、早く行かないと怒られるぞ」
 尚志がここに来た大元の目的を理由に、片岡が急かすように皆を促す。井隼も聖の気が変わらないうちにと思ったのか、片岡が促す言葉に素直に頷く。
「そうっすね。えっと、中院さん?」
「聖でいいです」
「じゃあ」
 聖をエスコートしようと井隼が腕を上げ、華奢な肩にそれを回そうとした。
 が――。
「じゃあ聖ちゃん、行こうかぁっ!」
 素早く間に片岡が割り込み、井隼の代わりに聖の肩を抱いて歩き出した。
「え? え? あ、あの?」
「ちょ、ちょっと片岡さぁん! 自分だけズルいっすよー!」
 聖は少々戸惑いながらも、その手を振り払うこともできない。否、むしろ振り払うなどということ自体思いついてもいないのだろう。エスコートされるまま、片岡に連れられていく。その後を、美味しいとこ取りされた井隼が、情けない声を上げて追いかけていった。
「まったく、二人とも調子いいんだから」
 片岡と井隼の舞い上がりぶりを見て、麻子は大きくため息をつく。それに同意するような微苦笑を浮かべて、尚志は軽く麻子の肩を叩いた。
「俺たちも行くか。ほっとくとヤツラが貴子に怒られるのも目に見えてるし、一応フォローもしないとな」
「損な役回りですね」
 麻子の同情するような眼差しに、尚志はいつものことだといわんばかりに肩を竦め、並んで歩き始める。
「……あ、先輩、郁ちゃんは?」
 薄暗い参道を歩きながら、麻子はふと思い出したように尚志に訊ねた。
 郁というのは、麻子と同じ一回生の城宮郁(しろみや かおる)のことだ。郁は民俗学研究会のメンバーではないのだが、尚志とは親戚同士で仲が良く、サークルのボックスにもよく顔を出している。むしろ井隼や片岡よりも出現頻度が高いくらいだ。麻子とも気が合うらしく、二人とも文学部なのでいくつか同じ講義を取っていたりもした。
「ああ、アイツは用事があるから遅れるって言ってたな。でも、この神社の場所は知ってるし、多分辿り着ける、はずだけど……」
 答える尚志の声が、徐々に弱くなっていく。どうやら気に掛かることがあるのだと麻子は気付いた。
「どうかしたんですか?」
「あ、いや、アイツ方向音痴だから、来たことあっても迷う気が」
 ため息混じりの尚志の台詞に、麻子は思わずぷっと吹き出してしまう。麻子の持つ郁のイメージとはギャップがあったのだ。
「郁ちゃん、方向音痴なんですかー? すっごく意外」
「そう。だから俺がついてないと駄目なんだよ」
 面倒臭そうに言いながらも、尚志のその表情は優しい。麻子は尚志にそんな表情をさせる郁が羨ましく思え、少しの切なさが胸を苛んだ。
 尚志と郁は恋人同士というわけではない。けれど、二人の間には他人が入り込めないような強い絆のようなものを感じる。尚志にほのかな想いを抱いている麻子にとって、郁は友人であると共に恋のライバルでもあるのだった。
「でも、郁ちゃんのことだから迷っても自ら道を切り開きそうですね!」
「そうだな」
 切ない気持ちを押し隠し、麻子はわざとらしくない程度に明るく振舞う。
 返ってきた尚志の優しい声音と穏やかな微笑に満足しながら、「早く戻りましょう」と麻子は促した。
 二人の姿が参道の奥の闇へと溶け込んでゆく。その後を追うように、夕風が鬱蒼と繁る樹々を、そして桜の葉を揺らし、吹き抜けていった。その同じ風に、頼りなく密やかに薄紅をつけた細枝が揺れている。

 寂しげに、誰かを待つかのように――。