Love Boundary

Reason and feelings

 石田君と駅から歩いた日以降も、校内ではもちろん、帰り道で遭遇することがしばしばあった。
 けれど、彼はあの日のように強く答えを求めるようなことは一切しなかった。すれ違いざまに挨拶してくれたり、本当に他愛もない世間話をする程度。
 それにホッとするのは確かだけれど、同時に少し淋しい気もした。
 たとえ受け入れられない想いでも、好意を寄せられることが嬉しくないわけがない。ましてや、石田君は誠実で好感の持てる人柄だ。生徒の中には、彼よりもずっと美形でアイドル視されている子もいたけれど、どこかそれを鼻にかけているようなその子より、石田君の方が断然魅力的だと感じていた
 ――けれど、それだけよ。
 人気の少ない特別教室棟への廊下を歩きながら、心の中で自分に戒めの言葉を繰り返す。

 すでに私が着任してから二カ月。
 授業も全て終了し、至るところから放課後特有の賑やかさが聞こえ始めていた。グラウンドの方からは、野球部の金属バットにボールが当たる音。サッカー部の掛け声。陸上部の笛の音。音楽室から洩れる吹奏楽部のロングトーンがそれらに混じって響いている。帰宅部の生徒たちは、そんな部活動の生み出す音に負けないくらい、華やかで楽しそうな会話を繰り広げながら下校していた。
 そんな生徒たちに少し懐かしさを覚えながら、私は社会科準備室に向かっていた。あすの授業に使う資料の準備の為だ。
 鍵を開けて中に入ると、少し動いただけなのに埃が舞った。普段はあまり人の出入りがないからだろう。最近の授業ではもう使わなくなってしまった大判の地図などには、大量の埃が積もっていた。
「大矢先生、少しくらい掃除してよー」
 あまりの惨状に、ここにはいない同じ社会科のベテラン教師に文句が零れる。とりあえず、空気の入れ替えくらいはしようと、極力埃を舞い上げないように静かに窓際へと近づいた。
 ずっと動かしていない所為で固くなってしまっているクレセント錠を何とか外し、二か所ほど窓を全開にする。より効率よく換気しようと、準備室前の廊下の窓も空けることにした。
 その窓際に辿り着いたとき、中庭のベンチに人影が見えた。男子生徒が一人、本を読んでいるようだ。
「石田君だ」
 遠目からでも確信できた。そして、まるで私の呟きが聞こえたかのようなタイミングで、石田君は顔を上げ、こちらを向いたのだった。にっこりと、いつもの穏やかな笑みが浮かぶ。それにつられてしまった私は、ごく自然に笑い返していた。
 石田君は腕時計を確認すると、本をしまい、軽く手を振って校門の方へと歩き出した。多分、これから予備校なのだろう。
 その後ろ姿を見送った後、準備室での仕事に戻ろうと踵を返した。どこかスキップでも踏みそうなほどウキウキとした足取りで準備室に戻り、はっと我に返る。
 私は何を浮かれているのだろう。つい数分前に、あくまでも『教師』と『生徒』だと言い聞かせていたところなのに。たったあれだけのことで浮かれるなんて、どうかしている。
 活を入れるようにパシパシと自分の頬を両手で叩き、しっかりしろと自分を窘めた。
「勘違いするな。一人になってからそんなに経ってないから、ちょっと人恋しいだけ。それ以上でもそれ以下でもないんだから」
 自らに暗示をかけるように、しっかりしろと繰り返す。よし、と気合いを入れ直すと、廊下の隅にある掃除用具入れを開けた。中からほうきとちりとり、雑巾を取り出す。
 目の前に積もった埃と一緒に、私の中の邪念も捨ててしまおう。確かに石田君は素敵だけれど、それでもやっぱり彼の想いを受け入れることはできない。受け入れてはならないものなのだから。強く言えずに期待を持たせるようなことは、すべきじゃない。今度会ったら、ちゃんと言わないと……。
 頭の中でシミュレーションをしながら、ほうきを動かし、着実に埃を減らしていく。
 しかし、ふと思い至った考えに、ピタリと手が止まってしまった。
「でも、向こうがその話に触れないことには言い出しにくいな」
 あれ以来、石田君は何も言ってこない。だとすると、もしかしたらとっくに諦めているのかもしれない。年頃の男の子なんだから、結構簡単に心変わりしてもおかしくなんかないのだ。
「もしそうだったら、私めちゃくちゃ自意識過剰な女じゃない」
 相手の興味がなくなっているのに、「付き合う気はないから諦めて」などと言ってしまったら、滑稽以外のなにものでもない。恥ずかし過ぎて、二度と顔を合わせられないだろう。
 大きく洩れた溜め息が、すぐ側の棚に溜まった埃を舞い上げた。
 結局、自分からどうにかしようとするより、相手の出方を待った方が良いようだ。
「あー、もう! 面倒臭いな!」
 解決の糸口が掴めないモヤモヤ感を打ち払うように、私は乱暴にほうきで掃き散らかす。途端に大量の埃が撒き上がり、盛大に咳き込む羽目になってしまった。
 このときは、この納まりの悪い気持ちの本当の原因に、まだ気づいていなかった。


「森山先生」
 準備室の掃除で思った以上に手間を取られてしまい、私が帰宅の途についたのはもうすぐ十時になろうかという頃だった。
 そんな時間なのに声をかけてきたのは、やはりというべきなのだろうか。石田君だった。予備校の帰りにしては遅すぎると思ったけれど、今の服装は制服ではなく私服だ。つまり、一旦帰宅してからまた外出したのだろう。
「夜遊びでもしてたの?」
 思ってもいないことを茶化した調子で訊ねると、そんな風に見えますかと少し困惑したような声が返った。
「冗談。石田君がチャラチャラ遊んでる姿なんて想像できないもの」
「それはそれで酷いような気がしますけど。俺だって高校生なんですから、遊ぶ時は遊びますよ?」
「へえ。何して?」
「何してって……本、読んだり、とか?」
 考えた素振りはしたけれど、結局思いつかなかったのだろう。石田君の答えは、あまりにも『遊び』というには適合しないものだった。その失敗したなと言わんばかりの表情に、思わず小さく吹き出してしまう。
「それは遊ぶって言わないわよー。普通に文学少年じゃない」
「そんなに笑わなくたっていいじゃないですか」
 珍しく拗ねたような石田君の言い様が、ますます私の笑いを誘う。何だか年相応の可愛らしさを初めて見た気がした。
「先生、笑い過ぎです」
「ごめんごめん! 石田君の意外な一面が見れたなーと思っ――」
 言葉の途中で、何かに足を取られ、ふらりと身体が揺らいだ。
 転ぶ。
 そう思った瞬間、がっしりとした腕が腰に回り、少し斜めになったままで支えられる。ほっと息をついたが、すぐにその状態の意味を悟った。
「あ、ありがと、石田君」
 後ろから抱きかかえられるような格好で、石田君の腕の中。細身に見えるのに、思っていたより力強い腕に、心臓が破裂しそうな勢いで早鐘を打ち始める。
「も、もう大丈夫だからっ」
 必死で冷静さを保とうとしても、声が裏返るのを誤魔化せなかった。
 一方、余裕たっぷりな石田君からは小さな笑い声が零れている。
「石田君! 大丈夫だってばっ!」
 少しばかり強めに抗議すると、ようやく石田君の腕がするりと解けた。しかし、相変わらずくすくすと忍び笑いを洩らしたままだ。どう見ても面白がっているとしか思えなかった。
「すみません。先生があまりにも可愛いのでつい」
「か、可愛いって……!」
 それ以上何も言うことができなくなって、腹話術人形のように口をパクパクとさせるばかりだった。してやったりとばかりの悪戯っぽさを滲ませた石田君の笑顔に、負けたような気分で悔しい。何だか出会ってからずっとやられっぱなしで、年上としての威厳なんて皆無な気がした。
「たまには俺の気持ちを主張しとかないと、先生は忘れそうですしね。なかったことにされたら困りますから」
「だからって普通こんなことする?」
「これでも一応自重したんですよ? いっそキスくらいしようかなとか思ったんですから」
「キ……っ!?」
 反射的に石田君の側から飛びずさり、距離をとった。塀にへばりつくようで格好悪いけれど、そんなことに構ってなんかいられない。そんな私に苦笑いしながら、石田君は両手を肩辺りまで上げて、何もしないアピールだ。
「思っただけですよ。先生に嫌われたら元も子もないので、そんなことは誓ってしません。ほら、もう遅いですし送っていきますよ」
「結構です! 一人で帰れます!」
 恥ずかしさも手伝って、私はそう言い捨てると早足で歩き出した。なおも聞こえる忍び笑いに、気をつけて帰ってくださいねと案じる声が混じる。しかしそれでも振り返らずに、一心不乱に我が家へと急いだのだった。
 おかげで私はすっかり失念していた。準備室で次に会ったら、きっぱりと断ると決めていたことを。そして後々、それを後悔することになるとは、思いもしなかった。


 そんな経緯があったからだろうか。しばらく私は石田君と会う機会がほとんどなかった。無意識に私が避けていたのかもしれないし、石田君の方が気を遣ってくれていたのかもしれない。
 とにかくあの出来事は忘れてしまおうと思うのだけれど、ほんのちょっとしたきっかけで思い出してしまう。その度に私は一人で赤くなっては慌てていたのだった。

 そんなある日、私はとある人物から声を掛けられた。準備室の掃除を全くしていなかった、同じ社会科の教師・大矢だ。どうやら次のテストのことで確認したいことがあるらしい。
 大矢先生は先輩とはいえ、直接アドバイスを貰ったこともないし、授業に関しての相談なども皆無だった。私から声を掛けることは滅多にないし、向こうからなどはそれ以上に有り得ない。珍しいなと思いながらも、素直に従って社会科準備室へとついていく。
 準備室は相変わらず埃っぽかった。さすがに一回軽く掃除したくらいでは、積年の埃は取り去れないのだろう。
「それで、次のテストについてとは何でしょうか? 範囲の確認は、この間終わったと思うのですが」
「テストはね、どうでもいいのだよ」
「え?」
 どうでもいいと言われて困惑したが、すぐにテストは口実で、別に話があるのだと気づいた。よく考えれば、テストの話ならば職員室ですれば問題がないのだ。
 何を言われるのかと、身体中に緊張が走る。
「少し前のことだが、森山先生を見かけたよ。車の運転中だったから、一瞬見えただけだったけれどね」
「はい」
「一緒に、二年一組の石田がいたね?」
 血の気の引く音を、聞いた気がした。
 考えなくてもわかる。わざわざ他の人の来ない場所に口実を作ってまで呼び出したのだ。ただ生徒と一緒にいたところを見たくらいでは、そんなことはしないだろう。間違いなく、あの抱きとめられた瞬間を見られていたのだ。
 ぐっと拳を握り締め、お腹に力を入れて声を押し出す。できる限り冷静に聞こえるように。何でもないことのように。動揺なんて、微塵も悟られてはいけない。
「石田君なら、家の方向が同じようなんです。何度か予備校帰りの彼と出くわしたことがありますよ」
「そうか。しかし、その時は何やら……抱き締められているように見えたのだが?」
 探るような視線に、私は少し困ったように笑う演技をしてみせた。実際は壊れそうなほどの鼓動と、今にもがくがくと震えて崩れてしまいそうな足を無理やり抑え込んでいる。けれど、少しでもおかしな素振りを見せたなら、私だけでなく石田君の将来にも響くだろう。そう思うと全神経を総動員して、普通に見せるしかなかった。
「あの辺の道、舗装が悪くてよく躓くんです。たまたまよろけたところを石田君が支えてくれたのが、そう見えただけじゃないですか?」
「では、本当に何もないと?」
「当たり前です。せっかく苦労して教師になったんですよ? 生徒とどうにかなったりしたら、今までの努力が全部無駄になるじゃないですか」
 憤慨したように私が言うと、大矢先生はふむと頷いてそれまで厳しかった表情を少し和らげた。どうやら、私の言葉を信じてくれる気になったようだ。
 実際、私はほとんど嘘をついてはいない。抱き締められたことに関しては嘘だけれど、石田君の告白は最初の段階で断っているし、ましてや恋愛関係に至ってなどないのだ。
 言葉通り、教師を辞めたくなんてないし、石田君の将来にケチをつけたくもない。二人にとってマイナス要素しかない事態は、何としても避けなければならなかった。
「それももっともだね。君は聡明で至極真っ当な教師だし、石田も真面目で目的意識の高い良い生徒だ。疑ったりして悪かったね」
「いえ、大矢先生に誤解させてしまうような私の行動にも問題があったのだと思います。もう少し、生徒と距離を置くように心がけます」
「そうした方がよさそうだね。君は若いから、周りは余計に疑うだろう。もし私でなく他の先生ならば、表立って騒ぎ立てていたかもしれない」
「はい。お気遣い頂き、ありがとうございました」
 目の前の先輩教師に頭を下げながら、背中には冷や汗が伝っていた。
 大矢先生の言うとおり、もし見られていたのが他の教師、特に同性だったならば、職員室内で尋問されていてもおかしくはない。こんな風にこっそりと確認してくれたことは、本当にありがたかった。
 もう行っていいと言う大矢先生に頭を下げて、準備室を後にする。そのまま一つ下の階に下りると、滅多に利用者のいない女子トイレに駆け込んだ。緊張で詰めていた息を、ようやく吐き出すと、その拍子にじわりと涙腺が緩んだ。
「……何で泣いてるのよ、私」
 鏡に映った自分自身を叱り飛ばしてみても、その声には覇気がない。それどころか、あとからあとからポロポロと雫が落ちるばかりだった。
「もう、ヤダ……」
 いくら拭っても溢れてくる涙。自分でもどうしてこんなに泣いているのかわからないのに、止まる気配はない。そのまま顔を覆いしゃがみ込む。
 止まらない嗚咽が、狭いトイレの中にやけに反響して聞こえた。


 大矢先生との話以来、私は完全に石田君を避け続けた。帰り道もわざわざ迂回し、校内でも極力彼のクラス付近には近付かない。授業の関係でどうしても近くを通る場合は、授業開始のギリギリまで職員室にいて、終了とともにそそくさと職員室に戻る。それの繰り返しだった。
 そのおかげか、見事に石田君に合わずに、一学期も終業目前まで時が過ぎていた。
 夏休みに入れば、今ほど気を張って出退勤しなくてもいいと思うとホッとする。なのに、何故かずっと胸の奥に重石のようなものがのしかかっていて、一向に気分が晴れなかった。
 思えば、以前は最低でも週に二回くらいは石田君と顔を合わせていた。会話と言うほどのものはなくても、軽い挨拶を交す機会くらいはたくさんあったのだ。
けれど、ここ一月ちょっとの間、まったく出くわさないという不自然さは、さすがに石田君も気づいているだろう。
 面と向かって口で言うよりも、断然酷い。そんな卑怯な自分に嫌気を感じながら、それでも今日も大きく迂回して自宅まで辿りついた。が、自分の家の前に人影があることに気付き、立ち竦む。
「あ、やっと会えた」
 こちらに目敏く気づいた石田君が破顔する。久しぶりに見るその笑顔には、私を責める気など微塵もなくて、自分の卑しさを知らしめられているようだった。
 けれど、そんなことよりももっと大事なことがある。一刻も早く、彼をこの場から立ち去らせなければならない。もし、今のこの状況を誰かに見られでもしたら、今度こそ言い訳はできないだろう。
「何、してるの?」
「先生、俺のこと避けてるでしょう? だから会いにきたんですよ」
 乾き切った冷たい声音にも構わず、石田君はいつも通りの笑み声で答える。
「帰りなさい」
 今まで一度も向けたことのない命令口調を、私はあえて選んだ。すると、そこで彼もいつもの私と様子が違うことに気づいたようだ。一瞬で訝しげな表情へと変わる。
「先生?」
「やっと……、必死の思いでやっと教師になったの。なのに石田君は、私の夢を潰す気なの?」
 本当は、こんな言葉を口にしたくない。けじめをつけるにしたって、もっと別の言い方があるだろう。
 けれど――。
「少し前に大矢先生にも疑われたわ! 石田君に抱き締められたところを偶然見られてたの! 何とか誤魔化したけど、次も同じような言い訳が通用するはずないじゃない! お願いだからこれ以上迷惑かけないで!」
 酷い言葉。利己的な言葉。それを選ぶのが一番いい。そうすれば、石田君はすっぱりと私に見切りをつけられるだろう。
 それに、この思いの全てが嘘というわけではない。教師は私の夢だった。子どもの頃からずっと憧れていた職業なのだ。だからこそ地道な努力をし続けられたし、何としてでも教師の地位を守っていきたかった。
「高校生の恋愛ごっこで、私の人生を潰したくなんかないのよ!」
 一気にまくしたてた所為で、微かに息が上がっていた。
 石田君は数々の暴言を圧倒されたように聞いていたけれど、しばらくすると肩を落として俯いた。私自身の所為なのに、その頼りない姿は痛々しく、胸に鈍い痛みが広がる。
「わかったら早く帰りなさい」
 それでも切り捨てるような口調のままで、私は石田君の横を通り過ぎ、玄関のドアへと向かった。
「……それでも」
 弱々しい声が背後で洩れた。私はその声にひかれるようにゆっくりと振り返る。
 けれど、振り向かなければ良かった。
「それでも、先生が好きなんです。すみません」
 顔を上げた石田君は、初めて会った時と同じくどこまでも穏やかに、そして今までに見たどれよりも愛おしそうに、微笑んでいた。
 振り切るように玄関のドアを開け、中に駆け込む。音に気づいた母親が何か声をかけたけれど、私は無視して階段を上がり、自室へと飛び込んだ。
「……んなこと、……いでよっ!」
 声と同時に、肩から掛けていた鞄を思い切り床に叩きつける。重く響いた衝撃音は、階下にも伝わっただろう。けれど、それにも構わず私は顔を覆ってその場に崩れ落ちた。
「そんな、こと……、言わな……でよぉ……」
 目を閉じれば、ついさきほど石田君が見せた微笑みが涙とともに溢れ出す。
 本当は『高校生の恋愛ごっこ』だなんて微塵も思っていない。何故なら、いつも石田君は私の気持ちを優先してくれていたから。口では強引なことを言ってみても、実際に無理やり私の気持ちを変えようなんてしなかった。ずっとずっと、我慢強く私が応える日を待っていてくれたのだ。
 だから、私も惹かれていた。気づかぬうちに、こんなにも強く。彼に会うたびに胸を弾ませて、彼が笑うたびに自分も笑みが浮かんで……。
 そうして少しずつ少しずつ心が捕われて、幕引きを決めた瞬間に自分の想いに気づかされた。
 いっそ、好きになんかなってくれなければ良かった。そうすればきっと、適度な距離を保ったまま、彼の卒業まで見守れただろう。もしかしたら自分の想いに気づくことすらなかったかもしれないけれど、それでも今よりも確実に長い時間を過ごせたはずだ。その方がずっと良かった。
 けれど、そんなものはないものねだりの幻想でしかない。現実には、夢を見ることすらおこがましいほど明確な線引きがされている。
 私は教師で、石田君は生徒だ。年が近くても、想いが通じ合ったとしても、踏み越えられない一線。私には、自分の人生や生活を捨ててまで、その一線を越える勇気なんてない。
 明日が休みで良かった。泣き腫れた目で学校に行かなくて済む。
 そして、ここには誰もいない。教師じゃなく、恋に破れた惨めな女がいるだけだ。泣けるだけ泣いて、休みの間に全部吐き出してしまおう。
 学校に行く日には、教師の顔に戻っていられるように――。