Love Boundary

Unbound and bound

 一学期の残り少ない日数をこなし、夏休みが訪れる。その間、石田君と顔を合わせることは一度もなかった。私は相変わらず意識的に避けていたし、多分向こうもそうなのではないかと思う。
 休みに入れば遭遇する確率も減るけれど、家が近所ということもあって、出掛ける際には少し警戒をしなければならなかった。その努力の甲斐なのか、彼の姿を見かけることすらなかった。
 そんな風に上手くいきすぎていたからだろうか。油断していた私は、二学期が始まってすぐに石田君と校内ですれ違うことになってしまった。気づいた時には、すでにかなり近い位置に石田君の姿があったのだ。私は授業で教室に向かうところ。石田君は教室移動するところだった。
 今ここで引き返すのは不自然過ぎる。どうしようかと悩んでいるうちにも、二人の距離は近づいていた。仕方なく覚悟を決める。
 石田君だって、ここで変な発言をしたりはしないだろう。挨拶されれば、こちらもごく普通に挨拶を返せばいいだけだ。
 そう自分に言い聞かせ、頭の中で自然な返答を繰り返しシミュレーションした。
(来た!)
 ほんの一メートルほど前。いつもの感じなら、ここで彼は穏やかに微笑んで、声をかけてくれる。私はそれに教師らしく落ち着いた笑みを返せば――。
 けれど、そんな覚悟も準備も、必要なかった。
 側まで来た彼は、無言で私の横を通り過ぎていたのだ。挨拶どころか、視界にすら入っていないかのように。
 振り返って確かめたくなる衝動を抑え、崩れ落ちそうな脚を叱咤して、何事もなかったかのように廊下を歩く。
(……当たり前、じゃない)
 今まで通りを期待していた自分に呆れてしまう。
 あの日からもう一月以上も経っているのだ。石田君がとっくに気持ちを切り替えていたって、全然おかしくはない。むしろ、切り替えられていないのは私の方だった。
 胸の奥がじくじくと疼くのに、目を瞑る。辛いのも悲しいのも、いっときだけのもの。そうおまじないのように繰り返し、次の教室へと足を進める。
 石田君を酷く傷つけて、そして自分自身も傷つきながら、教壇に立ち続ける道を選んだのだ。だから、こんな些細なことに心を挫かれないように、余計なことに心を侵されないように。私は誰にも恥じることのないような教師になるしかなかった。


 春の嵐に、桜吹雪が舞い上がる。隣家の庭には、小振りではあるが目を楽しませるには充分な早咲きの桜の樹があった。その花びらが風に乗って私の部屋の前でくるくると踊っていた。
 三月も半ば、私の勤める高校も春休みに入っていた。しかし、春休みだからといっても全面的に休んでいられるわけではない。卒業生を送り出してほっとする間もなく、新年度の準備に慌ただしく奔走する毎日だった。
 そんな中で貴重な休日に、私は自室で何をするでもなくぼんやりと桜が舞い踊る様を眺めていた。
 桜を見ていると、真っ先に思い浮かぶのは大学の卒業式だ。苦い別れと、切ない出逢いの始まり。思い出すたびに、溜め息をついてしまう自分がいる。
 はぁ、と小さく吐息が洩れた瞬間、携帯電話の着信音が響いた。
「え?」
 着信相手を確認して、思わず驚きの声が洩れる。まさか、今頃彼から――あの卒業式に別れた大学時代の彼氏から電話がかかってくるとは思いもしなかった。
 不思議な気持ちを抱きながらも通話ボタンを押すと、久しぶり、と懐かしい声が聞こえた。
「うん、久しぶり。どうしたの、急に」
『ちょっと美和子に会って、話したいことがあってさ。今から空いてるか?』
「大丈夫よ。どこ行けばいい?」
『いつもの場所』
 わかったと答え、その後簡単なやりとりをして電話を切る。手早く身支度を整え部屋を出ると、居間でワイドショーを見ている母に出掛ける旨を告げた。
「たまの休みの日くらい、家でゆっくりしとけばいいのに」
「だって、大学時代の友達から久しぶりに電話があったんだもん」
「あら、そうなの? 晩ごはんは要らない?」
「……ううん。多分少し話して帰ってくるだけだと思うから」
「久しぶりに会うってのに、アンタも薄情ねー」
 母の言葉に、私は苦笑で誤魔化すしかなかった。相手が友達ではなく、本当は元彼だと知ったら、こんな風には言わなかったとは思うけれど、いちいち訂正するのも面倒だ。向こうも忙しいの、ともっともらしく言い訳し、そのまま家を出た。
 駅までゆっくりと歩き、電車に十五分ほど揺られ、昔よく通った経路で大学へと向かう。彼の言った『いつもの場所』とは、大学のすぐ側にあるカフェのことだった。
 店内に入ると、これまた昔よく座っていた窓際のソファー席に陣取る彼の姿があった。
「お待たせ」
「わざわざ呼び出して悪かったな」
「ううん。どうせ今日は休みだったし」
 言いながら彼の正面のソファーに座る。再会した彼は、以前よりも線が細いように見えた。
「ちょっと痩せた?」
「そうだな。大学の頃よりは。美和子は、学校慣れたか?」
「さすがに慣れてないと困るでしょ」
「それもそうか。もう二年も経ってるんだもんな」
 そう、二年だ。
 彼と別れてから二年。今の高校に着任して二年。石田君と出逢ってからも、二年。
 その石田君はつい数週間前に卒業をし、有名大学へと進学していった。あの日以来、一言も言葉を交わすことなく。
 それは今も胸を疼かせるけれど、もう過去だと割り切るしかないこともわかっていた。
「で、こっぴどくふった元カノに、今頃何の用?」
 茶化した口調の私に、彼はわずかばかり憮然とする。機嫌を損ねたのかと少し不安になると、そんな私に気づいたのか彼は呆れたような溜め息を洩らした。
「言っとくけど、美和子のことが嫌いになって別れようって言ったわけじゃないからな」
「え?」
「あー、まあ、今更こんなことを言うとおまえは怒るかもしれないけどさ」
 きまり悪げにそっぽを向きながら、彼は自分のコーヒーを口にする。一口飲んだ後、またも大きな溜め息をつき、観念したようにこちらに向き直った。
「あの時、美和子は早々に採用試験受かってただろ? 正直悔しかったんだ。もちろん、おまえがめちゃくちゃ努力してたのは知ってるし、合格を聞いた瞬間も素直に嬉しかった。でも、すぐに決まると思ってた自分は全然決まらなくて、焦って、悔しくて、情けなくなって……」
 やっぱり、自分の進路決定が原因だったのだ。そう思うと、怒る気になんて到底なれない。むしろ、申し訳ない気持ちの方が大きかった。
「ごめん。それは私も配慮が足りなかったと思ってる」
「いや、俺のくだらない見栄だよ。彼女より不出来な男って周りからレッテル貼られてるんじゃないかって、マイナス思考ばっかりだったんだ」
 ごめんな、と反対に謝られてしまったけれど、私は首を振った。
 自分の見栄だと言われても、私に非がなかったわけじゃない。何より、あの当時彼の近くにいて、その状況を一番よくわかっていたのは私だったはずなのだ。少し考えれば、彼の心情も簡単にわかるし、気遣うことだってできたはず。それができないくらい、私は自分の夢の実現に浮かれていたのだ。
 そんな風に反省して小さくなっている私に、彼はそれまでとはまた違った苦い笑みを浮かべた。
「それにさ、美和子と付き合ってから、ずっと不安だった」
「不安? どうして?」
 彼が不安に思うような素振りを、私は見せていたのだろうか? 思い返してみても、自分ではそんな節は見つからない。
 他の男の子と仲良くしていたこともなかったし、休みの日は極力彼と一緒に過ごして、二人の時間を充分に取っていたと思う。会えないときでもメールや電話のやりとりはマメだった。
 けれど、彼の言いたいのはそんなことではなかったらしい。
「美和子さ、俺のことそんなに好きじゃなかっただろ?」
「そ、そんなことない! 卒業式の日だって、帰り道にさんざん泣いたんだから!」
「でも、俺が『別れよう』って言っても、『嫌だ』とは言わなかった」
 きっぱりと断定されてしまい、それ以上何も言えなくなってしまった。否定をしたくても、できなかった。
 あの時、確かにショックを受けた。言葉も出なかった。けれど、理由に思い当った瞬間に、素直に別れを受け入れていたのも事実。
 そして反対に彼は、「別れたくない」という私の言葉を待っていたのだ。一瞬見せた悲しげな表情は、そういうことだったのだろう。
「試すようなことして悪かったとは思う。でも、俺ばっかり美和子を好きで、正直苦しかった」
 三年半も付き合っていたのに、初めて見る彼の表情だった。いや、本当は私が気づいていなかっただけなのだろう。
 ひたむきで強い、熱の籠もった視線。こんなにも私を想ってくれていたのに、今頃気づくなんて、本当に私はどれだけ鈍感なのだろう。
 そして、彼の想いを実感すると同時に、鋭い痛みが胸を貫く。
 彼の想いに当時気づいていたなら、私たちは今も別れることなく隣に並んで過ごしていたのかもしれない。そして私は、石田君と出逢うこともなく、彼とともに幸せに笑っていられたのだろう。
 けれど――。
「……ごめんね」
 ぽつりと、小さく謝罪を告げる。その一言で、彼は理解したようだった。怒るわけでもなく、ただほんのりと淋しさをのせた微笑を零す。
「好きなヤツ、いるのか?」
 短い問いに、静かに頷いた。
 未練がましいけれど、私の心はまだ、たった一人の存在に捕われている。真面目で、時々強引で、年相応の可愛らしさもあって、けれど、誰よりも真っ直ぐに熱い想いを向けてくれた、年下の男の子。
「実はね、もう失恋してるの。でも、好きよ。すごく好き。どうしても忘れられないくらい」
 言葉にすれば、どうしようもなく滑稽だけれど、その想いに偽りはなかった。その偽りない想いを誇りにできるほどに。
「……そうか」
 一言そう返すと、彼は肩を竦めてみせた。そのまま残っていたコーヒーを飲み干すと、徐に立ち上がる。
 昔なら一緒に私も席を立つところだけど、そうはしなかった。ただ、座ったままで彼を見上げる。
「じゃあ、俺行くわ」
「うん。ありがとう」
「こっちこそ。今更馬鹿なこと言ったのに、ちゃんと聞いてくれてサンキュ」
 彼はそう言うとにっこりと満面の笑みを浮かべた。今日初めて見る、晴れやかな笑顔だった。
「後々俺をふったことを後悔したら、いつでも電話してこいよ。二十代の間だったら奥さんにしてやるから」
「やだ、三十過ぎたら賞味期限切れ?」
「俺がね。じゃあな」
 最後まで笑みを崩さずに去っていく彼の後ろ姿を、ガラス越しに見送る。行き交う人波にその背中が紛れる前に、視界がゆらゆらと歪んだ。
 窓の方を向いたまま顔を伏せ、鞄の中からハンカチを取り出すと、そっと目蓋に押し当てる。じわりと生まれた水滴は、流れる前に四角い布地に吸い取られていった。

 今の彼ならば、きっと大切にしてくれる。幸せになれるだろうとわかる。
 わかるけれど、それでも駄目なのだ。彼は、私の求めてやまない人ではないのだから。
 心の中で何度もごめんと繰り返す。
 それでも私は、彼の差し出してくれた手を拒んだことを、後悔してはいなかった。そして、これからも後悔することはないだろう。静かに、ごく当たり前のことのように、そう思えた。



 そうして季節は巡り、また繰り返す。
 私は何度も新たな教え子たちに出会い、同じくらいの数だけ見送った。
 気づけば教師生活ももう六年目を終えようとしている。クラス担任や部活の顧問なども、始めのうちは戸惑ってばかりで、生徒に教えてもらうことも多かったが、今ではそれなり堂に入ったものだと思えるようになった。
 初めて三年生の担任を受け持った今年度。受験生を相手にするのは気苦労もぐっと増えるけれど、同時にやりがいも大きかった。一年間初心に戻ったつもりで奔走し、気づけば今日の別れの日を迎えていた。
 校庭の脇を飾る桜の木々は、ここ数日で一気に気温が上がった所為か、薄紅の花弁をいくつもつけている。この調子だと、入学式の日にはもう散ってしまっているかもしれない。
 そんなことを考えながら、静けさに満ちた教室をもう一度ぐるりと見まわした。
 一年間、この教室で教えてきた生徒たちとは、もうこの場所では会えないだろう。それは喜ばしいことであるのだけれど、同時に生まれる淋しさを消すことはできなかった。
 四月からは、私は彼らの先生ではなく、彼らの私の生徒ではなくなるのだ。
「教師と生徒って、境目があるからこそ、の関係なのね」
 教師と生徒の間には、明確な境界線がある。石田君と出逢った時に痛感したことだ。
 けれど、その『教師と生徒』という間柄がなくなれば、ひどく遠い『赤の他人』になってしまうような気がした。実際、卒業生と街中で会うことがあっても、親しげに話しかけてくれる子は少ない。担任を持った子や顧問として接することの多かった元部長など、ごく限られた子たちばかりだった。
「いつかは、綺麗に忘れられちゃうんだろうなー」
 自虐的な呟きに、ますます淋しさが募る。
 けれど、そんな感傷に浸っていても仕方がない。私はパシンと自分の頬に一喝入れると、教室を後にし、残っている仕事を片付ける為に職員室へと戻っていった。

 最後の仕事を終えると、私は残っている他の先生方に挨拶をして帰宅の途についた。
 今日は一日晴天で、頬を掠める風も柔らかい。微かに混じる花の香りが、新しい道へと歩み出した卒業生たちを祝福しているようだった。
 優しく暖かい春風は、それだけで浮き立つような気分になるから不思議だ。たったそれだけのことでご機嫌になってしまうのだから、我ながら単純だと思う。けれど、いつまでもくよくよしていても何も変わらないのだ。それなら、気持ちの良い天気に促されるまま、気持ちの良い気分を味わってしまった方がいい。
 開き直りにも似た感覚で、弾むように歩みを速めた瞬間だった。
 歩道の窪みにつま先をとられた。勢いのまま倒れそうになるのをどうにか踏ん張るけれど、こういう時に限って大荷物なのだ。この道で躓くのは一体何度目だろうと、みっともなく転ぶのを覚悟しながら考える。
 が、重力に従っている身体を引き起こすように、二の腕あたりを掴まれ、強く引かれた。そのまま、トンと背中に何かが当たる。
 驚いて振り返ると、そこにあったのは懐かしい穏やかな笑顔だった。
「……石田、君?」
 最後に見た四年前よりも少し大人びているけれど、そこにいるのは間違いなく石田君だった。
「良かった。覚えててくれたんですね」
 そう嬉しそうに笑う顔は、あの頃と全く変わっていない。思いがけない再会に、涙がこみあげそうになる。
 けれど、それを必死に押し止めた。
 石田君の中ではきっと、私との時間は過去のことになっているだろう。あれほど真摯だった想いも、もう思い出の一部でしかないはずだ。だからこそ、こんな風に何事もなかったかのように笑えるのだ。
 自分の中でそう気持ちを整理する。何を言われても受け流せるように覚悟を決めて、口を開いた。
「忘れるわけないでしょ。石田君こそ――」
「じゃあ、今なら問題ないですよね」
「え?」
 疑問を投げかけるよりも早く、力強く引き寄せられた。想定外の出来事に、頭がついていかない。
 何が一体どうなって、私は石田君に抱き締められているのだろうか?
「先生があんな風に言うから、卒業まで待ちました。でも、その間もずっと考えていたんです。社会人の先生と学生の自分では、結局釣り合いが取れないんじゃないかって。結局、先生に負担を掛けさせてしまうんじゃないかって。だから、大学も卒業して、ちゃんと就職も決めてから、先生を迎えに行こうと決めたんです」
 耳元で紡がれる熱い言葉に、体温と心拍数が急激に上昇する。すぐ近くに聞こえる石田君の心音と自分の鼓動が重なって、どちらがどちらかわからないほどだった。
「まだ一人前にはほど遠いですけど、ようやく先生と同じ場所まで来れたと思ってます。それでも、俺じゃ駄目ですか?」
 あの頃と変わらない、真っ直ぐ過ぎるほどの想い。それは年月を経た分だけ色を深め、切なさを増していた。
 涙腺が次第に緩み、石田君の着ているジャケットにじわじわと染みを広げていく。震える声で、想いを口にした。
「……駄目」
 私の短い返答に、背に回されていた石田君の腕がぴくりと反応し、ゆっくりと離れかける。
 私は持っていた荷物を無造作に手放すと、するりと広い背中に手を回した。初めて私から示す、愛情の証。
「石田君じゃなきゃ、駄目なの……」
 他の誰でもなく、ただ一人だけ。どうしようもなく恋焦がれたのは、自ら手を振り払った人だけだった。
 解けかけた腕が、痛いほど強くなる。耳元で、あの時と同じ言葉が囁かれた。
 答えは、言葉にすればたったの二文字。だが、その言葉はどんなに言いたくても叶わなかった二文字だ。
 今までの想いを全て詰め込んで、私は涙声で、けれどはっきりとその言葉を声にした。

 「はい」と――。

Love Boundary [fin.]