Love Boundary

A teacher and student

 私の耳に熱を持って流し込まれた低い囁きは、時間が経っても色褪せようとはしなかった。
 それは、「俺と付き合ってもらえませんか」という告白の言葉。衝撃的なその一言に、言われた直後は呆然とするばかりだった。けれど、我に返って職員室へ戻るべく廊下を歩いていると、徐々に焦りが染み出してきた。
 出逢った時の私は大学を卒業したばかりの一般人で、通りすがりの親切な男の子と親しくなろうが恋をしようが問題はなかっただろう。
 けれど、今は一教師であり、彼はその教え子の一人だ。当然、恋愛関係になるなんて許されるはずがない。せっかく苦労して掴んだ教師の職を、自ら手放すようなことはしたくはなかった。
 何より、あの卒業式の日に一回会っただけの男の子だ。
 私は一目惚れされるほど私は美人でもなければ可愛くもない。スタイルだってごくごく一般的で、できればもう少しメリハリが欲しいくらいだった。その上酔っ払って癇癪を起していたような私だ。『ひかれる』としたら『惹かれる』じゃなくて『引かれる』ほうが有り得るだろう。
 そんな風に考えていると、次第に私にも冷静さが戻ってきた。
 あの真面目そうな外見に騙されていたけれど、もしかするとからかわれただけかもしれない。新任の教師なんて、高校生から見ればほとんど年も変わらないわけで、甘く見られても仕方がないのだから。
「そっか、そうだよね。うん、きっとそうだわ」
 そう口に出すと、それが唯一無二の答えのような気がしてくるから不思議だ。
 私はほんの数分間の悶々とした思いをさっさとどこかへ放り投げると、ちょうど辿り着いた職員室のドアを静かに開いた。


 そんな出来事があってから数日間、私はまったく石田君と話す機会がなかった。彼のクラスは私の担当ではなかったからだ。
 姿を見かけることくらいはあったけれど、用もないのに話しかけるのもおかしいし、石田君の方もわざわざ寄ってきたりはしなかった。
 やっぱりからかわれただけだったんだなと安心していた矢先だった。

 仕事を終え、最寄り駅から一人歩いていた。
 道幅がある割に人通りも車通りも少ないこの道は、日が暮れてから通るには少々心細い。いたるところで物騒な事件が起きている昨今では、歩き慣れていても不安はつきまとうものだ。
 そして、いつもより少しだけ遅くなった日に限って、先日耳にしたニュースが脳裏に思い浮かぶ。会社帰りのOLが通り魔にあったという事件だ。
 事件のあった場所は他県だったけれど、状況が似ているとついつい余計な想像をしてしまう。誰かがいきなり電柱の陰から飛び出てきはしないだろうか、背後からついてきたりはしていないだろうか。
 そんな考えが過ぎった瞬間、
「森山先生」
 背後からの突然の声に思わずびくりと肩が震えた。しかし、すぐにその声に聞き覚えがあることに気付く。振り返ると、予想通りの人物がそこにいた。
「石田君? こんな時間までどうしたの?」
 すでに生徒たちはとっくに帰宅をして、家で過ごしているはずの時間だ。けれど、今目の前にいる石田君は、制服姿のままだった。
「予備校ですよ。来年は受験ですしね」
「あ、そうだったの。それはお疲れ様」
「先生こそこんな時間までお疲れ様でした」
 そう言いながら、石田君はごく自然に隣に並んで歩き出した。帰る方向が同じなのだ。
 まばらな間隔の街灯の明かりで、二つ並んだ影が伸びては縮み、また伸びる。先ほどまではその影にさえ怯えていたけれど、石田君に出会ったことでそんな気持ちはどこかへ飛んでいってしまった。
 けれど、ホッとしたのも束の間だった。
「それで、考えてくれましたか?」
 ごく当たり前のように、石田君が切り出した。一瞬で、また別の緊張が走る。告白は悪ふざけだと思っていたけれど、今の彼に揶揄するような様子は見受けられない。
「えっと、その、本気で言ってるの?」
 それでも、からかわれているという可能性を捨て切れずにそう訊ねると、少しムッとして、本気ですよ、と返された。
 本気だったんだ。途端に鼓動が速くなる。けれど、本気だったとしても、私には選択肢は一つしかない。
「あのね、石田君。私はこれでも一応教師なの。石田君も教師と生徒が付き合うなんて許されないことくらい、わかってるでしょ? それに、何で君は一回会ったきりの女に、簡単に付き合ってくれって言うわけ? 私のことなんて、ほとんど何も知りもしないのに――」
「知ってますよ。あの日よりも前から」
「え?」
 遮るように放たれた言葉に、続けようとしていた言葉が綺麗にデリートされた。石田君は少し勝ち誇るような微笑みを浮かべている。
「実は、先生にそんな風に言われるような気がしてました」
「言われる気がしてたって……。それに、前から知ってるって、嘘……」
「嘘じゃないですよ。まだ高校入ってすぐの頃、先生に助けてもらったことがあるんです」
「私が、石田君を?」
 そう言われてみても、まったく思い当たる節がない。首を傾げる私に、石田君はどこか懐かしさの混じった笑みで頷いた。
「酷い雨の日でした」
 短く告げられたその言葉に、小さな引っ掛かりを覚えた。
 酷い雨の日、私は彼と出会っていた?
「確か六月の終わりくらい、でしたね。梅雨がどうこうって天気予報なんかでもよく話題になっていた時期でしたから」
 胸の奥に、微かなざわめきが広がる。それは少しずつ少しずつ大きくなってくるようだった。
「その日、俺は付き合っていた彼女と、それから中学時代からの親友を同時に失くしたんです。知らない間に二人付き合ってて、しかも陰では俺のことを馬鹿にしていたみたいで……。俺にバレた瞬間もね、悪びれもしなかったんですよ」
 当時のことを思い出したのだろう。石田君の表情に自嘲と切なさが、苦笑いとなって浮かんだ。
「かなりショックで、そのまま学校を飛び出して、傘も持たずに雨の中を歩いてて――」
 そこまで聞いて、ずっと感じていたざわめきの正体が顔を出す。
 私の耳には、一年ほど前の雨音が蘇ってきた。


 去年の六月下旬。
 朝、家を出る時には晴れ間も覗いていたのに、昼を過ぎてから降り出した雨は、夕方を過ぎてもまだやむ気配がなかった。
 朝の晴天に油断をしたのか、駅には傘がなくて立ち往生している人が多くいた。売店の傘も品数が足りてなさそうで、近くのコンビニまで濡れながら走る人も結構な数だった。
 そんな人たちを後目に、私は出がけに母から言われて持ってきた水色の傘を開いた。シンプルなデザインのその傘は、可愛らしさはないけれど、青空のような清々しさがあって好きだった。
 そんなお気に入りの傘を肩に預け、濡れずに帰れることに少しばかり得意顔になりながら、軽やかな足取りで歩むその帰り道。
 歩道の脇に、傘も差さずに立ち尽くしている制服姿の男の子を見つけた。
 どう見たって様子はおかしい。けれど、私は見ないふりをして、少し離れた位置を足早に通り過ぎた。正直、関わりたくないと思ったからだ。それに、誰彼かまわず優しくできるほど、博愛精神に溢れてはいない。
 そう思って足を速めたものの、通り過ぎた後にやっぱり少し気になって、盗み見るように振り返ってしまった。
 そして、思わず足を止めたのだ。
 男の子は、泣いていた。俯きもせず、涙を拭いもせず、ただ静かに涙を流していた。
 もしかしたら、それは涙ではなく、雨に濡れていたからそう見えたのかもしれない。けれど、私は泣いているんだと思った。
 思った瞬間、駆け出していた。男の子の前まで行くと、手にした傘を差しかける。男の子は、突然のことに面食らっていたのか、どこかぼんやりとした表情だった。
「あげる」
「……え?」
 短く言って傘を差し出したけれど、男の子には何のことだかよくわからなかったようで、反応は鈍かった。
「はい」
 亡羊としたままの男の子の手に無理やり傘の柄を握らせる。どれほどこうして雨に打たれていたのだろう。触れたその手は驚くほど冷たかった。
 傘を握らされた手を不思議そうに眺めてはいたけれど、男の子はなされるがままだ。それでも、状況判断だけは辛うじてできたのだろう。傘を握った手が弱々しく押し返された。
「あの、貴女が濡れますよ?」
「大丈夫。すぐそこだから、走ればそんなに濡れないよ。それに……」
 同情しているとは思われたくなかったから、私は笑顔を向けた。落ち込んでいるときに憐みの視線なんて受けたら、余計惨めになるだけだ。
「雨も隠してくれるだろうけど、傘でも隠れるよ」
「かく、れる?」
「じゃあね」
 泣いていることを直接言葉にするのは躊躇われた結果、非常に臭い言い回しになってしまった。それが恥ずかしくなって、私は焦るように踵を返すと、雨の中を走り出す。
 全力を出せば、家まで一分とかからない。水溜りを蹴散らし、飛沫がスカートに跳ねるのにも構わず、私は数十メートルの距離をダッシュした。

 これが、私と石田君の、本当に最初の出会いだったのだ。

「実はね、あの時先生に言われるまで、自分が泣いてるなんて気づいてなかったんです」
「そっか……」
「それから、彼女や友人のように簡単に裏切る人もいれば、先生みたいに無償で優しくしてくれる人もいるんだって思うと、すごく嬉しくて……。あの後、傘で顔を隠しながら、思いっきり泣いちゃいました」
 きまり悪さを誤魔化すように、石田君が苦笑する。
 でも、その気持ちは私もわかる気がした。私は裏切られたわけじゃないけれど、あのふられた卒業式の日に、石田君の優しさに救われたから。
 ああ、そうか。多分あの時、彼は私が泣いていることに気づいていたんだ。気づいていたからこそ、私が彼に接したとき以上に優しく穏やかに、そしてごく当たり前のように手を差し伸べてくれたのだろう。
「あれから先生の姿は何度か見かけてましたけど、何て声をかけたらいいのかもわからなくて……。それに、覚えていてもらえるとも思えなかったですし」
 実際に忘れてましたしね、とちょっと意地悪く言う石田君に、私は肩を竦めた。確かに忘れていたから、何も言い返せない。
「先生を見つける度に、目で追ってました。でも、最初は好きだとかそういう気持ちで見ていたつもりはなかったんです。でも、あの日泣いてる先生を見つけて、思ったんです。『この人を泣かせたくない』って」
 ストレートな言葉に、トクトクと鼓動が速まっていくのがわかった。こんな風に、真っ直ぐな想いを向けられたことなんて、今まで一度もない。ここまで想われることが純粋に嬉しくて、胸は熱くなる一方だった。
 けれど、踏み越えてはいけない一線がある。
 教師と生徒という、厳然たる境界線。
 私の頭は可愛げないほど冷静で、ほんの一瞬有頂天になることすら許してくれない。
「石田君、ありがとう。それから、石田君の気持ちを軽いものだと決めつけちゃってごめんね。でもね、私はやっぱり教師なの。まだまだひよっこだけど、教師であることに変わりはないの。だから、いくら石田君が素敵な人だと思っても、付き合うことはできないわ」
 真摯な想いに見合うように、出来る限りの誠実さで言葉を綴る。彼の気持ちが本物であればあるほど、傷つけないなんてことは無理だけど、それでも、できる限り柔らかく優しく伝えようと努めた。
 けれど、そんな私の努力はどうやら無駄だったらしい。
「なら、俺が生徒じゃなければ付き合ってくれるんですか?」
「え? うーんと、それは一つの解決法ではあるけれど、実際問題として無理でしょう?」
「俺が学校を辞めればいいだけじゃないですか」
 とんでもない提案を、何ともあっさりと言い放つ石田君に、思わず絶句してしまう。
 確かに、教師と生徒でなくなれば問題の大部分は解消されるとは思うけれど、それ以前に彼が学校を辞めるということが大問題だ。たかが恋愛ごときと言っては言葉が悪いが、一生を左右するようなことを許すわけにはいかなかった。
「何馬鹿なこと言ってるの! しかも石田君進学クラスでしょ? そんなことしていいわけないじゃない!」
「別に高校行かなくても大学には入れますよ。自分が勉強を頑張ればいいだけなんですから」
 焦る私の言葉にも、石田君は涼しい顔でそう返す。
 言っていることは間違ってはいない。間違ってはいないけれど、賛成できるものではないし、言うほど簡単でないこともわかった。私自身も、大学受験ではかなり苦労をしたものだ。
「……さりげに頭良いこと自慢してない?」
「自慢じゃないですよ。事実です」
 どちらが年上なのかわからなくなるほど、石田君は余裕綽々だった。けれど、不思議と嫌味に感じないのはある種の才能だろう。
 そんな風に感心してしまってから、ハッと我に返る。
「と、とにかく、そんなのは駄目! ご両親だって納得されるわけないでしょうが!」
「じゃあ、どうすれば付き合ってくれるんですか?」
「だから、それ以前に付き合えないんだってば!」
「それは困ります」
「困ってるのはこっちの方よー!」
 まったくの予想外だったが、石田君はかなり強引で頑固だった。完全に見た目のイメージに裏切られた気分だ。もっと簡単に、大人しく諦めてくれると思ったのに……。
「……そんなに、俺の気持ちは迷惑ですか?」
 それまでの強気な口調と一転した、ワントーン落とした声で問われる。その表情は、こちらまで胸が締め付けられそうになるほど切ないものだった。
 再び、心が揺さぶられる。こんなに真摯な視線を、私は知らない。
「迷惑、じゃない……」
 零れ落ちた呟きが、自分の口から洩れたものだと気付くまで、数瞬かかった。慌てて口を押さえてみても、時すでに遅し。私の言葉ははっきりと聞かれてしまっていた。
 石田君の表情は、先ほどよりもわずかばかり明るくなっているように見えた。
「じゃあ、他に好きな人でも?」
 更に探るように寄越された質問に、私の頭には一人の人物が思い浮かんだ。卒業式の日に別れた彼だ。
 そういえば、まだ彼と別れてから一カ月ほどしか経っていない。失恋の痛手が癒えるには、決して充分な時間だとは言えないだろう。
 けれど、今でも私は好きなのだろうか? 確かに別れようと言われた直後はショックだったし悲しかった。なのに、今彼を思い返していると、不思議なほど苦しみや悲しみを感じない。ただ、仕方がないという諦めの感情しか浮かばないのだ。そして、嫌いかと訊かれれば答えは「ノー」だけど、好きかと問われると「イエス」とすんなり答えられないような気がした。
 何も答えない私に痺れを切らしたのか、いるんですか? と促すように質問が重ねられる。その声音が、また悲しそうに私の耳に響いた。
 けれど、そんなことで流されてはいけない。きっぱりと断るのが、石田君の為だ。決意をして、石田君に向き直る。
「……正直、よくわからないの」
 頭の中に用意していた肯定の台詞が、声に変換された瞬間まったく別物になっていた。彼のまっすぐな視線を見つめ返した途端に、優しい嘘になるはずだったものがさらさらと崩れ去ったのだ。
 代わりに出てきたのは、飾り気のない自分自身の本心だった。
「私が石田君に助けてもらった日、大学の卒業式だったんだ。そして、その卒業式の後で、彼氏にフラれたわ。三年半も付き合ったのに、本当に突然ね。でも、今もその人に未練があるのかどうかが、自分でもよくわからないの。まだそんなに経ってないのにね」
 素直に思ったままの言葉を口にしたのは、石田君が偽りない言葉を向けてくれたからだった。
 本当ならば、断る為に嘘をつくのが一番良いのだろうけど、『誠実』には『誠実』で返したかった。
 薄情でしょ、と小さく笑うと、石田君もつられたように微笑む。
「確かに、ちょっと薄情ですね」
「そ、薄情な女なの。だから石田君も――」
「でもそれは結局、もともとそれほど好きじゃなかったから、ですよね」
「……何で話がそっちに行きますか」
 石田君の切り返す言葉に、思わずツッコミを入れるような口調になってしまった。自分の都合のいいように解釈するのに呆れていると、それでも石田君はふわりと穏やかな笑みを浮かべる。
「じゃあ、今すぐにとは言いません。これから少しずつでいいので、俺のことを知って、好きになって下さいね」
 丁寧な言い方に騙されそうだけれど、よく聞けば何とも無茶苦茶なお願いだ。けれどそれは、不思議と気分の悪いものではなかった。
「石田君って、全然見かけと違うのね。もっと大人しくて物わかりがいいのかと思ったのに」
 まったく引こうとしない石田君に、やや諦めを含んだ声音でそう返す。
 それは先生の所為ですよ、と彼は目を細めた。

 思えば、私はこの時すでに、この少し強引な男の子に惹かれ始めていたのかもしれない。