Love Boundary

The end and opening

 歓喜と感傷の入り混じった声が辺りを満たしていたはずなのに、その瞬間、私の耳には一切の音が届かなくなった。

 今日は大学生活最後の日。本来ならばすごく嬉しくて楽しくて、けれどちょっとだけ淋しい、そんな日になるはずだった。
 いや、間違いなくつい数分前まではその通りだったのだ。今は愕然と立ち尽くしている私も、他の卒業生たちと同じく、友達と涙混じりで抱擁をしたり、今後の進路について希望に満ち溢れた声で語り合っていた。
 この素敵な気持ちを抱えたまま、新しい一歩を踏み出せると思っていたのに、最後の最後でこの仕打ちはないじゃない……。

「別れよう」
 賑やかな謝恩会の会場の片隅で、私は三年半付き合った彼氏からそう告げられた。
 何で? とも、嫌だ、とも言えなかった。咄嗟に返す言葉が思い浮かばなかったからだ。
 そういえば、いつの頃からか彼が随分とよそよそしくなった。あれはいつからだっただろうと考えて、その原因に思い至る。
 私が教員採用試験に受かったと伝えた頃だ。当時、彼はまだ就職活動中だったのだが、私は嬉しさのあまり真っ先にそれを伝えたのだった。
 けれど、それがいけなかったのかもしれない。私の配慮のない報告が、彼を酷く苦しめていたのかもしれなかった。
 そうと気づいた瞬間、私は自然と頷いていた。わかった、と簡潔な答えを返す。それ以外に私が言える言葉などなかった。
 そんな私に、彼は何故か一瞬、すごく悲しそうな顔をした。どうしてそんな顔をするのかわからない。悲しいのはこっちの方だ。
「じゃあ、元気でね」
 やりきれなくなって、私は足早にその場から逃げだした。立食パーティーを楽しんでいる友達の元に、無理やり貼り付けた笑みを伴って戻っていく。
 友達に、彼氏はいいの? と訊かれたけれど、彼にはいつでも会えるからと精一杯にこやかに嘘をついてみせた。せっかくのお祝い気分に水を差すような真似はしたくない。ラブラブね、と冷やかす彼女たちの前だけでも、幸せそうに笑っていなければならない。
 ――これはきっと、彼を苦しめた罰なのだろう。

 ほんの一時間半ほどの謝恩会は、実際よりもずっと長く感じた。疲れ切った私は二次会の誘いを断り、一人ふらふらと自宅への道を歩いていた。
 薄いグレーのワンピースに合わせて買った慣れない十センチヒールの所為で、足が痛い。アルコールが入っていることもあり、足元も覚束なかった。やっぱり失恋したからといってヤケ酒なんてするべきじゃなかったのだろう。
 あ、と思った瞬間に、歩道のちょっとした窪みにヒールが引っ掛かり、踏ん張ることもできずに転んでしまった。持っていた鞄や大学の紙袋から、様々なものが散乱する。パンプスまで脱げて、無様なことこの上ない。
「いったぁ……」
 咄嗟に顔を庇ったのは、さすがは女の子だと自画自賛。その代わり、庇った腕や手の平は擦り傷だらけだ。ストッキングも派手に電線が走り、膝からの出血で赤く滲んでいた。
 痛みを堪えながら、脱げたパンプスを履きなおそうとする。が、無惨にもヒールが折れてしまっていた。
「んもう、馬鹿っ! いくら安物でもこれくらいで折れないでよ!」
 怒りにまかせてパンプスを思い切り投げつける。カツンとアスファルトに叩きつけられたそれは、何度か小さく跳ねた後、淋しそうに道路の隅に転がった。
 踏んだり蹴ったりだ。フラれて、こけて、靴まで壊れて。
 ワンピースだって、その上に羽織っている真っ白なコートだって、とっておきのお気に入りなのに薄汚れてしまっている。
 せっかく彼が似合うって言ってくれたものなのに。
 そう、彼が――。
「……ふざけんじゃ、ないわよ……」
 座り込んだままのワンピースの裾の上に、まあるい染みが落ちる。
 一つ、二つ。そして次々と。
「何も……こんな日に言わなくたって、いいじゃない……」
 何度もしゃくりあげながら、一人恨みごとを呟いた。
 誰もいない、暗い夜道で。
 と、思っていたんだけど、
「あの、大丈夫ですか?」
 ごく近い距離から、若い男の声がした。私が歩いてきた方向だ。
 ということは、私の後ろを歩いていて、事の一部始終を見られていたのかもしれない。
 一気に恥ずかしさが噴き出し、慌てて涙を拭った。何食わぬふりをして、大丈夫です、と散乱した荷物をかき集め始める。
 荷物をまとめる私の目の前に、すっと神経質そうな指先が現れた。そこには鞄から飛び出したのだろう定期入れが乗せられている。
「あ、ありがとうございます」
 涙の痕があることも忘れ、顔をあげて礼を言う。親切なその相手は、眼鏡をかけた真面目そうな男の子だった。多分、二十歳前後だろうと思う。
 その人は柔和な笑みを浮かべると、手伝いますよ、と一緒に荷物を拾い集めてくれた。最後に、私が投げ捨てたパンプスを拾い上げ、恭しく差し出される。まるで、シンデレラの王子様のようだ。けれど、相手は王子様でも私自身はみっともなく地べたに座り込んでいる間抜けで無様なフラれ女という残念さだった。
「裸足よりはマシでしょう?」
 そう微笑まれてしまっては、要らないとは言えない。情けなさに拍車がかかったものの、大人しく頷くしかなかった。
 不細工になってしまったパンプスをとりあえず履き、その人の手を借りながら立ち上がる。直後、足首に痛みが走り、私は反射的に顔を顰めていた。
「もしかして、足痛めました?」
 私の様子に気付いたらしく、気遣わしげに訊ねられる。ここで嘘をついても意味がないので、私は素直に肯定した。
「ちょっとだけ。でも、家はもうすぐそこなんで大丈夫です」
「すぐそこなら送りますよ」
「でも」
「それに、こんな暗い夜道を女の人が一人で歩いていたら危ないです。怪我をしているんですから、余計に放っておけません」
 見た目通りの生真面目さだった。おそらく年下だろうと思われる男の子に説教をされたような気分になったけれど、正直サポートなしで歩くのは少々きつい。つまらないプライドを発揮しても何も得はしないと思い、その好意に甘えることにした。
 肩を借りながら、ひょこひょこと跳ねるように歩く。私の歩調に合わせて、男の子はかなりゆっくりと歩き、私の荷物も当たり前のように持ってくれた。
 醜態を見られたことは恥ずかしかったけれど、お陰で先ほどまでのどうしようもない惨めさは少し薄らいでいた。代わりに、この親切な男の子に対して、ちょっとした興味が湧いてくる。
(大学生、かな?)
 肩からかけられている鞄はずっしりと重そうで、辞書やテキスト、参考文献などが入っていそうだ。
 顔は特別に美形というわけではないけれど、落ち着いた雰囲気と爽やかな笑顔には好感が持てた。いかにも優しそうだし、女の子からモテそうだなという印象だ。
 だいたい、酒臭くて癇癪起こしていて、しかも泣いている女に、わざわざ声なんて掛けたくないと思うのが普通だと思う。絡まれたら面倒なだけだし、私だったら間違いなく知らないふりして素通りだ。
 なのに、この男の子は無視もせず、かといってからかう様子もない。同情混じりの視線を送るでもないし、詮索もしない。本当に、ただ困っている人に手を貸しただけ。そんなスタンスがとても好ましかった。
 よくよく考えれば、下心あっての行動かと疑ってもおかしくはない。なのに、私の頭にはそんな考えが全く思い浮かばなかったのも、彼の纏う空気や立ち居振る舞いからだったのだろう。
 そして、実際にそんな考えなど微塵もなかったのだと証明するかのように、何事もなく私は自宅まで送り届けられたのだった。


 最悪な卒業式から数週間が過ぎた。桜も満開の四月になり、私は努力に努力を重ねて手に入れた、教師としての第一歩を踏み出していた。
 着任したのは私の家から電車で三十分ほどの公立校だった。県下では難関とは言えないものの、それなりに進学校として名の通った学校だ。遠く離れた場所に飛ばされる可能性も充分にあったので、自分は運がいいのだと両親と笑っていたものだった。
 そして、運がいいのか悪いのか、その新しい職場で私は思いがけない再会を果たしたのだった。
「足の怪我、治りましたか?」
 初授業が終わり、職員室に戻ろうとしている廊下の途中で、背後から声をかけられた。驚いて振り向くと、卒業式の日に助けてくれたあの男の子が笑っている。しかも、驚いたことに学ラン姿だ。
「え……。貴方、高校生だったの?」
「先生、それは傷つきますよ。俺まだ二年ですよ?」
「あ、ごめんなさい。すごく落ち着いてたから、大学生かと思っていたわ」
 慌てて言い訳すると、男の子は気分を害した様子もなく、あの日と同じように柔らかく微笑んだ。
「でも、俺もびっくりしました。新任教師の紹介で、森山先生を見たときは」
「でしょうね。すごい偶然」
 不思議な星の巡り合わせね、とお互い笑い合ってから、私はふと思い出した。
「ねえ、貴方の名前は?」
 わざわざ家まで送り届けてくれたのに、私はうっかりしていて恩人の名前を訊くのを綺麗さっぱり忘れていたのだ。今訊かなければ、また機会を逃してしまいそうだった。
 それに、まだこの学校のことを私はあまり知らない。少しでも早く慣れる為にも、彼と親しくなっておいて損はないだろう。
「石田です。石田保」
「石田君ね。あの時は本当にありがとう。改めてお礼を言わせてもらうわ」
「お礼はいいですから、一つお願いを聞いてもらってもいいですか?」
 石田君が清々しい笑顔でそう訊ねる。成績に関すること以外ならね、と冗談めかすと、そんなしょうもないこと言いませんよ、と返された。
 そして次の瞬間、石田君の顔がすいと近づく。驚いて一歩退いた私に構わず、耳元に口を寄せると、小さく低い声が囁いた。
「え?」
 言われた台詞に、それ以上の言葉が出てこなかった。
 耳から滑り込んだ言葉が、脳内で正確な意味を決定づけるまで数秒。そして、理解が及んだ途端、かあっと顔が火照っていくのを自覚した。その熱は、顔だけでなくやがて全身へといきわたる。
「じゃ、検討しといてくださいね」
 清涼飲料水並に爽やかな石田君の笑顔だったが、そこにはピリッと舌先を刺すような悪戯心も添えられていた。
 颯爽と身を翻す学ランの背中を、私は茫然と眺める。急ぎ足で教室へと向かう生徒たちに見え隠れする背中は、やがて廊下の角を曲がって見えなくなった。
 後には、授業開始を告げるチャイムが鳴り響くまでその場に立ち尽くす私が残されていた。