器用貧乏の恋愛事情

朝チュンなんてきいてない! 02

「あれ、珍しい」
 お一人様していた学生会館のカフェで、ぽつりと独り言のような声が耳に届いた。聞き覚えのある声に反射的に振り返ると、そこに立っていたのはやはり馴染みのある人物。トレイにカルボナーラのパスタセットを乗せて、こちらに向かってくるその人は岡崎拓真(おかざき たくま)くんといって別の学部に在籍している。一応それなりに親しい間柄だけれども、キャンパス内では軽く挨拶する程度でほとんど会話らしい会話をしたことがなかった。
 ちなみに、聖澤が正統派な綺麗かっこいい系のイケメンならば、こちらは愛嬌のある可愛い系イケメン。ちょっと癖のある黒髪にくっきり二重の大きな目はわんこっぽい。
「今日は彼氏と一緒じゃないんだ?」
 当たり前のように私の正面の席につく岡崎くんの台詞に、がっつりと傷を抉られた。少し前ならそんな勘違いもちょっと嬉しかったりするのに、今はただただ痛い。
「彼氏なんていないんですけど」
「え、あんだけ一緒にいるのに、彼氏じゃなかったんだ? えーっと、聖澤、だったっけ」
「友達だよ、ただの」
 念を押すように『ただの』という言葉を強調する。もしかしたら、聖澤は友達とすら思ってなかったのかもだけれど、どちらにしろその誤解は私にとっても聖澤にとっても好ましいものではなかったから。
 そんな私の心情など知らない岡崎くんは、ふぅん? とちょっと納得いかなさそうな声を洩らしつつもパスタを食べ始めた。
「今日は間柴さん、シフト入ってんの?」
「入ってるよ。紗奈さんとミツルさんと一緒」
二岡(におか)さんはともかく、深町(ふかまち)さんはほぼ毎日入ってんじゃん」
 ははっと呆れたように笑いながら、あの人そのうち過労死しそうだよね、などと笑えない冗談を言う岡崎くん。いやほんと笑えない。ミツルさんのシフト、毎回月の休みが三、四回しかないんだもん。十連勤がデフォルトとかって絶対におかしい。まあ、それだけミツルさんがお仕事できる人だってことなんだけどもね。
 それはさておき、何故彼がこんなに私のバイト先に詳しいかというと、一緒に働いている……わけではない。岡崎くん自身は、私の職場の近くにあるホテルでベルボーイのバイトをしているのだ。そして、ご近所さんであるうちのお店の常連さんだったりする。ちなみにうちのお店というのは、パチンコ屋さん。岡崎くんは先輩でフロント係の緒方(おがた)さんというイケメンさんとよく一緒に来店してスロットを打っているのだった。それだけでなく、ミツルさんと仲がいい。いや、むしろミツルさんがいろんな常連さんと仲がいいと言った方が正確だろうか。たまに岡崎くんや他の常連さんと一緒に麻雀を打っているそうなので、岡崎くんと特別仲がいいというわけでもないのかもしれない。
 とまあ、とにかく岡崎くんはミツルさんと仲がいい所為なのか、それとも年が同じ所為だからなのか、私にとっては一番気安く話のできる常連さんなのだ。
「で、何で今日は一人なの? いつも見かけるたびにあのイケメンと一緒にいるのに。喧嘩したとか?」
「喧嘩は、してないけど……」
 さらっと訊いてくる岡崎くんに悪気はないと思う。が、どうにも答えにくい質問に、先が続かなかった。
「あ、じゃああれか。告白されてフったとか」
「はぁ!? 何でそうなるわけ!?」
 予想の斜め上を行きすぎた問いかけに、思わず声が大きくなった。が、すぐに我に返り、声量を落として、普通は逆でしょ、とぼそっと付け加える。 
 誰がどう見たって私がフラれる側でしかありえないのに、どこからどうやったらそういう発想が出てくるのか全くわからなかった。
「何で? 間柴さん、めちゃくちゃ美人とか可愛いとかいうわけじゃないけど、話しやすいし付き合いやすいと思うけど?」
 岡崎くんは私にケンカを売ってるんだろうか? いや、確かにその通りだけども! 美人でも可愛くもないけども! 聖澤がさっき一緒にいた美少女には、逆立ちしたってかないっこないですけども! 何もこんなに落ち込んでいるタイミングでトドメ刺すようなこと言わなくてもいいと思うぞ!
「それ、どう考えても友達以上になれないタイプじゃない?」
 言い返したくなる言葉をぐっとこらえて、できる限り平静を装った声でそう返す。すると、岡崎くんは不思議そうに少し首を傾げた。
「そう? 友達感覚で付き合える彼女って俺はいいと思うけどな」
 あれ? もしかしてこれは励ましてくれているのか? というか、いつも見かけてもわざわざ声かけてきたりしない岡崎くんが、わざわざ声かけて一緒にご飯食べてくれてるのも、もしかしてぼっちだからと気を遣ってくれたとか?
 そういや、岡崎くんの優しさは時々わかりづらいとかってミツルさんが言ってた気がする。つまり、今までの質問や会話はちょっと刺さりまくったものだったけども、岡崎くんなりに心配してくれたからだったのか。
 そう気づくと途端に機嫌が上向きになってしまうのだから、私という人間は単純なものだ。重苦しかった気持ちがいくらか軽くなる。ついでに口調も軽くなる。
「でも、岡崎くんって紗奈さんとそういう感じの恋人同士になりたいわけじゃないんでしょ?」
 ぶはっと、豪快に岡崎くんがパスタセットについていたコンソメスープをふき出した。咄嗟に私の食べていたクロワッサンサンドのセットの載ったトレイを横に避ける。よし、セーフ!
 というか、大変申し訳ない。ほんとごめん。これは完全にタイミングをミスったね。
「間柴さんさぁ! 不意打ちでそういうこと言うのやめてくれる!?」
 置いてあるダスターで飛び散ったスープを拭きながらこちらを責める岡崎くんの顔は、ものの見事に真っ赤に染まっていた。
 この反応からしてわかりやすいだろうが、実は岡崎くんは紗奈さんに片想い中なのだ。わかる。紗奈さん可愛いもの。可愛いだけじゃなくて、お料理も上手だし、気遣いもできるし、私が男なら紗奈さんをお嫁さんにしたい。ただ――、
「だいたい、二岡さん、彼氏いるだろうが」
 少し拗ねたような物言いに、片想い故の切なさが滲む。うん、そうだよね。わかる。岡崎くんと話してて気が楽なのは、お互い片想い同士――といっても岡崎くんは私が聖澤を好きなのは知らないけれど――ということもあるからだった。
「ごめん。でも、もし紗奈さんに彼氏いなかったら、岡崎くんとお似合いだなーと思ったりしたから」
 慰めにはならないとわかっていても、そう思ったことは事実だからとちょっと言い訳がましく告げる。
 私は、紗奈さんの彼氏がどんな人かは少しだけ知っている。紗奈さんよりも十歳近く年上で、居酒屋の店長さんをしているのだ。職場の飲み会でその彼氏さんのお店を利用したことがあるから知っているのだが、正直私はあまり好ましいタイプの人ではなかった。何か、チャラい。紗奈さんの優しさに胡坐をかいているような印象を受けてしまっていた。
 その点、岡崎くんは大学も真面目に来ているし、バイトも真面目。何より、こうやってへこんでる私を気遣ってくれるような優しさがある。紗奈さんには岡崎くんみたいな誠実な人と幸せになってもらいたいなぁなどとこっそり思っていたのだ。
 なんていうか、私自身が引く手あまたで綺麗なお姉さん何人かと付き合っているような聖澤を好きだから、代わりに周りの人には幸せでいてほしいという思いがあるのかもしれない。
 とりあえず、岡崎くんはお似合いと言われたことに関してはあまり悪い気はしなかったらしい。少しだけ照れたように視線を逸らして、まあいいけど、と小さく洩らした。
「てかさ、話戻すけど、聖澤と間柴さん、本当に付き合ってないんだ?」
「いや、だから、何でそんな風に誤解するのかよくわからないんだけど」
 確かに私と聖澤はキャンパス内で一緒に行動することが多い。岡崎くんに見かけるたびに一緒だったと言われてしまうほどなのも納得はできる。けれど、それは友達なら普通のことだ。恋人同士と勘違いされるような甘ったるい雰囲気になったこともないし、物理的に距離が近いわけでもない。私はその辺ちゃんとわきまえているし、彼女でもないのに彼女面して隣に並ぶような真似はした覚えがなかった。いつだって、『友達』としての境界を踏み越えるような行動はしなかったのだ。だから、岡崎くんが勘違いする根拠がどこにあるのか、まったくもって見当がつかない。
「でも俺、アイツに何度か睨まれてるからなぁ」
「へ? 岡崎くんが聖澤に? 何かしたの?」
「別に何も。たまに間柴さんと顔合わせたときに軽く挨拶とかしてただろ? そういうときいつも、すんごい目で見られてたからさ。『俺の彼女に近づくな』って牽制されてんだとずっと思ってた」
「……たまたま太陽の光が眩しかったとかそんなんでは?」
 そもそも聖澤は誰にでも愛想いい方だし。ほとんど関わりのない人に対して、むやみにガン飛ばしたりするような性格じゃないと私はよく知っている。
「はあー、なるほど。間柴さんって結構めんどくさいわ」
「うるさいなぁ。めんどくさい女だって自覚くらいはあるから、わざわざ言わないでくれる?」
 めんどくさいのを自覚してるから、友達でいることを選んだくらいだ。でなきゃ、こんなに片想いを拗らせたりしてはいないだろう。
「いや、うん。まあ、アレだ。頑張れ」
「わー、投げやりぃ」
 最終的に岡崎くんは呆れたような色を含ませた生暖かい視線をこちらに向けて、話を終わらせてしまった。何だったんだ一体。
 でも、岡崎くんと話した所為で、先ほどまでのショックは少し和らいでいた。別に悩みを相談したとかいうわけでもないけれど、人とお話することは思ったよりも精神の安定にいいらしい。私は一人でいるとグジグジと悩んでどんどん沈み込んでいってしまうタイプだから、岡崎くんが話しかけてくれて良かったのだろう。
「ありがとね」
「何が?」
「何となく。話しかけてもらえてよかったなって思ったから」
「……別に、二岡さんが今日シフト入ってるのか知りたかっただけだけど?」
 でしょうねー。知ってる。岡崎くん、大人しそうに見えて、しっかり見返り請求するタイプだって知ってるから。その辺ミツルさんによく聞いてるから!
「んじゃ、また後で」
「はーい。ご来店、お待ちしております」
 さっとトレイを片付けに去っていく岡崎くんを営業スマイルで見送ると、岡崎くんも岡崎くんで、見事な営業スマイルを返してくれた。さすがホテルのベルボーイ。颯爽と去っていく姿はやはりイケメンだ。
「さてと、私も何とか残りの講義を乗り切るか」
 昼食後の三講目は何も入っていないから、図書館で時間を潰すか。いや、図書館だと聖澤に遭遇しかねないから、滅多に行かない場所の方が良さそうだ。いっそのこと大学から少し離れて、四講目の講義に間に合うように戻ってこよう。この講義は聖澤と一緒ではないから、そこまで警戒しなくてもいいはずだ。そして終わったら速攻ダッシュ。それで行こう。
 これからの段取りを考えたとき、スマホのメッセージアプリの通知音が聴こえた。
 ……嫌な予感がする。
 ちらっと画面を覗き込むと、通知欄にはしっかりと聖澤の名前が載せられていた。アプリを開くと既読の表示がついてしまうので、そのまま通知欄で内容を確認する。
『今どこ? この間のことで話がしたいんだけど』
 文面は、いたって普通。怒っている様子は見受けられない。けれど、文字だけのやりとりで相手の感情がわかるはずがないのだ。
「……ごめん、聖澤」
 大変胸が痛む。今まで一度だって聖澤からのメッセージを無視したことなんてない。むしろ、メッセージが届くたびに胸を高鳴らせ、速攻で返信をしていたくらいだ。
 けれども今は、とても顔を合わせて話す気にはなれなかった。メッセージに既読マークをつけることすら恐ろしい。
 本当に、ほんっとうに申し訳ないけれど、このメッセージはスルーさせていただきます!



 聖澤のメッセージは無視を決め込んだ。ガン無視というやつだ。
 可能な限り早く残っていた昼食を平らげ、聖澤に遭遇しないように慎重に大学を脱出する。そうして一時間半後に戻ってきて、聖澤とは違う講義を受けた。その時、同じゼミの子に出会って、「聖澤が探してたけど?」などと言われてしまった。焦りつつも何とか適当に誤魔化すと「痴話喧嘩か? 早く仲直りしろよー」だなんてお節介な気遣いが飛んでくる始末。何で痴話喧嘩なんだよカップルかよ違うよバカヤロー! とは思ったけれども、悪気のなさそうなゼミ仲間にそんなこと言えるはずもなく、とりあえずヘラヘラと笑っておいた。
 そうしてその四講目が終わった途端、ダッシュでバイト先へと向かったのだ。こういうとき、自転車通学はタイムロスがなくてありがたい。
 何とか、一日目終了である。これが明日も続くのか。いや待て。いつまでもこんなこと続けられるわけがない。被っている講義はいくつもあるし、そもそもゼミが同じなのだ。しかも、ゼミの教室はそんなに広くない。逃げられるわけがなかった。
「でもな……。顔合わせるのしんどい……」
 はぁーっと特大のため息をつきつつ更衣室の扉をノックしようとして、その手を止めた。
 中から何か話すような声がする。この声はミツルさんだ。
「あははは。まあ頑張れ若人!」
 扉越しに響く豪快なミツルさんの笑い声。かなり楽しそうだが、誰かを励ましているってことは相談にでものっていたのだろうか? まあ、ミツルさん、何だかんだ言っても面倒見いいしな。年下の子から慕われるのはわかるし、現に私も頼りにしているのだ。
 会話は終わったのか、ミツルさんの声は聞こえなくなる。改めてノックすると、はいよー、と活きのいい掛け声が返った。ここは居酒屋か?
「おはようございます」
「おう、芙美ちゃんおはよ! どうだった? 例の朝チュンの彼との示談は成立した?」
「……ツッコミどころが満載ですが、お仕事終わった後にでも懺悔させてください」
「懺悔? 何ゆえ懺悔?」
「懺悔としか言い様がないので……」
「ん〜? まあ、とりあえず閉店後に紗奈ちゃんと三人で飲みいこうぜ! お姉さんがおごっちゃろう!」
 謎テンションでミツルさんが肩を組んでくるのに、私は慌てて身を仰け反らす。相談にのってもらう側なのに、さらに奢ってもらうのは申し訳ないではないか。
「え、いや、それはさすがに悪いですよ!」
「大丈夫大丈夫! 今日1K(ワンケー)で六千枚出してきたから!」
「おお! それは! ゴチになります!」
 六千枚は等価だと十二万円だ。六枚交換の店でも十万円になる。つまりはたった千円の投資でボロ勝ちしたということで、こういう場合は遠慮するのも失礼だとミツルさんから前にも言われていた。これは素直に甘えるところだ。
「よきにはからえー!」
 ミツルさんの無駄に高いテンションのおかげで、ちょっと気分がほぐれてきた。うん。とにかく今は仕事が先だ。くよくよするのは、美味しいお酒を奢ってもらってからにしよう。そうしよう。

 閉店作業を終えて、タイムカードを押し、他のバイトや社員さんに挨拶をしてお店を出る。ミツルさんと紗奈さんに連れて行かれたのは、お店から徒歩十分ほどのところにある雰囲気のいいこぢんまりとした居酒屋さんだった。店員さんは三、四人と少なめだがどの人も愛想がいいし、なによりお料理が美味しい。半個室で近くの席の人をあまり気にしないで済むのも助かった。結構新しいお店で穴場なのだとミツルさんは少し自慢げだ。
「さて、それでは懺悔とやらを聞きましょうか」
「てか、『たった今お墓の下からはいずり出てきました』みたいな顔してたけど、何言われたの?」
 ドリンクが届き、お疲れ様ーと乾杯をしたあと、早速とばかりにミツルさんが切り出した。それを受けての紗奈さんの表現がなにげに酷い。そこまで言われるほどの表情をしていたのか、私は。いや、してたんだろうな。
 だって、今もあのシーンを思い返すだけで、胸の内が苦いもので満たされていく。心の端っこの部分から、じわじわと腐り落ちていくような気分になるのだから。
「何も、言われてません」
 目の前に置かれたリンゴサワーのグラスを見つめたまま、ぽつりと返した。
 真っ先に注文したご飯セットのお茶椀を持ったまま、ミツルさんが首を傾げる。
「何もって?」
「んじゃ、なかったことにする作戦は成功したわけ?」
 紗奈さんもタコワサをつまむ箸を止めて、重ねるように戦果を確認した。それに、何とか笑って返そうとして、失敗して、苦笑いにも微笑みにもならない、ただ口元を歪めただけの表情になってしまう。
 作戦も何も、敵前逃亡してしまったのだ。あれだけ相談して覚悟を決めたのに。情けないと叱咤されても仕方がない体たらくだった。
「いえ。何か、聖澤が鬼気迫る形相で近づいてきたので、思わず逃げちゃって……」
 それでもやっぱり人間叱られるのは嫌なもんなので、つい言い訳じみた言葉がついて出る。
「ぷっ……そんな怖い顔してたんだ?」
 そんな私に、意外にもミツルさんは行動を否定するような発言はしなかった。それどころか、堪えきれないといわんばかりに笑いを噛み殺している。その隣に座る紗奈さんは紗奈さんで、呆れたような生ぬるーい視線で私を見守っていた。あれ、何かこんな表情、今日別のところでも見たぞ?
「はい。めちゃくちゃ怖かったんで、私何か怒らせるようなことしたんだろうなって。もしかしたら、家出るときに鍵かけとかなかったせいで、侵入盗にでも遭ったんじゃないかって思って」
「そ、それで……?」
「もしそうなら、私が盗んだと思われてるのかもしれないと気づいて、慌てて誤解を解こうと思ったんですけど」
「ほうほう」
 順を追って話し合いができなかった状況を説明すると、ミツルさんは相槌を挟みながら、紗奈さんは無言で頷きながら話を聞いてくれる。その間、やっぱりミツルさんは終始楽しそうで、紗奈さんは若干口元が緩んでいるようだった。そんなに私の行動はおかしなことだったのだろうかと思いつつ。
「無理でした」
「何でだー!?」
 一部端折って話を締めくくった途端、ミツルさんから盛大なツッコミが入った。はい、すみません。でも、話さないで済むなら、この話はしたくない。口に出すと余計にそれが変えられない現実だと突き刺さるから。
 けれども――。
「まあまあ、ミツルさん。それより芙美。そうやって逃げてても何の解決にならないし、ちゃんと話した方がいいよ?」
 案の定というか何というか、冷静に紗奈さんにそう諭されてしまった。正論だ。今の自分の話を第三者として聞いていたら、私だってそう言うだろう。紗奈さんの意見はどこまでもド正論で、本当のことを言うしかなかった。
「……でも」
「でも?」
「もう、うやむやにしたまま、聖澤とは距離を置いた方がいいんじゃないかって、思って……」
 一つ声にするたびに、気分と声のトーンと声量が下がっていって、最後にはまるで吐息みたいになってしまう。
 そんな私に、何で? とミツルさんが訊ねた。今度は茶化した様子のない、優しい問いかけだった。さっきみたいに茶化してくれてたら、冗談っぽく返せたのに。じわじわと、視界が不本意な水滴に侵蝕されて、歪んでいく。
「……聖澤の、本命っぽい彼女さんが一緒にいたので」
 何とか言葉にした途端、ぽたりと涙が一滴、私の手の甲に落ちた。
「本命っぽい」
「彼女?」
 お二人とも予想外だったのか、何だかぽかんとした表情でこちらを見つめている。その少し間の抜けた表情がおかしくて、少しだけ笑うことができた。おかげで、喉の奥に詰まっていたはずの言葉が、栓が抜けたかのようにするすると滑り出す。ぐいっと雑に頬を拭うと一気に続けた。
「はい。今までの彼女さん――なのか遊び相手なのかは知らないですけど、よく一緒にいた人は、結構派手な年上のお姉さんばかりだったんですよね。でも、今日一緒にいた子は、すごく可愛らしくて清楚で、今までの人達とは違うんだなって一目でわかっちゃって」
「そうなの?」
「その子と聖澤は本当にお似合いで。私が余計なこと言うよりも、そっと距離を置いた方がいいかなって思っちゃったんです」
 文句のつけようがないほどの美男美女カップル。きっと、誰が見てもそう思うだろう完璧な二人。そんなところに、私が割り込んでいいはずがない。たとえそれが、友達としての立場だったとしても。
「……そっか。でも芙美、それでふっきれるの? その聖澤君のこと、好きなんでしょ?」
「好きですけど、友達とはいえ女が始終一緒にいたら、彼女さんだってきっと嫌ですよ」
 もしかしたら、あの彼女さんはそんなことなど気にしない器の大きな人かもしれない。そもそも私みたいな地味女なら、聖澤が目移りする心配なんて皆無だろうし。
 ……それはそれで悲しいな。うん。私の中だけでも、友達相手でも嫉妬しちゃうちょっと心の狭い彼女ってことにしておこう。それくらいの欠点は持っててくれないと、救いがなさ過ぎる。
 なんて勝手に自己完結していたら、いつの間にか隣の席に移動してきていたミツルさんに突然抱き締められた。
「ヤバイ。芙美ちゃんが健気過ぎて愛おしい」
「はいはい、ミツルさん落ち着いてー」
 冷静な口調で紗奈さんが窘めるが、ミツルさんの抱擁は解かれない。あの、この姿勢だとお酒飲めないんですが……。
「芙美ちゃん、もう聖澤くんやめてお姉さんと付き合おうか」
「え、ちょ、ミツルさん!?」
 顔が近い! 何気に声がいい! ってか、何で私ミツルさんに口説かれてるんですか!?
「ミツルさん、殿にチクリますよ」
「そこで何故にその名前出すかなぁ、紗奈ちゃんは」
 紗奈さんのぼそりと呟いた一言に、ミツルさんが不貞腐れながらも私を抱き締める腕を解く。ほっとしたものの、今かなり気になる発言を聞いた気がした。
「……あの、もしかして、ミツルさんって……」
「はーい、芙美ちゃんそれ以上はお口チャーック!」
 ぴしっと立てた人差し指を唇の前に置いて、ミツルさんがにっこりと微笑む。その笑みは、普段どちらかと言えばオッサン臭い発言の多いミツルさんとは大違いの、大人の女性の色っぽさがあった。ずるい。そのギャップはちょっとばかり萌えるじゃないですか。
「それよりも、芙美ちゃんのお話の方が大事でしょ」
「そうそう。ミツルさんの秘密の恋路はまた別の機会にね」
「さーなーちゃーん」
「で、芙美はどうする気? これからもゼミで顔合わすんでしょ? 気まずくない? それに、聖澤君から連絡きてるのに無視したんだよね? 聖澤君はちゃんと芙美と話したいんじゃないの?」
 恨めしげなミツルさんを鮮やかにスルーして、紗奈さんが話を本題へと戻す。ミツルさんの話はものすごく興味をそそられたが、確かに目の前の自分の問題を解決する方が先決だった。
「気まずいんですけど……、聖澤の用件がいまいちよくわからないんですよね。その、私が何か盗んだみたいに勘違いしてるなら、話がしたいなんて言わなくても『金返せ』って内容だけで伝わるわけじゃないですか。でもそう言われてないってことは、もっと別の用件なんでしょうけど……」
 改めて考えると、聖澤が何を望んでいるのかがわからない。
 メッセージには『この間のことで』とあったから、多分それは間違いなく朝チュンの日のことだろう。けれども、何を話したいというのか。こちらとしては、話すことなど何もないというのに。
「それはやっぱり、美味しくいただいちゃってごめんなさい的なもんじゃないのかな」
「だとしたら、別に謝ってもらわなくてもいいですし! 私何も覚えてないですもん! そもそも、聖澤が本当に私に手を出したのかもわからないですし!」
 ミツルさんのどこかのほほんとした言い方に、苛立ちの混ざった反論が口をついて出た。ミツルさんは何も悪くないのに、これでは完全な八つ当たりだ。それでも、腹立たしさが抑えきれない。本命がいるくせに私と一晩過ごした聖澤と、聖澤にそんなことをさせてしまった自分に。
「まあ、それはそうだねぇ。ただ、もしその聖澤くんが芙美ちゃんに何もしてなかったら、何もしてないからって伝えたいだけかもしれないよ?」
 特に宥めるでもなく、ミツルさんは先ほどと変わらない口調で続ける。その言葉は、聖澤を弁護するかのようだ。
「……でも、それなら余計にメッセージだけで済ませられる話じゃないですか」
「そりゃそうだ」
 不貞腐れた物言いになってしまった私の言葉を、ミツルさんがあっさりと肯定するものだから、腹立たしさはすぐにしぼんでしまう。代わりにむくむくと大きくなってくるのは、虚しさと――どうしようもない切なさだ。
 私と聖澤の間にあの夜何かがあってもなくても、私が失恋したことに変わりはないのだから。
 ぽたぽたと、一度は堪えきったと思った涙が溢れ出す。
 何で、聖澤のことを好きになんかなったんだろう。確かに、優しいし気も合うし一緒にいて居心地はいいけれど、釣り合うはずがないとわかっていたのに。ただの友達で済めば、今よりもずっと楽でいられたのに。
 泣いたからって何も解決するわけじゃないけれど、涙は一向に止まらない。こんなに泣きじゃくってたら、紗奈さんもミツルさんも困っているだろうななんて、頭の片隅でぼんやりと思った。
「あーあ、ミツルさん泣かしたー」
「え、待って。これ私の所為? 浬くんのせいじゃなく?」
「いや、浬くんのせいも多大にあるけども」
「だよね!? 芙美ちゃーん! 泣くなー! まったく、芙美ちゃんみたいな良い子泣かすとか、浬くんお説教コースだな!」
 ミツルさんがまるで私のお姉さんかのように、私の肩を抱いて頭をよしよしと撫でてくれる。紗奈さんも「ほら、美味しいものでも食べて元気だしな」とほかほかの湯気を立てた揚げ出し豆腐の器を私の目の前に置いてくれた。泣きながらも器を手に取って一切れ口に運べば、じゅわっと口に広がったお出汁の味はとても優しい。涙でちょっと塩味が追加されているけれども、確かにそれはめちゃくちゃ美味しかった。
 そういえば、ミツルさんは妹さんが、紗奈さんは弟さんがいるんだっけ。いいなぁ。私もミツルさんや紗奈さんみたいなお姉さん欲しかったな。そしたら、おしゃれとかお化粧とか教えてもらって、今より少しくらいは綺麗になれて、聖澤にちゃんと一人の女として見てもらえたかもしれない。……いや、やっぱり無理かな。あんな芸能人みたいに可愛い子にはどんだけ頑張っても敵わないか。
「芙美は可愛いし良い子だよ」
 私の心を見透かしたかのように、紗奈さんが呟く。
「うんうん。芙美ちゃんは私の自慢の後輩だ。どこに出しても恥ずかしくないから自信持ちな」
 畳みかけるように、ミツルさんも続ける。お二人の声は、慰めるというよりも私に言い聞かせるような色が強くて、少しおさまりかけていた涙がまた頬を濡らした。
「芙美ちゃん」
 ミツルさんの呼びかけに、しゃくりあげながらも何とか「はい」と返事する。
「お姉さんたちが、最良の策を授けてあげようではないか」
「最良の……策?」
「うん。綺麗に丸く収まる方法」
 にんまりと笑ったミツルさんの表情は惚れ惚れするほど綺麗でかっこよくて、けれど、どこか……いや、言っては悪いんだけど、何となく、ラスボスみたいな邪悪なオーラが漂っていた。