器用貧乏の恋愛事情

朝チュンなんてきいてない! 01

 間柴芙美(ましば ふみ)。二十一歳。彼氏いない歴イコール年齢のJDである。ただいま身に覚えのない状況に、人生で最大級の大混乱中。
 見慣れない部屋。下着しか身に着けていない自分。隣には、見覚えのある男の寝顔。
 いや、ちょっと待て。この状況はあれですか。昨夜の記憶が途中からほぼほぼないんですけど、もしかしなくても酔った勢いで一夜限りのアバンチュールってやつですか!?
 そんな馬鹿な。何かの間違いだ。よりによってこの私とこいつとがそんな関係になるわけがない。落ち着け落ち着くんだ。
 とりあえず、そっと布団の上に上半身を起こす。隣で寝ている男は、一瞬軽く身じろいだけれど、目を覚ますことはなかった。ありがたい。今起きられても気まずいことこの上ないのだから。
 細心の注意を払ってベッドから降り、床に脱ぎ散らかされた自分の服を身につける。っていうか、この『脱ぎ散らかされた』って表現がもういかがわしい感じがして頭が痛い。まあ、リアルに二日酔いで頭痛いんだけど。
 服を着ると、スマホを確認する。時間はまだ朝の七時にもなっていない。
 混乱はまだ収まってはいないけども、このままこの部屋に居座る勇気はなかった。できる限り物音を立てないように気を付けて、そそくさと部屋をあとにする。
 外に出ると、まだ朝早い時間にも関わらず燦々と太陽が輝いていた。その容赦のなさが恨めしい。
 土曜、しかも早朝というほどでもないけれどそれなりに早い時間なので、付近を歩いている人影はあまりなかった。場所はどの辺だろうともう一度スマホを取り出し、自分の位置確認をする。昨夜の飲み会の場所から三駅ほどの場所だとわかった。まずは最寄り駅に向かい、それから自分のマンションに帰ろう。
 踏み出した足が何とも重い。先ほどまでの状況を思い出して、振り払うように頭を振る。その瞬間に二日酔いの頭痛が激しくなって、瞼の奥がじんわりと熱を持った。
 何も言わず、書き置きすらもせず、逃げるように部屋を抜け出してきたことに罪悪感がないわけじゃない。けれど、それ以上にあの場にあのまま留まって、起きた男に言われるかもしれない一言が怖かった。
 もし本当にアレなことを致してしまっていて、それが一夜限りのお遊びの関係だったとする。その場合、起きた途端に「まだいたんだ?」とか言われてもおかしくはない。それはいくら何でも傷つく。何たって私は――。
「くっそぉ……。こちとら処女だったんだぞ? それなのに寝て起きたら処女喪失とかどういうことだよ。朝チュンかよ。てか朝チュンの本来の用法違うだろ。読者から見て朝チュンなだけで、当事者が朝チュン状態とかありえないだろバカ。納得できる経緯を把握させろよ。大体何で私なんかに手を出してんだよ節操無し」
 ぶつぶつと悪態を垂れ流しつつ、踏み締めるように足を進める。それでも、
 ――相手なんかいくらでもいる癖に。
 その一言は悔しすぎて声にもせずに飲み込んだ。

 隣に暢気な顔で寝ていた男の名は、聖澤浬(ひじりさわ かいり)。大学で同じゼミの友達の一人だ。何となく名前からしてイケメン臭が漂っているけれど、実際に大変よくおモテになる。年上の少し派手めな綺麗なお姉さんと一緒にいる姿を何度か街中で見かけたことがあるし、そういうお姉さんが大学まで車で迎えにきたのを見たこともある。つまりはそういう男なのだ。
 だからなのか、聖澤は女の扱いにはすごく慣れていた。並んで歩くときは自然と車道側に立ってくれたし、荷物が多かったら当たり前のように持ってくれる。暑さでバテていたら、すっと冷たいジュースを差し出してくれたりと、おまえは売れっ子ホストかとでもツッコみたくなるほど自然に気配りができる男なのだ。
 それでも、聖澤は気の合ういい友達だった。あくまでも私の主観でしかないのかもしれないけれど、映画や本の趣味も合ったし、甘い物好きという共通点もあった。だから、不特定多数の彼女がいるっぽくても、一人の友達として付き合っていける相手だと思っていたのに。
 ……いや、少しだけかっこつけました、すみません。訂正してお詫びいたします。
 本当は、こっそりと好きだった。でも、聖澤が付き合っている人はみんな綺麗で、かっこよくて、並んでもすごく絵になるような大人の女性ばかり。
 対して私は、真面目そうとか言うと聞こえはいいけども、はっきり言えば地味なのだ。聖澤の彼女さんたちとは正反対のタイプ。だから、どう足掻いても恋愛対象に見てもらえることなんてなくて。苦肉の策として、友達として仲良くしていられたらいいなという、自分で言うのもなんだけど後ろ向き且つ不純な動機で友達面していたのだ。
 それなのに、どうしてあんなことになっていたのか。
 スマホのナビを頼りに最寄り駅まで向かい、乗客の少ない車両を選んで乗り込みながら考え込む。振動に合わせて揺れる吊革をぼんやりと眺めながら、昨夜のことを必死に思い出そうとした。

 昨夜の飲み会は、いわゆるゼミコンというやつだった。同じゼミの中で飲み会好きのカップルがいて、その二人が言い出したんだったと思う。私の所属するゼミは比較的みんな仲が良く、これまでに何度も数人で集まって飲んだりしていた。今回は、前期の研究発表に合わせてたまにはゼミ全体でやろうという話になったのだ。
 私はバイトをしていることもあり、今までは飲み会の誘いを断ることも多かった。だけど、今回はできる限りみんな揃うことだしとバイトの休みもとって参加したのだ。今までの参加回数が少なかったから、「SSRきたー!」とか言われたりもした。
 一次会で生ビールが美味しくて気持ちよく酔って、二次会はカラオケではしゃいで……で、そのあとどうしたっけ?
 いくら頑張っても、カラオケで三曲ほど歌った後からの記憶がない。そこからすっとんで、次に記憶があるのが聖澤の部屋だった。
 車内アナウンスが、私の降りる駅の名を告げる。前日から今朝までのダイジェストから、一気に現実へと引き戻された。
 そういえば、今日は夕方からバイトが入っている。頭も痛いことだし、そんな頭で考えたってろくでもない方向にしかいかないことも明白だった。うん、はっきり言ってしまえばアレだ。
 現実逃避、させてください!



 冷たいミネラルウォーターとしじみのお味噌汁を飲み、シャワーも浴びてさっぱりしてから眠ったせいだろう。目が覚めたときには綺麗に頭痛は消え失せていた。
 着替えとメイクをさくっと済ませ、いつもよりは少し――というか、かなり――早いが家を出る。職場までの道すがら、コンビニへと寄ってシャケのおにぎりとペットボトルの緑茶だけを購入した。
 現在、午後四時半。変な時間に寝てしまったせいか、はたまた二日酔いだったせいか、食欲はあまりない。お昼と晩の兼用ご飯としては少ないけれど、おにぎり一個でも充分すぎる気がした。
 とにもかくにも、職場へと無事出勤完了である。
 真っ直ぐ更衣室に向かい、お茶に名札を付けて冷蔵庫へと放り込む。おにぎりは自分のロッカーへ入れ、代わりに制服を取り出した。白のブラウスにチェックのラップキュロット。同じチェック柄のネクタイに紺色のベスト。それが今のこの店の制服だ。着替えが終わり、制服の代わりに畳んだ私服をロッカーへとしまう。一息つくと、そのままテーブルにぺたりとへばりつくように突っ伏した。
「あぁぁぁぁっ! やっぱ無理ぃ!」
 出勤準備をしながら何とか無心でここまで来たけれど、やることがなくなった瞬間、今朝の出来事に頭の中を占領されてしまう。
「おおぅ? どしたどした?」
「何が無理なの、芙美」
 自分の派手な叫び声で、ドアを開ける音がかき消されていたらしい。出勤してきたばかりの先輩二人が、入口で面食らったようにこちらを見つめていた。
「ミツルさん、紗奈さん……」
 その彼女たちが、女神に見えた。
「ミツルさぁん! 紗奈さぁん! 助けてくださぁい!」
 思わず駆け寄って、手前にいたミツルさんに縋りつく。唐突な私の行動に、ミツルさんは呆れるでもなく当たり前のように受け止めて、宥めるように背中をポンポンしてくれた。
「まあまあ、お姉さんの作ったクッキーでも食べなされ」
「ミツルさん、それ作ったの私です」
「芙美ちゃんからしたら、紗奈ちゃんもお姉さんでしょうが」
「まあ、そうですけど。ほら芙美、ミツルさんが紅茶淹れてくれるって」
「え、マジでか。まあ、お茶しようと思って準備はしてきたけども」
 ミツルさんと紗奈さんの軽妙な会話に、溢れ出しそうになっていた涙が引っ込んでしまう。このお二人は仕事でもプライベートでも良いコンビで、いつもこうやって私の悩みを聴いてくれる素敵なお姉さま方なのだ。
お菓子作りの得意な紗奈さんが作ったさっくさくのクッキーに、紅茶好きなミツルさんが淹れたアッサムのミルクティー。お仕事前のささやかなお茶会が調えられた。

『それは、やってるな』
 お二人の声が見事にハモった。一通り経緯を説明したあとの、お二人の第一声である。ですよねー。がっくりと、テーブルの上の逆戻りで突っ伏した。
「それは冗談として。本当にやってると思うわけ?」
 茶化すような色はなく、至極真面目に紗奈さんがそう訊ねる。が、そんなもの分かるわけがない。前述の通り、私はまっさら綺麗な体だったわけで。
「だって、私今までにそういう相手いなかったんですよぉ? わかるわけないじゃないですかぁ」
「えーっと、こう、きわどい辺りが痛かったりとか、違和感あったりとかは?」
 完全に泣きごとモードの私に、紗奈さんは言葉を選びながら重ねて問いかける。
 きわどい辺りって、まあ、そういうとこだよね? 特に痛みは……と思ったけれど、何となく気持ち悪いような重苦しいような感じがする。
「そう言われてみれば、何かお腹痛いような気が……」
「あー」
 紗奈さんの表情が、少し困った感じに変化した。やっぱりこれってアウトなんじゃないだろうか。
「血は?」
「え?」
「だから、シーツ汚れたりとかしてなかった?」
 今度はミツルさんから質問が飛んできた。確かに、初めての時は出血するってよく聞くし、それの有無が大きな判断基準になるだろうことはわかる。わかるのだが――。
「そ、そんなの見てる余裕ないですよ! それに布団めくって、寝てる相手が穿いてなかったらどうするんですか!」
 そう、私も考えなかったわけではなかったのだ。ただ、もっと別のモノに遭遇してしまうことの方が怖かった。そんな勇気が持てるはずがない。
「……芙美ちゃん、超可愛い……」
「ピュアっピュアですな」
 私は顔が死ぬほど熱いというのに、ミツルさんも紗奈さんもめちゃくちゃ涼しげな表情だ。これが経験値の差というものなのか!
 しかし、こっちはそんなに悠長なことを言っていられないのだ。
「真面目に聞いてください!」
「聞いてるってば。でも、芙美ちゃん、もし本当にその子とやっちゃってたら、どうする気?」
 紗奈さんお手製のクッキーを一枚口に放り込みながら、ミツルさんが私が一番懸念している部分に触れてきた。
「どう、って……」
 できれば、関係を拗らせたくはない。そう続けようとしたとき、
「だってさ、意識のない相手をやっちゃってたら、普通に準強姦になるんじゃないかな」
 あまりにもさらりと、ミツルさんはとんでもないことを言い放った。
「ご、強姦って……」
「別に言いすぎじゃないよ」
 真顔は怖いですって。私そんな風に思ってないですし。え、私の感覚がおかしいの? それとも、ミツルさんミステリー好きだから、つい犯罪方面に結び付けてるだけ?
 いや、でも、改めて考えてみると、相手がたまたま好意を持っている人だったってだけで、もしこれが全然好きでも何でもない人だったらとても許せる気分になれない。
 ってことは、私が聖澤を訴えたなら、勝てたりするんだろうか?
  いやいや、そうじゃない! そうじゃなくて、そもそも何で聖澤が私に手を出したかって話だ。
「でも……その……酔った勢いで、私が何か言っちゃったのかもしれないですし……」
「え? マジでか? 芙美ちゃんが押し倒したかもって?」
 やるじゃん芙美ちゃん、と途端に楽しそうな表情になるミツルさん。完全に面白がっている。
「お、押し倒すとかじゃないですけども! その……さっきも言ったように、そいつはモテるんです。いっつも綺麗な年上のお姉さん連れてるようなタイプなんです。だから、女に困ってなんてないですし、私なんかは完全に好みからも外れているわけで……。そんな相手が、いくら酔った勢いがあったとしても、好みでもない友達の女に手を出します?」
 自分で言っていて悲しくなるくらい、対象外なのだ。あ、ダメだ。泣きそうになってきた。うん、私今泣いてもいいはずだと思う。
「まあ、遊び慣れてるタイプなら、芙美みたいな真面目なタイプには手は出さないだろうなー」
 完全なる第三者視点で話してくれる紗奈さんのご意見は大変ありがたいけれど、めちゃくちゃ抉られた。だろうなー。自分でも面倒臭いと思うもん。
「そうだなー。芙美ちゃんは男慣れしてないのバレバレだし、その上処女は色々面倒と言う話を遊び人のお方から聞きましたな」
 追い打ちのように、ミツルさんが続ける。ぐうの音も出ない。
「その遊び人って?」
「阿波野先輩」
「うっわー。王子ひどい」
「先輩がそういうところでクズいのは今更だってば」
 仲の良い常連さんの名前が上がり話が脱線していくのをぼんやりと聞き流す。考えるのは、今後どんな顔をして聖澤と会えばいいのかということばかり。
 いや、案外向こうは気にしていないのかもしれない。こうやって気にしているのは私だけで、聖澤からすれば通常運行なのかもしれない。だとしたら、悩んでいるだけ馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しいけれど――。
「……それはそれで傷つくなぁ」
 それだと、友達にすらなれていなかったということだ。いや、ある意味いつでもやれそうな別の意味のお友達だと認定されていたのか。
「ふぅみぃちゃぁん!」
「は、はい!」
 おっと、いけないいけない。つい考えに耽ってミツルさんと紗奈さんがいることを忘れてしまっていた。
「落ち込むのはいつでもできるから、まず大事なことから考えよう」
「大事な、こと?」
「そう。一番大事なこと。……芙美ちゃんは、その彼と今後どうしたいの?」
「どうしたいって……」
 いきなり問われても、すぐには答えられずに口を噤む。揉めたくはない。それは確かだ。けれど、平和的に解決するためにはどんな選択肢があるのか、それを見つけられていなかった。
「色々あるよ。まず、さっき言ったみたいに訴える……と言っても、その場合本当にそういう行為があったのかを実証しないと駄目だから、厳しいかもしれないけど」
「いえ、別に私は……彼を犯罪者にしたいわけじゃないですし……」
 本当は怒って然るべきで、許すべきでもないことなんだろうとは思う。けれど、やっぱり私は聖澤が好きで、彼を裁きたいとはどうしても思えなかった。
「んじゃ、責任取ってもらう?」
「せ、責任ってどうやって……」
「まあ、まだ学生さんだし? 結婚とまではいかなくても、ちゃんとした彼氏さんになってもらうとかさ」
 ミツルさんの提案に、思わず顔を顰める。
 聖澤の彼女になりたいと、思ったことがないとは言わない。片想いを拗らせて、友達としてでも傍にいたいと思っているくらいなのだ。いつか恋愛対象として見てくれれば、と密かに期待をしたりもしていた。
 けれど、一夜の過ちから責任を取って付き合ってもらうというのは断じて違う。それは、聖澤の気持ちが私に向いているわけではないのだから。形だけ彼氏彼女になっても、虚しいだけで何も得られるものがないとわかりきっていた。
 私の表情から、何となく察してしまったらしいミツルさんが、小さく苦笑を洩らす。
「じゃあ、芙美ちゃんの場合はこれかな?」
 続けられた言葉に、私は唇を噛み締めながら、小さく頷いた。



 来てほしくないと切実に願っていても、時というのは無情で無常なもので。当たり前だけれども、月曜という日が来てしまった。
 土曜のバイト前にミツルさんと紗奈さんに話を聞いてもらえたせいで、あの後は比較的落ち着いていられた。それでもやっぱり一人になると悶々と考え込んでしまうもので、日曜が一番の地獄だった。いっそ、バイトでも入ってれば気が紛れたのに。
けれども、一応日曜の間に私が決めた方針のシミュレーションを繰り返すことができた。
何度も何度も、聖澤と顔を合わせた瞬間に返す言葉と笑顔の練習を繰り返した。あとは実際に対面したときにそれを実践するのみだ。
 月曜日の講義は二講目から。必修講義だから、もちろん同じ学科である聖澤も取っている。
大体いつも私は講義の始まる十分前には教室に入っていて、それと同じか少し遅れるタイミングで聖澤も教室に現れていた。そうして聖澤は当然のように隣の席に座り、何気ない会話を始める。その時間がとても好きで、大切で、いつまでも続いてほしいと思っていた。
けれども、今日はそんな風には思えない。覚悟はしていても顔をあまり合わせたくないし、最低限の時間であの件に関する話を終わらせてしまいたい。人がいるような場所でできる話でもないから、昼休みにさくっと短時間で済ませるために、朝一で顔を合わすことはしたくなかった。
そんな諦めの悪い私がとったのは、単純明快。講義開始ギリギリの時間に教室に入るという行動だった。その作戦は功を奏し、私は滑り込みな感じで入口近くの席についた。聖澤はというと、私がいつも陣取っている真ん中の列の後ろ辺りに座っているのが見える。さすがに講義中に移動することはありえないだろうから、まずは第一関門突破だ。
次の問題は、講義終了直後。ここで私は覚悟を決めなければいけない。
ミツルさんが私に提案したいくつかの選択肢。
 その中で私が選んだものは、『なかったことにする』だった。
だって、せっかく今まで色々努力していい友達ポジションをキープしてきたのだ。あの朝チュン事件のせいでそれをふいにしたくはない。
あの日、私と聖澤の間には何もなかった。それでいい。
「この間はごめんね。酔ってて全く覚えてないんだ。私、何か変なことしたり言ったりしてない? それから、あの日バイトがあったから慌てて何も言わずに帰っちゃった。全部まとめてごめんなさい」
 そう言って申し訳なさそうに頭を下げれば、聖澤はきっと「気にしなくていいよ」と笑顔を返してくれるだろう。そして、今まで通りごく普通の友達でいられる。元の友達に戻れば、最初は多少ぎくしゃくはしてもそのうち前と同じように戻れるはずだ。
 そう何度も自分に言い聞かせ、講義の間に少しずつ覚悟を固めていった。

「じゃあ、今日はここまで」
 教授のその一言で、講義が終了する。できれば手早く筆記用具を片付けてダッシュで逃げ出したかったけれど、それをしてしまうと間違いなく何もなかったことにはできない。一つ物を片付けるごとに、覚悟を積み重ねていく。よし、と気合を入れて立ち上がるのとほぼ同時、聖澤が何故かやたらと鬼気迫る表情でこちらに向かってきていた。
 え、てか、何か怖いんですけど!? もしや怒っていらっしゃる!?
 あまりの迫力に思わず、回れ右。脱兎の如く駆け出してしまった。
 いや、だって怖いし! すごい顔怖いし! 私なんかまずいことしたっけ!? あ、もしかして、鍵もかけないまま家出ていったのが駄目だったとか? まさかまさか、聖澤が寝てる間に空き巣が入って全財産盗られたとか!? あ、寝てるときの侵入窃盗は空き巣じゃなくて忍び込みって言うんだっけ。いや、そんなことはどうでもよくって! え、え、ちょっと待って! そうなると私が真っ先に犯人として疑われるじゃないか!
 つまり、今聖澤は猛ダッシュで窃盗犯を捕まえようとしていることになる。これはまずい、逃げている場合ではない。さすがに誤解を解かないと、警察につき出されて前科持ちになってしまう!
 ただ、朝チュンのことも含めて人目につく場所で話すことでもない。このまま一旦学舎の影に逃げ込もう。そう思って今出てきたばかりの三号館の後ろへと回り込んだ。そこま駐輪場へと向かう通路だが、この時間はそれほど人がいない。はぁ、と一息ついて聖澤が追ってくるのをしばし待つ。まずはどこから話せばいいのかわからないけれど、とりあえず自分は何も盗んでいないと身の潔白を証明しなければ。
 が、しばらく待ってみても聖澤が追いついてこない。あれ? もしや私の姿を見失った? 背後も振り返らずに走ったのが駄目だったんだろうか? こそこそと後戻りすると、三号館の前で立ち止まっている聖澤の姿が見えた。そして、その隣には、見たことのない女の子が立っている。
 今までに見たことのある派手なタイプの年上お姉さんではない。多分、年は同じくらいだろう。綺麗なさらっさらの黒髪。服装も清楚で清潔感があって、聖澤に向けられている笑顔はとても可憐だ。何というか、正統派で清純派のアイドル、とでも言えばいいんだろうか。そうそう見かけることがないくらいに可愛い。
「ほら、浬。いつまで待たせる気?」
「あーもう、わかったから引っ張るなって」
 親しげに聖澤の腕に手をかけ、早く行こうとばかりに引っ張っている姿は、まるでドラマのワンシーンのようにさえ見えた。聖澤も聖澤で、呆れたように聞こえるけれど親しさを充分感じさせる声音だ。美男美女だとどんなことをしててもキラキラエフェクトがかかるのかもしれない。そう思っても仕方がないほど二人はとてもお似合いで、そのまま仲良く遠ざかっていく後姿を黙って見送る。
 否が応でもわかってしまった、気がした。多分、あの子は『特別』だ。今までのお姉さんたちとは違うちゃんとしたお付き合いの本命さん、だ。今までキャンパス内では見た記憶がないから――といっても、全部の学生を把握しているわけじゃないけれど、あれだけの美少女なら少しは話題にのぼるはずだし――、他の大学の子かもしれない。そして、今日はこのキャンパス内で待ち合わせをしていた。うっかり鉢合わせして、私が変なことを口走ったら困ると思ったから、口止めしようとした。そんなところじゃないだろうか。
 てか何だよ。あんなに可愛い本命ちゃんがいるなら、私なんかを持ち帰ってる場合じゃないだろ。何なんだよもう。
 鼻の奥が、つんとする。さすがにこの扱いは泣いてもいい案件だろうと思った。
 けれど、この後も講義があって。夕方にはバイトも入っていて。泣いた後だとわかる顔でまた聖澤に遭遇する可能性のある講義には出たくない。バイト先にもそんな情けない顔で出勤したくはない。
 何より今泣いたらすごく負けな気がする。聖澤が私をそういう扱いするならば、私だってそれ相応の扱いをしてやらなければ気が済まなかった。
 ぐっとこみあげる涙を無理やりひっこめ、ぱしんと両手で頬を張った。よし、止まった。これでいい。
 まずはご飯だ。腹が減っては戦はできぬ。いつも聖澤が使う食堂は避けて、学生会館のカフェで今日はお昼ごはんを食べよう。できれば一人寂しくボッチ飯は避けたいけれど、いつも聖澤と一緒にご飯を食べていたから今更他のグループに混ぜてもらうのも忍びない。喧嘩でもしたのかと探りを入れられるのも嫌だから、素直にお一人様しようそうしよう。
 そして、今日バイト先にいって仕事が終わったら、真っ先に紗奈さんとミツルさんにお願いしよう。
 全力で慰めてください! と……。