風にゆれる かなしの花

それはいつかの再会のため

 幸せそうに寄り添う新郎新婦を見つめながら、自然と零れたのは安堵のため息だった。
 妻を失ってから約十二年。表には出さずとも寂しい思いをしていただろう一人息子は、今日最愛の女性を生涯の伴侶として迎えた。普段はそれほど豊かとは言えない表情も、今日に限っては隠しきれない喜びに染まっている。もちろん、隣に並ぶ花嫁も同様だ。
 新郎の胸元に飾られた赤いアネモネに、今はもう随分と薄れつつある記憶が呼び起こされた。

「殿下!」
 たまたま視界に入った庭先に、ドレスの裾が汚れるのも構わずに座り込んでいる人影を見つけて思わず叫んでいた。同時に駆け出し、数秒後にはそのすぐ側まで辿り着く。
「そんな庭師のようなことをなさらないでください!」
 少々強引に引き寄せた白く華奢な指先は、すっかり泥で汚れてしまっていた。ハンカチを取り出し泥を拭うが、完全には綺麗にはならない。
 彼の人はしばらくなされるがままになっていたが、やがて私の手からすいと両の手を引き抜いて自らの胸元に抱き締めるように収めた。そして愛らしいまろやかな頬を膨らませ、柳眉を逆立てて私を睨みつけ、口を開く。
「旦那様、何度言ったらわかるのですか? 私はもう『皇女』ではなく貴方の妻なのですよ?」
 言われた瞬間にハッと我に返り、申し訳ありませんとすぐさま謝罪を述べた。そう。私と彼女はつい先日生涯ともにあると神に誓ったばかりの夫婦なのだ。
 しかし、長年臣下として仕えていた癖がそう簡単には抜けてくれはしない。ついつい『妻』ではなく『皇女殿下』として扱ってしまっていた。
 私の謝罪に、彼女はまた大仰なため息をつく。
「でーすーかーらー! そうやってすぐ臣下じみた対応をしないでください! もっとこう、どこにでもいる一般的な夫婦っぽく!」
「一般的な、夫婦っぽく……」
 私の元に嫁入りしたことで、彼女は皇籍から抜けることとなった。もともと皇女時代から普通の恋愛結婚に憧れていた節があるので、彼女がそういったものを望むのは道理なのだろう。
 だが、普通の夫婦というものが正直あまりよくわからない。私の両親は早くに亡くなり、私は後見人の叔父に育てられた。叔父は未婚のまま生涯を終えたので、身近に見本となりそうな夫婦がいなかったのだ。
 それでも何とかどこにでもいる夫婦を想像しようと思案を巡らせる。そこで思い浮かんだのは私たちよりも数年早く結婚をした友人夫妻だった。
 士官学校の同期であったメレディスは、もともと女遊びが激しかった。だが、同じ騎士団の先輩であったアレクシア殿に惚れてからは、それまでの関係を綺麗に清算し、生まれ変わったかのように一途に口説き続けた。度重なる口説き文句に困りきったアレクシア殿が「騎士団長になったなら考えてもいい」と条件を出すと、そこから立て続けに武勲を上げ、あっという間に騎士団長にまで上り詰めた。昇進になど欠片も興味はないと言っていたのが嘘のようだった。そうして見事アレクシア殿の心を射止めた――いや、この表現は少々美化しすぎだ。しつこすぎるメル相手にアレクシア殿が絆された、と言った方が正しいだろう。
 とはいえ、結局のところ、アレクシア殿もメレディスのことを憎からず思っていたのだ。その証拠に無事夫婦となった二人は仲睦まじく、休みの日などは二人で手合わせなどをしているらしい。さすがは騎士団長とその補佐といったところか。
 二人に見習うべきかと思ったのだが、私の場合は剣術の嗜みなどない元皇女殿下が相手なのだ。どう考えても手合わせなどできるはずがなかった。そうなると、もっと他の何かを――。
「旦那様、大変お悩みになられているのはわかりますけれど、間違っても青騎士団長殿ご夫妻を普通の夫婦だなどと思わないでくださいませね?」
 すっかり考え込んでしまっていた私に対し、半ば呆れた調子で彼女はそう告げる。言葉に出していたわけではなかったのに、私の考えていたことなど完全にお見通しだったらしい。
「……よく、私が何を考えているのかおわかりになりましたね」
「それくらいわかります! どれほどわたくしが貴方を見ていたと思っておられるんですか!」
 またしてもふくれっ面になってしまったが、その表情はやはりどこまでも愛らしく気品がある。いくら臣下の元に降嫁したとあっても、やはりこの女性は生まれながらの姫君なのだ。
 そんなやんごとなき皇女殿下が、何故私のような武術しか取り柄のないような男を選んでくれたのか。結婚式を済ませた今でも謎でしかなかった。
「大体旦那様は、私よりも青騎士団長殿といる方が楽しそうなのは問題があると思いますわよ」
「そんなことはありません。メルは基本的に仕事以外ではろくでもないことしかしませんから」
「それです!」
「それ、とは……?」
 また何か気に障ることを言っただろうか? いや、しかしメレディスについて愚痴のようなものを零したに過ぎないはずだ。
 そんな疑問も次の彼女の言葉で納得へと変わった。
「青騎士団長殿のことは、親しげに愛称で呼ぶではないですか……」
 強気にはきはきと受け答えしていた彼女が、それまでの勢いが嘘のように萎んだ声音で洩らす。拗ねたような、どこか悔しそうなその表情までも可愛いのだから、無自覚とは大変恐ろしいものだと実感した。
「そ、その……別に愛称で呼んでほしいというわけでなくって、夫婦なのだから、もっと名前で呼んでほしいというか……さすがに『殿下』はありえないと思ったわけなんだけれども……」
 小さな声で言い訳のようにぽつぽつと続けられる呟きに、思わず笑い声が零れ出そうになるのを堪える。自身を落ち着かせるように軽く息を吸うと、ゆっくりと言い聞かせるよう吐き出した。
「ラティ」
 俯きがちだった顔が跳ね上がり、その頬がみるみる赤く染まっていく。
「貴女が望むのならば、いつでも、いくらでもお呼びします」
「……いくらでも呼ばれてしまったら、ありがたみがなくなってしまうわ」
 真っ赤になった顔をふいとそらすけれども、その表情は言葉ほど不満そうではなかった。本当にこの姫君はこういうところが手がかかる。普段こちらが引いているときはものすごい勢いで押してくるのに、立場が逆になった途端に落ち着きなく挙動不審になってしまうのだ。それはそれでまた可愛らしくもあるのだが。
「わがままですね」
「当然よ。わがままは皇女の特権ですもの」
「おや? ではやはり殿下とお呼びした方がよろしいのですか?」
「そ、それは言葉の綾というものです!」
 慌てて否定するその様に、とうとう堪えきれなくなって小さくふき出してしまった。そうしてしばらく声を殺して笑った後、完全に不貞腐れた表情の姫君に気づく。すぐさま笑いを治めたが、完全に手遅れだった。
「……ようやく結婚したっていうのに、そうやってすぐに子供扱いするのですね」
 すっかり落ち込んでしまった彼女は、拗ねるを通り越し眦には微かに涙を滲ませている。そんなつもりは全くなかったのだが、年が離れている所為か大人の女性として扱われていないと感じさせてしまったのだろう。どう考えてもそれは私の落ち度だった。
「子供扱いなどしていませんよ」
「しています」
「していたら、結婚などしていません。ただ、愛する人なら何をしていても可愛いものなのだなと実感していただけです」
 初めて彼女の姿を見たときは、まだ幼さが多分に残る頃だった。愛らしいとは思ったが、それは生来の整った顔立ちだけでなく『子供らしさ』がその割合いを大きく占めていた。だから、彼女が成人の儀を終え一人前の皇女として公の場に立つことになったときは、ぐっと大人びた美しさに思わず視線を奪われた。
 けれども私の家柄では彼女に釣り合うはずもなく、恋になることすらないと思っていたのだ。
 そんな私の気持ちを嵐の如く吹き飛ばし、痛いくらい真っ直ぐな好意を体当たりで彼女は伝えてきた。家柄も立場も、私たちをとりまく不利な条件全てをひっくり返して私を選んでくれた彼女を、愛おしくこそ思えど子供扱いなどするわけがないというのに。
 私の言葉に、そろそろと彼女が顔を上げる。そこにあるのは、綻びかけた表情を無理やり引き締めようとした不自然なものだった。
「そ、そういうところばかり、青騎士団長殿に影響されないでくださいませ」
「影響されているつもりはないのですが。それよりも、その青騎士団長からの預かり物です」
「預かり物? わたくしに?」
「正確に言うと、メルからではなく、アレクシア殿からなのですが」
 上着の内ポケットから紙包みを取り出し、興味津々といった様子の彼女の前に差し出す。包みを開けば、そこには茶色い歪な球形のものがいくつか。
「これは?」
「アネモネの球根だそうです」
 一瞬複雑そうな表情を浮かべたけれど、すぐに表情が華やいだものへと変化する。最初の表情が少しばかり気にはなったが、嬉しそうな笑みが浮かんだことに安堵した。随分前だが彼女自身からアネモネの花が好きなのだと聞いていたのだ。
「以前にお話ししたこと、覚えていてくださったのですか?」
「ええ。本当ならば、咲いているものをお渡しすべきなのでしょうが、お恥ずかしながら、メルに相談したらもう花の時季は終わったと言われてしまいまして」
 その話がメルからアレクシア殿にも伝わり、庭にあるアネモネの球根を分けてくれることになったのだと経緯を話す。が、その途中で何故か小さく肩を震わせて彼女が笑いを堪えていることに気づいてしまった。
「ラティ? 何かおかしなことでも?」
「いえ、旦那様はつくづく旦那様だなと思いまして」
 そう告げると、そのまま皇女然とした上品な仕草で、彼女はくすくすと笑い続ける。
 笑われてしまったその理由を知らされたのは、季節が巡り庭に植えた球根が鮮やかな赤い花をつけた頃。その華奢な身に、新たな命を宿したと告白された頃だった。

 誓いの鐘の音で我に返る。見ると、鐘を鳴らしたばかりの新郎新婦は、一度は治まったはずのフラワーシャワーの洗礼を再度受けていた。ひらひらと春風にひるがえり降り注ぐ、いくつもの鮮やかな花びらたち。けれどその中でも二人の身に着けているそれぞれの花は、けっして存在感を失わない。
 二人の正式な婚約が決まる少し前、息子は愛する人に改めて赤いアネモネの花を贈ったのだという。その花の意味を亡き母――つまりは私の妻から教えられていたと聞いて、しっかりと愛情を伝える方法を学んでいたのだと感心した。少なくとも、意味も知らずに花ではなく球根を渡してしまう私よりもよほどマシだろう。
 きっと二人は幸せな家庭を築くと確信できる。その光景をできれば妻と並んで見守りたかったなどという詮無い願いを胸にしまい、ただ目の前の幸せな二人を瞼の奥に焼きつけた。