風にゆれる かなしの花

とある新人騎士の恋の話

 今日もセラさんは美しい。
 女性にしては高めの身長に、すっと伸びた背筋。凛とした表情で小隊長と何やら仕事の話をしている。その真剣な横顔は近寄りがたさを感じるが、ときおり浮かべられる笑みは花も恥じらうほど可憐だということを俺は知っていた。そんな彼女がひとたび剣を振るえば、ただ美しいだけの女性ではないと容易に知れる。洗練された双剣捌きは舞のようで、そんじょそこらの男では敵わないほど卓越したものだった。
 一言で言ってしまえば、高嶺の花。気高く美しい、白騎士団に咲き誇る一輪の薔薇のようだった。
 そんなセラさんは、俺だけでなく多くの新人騎士たちの憧れの的だ。なのに、セラさんと釣り合うような男は、第二小隊長のレオンさんか第三小隊副隊長のクラウスさんくらいだろうと同期の奴らは言う。お二人とも士官学校での成績は群を抜いていたらしいし、まだ入団して三年なのに小隊を束ねる地位にいるのだ。その上、見目も麗しい。揃って皇家の血を引いているそうだから、生半可な男では敵わないと思うのも当然だった。
 けれど俺は、そう簡単に諦める気はない。確かに今は全く敵う気がしないけれど、厳しい鍛錬を続けていればいずれ追いつき追い越すことだってできるはずだ。
 そして、騎士団での地位をある程度確立できたならセラさんにこの想いを告げることができる。そう思いながら、毎日誰よりも早く修練場に足を運び、剣術の稽古に励んでいた。


 そんなある日、食堂で遅い昼食をとっていると、同席した同期のルートがとんでもない発言をぶち込んできた。
「前から気になってたんだけどさ、デニスのセラフィーナ様への気持ちって、ただの憧れだよね?」
「はぁ? ふざけんな! そんな生半可な想いなわけないだろうが!」
 俺のセラさんへの想いを軽んじられた気がして、思わず声が大きくなる。が、ルートはそれに怯むでなく、むしろ呆れたような目で俺を見返していた。
「いやいやいやいや。それはダメでしょ。セラフィーナ様も困るだけじゃないの」
 身分差のことを言っているのだろうか。確かに、俺の家は爵位持ちとはいえ下流も下流。一方セラさんは、現在の青騎士団長の娘。家格としては中位だけれど、聖帝陛下の覚えもめでたい由緒ある家のご令嬢だ。
 けれどそんなものは愛の前では関係ない。俺が騎士団で手柄を立てれば、求婚する権利だってもらえるはずだ。
「セラさんが困るとかおまえが決めつけるなよ」
「いや既婚者が求婚されたら普通に困るでしょ」
 ……は? 今こいつは何て言った?
「キコン、シャ……?」
「やっぱり知らなかったのか。同期には知らない人がまだ結構いるみたいだもんね」
「き、既婚者って、セラさん結婚してるのか!?」
「だから、そうだって言ってるじゃない」
「で、でも! まだ十八だろ!?」
「貴族の結婚なら別に珍しい話でもないでしょ? それに、幼い頃から婚約してたって話らしいし」
 ガンっと背後から大きな石で頭を殴られたみたいだった。セラさんが、結婚していた。しかも長年婚約していた相手と。
 待てよ、幼い頃から婚約? それはつまり、親が決めたもので、本人は不本意だった可能性もあるのでは?
「それって、政略結婚ってやつだったんじゃ?」
「さあ? そこまで詳しくは聞いてないけど。でも、早々に式を挙げたのは、レオン様ができるだけ早く結婚したかったからだってアル兄が言ってたな」
 アル兄とルートが呼ぶのは、第一小隊の先輩だ。兄と呼んではいるもののルートの本当の兄ではなく、仲の良い友人の兄だかららしい。
「ちょっと待て。何でそこでうちの小隊長の名前が出てくるんだ」
「そりゃあ、レオン様がセラフィーナ様の夫だからに決まってるでしょうが」
「レオンさんと、セラさんが、夫婦ー!?」
 思わず立ち上がり叫んでしまう。勢いで座っていた椅子が派手な音を立てて後ろに倒れた。俺の声と椅子の音に食堂内の視線が集中する。が、今はそんなことはどうでもいい。
「ほ、本当に?」
「信じられないなら、アル兄に聞いてみれば? あの人、セラフィーナ様とは幼なじみだし、レオン様とも同期だから詳しいと思うよ」
 聞くが早いか、食堂を飛び出した。背後からルートがなにごとか叫んでいたが、耳に入らない。頭の中は、セラさんとレオンさんのことでいっぱいで、今すぐにでもアルさんを捕まえて真相を聞き出さずにはいられなかった。
 確かに、セラさんにはレオンさんくらいの男でないと釣り合わないという同期たちの言葉も頷ける。けれどそれは、レオンさんの騎士としての部分の話で、一人の男としてセラさんに相応しいかというのはまた別の話だ。
 セラさんは同じ小隊に属しているから、小隊長であるレオンさんと二人でいるところは今までに何度も見ている。けれど、その二人の間に甘い雰囲気など一切なかった。むしろ、レオンさんのセラさんに対する態度は、素っ気ないを通り越して厳しいとすら感じることもあったのだ。この間の特別訓練の時なんて、せっかくセラさんが直々に俺たち新人騎士に指導してくれていたのに、強引に割って入って辞めさせた。そして、「大人しくしていろと言っただろう」などとひどく冷たい言葉を吐き捨てたのだ。とても愛し合って結婚したようには思えない。
 セラさんは、レオンさんが夫で幸せなんだろうか。親同士が決めた結婚だったから、家のために我慢していたんじゃないだろうか。俺だったら――。
「だから普段から無理をするなと言っているだろう! 何かあったらどうするつもりだったんだ!」
 アルさんを探して騎士団棟を足早に歩き回っていた俺の耳に、厳しく咎めるような声が飛び込んできた。この声は、レオンさんだ。
 声の聴こえた方に引き寄せられるように足が向く。そこは、当直の騎士が使う仮眠室だ。半開きになったままのドアからこっそりと中を覗くと、仮眠用の寝台にはセラさんが横になっている。
 こんなところで何をしているんだと思うが、それよりもレオンさんの言い草に腹が立った。いくら夫とはいえ、あんなに冷たい言い方をしなくたっていいじゃないか。しかも、こちらから見る限りセラさんの顔色があまり良くない。具合の悪い相手に対して優しさが足りないとしか言い様がなかった。
 我慢しきれなくなって踏み込もうとした瞬間、くすくすと楽しそうな笑い声が聞こえた。
「そんなに心配しなくても大丈夫よ」
 今までに聴いたことがない、柔らかで甘さを含んだ声音。それにレオンさんは呆れたように溜息をつく。
「セラフィーナの大丈夫はあまり信用できないな。そもそも、しばらくは書類仕事だけにすると言うから許したのに」
 一瞬、誰の声だろうかと耳を疑った。咎めるような口調なのに、声の色だけは深く甘く艶めいている。
 寝台に腰を下ろしたレオンさんの指先が、ゆっくりとセラさんの頬の丸みを辿った。
「レオンは心配性ね」
 くすぐったそうに目を細めるセラさんの表情は、どこから見ても望まぬ婚姻を結んでいるようには見えなかった。普段ならば決してありえない呼び捨ても、自然すぎるくらい馴染んでいる。
「そう思うなら、もう少し君は体を労わってくれ。あの時のような思いは二度としたくない」
 レオンさんの秀麗な顔に陰がさす。セラさんを見つめる翡翠の瞳には切実さが滲んでいた。
「そうね、ごめんなさい。……もう一人の体じゃないんだものね」
「なら、しばらくここでこのまま休んでいてくれるか?」
「レオンは?」
「休暇の申請に行ってくる」
「なら私も一緒に――」
「駄目だ」
 身を起こそうとするセラさんだったが、すぐに肩を押さえられて寝台に留められる。そのままレオンさんの唇が、セラさんのそれに重なった。んっ、と艶のある声が小さく零れ落ちる。
「……俺が戻るまで、大人しく休んでいること。いいな?」
「はい」
 素直に頷くセラさんに、レオンさんはとろけそうなほど甘ったるい笑みを向け、今度は額にキスを落とした。名残惜しむように髪を撫で、寝台から立ち上がる。
 そこでようやく我に返り、俺は慌ててその場から駆け出した。回廊の角を曲がり、中庭へと抜ける通路を走り抜けて、木立の影に紛れ込む。こちらに向かってくるような人の気配がないことを確認し、ようやく一息ついた。
「はぁー……。なんだよアレ」
 つい今しがた目にした光景が信じられない。甘さの欠片もない職務中の二人とはほど遠い、誰がどう見ても文句なしの愛し愛される夫婦の姿。つけ入る隙なんて髪の毛の先ほどもない。俺は勝手にレオンさんを悪者にしていたけれど、全ては身重の妻を案じているからこその厳しさだったのだ。
 今ならばわかる。セラさんを幸せにできるのは、レオンさんだけだ。レオンさんといるときのセラさんの表情は、他に比べられるものなどないほど美しく輝いていたのだから。
 また、逆も然り。あんなに幸せそうに微笑んでいるレオンさんは初めて見た。
 よくもまあ、あの溢れんばかりの愛情を抱えたまま、それをお互い微塵も見せずに振る舞えるものだ。その切り替えの見事さに、感嘆の気持ちさえ覚える。
 おかげで、失恋のショックが皆無と言っていいほど消し飛ばされてしまっていた。もちろん、全く痛みが無いわけじゃない。すぐに完全に忘れられるほど、セラさんへの気持ちは軽くはなかった。
 けれども、セラさんにはこれからもレオンさんと幸せそうに笑っていてほしい。そう願う気持ちの方がずっと強くなっていたのだ。
「ルートにやけ酒でも付き合ってもらうかな」
 誘えばきっと、君は酒癖が悪いから嫌だよ、だなんて言われるだろうけど。そう言いながらも、人のいいアイツは付き合ってくれるのだろう。ついでにアルさんにも声を掛けて、あの幸せの塊のような夫婦のことを聞いてみたい。アルさんのことだから、あることないこと勝手に話を膨らませて話しそうな気がしなくもないけれど、それもまた一興だ。
 仕事に戻るために騎士団棟に戻ろうとすると、冷たい風が頬を掠めるように吹き抜けていく。それが少しだけ、目に染みた。