風にゆれる かなしの花

第二幕 きみに捧ぐ かなしの花 04

 赤騎士団長ヒューイ・オーリスの謀反により、四方を守護する四騎士団は再編成されることとなった。今回の事件には、実に多くの赤騎士団員が関わっていたのだ。
 当然関わったものは皆、罪科の軽重はあるものの処罰を受けることとなった。その為、一気に人員の減った赤騎士団へは、他の騎士団から多くの者が異動になったのだった。
 今は騎士団員の誰もが忙しさに追われている。もちろん俺自身も例外ではなかったが、それでも時間を見つけては医務室の奥にある個室を訪ねていた。
 事件から三日が過ぎたが、セラはまだ目覚めていない。クレール医師の判断で、魔術院の優秀な魔術師数人から魔力を供給してもらったものの、それでも彼女の失った分には遠く及ばなかったらしい。
「生命が危ぶまれるようなことはもうないが、回復には時間がかかる。だから目を覚ますのは二、三日後だろう」
 事件当日、全ての職務を終えて再び医務室を訪ねた際にそう告げられた。
 しかし、目が覚めたら報せてやるからと言われていても、医務室に向かう足を止められない。彼女がこのまま目覚めないのではないかと嫌な考えばかりが頭を占めた。
 余計なことを考えないためにも、職務に没頭しようとしていると、目の前の角を焦るように駆け抜けていく者がいるのに気付く。
「あれは……」
 いつものふざけたニヤケ面ではなかったが、アルヴィンだった。しかも、アルヴィンが走ってきた方向にはすぐ医務室がある。
 それだけで、何があったのかは容易に想像がついた。自ずと足は医務室へと向かい、早足になる。
 セラが目覚めた。きっとそうに違いない。アルヴィンはおそらく騎士団長に報告しにいったのだろう。
 逸る気持ちを抑えながら扉をそっと開くと、気配に気づいたらしいセラがこちらを向いた。俺の姿を確認すると、気まずそうな表情になるが、何も言わない。ゆっくりとベッド脇まで足を進める。白い病衣の隙間から見える肩の包帯が痛々しかった。
「レオンさん……。すみませんでした」
 心底申し訳なさそうに謝罪を零す彼女に、拳を強く握り締める。どうして、セラが謝るのだろう。謝らねばならないのは、俺の方なのに。肝心な時に傍にいられず、守ることもできなかったのに。
「君が謝る必要はない」
「ですが、私は最後までカノン様をお守りすることができませんでした。これではカノン様のお傍に仕えるに相応しくないですね」
 自嘲混じりの笑みには、いつもの彼女らしさは欠片も見えない。完全に自信を喪失しているようだった。
「そんなことは誰も思っていない。君は充分にカノン様を守ったし、君以外ならもっと悲惨な結果になっていた可能性の方が高い」
 どうすれば、上手く元気づけてやれるのだろう。自分の口下手さ加減が腹立たしい。こんなとき、アルヴィンならきっと軽い冗談交じりで気の利いた言葉を掛けて、彼女を笑わせることができるに違いないのに。
 どこまでも俺は無力だ。彼女を守ることも救うこともできないばかりか、落ち込んでいるのを慰めることすら満足にできない。そんな自分自身に苛立ちばかりが募っていく。
「だが……、どうしてあんな無茶をした。最高位の防御魔術を使いながら、傷を負った状態で炎と風の合成魔術を使うなど、考えなくとも命を失いかねないとわかるだろう」
 カノン様から当時の状況を聴いたとき、血の気が引いた。彼女の採った戦法は、まさに捨て身と言えるものだったからだ。それほど、切羽詰まった状況だったのだろう。
 そして、彼女ほどの魔術の使い手ならば、俺などよりももっと具体的に結果を想像できたはずだ。あれがどれほど危険な行為だったのか。今こうして話していられることは、すでに奇跡なのだということを。
 それなのに、当たり前のように彼女は淡く微笑んだ。
「それ以外に、カノン様を守る術を私は持っていませんでしたから」
「そういう問題じゃない!」
 思わず詰るような声になる。驚いて声を失うセラに気づき、また不甲斐なさに苛まれた。
 これでは、彼女を責めているようではないか。
 そうじゃない。そうじゃなくて俺はただ――。
 あの時、抱き上げたセラの体は、冷え切っていて。自分の着ていたシャツにまで、紅い染みがどんどんと広がっていった。彼女の命が抜け落ちていく様を、肌で感じながらも何もできなかった。
「……あんな思いを、もうしたくはない」
 喘ぐように絞り出した本音。けれどそれは、囁きにすらならなかった。
 そんな俺の様子に、何を思ったのかセラはベッドから身を起こそうとする。
「レオンさん、本当にすみませんでした。私にもっと力があれば――」
 言葉の途中で、ぐらりと彼女の体が傾いだ。咄嗟に抱き留めると、伝わる柔らかなぬくもりに胸が締め付けられる。
「す、すみません」
 焦ったようにセラが俺の胸を押して離れようとした。けれど俺は背中に回した腕に力を籠め、彼女をさらに抱き寄せる。
 確かな熱が、ここにあった。あの冷たく冷え切っていた体に、今はしっかりと命の炎が灯っている。それをもっと強く確認したかった。
「あの、レオンさん?」
 戸惑ったセラの声に、我に返って慌てて体を離した。
 何を俺は血迷っているのだ。好きでもない男に抱き締められるなど、彼女にとっては不愉快でしかないことなのに。
「……すまない」
 自分の恥ずべき行為に耐えきれず、逃げるようにその場を後にした。
 そんなつもりはなかったと頭の中で言い訳を繰り返しながら、回廊を早足で引き返す。そんなはずはないのに、すれ違う人々からの責めるような視線がいつまでも追いかけてくるような気がしてならなかった。

 表向きは常と変わらぬ様子で職務を終え、夕食も早々に済ませて自室へと戻る。今日はクラウスの話に付き合う気にもなれなくて、無造作にベッドへと身を投げた。
 仕事に没頭していても、ふと手が空いた隙に彼女のことを考えてしまっている。その度に、抱き締めたときのぬくもりを思い出していたたまれない気持ちになった。
 これから先、騎士として生きていく限り、似たような状況に陥る可能性がないわけではない。そんなことはわかりきっている。
 だからこそ、もっと彼女の傍にいたい。他の誰にも彼女の隣を譲りたくはない。一番近くで、彼女を守りたい。いや、違う。互いに背を預け合えるような信頼が欲しい。
 たとえ、彼女の気持ちが別の男へと向けられていても。

 ――まずは自分の婚約者のことちゃんとしてこいよ。

 彼女から気持ちを向けられている男から発された言葉が脳裏に浮かぶ。至極当然な発言だ。アルヴィンは、彼女の気持ちには応えられなくとも、彼女のことを幼なじみとして大切にしているのだから。
「もう、レイフォード様にもケンカを売ってしまったことだしな」
 瀕死のセラを運ぼうとしてレイフォード様に制されたとき、すでに心は決まっていた。
 ただ、セラの意識が戻らないことと、父やメレディス様が常ならざる忙しさに追われていることを知っていたから、保留していただけだ。
 明日、朝一番に父の元を訪ねよう。そして正式に婚約を解消してほしいと伝えるのだ。
 メレディス様にも謝罪しに行くべきだろうが、お時間は取っていただけるだろうか。あの方も、父同様に相当お忙しいはずだし、なかなか難しいかもしれない。
 それでも、俺にとってもフィーナ嬢にとっても将来に関わる大事な話だ。先延ばしにし続けていいわけがない。どうにかお願いして時間をいただこう。
 頭の中を整理すると、自らの結論をまとめた。
 胸元からクワドラートを取り出し、固く握る。以前はこれに何かを願うことなど皆無だったのに、彼女がチェーンを貸してくれてからは頻繁に願うようになってしまっていた。
「セラ……」
 何もかもが上手くいくだなんて思ってはいない。それでも、ここから始めなければ俺は一つも前に進むことができないのだ。
 たった一人の特別な人に、何とか振り向いてもらえるように。

 しかし、物事はどうしてこう上手くいかないのだろう。
 せっかく動き出そうとしたのに、翌朝父を捕まえることができなかった。朝議よりかなり早く執務室に向かったのだが、さらにそれより早い時間に父は陛下の元に呼び出されたらしい。しかも、そのまま陛下や他の騎士団長と長い話し合いとなり、その日は丸一日顔を合わせることすらできなかった。
 上官から仕事の指示は次々におりてくるので、職務に滞りはない。だが、早くこの件を処理してしまいたいと気持ちばかりが焦る。
 セラの体調は思ったよりも回復が早いらしく、あと数日もすれば一旦実家に戻って療養することになりそうだとアルヴィンから聴かされた。できればその前に、セラとゆっくり話す時間が欲しい。その為にも、婚約の件をできる限り早く解決しておきたかった。
 そんな焦りにも拘らず、ようやく父を捕まえられたのは翌々日の夜。セラが目覚めて三日が経ち、しかも通常の職務終了時間よりもかなり遅い時間だった。これ以上待っていてはセラが実家に帰ってしまうと思い、仕事を終えた後、俺は寄宿舎に戻ることも夕食をとることもせず、父を捕まえられるまで待っていたのだ。
 大事な話があると告げると、父はわずかな疲れも見せずに応じてくれる。きっと俺などの数十倍は疲れているだろうに、そんなそぶりを欠片も見せない父はやはり俺の尊敬する理想の『騎士団長』だった。
「それで、どうしたんだ? 随分と切羽詰まった顔をして」
 二人きりの執務室で、父は少し表情を緩めた。
 先日の一件で気まずい空気になるかと思われたが、父はそこまで気にしてはいなかったようだ。それとも、今は俺が騎士団員としてではなく、息子として話をしたいと申し出たとわかっているからだろうか。多少身構えていた気持ちが、少しだけほぐれる。
 気持ちを落ち着かせるように深呼吸を一つすると、徐に口を開いた。
「メレディス様のご息女との婚約ですが」
「ああ、そのことか」
 父の表情が、目に見えて綻ぶ。
 今まで見たことないほど嬉しそうな顔をしている父に、心苦しさを覚えないわけではなかったが、俺は思い切って自らの決意を口にした。
「白紙に戻してください」
「……は?」
 先ほどまでの朗らかな表情が一転した。
 ただ、父の表情は凍り付いたというよりは驚きのあまりに呆気にとられたといった方が正解だろう。俺の口から婚約を破棄してほしいなどと出てくるとは、夢にも思わなかったようだ。
 何を言っているのか意味がわからないとでもいうようなぽかんとした表情には、先ほどまで見えた騎士団長としての威厳はいささかも感じられなかった。
「ですから、婚約をなかったことにしていただきたいのです」
「レオン、おまえ――」
「最初から、そういうお約束でしたよね? 私が望めば破棄できると」
「それは確かにそうだが」
「では、そういうことでお願いいたします。メレディス様にも私が直接お詫びを申し上げたいので、時間を取っていただけないか父上からお願いしていただけませんか?」
 何か言いたそうな父に言葉を継げさせないよう、俺は一気にまくしたてる。俺の決意が固いと判断したのか、父は開きかけた口を一旦閉じた。静かに目を瞑ると、しばし考え込んだ後にゆったりと息を吐く。
 そうして再び開かれた瞳には、何かを見定めようとする色が見て取れた。
「わかった。理由を訊いてもいいか?」
「理由、ですか。不誠実なことはしたくない。ただそれだけです」
「不誠実? そんなことができるほど、おまえは器用ではないだろう」
「できるできないではなく、実際そうなっているからこそのお願いです」
「実際、そうなっている?」
「それでは、用件は終わりましたので失礼いたします。父上もお忙しいでしょうがあまり無理はされないでください」
 これ以上追及される前に、話を無理やり終わらせてしまう。
 もしこれ以上何か訊かれてしまえば、セラのことを口にしなければならなくなるかもしれなかったからだ。そうなるとまだ具合の良くないセラに要らぬ負担をかけてしまうと思い、少々強引なやり方で退室した。
 あとは、メレディス様に誠心誠意謝罪をするだけ。誠実な父のことだから、早いうちにメレディス様に面会できる機会を設けてくれるだろう。
 フィーナ嬢にも詫び状は送るべきかもしれないが、場合によっては手紙すら見たくないと思われるかもしれない。もっとも、お互いまともに顔を合わせたこともないのだから、そこまでフィーナ嬢が自分に対して執着しているとも思えなかった。

 あと少し。あと少しで、セラにちゃんと気持ちを告げられる。
 すぐに振り向いてほしいだなんて我儘は言わない。彼女の心の大半はアルヴィンに占められていると知っているから。
 けれど、気持ちを伝えられたら、少しくらいは俺を見る目が変わってくれるはずだ。ただの先輩騎士ではなく、一人の男として。
 そこでようやく出発点に立てる。それからは、どれだけ時間がかかってもいい。彼女がアルヴィンへの想いを風化させ、俺自身を見てくれるように心から尽くそう。たとえ想いが遂げられなくとも、最後まで彼女には真摯でありたいから。
 メレディス様への謝罪が終われば、その足でセラの元を訪ね気持ちを伝えよう。
 一度心を決めてしまいさえすれば、今までうじうじと悩み続けていたのが馬鹿らしいほど気持ちが凪いでいく。対照的に、セラへの想いだけは静かに、けれど確実に色を深めていった。



 滅多に踏み入れることのない青騎士団長の執務室。白騎士団長である父の執務室と造りは同じはずなのだが、主の人柄が反映されているのか厳格さよりも華やかさがやや勝っている。
 落ち着かない気持ちのまま、優雅に執務机にもたれかかり紅茶を口に運ぶメレディス様の前で、俺は静かに頭を垂れていた。
 父に頼んだ翌日の夜、執務終了後に時間を取っていただけることになったのだ。
 既に父から話は伝わっている所為か、いつもは浮かべられている気さくな笑みが今はない。メレディス様には幼い頃から目を掛けていただいていたのに、裏切りともとれる行為をしたのだから仕方がないことだろう。
 けれど、今さら気持ちを変えることなどできないし、セラへの気持ちを残したままフィーナ嬢を妻に迎えても不幸にするだけにしか思えなかった。
「話は聞いているよ。フィーナの何が気に入らないのかな?」
「それは――」
「と言うのは冗談で」
「え?」
 俺が答えるより早く、メレディス様から人の悪い笑みが返る。その声音に怒りや責めるような色はなくて、どんな風に受け止めればいいのかがわからなかった。
「目の前であんな啖呵を切られたんじゃ嫌でもわかるよ。さすがのレイも面食らってたからね」
「……あの時は、申し訳ありませんでした。いくら焦っていたとはいえ、レイフォード様に対しても礼を欠いた態度を取ってしまいました」
「あれはレイが悪いから気にしなくていい。それより、それくらいレオンがあの子を大切に想っているのはよくわかった。だから、一つお願いがあるんだけどいいかな?」
「お願い、ですか?」
 元々騎士団長という役職の割に柔和な面立ちを、いつも以上に和らげてメレディス様が問う。
 だが、その優しげな視線の奥には、有無を言わせぬ力があった。思わず身構えてしまうほどに、強い。
「フィーナは君のことをかなり気に入っていてね。その上結構な頑固者だから私が言い含めたところで納得するかどうかわからない。だから、レオン。君が直接フィーナに会って断ってきてくれないか?」
 メレディス様の申し出に、ますます身を固くし息を呑む。
 直接婚約破棄を言いつけるなど、フィーナ嬢にとっては屈辱でしかないだろう。しかもフィーナ嬢には何も非がない。
 メレディス様ですら納得させることができないような性格で、その上俺のことを気に入ってくれていたのならば、素直に申し出を受け入れてもらえないかもしれない。たとえ受け入れてもらえたとしても、ひどく罵倒されて当然だろう。それとも、静かに嫌味を言われ続けられるのだろうか。どちらにしろ、俺はその状況の全てを受け止め、ひたすら真摯に謝罪してフィーナ嬢に許しを請わねばならないことは明白だ。
 これはお願いなどではなく命令なのだと悟った。
 穏やかな態度とは裏腹に、メレディス様は俺に対してやはり良い感情は持たなかったのだろう。
 メレディス様はレイフォード様以上にフィーナ嬢を溺愛しているとも聴いている。そんなメレディス様からすれば、この程度の仕打ちは生ぬるいくらいで、俺にそれを断るなどという選択肢はあるはずがなかった。
「わかりました。いつならば、お会いすることができるのでしょうか」
「フィーナは今少し体調を崩していてね。また都合のいい日は追って知らせるよ」
「では、ご連絡をお待ちしております。それでは、失礼いたします」
 思いもしない条件を突きつけられてしまったけれど、とにもかくにも必要な手順を踏むことはできた。
 ホッとして退室しようとした瞬間、メレディス様に名を呼ばれる。
「何でしょうか?」
「上手くいくといいね」
「え? それは……」
 どちらのことを指していっているのだろう。フィーナ嬢へ断りを入れることなのだろうか? それとも、セラとの関係のことなのだろうか?
 けれど、そんな問いをメレディス様にぶつけることはあまりにも無神経だった。無理やり疑問を飲み込んで、俺はもう一度深く頭を下げると青騎士団長の執務室を辞した。
 執務室前の回廊で一旦大きく息を吐くと、次の目的地まで足を踏み出す。
 これでアルヴィンに言われた通りに筋は通した。まだ婚約の解消には至ってはいないけれど、話は通したしフィーナ嬢からは意地でも了承を取るつもりでいる。ようやく、セラに気持ちを伝えることができるのだ。
 明日には彼女は実家に戻りしばらく療養すると聞いている。ならば、今の時間はもう寄宿舎の部屋に戻り、帰る支度を整えていることだろう。
 彼女が目覚めた日以来、ろくな空き時間もなく一度も彼女の顔を見ていない。いや、本当はほんの少しくらいはあったのだが、あの日彼女を強引に抱き締めてしまったことが頭を掠め、合わせる顔がなくて医務室を避けていた。
 だから何よりも、彼女の回復した姿が見たい。
 そして改めて先日の謝罪をしよう。それから体調を確認し、それに応じてゆっくりと話ができる時間をとってもらわなければいけない。まだ病み上がりなのだ。無理をさせては元も子もない。具合が悪そうならば、気持ちを伝えるのはできるだけ簡潔に済ませなければ……。
 あれこれと思案しながら歩いていると、あっという間にセラの自室にまで辿り着いてしまった。
 一呼吸おいて軽くドアをノックする。上手く話せるか不安だった所為か、ノックの音は自分でも呆れるほど力ないものになった。
「アル、小言なら――」
 返事の代わりにそんな声とともにドアが開く。部屋を訪れる相手など、アルヴィン以外いないと思い込んでいたのか。その事実に、胸の奥が軋む。
「アルヴィンじゃなくて悪かったな」
「……レオンさん」
 思わず返してしまった嫌味混じりの言葉に、彼女は気まずそうに視線をそらした。
 早速失敗してしまったと思うがもう遅い。
「何の用ですか?」
 目をそらしたまま、穏やかながらも非難するような声音で彼女が問う。そこにある明らかな拒絶に、落ち込むなと言うのは無理な話だろう。
「俺の顔など見たくないとでも言いたげだな」
 それでも必死で平静を保ち、沈んだ声音にならないように言葉を繋いだ。けれど、かえって彼女を責めるような口調になってしまう。どこまでも不器用な自分が恨めしい。
「そう思われるようなことをした自覚はないんですか?」
 俺の態度を反射するかのように、セラが冷たく問いを重ねた。やはり、あの行為は彼女の気に障ったのだろう。自覚なんて、ありすぎるほどあった。
 だが、彼女の態度に傷ついている場合ではない。まず何よりも謝るべきなのだ。
 本来やるべきことを思い出し、気持ちを切り替えて彼女を真っ直ぐ見つめる。相変わらず視線は交わらないけれど、構わず言葉を紡いだ。
「この間のことなら謝る。本当にすまなかった。頭に血が上っていたとはいえ、あんなこ
とをされれば誰だって腹を立てることくらいわかる」
「もういいです。終わったことですから。お話がそれだけなら失礼します」
 取り付く島もない態度で、セラは扉を閉めようとする。咄嗟にその手に自らの手を重ねて制した。
「セラ、待ってくれ」
 まだ肝心な話ができていない。体調はどうなのか。そして、俺が彼女をどう思っているのか。けれど――。
「馴れ馴れしく呼ばないでください。レオン様と私は、そんな風に呼ばれるような間柄ではないですから」
 心底煩わしそうに手を振り払われ、再度掴まえるどころか声をかける隙もないほど素早くドアが閉まった。直後に鍵のかかる音が無情に響く。
「セラ……」
 部屋を訪れたときには『レオンさん』と呼んでくれていたのに、また『様』付けに戻っていた。今までの先輩後輩としての関係すら否定したいということなのだろう。
 それほどまでに、俺が触れたことは彼女には許しがたいことだったのだ。
 閉ざされた扉を見つめたまま、一歩下がる。このままここにいても話を聞いてもらえるわけでもないし、何より体調が万全でない彼女に不愉快な思いをさせてしまうだけだ。そう自分に言い聞かせ、床に貼りついたような足を引き剥がすように踵を返す。
 ふらふらと自室へと戻るまでの間、頭の中はずっとセラの拒絶の言葉と冷たい視線に埋め尽くされていた。
 部屋に戻り鍵をかけると、制服の上着を脱いで適当に机の上に放る。着替える気力すら湧かず、そのままベッドへと身を投げた。
「そんな風に呼ばれる間柄じゃない、か……」
 そう言われてしまうほど嫌われてしまっても、セラへの想いを絶とうとはどうしても思えなかった。
 彼女でないと駄目なのだ。彼女以外の誰も要らない。たとえどれほど俺を愛し欲してくれる人がいたとしても、俺が傍にいてほしいのはセラ・アステートただ一人だ。
 けれど、これ以上気持ちを押し付けることもできない。
 そうなると残された道は、見返りを求めることなく、ただ彼女を密やかに想い、見守ることだけ。
 それで、いいのかもしれない。彼女が幸せそうに笑ってくれさえすれば、たとえその笑顔を向ける先が自分でなくても。
 溢れ出そうな醜い欲望に綺麗ごとで蓋をする。そうやって押し込めてしまわないと、無理やりにでも彼女を手に入れようとしてしまいそうな自分が怖かった。
 服越しに胸のクワドラートを辿り握り締める。あの日彼女が貸してくれたチェーンは、体温に馴染んで冷ややかさなど欠片もない。
 そんな風に、彼女と自分の関係も当たり前のぬくもりを持っていられたらよかったのにと、詮無いことを思って瞳を閉じた。