風にゆれる かなしの花

第二幕 きみに捧ぐ かなしの花 03

 日に日に愁い顔の増える彼女に話を聴きたいと思いながらも叶わないまま、無為に数日が過ぎた。けれど、ようやく二人で話せる機会が訪れ、逸る気持ちを抑えながらも彼女に問いかけた。
「元気がないな」
 彼女は一瞬驚いてからそんなことないですよと素っ気なく返す。その声に覇気はなく、代わりに歴然とした壁があった。
「……まだ慣れないことの方が多いだろう。あまり無理はするな」
「無理なんてしていませんよ」
 久しぶりに浮かべられた笑顔。けれど、それはひどく薄っぺらで、上辺だけだということが嫌でもわかった。
 間違いなく彼女には思い煩うことがあるのに、それを決して俺には話してくれない。すぐ触れられるほどの距離にいるのに、一向に心は近づかなくてもどかしかった。
「君は――」
「セラ」
 もっと俺を頼ってくれと言おうとした瞬間、廊下の向こうから現れたアルヴィンが彼女の名を呼ぶ。途端に彼女の表情から愁いが薄れ、目に見えて安堵するのがわかった。
 そんなに、俺と一緒にいるのは苦痛なのだろうか。それほどアルヴィンと一緒にいると心が安らぐのだろうか。
「ジェラルド様がお呼びだ。話があるらしい。代わるから行ってこい」
「わかりました。ジェラルド様は執務室ですか?」
 表向きはちゃんと先輩に対しての態度で、言葉遣いも丁寧だ。けれどひとたび二人きりになると砕けた口調で表情を綻ばせていることを知っている。
 アルヴィンには、今思い悩んでいることも話しているのだろう。これが幼なじみとただの先輩との違いで、きっと俺には一生越えられない壁なのだ。
「申し訳ありません。あとはよろしくお願いします」
「おい、セラ。そこはレオンじゃなくて俺に言うところだろう」
「……レオンさんの方が頼りになるので当然だと思いますが?」
 頼りになるなんて思ってもいないくせに。言葉だけで肝心なところは頼ってくれたことなどないのに。
 口先だけの信頼に、腹立たしさすら生まれた。どうせ頼ってくれないのなら、期待させるような言葉を寄越さないでほしい。
 そんな恨み言にも似た感情を飲み込み、騎士団長の執務室へと向かう背中を見送る。
「なあ、レオン」
「何だ?」
「セラと何かあったのか?」
 正直今はアルヴィンとは話したくない気分で、適当に話を終わらせるつもりだった。だが、思いもよらない質問に疑問しか浮かばず逆に問い返す。
「……何故そんなことを訊く?」
「最近アイツの様子がおかしいからだよ。何か無理してんだろ」
「だから、何でそこで俺が彼女と揉めたと思うんだ」
 まさか、俺自身が彼女を悩ませている原因になっていたのだろうか。また気付かぬうちに彼女に不快な思いをさせていた? それならここ数日の悩みは簡単に解決する。原因を問い質して、ちゃんと謝罪すればいい。もちろん、謝って済む問題でない可能性もあるけれど、彼女が俺の行動に対して怒っていて、それで距離を置こうとしているなら誠心誠意謝って、彼女が許してくれるまでひたすら耐える覚悟だってある。
 けれど、そんな単純なものではないことは、彼女の纏う雰囲気から察していた。出会った頃に彼女が俺に対してとっていた態度とは、根本的な何かが違う。その『何か』がわからないから、こんなにも悩ましいのだ。
「揉めたとまでは思ってねぇけど、アイツと一緒にいる時間が一番長いのは、カノン様を除けばおまえだろ?」
「幼なじみのおまえの方が傍にいる時間は長いんじゃないのか?」
「ん? あれ? ナニナニ? もしかして嫉妬しちゃってんのー?」
 いつも通りに茶化し始めるアルヴィンが、いつも以上に腹立たしい。図星ではあったが、そこで激しく言い返すことも癪だった。代わりに沈黙でその意思を表す。
 それにしても、彼女がアルヴィンにすら相談をしていないことは意外だった。もしや、アルヴィンにも言えないほど深刻な悩みなのだろうか。たとえ相談らしい相談はしていなくても、それとなくアルヴィンに何か悩みの断片のようなものを洩らしたりはしていないのだろうか。
「彼女がそれほど悩むということは、俺とどうこうよりも婚約者を何かあったと疑った方が可能性は高いんじゃないか?」
「……なるほどね」
 数日前から考えていたことで話の方向性を捻じ曲げ、同時に少し探りを入れる。するとアルヴィンは少々不満そうな溜息をついた。そこには苛立ちすら含まれているようだ。
「おまえさ、俺がせっかく忠告してやってんのに、無視してんだろ」
「忠告?」
「最低限の礼儀ってやつだよ。まずは自分の婚約者のことちゃんとしてこいよ」
「そんなこと、言われなくとも……!」
 いつになく強い口調のアルヴィンに、反射的に言い返そうとして途中で言葉に詰まる。
 アルヴィンの言う通りだ。今の俺の状態は、彼女に対してもフィーナ嬢に対しても誠実とは言えない。
 本来ならばまず、フィーナ嬢との関係をちゃんと切るべきなのだ。そうでなければ、彼女が婚約者と何かあったとしても、俺が口出しすることも慰めることもできない。するべきではない。
「だーかーらー! レオンは考え込みすぎなんだよ! まずは行動しろ行動! そんな逃げ腰だからセラもあんなになるんだよ!」
「どういう意味だ? おまえ、本当は彼女が何に悩んでるのか知っているのか?」
「んなもんあの馬鹿の考えそうなことくらい察しが付くっつーの! それより、そもそもおまえら二人はな――!」
「どうしたの? ケンカ?」
 アルヴィンの大声が気になったのか、それともタイミングよく話が終わったのか、部屋から戻られたカノン様の心配そうな声が届いた。アルヴィンは言葉を途中で飲み込み、驚くほど早い変わり身で満面に人好きのする笑みを浮かべる。
「嫌ですねー。ケンカなんてしてませんよ。ちょっと女の子の好みの話で意見が対立しちゃっただけで」
「あら、そう? というか、対立なんてするの? アルヴィンは女の子なら誰でもいいのかと思ってたわ」
 にこやかすぎる笑顔で返され、さすがのアルヴィンも一瞬言葉に詰まった。カノン様が厳しいのは俺だけでなく、男全般に対してかもしれない。
「さりげに毒吐きますね、カノン様」
「そういえばセラは?」
「そして華麗に流しますか。セラならジェラルド様に呼び出されました。だから代わりに俺が来たんですよ」
「そういうことね。なら、お部屋に……」
 アルヴィンの説明に納得したカノン様は、俺たち二人を促しかけて何か考え込むように口を噤んだ。しばらく何か思案に耽り、パッと表情を輝かせてこちらに視線を向ける。
「ねぇ、少しお庭をお散歩してもいいかしら?」
「構いませんが、お一人では無理ですよ」
「わかってます。レオン、ついてきて。アルヴィンは先に部屋に戻って待っててくれればいいから」
 どこかうきうきとした口調のカノン様に、アルヴィンと顔を見合わせた。宮城内のことだし、大した危険があるはずもない。護衛が俺一人でも問題はないだろう。
「アルヴィン、こちらは任せてもらっていい」
「了解。んじゃ俺は先に戻ってますよ」
「セラが戻ってきてたら、ゆっくりしててって伝えておいてね」
「わかりました」
 軽く請け負うとカノン様は中庭に向けて意気揚々と歩き出した。中で何を話されたのかはわからないけれど、たいそうご機嫌な様子だった。
「何か良いことをでもお聞きになったんですか?」
「まあね。それより、アルヴィンと何を話していたの? 女の子の好みなんてレオンが話すわけないし」
 訊かなくても誰の目にも明らかだものね、などと相変わらず俺が恥ずかしくなるようなことを涼しい顔で付け加える。
 口ではどうあっても敵う相手ではないので、歯向かおうという気すら起きずに彼女の話を口にした。
「ここ数日、随分と沈んでいるようなので。元気がないと言うとそんなことはない、無理をするなと言えば、無理などしていないと返されて。取り付く島もなくて原因すら推し量れません」
「アルヴィンは何て?」
「逆に何かあったのかと俺が訊かれました」
「それは重症ね」
 カノン様は口元に手を当てて神妙な面持ちで考え込む。カノン様から見ても、彼女がアルヴィンにすら相談していないことが不思議だったのだろう。
「カノン様、ちゃんと前を見て歩いてください。足元、段差ですよ」
「ええ、ありがとう」
 中庭へと降りるテラスを歩きながら、カノン様は生返事だ。転ばないか気を配りながらも整えられた庭園に降りると、カノン様は目の前に広がった可憐な花々にふわりと笑みを浮かべた。いつものからかうような色のない純粋な微笑は、天の御使いだというのも納得できるほど慈愛に満ちて見える。きっと本当に花が好きなのだろう。それがありありとわかる表情だった。
 手入れをしていた庭師が、カノン様に気づいて手を止め、膝を折る。それを制するようにカノン様は微笑みかけた。
「そんなことしなくていいですよ。それより、少しお花を頂いてもよろしいですか?」
「勿論でございます。どんなお花がよろしいでしょうか」
 庭師とのやりとりを少々不思議に思って聴いていると、カノン様はくるりとこちらに振り返る。十も年上の女性相手に失礼だろうが、こういう仕草が妙に子供っぽいなとつい思ってしまった。
「ねえレオン、セラに似合いそうなお花はどれかしら?」
「彼女に?」
「そうよ。お花でも飾れば、少しくらいは気分も晴れるんじゃないかしら」
 花が好きなカノン様らしい、単純といえば単純な考えだったが、悪い案ではない気がした。女性の多くは花が好きらしいし、男の俺でも花を愛でる気持ちくらいはある。
 セラに似合いそうな花と言われて見回すと、そう悩むこともなく視線が留まった。
 競うように風に揺れている色鮮やかなアネモネの花。儚げにも力強いようにも見えるその花の深い赤は、彼女の緋い髪とよく似ていた。
「アネモネは、どうですか」
「アネモネね。色はやっぱり赤かしら」
「……ええ」
 俺と同じことをカノン様も思ったのか、簡単に色まで当てられてしまう。カノン様は庭師に再び声をかけ、赤いアネモネを幾本か切ってもらい、礼を言ってその場を後にした。
 再びテラスから回廊へと戻り、カノン様のお部屋へと戻る。その最中、堪えきれないようにカノン様が忍び笑いを零し始めた。
「どうなさったんですか?」
「レオンって天然タラシよね」
「は? 意味がわかりませんが」
「赤いアネモネの花言葉、知ってる?」
「花言葉、ですか? そんなもの、私が知っていると思いますか?」
「そうよねー。知らずに選んじゃうあたりが天然タラシなのよ」
 そう言うと声を殺すことなくくすくすと笑い始める。そんな言われ方をされれば気にならない方がおかしい。もったいぶらずに教えてくださいと不満も露わに呟くが、それでもカノン様はしばらく笑い続けた。
 カノン様のお部屋近くまで戻ってきた頃、ようやく笑いが治まったカノン様は持っていたアネモネを俺に向かって差し出した。反射的に受け取ってしまうと、からかうような笑みが浮かべられる。
「セラに伝わるといいわね、『君を愛す』って」
 一瞬で顔に熱がのぼった。きっと手の中のアネモネに負けないくらい真っ赤になっている自覚がある。
 ――君を愛す? 赤いアネモネの花言葉が?
 そうして思い出したのは、幼い頃聴いた母の言葉だ。
『この赤い花はね、一番大好きな人に渡す花なのよ。レオンも大きくなったら、お嫁さんになってほしい人に贈るといいわ』
 はにかんだ笑みを浮かべ、愛おしむようにその花びらを撫でた母は、その後同じ瞳で父を見つめていた。それを見て、あの無骨な父が母にその花を贈ったのだと理解したのだ。
 そんな両親の甘い思い出まで思い出してしまった俺は、勢いで受け取ってしまった赤いアネモネを慌ててカノン様へと押し返す。
「あ、あの……! さ、さすがに、直接渡すことは……無理です!」
「ここまできて女々しいわね」
「何と言われようと、無理なものは無理です! それにまだ職務中です! 今渡しても彼女を困らせるだけですから!」
 彼女が花言葉の意味を知っているかどうかはわからないけれど、職務中に花など渡してはまた馬鹿にしているのかなどと怒られてしまいそうだ。
 さすがにそこまで学習能力の低い馬鹿ではない。
「そのままカノン様のお部屋に飾ってください。彼女も職務中はほぼカノン様のお部屋にいるわけですし」
「……わかったわ。確かにセラなら職務中ですからって断りそうだものね。それはレオンが本気で告白するときまで取っておきましょう」
 もっと強引に押してくるかと思えば、意外にもカノン様はすんなりと引き下がってくれて胸を撫で下ろす。大体、カノン様の部屋にはアルヴィンも戻っているはずだ。そんな中で花など渡そうものなら、アルヴィンからも要らぬからかいを受けることになりそうだった。
「そういえば、部屋に花瓶ってあったかしら?」
「いえ、誰かに頼んで用意してもらわないといけませんね」
 他愛もないやりとりを交わしながら残りのわずかの道のりを歩く。部屋に辿り着くと、俺が扉を開けようとする前にカノン様がさっさとノブに手をかけていた。
 予想よりずっと勢いよく扉が開き、同時に引っ張り出されるような間抜けな格好でアルヴィンまで飛び出してくる。どうやら、部屋を出ようとしたアルヴィンと同時にドアを開けてしまったらしい。
「あ、ごめんなさい!」
「いえ、大丈夫ですよ」
 アルヴィンはすぐさま体勢を整え、カノン様を部屋に迎え入れる。その奥からお帰りなさいませといつ聴いても耳に心地よい声が響いた。
「その花は?」
 目敏く気づいた彼女が不思議そうに訊ねた途端、自分が渡すわけでもないのに鼓動が速くなる。少しくらい笑顔を見せてくれるだろうか。アネモネの美しさに癒されてくれたりしないだろうか。そんな期待が首をもたげる。
「花を飾ると、それを見る人の気持ちも華やぐでしょう? だから、庭師の方にお願いして少し譲っていただいたの」
 カノン様の上手い言い訳を聴きながら、彼女の反応を窺った。
 けれど、予想の範囲内というべきか、花瓶を用意しないとなどと当たり障りのない言葉しか返ってこない。やはりこの程度のことでは彼女の愁いは晴れないのだ。
「なら、茶菓子のついでに俺が頼んできますよ。花、貸してください」
「お願いします」
「では、私はお茶を準備いたしますね。カノン様はお疲れでしょうから、ごゆっくりなさっていてください」
 アネモネを受け取って部屋を出ていくアルヴィンを見送ると、彼女はカノン様を気遣いお茶を淹れる支度を整えに向かう。
「ほら、やっぱり直接渡した方が効果あったんじゃない?」
「さっき納得されたことをほじくり返さないでください」
 どうやら密かに落胆していることに気づかれていたらしく、いまさらながらのことを小声で言い出すカノン様にため息が零れた。
 自分で手渡すなど想像するだけでも全身の血が沸騰しそうだし、受け取りを直接拒否されたら立ち直れるわけがない。
 細やかな気遣いが得意な彼女は、きっと俺たちが戻るよりも前から準備をしていたのだろう。さほど時間を取らずにティーセットを持って戻ってくるところで目が合いそうになり、慌てて視線をそらした。
 彼女は気にもしていないのか、慣れた手つきでカップを準備し、いつも通りの淡々とした口調でカノン様に話しかける。
「それにしても、どうして赤のアネモネばかり頂いてきたんですか? 確か白や紫も一緒に植えてあったかと思いますが」
「レオンが、赤は人を元気にする色だからって選んでくれたのよ」
 俺が選んだとわざわざ伝えるカノン様に、思わず声を上げそうになるのを何とか我慢した。『元気にする色』などと、本当の意図するところとは外して言ってくださっているのだ。そこで俺が否定の言葉を発してしまえば、深い意味があるととられかねない。
 けれどそんな心配は無用で、彼女は視線をカップとポットに向けたままだった。
「セラは、花は好き?」
「……そうですね。母が花好きなので、必然的に」
 楽しそうに話を続けるカノン様に、彼女は手は動かしながらもちゃんと答えを返す。彼女がこちらを気にしていないのをいいことに、じっと様子を窺っていて気づいた。
 彼女の目が、微かに充血している。目尻にもほんのわずかだが涙の痕のようなものが見えた。
 ――少し前まで泣いていた?
 そうと気づくと、一気に膨れ上がる疑問と嫉妬。
 自分たちがこの部屋に戻るまで、彼女はアルヴィンと二人きりだった。その間、二人で何を話していたのか、どうしてアルヴィンの前で泣いたのか、嫌な想像ばかりが頭を過っていく。
「どんな花が好きなのかしら?」
「どんな、ですか。そうですね……。コリウスとか好きですね」
「セラって若いのに好みが渋いのね」
「そうですか? コリウスだって花は控えめですけど可愛いですよ。それに、アネモネみたいな可愛らしい花は、カノン様のような方にしか似合いませんからね」
 俺の想いなど知るはずもない彼女は、当たり前のように俺の選んだ花を否定した。そうして選ばれたのは、控えめな薄い紫の小さな花。
「そんなことないわ。それにコリウスの花言葉って『かなわぬ恋』よ? そんな淋しい花はセラには不似合いじゃないかしら。ねえ?」
 唐突にカノン様に同意を求められたが、本人を目の前にして答えられるわけがない。どう誤魔化そうかと視線を泳がせていると、俺より早く彼女がなら、と言葉を繋いだ。
「なおさら私にはぴったりだと思いますよ」
 耳を疑いたくなる言葉に、淡雪のように消えてしまいそうな美しい微笑。
 その一言と表情で、悟らざるを得なかった。
 彼女には、特別に想う相手がいるのだ。そしてそれは彼女の婚約者ではない。婚約者ならば、『かなわぬ恋』ではないからだ。ならば誰なのか。答えはもうとっくに出ていた。
 コリウスの花は、薄い紫――アルヴィンの瞳の色と同じだ。
 彼女はどうしようもなく苦しくて、アルヴィンに想いを告げたのかもしれない。けれど、アルヴィンに受け入れてもらえず、それで泣いていたのかもしれない。
「アルヴィンさん、遅いですね。ちょっと様子を見てきます。どうせまた女性を口説いているに違いありませんから」
 カノン様の前にお茶を置くと、彼女はそんな言い訳を残して部屋を出ていく。
 叶うはずのない恋なのに、それでもアルヴィンを恋い慕う気持ちが少しでも傍にいたいと思わせるのだろうか。
 どうすればいいのだろう。俺には彼女を笑わせることなどできない。彼女が心の底から笑えるようになるのは、きっとアルヴィンと添い遂げられたときだ。
 アルヴィンとの仲を応援してやればいいのだろうか。自らの気持ちを押し殺して、ただ彼女が幸せになれることだけを願って。
 だが、いくら俺が彼女を応援しようとも、アルヴィンにその気がなければ無意味なのだ。彼女はそれをわかっているから、あそこまで諦めきった顔で微笑うのだろう。
「ちょっと。その辛気臭い顔辞めてくれる?」
 こちらの心の傷などお構いなしに、カノン様は辛辣な台詞を吐いてくれる。いや、むしろ傷口に塩を塗り込もうとしているかのようだ。
「申し訳ありませんね、辛気臭い顔で」
「そんな開き直りは要らないわよ。セカオワ顔するくらいならもっと前向きに考えなさいっての」
「何ですか、セカオワ顔って」
「世界が終わったような顔」
「……初めて聞きましたよ、そんな言葉」
 呆れながらも、そこまで酷い顔をしていたのかと思うとさすがに自分の不甲斐なさが恥ずかしくなる。カノン様に叱咤されても仕方がないだろう。
「セラは片想いの上、半分以上諦めてるんでしょ。だったらレオンにとってはチャンスじゃない」
「そんな単純な話ではないでしょう」
「へえ? じゃあ諦めるの? 諦められるの? 諦められないからそうやっていつまでもぐじぐじ悩んでるんでしょ?」
 いつになく当たりの強いカノン様に言葉が返せない。構わずカノン様は言葉を繋ぐ。
「だったらさっさと当たって砕けなさいよ。手を伸ばせば届く距離にいて、これから先だって望めば一緒にいられる可能性があるくせに。最初から望むだけ無駄な人間だって世の中にはいるのにね!」
「カノン様?」
 からかうでも励ますでもない、感情のままに言葉を投げつけるカノン様に驚きを隠せない。辛辣ではあれど、こんな風に吐き捨てるように言われたことは今まで一度もなかったからだ。訝しげに名を呼んだことで、カノン様は我に返り気まずそうに俺に背を向ける。
「……ごめんなさい。今のはただの八つ当たりだったわ」
「いえ、構いません。それよりもカノン様もご無理をなさっているのではないですか?」
 堅苦しく窮屈な生活。本音を語ることもできないだろうお立場を、もっと思いやるべきだったのではと遅まきながら気づく。
 けれど、次に振り返ったカノン様は、いつも通りの笑顔にからかいを含ませていた。
「なーに言ってるのよ。レオンはセラの心配でもしてなさい。とりあえず、セラを笑わせるくらいできてから、大人の心配をするものよ」
 十年早いのよと笑い飛ばすカノン様に、苦笑を返すことしかできなかった。事実、俺ではカノン様の不安を軽減することなどできないだろう。子供扱いされるのも当然なほど、俺には余裕もなければ経験も知識も力も足りなかった。
「わかりました。精進します」
「よろしい」
 おどけた調子で頷くカノン様に、沈んでいた気持ちが随分と落ち着いていたことに気づく。カノン様の言う通り、まずは彼女に少しでも明るい気持ちになってもらおう。気持ちをそう切り替えて、そのうち赤い花とともに戻ってくるだろう彼女を待った。
 けれど、その後部屋に戻ってきたのは彼女でもアルヴィンでもなく、赤いアネモネの活けられた花瓶を持った侍女だった。



 空気がわずかに湿度を帯びた気がして、空を見上げた。つい先ほどまで澄み渡っていたはずの空に、低く厚い雲が垂れ込み始めている。今の時期はこんな風に突然天気が崩れることはよくあるのだ。さほど待たないうちに雨が降り出すだろう。
 視線を巡らせれば、カノン様に随従している彼女も天候の変化に気づいたらしい。カノン様を促し、宮城へと続く大通りを後戻りし始めていた。
 今日の任務は私服に身を包み、二人一組で城下を巡るカノン様を陰から警護すること。俺は小隊長と組んで常に彼女たちから一定の距離を保ちながら移動していた。当然今も帰城しようとしている彼女たちの後を追おうとしかけて、違和感を覚える。
 周りにいるはずの白騎士団員の姿が妙に少ない。安易に持ち場を離れたりするわけはないので、何らかの事情があるのだろう。今日は私服で市井の者に紛れているのだから、そういう事態になることも想定はされている。だが、配置されている白騎士団員の半数近くが『何らかの事情』で持ち場を離れることはさすがに異常だった。
「小隊長、カノン様たちと合流しましょう」
「そうだな。もう充分城下を堪能されただろう。何より、嫌な予感がする」
 小隊長の言葉を最後まで聴くまでもなく、足を速める。人波に揉まれてなかなか距離が縮まらないのがもどかしい。
 そうこうしているうちに大粒の雨が地面を激しく叩き始めた。市場にいた人たちも、慌てて手近にある軒下に逃げ込んでいる。露店を広げていた商人たちは、突然の雨にも慣れたものなのか、手早く店じまいをしていた。
 一気に人気がまばらになった大通りを、水溜りを蹴散らしながら駆け抜ける。
「レオン、上!」
 背後から投げつけられた小隊長の鋭い声。顔を跳ね上げると、頭上から数人の男が剣を振りかざして飛び降りてきていた。すぐさま自分の剣を抜いて振りかかる刃を弾く。剣を押し返された男は、崩れた体勢をすぐに立て直し、他の男たちとともに再度斬りかかってきた。その動きは明らかに訓練を受けた者のそれで、簡単にここを通すつもりはないらしい。
「……邪魔だ!」
 次々と押し寄せる男たちの剣閃を全てぎりぎりでかわし、容赦なく斬り伏せる。この男たちの目的は、間違いなく俺たちの足止めだ。悠長なことをしていては先に宮城へと向かった二人が危ない。
 そう思うのに、どこに隠れていたのかまた新たな刺客が現れ、苛立ちと焦りばかりが増していく。歯噛みしたい気分でいると、視界の端に身を潜めてこの騒動をやり過ごそうとしていた露店の店主の姿が映った。その傍らには、荷を運ぶための馬がいる。
「小隊長! 申し訳ありませんがここは任せます!」
「おい! 任せるっておまえどうやってここを――!」
「すみません、借ります!」
 近くにいた数人をまとめて薙ぎ払い、腰を抜かす店主に駆け寄る。その手から手綱を奪うと、馬に跨りその腹を蹴った。
 軍馬ではないがなかなか賢いらしいその馬は、邪魔な賊たちの頭を軽く飛び越え、一気に市場を駆け抜けてくれる。
 激しい雨で視界が狭められる中、一心に宮城裏手の門へと向かった。
 ――間に合ってくれ。
 俺の他に宮城へと向かう白騎士団員の姿はない。同じように賊に襲われ足止めを食らっているのだろう。
 同時に彼女たちの元にも多くの刺客が送りこまれているに違いない。彼女の実力ならばそう簡単にやられることはないだろうが、カノン様を守りながらでは限界がある。
 速く、速く。じりじりと背を灼くような焦燥感に追われながら馬を走らせていると、突如前方から激しい熱風が押し寄せた。怯んだ馬が暴れる。手綱を繰って何とか落ち着かせると、風の起こった方角を見遣った。
「今のは……」
 火傷しそうなほどの熱を孕んだその風には、明らかな魔術の波動が含まれていた。彼女が、魔術を使ったに違いない。しかも、これほど離れた場所にまで影響を及ぼすほど強力なものを。
「セラ!」
 再び馬を走らせ、彼女の元へと急ぐ。魔術が使えなくても、知識ならばある。
 炎と風。合成魔術。導き出される答えは、最悪な事態ばかりを想起させた。
 炎の嵐に焼かれた賊と思しき輩たちが幾人も倒れているのが見え始める。そして、裏門の少し手前には、力なく地面に伏している緋い髪の人物とそれを見下ろす大柄の男。男の手が、持っていた剣を勢いよく振り上げた。
 最後の力を振り絞ってくれと、馬の腹を思い切り蹴る。加速した馬は男との距離を一気に詰めた。鐙から片足を外し、飛び降りる。その勢いを借りて男の右肩に体重を乗せた剣を振り下ろした。
「ぐっ!?」
「……騎士団長ともあろう方が、何故このような愚かしいことを……」
 振りかざしていた剣を取り落とし、深く斬りつけられた肩を男は左の手で押さえる。それでもその男――赤騎士団長ヒューイ・オーリスは膝をつくこともなく、こちらを睨みつけてきた。その瞳には、底知れぬ憎悪が宿っている。
 だが憎々しげな視線よりも、その傷ついた肩越しに見えた彼女の姿に息を呑んだ。
 身動ぎ一つしない彼女の体は、紅く染め上げられた水溜りの中。いや、そもそもそれは水溜りなどではないのかもしれない。それほど夥しい量の深紅が拡がっている。
「この生意気な小娘がそんなに大切か? ジェラルドの息子」
 嘲笑とともに、男の靴先が彼女の傷口あたりを踏みつけた。
 理性が飛ぶ。生まれた衝動のままに太い首元へと刃を閃かせた。
「やめなさい、レオン!」
 鋭い一喝に、我に返る。首の皮一枚を斬ったところで剣を止め、俺は声の方へと顔を向けた。
「メレディス……様……」
 裏門のすぐ傍には大勢の弓兵を従えた青騎士団長の姿。気づけば城壁の狭間(さま)からも多くの弓が赤騎士団長を狙っていた。
「剣を引きなさい。ヒューイ殿にはまだ訊かねばならないことが山ほどあるのだよ」
 メレディス様の言葉と同時に、数人の青騎士団員たちがヒューイ様を拘束するためにやってくる。
 剣を引く以外の選択肢などあるはずもなく、怒りを振り切るように剣を鞘に収めた。満足するようにメレディス様は頷かれ、青騎士団員たちにヒューイ様を連行させる。
 その様子を見送る間もなく、倒れている彼女の傍らに駆け寄った。
「セラ」
 傷に障らないように、そっと抱き起こす。降りしきる雨と失血の所為で彼女の体は冷え切っていた。顔からは血の気が失せ、唇は紫に変色している。呼吸は浅く、今にも止まってしまいそうだった。
「セラ、……セラ!」
 何度呼んでも何の反応も示さない。指一本、睫毛一つすら動かない。
 ――このまま二度と彼女の目が覚めなければ……。
「レオン!」
 頭をよぎった最悪の考えは、悲痛な呼びかけの声に消し飛ばされる。青騎士団員に保護されていたカノン様がこちらに向かってきていた。その姿は多少服が汚れ、足を引き摺ってはいるものの、目立った傷はない。
 当然だ。彼女が、守ったのだから。それが、彼女自身の騎士としての誇りなのだから。
 それでも、どうしてカノン様は無事で、彼女だけがこんなにも無残な姿になっているのかと詰りたくなってしまう。
「ごめんなさい! 私の所為で……セラが、こんな……!」
「……っ……カノン様の所為では……」
 泣き崩れるカノン様に何とか不条理な怒りを向けないように押し留めた。カノン様を責めることなど、きっと彼女は望まない。何より、そんなことをしている暇があれば、一刻も早く彼女に適切な治療を施さねばならなかった。
「早く医者に――」
 彼女を医務室へ運ぶために抱え上げようとした瞬間、待ちたまえと聞き覚えがある声が制止した。彼女を挟んで向かい側に跪いたのはこの場に似つかわしくないほどきらきらしい、婚約者の兄。
「僕が医務室に運ぼう。君は白騎士団長に報告を――」
 彼女を引き受けようと伸ばされた手を、乱暴に振り払う。
「なっ……!」
「彼女は私の後輩であり大切な女性です。他の人間には任せられません。団長へは後ほど報告しますのでお気遣いなく」
 驚きに瞠目するレイフォード様を真っ向から見据え、すぐさま彼女を抱き上げた。
 どういう意図があって、レイフォード様が彼女の身を請け負おうとしたのかはわからない。けれど、今の俺には彼の意図を探るような余裕はないのだ。例え目の前の相手が妹を溺愛している婚約者の兄であろうと、すぐ近くにその父親がいようと、どうだっていい。一秒でも早く、彼女を医者に見せなければならなかった。
「レオン、待って! 私も行く!」
「カノン様は足の治療が――」
「捻挫くらいで死なないわよ!」
 彼女の負傷に責任を感じているのだろう。カノン様は怪我を案じる青騎士団員を一喝して振り切る。けれど、青騎士団員の方も素直に引くわけにはいかないようだった。
「それにあの傷ではもう……」
「馬鹿なこと言わないで! 私はセラが目を覚ますまで傍を離れないんだから!」
 カノン様は意地でもついていくと意思表示するかのように彼女の脱力した手を強く握った。正直、早く医務室に向かいたいから邪魔をしないでほしいと思ったその瞬間――。
「な、何っ!?」
 突如閃光が生まれた。予期せぬ出来事に、すかさず庇うように彼女を抱き締める。
 光は、ほんの刹那で消え失せた。代わりに、それまで激しく地面を叩きつけていた雨滴の勢いが緩み、雲の切れ間から陽が差し込む。陽光に彩られたいくつもの雫が、慈しむかのように彼女に降り注いでいた。
「今のは……一体……」
「レオン! セラが……!」
 カノン様の声に促されて腕の中の彼女に目を落とす。相変わらず血の気は薄いが、微かに開いた瞼の隙間から、ヘイゼルの瞳が覗いていた。心なしか、冷え切っていた体に微かな熱が灯っているようにも思える。
「セラ!」
 呼びかけると、微かに唇が動くが音にはならない。薄く開いていた瞼も、すぐに閉じてしまった。思い出したように医務室へと駆け出す。後から足を引き摺りながらカノン様がついてくるけれど、申し訳ないが気にかけてなどいられなかった。できるだけ彼女の体に響かないように気遣いながらも、回廊を抜けて医務室へと飛び込む。
「失礼します! 先生、彼女を――!」
「医務室で大声を出すな。そんなに焦らなくとも……」
 奥から億劫そうに出てきた中年の医師・クレールが、腕の中の彼女を見た途端に厳しい顔つきへと変わった。
「随分と衰弱している。何があった?」
「詳しいことはわかりません。ですが、恐らく負傷した状態で合成魔術を使ったのではないかと……」
 ベッドに彼女を下ろしながら、自分の推察を告げる。後で追いついてくるカノン様から話を聴けば、もう少し何かわかるだろう。
 横たえられた彼女の姿を改めて見つめ、眉をしかめる。
 爽やかな若草色だったワンピースはあちらこちらが斬り裂かれ、赤黒く変色していた。中でも左肩と腹部はひどく、傷の深さを物語っている。
 だが、彼女の傷口を確認しようとしたクレール先生は低く唸るように驚きの声を上げ、その手を止めてしまった。
「先生? 早く彼女の傷を……」
「傷は塞がっているぞ? 誰か治癒魔術でも使ったのか?」
「え?」
「完全に、ではないがな」
「いえ、あの場には誰も魔術が使える者など……」
「レオン、セラの容体は?」
 ようやく追いついたカノン様の声で、一気に思考が繋がる。
 あの時、閃光はカノン様が彼女に触れるとともに訪れた。そして、その直後にわずかとはいえ彼女は目を開けたのだ。意識が戻ったわけではないけれど、その前の状態からは考えられないほどの奇跡的な反応だった。
 つまり、あの光はカノン様の御使いとしての力? それによって重傷だったはずの彼女の傷が塞がったのか?
「……なるほど。御使い様のお力か」
 カノン様に応えず黙り込んだままになっていた俺に、クレール先生は何か察したのだろう。一人で納得する医師に、カノン様は不思議そうに首を傾げた。
「しかし、出血が多すぎて危険な状態には変わりない。リュンヌ、魔術院まで出向いてルイスを呼んできてくれ」
「はい!」
 クレール先生の声かけに応じて、補佐として働いている彼の娘が奥から姿を現し、小走りに医務室を出ていく。その間も彼女の容体が気になって目を離せないでいると、肩を軽く叩かれた。
「心配せんでもこのお嬢さんは意地でも助ける。終わったら娘に呼びに行かせるから、まずは自分の仕事を済ませろ。ああ、御使い様はこのまま残って足の治療だ。こっちも治療が終わったら使いを向かわせる」
「……わかりました。よろしくお願いします」
 少々鬱陶しげに手を振られ、この場は大人しく引き下がるしかない。そもそも、今自分が傍にいても、何の役にも立たないのは明白だった。それどころか治療の邪魔にすらなりかねない。
「カノン様、申し訳ありませんが報告などもございますので」
「わかってるわ。気にしないで」
「ありがとうございます。失礼いたします」
 カノン様にも頭を下げ、医務室を後にする。
 彼女の容体は気がかりだが、クレール先生は助けると断言された。今はそれを信じるしかない。
 だが、報告のために騎士団長執務室へと向かいながら、徐々に行き場のない怒りが蘇り始めた。
 白騎士団長は、ヒューイ様の叛意を知っていたに違いない。知っていてあえてカノン様に城下を見せる計画を立てたのだ。ヒューイ様を、おびき寄せるために。
「失礼します」
 執務室のドアをノックし、返事も待たずに中へと踏み込む。中には騎士団長と補佐が一人いるだけ。ほとんどのものが事件の後処理に追われているのだろう。
 俺の姿を確認すると、騎士団長は残っていた補佐に軽く視線を送る。彼がそれを受けて退室していくのを見届けると、神妙な顔で口を開いた。
「レオン、セラは」
「意識は戻ってはいませんが、傷は塞がったそうです」
「傷が塞がった?」
「恐らく、カノン様のお力かと。クレール先生も絶対に助けると言ってくださいました」
「そうか……」
 報告を聴いて、騎士団長は安堵するように深い息をつく。けれど今はそれがひどく空々しく見えた。
「……ヒューイ様のことは、ご存知だったんですね」
「ああ」
「カノン様を、囮にした。そういうことですね」
「……そうだな」
「なら何故、カノン様の護衛をセラ一人だけにしたのですか!」
 せめてもう一人いれば、あそこまで彼女が傷つけられることなどなかったはず。せめて自分も護衛に回してくれていれば……。
「ヒューイ殿は大胆ではあるが用心深くもある。もしもう一人護衛を付けていたら動かなかった可能性が高い。それがレオン、おまえだったならなおさらだ」
 思わず唇を噛み締める。
 騎士団長の――父の言葉は俺の実力を認めてくれていることの裏付けだった。ずっと、目標だった父からの、認められたいと思っていた人からの。
 なのに、その事実が今はただただ忌々しい。力を得たが故に、本当に守りたい人を守れないだなんて本末転倒ではないか。
「ヒューイ殿は女性騎士を侮る傾向がある。そしてセラの魔術の才は公にはされていなかった。だからこそ、セラを護衛に選んだ。現にあの子は、カノン様を守り切ってみせた」
「その代償でセラが命を落としても構わなかったと?」
「そうでは――」
「俺が間に合わなければそうなっていた! 違いますか!?」
 強く遮った俺の言葉に、父が言葉を飲み込む。だが、すぐさま宥めるように、けれど厳しさを持った声音で呼びかけられた。
「レオン、おまえの怒りはわかる。だが、それでもなさねばならぬのが長の務めだ。それに、セラ自身も騎士となった時点で覚悟があったはず。あの子の矜持を軽んじるな」
「……それは、わかっています……」
 言われるまでもなく、どれほど彼女が騎士としての自分に誇りを持っていたのかなんて知っている。彼女の性格ならば、どんな窮地に陥ったとしても諦めたりはしないだろう。
「とにかく、セラが無事でよかった。おまえも他の者が足止めを食らって動けない中、よくあの場を切り抜けセラを守ってくれた」
 守った? あれが守ったなどと言えるのか?
 俺はただ、ぎりぎりに駆けつけてヒューイ様を止めただけだ。
 何もしていない。何も、間に合ってなんかない。
 自分の無力さを、ただ痛感させられただけ。
「……報告は以上です。戻ります」
 これ以上この場にいて父に恨み言ばかりぶつけてしまうのも嫌で、早々に執務室を後にする。そのまま小隊長の部屋に向かう為に階段をおりているところで、クラウスに出くわした。どうやら俺を待っていたようだ。
「レオン、報告は終わったのか?」
「……今終えたところだ」
「小隊長たちは手分けして赤騎士団員一人一人に尋問をしている。俺たちは城下の被害確認その他諸々の後処理だ。私服警備をしていた者は一旦部屋に戻って着替えを済ませて厩舎前に集合だとさ」
「ああ」
 裏門前で起こった出来事を既に知っているらしく、クラウスは気遣わしげな表情を見せる。だが、そのことに触れようとはしないのが救いだった。
 やるべき仕事は山積みだ。それに没頭していれば、どうしようもない怒りにまた駆られてしまうこともないだろう。
 寄宿舎に入る一歩手前で騎士団棟の医務室の方へと振り返る。
 胸元を探り母の形見のクワドラートを握り締めながら、彼女の無事を切に願った。