風にゆれる かなしの花

第二幕 きみに捧ぐ かなしの花 02

 寄宿舎の陰で隠れるようにして会っていた彼女とアルヴィンを目撃して以来、どうしようもなく二人の動向が気になるようになってしまった。
 けれど、予想に反して彼女もアルヴィンも二人で行動するようなことは全くなかった。
 そもそも彼女の指導係は俺だし、アルヴィンはアルヴィンで違う新人の指導係を任されている。割り振られている班も小隊も違うので当然のことだった。
 だからといって、俺と彼女の関係に何か良い影響があるわけではない。相変わらず彼女は俺に対して淡々と接するし、いつもどこか壁があった。
 きっとこれからもこんな風に一線を引かれたままこの恋は終わるのだろう。
 そんな風に思いながら日々を過ごしていたのに、突然の転機が訪れた。

 城下の見回りを終えて宮城に戻り、小隊長へ報告書を提出する。少しの休憩を挟んで次は修練場で新人たちに指導を行うことになっていたのだが、その休憩時間にいつになく不機嫌そうな彼女に声をかけられた。人目のないところで話をしたいと言われ、少し考えて厩舎の裏手へと回る。
 ここなら大丈夫かと確認をとると、肯定よりも先に大きな溜息が返された。
「いい加減、馬鹿にするのはやめていただけませんか?」
 心底うんざりしている。声も表情も放つ雰囲気も、何もかもを総動員してそう主張していた。
 けれど全く腑に落ちない。俺は好意とは別問題で彼女の能力を高く評価している。見習うべきことも多いと思いこそすれ、侮るような態度は一度も示したことはなかった。
「どういう意味だ? 私は君を馬鹿にした覚えなどないが」
「いくら新人とはいえ、士官学校を首席で卒業した程度に剣術の嗜みはあるつもりです。それなのにあの状況で私を庇うなんて、馬鹿にしているのでなければ何なんですか」
 そこでようやく、彼女の言葉が何を差しているのか理解した。
 先ほどの巡回でちょっとした戦闘があり、その際に俺は彼女を庇って負傷していた。もちろん、騒ぎ立てるような大きな怪我ではない。
 恐らく俺が庇わなくても彼女も同程度の負傷しかしなかっただろう。彼女の言う通り、俺がわざわざ庇うほどの場面ではなかったのだ。
 だが、頭ではわかっていても、体が勝手に動いていた。彼女の体に傷をつけさせたくないと、理性より先に本能が動いたのだ。
 それが、彼女の矜持を傷つけたのだろう。
 誤解だと言いたかった。しかし、本当のことなど話せるはずがない。何とか上手い言い訳をしたいのだが、妙案は浮かばず意味のない言葉だけが零れる。
「レオン様から見れば、私の剣術など児戯に等しいということですか?」
 絶対零度の声音に、慌てて否定の声を上げた。
「違う! そんなことは思っていない! 君の剣術の腕前はその辺の男よりもよほど上だとわかっている!」
「ならどうし――」
「すまない!」
 彼女がさらに問いを重ねようとするのを遮って、勢いよく頭を下げた。
 馬鹿になどしていない。自分はいつも彼女が剣を振るう姿に見惚れていたのだから。
 ただ、それを素直に伝えるのはさすがに恥ずかしすぎる。けれど、このまま彼女に誤解されたままでいるのは耐えられない。
 それならばと、今持てる最大限の覚悟と思考力を以て口を開いた。
「その……、女性の扱いがよくわからないんだ」
「は?」
「だから……、その、身内や親しい親類に同年代の女性はいないし、士官学校だって女性がほとんどいないことは君も知っているだろう。だから、どう接すればいいのかわからなくて、だな……」
 嘘はついていない。実際に女性は苦手だし、興味のない相手を冷たくあしらうことはできても、気になる人にどうすれば好感を与えられるかなどさっぱり見当もつかなかった。だからこそ、こんな風に彼女に不快な思いをさせてしまったのだろう。
 たかが一歳の差とはいえ、年上の癖に情けない。きっと呆れられているだろうと思いつつもそっと顔を上げて窺う。
 けれど、予想に反して彼女は驚きに満ちた表情をしていた。しかも、それまで常に向けられていたはずの冷ややかさが今は感じられない。
「別に女扱いしていただく必要はないんですけど。他の新人騎士と同じようにしてくだされば」
 どこか戸惑いを含ませて、けれど気を取り直したように淡々と返される。常とは変わらぬ口調であるはずなのに、棘も壁もない素直な言葉のように思えた。
 それだけで、抱えていた気持ちが一変する。
「他と同じなんてできるわけがないだろう。他の奴らは君みたいに華奢でもないし、綺麗でもない」
「きっ……な、何を仰っているんですか!」
 彼女の態度の些細な変化だけで浮かれてしまった俺は、深く考えずに思っていたことを口にしてしまっていた。途端に強い批難が投げつけられ、失敗したと気づいて新たな言い訳をしようとする。
 彼女は耳まで真っ赤にしていた。が、その顔は怒りとは別のものに彩られていた。
 驚き、恥じらい、戸惑い。続く言葉もなく、完全に動揺しているのがわかる。こんな風に取り乱す彼女を見るのは初めてだった。
 思わず緩みそうになった口元を慌てて手の平で隠す。素に近い彼女を見せてもらえたのだ。嬉しくないはずがない。
 けれど、何がそこまで彼女を動揺させてしまったのだろうかと考えて、自分の発言がとんでもないものだったことに思い至った。
 綺麗だなどと、面と向かって言ってしまった。事実を言ったまでなのだが、ただの先輩としか思っていない相手からそんな言葉を言われるなんて彼女は考えもしなかったのだろう。だからこれほど動揺したのだ。
 いや、それだけならまだいい。女性に対して綺麗と評するということは、好意の表れでしかない。もしかして、彼女への想いまで悟られてしまったのでは――。
 思考の着地点が定まった瞬間、俺はまくしたてるように口を開いていた。
「と、とにかく、俺は君の能力に疑問を持っているわけではない。他の新人と同じように扱えと言うならばそうできるように努力はする。だが、もう少し慣れるまで時間をくれ」
「え、あの! レオン様!」
 とにかくこの場から逃げ出したくて踵を返すと、慌てたように呼び止められ、反射的に足を止めた。彼女の呼びかけに、沸騰していた頭が一気に冷やされる。
 ――レオン『様』、か。
 言葉から冷淡さは消えたけれど、俺と彼女の間にはまだ強固な壁が残っていた。
 彼女はアルヴィンのことを『アル』と愛称で呼ぶ。人前で話すときは『アルヴィンさん』と呼んではいるが、それでも『さん』付けだ。
 アルヴィンも俺も、彼女にとっては同じ先輩のはずなのに。
 その場で半身(はんみ)だけ振り返り、何とか笑みを浮かべて口を開いた。
「……それと、その様づけはやめてくれないか。俺もまだ騎士としては二年目で、君と変わらない若輩者だ」
 俺自身、彼女に対して気取り過ぎていた自覚もあった。騎士らしく、先輩らしく見られようと必死だったから。それがなおさら彼女に格下に見られていると思わせていたのかもしれないと気づき、少し言葉を崩して望みを口にする。
 本音を言えば呼び捨てにしてほしい。だがそれは高望みでしかないと知っている。だからせめて――。
「わかりました、レオンさん」
 しばしの沈黙の後に、俺の望んだ答えを彼女がもたらしてくれた。途端に顔が綻ぶのを抑えられない。些細なことでしかないとわかっているのだが、嬉しいものは嬉しいのだ。
 自分でも馬鹿みたいだと思う。彼女はおそらく、先輩からの頼みを断れなかっただけのことなのに。
 このまま彼女の前にいると、また失態を犯してしまいそうなほど浮かれていた。話はもう一区切りついていることだし、もう一度前を向き直ると足を進める。彼女ももう俺を呼び止めたりはしなかった。
 気を抜くとにやけてしまいそうな顔を引き締めながら、彼女と先ほどまでに交わした会話を反芻する。
 騎士として扱ってほしいと、彼女は言った。
 当然だろう。彼女は騎士になるために自分を磨き続けてきた人だ。
 女性の身で首席になれるほどの実力を持っているのは、天賦の才だけで説明できるものでもないだろう。当然、女性だからと不当な評価をする輩だっていたはずだ。侮られることなど当たり前で、だからこそ俺の行動もそう捉えられてしまったのだ。
 女性は弱い。守るべきだ。確かにそんな考えが微塵もなかったと言えば嘘になる。父にも幼い頃から女性には優しくあるようにと教えられた。だが、優しくあることと相手の気持ちを顧みずに無条件で守ることは違うのだ。
 彼女はか弱く守られるだけの貴族のご令嬢とは違う。俺と同じ場所に立ち、守る側の人間。同じ目線で話すことのできる稀有な人なのだから。
 そうと気づけば、今までよりもずっと彼女に接しやすいのではないかと思い始めた。 職務中は騎士として扱えばいい。彼女は並の男よりもずっと強いのだから。そうしていずれは、互いの背中を預け合えるような関係になれれば……。
「よう、レオン。随分機嫌が良さそうだな」
 唐突にかけられた声に、上々だった気分が一気に醒めた。明らかに面白がっている様子のその人物に苛立ちが生まれる。
 もちろん、その相手が気に入らないのは、揶揄うような態度だけが原因ではないということもわかっていたが。
「別に、いつもと変わりはない。何か用か?」
「いんやぁ? ただ、こそこそセラと逢引きしてるっぽかったから、やーらしいなぁと思ってさー」
 いつものようにアルヴィンが口の端を上げる。ふざけた態度に腹は立ったが、それより聞き捨てならない発言に顔が紅潮するのを止められなかった。
「あ、逢引きなどと誤解を招きかねないことを口にするな! ただ、彼女から話があると言われただけで……!」
「話、ねぇ? アイツに文句でも言われたぁ?」
 問いかけの形は取っていたけれど、アルヴィンからは明らかな確信が見てとれた。
 彼女とアルヴィンの仲を考えれば、俺に感じていた不満を洩らしていたとしてもおかしくはない。先日二人で隠れて会っていた時も、そんな話をしていたのかもしれなかった。
 その事実がまた面白くない。
「その顔は図星だな。まあ、アイツは可愛げないし気も強いけど、剣と魔術の腕だけは確かだからさ。あんまり甘やかさないでやってくれよ」
「魔術?」
「うん? あ、そっか。まぁいいや。アイツ、二属性持ちなんだよ。しかも火と風の」
 軽い口調で語られた事実に、驚きを隠せなかった。俺はかつて魔術の素養がほとんどないと判断され、下級の精霊と契約することもできなかった身だ。ベルティリアにはもともと素養のある人物は少ないが、彼女はその中でもさらに稀な逸材なのだろう。
 だが同時に、二属性持ちはその能力の高さゆえに忌避されることもある。恐らく、彼女の場合も公にはされていないだろう。そんな大切なことを、俺などに簡単に話してしまうアルヴィンの軽率さが許せなかった。
「アルヴィン、それは軽々しく口にしていい類の話ではないだろう。しかも本人のいないところで」
「ん? でもレオンはわざわざ誰かに言いふらしたりとかしねぇだろ?」
「それは……当たり前だ。だが」
「だったら問題ねぇじゃん。俺だって、ちゃんと相手見て言ってるっつーの」
 いつもの人を食ったようなものではない、穏やかさを含んだ笑みに、意外なものを見た気分になった。そういえば、彼女の配属前にわざわざ声をかけてきたこともあったくらいだ。案外俺はアルヴィンから信頼されているのかもしれない。
「てか、セラのことでそんだけ怒るってことは、やっぱりだな」
 見直しかけたアルヴィンが、また左側の口角だけ引き上げてニヤリと笑う。本当に癇に障る表情だ。そして、絶対にろくなことを言わないときの表情だ。
「やっぱり? 何の話だ?」
「セラに惚れてんだろ?」
「なっ……!」
「隠すな隠すなー。いいじゃねぇか。おまえらお似合いだぜ?」
 絶句する俺の肩を、励ますようにアルヴィンが叩く。反論も否定もすることができず、しばらくなされるがままだった。
 ようやく我に返ると、俺はアルヴィンの手を強引に振り払う。
 それでも、何か言葉を返すことはできず、その場をただ足早に去るのが精一杯だった。


 彼女から不満を聴いて以来、俺は今までの態度を少しずつだが改めていった。それに比例するように、彼女の態度も軟化していくのがわかる。表面的には相変わらず淡々としているのだが、以前に比べて格段に柔らかかった。城下に見回りに出た際に二人きりになった時には、今までの態度を改めて謝罪してくれた。
 それだけではない。彼女自身の口から彼女の話を聴かせてくれたのだ。
 士官学校時代のことやアルヴィンとのこと。後者は正直アルヴィンへの嫉妬をより一層強くするものではあったけれど、アルヴィンとは幼なじみ同士なのだと知って少しだけ安堵した。もしかすると恋人や婚約者なのではと思っていたからだ。
 それでも二人が親しいことに変わりはないが、少しずつ歩み寄ろうとしてくれている彼女にどうしても期待してしまう。
 その期待をますます強いものにしてしまう原因がもう一つあった。
 月明かりだけが差し込む部屋で、俺はベッドに横になったまま服の下に隠されていたクワドラートのチェーンを手繰る。
 ほのかな月光に反射する翡翠の嵌まったクワドラートは俺が肌身離さずつけているものだ。だが、そのチェーンだけは俺の持ち物ではない。たまたま切れてしまったものの代わりに、わざわざ彼女が自分のつけていたものを外して貸してくれたのだ。
 大事なものなのだから、失くしてはいけないと。
 幼い頃に他界した母の形見。両親が結婚する前に揃いで作らせたもので、母が亡くなった後に父からいずれ大切な人に渡せと譲られた。
 彼女からすれば、ただの親切心でしかないとわかっている。けれどそんな風に俺を気遣ってくれることなど以前では考えられなかった。舞い上がるなと言うほうが無理な話だ。
 強引に渡されたときに握られた手の感触を思い出しては、一人で顔を赤くしてしまう。
 剣だこのできた手は、女性らしいとは到底言えない。けれど、それでも男のものとは違う柔らかさがあった。指も思っていたよりずっと細い。彼女にはどんな指輪が似合うだろうかなどと考えて、慌てて自分の考えを打ち消した。
「……セラ」
 零れ落ちたのは、まだ一度も面と向かって呼んだことのない名前。別に名を呼ぶことは不自然ではないし、躊躇う必要などどこにもない。
 本当は呼びたいのだ。アルヴィンのように気安く。
 けれど、呼べない。たかが名前を呼ぶだけなのに、その二文字に愛おしさが滲んでしまいそうだった。そうなれば、彼女は俺の想いに気づいてしまうだろう。そして、せっかく近づいた距離がまた離れてしまうかもしれない。
 だから、あともう少し。今はまだ、少しでも彼女に想いを気づかれないようにしながら、彼女の信頼を得なければいけないのだった。



 少しずつ少しずつ、か細い糸を手繰り寄せるかのように、俺と彼女の距離は近づいていた。当初彼女への想いを諦めるべきなのだと思っていたのが嘘のように、一緒に過ごせる時間は穏やかで心地いい。
 彼女は配属当初に比べて態度も表情も格段に柔らかくなった。よく笑ってくれるし、ときには軽口のようなものまで叩くこともある。同じ小隊の者から、今日も仲がいいなとからかい交じりの言葉を受けることすらあった。
 そういった言葉を投げかけられるたびに、恥ずかしさと嬉しさが混じり合い、表情が崩れそうになるのを全力で堪える。
 彼女もそういう揶揄には慣れていないのか、頬を薄紅に染めつつも困ったように笑っていた。
 そんな可愛らしい表情を見せられると、どうしようもなく気分が高揚する。
 だが、同時にまったく喜ばしくない事態にも陥っていた。
 当然と言えば当然すぎることなのだが、彼女のその魅力的な笑顔を目にしていたのは俺だけではなかったのだ。そうして今まで陰で可愛げがないなどと言っていた者たちが、手の平を返したように彼女のことを褒め始める。
「そういえば、最近綺麗になったよな、あの子」
「ああ、セラ・アステートか?」
「そうそう。雰囲気も丸くなったっていうかさ。笑うと意外に可愛いし」
「わかる!」
 そう、こんな会話が寄宿舎の食堂で耳に届いたりもするのだ。
 最近じゃなく元々彼女は綺麗だし、可愛いのも意外でも何でもない、などと心の中で反論しながら、素知らぬふりで食事を口に運ぶ。正面に座るクラウスから視線を感じるがあえて無視をした。
 が、すぐに喉を鳴らすような忍び笑いが聴こえてくる。見ると、テーブルの上に置いた腕に顔を伏せるようにして小刻みに肩を震わせながら笑いを必死に堪えるクラウスの姿があった。
「何がおかしい」
「本当にレオンってわかりやすいよな」
「何の話だ」
 憮然として返すと、クラウスはますます笑みを深くする。
「だってセラちゃんの話題が出た途端に、あいつらを目線だけで殺しそうな顔してるとか可愛すぎるだろう」
「か、可愛いとか言うな! 気持ち悪い!」
 怒鳴りつけた声は、思っていたよりもずっと迫力がなかった。完全に隠しおおせていたつもりだったのに、笑われるほどあからさまだったのかと羞恥心が溢れ返る。
「まあまあ。でも、最初に比べて随分仲良くなったよな。これは婚約破棄する日も近いんじゃないか?」
 『婚約破棄』の一言に、ぴたりと食事の手が止まる。常に頭の片隅にあった婚約のことを改めて突きつけられ、やるせなさがこみ上げた。
 未だに俺とフィーナ嬢との婚約関係は継続している。父に申し出てはいないからだ。
 何故なら、俺には自信がない。クラウスが言うように以前よりもずっと距離が縮んでいるというのに、それでも彼女に俺の気持ちを受け入れてもらえる気がしないのだ。
 アルヴィンと話していた時の表情と、自分と話しているときの表情を、頭の中でいつも比べてしまっている。幼なじみという長年の積み重ねはそう簡単に覆りはしないと理屈ではわかっていても、どうしてもアルヴィンよりも信頼を得たいと思ってしまう。要は、彼女にとっての一番は俺なのだと確証を得てからでないと、婚約破棄どころか彼女に想いを告げることすら恐ろしいのだ。
「なあ、レオン」
「何だ?」
「おまえとの付き合いも長いから、おおよそ考えていることはわかるんだが、もう少し自信を持ってもいいと思うぞ?」
「自信、と言われてもな……」
 クラウスが俺の気持ちを理解したうえで応援してくれているのは嫌というほどわかる。けれど、何を根拠にと言わずにはいられなかった。
「大体おまえ、自分が良家のご令嬢方からどんな風に見られているのかわかってるのか」
「見た目がどうこういう話なら前にも聞いたぞ。それに、彼女はそんな上辺だけのものにつられるような軽い女性じゃない」
 今までにも散々いろんな人から外見に関して言われてきたのだ。自分ではもう少し精悍で男らしい顔つきであればよかったと思うが、異性からの受けはいいらしい。
 彼女がクラウスの言う『良家のご令嬢方』と同じ部類の女性だったなら、こんなに悩みはしなかっただろう。いや、そもそもそんな女性でないから、ここまで惹かれてやまないのだが。
「そりゃあ、まあ、そうなんだが……」
 納得しきれない様子のクラウスに、それにと言葉を繋ぐ。自信がない以上に、俺があと一歩を踏み出せない理由がもう一つあった。
「俺と同じように、彼女に婚約者がいたとしてもおかしくはないだろう」
「……そうか、その可能性もあるのか」
 彼女の素性は相変わらずわからないけれど、身分は決して低くはないはずだ。
 それは近しく接するようになってますます実感することとなっていた。
 例えば、食事のときに食べ物を口へと運ぶ所作。例えば、休憩の際にお茶を準備してくれるなどの心遣いとその手際。ところどころで自然に見せられる育ちと品の良さは、しっかりと身につけられた淑女としての礼儀作法からくるものだろう。となると、彼女にもそういう相手がいるからだと考える方が自然だった。
「訊かないのか?」
「訊けるわけないだろう。そんな個人的なことを」
「そりゃそうだな。……なら、アルヴィンは?」
「アルヴィン?」
 その名前に反射的に顔を顰めると、クラウスは苦笑を洩らしながらそんな顔するなよと窘める。
「アイツはそんなに悪い奴じゃないって。それに、セラちゃんの幼なじみなら、婚約者がいるかどうかくらい知ってるんじゃないか?」
「は? セラの婚約者?」
 突如頭上から降ってきた声に、ぎくりと体が強張った。場所を変えて話していればよかったと思うがもう遅い。どうせまたニヤニヤと嫌な笑みを浮かべているのだろうと思いながら窺うと、予想とは違ったひどく驚いたような表情のアルヴィンがいた。
「立ち聞きとは趣味が悪いぞ、アルヴィン」
 どう対処すればいいのかわからずにいた俺の代わりに、クラウスがアルヴィンに話しかける。アルヴィンはすぐにいつものようなヘラヘラと締まりのない表情に戻っていた。
「そんなら食堂なんかで話すなよぉ。俺の名前が聴こえた気がしたから、気になってこっち来たんだからな」
「それは悪かったな」
「で、レオンはセラの婚約者のことが気になってるってことか」
 あんなにもはっきりと聴かれてしまっては誤魔化すことも難しいが、素直に肯定することもできない。どう答えたものかと思案していると先にアルヴィンが口を開いた。
「そんなに気にしなくてもいいだろ。どうせ親が決めた婚約者なんだし」

 ――親が決めた婚約者?

「なら、彼女にはやはり婚約者がいるのか?」
「まあ一応な」
 軽い口調で返すアルヴィンに、絶望的な気分に陥りながらも改めて確認せずにはいられなかった。藁にも縋る思い、というものだろう。
「……どんな、相手なんだ?」
「そうだなぁ。容姿も頭も家柄も剣の腕も、何から何まで揃った奴、だな。もう存在だけで嫌味だろ? それで性格でも悪けりゃ少しはバランスもとれるだろうに、中身も真面目で女遊びとかができるような性格でもないとかさぁ。どんだけ神様は依怙贔屓してんだよってもんだ。非の打ち所がないってのはソイツのことを言うんだろうよ」
「そう……か……」
 アルヴィンの口から語られるその男は、残念ながらつけいる隙など一欠片もない、彼女には申し分のない相手だった。
 もし、唯一俺が敵うところがあるとしたら、それはきっと彼女に対する想いだけだ。俺と同じように親同士が決めた婚約ならば、彼女に対して好意を抱いているかどうかはわからないのだから。
 いや、それもどうだろう。そんなにできた人物ならば、彼女の内面から溢れる美しさにも気づくかもしれない。ならば――。
「てか、レオンこそ婚約者いるんだろ? メレディス様んところのご令嬢」
 鋭い刃のような言葉に考えを断ち切られ、息を呑む。
「どうして、それを……」
「ちゃんと釣り書きとか肖像画くらい見てやれよ? 最低限の礼儀だと思うぜ?」
 そう言われてようやく俺は気付いた。
 アルヴィンは釘を刺しに来たのだ。自分の大切な幼なじみを婚約者のいる男になど任せられないと。もし本気で彼女を望むならば、それ相応の誠意を見せろということなのだろう。
 じゃあなと踵を返すアルヴィンに、何も返せる言葉がなかった。
 俺は卑怯で臆病で、彼女の隣に相応しくなどないのだとつくづく思い知らされる。
 やはり、大人しく諦めてただの先輩に徹するべきなのだ。そうすれば、気持ちは通じなくとも傍にいることはできる。たとえ向けられる感情が尊敬だけでしかなくても、嫌悪感を持たれるよりはずっといい。
 そうしてただ傍で見守りつづけ、いずれ非の打ち所のない婚約者の隣で幸せそうに微笑む彼女の花嫁姿を――。
「おい、レオン?」
 想像しただけでも吐き気がして、食べかけの食事も心配声のクラウスもそのままに食堂を後にした。
 自室に戻ると明かりも灯さず、崩れ落ちるようにベッドに腰を下ろす。
「セラに、婚約者……」
 以前から何度か考えていたことではあったのに、実際にその事実を突きつけられてしまうと予想以上の衝撃だった。しかも、あのアルヴィンが皮肉混じりながらもあそこまで褒めたのだ。好悪の感情は別として、それだけその婚約者のことを認めているということだろう。そんな相手に俺なんかが張り合えるはずがない。
 それでも、諦めの悪い俺はなけなしの期待を捨てられなかった。彼女が婚約者に特別な感情を抱いていないのではないかと。完璧と称される婚約者であっても、必ずしも愛情を抱けるわけではないのだからと。
 そうして明日もまた、彼女の良き先輩を演じるのだ。打ち解けて始めている彼女に、少しでも気に入られるように。
 そんな悪足掻きをすることでしか、彼女の目に留まることなどできないのだった。

 けれど、悪足掻きは結局、悪足掻き以上にはなりえなかった。
 懸命に手繰り寄せたと思っていた糸は、もともと彼女に繋がってなどいなかったのかもしれない。そう思わずにはいられないほど、唐突に彼女の態度が変化したのだ。
 配属当初のような嫌悪感が滲んだ態度というわけではない。周りから見れば、何も変わっていないと言われるだろう。
 それでも、明らかに違うと俺はわかる。
 少しずつ頼られていると実感し始めたばかりだったのに、新しい任務に就いてからというもの彼女は俺を頼ろうとしなくなった。
 壁がある、とも言えるだろう。少し前なら聴けた軽口も、今では全くと言っていいほどない。
 それだけではない。
 向けられる笑顔に今までにはなかった陰りがちらつく。ふとした瞬間に愁いの混じった表情が浮かぶ。それと同時に、思わず抱き締めたくなるほど危うい色香が漂うのだ。
 何度その衝動を堪えただろう。触れることなど許されはしないのに、彼女の愁いを俺が拭い去ってやりたいと思わずにはいられない。
 けれど、彼女にそんな表情をさせているのは、きっと優秀な婚約者なのだということくらいの察しはついた。彼女と婚約者との間に何かあったのだ。それが俺にとって喜ばしいことなのか、嘆くべきことなのかもわからないが、俺を避けるような素振りがあることから、前者の可能性は低いだろう。
 何があったのか気になって仕方がないが、ただの先輩の俺がそこまで踏み込んだ話を訊けるはずもない。
 欝々とした気持ちを抱えながらもいつも通り彼女に接し、与えられた仕事をそつなくこなすしかなかった。
「ねえ、レオンはセラのことが好きなんでしょう?」
 そんな俺の心の中を見透かしたような問いを寄越したのは、つい先日遺跡調査の際に保護した女性だった。
 その女性――天の御使いであり、今現在の護衛対象であるカノン様は、人の悪い笑みを浮かべている。見た目の儚げな印象とは大違いの、どこか腹黒さを感じる人相だ。
 それはたまたま俺以外の護衛騎士が皆、所用で席を外しているときだった。
「何を突然仰るんですか」
 精一杯の冷静さで返す。自分を隠す術ならそれなりに身についているはずだった。
 しかし、長い付き合いのクラウスはともかく、出逢って間もないカノン様にまで全く通用していなかったらしい。ぷっと小さく噴き出し、肩を震わせていた。
「だって、普段はめちゃくちゃ不愛想なくせに、セラを見るときだけ大切でしょうがないって顔してるもの。あと、他の男の人がセラに親し気に接してるとものすっごく不機嫌。そんなにわかりやすいのに、バレないとでも思ったの?」
 まるで珍しい玩具を見つけた子供のように、カノン様はくすくすと無邪気な笑いを零す。ただし、やや茶化すような色も含ませて。
 当然俺は面白くはないし、素直に話に乗るつもりもなかった。
「職務に私情を挟むつもりはありません。以後気を付けます」
「そういうこと言ってるんじゃなくてね。セラみたいな可愛い子ほっといたら、すぐに変な虫ついちゃうわよ」
 話をさっさと終わらせようとした俺に、カノン様は先ほどまでとは違う窘めるような表情に変わっていた。
「変な虫って……」
「セラの可愛さに気づいてるのが自分だけとか思ってる? あの子自身は多分気づいてないけど、セラに気のある人って結構いるわよ」
「……それくらい、言われなくてもわかっています」
 食堂でも噂されていたくらいだ。他にも口に出さずとも彼女に好意を寄せる男など腐るほどいるだろう。そういった男どもはそれとなく遠ざけてきたが、そんなことをカノン様に教える義理もない。
 ――何より、それ以前に彼女には婚約者がいる。
 ぶり返した痛みを飲み込むと、はぁと呆れたようなわざとらしい溜息が聴こえた。
「セラも満更でもなさそうなんだから、もっと積極的に頑張ればいいのに」
 ぽつりと呟かれたカノン様の言葉に耳を疑う。
 満更でもない? 彼女が?
 あんなにも、距離を置こうとしているのに?
 もしカノン様の言う通りなら、どれほど嬉しいだろう。けれど、数日前ならば信じられただろう言葉も、今は慰めにすらならなかった。
「彼女の気持ちはともかく、どうしてカノン様は私を応援するようなことを仰るんですか?」
「レオンって年下の幼なじみにちょっと似てるのよ。まあ、あの子は貴方みたいなハイスペックじゃないけど。恋愛下手なところがそっくり」
 祖国を懐かしむようなカノン様に、そういえばこの人は身一つで見知らぬ地に召喚されたのだと今更ながらに思い出す。
 もしかしなくても、俺をからかうことで心細さを紛らわせていたのかもしれない。そう思うと、無下に話を終わらせるのも申し訳ない気がしてきた。
「恋愛下手とはあんまりですね」
「どう見てもそうじゃない。もっと女の子の扱いをちゃんと覚えなさいよ」
 まるで母が出来の悪い息子を叱るかのような口調――いや、さすがにそれは年齢的に失礼だ。年の離れた姉が弟を、と言った方が適切だろうか。どちらにしろ、カノン様は彼女にはやたら甘い癖に俺を甘やかす気は毛頭ないらしい。
 そこにわずかな懐かしさを感じ、少しだけ素直な気持ちが顔を出す。
「……以前、彼女に女扱いするなと怒られましたから」
「そうなの?」
「騎士として扱ってほしいと言われました」
「ふぅん。なるほどね。よし、じゃあもう少し対策考えないとね」
 何がカノン様に火を付けたのだろうか。この後妙にやる気を出したカノン様に、俺は根掘り葉掘りと彼女のことを質問された。
 けれど悔しいことに、カノン様にされた質問のほとんどに俺は答えられなかった。
 それなりの期間、俺は彼女と一緒に過ごしてきた。恐らく白騎士団の中ではアルヴィンを除けば最も傍にいる時間が長いはずだ。
 なのに、彼女について知っている情報は恐ろしく少ない。未だに彼女の生家や家族構成についてもわからないし、食べ物や書物の好みすら把握していなかった。唯一わかっているのが、アルヴィンと幼なじみであること、というのが残念過ぎる。
「レオン、せめてもうちょっとセラのこと調べなさいよ。情報収集は女の子落とすためには必須作業よ? 今まではその嫌味なくらい整った顔でいくらでも女の子寄ってきたかもしれないけど、セラは見た目で判断するような頭の軽い子じゃないことくらいわかってるんでしょ?」
 情けないと言わんばかりにカノン様が滔々とお説教を垂れ流した。確かに俺は彼女のことを知らなさ過ぎだが、それにしてもあまりにも酷い言われ様な気がする。
「……カノン様、彼女の前と態度が違いすぎませんか?」
「だって、セラの中の私のイメージを崩したくないんだもの」
 セラにとって素敵なお姉さんでいたいのよね、などとさも当然のように言い放つカノン様は、とても天の御使いなどというやんごとなき立場の方だとは思えない。お陰でと言っていいのか、彼女のよそよそしい態度に沈んだ気分を少しだけ紛らわすことができた。
「まあいいわ。その辺はヘタレで不器用なレオンには荷が重すぎる気もするし、私が何とかしてあげる。感謝しなさい」
 自信満々に請け負うカノン様に一抹どころでない不安を覚えたものの、今はこの方が自分の仕えるべき主。その事実がカノン様の申し出を退けることを許してはくれなかった。