風にゆれる かなしの花

第二幕 きみに捧ぐ かなしの花 01

 その日は一日、柔らかな春の陽射しが降り注ぎ、ともすれば転寝をしたくなるほどの陽気だった。けれど今は、そのうららかな晴天すら煩わしい。
 その原因を思い出して、本日何度目かもわからない溜息が零れる。
「おいおい、レオン。そこまで悲壮な顔するほどのことか?」
 隣を歩くクラウスが呆れたような笑みを返すのに、また溜息が一つ。
「おまえだって俺が女性が苦手なことくらい知っているだろう。まったく、騎士団長は何を考えているのか……」
 そう、俺の溜息の原因は、本日発表された新配属の騎士の指導係の割り振りについてだった。
 俺の所属する白騎士団では、新人騎士の指導は入団二年目の者が行うのが慣例となっている。去年配属され、今年で二年目となる俺たちの役割だ。その制度自体に不満は全くないし、新人に教えることで自分自身の勉強にもなると思っている。
 問題は、俺が担当することになった新人騎士だった。
 セラ・アステート。今期、士官学校を首席で卒業した優等生。そして、士官学校史上初の女性の首席なのだ。
 先程クラウスに愚痴を零したように、俺は女性に対して良い感情を持ったことがない。
 父が騎士団長、母が元皇女ということもあり、社交の場に何度か出たことがある。だが、その度に不愉快な思いしかしなかったからだ。
 アクアス家は伯爵位で家格としては中位にあたるが、母が皇家の血を引くということが大きかったのだろう。今まで出会ってきた貴族のご令嬢方は、揃いも揃って俺に対して媚びを売ってきた。それと同時に見え隠れする、父への蔑み。
 父の家筋は元々最下位の男爵だったが、母が降嫁する少し前に伯爵位を与えられた。それは父が騎士として数々の武勲を上げ、当時最年少と言われる年齢で騎士団長へと任命された褒章からだった。けれど、父をよく思わない多くの貴族連中はそう捉えてはいなかった。
 『皇女を誑かし、その力でより高い地位を得た成り上がり者』
 当たり前のようにそんな言葉が宮城内で囁かれていたらしい。そして、未だにそれを引きずっている貴族達がいるのだ。そういった貴族の娘たちは、親から自然に影響を受けたのか、それともわざわざ教育されたのか、揃って似たような態度で接してきた。口では俺を誉めそやしながら、嘲笑で歪んだその口元を扇で隠していたのだ。
 当然そんなご令嬢方の相手をするのが楽しいはずもなく、いつしか俺は社交の場に出ることを拒むようになった。父の跡を継ぐ立場なのだから慣れなくてはいけないとは理解しはしていても、今の自分に必要だとは思えなかったからだ。
 そういった女性に対する苦手意識があることを知っているはずなのに、いや、だからこそなのか。白騎士団長である父は、今期白騎士団に入団した中で唯一の女性であるセラ・アステートの指導係に俺を任命したのだ。
「アルヴィン辺りに任せたら、喜んで指導するだろうにな」
 他人事のクラウスは、面白がるような口調で同期一、いや白騎士団一、もしかすると全騎士団の中でも一番かもしれないほどの女好きの名を挙げる。聴いた瞬間、それまでとは別の理由で表情が渋くなるのを自覚した。
「それはそれで問題を起こしかねないだろう。彼女の出自は知らないが、士官学校に通えるくらいなら爵位持ちか騎士の家柄だろうし」
 基本的に騎士になるためには士官学校を卒業しなければならない。どんな家柄の者でもだ。だが、士官学校に入学するには相応の金額が必要で、そうなると代々騎士を務めてきた家系や貴族階級のものがほとんどだ。
 そんな家柄の若い女性に、女と見ればすぐに口説くような男を近づけさせるのはよろしくない。父もきっとその辺りは理解しているはずだ。
 もしかすると、俺ならば絶対に間違いなど起こりえないと思ったからかもしれないと考え直した。
「おまえ、相変わらずアルヴィンのこと苦手なんだな」
「あいつは言葉が軽いし、馴れ馴れしいし、信用できない」
 根本的に、アルヴィン・トレーノイトという男とは合わないし、合わせようとも思わない。だからといって職務に差し障りのあるような態度だけは取らないように心掛けているつもりだった。
「それは否定しないが……。しかし、よくよく考えると、本当にまずい事態な気がしてきたぞ」
「どういう意味だ? さっきまではそんな悲壮な顔をするほどのことかなんて言っていたくせに」
 他人事だと気楽な顔で面白がっていたクラウスが、心底同情するような表情に変わっている。訝しく思いながらもちょうど辿り着いた寄宿舎の自室の鍵を開けると、強引に抱え込まれるような形で室内に押し込まれた。
「おい、クラウス」
「レオン、新人指導とはいえ女性と一緒にいるところをレイフォード様に見られたりしたら、嫌味どころじゃすまないかもしれないと思わないか?」
 クラウスが声を潜めてそう耳元で囁く。言われた途端に今まで以上に暗鬱な気持ちに襲われた。
「……やめてくれ。想像もしたくない」
 一日の疲れ以上のものがどっと押し寄せる。
 レイフォード様というのは、青騎士団長メレディス様の嫡男だ。俺よりも四つ年上で、すでにメレディス様の補佐として頭角を現し、次期青騎士団長になるだろうと噂されている優秀な人物である。
 だが、俺はこの人物がかなり苦手だった。
 その原因は、ちょうど一年ほど前のこと。士官学校を無事卒業し、白騎士団へと配属されたその初日、彼はわざわざ俺に会いに来た。
「君がレオン・アクアスか」
「そうですが、私が何か?」
 極上の金糸のような長い髪を緩く後ろでまとめた、子供向けのおとぎ話に出てくる王子のような容姿を持つレイフォード様に突然声をかけられ、戸惑ったことを今でも覚えている。そんな俺に対して、彼はふんと高慢にも見える表情で笑った。
「僕はレイフォード・エスクァーヴ。エスクァーヴ家の嫡男で、将来君の兄になる者だ」
 エスクァーヴの姓でようやく彼が自分の婚約者の兄だということに気づいた。そして、彼が俺のことを気に食わないらしいことにも。
「メレディス様の……」
「今期は君が首席卒業らしいね。まあ、誰よりも美しくて聡明なフィーナの夫になるからには、それくらいの成績を出してもらって当然だけど」
 どこまでも傲岸不遜に告げるレイフォード様に対し、怒りや呆れを覚えるよりも少々呆気に取られてしまった。
 青騎士団長であるメレディス様は、父と同期であり親友同士である。騎士団長となった今でも仲が良く、父の口からメレディス様の名前が出ることは多い。俺自身も幼い頃から何度もお会いしていたし、剣を教えてもらったこともある。厳格な父とは違い、気さくでいつも人の輪の中心にいるような明るい方だ。剣の技術も父とは正反対で、舞うような華麗さがあった。父の次に尊敬している方だと言っていい。
 そんな風に親しい間柄であったせいか、俺はメレディス様の娘でレイフォード様の妹のフィーナ嬢――というらしい――と幼い頃から婚約させられていた。
 『婚約させられていた』などという言い方をすると嫌々受け入れているようだが、勝手に決められていたというだけで他意はない。
 俺は女性が得意ではないし、恋愛にも興味がない。ただ、将来的には家を継がなければならない身で、その為に結婚は必要だと理解はしている。その相手が尊敬するメレディス様のご息女だというのならば、嫌がる理由がなかった。愛情を持てるかどうかわからないが、あの方の娘ならば上手くやっていけるのではないかと思ったからだ。少なくとも俺や父を蔑むような他の貴族の娘よりは絶対にマシだ。
 けれど、フィーナ嬢自身よりも、どうやらこの兄君の方が厄介そうだ。どう考えても、妹に対する想いが強すぎる。
「フィーナに相応しい男かどうか、しっかりと見極めさせてもらうよ」
 最後には周りの女性が見れば黄色い声を上げそうな笑顔を浮かべ、レイフォード様はそう言い残して去っていった。
 そんなレイフォード様に新人の女性騎士と一緒にいるところを見られでもしたら、必要以上の嫌味をつらつらと並べ立てられるのは必至だろう。挙句の果てには婚約を破棄しろとまで言われてしまうかもしれない。
 フィーナ嬢との婚約を強く望んでいるわけではないけれど、不満があるわけでもない。
 それに父やメレディス様は、俺とフィーナ嬢との婚約がそのまま纏まることを望んでいる。俺自身も『婚約者がいる』という事実は何かと便利な事実でもあったから、できれば余計な波風は立てたくなかった。
「とにかく、必要以上に優しくとかするなよ。他の新人の男どもと同じようにな」
「わかっている。そもそも首席になるほどの実力があるなら、甘やかす必要などないだろう」
 改めて考えると、セラ・アステートという女性は首席卒業者なのだ。女性と言われるとついつい貴族のご令嬢方と同じようなイメージを描いてしまうが、俺たちが想像しているよりもずっと逞しい体躯で男と大差ないような人物だとしてもおかしくはない。
 つまり、レイフォード様に余計な勘繰りをされるような相手ではない可能性も充分にあった。それにクラウスも気づいたのか、それもそうだなと同意が返る。
「さて、そうと決まればさっさと飯食って明日に備えようぜ」
 あまり上品とは言い難い言葉遣いに呆れが溜息に変換されて零れた。いくら正式な皇家の人間でないとはいえ、現聖帝陛下の甥にあたる人物とは思えない。
「クラウス、おまえも一応は皇家の血を引いているんだから、もう少し言葉遣いを気にした方がいいんじゃないか?」
「心配しなくても、外じゃもう少しちゃんと振る舞ってるさ」
 任せろと言わんばかりに片目を瞑ってみせるクラウスの姿に、もう一度小さく息をついた。
「食堂に行くならおまえもさっさと着替えてこい」
 騎士団に支給されている制服の上着を脱ぎ、私服の白いシャツに袖を通しながらそう告げるとクラウスは気のない返事を返して部屋を出ていく。
 少々マイペースすぎるところが玉に瑕だが、それでもクラウスは俺にとって唯一と言っていい友人だ。母親が元皇女で、父親は近衛騎士という俺と似た境遇だからだろう。気を張ることなく付き合える存在だった。
 それに何だかんだと面白がっているように見えて、実のところ俺を心配してくれていることは充分過ぎるほどよくわかっている。人のことを心配性だなんて言うくせに、クラウスの方がよほど心配性なのだ。
 手早く着替えを済ませると、クラウスの部屋へと向かう。ドアをノックすると、少し待てという声とバサバサと乱暴な衣擦れの音が聴こえた。これは絶対に、制服をベッドの上にでも適当に放り投げているのだろう。仕事はきっちりとするくせに、こういうところが大雑把なのは騎士団に入っても変わらなかった。
 ややあって部屋から出てきたクラウスに、制服の扱いについて軽く小言を口にしながら食堂へと向かう。食事を受け取り空いていた席につくと、それとほぼ同時に俺の隣にどかりと腰を下ろすものがいた。
「よう、レオン」
「……何か用か?」
 思わず声が低くなる。隣に腰を掛けた人物は何が楽しいのか喉を鳴らすように笑った。
「相変わらずつれないねぇ。あんまりつんけんしてると、新人ちゃんに嫌われるぞぉ?」
「新人相手にきつい態度をとるほど大人げなくはない」
「まーそうだよなぁ。レオンは唯一女の子相手だもんなぁ」
「代わってほしいなら、騎士団長に直訴してくればいいだろう、アルヴィン」
 このアルヴィン・トレーノイトという男は、本当に馴れ馴れしい。そして、いつも弧を描いているアメジストの瞳が、小馬鹿にされているようで癇に障るのだ。
 何より腹立たしいのは、真面目にやれば首席くらい余裕で取れるだろう実力があるくせに、それをなかなか発揮しようとしないところだった。
「ええー? レオンはそれでいいのー? 新人ちゃん、レオン好みの美少女かもしんないでしょ?」
「アルヴィン、職務に余計な感情を差し挟むな」
 ぴしりと叩き切るように告げると、アルヴィンはへいへいと気持ちの全くこもっていない言葉を返す。
「けどよーレオン、おまえちゃんとオンナノコの扱いわかるのか? どうせ手も握ったこともないんだろ?」
「うるさい。そもそも後輩に指導するのに手を握る必要性などないだろう」
「えー? せっかく可愛い子とお近づきになれるチャンスなのに、みすみす逃す気なのー? まったく、これだから女受けのいい奴ってのは嫌だねー」
「何がチャンスだ。頼むから余計な手出しをして厄介事を起こすなよ」
「心配すんなって。それだけは絶対にねぇよ。んじゃな、セラのことよろしく頼むぜー」
 そう言い残して立ち上がると、アルヴィンはひらりと手を振って食堂から出ていった。
「……あいつ、知り合いなのか?」
 どこか親し気に名を呼んだアルヴィンに、思わずクラウスに向かって確認する。クラウスも驚いたのか、茫然とアルヴィンの去った食堂の入口の方を見つめていた。
「みたいだな。結構可愛いところあるじゃないか」
「可愛い?」
 明らかにアルヴィンには不似合いな形容詞を紡ぐクラウスに、ついつい眉を顰めてしまう。それに気づいたクラウスは、小さく笑って続けた。
「どういう関係か知らないが、知り合いである新人騎士が心配だったんだろう? ああ見えて世話焼きなんだな、アルヴィンは」
「……ああ、そういう見方もあるのか」
 正直アルヴィンは好きではないし、今だって俺をからかいに来ただけだと思っていた。
 けれど、クラウスの言葉通り、アルヴィンはアルヴィンなりに知人を心配したのだろう。普段のいい加減さからは想像できなかったが、いい意味で裏切られた感覚だった。
「ってことは、もしかしてアルヴィンの言う通りにレオン好みの子だったりして……」
「何を馬鹿げたことを言っているんだ。大体、アルヴィンが俺の女性の好みなど知っているわけがないだろうが」
 それ以前に、俺が女性を苦手だという前提をクラウスは忘れている。
 たとえどれほどの美人で気立てが良かろうと、俺が女性に特別な好意を抱くことなど有り得ない。
 そう思っていた。
 ――彼女に出逢うまでは。



 息が止まるかと思った。いや、実際に息を詰めて、ただ一人の人物に視線が縫い止められていた。
 新人たちよりも数刻遅れて入った朝の修練場。真っ先に視界に飛び込んできたのは緋い髪。誰よりも洗練された動きで訓練用の木剣を振るうのは、周りを取り囲む者たちよりも幾分小柄な女性だった。
 華麗で優雅な剣さばきは、聖祭で神に捧げられる舞のよう。けれど的確に相手の守りづらい箇所を狙い、生じた隙で急所をつこうとする。対処しきれなくなった相手の新人騎士が木剣を取り落とすと、彼女は自らの木剣を寸止めし、一礼してその場を別の者に明け渡した。
 彼女の所作の一つ一つが美しかった。毅然とした横顔にも、どこか猫を思わせるような大きな瞳にも、余計な甘さや媚びはない。
 その意志の強そうな瞳が俺の姿を捉える。同時にわずかに不愉快そうな色が浮かんだ。
「何か?」
 冷え冷えとした問いかけに、ようやく自分が不躾ともとられかねないくらい彼女を見つめていたのだと気づく。
「あ、いや……。君がセラ・アステートだな? 私は君の指導係のレオン・アクアスだ」
 慌てて自己紹介をすると、彼女は先ほどまで見えた不満げな表情をひっこめ、よろしくお願いいたしますと丁寧に頭を下げた。申し訳程度に浮かべられた笑みに鼓動が跳ねる。それを誤魔化すように話題を探した。
「士官学校を首席で卒業したと聞いたが噂以上の腕前だな」
 素直な感想だったのだが、彼女はまた一瞬ピクリと頬を引き攣らせる。そんなに気に障る言い方をしただろうかと不安になっていると、すぐさま答えが返された。
「レオン様に言われるとお世辞にしか聞こえませんが」
「え?」
「昨年の首席卒業は貴方じゃないですか。しかも歴代で類を見ないほどの好成績だったと窺っておりますが」
 にっこりと満面の笑みを浮かべる彼女の表情を直視できなくて視線をそらす。嫌味も含まれているのだろう。それくらいはわかるのだが、笑うと意外にあどけなく見える彼女にどうしようもなく胸が鳴った。
「どこで、そんなことを……」
「士官学校に在籍していたら嫌でも耳に入りますよ」
「そ、そうか」
 淡々と切り返され、それ以上言葉が続かない。他に話すべきこと、伝えなくてはならないことはたくさんあった。ここに来る前に何度も確認していたはずなのに、残念ながらまったく出てこない。
 そうこうしているうちに彼女は俺に一言断りを入れ、同期の男を捕まえてもう一度手合わせに向かっていってしまった。俺はそれをまた、どこか夢見心地のように眺めるしかできなかったのだった。

「おまえ、見惚れてただろ」
 今日一日の職務を全うし、寄宿舎に向かおうとしているその背後から、笑いを噛み殺した声が投げかけられた。振り返らなくてもわかる、唯一の友人の声だ。
「何の話だ」
「セラ・アステート」
 すぐさま誤魔化したものの、彼女の名前を耳元で囁かれ、歩いていた足が自然に止まりそうになる。
「……そんなわけないだろう」
「そうか? アルヴィンの言う通り、なかなかの美人だったじゃないか。それに剣術も見事なもんだった」
「首席なんだ。腕が立って当然だろう」
「笑うと結構可愛いよな、セラちゃん」
 突然気安く名を呼ぶクラウスに、顔が引きつるのがわかった。馴れ馴れしく呼ぶなと言いたくなるのをぐっと堪える。
「おい、レオン。そんなおっかない顔するなよ」
「この顔は生まれつきだ」
 突き放すように返すと、本気で不快感を抱いているとクラウスも悟ったようだ。揶揄するような色は控えて、「すまないって」とそれでも軽く謝って寄越す。俺もいつまでも大人げない態度をとるわけにもいかず、一旦大きく息を吐いて気持ちを切り替えた。
 毎度のごとくクラウスは俺の部屋までついてくる。クラウスの部屋は俺の部屋よりも手前にあるのだから先に着替えに戻ればいいものを、何故かいつもそのまま部屋に押し掛けてくるのだ。部屋の鍵を開けると、俺よりも先にクラウスは室内に入り、当たり前のようにベッドに腰掛けた。まったくどちらが部屋の主なのかわからない。
「でも、どうするんだ?」
「どうするって何を?」
「婚約」
「婚約?」
 どうしてこの話の流れから婚約の話が出てくるのだろうと訝しんでいると、クラウスは逆に不思議そうな表情になった。
「ジェラルド様から、『好きな相手ができたら、白紙に戻していい』って言われてるんだろう?」
 クラウスの言わんとしている意味を理解した途端、顔の熱が一気に上がる。追い打ちをかけるようにクラウスが、なかなか似合いだななどと冷やかした。
「だから、彼女はそういうんじゃない! さっさと部屋に戻って着替えろ!」
 強引にクラウスの腕を掴んで部屋の外へと追い出す。笑みを含んだぼやき声をドア越しに聴きながら、先ほどまでクラウスの座っていたベッドに勢いよく腰を落とした。
 顔に上った熱はすぐには冷めず、隠すように片手で覆ってみても手の平にその熱が移るばかりだ。
「……セラ・アステート、か」
 ぽつりと零れた呟きに、今まで自分の中に存在したことのない類の感情が込められている自覚はある。
 自分自身でも信じられないことだが、クラウスの言う通り俺は彼女に対して特別な好意を抱いてしまっていた。
 ただ単純に彼女の見目が美しかったからではない。容姿だけの話ならば、貴族のご令嬢方の中にはもっと肌や髪の手入れも充分に行い、自らの美しさを魅せる方法に長けているものはいくらでもいるだろう。
 けれど、彼女にはそういった令嬢方とは根本的に違う毅い意志の輝きがあった。騎士であることの誇り、潔さ、そして重ねてきた努力とそれによって生まれた自信。彼女の振るう剣技にそれらが現れていて、同じ道を生きるものとして惹きつけられずにはいられなかった。
 そして、同時に酷く落胆させられてもいた。
 彼女は俺に対して媚びた態度は取らない。それは好ましいことなのだが、代わりに微かな反感、いや対抗意識とでも言えばいいのだろうか。そういったものが感じられた。貴族の令嬢方のように蔑むような色が見えないことは救いだったが、正直彼女からそこはかとなく漂う冷たい感情は胸に痛い。
 少しでも距離を縮めたい。そのためにもまずは頼れる先輩であろうと、今日一日できる限り丁寧に指導を行ったのだが、成功している自信は全くなかった。
「まいったな」
 今日会ったばかりの女性に、どうしようもなく翻弄されている。色恋など騎士には必要ないと思っていたし、こんな風に異性を意識して思い悩むことなど有り得ない、馬鹿馬鹿しいとすら思っていたのに。ただ父の望み通り用意された婚約者と結婚し、子を儲ける。それが家の為であり、将来的には自分の為にもなると思っていたのに。
「婚約、か……」
 ――『好きな相手ができたら、白紙に戻していい』って言われてるんだろう?
 クラウスの声に、かつての父の声が重なる。
 親同士が勝手に決めた婚約だ。そこには俺の意思も婚約相手であるフィーナ嬢の意思も反映されていない。
 だから「心から想う相手ができたならば、なかったことにしてもいい。大事なのは当人同士の気持ちなのだから」と父は穏やかに切れ長の目を細めて微笑んだ。
 言われた当時はそんな存在が現れるとは考えもしなかったから、無駄な心遣いだと思いながらもとりあえずは頷いていた。
 だが、今の俺の状態はどうだ。指導の際に彼女との距離がほんの少し近くなっただけでも動揺してしまう。女性に慣れていないことは確かだが、それでも苦手なご令嬢方相手に適当に笑顔であしらうこともできたし、そつなくエスコートできる程度にはなっていたのに。
 そこでふと大事なことに気づいた。
 彼女は爵位のある家かもしくはそれなりに由緒ある騎士の家筋の娘のはずだ。ということは、俺と同様にもう婚約者がいたとしてもおかしくはない。もしいなかったとしても、そもそもの家格が釣り合わない可能性もあった。
「……アステート家なんて聴いたことがないな」
 ただ似たような家名なら一つ知っている。レジアステートという建国の祖の右腕とされた騎士の家筋だ。もし彼女がレジアステート家の娘で、何らかの理由があってその家名を隠していたならば――。
 そんなことまで考えてから、自分はどれほど先走っているのかと苦笑が洩れた。
 家格が釣り合うかどうかとか以前に、彼女は俺に対して何の好意も抱いていない。
 それどころか全く正反対の感情を持っているだろうことを今日一日ずっと感じていたではないか。それが簡単に覆るとは到底思えなかった。
 だからきっと、俺は生まれたばかりのこの気持ちに蓋をするべきなのだろう。そうして予定通り決められた婚約者と結婚し、子を生す。それがアクアス家の継嗣として最善なのだと自分に言い聞かせた。

 ――はずだったのだが。
 恋愛感情というものがこんなにも厄介なものだとは想像だにしていなかった。
 気持ちを殺し、ごく当たり前の先輩としての振る舞いをするのだと決意して登城した翌朝、彼女の姿を確認しただけで固かったはずの決意は淡雪よりも脆いものだったと思い知った。
 姿勢よく歩く姿を見ただけなのに気持ちが浮き立ってしまう。相変わらずの冷たさを漂わせているのに挨拶をされれば自然と頬が緩んでしまう。真面目に職務を全うしようとする真剣な横顔を、ついつい盗み見てしまっていた。
 自分自身の感情のはずなのに、欠片も制御できていない。それどころか、ともに過ごす時間が積み重なるにつれ、彼女にますます惹かれていくのを止めることができなかった。
 どうすれば、彼女は俺を認めてくれるのだろう。一人の男として意識してくれるのだろう。忠実に職務をこなしながらも、そんな風に頭の片隅で彼女の目を意識してしまっている自分に嫌気が差すほどだった。
 それでも、そんな女々しい感情を悟られてはますます嫌われてしまうだろうことくらいはわかる。表面的にはできるだけ常と変わらぬ態度を貫き、せめて仕事の上だけでも頼られる先輩であろうと努めた。
 自分自身の感情と折り合いをつけながら過ごして数日。その日の職務を終えて部屋に戻ると、窓の外から何者かが話す声が聞こえてきた。その声に聞き覚えがある気がして、そっと窓を開ける。細く開かれた隙間から先ほどよりも幾分大きく聞こえてきたのは、想いを寄せる後輩騎士のものに違いなかった。そして、合間に聞こえるのは同期の女タラシの声。クラウスが予想した通り、二人は知り合いだったのだろう。
 そっと外を窺うと、裏庭の樹の陰で人目を憚るように会話をする二人が見えた。
 内容はほとんど聴き取れないけれど、二人の様子はひどく親密に見える。その証拠に、彼女の表情は遠めから見てもくるくるとよく変わった。怒ったり、嘆いたり、落ち込んでみたり。そして普段一緒にいるときには一度たりとて見たことがない素の笑顔まで。
 それだけではない。アルヴィンはごく当たり前のように彼女に触れる。彼女の肩に、髪に、手に。彼女もそれを拒むことなく受け入れていた。
 二人がどんな関係なのかは知らない。けれど、明確にわかることが一つだけあった。
 彼女はアルヴィンを信頼し、親しみを持っている。俺が向けられたいと望む感情を、アルヴィンは無条件に受け取ることができるのだ。
 突きつけられた現実に胸が塞がれたように重い。誰かを羨むようなことなど今までほとんどなかったのに、アルヴィンが彼女の信頼を得ているというだけで羨ましくて妬ましく恨めしかった。
「狭量過ぎるな。嫌われて当然、か」
 こんなにも醜い感情を持つ俺が、まっすぐで清らかな彼女に相応しいはずがない。やはり諦めるべきなのだ、この想いは。
 そうわかってはいても、もう理性では抑え込めないほど、彼女への気持ちは大きく成長していた。