風にゆれる かなしの花

第一幕 風にゆれる かなしの花 03

「城下に、ですか?」
 人払いのされた執務室内に、思いの外自分の声が響いてしまって慌てて口を噤む。ジェラルド様は気にされた様子もなく、話を続けられた。
「ああ。カノン様も宮城内に籠ってばかりでは息抜きすることもできないだろう。こちらの世界のことをもっと知りたいとも仰っていたし。それに随分とセラのことを気に入っているようだしな」
 ジェラルド様の呼び出しというのは、カノン様に城下を案内してほしいというものだった。それも、供は私一人だけで。お忍びでの外出なので、護衛を何人も連れて行くわけにはいかないとのことだ。
「あの、でも私一人ではもしもの時に危険かと」
 自分の実力に自信がない、というわけではない。一対多数の戦い方も学んでいるし、苦手でもない。
 けれど、さすがにカノン様を守りながら複数人と戦うのは厳しいものがあった。
「もちろん、離れた場所から数人の護衛を追跡させるし、城下にも私服の者を多数配置する予定だ。でないとレオンも心配するだろうし」
 ぽろりとジェラルド様が零した本音が胸に突き刺さる。つまり、ジェラルド様にもレオンさんのカノン様に対する想いは明らかなものなのだと知った。
「カノン様には、セラと二人だけで出かけられることになったと伝えるつもりだ。その方が気兼ねしなくていいだろうからな。セラも周りが男ばかりでいつもむさ苦しいだろう。たまには女性同士で楽しんできなさい」
「……ありがとうございます」
 ジェラルド様なりに、私にも気を遣ってくださったのだろう。けれどジェラルド様も心中複雑なはずだ。ジェラルド様の子どもはレオンさん一人だけ。その唯一の継嗣が恋をした相手は決して結ばれることのない女性なのだから。
「セラ」
「はい、何でしょうか」
「何かあったのか? あまり元気がないようだ」
 レオンさんと同じことを訊かれて、言葉に詰まる。毎日顔を合わせるレオンさんならまだしも、ジェラルド様とは直接間近でお会いする機会などそれほど多くはないのに。
 こんなに簡単に自分の心のうちを悟られてしまうなんて未熟にもほどがある。気持ちを切り替え、改めてジェラルド様にしっかりとした笑顔を向けた。
「ご心配、ありがとうございます。けれど、特に何かあったというわけではありません。カノン様の護衛もしっかり務めますのでご安心ください」
「……そうか。私の気の所為ならいいんだ。しかし、もし何か不安を抱えているならば、気兼ねせず私やレオンを頼りなさい」
「はい。わかっています」
 泣きたくなる気持ちを押し殺し、最後まで笑みを湛えて答え、執務室を後にする。
 わかっている。ジェラルド様やレオンさんが私を大切に扱ってくれていることくらい。レオンさんだってきっと、頼ればいいと言ってくださるだろう。けれど、ジェラルド様はともかくレオンさんにはもう頼れない。
 廊下を歩みながら、沈んでいくばかりの気持ちを呑みこみ、いつも通り騎士らしい毅然とした態度を身にまとう。これ以上他の誰かに気を遣わせるようなことになってはいけないのだ。
 廊下の角まで来ると、一旦足を止め軽く思案する。カノン様の傍にはレオンさんとアルがいる。陛下とのお話し合いもさすがに終わっているか、もしくは終わる頃合いだろう。私は先に部屋に戻ってカノン様のお戻りを待つことにした。
 陛下との謁見は気を遣われただろうから、戻られたらリラックスできるようにお茶でも用意しておいた方がいいかもしれない。いくら淑女としての嗜みが他の貴族の令嬢に比べて劣っているとしても、お茶くらいなら淹れられるし、母から仕込まれているからそれなりに自信もあった。
 部屋に戻りティーセットを用意していると、扉を開く音がする。カノン様がお戻りになったのだと出迎えようとすると、入ってきたのはアル一人だった。
「アル? カノン様は?」
 他に誰もいないとわかった途端、ついいつも通りの砕けた口調に戻ってしまう。
「少し庭の花を見たいと言われてな。レオンがついてる」
「……そう。じゃあ、戻られるのはもう少し後になりそうね」
 温め始めていたティーポットのお湯を一旦捨てながら、声が震えそうになるのを何とか堪えた。
 カノン様とレオンさんが二人きりでいる。外の空気を吸いたかったのだろうけど、そこでどうしてわざわざアルだけ返すのだろう。
 ――もしかして、カノン様も……。
 見知らぬ世界に突然放り込まれ、たいそう不安だったとカノン様は以前洩らしていた。
 そんな中、常に傍で自分を守り優しく接してくれるレオンさんに惹かれたって別におかしくはない。しかも、レオンさんは誰が見ても認めるほど整った容姿と卓越した剣術を持っているのだから。
「セラ」
 背後から、珍しく案じるようなアルの声が届く。長い付き合いのアルのことだ。きっと私の気持ちなんか容易に見透かしているだろう。
 いつもみたいに茶化してくれればいいのに、こういうときに限ってアルは優しいから嫌になる。
「あんまり我慢すんな。おまえの悪い癖だ」
「アル……」
 くしゃりと髪を撫でられ、不覚にも涙が溢れそうになった。慌てて滲んだ涙を袖口で拭い、顔を上げる。
「……あとで、付き合って」
「わかった」
 たった一言。それだけでアルは理解してくれる。それが今は単純に嬉しい。やっぱり、私にとってアルは最大の理解者なのだ。
「おまえの好きなワイルドベリーのタルト用意しといてやるよ」
「……この間口説いてたカノン様付きの侍女に作らせるつもり?」
「お? よくわかったな。あの子、なかなかお菓子作り上手いんだぜ」
「まったく……。今度はちゃんと長続きさせなさいよ?」
「さあ、それは向こう次第だしなぁ」
 最低、と呟きながらも、いつも通りのおちゃらけた様を演じてくれるアルに、ようやく自然に笑えるようになった。悔しいからありがとうだなんて言わないけれど、多分それすらもアルはわかっているだろう。
「どうせならそのタルト、今用意してもらえればよかったのに。カノン様にお茶をお淹れようと思っていたところだから」
「さすがに今からタルトは無理だろうなぁ。何か茶菓子がないか訊いてきてやるよ」
「そのまま戻ってこない、なんてことにならないでね」
 この男なら女性を口説いていて戻ってこないなんてこともありうるから、けっして冗談ではない。さらに言えば、口説く相手が先日と同じだとは限らないのが、アルがアルたる所以だろう。友人として付き合う分にはいいけれど、絶対に恋愛や結婚はしたくない、してはいけないタイプの男なのだ。
 適当な返事を返しながら、アルは部屋を出ようとする。しかしドアノブを握ったと同時に、その扉が結構な勢いで開いた。
 アルはそのまま手前に引っ張り出されるような少々間の抜けた格好になる。
「あ、ごめんなさい!」
「いえ、大丈夫ですよ」
 慌てて謝るカノン様に、アルはすぐさま体勢を立て直しにこやかに答えた。さすが、女性に対する変わり身の速さは超一流だ。
「カノン様、お帰りなさいませ。……その花は?」
 レオンさんと一緒に戻ってきたカノン様の手元に自然と視線が吸い寄せられる。華奢で女性らしい色白な手には、赤いアネモネの花が数本握られていた。
「花を飾ると、それを見る人の気持ちも華やぐでしょう? だから、庭師の方にお願いして少し譲っていただいたの」
「そうですか。では花瓶を用意しないといけないですね」
 嬉しそうにアネモネを見つめるカノン様は本当に可憐だ。黒髪に花びらの深紅がよく映えて、そのまま肖像画にしてしまえるほどだった。
「なら、茶菓子のついでに俺が頼んできますよ。花、貸してください」
「お願いします」
 アネモネをカノン様から受け取って、アルが部屋を出ていく。
 アルが引き受けてくれてよかった。あんな可愛らしい花、カノン様のように似合う方から渡されたら惨めで仕方がない。
「では、私はお茶を準備いたしますね。カノン様はお疲れでしょうから、ごゆっくりなさっていてください」
「ありがとう、セラ」
 カノン様の微笑みを受け取ると、私はもう一度お茶の準備をやり直す。一通り準備を終えてティーセットを持って戻ると、レオンさんがこっそり盗み見るようにこちらを窺っていることに気づいた。その頬がほんのり色づいているように見える。
 もしかすると、何か私には聴かれたくないようなことをカノン様と話していたのかもしれない。
 そう思うだけでまたどろどろとした暗い感情がわき上がりそうになる。それを振り払うように、私はカップを準備しながら、カノン様に話しかけた。
「それにしても、どうして赤のアネモネばかり頂いてきたんですか? 確か白や紫も一緒に植えてあったかと思いますが」
「レオンが、赤は人を元気にする色だからって選んでくれたのよ」
 レオンさんが、選んだ。その言葉にカップを取り落としそうになる。何とかそんな失態を犯さずには済んだけれど、私は大きな失敗をしてしまったことを自覚した。
 迂闊だった。カノン様が持っていたから、当然カノン様自身が花を選んだものだと思ったのだ。けれど、その花を選んだのがレオンさんだったということには大きな意味が隠されている。
 赤いアネモネの花言葉は、『君を愛す』。
 レオンさんのカノン様に対する気持ちの表れとしか思えなかった。
 そんな花がこの部屋に飾られているのを、私は平気な顔で見ていられる自信がない。アルが綺麗に活けられた赤い花を持って帰ってくるまでに、この部屋から立ち去りたい気持ちでいっぱいになった。
「セラは、花は好き?」
「……そうですね。母が花好きなので、必然的に」
 無邪気に問いかけてくるカノン様に、視線は手元のカップとポットの向けたまま返す。本当はさほど好きではないとはさすがに言えなかった。
「どんな花が好きなのかしら?」
「どんな、ですか。そうですね……。コリウスとか好きですね」
 ふと思い浮かんだのは、生家の庭のアネモネの奥に植えられていた葉の色が鮮やかな植物。花よりも葉の方が目立つコリウスは、葉の美しさを楽しむ植物だ。花自身はひっそりと目立たない、如何にも脇役な、私にはお似合いの花。
「セラって若いのに好みが渋いのね」
「そうですか? コリウスだって花は控えめですけど可愛いですよ。それに、アネモネみたいな可愛らしい花は、カノン様のような方にしか似合いませんからね」
「そんなことないわ。それにコリウスの花言葉って『かなわぬ恋』よ? そんな淋しい花はセラには不似合いじゃないかしら」
 ねえ、とカノン様は傍に控えているレオンさんに同意を求める。
 そこには悪意など欠片もなくて、それどころか本気でそう思っているのだとありありとわかった。レオンさんはそれに対してどう答えればいいのかわからないのだろう。視線をあちこちに彷徨わせていた。
「なら、なおさら私にはぴったりだと思いますよ」
 もうどうしようもないことくらい自分でもわかっている。だから、これくらいの嫌味を言ったって構わないだろう。性格の悪い女だと嫌われた方がいっそ楽なくらいだ。
 精一杯の強がりで微笑んでみせると、レオンさんは何故かひどく傷ついたような表情をした。
 ――どうして貴方がそんな顔をするのよ。
 傷ついているのはこっちの方だ。そう詰ってやりたいけれど、そんなことレオンさんにしてみれば知ったことではないだろう。私は所詮『親同士が勝手に決めただけの婚約者』に過ぎないのだから。
「アルヴィンさん、遅いですね。ちょっと様子を見てきます。どうせまた女性を口説いているに違いありませんから」
 止まっていた手を動かし、お茶を淹れたカップをカノン様の前に置くと、アルを理由に部屋を出る。これ以上、カノン様とレオンさんのいる空間にいるのが耐えられなかった。
 少しでも長くあの部屋から離れていたくて、わざとゆっくり廊下を歩む。なのに、正面からアネモネの花瓶を抱えたアルが近づいてくるのが見えた。
「セラ?」
「アルヴィンさん、遅いですよ。カノン様が待ちくたびれておられます」
 八つ当たりのように冷えた口調でそう告げると、アルはあからさまに顔を顰めた。そして答える代わりに私を片腕で引き寄せる。広い胸板に顔を押し付けられてまともに話せないでいると、アルはたまたま近くを通りかかった侍女の一人を呼び止めた。
「済まないがこれをカノン様のお部屋に持って行ってくれないか? それとセラの具合が悪くなったから寄宿舎に戻らせると伝言も頼む」
「はい、わかりました」
「え、ちょっと、アル」
「いいから黙ってついて来い」
 強引に肩を抱くようにしてアルに連れて行かれる。すれ違う人たちが好奇の目を向けてくるけれど、アルはお構いなしだった。
 そのまま足早に離れから騎士の執務棟を抜け、寄宿舎の私の部屋に辿り着く。そこでようやく私の体は解放された。
「アル、一体何なの? 私は別に具合悪くなんて――」
「今にも泣きそうな顔してるくせに何言ってんだ」
「……泣きそうに、なんて……」
 否定は、しきれなかった。泣きたくないとは思っていたけれど、今にも涙腺は決壊しそうだ。
「おまえ、最近変だぞ? レオンと何かあったのか?」
 アルの言葉に首を横に振る。
 レオンさんとは何も変わりはない。そもそも、何かあるほど親密な関係ですらない。ただ単に私が勝手に想いを寄せて、勝手に失恋しただけの話。むしろレオンさんには優しく接してもらっていたのだから、これ以上を望んではいけないだろう。
「おまえさ、もう少しレオンを頼ってやれよ。いずれは結婚するんだぞ? 今からそうやって無理して意地張ってたら、上手くいくもんもいかなくなるだろうが」
「……そう、だね」
 アルが珍しく真っ直ぐに心配をしてくれる。けれど、その言葉が私をますます暗い気分に塗り潰していった。
 いずれは結婚する。そうかもしれない。カノン様はこちらの世界に留まることは許されないのだから、レオンさんと添い遂げることなんて叶わないだろう。
 けれど、カノン様が元の世界に帰ってしまうのはどれだけ先の話なのだろうか。
 天の御使いの中には、数か月で去った方もいれば、十数年滞在した方もいると言われてる。カノン様が後者になる可能性だって充分あるのだ。
 もし予定通りレオンさんと私が結婚することになったとして、カノン様が目の前にいる状態で彼に気持ちが断ち切れるとは思えなかった。
 ならば、私はカノン様をひたむきに想うレオンさんを一番近くで見続けなければならないのだ。何という苦行だろうか。考えるだけで胃の辺りがきりきりと痛んでくるようだ。
「セラ」
「ごめん、アル。ちょっと本当に気分悪くなってきた。休ませて」
「……わかった。けど、近いうちにちゃんとレオンと話せよ。あいつ、かなり心配していたぞ」
 念押しして部屋を出ていくアルに、形ばかりの了承の言葉を返す。けれど、レオンさんと話す気なんて私には欠片もなかった。
 そんなことをして、平気でいられるわけがない。それ以前に、レオンさんとカノン様が一緒にいる場に居合わせるだけで、私の精神力はこれでもかと削られていくのだ。
 だから私はただ、どこまでも他人事の顔でいることに全精力を注ぐしかないと知っている。
 それだけが、今の私に唯一できる抵抗だった。



 あの日以来、カノン様の部屋には毎日アネモネが飾られるようになった。いつも赤ばかりではなくなったけれど、あの花が飾られることが私の胸を苛むことに変わりはない。
 それでも表向きはいつも通り変わらぬ態度でカノン様に仕え、レオンさんに従う。時折レオンさんは何か言いたげにこちらを見ていることがあったけれど、話しかけられたりすれば感情を抑えられなくなりそうで、二人きりになることを避けるためにアルやクラウス様の仕事を進んで手伝った。

 そうしてカノン様とのお忍び城外案内の日。
 いつもの騎士団の制服ではなく、地味な町娘らしい若草色のワンピースを身にまとって私はカノン様とともに宮城の裏門から外へ出た。もちろん、ワンピースの中には小剣を隠し持っている。愛用の双剣でないのは少々心許ないけれど、どんな得物でも扱えるように訓練してきたのだ。ちょっとした小悪党くらいなら問題なく対処できるだろう。
 カノン様に用意されたのは、私と同じく質素な臙脂のワンピース。カノン様の黒髪は目立つだろうからと、頭にはスカーフを巻かれていた。
「カノン様、決して私から離れないでくださいね」
「わかっています。でも、嬉しいわ。セラとお出かけなんて。どうせならレオンやアルヴィンやクラウスも一緒に来られれば良かったのに」
「お忍びだということをお忘れなく。そんな大人数じゃ目立ってしょうがないじゃないですか。それに、レオンさんやクラウス様は皇家の血を引いておられるのでかなりの有名人なんですよ。その上あの容姿なんですから、余計に人目を引くに決まっているでしょう」
 はしゃぐカノン様を嗜めながら、改めてレオンさんと私では釣り合わないことを実感する。
 レオンさんの亡くなられた母君・ラティ様は、現聖帝ネイト様の奥方で聖妃であるライラ様の妹君だ。ラティ様ご自身も先々代の聖帝陛下を祖父に持っているので、れっきとした皇女様である。ラティ様が降嫁されたので扱いは違うけれど、もしジェラルド様が婿入りされていたならレオンさんも皇家の一員となっていたはずなのだ。
 対して私の家柄は代々続く騎士の家系。遡っていけば初代のベルツ様にお仕えし、右腕とまで呼ばれた人がいるらしいけれど、それでもやっぱり『たかが騎士』でしかない。
 エスクァーヴ家もアクアス家も爵位は同じ伯爵位だけれど、血統としては大きな差があるのだった。
「ねえ、セラ」
 考え込んでしまっていた私に、カノン様が案じるような色を滲ませながら少し控えめに声を掛けてきた。その視線は相変わらず妹を気遣う姉のような慈しみに満ちていて、息苦しさを感じる。
「何ですか?」
「レオンと喧嘩でもした?」
「……まさか」
 思いがけない問いに、息が詰まりそうになりながらも何とか笑顔で返した。けれど、カノン様はますます表情を曇らせてしまう。
 ――どうして貴女が、そんな顔するんですか。
 私とレオンさんのことなんて、カノン様には全く関係のないことなのに。それとも、レオンさんと私の仲を疑いでもしているのだろうか?
「でも、レオンが少し落ち込んでいたわ」
 ああ、なんだ。そういうことか。カノン様が心配しているのは私のことじゃない。レオンさんのことだ。レオンさんが落ち込んでいる姿を見たくないから、私と何かあったのなら仲直りをしてほしいと、そういうことなのだ。
「安心してください。喧嘩なんてしていないですし、そもそも喧嘩するほど親しくもないですから」
「セラ……」
 もうここまでくると、悲しいとか苦しいを通り越して笑えてくる。どこまでいっても私は『形だけ』。『親が勝手に決めただけ』の婚約者。その一方で、添い遂げられるかどうかはともかく、レオンさんはカノン様と両想いなのだ。
「カノン様、どのような場所を見てみたいですか? 危険な場所でなければ、どこにでもお連れしますよ」
「セラは? どこか行きたい場所はないの?」
 まだ私を気にするようなカノン様に、今度は苦笑が洩れた。本当にどこまでもお優しい方だ。レオンさんが惹かれるのも無理もない。
「……カノン様、私が行きたい場所に行ってどうするんですか」
「だって、まだこの世界のことはよくわかっていないし……」
「それは確かに。ならば……そうですね。少し入用のものもありますし、銀細工の店でも覗いてみますか?」
「銀細工? それは是非見てみたいわ」
 女性ならば装飾品の類は嫌いではないはずと提案すると、予想通りカノン様は満面の笑みで賛成してくれた。
 私としても、少し前にレオンさんに貸したネックレスのチェーンをまだ返してもらっていないし、いい加減外したままのトップの石を何とかしたかったのだ。
 そういえば、チェーンを直すにしろ新しく購入するにしろ、それほど時間がかかるものでもない。それなのにどうしてまだ返ってきていないのだろうか。律儀なレオンさんらしくないなと思ったけれど、よくよく考えれば私がレオンさんと二人にならないようにしていた所為だと気づいた。
 どうせ返されたとしても、私はそれを二度と身に着けたくはない。あの人が短い間でも身に着けていたものだと思うと、きっとどうしようもなくやるせなくなってしまうから。城に戻ったら、あのチェーンは捨ててくれて構わないと言っておこう。そうすれば、レオンさんの手を余計に煩わせることもないはずだ。
 行きつけの銀細工の店に入り、まずは店主に新しいチェーンを出してくれるようにお願いする。その間、カノン様は真っ黒な瞳をキラキラと輝かせて、繊細な銀細工たちを眺めていた。
「カノン様、何かお気に召したものはありますか?」
「どれも素敵で、見ているだけで目の保養になるわ」
「あまり高価なものでなければ、私がお贈りいたしますよ」
「それは悪いわ。いつもお世話になっているのは私の方だもの。むしろこちらがプレゼントしたいくらいなのに。ほら、これとかセラによく似合いそう」
 そう言ってカノン様が手にしたのは、小さな花の形のピアス。花芯の部分には翠色の小粒の石が嵌め込まれている。
「ですから、そういう可愛らしいものは私よりもカノン様の方がずっとお似合いですよ」
「あら、私の見立てが間違っているとでも言いたいの?」
 不満げに眉を顰めるカノン様は、歳よりもずっと幼く見えた。実際の年齢を聞いたところ、驚いたことに私よりも十以上も年上だったのだ。それなのに時折こんな風に可愛らしさを見せつけられると、本当にこの世は不公平なのだなと思わずにはいられない。
「そういうわけではないですけど」
「セラはもう少し自覚を持った方がいいと思うわ。知ってる? 騎士団の中には貴女に片想いしている男性が結構な数いるのよ?」
「まさか。そんな物好きはいませんよ」
 あまりにもありえない発言に、呆れ以外の感情が浮かばない。いくら私に自信をつけさせようと思っているからだとしても、もう少し信憑性のある嘘をつけばいいのに。男なんてみんな、カノン様のように可愛らしくて庇護欲をそそるタイプが好きなのだから。
 私のことよりもカノン様こそもう少し男心というものを勉強した方がいいんじゃないだろうか。そう、その神秘的な黒い瞳でじっと見つめられて、儚く微笑まれれば落ちない男なんていないだろうことをもう少し自覚すべきである。
 でないと……、レオンさんだって不安になるに決まっているのだから。
「……ああ、セラ。これならどう?」
 またも考え込んでいた私は、カノン様の声でハッと顔を上げる。華奢な指先で示されていたのは、大きなものから小さなものまで様々なサイズのクワドラートだった。
「これ、お守りのようなものなのでしょう? セラは騎士だから、いつも危険と隣り合わせなのだしちょうどいいんじゃないかしら」
「確かにそうですけど、そうじゃなくて今はカノン様の――」
「それとも、もう大切な方から頂いたりしてる?」
 悪気なくにっこりと浮かべられた笑みと、どこか揶揄するような響きを持った言葉。
 こんなこと、カノン様にだけは訊かれたくなかった。
「……そんなものをくださる方は、私にはいません。カノン様とは違いますから」
「え?」
 何気なく放った言葉だった。けれど、カノン様は一瞬で顔を紅潮させ、それを隠すように視線を床に落とした。
 その反応に、わかりたくもない事実をつけられる。
 カノン様は、『誰か』から贈られたのだ。『大切』と思えるような相手から。そうでなければ「大切な人から頂いたり」なんて表現をするはずがない。
 そして、その『誰か』が誰かなんて、考えなくたってわりきっていた。
 赤いアネモネを選んだ人。いつも一番傍でカノン様を守ってきた人。

『母が亡くなった時に、父から渡された。いずれ大切な人ができたときに渡すようにと』

 彼にとっても、亡き母の形見である品を渡してもいいと思うくらい大切な人がカノン様なのだ。もしカノン様が元の世界に帰ってしまえば、完全に手元から失われてしまうというのに、それでもいいと思えるほどに。
 これほど完膚なきまでに叩きのめされたら、もう諦める以外の道なんて見つからない。同時に、悪足掻きのように二人の仲を邪魔するような真似も、なけなしのプライドが許さなかった。
 もういい。形だけの婚約者だっていい。どんなに望もうとこちらに向くことのない視線ならば、そのまま真っ直ぐにカノン様だけを見つめてくれていればいい。
 だからもう、今までのような扱いはしなくていいのだと、戻ったらレオンさんにそうお願いしよう。気遣われる度に、私の心臓は軋むだけだから。
 ちょうど奥からチェーンを持ってきた店主に気づき、商品を確認して包んでもらう。そのまま支払いを済ませると、まだ頬に赤みを残したままのカノン様に振り返った。
「カノン様、そろそろ参りましょうか」
「え、ええ……」
 焦ったように手にしていたものをカノン様は元の場所に戻す。それは、中央に黒曜石の嵌まったクワドラートだった。
「それ、貸してください」
「それって……」
「その黒曜石のクワドラートですよ。カノン様も大切な方にお渡ししたいんでしょう?」
「べ、別に、大切とかそういうわけではなくて……、お、お借りしているだけだから、代わりになればと……」
 せっかく落ち着いていたはずなのに、みるみるうちにカノン様の頬はまた赤く色づいていく。まるであの日のアネモネのようだ。可憐で、健気で、私ですら応援したくなる。
「ほら、貸してください」
「で、でも、セラにお金を払わせるなんて……」
 カノン様が気に病まれるのも仕方がないだろう。今のカノン様の生活は、全て公費で賄われているのだ。それだけの価値が天の御使いにはあるのだと言われても、カノン様ご自身が受け入れるには抵抗があるに違いない。その上でさらに私個人に負担を掛けることを許せないのだろう。私が年下だから、なおさらに。
「気にされるでしたら、もし今後私に何かあった時に、カノン様のお力で助けてくださいな。それでお釣りがくるくらいでしょう?」
 アルを見習って軽い口調でそう返した。そうすれば、きっとカノン様も笑ってくれるだろうと単純に思ったのだ。けれど、予想外にカノン様は少しだけ顔を顰めた。
「セラに何かあった時なんて想像したくないんだけど」
 ぽつりと零した呟きに、カノン様が表情を曇らせた理由を知る。そして自分の言葉の軽率さを知るのだ。騎士にとっての『何かあった時』なんて、身の危険に関わることがほとんどなのだから。
 本当にお優しい方だと実感すると同時に、この方にお仕えできて良かったと思う。そして、レオンさんの好きになった人がカノン様でよかったと。
 カノン様なら、太刀打ちできなくても当然だと素直に認めることができる。もし他の貴族のご令嬢が相手なら、そう簡単に納得はできなかったと思うから。
「カノン様は深く考えすぎですよ。何かって言っても別に身の危険とかそういうんじゃなくてですね。例えば、私が職務中にミスをしたら、こうるさい先輩方から庇っていただくとかでいいんです」
「こうるさいって……レオンのこと? それともアルヴィンのこと?」
「両方です。あ、本人たちには内緒ですよ?」
 口元に人差し指を立てて口止めすると、ようやくカノン様は屈託のない笑顔に戻った。ほっとして手を差し出すと、カノン様は先ほどまで手にしていたクワドラートをもう一度丁寧な手つきで摘み上げ、私の手の平の上にそっと置いた。
「喜んでくださるといいですね」
「ありがとう、セラ」
 はにかむカノン様に笑みだけで返し、店主に品を渡して精算を済ませる。店主から小さな革製の袋に入れられたそれを受け取ると、カノン様の手に再び戻した。カノン様は受け取った袋を大事そうに握り締める。まるで、祈りを籠めるかのように。
「せっかくの贈り物なんですから、帰るまでに落とさないように気を付けてくださいね」
「失礼ね。私がそんなに鈍臭いとでも言いたいの?」
「まあ……若干。ドレスの裾を踏んで転びそうになったところを、何度お助けしたことか」
「あ、あれは! 裾の長いドレスなんて着慣れてないからです!」
 今度は別の意味で顔を紅潮させながら抗議するカノン様を、笑ってかわして店の外へと促す。
 
 きっと、あのクワドラートはレオンさんに加護を与えてくれるだろう。何せ、御使いの心からの祈りが籠っているのだから。たとえカノン様がいなくなっても、変わらず守ってくださるはずだ。
 そして、その祈りを支えに、レオンさんはずっと一人で生きていくことになる。ならば私は、カノン様と過ごした日々を分かち合える同士になればいい。思い出は時とともに薄れゆくものだと知っている。
 だから私は、その思い出を繋ぎとめるための楔になろうと、心の中で密やかな誓いを立てた。