風にゆれる かなしの花

第一幕 風にゆれる かなしの花 02

 レオン様の腫れ物に触るような態度は相変わらずなまま、そのストレスと戦いながら過ごす日々が続いた。けれど、配属されて十日ほど経った頃、とうとう私には堪えきれない出来事が起こってしまった。
 城下の巡回中、柄の悪い連中に襲われている商人を見つけて私たちは助けに入った。その際に、賊の振るった刃から私を庇い、レオン様は負傷したのだ。
 彼の傷はほんのかすり傷で、大袈裟に騒ぐほどのものでもなかった。けれど、私は傷の軽重とは関係なしに自分のプライドが傷つけられた。
 私は騎士だ。守られる側ではなく、守る側なのだ。それに、あの時の剣筋ならば多少傷は負ったとしても致命傷は確実に避けられた。それこそ、レオン様の負傷と大差ない程度で終わるはずだった。
 それなのに、彼は私を庇ったのだ。私を、『守られるべきお嬢様』のように扱った。
 その事実は、どうしても受け入れ難い、受け入れるべきでないものだった。
 我慢できなくなった私は、城に戻り報告書を提出したレオン様を人気のない裏庭まで呼び出した。
「いい加減、馬鹿にするのはやめていただけませんか?」
 いつもは何とか取り繕っていた態度は全部放棄し、全身で嫌悪感を露わにする。それにレオン様は戸惑ってはいるが、私の怒りの原因はさっぱり思い当たらないようだった。
「どういう意味だ? 私は君を馬鹿にした覚えなどないが」
 綺麗な顔は多少顰めても綺麗なものに変わりはないらしい。それがまた癪に障る。
「いくら新人とはいえ、士官学校を首席で卒業した程度に剣術の嗜みはあるつもりです。それなのにあの状況で私を庇うなんて、馬鹿にしているのでなければ何なんですか?」
「そ、それは……」
 明らかに動揺しているレオン様に、図星だったのだと確信する。やっぱり私のことを見下していたのだと思うと、どす黒い気持ちが一気に噴き出した。
「レオン様から見れば、私の剣術など児戯に等しいということですか?」
 嫌味たっぷりにそう嗤うと、予想外にレオン様は慌てて否定の言葉を発した。
「違う! そんなことは思っていない! 君の剣術の腕前はその辺の男よりもよほど上だとわかっている!」
「ならどうし――」
「すまない!」
 私の問いを遮って、レオン様は頭を下げる。そうして顔を上げると、今度は視線をそらしながら言いにくそうに口を開いた。
「その……、女性の扱いがよくわからないんだ」
「は?」
 思ってもみなかった言葉に、間抜けな疑問の声が零れる。よくよく見ると、レオン様の頬が何故かうっすらと赤くなっていた。
 えっと、これはその、もしかして照れている、のだろうか?
「だから……、その、身内や親しい親類に同年代の女性はいないし、士官学校だって女性がほとんどいないことは君も知っているだろう。だから、どう接すればいいのかわからなくて、だな……」
 つまりは、女慣れしていないから、できる限り優しく扱わないといけないと思ったと?
 確かに、ジェラルド様なら女性には優しくするものだなんて教育してそうだし、アル曰く堅物らしい彼が素直にそれを実践しようとしてもおかしくはない。
 だが、私はその辺のか弱いお嬢様とは違うのだ。それを彼は理解していない。
「別に女扱いしていただく必要はないんですけど。他の新人騎士と同じようにしてくだされば」
 私が多くを望んでいるとは思わない。とりあえず『お嬢様』でなく『騎士』として接してほしいというだけなのだから。
 けれど――。
「他と同じなんてできるわけがないだろう。他の奴らは君みたいに華奢でもないし、綺麗でもない」
「き……な、何を仰っているんですか!」
 突然飛び出した褒め言葉に、頭の中が真っ白になった。
 私が、綺麗……!? 何を真顔でこの人は言っているの!? 目が節穴なんじゃない!?
「と、とにかく、俺は君の能力に疑問を持っているわけではない。他の新人と同じように扱えと言うならばそうできるように努力はする。だが、慣れるまでもう少し時間をくれ」
 レオン様も自分自身の発言に恥ずかしくなったのか、先ほど以上に真っ赤になって早口でまくしたて、こちらに背を向けてしまう。
 いや、そんな態度を取られるとこっちも恥ずかしいんですけど! あのクールなレオン様はどこにいったんですか!
 そう問い詰めたい衝動に駆られていると、そのままレオン様は立ち去ろうとする。
「え、あの! レオン様!」
 思わず呼び止めてしまうと、レオン様は少し困ったような表情で振り返った。
「……それと、その様づけはやめてくれないか。俺もまだ騎士としては二年目で、君と変わらない若輩者だ」
 少しだけ苦味を伴った笑みを浮かべる彼に驚きつつ、少し考えて返事を返す。
「わかりました、レオンさん」
 さすがに目上の人に呼び捨てなどはできない。
 一番無難だろうと思って選んだ呼び方に、ふわりと彼の表情が綻んだ。今までに一度も見たことがない柔らかな微笑み。
 思わず目を奪われ、鼓動が速くなるのを自覚した。
 レオン様改めレオンさんはまだ少し紅潮した頬のまま、足早にその場を後にする。
 残された私はその場で顔を覆ってしゃがみこんでしまった。レオンさんのがうつったかのように、触れた頬は火照っている。
「やめてよもう……。調子狂うじゃない……」
 あんな笑顔は卑怯だ。ただでさえとてつもない美形でこちらは手も足も出ないのに、それをわかった上でのあの笑みなら狡いにもほどがある。
「……これだから、美形なんて嫌いよ」
 そんな風に悪態をついてはみても、私の鼓動はなかなかいつも通りのテンポには戻ってくれなかった。
 
 その日をきっかけに、レオンさんの態度は明らかに変わった。
 指導が丁寧で親切なことに変わりはないけれど、私に対して過剰に守ろうとすることはなくなったのだ。指導が丁寧且つ優しいのは、もともと生真面目で案外面倒見のいい性格が起因しているようだ。他の新人騎士たちへの接し方を見ていて自然とそう理解した。アルが悪い奴じゃないと言っていたのも間違いではなかったらしい。
 青騎士団長メレディス・エスクァーヴの娘。私はその事実があるために色眼鏡で見られることを嫌っていた。なのに、そんな私自身が彼を色眼鏡で見ていたのだ。
 ジェラルド様の息子なのだから、優しく穏やかであってほしい。けれど、母を亡くしたときですら泣かなかった彼は、家族の情すら薄い冷血な人なのだと。彼が泣いていなかったことにも、理由があるかもしれないのに。
 おそらく、レオンさん自身も騎士団長と元皇女の子息というだけで勝手なことばかり言われてきたのだろう。それこそ、七光りだなんだと。冷淡だなどという噂も、彼の能力を妬んだものが流したのかもしれない。
 けれど、彼は私のように素性を隠したりもせず、真正面からそれを受け止めた。そうして誰にも文句を言われないように自分自身を磨き続けたからこそ、あれほどの剣技を身につけ、史上稀に見る逸材として騎士団入りすることになったのだ。きっと、私とあの人の強さの違いはそこなのだろう。
 そんな風に努力を重ねてきた人に、勝手なイメージを抱いて嫌っていた自分が恥ずかしい。いくら勝手に決められた婚約に不満を感じていたとはいえ、それはレオンさんだって同じことなのだ。むしろ、私みたいなじゃじゃ馬娘を押し付けられている彼の方が文句を言っていいくらいだ。
「あの、レオンさん」
「何だ?」
「その、今まですみませんでした」
 城下の見回りで二人になった時、思い切って私は切り出した。
 これまでの私の態度は決して良いとは思えなかったからだ。表面的には従順な後輩として振る舞ってはいたけれど、隠し持っていた嫌悪感に気づかないほど鈍感な人ではないだろう。今まで悪意に晒されてきた人ならなおのこと。
 けれど予想した通り、レオンさんはどこか気まずそうに眉尻を下げて微笑んだ。
「気にしなくていい。女性は守るべき存在だなどと思い込んでいた俺にも非はあるのだから」
 良くも悪くも、この人は素直なのだろう。そして、思っていたよりもずっと懐が広い。目下でしかも女の私にも、何の抵抗もなく頭を下げられるし、自分の非をすんなりと認められる。
 ああ、やっぱりジェラルド様の息子なのだと納得してしまった。そんな風に言われることを、もしかしたら彼は望まないのかもしれないけれど。
「まあ、『守るべき』くらいならマシな方ですよ。『女は大人しく着飾って笑っていればいい』なんて面と向かって言われたこともありますから」
 あまりレオンさんに気にしてほしくなくて、そんな風に過去の嫌な思い出を冗談めかして話す。
 士官学校に入ってすぐの頃、同期入学の貴族の馬鹿子息にそんな風に言われたことがあった。あろうことかそのご子息は「将来自分は騎士団長になる器だ」とまで宣っていた。隠していたとはいえ、騎士団長の実の娘の目の前で。顔も名前もろくに覚えていないけれど、とりあえず周りに似たような貴族出身の取り巻きを従えていて、不愉快極まりなかったことはしっかりと記憶している。
「……すまない。不快なことを思い出させたようだな」
「え? あの、レオンさんが謝らないでください。レオンさんは別に女だからと見下していたわけじゃないんでしょう? それに、そんなつまらない男は剣術の実技のときに徹底的に潰して憂さ晴らししましたから」
 私の言葉に、一瞬きょとんとしてから、レオンさんはプッと噴き出した。何だ、この人でもこんな風に笑うこともあるんだ。
「……怖いな。俺も憂さ晴らしされないように気を付けることにしよう」
「何言ってるんですか。レオンさん相手になんてしたら、憂さ晴らすどころか勝てなくてイライラ溜まるだけですよ」
「純粋に剣術だけならそうかもしれないが、魔術を使われたらさすがに俺でも敵わないだろう」
「え? 知ってたんですか?」
「訊いてもいないのに、アルヴィンが教えてくれたぞ」
「……ああ、なるほど」
 アルの名前にようやく納得した。
 私はベルティリアでは珍しく、生まれつきかなり魔術の適性が高かった。だから契約している精霊も、風と炎の二属性ある。風の精霊は気紛れ、炎の精霊は気性が激しく、どちらも契約が難しいことで有名だ。二属性持ちだけでも珍しいのに、それが風と炎というだけでも相当稀なのだ。
 だが、それはあまり表立っては知られていない。公に知られない方がいいと判断したのは父だった。強すぎる力は、時に災厄を呼びかねないからと。
「アルヴィンとは、随分仲がいいんだな」
「まあ、アルは幼なじみですから」
 素性を知っているレオンさんに隠す必要はないし、素直にそう答える。というか、むしろレオンさんの方が意外にもアルと仲がいいんじゃないだろうか。レオンさんから他の人の名前が出ることなんて滅多にないのだから。
「レオンさんこそ、アルと仲良かったんですね。あんなチャラチャラした男とは合わないかと思ってましたけど」
「……別に、仲がいいわけじゃない。アイツが勝手に構ってくるだけだ」
 返ってきた言葉が、思っていたよりもずっと冷やかな響きを持っていることに驚かされる。いや、それ以前にレオンさんが特定の誰かに対しての負の感情を見せることが稀だ。内心はどうであれ、いつも誰に対しても丁寧で礼節をわきまえた態度なのだから。
 もしかして、レオンさんってアルのこと嫌いなんだろうか? だとすると、いくら形ばかりとはいえ婚約者の私がアルと仲がいいなんてあまり面白くないのかもしれない。かといって今更幼なじみという関係をなしにすることもできないわけで、上手く言葉を返すことができなかった。
 何となく気まずくなって言葉少なになっているうちに予定されていた巡回経路を一通り回ってしまった。あとは城に戻り、巡回結果の書類を提出しなければならない。
 巡回結果について確認しようとした瞬間、レオンさんが突然足を止めた。
「レオンさん?」
「すまない。ちょっと待ってくれ」
 何故か謝られると、レオンさんはおもむろに自分の襟元少し寛げ、中から何かを手繰り寄せた。その指先に摘ままれていたのは、銀のチェーンのついたクワドラートというお守りだ。そのチェーンが留め具とは違う場所でぷつりと切れていて、クワドラートがかろうじて留め具のところで引っかかっている。
「切れちゃったんですか」
「古いものだからな。気づかずに落とさなくてよかった」
 後半は少し控えめな声で呟く彼の、クワドラートを見つめる視線はどこか切なさに満ちていた。よく見ると、繊細で精緻な細工が施され、中央には小さいけれど上質な翡翠が嵌められている。既製品ではなく、かなりの腕前を持つ職人にオーダーして作られたものだろう。それこそ、皇家や最上級の貴族にしか許されないほどのものだ。
「もしかして、お母様の形見、ですか?」
「ああ、母が亡くなった時に父から渡された。いずれ大切な人ができたときに渡すようにと」
 レオンさんは大事そうに形見の品を握り締め、しばらく悩むような素振りをしてからその手をポケットに入れようとする。私は慌てて「待ってください」とそれを制した。
 レオンさんは少し不思議そうな顔をしながらも言われた通りに動きを止める。私は急いで自分のつけていたネックレスを外し、トップにつけられていた石をポケットに滑り込ませた。そうしてチェーンだけになったものをレオンさんに差し出す。
「これ、使ってください。そのままポケットに入れたりしたら、失くす可能性もありますから」
「だが、君がつけていた石だって……」
「大丈夫です。あれはレオンさんのクワドラートと違って失くしても痛くもかゆくもないものですから。新しいチェーンが手に入れば、返してくださればいいですし」
 断ろうとするレオンさんの手に半ば強引にチェーンを握り込ませ、手を開かせないように上からぎゅっと握った。
「大事なものなんですから。ね?」
「わ、わかった。ありがたく借りるから、その……て、手を……放してくれ……」
 それまでの愁い顔から一転して、レオンさんは真っ赤になって慌てたように視線をそらす。私も遅れて現状を理解し、すぐさまその手を離した。
「す、すみません」
「い、いや、ありが、とう……」
 紅潮した顔のまま、レオンさんは私の渡したチェーンにクワドラートを通し、もう一度自分の首につける。それを襟元から滑り込ませると、服の上から確かめるようにそれを撫でた。同時に安堵したような柔らかな笑みが浮かぶ。
 それだけのことなのに、妙に気恥ずかしくなり、鼓動が速くなるのがわかった。そんな私の動揺を悟られたくなくて、必死に静めようと思うけれど、胸の高鳴りは言うことをきいてはくれない。
 レオンさんに対して抱いていた嫌悪感や劣等感が消えたのはいいことだとは思う。けれど、代わりに私の中に芽生えたのは、少々厄介な感情。
 そう。私はこのぱっと見はクールで冷血そうな、しかし本当は優しくて少々不器用で純情な婚約者に、特別な好意を持ってしまったのだった。



 白騎士団に配属されてはや一月。
 レオンさんの一挙一動に戸惑わされながらも、私は毎日平穏に過ごしていた。白騎士団の同期や先輩方とも特に揉めることはなかったし、思っていたほど女だからと侮られることもなかった。
 むしろ、どちらかといえば可愛がられている気がする。アル曰く、入団当初はレオンさんに対してピリピリしていたのが今では友好的な関係に変わっているのを周りも感じているかららしい。
 そんなに表に出ていたのかと改めて反省するところだけれど、そんな私が馴染めているのはひとえにレオンさんの人徳のお陰だろう。
 可愛げのない私が言うのもなんだが、レオンさんはあまり表情豊かな方ではないし、人付き合いが上手いというわけでもない。なのに、彼の同期はもちろん、先輩からも可愛がられているし、後輩にも慕われている。その恩恵を私も受けているのだ。
 そんな風につつがなく過ごしていたある日、珍しくジェラルド様が白騎士団の一部を率いて城外視察に出ることとなった。
 城外視察自体は月に一度は必ずあるのだが、今回はその定期視察とは違うらしい。
 私やレオンさんもその視察部隊に組みこまれ、西方にある古い遺跡に向かった。
 その移動中に聞いた話によると、どうやら聖帝陛下直々のご命令らしい。その所為か、ジェラルド様はいつになく神妙な表情をされていた。
「視察って言っても、こんな寂れた遺跡には野盗すら来ない気がしますけど」
 ふと浮かんだ疑問の内容が若干愚痴っぽいと感じ、少し声を抑えて呟く。
 二列に並んだ隊列の中央やや後方に私たちの所属する班は配置されていた。もちろん、指導係のレオンさんは私のすぐ隣の馬上だ。だからこの声も、せいぜいレオンさんに聞こえるか聞こえないかくらいだった。
「そう言うな。確かに人が近寄らない場所ではあるが、だからこそ良からぬことを考える輩が身を潜めやすいとも考えられるだろう」
 何とも優等生的な返事をするレオンさんに、表面的には納得した返事を返す。
 レオンさんの言葉はもっともなのだが、それだけではわざわざ騎士団長自ら出向く必要性はない。定期視察のように数人の部下で行けば済む話のはずだ。
 この遺跡は、もともと大昔の聖女信仰に縁があるものらしい。ベルティリア帝国の国教ではすでに聖女信仰自体が廃れてしまっているが、歴史的価値があるとかいう理由でこの遺跡は残されている。
 とはいえそれは建前みたいなものだ。実際のところは、この規模だと解体するにもそれなりの時間と経費がかかるため放置して自然に朽ちていくのを待っているといったところだろう。
 それなのにどうして陛下直々にジェラルド様に視察などを命じられるのか。
 納得できるような理由に思い当たらずにいると、遺跡の残骸である石柱の陰から、ふらりと人影がよろめき出てくるのが見えた。髪が長い。遠目だが、体型から推察するに女性だ。
 その人物は少し歩くとそのまま力なく地面にしゃがみこんでしまった。
「レオンさん、あそこに人が……」
「人?」
「若い女性のようです」
 馬を止めた私たちに、後に続いていた他の騎士たちもどうしたのかと窺うようにそこに留まる。
「小隊長」
 レオンさんが指示を仰ぐと、私たちの所属する小隊の長であるデールさんはゆっくりと頷き、副長であるウォルターさんに目を向けた。
「ウォル、ジェラルド様に伝令を。あまり大勢で行っては怯えさせるかもしれない。レオン、セラ、ついて来い。他のものはここで待機していてくれ」
「わかりました」
「了解です」
 恐らく、先ほど倒れ込んだ人物が若い女性だったからだろう。如何にも強面や精悍そうな面々でなく、私やレオンさんが選ばれたのは。デールさん自身も言い方は悪いが優男といった風貌なので、女性から怖がられるようなタイプではない。
 その辺の自覚があるのがちょっと引っかからないでもないけれど、小隊を率いる長としての素質は充分ある方だ。
 警戒しながらもその人物にゆっくりと歩み寄るにつれ、外見がはっきりしてくる。私やレオンさんよりは年上のようだ。あまり見ない形のグレーの上着。同色のスカートは膝丈のタイトなもので、やはり我が国では見たことがない。国境から近くはないが、異国の者の可能性も高かった。
 女性が私たちに気づき、驚いてその場で身を竦ませる。明らかな怯えが見えたため、安心させるように小隊長は柔和な笑みを作った。
「怖がらないでください。俺たちはベルティリアの騎士団のものです」
「ベル……? 騎士、団……?」
「はい。貴女は、何故このようなところに? どこからいらしたのですか?」
 警戒を怠らないまま小隊長は質問を重ねる。後ろから見守りつつ私も彼女を観察した。
 この国ではほとんど見られない真っ黒な髪と黒に近い焦げ茶の瞳。深淵のような髪色はとても神秘的だ。その上、整った目鼻立ちと楚々とした雰囲気。華奢な体は簡単に折れてしまいそうで、自然と庇護欲をそそられる。同じ女でもこんなにも違うのかと、少しばかり不公平さを感じてしまった。
「黒髪なんて珍しいですね」
 自分の中に生まれた醜い嫉妬心を誤魔化すように、隣にいるレオンさんに小声で話しかける。けれど、いつもなら素っ気なくても返ってくるはずの答えがない。
「レオンさん?」
 訝しんで長身を見上げると、レオンさんの視線は黒髪の女性に釘付けになっていた。私を初めて騎士団で見たときと同じ――いや、それ以上に驚愕に彩られた表情で。
 どくんと、心臓が大きく鳴る。
 魅入られたように彼女を見つめ続ける彼に、胸の奥がもやもやとしたものに覆われていくのがわかった。得体の知れない不安に襲われ、思わず隣に並んだレオンさんの腕にそっと手を伸ばす。
「レオンさん? どうしたんですか?」
 私の声と手に、レオンさんが我に返って「すまない。何でもない」と薄く笑んだ。
 けれど、一瞬向けられた視線はすぐに元の位置に、目の前の黒髪の女性へと戻されてしまった。
「貴女の名前は?」
「……カノン、です。あの……ここは、どこですか?」
 消えてしまいそうなほどか細い、けれどとても澄んだ綺麗な声。途方に暮れ、縋るような視線は、きっとどんな男であろうとも守ってあげたいと思うだろう。
 そう、どれほど堅物の男だって。
「デール、待たせたな。……彼女、が……?」
 伝令を受けて馬を急がせてきたであろうジェラルド様が、焦りを抑えながらも速足で近づいてくる。そしてカノンと名乗った女性の姿を認めると、驚いたように目を見開いた。しかし、それも一瞬のことで、即座に彼女の前に跪き、恭しく頭を下げると信じられない言葉を口にした。
「お迎えに上がりました。天の御使い様」

 天の御使い。
 戦乱の世に現れ、国を平和へと導くために天から遣わされた者。『アマビト』とも呼ばれ、多くの奇跡を生むことができるそうだ。建国の祖であるベルツ・ティファレトの元にも訪れ、数多の戦で彼を勝利に導いたとも言われている。
 あの遺跡で助けたカノンと名乗る黒髪の女性は、まさにその御使いなのだとジェラルド様は説明された。どうしてそんなことをジェラルド様が知っているのかはわからないけれど、あの視察は彼女を探し出し連れ帰ることが目的だったと考えれば納得がいく。何らかの方法で陛下は天の御使いが現れることを知り、最も信頼できる臣下の一人であるジェラルド様に頼んだのだろう。
 視察を終えると、ジェラルド様はカノン様を連れて陛下の元へと向かったらしい。
 翌日にはカノン様は後宮の離れで暮らすこととなり、何故かその警護の役目が近衛騎士団ではなく我が白騎士団に回ってきた。ジェラルド様曰く、近衛は手が空いていないとのことらしいが、何となく他に理由がありそうな気がしてならない。
 とはいえ、命じられたら従うしかない身だ。
 白騎士団には女性騎士がほとんどいないこともあり、私はカノン様の護衛役の一人に任じられてしまった。そうなると私の指導係であるレオンさんも必然的に一緒に護衛をすることになる。
 私とレオンさん、そしてどういう人選なのかアルとクラウス様の四人が主な護衛役に任じられ、毎日交代でカノン様のおられる離れに通うこととなった。
 カノン様はとてもお優しい方で、私を随分と気に入ってくださったようだった。聞くところによると、妹さんがいるらしく私と少し似ているらしい。気取らず気さくで、私としても姉がいたらこんな感じなのかもしれないとつい思ってしまうほどだ。
 けれど同時に、そのカノン様の人柄が余計に私を卑屈にさせてしまう。
 私は、カノン様のように優しくはなれない。誰とでもすぐに打ち解けられ、好かれるような性格でもない。
 騎士として剣の道に生きると決めて、その通りに歩んできたけれど、こんなにも理想的な女性を目の前にすると羨望せずにはいられなかった。
「カノン様、聖帝陛下と聖妃陛下がお呼びでございます」
「わかりました。すぐに参ります。レオン、セラ、ついてきていただけますか?」
「もちろんです」
 陛下からの呼び出しを伝えに来た近衛騎士に返事をし、カノン様はすぐさま身だしなみを確認する。そんなカノン様を先導するようにレオンさんは先に立ってドアを開けた。ごく自然なエスコート。女性の扱いがわからないなどと言っていた人とはとても思えない。
 カノン様の背後を守るために後ろをついて歩きながら、私はここ最近のレオンさんの様子に心の奥に蟠るものを感じていた。
 カノン様に対するレオンさんの態度は、傍から見ていてもはっきりとわかるくらいに特別だった。もともと優しい人ではあるけれど、カノン様のことは真綿に包むかのように全身全霊をかけて守ろうとしている。
 当然だ。カノン様は騎士じゃない。それどころか身を守る術など欠片も持ち合わせていない。しかも、二人といない特別な存在なのだ。丁重に扱うのは当然だし、私もそのように接している。
 なのに、自分と同じことをレオンさんがするとひどく不愉快な気分になった。
 滅多に見ることのない、照れた表情や嬉しそうな笑みがレオンさんの顔に浮かぶたびに気持ちが沈んでいく。
 わかっている。これは嫉妬だ。誰にも見せない微笑みをカノン様にだけは見せることが悔しいのだ。
 ――でも、レオンさんがいくらカノン様を好きになっても、彼女は天の御使い(・・・・・)だ。
 不意に浮かんだ考えに、愕然とする。
 今思ったことは事実に違いない。天の御使いは役目を果たせば必ず天へと帰っていく。例外は一つもないのだと聴いた。
 事実の確認でしかないけれど、それを思った私の中には明らかな安堵があった。レオンさんが報われないことに対する、安堵。生々しく厭らしい、目を覆いたくなるような自分本位の醜い感情だ。
 騎士団に配属された当初、私はレオンさんに好きな人ができればいいと思っていた。そうすれば婚約は白紙に戻るし、そうならなくてもどうにか嫌われて向こうから婚約を破棄してもらう方向に仕向けようとまでしていた。
 なのに、今はレオンさんの視線が自分に向けられないことに焦燥を覚え、愁いさえ感じている。それほどに、私の気持ちは彼に傾いていた。
「元気がないな」
「え?」
 気づけばとっくにカノン様は聖帝聖妃両陛下の待つ応接室へと入室していた。廊下に残された私たちは、ドアの側で話が終わるまで待機することになっている。
 隣に並んだレオンさんが、案じるように窺っていた。
「そんなこと、ないですよ」
 つまらない嫉妬など知られたくなくて、何とか笑顔を貼りつける。カノン様に対するほどではないけれど、相変わらずレオンさんは私にも優しかった。
 けれど今は、その優しさがかえって苦々しい。
 レオンさんの私に対する優しさは、婚約者である義務感と、彼の父の親友であり尊敬する青騎士団長メレディス・エスクァーヴの娘だからという義理から生まれたものだ。私がエスクァーヴの娘でも婚約者でもなければ、きっとこんな風には扱ってもらえなかった。
「……まだ慣れないことの方が多いだろう。あまり無理はするな」
「無理なんてしていませんよ」
 これは嘘偽りない本心だ。確かにカノン様の護衛というのは気を遣うけれど、基本的に宮城内の奥にあるかなり安全な場所での任務だ。無理を重ねるほどの過酷なものではない。仕事の上では何一つ無理なんてしていなかった。そう、仕事の上では、だ。
「君は――」
「セラ」
 レオンさんが何か言いかけた瞬間、廊下の向こうから現れたアルが私の名を呼ぶ。二人でいることの苦しさから解放され、安堵する。心の中でこのタイミングで現れてくれたアルに感謝した。
「ジェラルド様がお呼びだ。話があるらしい。代わるから行ってこい」
「わかりました。ジェラルド様は執務室ですか?」
 アルに対して敬語というのはいまだに慣れなくて気持ち悪いが、立場上は先輩なので我慢せざるを得ない。
 それはアルも同じらしく、初めは人のいないところで散々馬鹿にされ笑われたものだ。それでも表向きはちゃんと合わせてくれているのは助かる。今も普段の馴れ馴れしさはなりを潜めて、それなりに先輩らしく首肯した。
 私に用ということは、恐らくカノン様絡みのことだろう。それ以外で呼ばれるとしたら……レオンさんのこと、だろうか? しかし、ジェラルド様は公私混同をされるような方ではないし、もし何かあるなら仕事以外の時間にされるはずだ。
 自分の立ち位置をアルに譲り、レオンさんに振り向く。
「申し訳ありません。あとはよろしくお願いします」
「おい、セラ。そこはレオンじゃなくて俺に言うところだろう」
「……レオンさんの方が頼りになるので当然だと思いますが?」
 大体こんな女好きをカノン様の側に置いていていいのだろうかと心配なくらいだ。今のところ他の女の子相手の時のように口説いたりはしていないけれど、隙を見てやりかねないのがこの男なのだ。そんな悪態をつきたくなったが、他の人の目もあるのでせいぜいこのくらいの嫌味しか言えない。
 しかし、そんな私の嫌味をアルは別の意味に解釈したらしい。揶揄するように左の口角が引き上げられる。またあの表情だ。
 これ以上この場にいると余計なことを言われかねないと思い、レオンさんに一礼すると足早にジェラルド様の執務室へと向かう。今は、レオンさんとの関係を揶揄われることも苦痛でしかなかった。