風にゆれる かなしの花

第一幕 風にゆれる かなしの花 01

 目の前を、白刃が薙いでいく。地を蹴り後ろにかわした切っ先は、それでも私の前髪の毛先をわずかに刈り取っていた。と思ったのも束の間、今度は上段から重い一撃が振り下ろされる。咄嗟に鞘に収めたままだったもう一本を抜き取り、二本の剣で受け止めた。
 丁寧に手入れの行き届いた、色とりどりの花が咲き乱れるエスクァーヴ家自慢の庭園。そこに、不似合いで耳障りな金属音が響く。受け止めた剣の重みに思わず顔を顰め、目の前の男を睨みつけた。
「か弱い女の子相手に、手加減なし?」
「か弱いオンナノコ? 今季の首席サマは寝惚けてんのか?」
 ニヤリと二つ年上の幼なじみであるアルヴィンが笑う。弧を描くアメジストの瞳には揶揄するような色が浮かんでいた。それを打ち消すように体重のかけられた長剣を跳ね上げると、アルは勢いに勢いに負けて体勢を崩した。わずかにできた隙を見逃さず、右手の剣を横一文字に振り抜く。が、それは後ろに跳んでかわされた。
 さすがと思うが、畳み込むように追う足を速めて距離を一気に詰める。鳩尾に向かって渾身の膝蹴りを一発。しかし、それも無骨で大きな掌に呆気なく遮られた。
「さすがにおまえの軽い体重じゃ打撃は効かないぞ、セラ」
「……軽いって言わないで。よそのお嬢様よりはよほど重いわよ」
 忌々しさを噛み殺しながら受け止められた脚を引き、二本の剣を鞘に収める。アルも倣うように長剣をしまい、涼しい顔してすぐ傍の花壇の縁に腰掛けた。
「アル、気を付けて。そこ、今朝新しい花の種植えたところらしいから」
「わーってるって」
 雑な性格のアルに前もって釘を刺し、私はすぐ傍で風に揺られているアネモネの花に視線を落とした。
 母が好きでこの庭にはいつも四季折々の花が溢れている。アネモネは中でも母のお気に入りだ。色鮮やかで可愛らしいところが好きなのだろう。
 けれど、私はあまり好きではない。
 年頃の女の子に似合いそうな花。それはつまり、私には絶対に似合わないということ。
 逆に母なら、今でも充分すぎるほどに似合う。
 由緒ある騎士の一族に生まれついた母はその血が見事に反映されたらしく、剣の腕が立ち、当時には珍しく騎士団にも所属していた。だが、見た目は今でも二十代に間違われそうなほど若々しく愛らしい。さらさらと艶やかな金髪にアクアマリンの瞳と、まるで絵に描いたようなお嬢様然とした容姿なのだ。
 それに引き換え、私は祖母譲りの緋色の髪とヘーゼルの瞳。同世代の女の子たちに比べると背も高く、筋肉もしっかりついている。当然男ほどがっしりとした体躯ではないけれど、華奢で思わず守ってあげたくなるようなタイプでは断じてない。そうなるように自ら鍛えてきた。そうありたいと思って生きてきた。
 それなのに先ほどアルの口にした言葉が気に障って仕方がなかった。
 男に生まれればよかったのに。何度、そう思っただろうか。
 騎士の両親の元に生まれ、幼い頃から剣術や馬術を当たり前のように習ってきた。綺麗なドレスで着飾るよりも、剣を握っているほうがずっと楽しかった。だから、当たり前のように自分も騎士になるのだと思って生きてきた。
 年頃になって同世代の女の子たちがみな社交界デビューをしていくのを横目にも見ず、私は騎士になるため士官学校へと入学した。
 純粋に力だけでは体格的に男に敵うはずがない。いくら私が長身でも、男から見れば小柄に見えるだろうし、筋肉の量も質も違う。その差を埋めるために、私は知識と技術、そして生まれつき素質のあるものしか習得できない魔術を磨いた。結果として、一年飛び級で、しかも首席という成績で卒業することができた。
 明後日からはいよいよ騎士団に所属することになっている。その事実が誇らしいと同時に、余計に自分が男だったらと憂鬱な気分にさせるのだ。
「おいおい。何をそんな辛気臭いツラしてんだ? 明後日は待ちに待った騎士団の入団式だろ」
「……そうね」
 騎士団に入れることは素直に嬉しい。
 士官学校に入学しても、ろくに進級もできずに脱落していく者を何人も見た。入学したときには先輩だった人が、卒業するときには後輩になっていることだってざらだ。
 だからこそ、騎士団員になれることは本当に誇りだと思っている。けれど――。
「配属が、白騎士団じゃなかったら良かったんだけどな」
「何だよ。そんなに俺と一緒が嫌なのか?」
 にやけた顔で私の肩に腕を回すアル。その手の甲を抓って追い払うと、軽く溜息をついた。
「アルと一緒も監視されてるみたいで嫌だけど、それより……私が青騎士団だけには絶対に入りたくないって言ったからって、ジェラルド様に頼むなんて……」
 ジェラルド様というのは、四方を守る騎士団のうちの一つである白騎士団の団長だ。そして同じく青騎士団長である私の父の士官学校時代からの友人である。根本的に軽い父と真面目を絵に描いたようなジェラルド様とが気の置けない仲だなんて不思議な話だ。
 不貞腐れる私にはお構いなしに、アルは仕方ないなといった感じで弁護を始めた。
「メレディス様の精一杯の譲歩だろ。黒騎士団は関わりたくないだろうし、赤騎士団長様はおまえも知っている通りメレディス様のことを目の敵にしているからな。もしメレディス様の娘だとバレてみろ。どんな嫌がらせをされるかわかったもんじゃないぞ?」
 アルの言い分もよくわかってはいるのだ。
 黒騎士団は設立されてから年数も浅いし、何より獣人種であるラン族が多く所属している。黒騎士団の団長もラン族の長だ。黒騎士団長は穏やかな気性の方らしいが、その部下である他のラン族にはヒトを毛嫌いしている者もいると聞くし、そもそもラン族は元来好戦的な武に長けた種族なのだ。
 そして、赤騎士団の団長であるヒューイ様は父よりも十以上年上なのだが、若くして団長の座についた父とジェラルド様が揃って気に入らないらしい。
 争い事を好まないジェラルド様は当然の如く自分よりも年長者で大先輩でもあるヒューイ様を立てるように振る舞っているそうだが、父は面白がってわざと気に障るようなことをするときもあると父の配下にいる兄が楽しそうに語っていた。楽しそうにしている時点で、兄の性格もとてもよろしいとは思えないが、ともかく赤騎士団でも黒騎士団でも父や兄が心配するのは納得できるのだ。
 だが、私もいつまでも子供ではない。これからは一介の騎士として国のために働くことになる。私が本名を隠し『セラ・アステート』と名乗って士官学校に入学したのも「親の七光りを利用してお遊び気分のお嬢様が入学してきた」なんて好き勝手言われたくなかったからだ。
 それなのに、ここにきて親馬鹿を発揮し、父が誰よりも信頼しているジェラルド様の元に置かれた。これが甘やかされていると言わずして何と言えばいいのだろうか。いや、もう甘やかされているというより、侮られていると思って間違いない。
「だから、その辺はちゃんと上手くやるってば。士官学校でだって、四年間ずっとバレなかったの知ってるでしょ?」
「でも、おまえ嫌でも目立つからな。首席卒業なんだし」
「……首席、ね。そんなの毎年一人は必ずいるものじゃない」
 実技や座学で順位をつけられるのだから、毎年誰かは必ず首席になるのだ。学年によっては上位三人に食い込むことすら難しい年もあるだろう。そんなものくらいで目立つとは思えない。そう言い返せば、アルはまた苦笑を零す。
「女で首席卒業は初めてだと思うけどぉ?」
「今期は周りが不甲斐なかっただけ。もう一年早かったら首席なんかなれてないわよ」
 自然と滲んだ嫌味に、アルは「なるほどね」と左側の口角だけを引き上げた。この表情をする時のアルは、決まって嫌なことしか言わない。
「何よ?」
「白騎士団には、ジェラルド様のご子息もいるもんなー。俺たちの年の首席サマ」
 予想通りの言葉に、我慢しようとしても眉間に皺が寄ってしまった。
 レオン・アクアス。ジェラルド様の一人息子で、私より一つ年上だ。アルの言う通り、昨年今までにない好成績で首席卒業し、白騎士団に配属された。騎士の家系の子息子女は身内のいる騎士団に所属する、という慣例に従ったのだろう。私は絶対に嫌だけど。
「そんな嫌そうな顔すんなよ。悪い奴じゃないぞ? 堅物だし冗談は通じないけどな」
「あの人冷たそうだし、何か人を見下してそうで嫌」
 ぼそっと本音が漏れる。
 ジェラルド様は優しくておおらかな方で、私の中での理想の男性像だった。幼い頃には「大きくなったらジェラルド様のお嫁さんになりたい!」なんて言って、父に「そこはお父様じゃないのか!?」と嘆かせたくらいだ。
 その息子であるレオン様はまだ入団して一年しか経っていないというのに、次期騎士団長最有力候補ではないかと今から呼び声高い。
 けれど、士官学校で見かけた彼は、いつもつまらなさそうな無表情で、他人を寄せ付けない雰囲気を放っていた。唯一友人と呼べそうなのは彼の親類にあたるクラウス様くらいだろう。実際、噂でも冷静を通り越して冷淡だとまで言われているような人物だった。
 見た目は皇家の血を引く母君に似ているらしく、中性的でその辺の美人と持て囃されているお嬢様よりもよっぽど麗しく整った顔立ちをしている。その所為で、余計に冷たい印象を周囲に与えていた。
「おまえね。ジェラルド様の息子だぞ? あの方がそんな教育すると思うのか?」
「……思わないけど」
「けど、何だよ?」
 重ねて問われて思い出すのは、まだ私が五つか六つくらいだった頃の記憶。
 ジェラルド様の奥様であるラティ様――つまり、レオン様のお母様――の葬儀のときのことだ。
 悼むように霧雨が降り注ぐ中、ジェラルド様の隣に立つ綺麗な顔の少年は、どこまでも無表情でまったく感情が感じられなかった。
 たった一つしか歳が違わないはずなのに、とても母を亡くしたばかりの子どもには見えなかった。私ならきっと、悲しくて涙が止まらなくて、父や兄に縋りついて泣きじゃくっただろうと思うのに。
 あの時の冷たい表情が、私は今も忘れられないのだ。
 両親曰く、それ以前にも何度か会っているはずなのに、私の中の彼の記憶はそれが一番古い。そして、ラティ様が亡くなった後は直接彼に会う機会をことごとく避けてきた。両親やジェラルド様は何かと引き合わせる機会を作ろうとしていたけれど、私はあの冷たい瞳が自分に向けられることが怖かったのだ。
 そして、レオン様を避けたくなった理由はもう一つ。
「いくら親同士が決めたとはいえ、あんな冷血そうな人と結婚して夫婦としてやっていけると思ってる?」
 そう、私と彼とは婚約者同士なのだ。非常に残念ながら。
 私がまだ母のお腹にいた頃に父とジェラルド様で交わされた約束。それは生まれた子どもが娘だったなら、レオン様の結婚相手にしようというものだった。
 つまり、私はまだ生まれてもいないときから婚約者を勝手に決められていたのである。
 もっとも、父親たち二人はちゃんと本人の意思を尊重しようという気はあったらしく、どちらかに想う相手ができたならば婚約は白紙に戻しても構わないというルールまで決めていた。勝手なんだか子供想いなんだかよくわからない。
「……まあ、アイツが女に優しくしてる姿は確かに想像できねぇな」
「でしょ? はぁー、気が重い。普通の態度取れるか自信ない……」
 自分で言うのも何だが、私は好き嫌いがはっきりしている方だ。そして好きでもない人間に優しくできるほどできた人間じゃない。
 それでもあからさまに冷たい態度を取るわけにはいかないこともわかっている。仮にも先輩だし、年長者だし。何より、尊敬するジェラルド様の息子なのだから。
「そこまで悲観すんなよ。俺もいるんだし」
「アルに頼れるわけないでしょ。迂闊なことしたらバレる危険性が高まるんだから」
 アルが気遣ってくれているのはわかっていても、昔からの素直じゃない性格が邪魔をする。ついつい反抗的な態度を取ってしまうのは、気心の知れた幼なじみが相手だからというのもあるけれど。
「はいはい、そうですね。ったく……頑固者だな」
「うるさい」
「そういう可愛げない態度とってたら、婚約者殿にも嫌われるぞー?」 
「別に嫌われたって問題ないでしょ! 向こうから破棄してくれたら万々歳よ!」
 からかう声音に噛みつくように返し、私はアルに背を向けて屋敷に向かって歩き出す。その背後でアルがニヤニヤと顔を緩ませているだろうことは、振り返らなくてもわかってしまった。
 本当に、男ならよかったのに。そうすれば、こんなつまらないことで悩まなくて済んだのにと、心底そう思った。

 本当にそう思っていたのだ、この時は……。



 アルと実家で手合わせをした翌日、私は下っ端の騎士団員が入舎を義務付けられている寄宿舎へと引っ越した。引っ越したと言っても、寄宿舎は士官学校のすぐ近くにあり、士官学校の寮も同じ敷地内にある。卒業が確定するのと同時に騎士団への入団も決まり部屋も割り当てられていたので、荷物の搬入出はとっくに終わっていた。
 部屋に入り小さなクローゼットに上着を入れようとして気づく。白地に赤いラインの入った白騎士団の制服一式が既に支給されていたのだ。
 軽く髪をまとめ上げると、一番手前にあった正装用の長衣に袖を通してみる。これは儀式や祭礼時にしか着ることがないものだ。通常時は腰までの丈の上着を着用することになる。正装も平装も所属する騎士団の色が使われているのは、一目でその所属がわかるようにらしい。
 さすがに生地も仕立ても上質で、見た目の印象よりもずっと動きやすかった。
「まあ私の髪の色ならこの制服が一番なんだろうけど。それが唯一の救いかな」
 祖母譲りの緋色の髪は好きではないけれど、この白い制服にはよく映える。なかなか悪くはないと自画自賛したい気分になった。
 
 けれど、そんないい気分も長く続きはしなかった。
 翌日、騎士団員としての初めて登城。新人騎士である私は他の新人騎士たちと早朝から修練場の清掃を終え、その後の残った時間で鍛錬に励んでいた。
 同期を軽くいなして手合わせを終了し、その場を次の人に譲ろうと修練場の端に移動する。その途中で、自分の姿を見て固まっている長身の男性に気づいた。
 レオン様だ。いつの間にか、先輩騎士たちが修練場に集まってきていたらしい。
 「どうしてこんなところにおまえがいるんだ」とでも思っているのだろうか。レオン様の視線は驚きに彩られたまま、一瞬も私から離れることがなかった。その不躾とも言える凝視が不快に思え、思わず氷点下の口調で声を掛ける。
「何か?」
「あ、いや……。君がセラ・アステートだな? 私は君の指導係のレオン・アクアスだ」
 我に返ったレオン様は他人行儀な――と言っても本当に他人だし感覚的にはほぼ初対面だけど――挨拶を寄越した。私が素性を隠していることを一応考慮してくれたのかもしれない。
 それにしても、間近で見ると本当に嫌になるくらいの美形だ。切れ長の目はしっかりくっきり二重瞼で睫毛も長い。ダークブラウンの髪はさらさらつやつやだし、瞳は蕩けるような翡翠の色。鼻筋は通っていて口元はきりっと引き締まり、全てのパーツが完璧な位置に配置されている。きっと女装させたらさぞかし美人になるだろう。目の前に立っているだけで惨めになった。
 もし本当に彼との婚約関係が継続し、結婚にまで至ってしまったら、毎日こんな気持ちを味わわなければならないのだろうか。できればそんなことは勘弁願いたい。
「そうですか。よろしくお願いいたします」
 しかし、いくら不満があるとはいえ、ここで冷やかすぎる態度を取るわけにもいかない。何とか笑みらしきものを作り、後輩らしく頭を下げた。
「士官学校を首席で卒業したと聞いたが噂以上の腕前だな」
 首席の話はわざわざジェラルド様が伝えたのだろうか。それとも、親馬鹿な父が顔をデレッデレに緩ませながら自慢したのだろうか。どちらにしろ、面白くはない。
「レオン様に言われるとお世辞にしか聞こえませんが」
「え?」
「昨年の首席卒業は貴方じゃないですか。しかも歴代で類を見ないほどの好成績だったと窺っておりますが」
 わずかな嫌味を隠し味にした言葉に、これでもかというほどの作り笑顔を見せる。表面的な褒め言葉には、同様のもので返すのが私の流儀だった。けれど、そんな嫌味も全く通じていないのか、レオン様は戸惑ったように視線を泳がせる。
「どこで、そんなことを……」
「士官学校に在籍していたら嫌でも耳に入りますよ」
「そ、そうか」
 居心地悪そうにレオン様は視線を斜め下に落とす。その様子は私が思っていたものとは違って戸惑わずにはいられなかった。
 そこまで彼に詳しいわけじゃないから何とも言えないけれど、彼がこんな風に挙動不審になっているところなど初めて見る。
 が、すぐに思い直した。
 いるはずのない婚約者が、いきなり目の前に現れたのだ。しかも、私は社交の場に一切顔を出さないおかげで、根も葉もない噂ばかりが先行している。
 曰く、『エスクァーヴ家の深窓の令嬢は、母親に似た絶世の美少女である』だそうだ。
 いや、確かに母は美人である。娘の私が言うのもなんだけど、本当に絵本から抜け出してきたような可愛らしさと美しさを、二児の母となった今でも兼ね備えている。
 母も私と同じように騎士の道を選んでいたそうだけれど、その美しさから求婚する者が後を絶たなかったらしい。本当に私とは雲泥の差だ。
 レオン様が挙動不審なのは、きっと予想していた『エスクァーヴ家のご令嬢』とは大幅に違ったからだろう。
 きっと父のことだから、アクアス家に送った私の肖像画なんかもやたらと美化してまるで母の若い頃のように描かせたに決まっている。
 しかし、これはチャンスかもしれない。
 私は別にレオン様と結婚したいなどとは思っていないのだ。
 私の理想は飽くまでもジェラルド様のような強くて男らしくて懐の大きな男性である。いくら強くても自分よりも花が似合いそうな中性的美人は好みではないし、冷たい殿方は問題外だ。
 そして、世間一般の男性は華奢で守ってあげたくなるようなお嬢様を好むという。まかりまちがっても、同世代の男どもを蹴散らせるような可愛げのない女ではないはず。
 ならば、レオン様も今の私を見て勝手に幻滅している可能性が高い。好きな人ができたらなんて悠長なことを言うことなく、婚約を破棄してくれるかもしれなかった。
 そうと決まれば、ますます鍛錬を積み、士官学校時代に培った愛想のなさを発揮するのが一番だ。
 何とか光明が見えた。拳を突き上げて勝利宣言をあげたい気持ちを抑えながら、私は同期の男の一人を強引に捕まえ、もう一度手合わせに戻ったのだった。

 白騎士団に配属されて数日。私は表に出すことの叶わない鬱憤が、それはもう溜まりに溜まっていた。
 その鬱憤をどうにか晴らしたくて、仕事を終えて寄宿舎に戻ろうとするアルをこっそり待ち伏せし、人気のない奥の庭の方へと引っ張り込んだ。
「え? なになに? 何なのセラ。こういうのはもっと色気のある女の子に誘われたいんだけど?」
「色気なくて悪かったわね! それより、ねえ! 何なのアレ!?」
 コンプレックスをわざと刺激する軽口を呆気なく切り捨て、私は本題を突きつける。アルは目をぱちくりとさせて、不思議顔でこちらを見つめ返した。
「何なのって何だよ」
「レオン様に決まってんでしょ!」
「ああ、上手くやってるみたいじゃねぇか。あんな女の扱い、アイツにもできたんだな」
 さらに神経を逆撫ですることを興味深そうに呟くアルを本気で殴りたくなった。が、どうせこの男には堪えないとわかっている。代わりにその胸ぐらを思い切り掴み上げた。
「できたんだなー、じゃないわよ! 何であんなに気を遣われてるわけ? 所詮はお嬢様のお遊びとか思ってんじゃないでしょうね? こっちはめちゃくちゃ努力して剣も弓も魔術もものにして首席まで取ったのよ? 馬鹿にするのも大概にしてほしいわ!」
 一気にまくしたてる私に、アルは耳を押さえて顔を大仰に顰める。
 私の不機嫌の原因は、レオン様の私に対する態度の所為だった。
 配属初日、教えられる立場の私に、それはそれは丁寧にレオン様は仕事を説明してくださった。思ったよりも優しいんだなと思ったけれど、それは日が経つごとに不快感へと変わっていった。
 優しすぎるのだ。あの冷血と噂されるレオン様が。しかも、本人は気づいているのかいないのか、ときおり口元が緩んでいるときがある。明らかに、私を見て笑っていた。
 いくら今年の首席卒業とはいえ、所詮女だと、所詮七光りで騎士団に入れただけだと馬鹿にされているようにしか思えなかった。
「俺にキレるなよ。てか、レオンだってエスクァーヴ家の令嬢をそう雑には扱えねぇに決まってんだろ。アイツ、前にメレディス様のことを尊敬してるとか言ってたし」
「家は関係ないじゃない! 何の為に私が偽名使って士官学校に入ったと思ってんのよ! お父様の所為で正当に評価されないのが嫌だったからだってアルも知ってるでしょ!」
「そこまでレオンが理解してるわけじゃねぇだろうが。それに、知っちまってるもんは仕方ねぇだろ?」
 仕方がないと言われるのもわかる。いくら素性を隠していたとしても、まったく知らない振りでいろというのはなかなかに難しいものだ。
 けれど、それでもやはり『騎士』として扱ってもらえないのは悔しい。そして、そんな扱いをされるくらいレオン様の技量が私よりも上だとわかってしまうのが腹立たしくて仕方がない。
 私が彼よりも強ければ、こんなお嬢様扱いは辞めてもらえるのだろうか? けれど、残念ながらまだまだ到底及びそうにないこともわかっていた。
 レオン様達の年はいわゆる『当たり年』と言われている。レオン様だけでなく、才能豊かな人材が揃って騎士団に入団したからだ。普段チャラチャラしているアルだって、こう見えて剣術体術戦術と何でもこなせるのだ。
 一方私たちの年は『はずれ年』だと昨年から言われていた。目立った人材もなく、何より首席がずっと私だったからだ。首席が女であるというだけで、はずれ以外の何ものでもないと言われていた。
 当然、当たり年とはずれ年なら、同じ首席でもその実力に大きな差があるのは火を見るよりも明らかだった。
「……ジェラルド様もどうして私にレオン様をつけたのかしら」
 どうにかしてほしい気持ちが、尊敬するジェラルド様に対する愚痴となって零れ落ちてしまう。もちろん、本気で非難したい気持ちがあるわけではない。
「そりゃあ、婚約者同士仲良くしてほしいからじゃねぇのか?」
 アルからとどめのような言葉を返され、思わず脱力して胸ぐらを掴んでいた手がほどけた。代わりに頭を抱えてその場に蹲る。
「そうよねー! そうでしょうとも! お父様もジェラルド様も、婚約には乗り気ですもんね! あーあ、レオン様に好きな人でもできないかしら! そうしたらこんな腹立たしい思いしなくて済むのに!」
 ジェラルド様も父も、そして母までもが私たちの婚約に意欲的なのだ。一応、どちらかに想う相手ができたらなんて口では言っているけれど、本音としてはそのまま結婚してほしいと思っていることも知っている。
 だから、私の白騎士団配属も、レオン様が私の指導係についたことも、あわよくば……ということだろうと踏んでいた。
「おまえね……。冷血そうで嫌だとか言ってたくせに、優しくされたら馬鹿にされてるみたいで嫌とか我儘すぎるだろ」
「優しくされるのが嫌なんじゃないの! 騎士として侮られてるのが嫌なだけ!」
「めんどくせぇ奴だな。婚約破棄したいなら、おまえの方が好きな人できたってメレディス様に言えばいいんじゃないのか?」
 至極真っ当な意見を言うアルに思わず黙り込む。
 私だってその方法を考えなかったわけではないのだ。だが、それを実行に移すだけの行動力はなかった。
「それはそれで相当面倒くさいことになるってわかってる? お父様と……レイ兄様が」
 蹲ったまま下から睨みつけるようにアルを窺う。私の表情と沈み切った声音に、アルはすぐさま考えを改めたようだった。
「あー……だな。ないな」
 父も兄も、徹底的に私に甘い。というか、溺愛と言っていいだろう。剣術を学ばせたくせに士官学校に入り騎士を目指すことは反対されたし、それと同時に社交界デビューすることも許さなかった。後者は別に興味がなかったからいいのだけれども。
 けれど普通の親なら、少しでもいい家柄のご子息と出会えるように社交場にはどんどん出ていけと言うだろう。それを推奨しなかったのは、「レオンという婚約者がいるのに余計な虫がついたら困る」というものだった。
 そもそも、母のような美人ならともかく、私ごときにそんな虫がつくはずがないのに。まったくもって杞憂としか言い様がない。
 ともあれ、何とか父を説得し士官学校に入学したが、学生の間はずっと父と兄のチェックが厳しかった。当初は気づいていなかったけれど、父は部下の娘さんを同じ年に入学させて私の身辺調査をさせていたらしいし、アルだって私に近づく男はこっそりと排除しろと兄から命令されていたらしい。
 そこまでしてきた父と兄に好きな人ができたなどと言えば、すぐさまその男をここに呼べとか、どんな家柄でどんな性格なのかとか、根掘り葉掘り尋問されるに決まっている。そう、質問じゃなく尋問(・・)だ。その追及は留まるところを知らず、誤魔化しきれないのは明白だった。 
「でしょ。もしそうするなら、綿密に打ち合わせをした偽者の恋人でも用意しないと上手くいきっこないんだから」
「やめとけ。偽者の命が危なくなるから」
「……いっそ、アルを恋人に仕立てようかしら」
 存在しない偽者の恋人を心底心配するアルの姿に、少しだけ悪戯心を起こしてそう呟く。が、その瞬間、アルの表情がわざとらしいくらいに引き攣った。
「全力で拒否する! 俺はまだ死にたくない!」
「大丈夫よ。お父様はアルのことを買ってるんだから、半殺しくらいで終わると思うわ」
「メレディス様が生かしてくれても、レイ兄にとどめ刺されるだろ! やめてくれ!」
 悲痛な声を上げるアルに、それまで鬱屈としていた気分が少しだけ晴れる。
 何だかんだとこうやって話を聞いてくれるアルはいい男だと思うのだ。もちろん、恋愛対象として見ることは一分の欠片もない。
 けれど、この幼なじみと過ごす時間は私にとってはかけがえのない癒しの時間だった。