風にゆれる かなしの花

第一幕 風にゆれる かなしの花 04

 銀細工の店を出てからは大通りに沿って歩き市場に向かう。人の多い場所の方が賊に狙われる可能性も低いからと、あらかじめジェラルド様からの指示にあった。
 活気あふれる市場の中には、あちらこちらに私服に身を包んだ白騎士団のメンバーが紛れ込み、極力カノン様に気づかれないように様子を窺っている。時折見知った顔とすれ違っては、周りに仲間がいてくれることに密かな安堵を感じていた。
 他愛もない会話をしながら、カノン様が気になった露店を次から次へと覗いていく。こうしていると、本当に自分に姉ができたような気分になってくるから不思議なものだ。
 お茶や茶器などいくつかの品を購入して市場を抜けると、それまで抜けるような青さを見せていた空に、鈍色の雲が広がり始めていた。湿った風に土と樹々の匂いが混じる。雨が、近い。
「カノン様、少し早いですが宮城に戻った方がよさそうですね」
「そうね。今にも雨が降りそうだわ」
 カノン様が空を見上げた瞬間、ポツリ、と頬に水滴が落ちた。これは悠長にしていられないと、荷物片手にカノン様の手を引く。
「急ぎましょう」
「はい」
 ひとつふたつと落ち始めた雨粒は、すぐさま驟雨へと変化した。
 できる限り脚を急がせるけれど、カノン様と一緒ということもありなかなか速度を上げられない。濡れて滑る手を何度も握り直し、まとわりつくスカートの裾を煩わしく思いながらも駆ける脚は止めない。
 けれど、もう宮城の裏門までもうすぐというところで、カノン様がぬかるみに足を取られた。咄嗟に支えが間に合ったため、泥まみれになることがなかったのは幸いだ。
「大丈夫ですか?」
「ええ。ごめんなさい。日頃の運動不足が祟ったわ」
 冗談めかしながら私を支えに体勢を直し、もう一度宮城に向かおうとする。が、一歩踏み出した途端にカノン様は顔を顰めた。
「カノン様?」
「ごめんなさい、セラ。少し足を捻ったみたい」
 申し訳なさそうに告げるカノン様を安心させるように笑みを返す。
「これ、持っていただけますか?」
「え? ええ。はい」
 何をするのだろうと不思議顔のカノン様に荷物を預けると、失礼しますと声をかけ、そのまま横抱きに抱き上げた。さすがに長時間は無理だけれど、もうすぐそこに見えている裏門くらいまでなら充分に運べる重さだ。捻った足を引き摺って歩かせるより、ずっと早いし悪化もさせなくて済むと判断してのことだった。
「ええっ!? せ、セラ! 重いからおろして!」
「何言ってるんですか、軽いですよ。それに、カノン様がお怪我なさったのは私の落ち度ですから。早速先ほどの約束を果たしていただけますね」
「普通にセラの責任じゃなくて私が鈍臭いだけだけど」
 恥ずかしそうに呟くカノン様に小さく笑みを零すと、早足で裏門へと向かい始める。
 けれど、私はすぐに脚を止めた。
 雨で悪化した視界の先、立ちはだかるように人影がいくつか現れている。はっきりとはわからないが、少なくとも十人近くはいそうだ。揃って顔を隠すように布を巻いている。
「まさか、目と鼻の先で狙ってくるとはね」
「セラ……」
 宮城のすぐ傍とはいえ、裏門側は人気が少ない。更にこの雨で、通りかかる人間は皆無だろう。雨が計算に入っていたかどうかはわからないけれど、計画的にここを選んだだろうことは窺えた。
 不安そうにしがみつくカノン様の背中をそっと撫でる。私が弱気になってしまっては意味がないのだ。
「大丈夫ですよ。カノン様は絶対に守りますから」
 力強く請け負うけれど、状況はけっして芳しくはない。足を痛めているカノン様は走れないし、真っ向から迎え撃つとしても多勢に無勢だ。それに、相手がどの程度の実力を有しているのかもわからない。
 考えている間にもじりじりと窺うように近づいてきている奴らに、牽制しながらも背後の様子を窺った。
 白騎士団の面々も無能なわけじゃない。誰かが気づいて援護に来てくれることも充分に期待できる。
 時間を稼ぐため、そして後方から追跡してきてくれているはずの白騎士団員と合流するために、カノン様を抱き上げたまま素早く踵を返した。が、振り返ったその先にも、正面にいる者たちと同じような布で顔を隠した奴らの姿があった。
 おかしい。いくら何でも、他の白騎士団員たちがこんな怪しい連中を放っておくわけがない。未だに駆けつけてくる様子が微塵も感じられないのも変だ。つまり、こちらの想定の範囲を大きく逸脱している状況になっているに違いなかった。
「……カノン様、この場で動かないでくださいね」
 覚悟を決め、カノン様をその場に下ろす。
 隠し持っていた小剣を鞘から引き抜くと、指先を軽く撫でて小さな傷を作った。零れ出た紅い雫を一粒、カノン様の目の前に落とすと、それを媒介に通常よりも強固な風の防御壁を張る詠唱を素早く行う。目に見えない空気の層がカノン様を包み、物理攻撃を一定時間無効化できる壁の出来上がりだ。
 そうして今度は小剣を逆手に持ち直し、濡れて深緑に変わったワンピースの裾を膝上程度で切り裂いた。
 まったく、女のような格好なんてするもんじゃないとつくづく思ってしまう。
「セラ、何を……」
「やれるだけやります。大丈夫。すぐにレオンさんたちも来てくださいますから」
 他の騎士団員たちがどうなっているのかはわからないけれど、今は自分の最大限の能力でカノン様を守るしかない。
 小剣の柄を握り締め、まずは人数の少ない後方に向かって思い切り地を蹴った。突然の攻撃態勢に、賊たちは一瞬面食らうが、すぐに我に返ってそれぞれ得物を振るい始める。
 動きが遅れていた一人の懐に入り込み、腹を薙いだ。痛みで零れ落ちた細剣をついでに拝借すると、背後からの剣戟をそれと小剣で受け止める。使い慣れた双剣には劣るが、それでも二本の武器が手に入るとかなり助かった。
 賊の攻撃をぎりぎりで避けながらカノン様の方を見ると、前方にいた奴らが取り囲んでいるのが見えた。が、彼らに為す術があるはずがない。カノン様に施した防御壁は、風の精霊の防御魔術の中でも最高峰のものだからだ。あれを解除するには、同レベルの炎の攻撃魔法か術士である私を殺すしかない。
 それでも不利な状況は変わらなかった。賊の剣術は思った以上に卓越している。無駄がないし、的確にこちらの急所を突いてきた。明らかにしっかりと訓練を受けた動きだ。
「つっ! ……フラム!」
 足場の悪さに体勢を崩したところを狙われ、咄嗟に炎の精霊名を叫ぶ。詠唱を省略した術は、効果が弱くとも相手の隙を作ることくらいならできた。現れた火球が切りかかろうとしていた男めがけて飛んでいき、顔を覆っている布に移る。炎に襲われた男は慌てて布を外して放り投げた。
 その、わずかに火傷を負った顔に、息を呑んだ。
「……貴方は……赤きっ……くっ!」
 皆まで言う前に、別の方向から攻撃を受け、身を翻すも左肩に熱い痛みを覚える。取り
落としそうになった小剣を何とか握ったまま、大きく跳んで賊から距離を取った。
「どういう……ことですか……」
 信じられない思いに、声が震える。
 顔を晒した男を、私は知っていた。いや、知っていると言っても親しい間柄と言うわけではない。けれど、何度も宮城内で顔を合わせていたし、まさかこんなことに手を貸すような人物だとは微塵も思っていなかった。
 男は、赤騎士団に所属する騎士の一人だったのだ。
 こんな馬鹿げたことをするために、この人は血の滲むような努力を積み、騎士になったというのだろうか。
「これは、誰の命令ですか!? ヒューイ様がこんなことを許されると――!」
「もちろん、許すに決まっているだろう」
 怒りと情けなさに上擦った叫びは、やけに嬉しそうな声に打ち消された。
 声の方に振り返ると、そこには他の男たちと変わりのない、地味で質素な服をまとった中年男性が一人。
 しかし、そんななりでも騎士として最上の位を持つその人の威厳はいささかも失われてはいなかった。余裕のある手つきで、顔を隠す布が外される。
「ヒューイ、様……? どうして、貴方がこんな……」
「気に食わないからだ、メレディスの娘よ」
 思いがけず父の名を出され、息が詰まる。私がエスクァーヴ家の娘だと、とっくに調べがついていた?
「……父が気に食わないことと、カノン様を害そうとされることは関係ないのでは?」
「メレディスだけではない。ジェラルドも、儂を差し置いて御使いの守護を受けるなど」
「御使いの、守護?」
 何の話かよくわからないけれど、恐らくカノン様が白騎士団に預けられた理由はそこにあるだろうことは私にもわかった。そして、それがヒューイ様にとっては非常に面白くなかったことも。
「それに、儂は御使いを害そうなどという気はないぞ? ただ、儂がジェラルドの代わりに守護してやろうと思っておるだけだ。ついでに、メレディスの溺愛している娘を傷物に
できれば万々歳というところだな」
「……騎士団長にもなられる方なら、もっと器が大きいと思っていましたけど」
 つまらない嫉妬。つまらない功名心。今のヒューイ様の中にはそんな醜いものばかりしかないようだった。立場ある方なだけに嘆かわしい。
 揶揄するように嗤った私に、ヒューイ様が片眉を上げ、口元を嫌らしく歪める。
「父親に似て口が減らないようだな」
「ええ。それと、父と同じく騎士の品位を落とすような真似だけはいたしません。貴方とは違って」
「小娘が!」
 ヒューイ様の怒声と同時に、それまで私たちのやりとりを黙って見ていた赤騎士団員たちが一斉に動き始めた。
 さすがにこれだけの大人数と騎士団長が相手ではもう無理かと思ったその時、左肩から流れた鮮血が雨に溶けて地面に広がっていくのを目にする。直後閃いた私は最後の賭けに出た。
「ストラムの舞、フラムの歌。縒りて合わさり、天に届かん!」
 その詠唱は、普段は絶対に使うことのない風と炎の合成魔術。雨の所為で火力は多少落ちるものの、この場にいる魔術耐性の低い騎士を一掃するには充分な威力があるものだった。
 ごうと唸りを上げて炎をはらんだ嵐が巻き起こる。苛烈な炎嵐は予想通りほとんどの騎士たちを薙ぎ倒し、焼いていった。
 がくんと、地面に膝が落ちる。合成魔術は、通常の魔術とは比べものにならないほど精神力と体力を奪っていくもの。だから、本当にどうしようもないとき以外には使うなと魔術の師からも言われていた。今まさしくそれを実感する。
「カノン様……」
 視界が霞みそうになりながらもカノン様を見やると、防御壁の向こうで今にも泣きそうな顔でこちらを見ているのがわかった。
 いつも通り、安心させるように笑みを作る。
「……今、そちらに行きますから」
「行くのは御使いの元ではなくあの世だ、小娘」
 呪詛にも似た低い声が降ってきたかと思うと、背中から腹にかけて灼熱が襲った。
「うあああっ!」
 口から迸る悲鳴を、どこか他人事のように聴く。乱暴に剣を引き抜かれ、傷がさらに広がった。
「合成魔術まで使えるとはな。あの方から頂いた防魔の腕輪がなければ危なかったぞ」
 防魔の腕輪? まさか、ヒューイ様がそんなものまで周到に用意しているとは思いもしなかった。完全な私の失策だ。
 それでも、私はカノン様を守らなくてはいけない。何としてでも、カノン様だけは。そう思うのに、体が全くいうことをきかない。指一本動かすことすら叶わなかった。
「このまま放っておいてもいいのだが、苦しませるのも可哀想だ。すぐに楽にしてやる。メレディスの顔が今から見物だな」
 ひゅっと剣が空を切る音が雨音を裂く。わざと聴こえるように勢いよく振り上げたのだろう。どこまでも陰湿な性格をしているものだと感心するほどだった。
「安心しろ。そのうちすぐにメレディスやジェラルドも送ってやる。ああ、婚約者だというジェラルドの息子も一緒にな」
 レオンさんのことを持ち出され、頭の中に難しそうな表情をした彼が思い浮かぶ。
 レオンさんは、少しくらいは悲しんでくれるだろうか。それとも、カノン様を守り切れない私に怒りを覚えるだろうか。
 きっと、怒りを覚えながらも多少は悲しんでくれるだろう。あの人は優しい人だから。
 そう思うと、少し救われる気がして、こんなときなのに微かな笑みが浮かぶ。
 そうして私は、もう一度空気を裂く剣の音を聴くこともなく意識を手放した。



 遠くで何度も名前を呼ばれた気がした。
 その声はとても必死で、悲痛で、聴いているこちらの胸まで痛くなるほど切羽詰まった響きを持っていた。
 声に聞き覚えがある気がするのに、その持ち主が誰なのかが判然としない。頭に霞みがかかったようにまったく働かず、やがて深い眠りに落ちていく。
 
 浅い眠りと深い眠りを繰り返し、ようやく意識が確かなものになった。
 どれくらい眠っていたのだろうかと、ぼんやりとした頭のままでしばらく考える。
 視界を巡らせると、ここは宮城内の医務室にある個室だとわかった。
 個室には通常、重傷を負った者が運び込まれるはずと思い至り、ようやく私は自分の身に何が起こったのかを思い出した。
 カノン様の護衛中、賊――と言うべきなのか迷うが――に襲われ倒れたのだ。
 あの時、間違いなく自分は死んだと思った。それくらい酷い傷を負っていたし、それ以前にほぼ自分の力を使い切っていたからだ。
 それなのに無事であることに不思議な気持ちを覚えながら、刺されたと思しき腹の辺りに手を滑らせる。そこには包帯がしっかりと巻かれ、あの出来事が夢ではなかったのだと教えてくれた。
「……案外しぶといのかな、私」
 ぽつりと呟いた言葉には、苦味が混ざっていた。カノン様を守り切れずにこの体たらくでは、レオンさんにもジェラルド様にも合わせる顔がない。父の顔にも泥を塗ってしまったことだろう。
「そういえば、カノン様は……」
 私が生きているということは、誰かがあの場に現れて私とカノン様を助けてくださったということだ。白騎士団の誰かが駆けつけたのだろうか? けれど、相手はあの赤騎士団長のヒューイ様で、生半可な相手では到底敵うはずがない。腐っても赤騎士団長。剣の腕は確かなのだ。
 まだ回転の悪い頭を必死に働かせていると、個室のドアが静かに開いた。ひょこりと何だか懐かしさすら覚える幼なじみが顔を覗かせる。
「セラ! 目が覚めたのか! まったくおまえは無茶しやがって……!」
「アル、カノン様は? それから……ヒューイ様はどうなったの?」
 思うように動かない体を無理やり起こし、ベッド脇にきたアルの腕を掴まえた。途端に走った痛みに崩れそうになった体をアルが支えてくれる。
「落ち着け。カノン様は足を捻った以外は無事だ。あと、赤騎士団の件については、ジェラルド様が直接教えてくださることになってる。セラが起きたと知らせてくるから、ちょっと待ってろ」
 少し強引にベッドに戻され、アルは大人しくしていろと念押ししてからまた部屋を出ていった。その後姿を見送って、少しだけホッとする。
 カノン様に手出しはされなかった。それだけでも、私が傍にいた意味はあったと思いたい。
 安堵の息を大きく漏らすと、今アルが出ていったばかりの扉がまた開くのに気付いた。
 アルが戻ってきたにしては早いなと視線を向けると、そこにいたのは冷え冷えとした表情をしたレオンさんだった。私の横になっているベッドの脇まで来ると、肩の傷に目を向け、無言のまま顔を顰める。
「レオンさん……。すみませんでした」
 大きな怪我はなかったとはいえ、カノン様を危険な目に遭わせた事実は覆らない。不甲斐ない後輩だとさぞ腹立たしいことだろう。申し訳なさから謝罪すると、レオンさんの眉間の皺がより一層深くなった。
「君が謝る必要はない」
「ですが、私は最後までカノン様をお守りすることができませんでした。これではカノン様のお傍に仕えるに相応しくないですね」
 この状態では、しばらく剣を握るどころか歩くのも一苦労だろう。いずれにしろ、失態を犯した私はカノン様の警護を外されて当然だった。
「そんなことは誰も思っていない。君は充分にカノン様を守ったし、君以外ならもっと悲惨な結果になっていた可能性の方が高い」
 カノン様に施した防御魔術のことを言ってくれているのだろう。確かにあれは、他の騎士にはなかなか使うことができないものだ。けれど、言葉とは裏腹にレオンさんの声にはずっと怒りが滲んでいた。理性ではわかっていても、私の不甲斐なさが許せない、といったところかもしれない。
「だが……、どうしてあんな無茶をした。最高位の防御魔術を使いながら、傷を負った状態で炎と風の合成魔術を使うなど、考えなくとも命を失いかねないとわかるだろう」
「それ以外に、カノン様を守る術を私は持っていませんでしたから」
「そういう問題じゃない!」
 滅多に荒げることのないレオンさんの怒声に、唖然として固まってしまった。
 そういう問題じゃない? ならば、どういう問題なのだろうか。魔術の使いすぎで体が動かなくなるなど、騎士として言語道断だということ、なのか。ならば、私はあの時、どうすればよかったのだろう。
 正解を導き出す手がかりすら見つけられずにいると、レオンさんは苦しそうに何かを小さく呟いた。あまりにも弱々しいそれは、何と言ったのか全く聴き取れない。
 いたたまれなくなって、私はアルの言いつけを破り、ベッドから体を起こした。
「レオンさん、本当にすみませんでした。私にもっと力があれば――」
 慎重に体を起こしたつもりだったけれど、謝罪の途中ですっと血の気の引く感覚に襲われた。体を支えようとする前に、レオンさんの腕が私の体をすくい上げるように抱き留める。
「す、すみません」
 一瞬で縮んだ距離に、焦って身を引こうと逞しい胸を押した。けれど、背中に回ったレオンさんの手にぐっと力が籠められ、離れることができない。まるで抱き締められるような姿勢に、何がどうなっているのかがわからなくなる。
「あの、レオンさん?」
 私の声に、レオンさんはハッと我に返り、すかさず体を離して背を向けた。そして、すまないと短く告げると、足早に部屋を出ていってしまう。
「何、今の……」
 わからないことだらけだ。どうして抱き締められたのか、どうして謝られたのか。
 そして、あれほど怒っていた理由が何なのかも。いくら考えても答えが見つからない。
 けれど、ほんの一瞬とはいえ抱き締められた感触が、ぬくもりが、まだ残っている。
「……やめてよ、もう……。せっかく、諦めようって決めたんだから……」
 私の入り込む隙間など髪の毛一本ほどもないのだと痛感したからこそ、私は二人の幸せを祈ることにしたのだ。たとえ添い遂げることが叶わなくても、二人の時間が満たされるものになるように。
 その決死の覚悟を崩さないでほしい。私に気持ちが向けられることなどないとわかっていても、あんな風に触れられたら有り得ない期待を抱いてしまうから。
 こんこんと、扉がノックされる。今度はアルが呼びに行ったジェラルド様だろう。
 滲んでいた涙を拭い、はいと返事をすると、予想通りジェラルド様がアルを連れて部屋に入ってきた。
「セラ、ちゃんと寝てろって言っただろ」
「ごめん」
 体を起こしたままだった私を叱りながらも、アルは横になるのを手伝ってくれる。
 私がベッドに逆戻りすると、ジェラルド様はすぐ側に置かれていた椅子に腰掛け、案じるように顔を覗き込んだ。
「すまなかったな、セラ」
「いえ。こんな不甲斐ない姿を見せてしまい、申し訳ありません。カノン様も危険に晒してしまって……」
「それは違う。全ては私の責任なのだ」
 精悍な顔に苦痛を滲ませて、ジェラルド様は再度すまなかったと頭を下げる。慌ててやめてくださいと言ってもジェラルド様はお構いなしにさらに謝罪を重ねた。そんなに謝られては居心地が悪くて仕方がなかったが、いくらお願いしてもジェラルド様はなかなか顔を上げてくださらない。
 ようやく顔を上げてくださったジェラルド様は、軽く息をつくと決心したように口を開いた。
「ヒューイ殿がカノン様を狙っていることは、薄々気づいていたのだ」
「え?」
「メレディスが……メルが、赤騎士団の一部に不審な動きをしている者がいると教えてくれた。私が直接白騎士団を動かすわけにはいかなかったから、メルと陛下に青騎士団と近衛騎士団で探ってほしいとお願いし、確実な謀反の証拠を掴むためにカノン様の外出を計画したのだ。セラを護衛に選んだのは、ヒューイ殿を油断させるためと、いざとなればセラの防御魔術があると踏んだからだった。だが……」
 そこまで一気に話すと、ジェラルド様は苦しそうに眉根を寄せて、ベッドの上に置かれたままだった私の手をぎゅっと握る。すまなかったともう一度謝罪が零れた。
「私の見込みが甘かったのだ。レオンにも、セラたちを囮にするなんてと叱られた」
「レオンさんなら怒っても仕方ないですね」
 ジェラルド様の言葉に、ようやくレオンさんが纏っていた怒りの正体を理解した。
 レオンさんは、ジェラルド様の計画に憤っていたのだ。それが一番の方法だとわかっていても、自分の大切な人が危険に晒されることを喜ぶ人間はいないだろう。
 そして、そんな方法を採らねばならない自分の無力さを呪ったに違いない。怒りの矛先が他人よりも自分に向かう人だから。
「今回の件に絡んでいる者は、ヒューイ殿を含めて全て厳重に処罰されることがもう決まっている。セラは充分すぎるほど務めを果たしてくれた。あと数日ここで様子を見て大丈夫そうなら、一旦家に戻って完治するまで静養すればいい」
「わかりました。ありがとうございます」
 いい機会だと思い、素直に礼を述べた。
 実家に戻ればレオンさんと顔を合わせることは絶対にない。離れていれば、余計なことに心を乱されることもなくなるし、もしかするとレオンさんに対する気持ちも薄らぐかもしれなかった。
 一通り話すべきことを話し終えたのか、ジェラルド様は早々に部屋から出ていかれた。
 赤騎士団長の反逆罪という緊急事態のおかげで、仕事は山積みなのだろう。きっとジェラルド様だけでなく父も走り回らざるを得ない状況になっているに違いない。
 状況の理解といくつかの疑問が解消された所為か、唐突に眠気に襲われる。まだレオンさんの行動の意味だけはわかりかねたけれど、考えるとともに思い出されるぬくもりの煩わしさを消したくて、そのまま誘われるように眠りに落ちていった。


 目覚めた日から三日ほど宮城内で過ごした私は、何とか自力で歩ける程度には回復していた。あれほどの大怪我を負っていたのにと自分でも不思議だったが、アルからカノン様の御使いの力のおかげだろうと教えられた。
 曰く、瀕死の私にカノン様が触れた瞬間、辺りは突如眩い光に包まれたらしい。そしてその光がおさまると、意識を失っていた私が一瞬目を開けたそうだ。そうして運び込まれた医務室で医師が診察を始めたところ、治癒魔術でもかけられたかのようにすでに傷が塞がっていたらしい。もちろん、治癒は高等魔術の一つで、しかもあれほどの重傷を即座に治せる者などこの国には皆無だ。診てくれた医師も、カノン様のお力だと判断したのだろう。件の光を目の当たりにした人たちは口々に御使いの奇跡の力を讃えたそうだ。
 結局私は、カノン様を助けたつもりで、逆に助けられていたのだ。情けなさに唇を噛んでみてもその現実は変えられない。明日には一時帰宅することだし、帰る前に一度カノン様にお会いして、お礼を述べなければいけなかった。
 まだ怠さの残る体を何とか起こし、アルに頼んで持ってきてもらっていた騎士団の制服を身に着ける。数日ぶりに歩く宮城内は相変わらず慌ただしく、それがひどく懐かしかった。
 通い慣れた道順でカノン様の部屋に辿り着く。重厚な扉をノックし名を名乗ると、返事より先に勢いよく扉が開いた。開くと同時に飛び出してきたカノン様に、力いっぱい抱き締められる。
 部屋の中には驚き顔のクラウス様が一人。どうやらレオンさんもアルも席を外しているようだった。
「セラ! ごめんなさい!」
「カノン様、謝るのは私の方ですから。とりあえず、お部屋に入れていただいても大丈夫ですか?」
「ええ、もちろんよ! 傷はまだ完全に癒えてはいないのでしょう? こちらに座って。お茶を用意してもらうわ」
 甲斐甲斐しく私の世話を焼こうとするカノン様に困惑と呆れと喜びが入り混じる。
 こんな風に心配され、大切にされていたのだと思うとくすぐったいのだが、それと同じくらいに主に世話を焼かせることに抵抗を感じるのだ。どうしようか迷っていると、成り行きを見守っていたクラウス様が助け船を出してくれた。
「カノン様、セラと久しぶりに会えるのが嬉しいのはわかりますが、もう少し落ち着かれてください。セラも長居をするつもりはないのだろう?」
「はい。カノン様、私は明日には自宅に戻ることになっております。こんな形でお傍を離れることになって申し訳ございません。それから、カノン様のお力で私の傷を癒していただいたこともアルから聞きました。本当にありがとうございます」
 深々と頭を下げると、カノン様は目に見えて愁い顔になった。そんな言葉など聞きたくないと言わんばかりに頭を振る。
「私は何もしてないわ。セラを助けたいと思ったら勝手に力が発動しただけ。自分の意思で使ったわけじゃないもの」
 どうやら、御使いの力というものは、簡単に思い通りに使いこなせるものではないらしい。つまり私が助かったのは、本当に奇跡とも言える偶然だったのだ。
「それでも、私が今こうして生きていられるのはカノン様のおかげです。もうお傍で仕えることは叶わないかもしれませんが、例えそうなったとしても私はこれからもずっとカノン様をお守りすることを誓います」
 カノン様の目の前に跪き、騎士の忠誠の礼を示した。すると今度は大きな黒い瞳にいっぱいの涙を溜めて、カノン様は私の目の前に膝をつく。そうして私の体をもう一度抱き寄せた。
「そんなこと、言わないで。怪我が治ったら、またここに戻ってきてちょうだい。私は、セラに傍にいてほしいわ。レオンたちと、待っているから……」
 レオンたちと。その一言に抉られる傷があるけれど、それに気づかないふりで笑みを浮かべる。気づかれてしまえば、きっと優しいカノン様は悩み傷つくはずだ。
「……では、ジェラルド様にカノン様からお願いしておいてください」
 綺麗な涙をいくつも零す頬を指先で拭い、抱きかかえるようにしてカノン様を立ち上がらせた。涙で言葉に詰まったカノン様は、ただ何度も頷く。十以上も年上なのに、やっぱりこういうところは少女のようだった。
「それでは、私はこれからジェラルド様にもご挨拶しないといけないので、失礼いたします」
「ゆっくり体を休めてね。多少元気になったからって、すぐに剣を持っちゃ駄目よ?」
「……わかりました。善処します」
 存外私の性格を理解しているらしく、しっかりと釘を刺してくるカノン様に感心しながら笑みを返す。一礼をしてから退室すると、今度はジェラルド様の執務室へと向かった。
 ジェラルド様は現在多忙を極めておられるから、もしかしたら簡単には捉まらないかもしれない。そうなればまた出直さねばと考えながら歩みを進めていると、視界の端に白いものを捉えた。
 後宮の別室から騎士団員が普段過ごしている棟へと移動するその途中の渡り廊下から、中庭の端に探していた人物の後ろ姿が見えた。隣には、幸か不幸か父もいる。
 ちょうどいいと声を掛けようとした瞬間、思いもよらぬ言葉が聞こえてきた。
「レオンが?」
 婚約者の名を口にしたのは父だった。
 父の問いかけに、ジェラルド様は神妙に頷くと、大きな溜息をつく。
「ああ。随分と思い詰めた顔で会いに来たかと思えば、『婚約を白紙に戻してほしい』と言い出してな」
 ――婚約を、白紙?
 ジェラルド様の言葉に、全身が震え出すのがわかった。
「どうして突然そんなことを……」
「わからない。俺が問い質しても、レオンは『不誠実なことはしたくない』としか言わなくてな」
 目の前が真っ暗になり、全ての音が消えたかのような錯覚すら覚える。
 レオンさんが、私との婚約をなかったことにしたがっている。どうしてと父もジェラルド様もわからない風だったが、答えは簡単だ。
 私が、カノン様を守れなかったからだ。仕方がなかったと理解していても、口では充分に務めを果たしたと言ってくれていても、心の中ではカノン様を守り切れなかった私を許せなかったのだ。
 そして、カノン様への想いがあるから、形だけとはいえ他の女を妻になんてしたくはなかったのだろう。それは、カノン様に対しても私に対しても不誠実になってしまうから。
 どこまであの人は馬鹿正直なのだろう。そして、どこまで優しくて残酷なのだろう。
 私はただ、気持ちなどなくても傍にいられれば良かったのに。
 くるりと踵を返し、別のルートを通って寄宿舎の自室に駆け込む。慣れ親しんだ自室に戻ると、ベッドに倒れ込み、そのまま必死に零れ出る嗚咽を殺した。
 傍にいることさえも許されなかった。見守ることすら、させてもらえなかった。
 私がささやかだと思っていた望みは、本当は指先すら掠ることもできない泡沫の夢でしかなかったのだと徹底的に思い知らされたのだった。