片恋水葬

ワガママ女とヒネクレ男

 フロントガラスを叩く雨音が、いささか弱くなったようだ。カーステレオで時間を確認すると、俺がこの場所に車を止めてから、一時間ほどが経過していた。
「そろそろ、か……」
 小さく呟くと、倒していたシートを起こす。
 車内から外の様子を窺うと、色とりどりの傘を持った通行人が何人か歩いていた。時折水溜りの泥水を撥ねる車に、恨みがましい視線を送る人もいる。
 そんな中、一人だけ傘も差さずに歩いている女がいた。雨脚はそれほど強くはないが、傘がまったく不要というほど弱くもない。それなのに、まったく意に介さない様子で――むしろその雨を望んで受けているようにすら見える――その女は毅然と歩いていた。
 俺は携帯電話を取り出し、短縮ダイヤルの『1』を押す。ほどなくして相手が電話に出ると、よう、と馴れ馴れしい口調で呼び掛けた。返った声には、今は少しだけ虚無感が滲んでいた。
「今、大丈夫か?」
『大丈夫だけど、どうしたの?』
「そのまま、左向けー左!」
 まるで消防士の訓練のような口調で言うと、傘を差さずに歩いていた女がこちらを向く。そして、すぐにこちらに向かって歩いてきた。
 素早くエンジンをかけ、パワーウィンドウを下げる。目の前まで来た彼女に向かって、まあ乗れよ、と促した。
 怪訝な表情をした彼女だったが、言われた通り大人しく助手席側のドアを開ける。
「こんなところで何してんの?」
 席に収まり、シートベルトを装着しながら、彼女――紗貴は少々不思議そうに問いを寄越した。
 当然だろう。別に俺は紗貴と待ち合わせをしていたわけではないのだから。
「ああ、ちょっと待った。その話は精算終わってからな」
 そう言い残すと、紗貴を置いて車を降りる。愛車を停めているスペースの番号を確認すると、精算機へと向かった。千円弱ほどの料金を支払うと、ロック板が下がるのを確認して車に戻る。
「で?」
 運転席に座るか座らないかのタイミングで、紗貴が話の続きを促した。せっかちなヤツだと苦笑しながら、俺はシートベルトをつけると、ギアを入れ替えアクセルを踏む。
 ワイパーを入れると、フロントガラスに溜まった雨粒が固まり、面白いほどするすると流れ落ちていった。
「そろそろ、話が終わる頃かなーと思って、な」
「……慰めに来てくれた、ってわけ?」
「は? 何ソレ? おまえ、俺なんかに慰めて欲しいわけ?」
「じゃあ、何でわざわざ待ち伏せみたいなことすんの? 悟に来てほしくて教えたわけじゃないんだけど?」
 ますます訝しむ様子の紗貴だったが、俺はあえて何も返事はしなかった。
 ゆっくりと走りだした車は、大通りから外れて山手に向かっている。紗貴はそれに気づき、どこへ行くつもり? と短い問いを寄越した。
「そいやリアの紙袋にタオル入ってるし、使っていいぞ」
 まったく答えとは違う台詞を投げかけると、そんな会話に慣れっこな紗貴は顔を少しだけ顰める。
「車用じゃないでしょうね?」
「違うっつーの。ほら、この間みたいに、急に海行くとかなったら困るだろうと思ってだな、綺麗なのを常時積んでおくことにしたんだよ。俺は千夏には優しいからな」
「ああ、そういうこと」
 俺の説明にあっさりと納得すると、紗貴は体を捻るようにして後部座席に手を伸ばす。手探りでタオルの入った紙袋を探し当てると、遠慮なく髪や服の水分を拭き取り始めた。
「拓人、どうするって?」
 唐突に話を変えると、紗貴の表情が一瞬強張る。けれど、すぐさまそれはほどけ、優しさと憂いに満ちた笑みを浮かべた。
「迎えに、行くって」
「そっか」
 淡白な答えに、淡白な言葉で返す。そのまま、しばらくお互い何も言えなくなった。
 カーステレオは切ったままだった。カタンカタンと、定期的に刻まれるワイパーと、勢いよくタイヤにはね飛ばされる水の音ばかりが耳に響く。
 こっそりと横目で紗貴の表情を窺うと、微かに目が赤くなっているのがわかった。
 ――ああ、泣いたんだな。
 きっと、俺に会うまでの間にたくさん涙を流したのだろう。
 それは、当たり前すぎる事実だった。何故なら、紗貴はつい先ほど、付き合っていた恋人に別れを告げに行っていたのだから。そして、今でもその恋人のことを深く想い続けているのだから。
「おまえにしては、頑張ったな」
 左手をそっと伸ばし、まだ乾いていない頭をぽんぽんとあやすように撫でる。いつもの紗貴ならばその手を冗談っぽく振り払うところだったが、今日は大人しくされるがままで俯き、
「……バカ」
 ただ一言、ワイパーにかき消されそうな声で呟いた。

 紗貴がようやく顔を上げた頃、ワイパーはすっかり仕事を失い、大人しくフロントガラスの下端で横たわっていた。窓の外を流れる景色も、少しずつ色鮮やかさを取り戻している。
 タイミング良く目的地に辿り着くと、車を停めて紗貴を車外へと促した。
「綺麗」
 展望台に辿り着いた紗貴は、目の前に現れた光景に、感嘆の声を洩らした。
 そこは、この街では夜景の名所として有名な高台にある公園。公園とはいっても、遊具のようなものはなく、少しばかり拓けた場所に十台ほどの駐車スペースと、小さな展望台があるだけの名ばかりのものだ。
 しかし、名所と呼ばれるだけあって夜の眺望は素晴らしかった。何度かいつもつるんでいるメンバー――紗貴と拓人と千夏の四人――で見に来たこともある。
 ただ、まだ陽の残るうちに来たことはなかった。いつも見ていたキラキラと瞬く光の群れの代わりに、今は黄昏に沈みゆく街並みが、しっとりと濡れて佇んでいる。その街を見下ろすようにうっすらと七色の橋がかかっているのが、どこかノスタルジックな気分にさせた。
「知らなかった。ここって、夜景だけじゃなかったんだ」
「実は、な。せっかくだし、とっておいたんだよ」
 夜景のような煌びやかさはないけれど、穏やかに包み込むような慈愛を感じさせる灯ともし頃のこの景色が、俺は好きだった。だから、いつかこの景色を見たいと思っていたのだ。好きな相手と、二人だけで。
「せっかくとっておいたのに、フラれ女を慰めるためだけに教えてくれたの?」
 少しずつ影を濃くしていく街並みに目を向けたまま、紗貴は自嘲気味に笑う。
「だから、何で俺がおまえを慰めなきゃなんねーの。時間の無駄だろ」
 呆れたように言いながら、俺はポケットから取り出した煙草を口にくわえた。宵風に揺られるライターの炎を庇いながら、火をつける。ゆっくりと吸い込んだ紫煙が肺を満たしてゆくのに心地良さを感じながら、煙に溜息を混ぜて吐き出した。
 突き放すような言葉とは裏腹に、紗貴の指摘は間違ってはいなかった。初めて会った頃から俺は紗貴が好きだったのだ。一目惚れ、と言っていいだろう。
 けれど、紗貴は拓人に惹かれていた。紗貴の視線が、いつも拓人を追っているのを、俺は知っていた。
 だが、幸か不幸か、その拓人の気持ちは、千夏に向いていて、千夏も拓人を好きだった。だから、いずれは拓人と千夏が付き合い、紗貴の恋が叶うことはないだろうと楽観視していた。
 そんなある日、千夏から電話が来た。千夏には以前から、拓人のことで相談を持ちかけられていたのだ。しかし、日曜のまだ早い時間にかかってきたその電話は、相談ではなかった。
 ――拓人の家から、紗貴が出てきた。
 悲痛な、声だった。
 何かの間違いじゃないかと言いながらも、頭の中では自分の言葉を否定していた。休日の朝に、男の家から女が出てきたら、一夜を共にしたと考えるのが普通だ。それなりの年の男女なのだ。何もないはずがない。
 そもそも紗貴は、いくら親しくても恋人でもない男の部屋に軽々しく泊まったりするような性格ではない。それに、拓人は俺と同じように車を持っている。「終電が無くなって仕方なく」というパターンも有り得ないのだ。
 何とかその場は千夏を宥めたが、後日俺は直接紗貴に確認した。答えは、俺と千夏の希望を見事に打ち砕いてくれた。
 そして、さらに追い打ちを掛けるように言い放った。
 ――悟も頑張ってね。千夏と悟ってお似合いだと思うよ。
 紗貴は、俺が千夏に惚れているものだと思っていたらしかった。
「ねえ、どうして?」
「何が?」
「私は、友達の好きな人を横からかすめ取っていったような女だよ? 最低なことを平気でするような女なんだよ?」
「それは重々承知しているぞ」
「真面目に答えてよ!」
 茶化したような俺の口調に、紗貴は悲痛な声で振り返る。怒鳴るような言葉とは裏腹に、今にも泣きだしそうな表情だった。
 紗貴は、誰よりも自分の行いを悔いているのだろう。だから、責められたいのだ。責められ、詰られることで楽になりたいのだ。
「なら、本音を教えてやろうか?」
 普段はあまり出さない低い声でそう言うと、少しだけ紗貴の表情に動揺が見えた。
 それが何故かもよくわかる。紗貴は強がってはいるが、誰よりも人から嫌われることを恐れていた。無駄に高いプライドがあるが故にそんな素振りは見せないが、本当はとても臆病なのだ。
 責められたい。けれど、嫌われたくない。何とも利己的で、卑怯だ。
「おまえは本当に我がままだし、自分勝手だし、素直じゃないし、面倒臭いし……。正直、千夏の友達じゃなきゃつるんでなかったよ」
 これは本当に正直な気持ちだ。第一印象で惹かれたのは確かだけれど、一緒にいる時間が増えるに従って、紗貴の性格にウンザリすることも増えた。千夏を好きだったら良かったのに。そんな風に思ったことすらあったほどだ。好きだからこそ許せない、というのもあったかもしれない。
 俺のストレートすぎる言葉に、目に見えて紗貴の表情が歪む。必死に泣くまいと作ったそれは、どう見ても笑みには見えなかった。
「……あは、ははは……。そう、だね。悟の言うとおりだわ。ごめんね、私勘違いしてた。悟は、ずっと友達でいてくれるって思いこんでた。いくら何でも、いい加減見限りたくなってるよね」
「そういうところが面倒臭いし素直じゃないって言ってんだよ」
 微かな腹立たしさを溜息に乗せて吐きだすと、俺は俯いている紗貴の頭をぐいと引き寄せた。
「俺のこと好きじゃないくせに、俺に嫌われたくはないんだろ? だったら、こんな時くらいしおらしくして俺に役得させとけ」
 紗貴は我がままだし、自分勝手だし、素直じゃないし、面倒臭い。しかもそれは、卑怯なことに拓人や千夏の前ではほとんど見せていなかった。
 けれど、それでも、いや、だからこそなのだろうか。紗貴はいつも俺の心の定位置を占めている。常に俺の左隣に、当たり前の顔で座っているように。それはどう足掻いても変わりそうになかった。
「……悟、女見る目ないと思うよ」
 さすがにここまでされたら、紗貴もようやく俺の本当の気持ちに気づいたらしい。しばらく放心状態だったが、やがて俺の胸に額を押し当てたままでくすりと笑いを零した。呆れたような、けれども嬉しそうな笑い方だったと、勝手にそう思うことにする。
「そうかもな。でも、紗貴は見る目あると思うぞ。拓人は間違いなくいい奴だ」
「思ってたとしても、そういうことは言わないでしょ、普通」
「相手に合わせてるんだよ」
「ひど……」
 いつものような軽口が飛びかい始め、紗貴の声音にも僅かながら明るさが戻った。
 ふと上げた紗貴の顔は、泣きかけていた所為か、目と鼻の頭が赤くなっている。化粧も見事に崩れ、お世辞にも綺麗だとは言えなかった。
「ぶっさいくな顔」
「ちょっと! 悟にそんなこと言われたくないんですけど!?」
「まあねー、俺も顔は十人並みだもんねー。でも、紗貴より性格はいいから、意外にモテるんだぞー?」
 ちらと横目で見ながら、余裕の笑みを浮かべると、いつもならすぐに「嘘だ」と否定してくる紗貴が、妙に悔しそうに唇を噛み締めていた。その反応から見るに、まったく脈がないわけではないと思う。
「さて、帰るか」
「お腹空いた! 可哀想なフラれ女の紗貴ちゃんにご飯おごってあげてよ!」
「自分で可哀想とか言う厚顔無恥な人にはおごりません!」
「ケチ」
「そういうこと言うなら、ここに置いてくぞ?」
 ニヤリと口の端をあげてそう言うと、紗貴はすぐさま血相を変えた。
「うそうそ、ごめんって! 悟様サイコー! おっとこまえー! よっ! 日本一!」
「気持ちが入ってないからアウトー」
 そういうが早いか、ダッシュで車に戻り、急いでエンジンをかけた。スニーカーの俺に、ピンヒールを履いた紗貴が追いつけるはずもない。慌てて車に戻ろうとする紗貴を置いて、俺はギアを入れ替えアクセルを踏んだ。
 まさか、本当に置いていかれるとは思っていなかったのだろう。呆然とした紗貴の姿が、バックミラーに映る。そのまま力なく地面に座り込む姿を確認すると、ぐるりと駐車場を一周して、元の場所へと戻った。その途端、紗貴は怒りに任せて勢いよく助手席側のドアを開ける。
「普通、本気で置いてく!?」
「紗貴が思ってもないこと言うからだろー」
「思ってないことない! 悟はいつも優しいし、本当に最高の友達だって……!」
 言いかけた言葉が、俺に対して凶器になると思ったのだろう。紗貴は気まずそうに口を噤んだ。けれど、今更俺はそれくらいで傷ついたりはしない。それこそ、そんなことで傷つくくらいなら、とっくの昔に紗貴のことを諦めている。
「ほら、乗るならさっさと乗れよ」
「……ごめん」
 その謝罪は失言に対してなのか、それとも乗せてもらうことに対してなのか。多分、両方だ。そのまま言葉もなく、助手席に埋もれるように俯いている。そんな姿を見せるから、俺は紗貴を放っておけなくなるのだ。
「とりあえず、しばらくはそこ、おまえのために空けといてやるから」
「え?」
「おまえに彼氏できるまでは、置いてったりしないって言ってんだよ」
 自分自身でもバカだとは思うが、せめて失恋の痛手が癒えるくらいまでは、俺が隣にいてやろうと思う。
 とか言うとかっこよく聞こえるが、ぶっちゃけると失恋の痛手に付け込んで、こっちに転んでくれればラッキー、くらいは思っていたりする。そうでもないと、紗貴の我がままに付き合ってなんていられない。
 言葉の意味を噛み締めるように、紗貴は小さな声で俺の台詞を繰り返していた。そうして何度か呟くと、不意にへへっと表情を緩める。
「仕方ないから、もうちょっとだけ、悟の隣に座っててあげるよ」
 何とも上から目線に、けれど少し照れながら言う紗貴に、
「遠慮せずにずっと座ってろ」
 そう強気の言葉を返した。

 ――心の中で、だけ。