片恋水葬

ふたつとひとつ

 例えばの話。
 願いごとが三つあります。
 わかりやすくするために、それぞれの願いごとをA、B、Cとします。
 Aを叶えてもらうと、BとCは叶えられません。
 しかし、Bを選べば、Aは叶えられませんが、Cを同時に叶えることができます。
 貴方なら、Aを選びますか? それとも、BとCを選びますか?


 モノトーンで統一されたシンプルな内装の部屋の中。ねえ、と呼びかけた私の声までもが、色を感じさせないものだった。
 その淡白な声音に、目の前に座る彼が顔を上げる。いつもならば少年っぽさを覗かせる彼の瞳は、先日から憂いに染まったままだった。その心の痛みを、私には癒すことができない。心底それを痛感して、私は堅く瞳を閉じる。
「……どうしたんだ?」
 呼び掛けたくせに、何も言わず目を瞑ってしまった私に、彼――拓人は案じるように声をかけた。その優しさに満ちた低い声が、大好きだった。
 覚悟を決めて、ゆっくりと目を開ける。心配そうな視線にできうる限りの穏やかな表情で、小さく微笑んで見せた。
「もう、終わりにしよっか」
 この関係を。そこまで言葉にしなくても拓人には伝わったようだ。一瞬驚きに目を見開き、言葉を失った。
 そして、拓人が次に言う言葉を予想する。わかっているのだ、私は。ほぼ間違いなく、拓人はこう口にする。「わかった」って短い一言を、少しだけ悲しそうに笑いながら口にするのだ。でも――。
「わかっ――」
「わかってないでしょ?」
「え?」
 予想通りの言葉を吐こうとした拓人に、私は被せるように続けた。
 そう、わかっていないのだ。彼は、私の真意をほんの少しもわかっていない。
「わかってない。口先だけでわかったなんて言わないで」
「……どういう意味だ?」
 拓人は訝しげに眉をひそめる。そんな表情でさえも、私には愛おしいと思える。本当に、大好きでしかたがない人。
「私、ただ別れようって言ってるんじゃないんだよ?」
「じゃあ、なんなんだよ」
 怒りと戸惑いの混ざったような拓人の声には、私に向けられた確かな好意が感じられる。
拓人は、私のことを好きでいてくれた。ううん、きっと今だって、ちゃんと好きでいてくれていると思う。
 けれどそれは、友情の延長線上にあるもの。付き合ってからも、それは多分変わっていない。
 それくらい、私にはわかるのだ。わかるくらい、ずっと拓人を見てきたのだから。
 だから、私はこの関係を終わりにしなければならなかった。
「千夏をね、幸せにしてあげて欲しいの」
「……馬鹿か、何言ってんだよ」
 私の言葉に、拓人は苦々しそうに吐き捨て、視線を窓の外へと投げた。
 外はしとしとと、すすり泣くように静かな雨が降っている。まるで、あの子のように、ひっそりと空は泣いていた。
「今でも、好きなんでしょ? 千夏のこと」
「だったら何だよ。アイツはもう実家戻っちまった。来月には見合いして結婚するって決まってる」
「まだお見合いしたわけでも、結婚したわけでもないじゃない」
「だとしても、アイツが好きなのは俺じゃなくて――」
「それは勘違いだよ」
 最後まで言わせずに、また言葉を被せる。
 この勘違いが、今のこのどうしようもない八方ふさがりの状況を生み出していたのだ。
「千夏ね、ずーっと拓人のこと好きだったんだよ?」
「まさか! アイツは俺のことなんて友達としか思ってないって!」
「それはね、私と拓人の関係に気付いてたからだよ」
「気づい、て?」
 私と千夏は、高校時代からの親友だった。そして、大学で出逢って親しくなった拓人と千夏は、互いの親友を紹介しあった。それ以来、私と千夏、拓人と悟の四人でつるむことが多くなった。
 四人で遊ぶようになって、ある日ふと気付いた。
 千夏の視線が、いつもさりげなく拓人に向かっていること。そして、拓人の瞳が、千夏に向けられる時だけ少し切なそうに、けれど酷く優しくなることに。
 それなのに、二人ともが、それぞれ気持ちが通じ合うことを諦めてしまっていた。
 拓人は、千夏の気持ちが悟に向いているのだと勘違いしていた。同時に千夏も、拓人の気持ちが私に向いているのだと思っているらしかった。
 だから私は、卑怯な道を選んだ。二人の気持ちを知った上で、拓人に好きだと告げたのだ。
 優しい拓人は、私を突き放せないだろうと思った。そしていつしか、千夏への想いが薄れて、私だけが特別になれるんじゃないかと、そんな浅ましいことを考えた。
 それは半分当たっていて、半分間違っていた。拓人は私を突き放せなかったけれど、千夏への想いは薄れるどころか強まっていった。
 それでも、ほんの少しの間でも、側にいられればいいと思っていた。吐き気がするほど、私は利己的で、自分だけが幸せになろうと必死だったのだ。
 私のわがままから始まった関係は、当然ながら千夏と悟には内緒だった。私も拓人も、千夏に知られたくはなかったからだ。酷い仕打ちをしているとわかっていた癖に、それでも私は千夏に嫌われたくなかった。
 でも、勘のいい千夏はいつの間にか気付いてしまっていた。
 だからなのだろう。実家に戻ることを決めたのも、見合いをしてそのまま結婚しようとしていることも。
「千夏、『好きじゃないなら、誰だって一緒』って、言ったんでしょ? あの子にとっては、拓人じゃなきゃ誰だって変わらないんだよ」
 どんな気持ちで千夏は拓人にそう告げたんだろう。そう思うと、どこまでも自分の醜さが憎らしかった。そして、拓人から聞いた、千夏の精一杯の告白が頭から離れない。
 ――拓人はちゃんと、本当に好きな人と幸せになってね。
 あまりにも残酷な台詞だ。千夏にとっても、拓人にとっても。そして、そんな台詞を言わせたのは、他でもない私自身だった。
「私、あの子にそんなことを言わせたかったわけじゃないんだよ」
「……わかってる」
 慰めるような拓人の声は、やっぱりいつも通り優しかった。それが私の涙腺を少しずつ緩ませる。泣く資格なんて、とうの昔になくなっているのに、それでも涙は治まってくれはくれなかった。
「でも、わかってたの。そんな風に考えちゃう子だっていうのも、よく知ってたんだ」
 それだけ、側にいた。それだけ、見ていた。
 いつも、楽しいことも辛いことも、全部分かち合ってきたのだ。
 なのに、目の前で好きな人に手が届きそうだと思った瞬間、自分の欲以外見えなくなった。脳裏にちらつく千夏の泣き顔に目を瞑って、静かに聞こえる泣き声に耳を塞ぎ続けた。親友の顔をしたままで。
 けれど、それももう終わりだ。私は、本当のあるべき形に戻さないといけない。それが私にできる、唯一の償い方だ。
「拓人、まだ間に合うから。ちゃんと千夏に言ってあげて。でなきゃ、誰も幸せになれないよ。千夏のこと、誰よりも好きなんでしょ?」
 必死に作ってきた笑顔は、既に懇願する泣き顔へと崩れていた。
 本当は、離れたくなんてない。私は今でも拓人のことが好きで仕方がないのだ。
 けれど、千夏をこれ以上泣かせたくもなかった。千夏のことも、とても大好きなのだ。誰よりも大切な、親友なのだ。
「……ああ。アイツは、俺が幸せにしたい」
 長い長い沈黙の後、拓人が呟いた声に私は黙って頷いた。そのまま俯いて、必死に気持ちの整理をつける。
 拓人の答えはわかりきっていたのに、そう答えて欲しいと望んでいたのに、実際に言われてみると予想以上にきつかった。
 けれどその痛みは、千夏が人知れず流してきた涙に対する対価だ。千夏が泣いた分だけ、私は拓人の側にいられたのだから。
 痛みにひきつりながらも、私は笑顔を作る。あの子に負けないくらいの、精一杯の笑顔を作ってみせる。
「よかった。じゃあ、千夏のこと、よろしくね」
「ああ」
 拓人の瞳から、ここ数日の憂いは綺麗に消えていた。代わりにあるのは、決意に満ちた強い光だ。
 もう大丈夫だよ。自然と浮かんだのは、ここにはいない親友への呼び掛け。私が言えた義理ではないけれど、そう伝えたくて堪らない。
「これは、返すね」
 目の前のローテーブルに、そっとこの部屋の合い鍵を置く。拓人が気を遣ってくれたものだったけれど、結局一回も使わなかった。逆に、拓人も私が渡した合い鍵を使うことはなかった。きっと互いに、全てを許しあうことを望んでいなかったのだろう。
 無用になった鍵を、拓人もそっと並べる。拓人が置いたそれを静かに摘みあげると、脇に置いていたバッグの小さなポケットに滑り込ませた。そのままバッグを手に立ちあがると、濡れたままの頬をそっと拭う。
「じゃあ、帰るね。千夏とのこと、後でちゃんと報告してよ」
「わかってる。送っていくよ」
「遠慮しとく。だって、拓人の助手席は、千夏の指定席でしょ?」
 付き合い始めてからも、私は拓人の車の助手席に乗ることは一度もなかった。それは、千夏への遠慮からだけではない。
 怖かったのだ。千夏が見ている風景を、私も見てしまうことが。拓人がいつも、どんな風に千夏を見ているのかを知ってしまうことが。
 それを、最後の最後で知ってしまうのは、より一層怖かった。そんなことをすれば、せっかく決めた覚悟があっさりと決壊して、みっともなく縋ってしまいそうだった。
 私はそんなことをしてしまうくらい、自分が弱くて情けない人間だと知っている。けれど、別れ際くらい、潔い大人の女を演じたかった。
 最後にもう一度だけ、何度も訪れたこの部屋を見回す。白黒のはっきりとした室内は、厳しい現実をそのまま表しているかのように冷たくて、この場に自分の居場所はないのだと改めて思い知らされた。
 その部屋に追い立てられるように、私は玄関へと向かう。真っ黒で重いスチール製の扉を開け、一度も振り向かずに外へ出た。
 一刻も早くその場を離れたくて、勢いのままドアノブを手放した。ドアクローザのお陰で、扉は自然に元の位置へと戻っていく。
 静かな通路に、ラッチのはまる小さな音が妙に響いた。その音に、思わず足を止めて振り返ってしまう。
 そのまま縫いとめられたように、その場から動けなくなった。視線も、黒塗りの扉に釘づけにされたまま、外すことができない。
 期待、していた。ここまできて、それでもやっぱり、拓人が追ってきてくれることを期待してしまっていた。
 そんなことはあり得ないと、わかりきっているのに。
「ほんとに、どこまで私はおめでたいのかな」
 微動だにしない目の前の扉は、拓人の意志そのものだ。もう、彼の心はまっすぐに自分の親友に向いていて、揺らぐことはないと知っている。
 ぎくしゃくした様子で、無理やり目と足をそこから引き剥がす。
 引きずるように歩く私の後に、ぽたぽたと涙が跡を残していく。私の溢れる想いを、ぽたぽたと零していく。
 これでいい。これが最善。
 何度も自分にそう言い聞かせ、マンションのエントランスまで何とか辿り着く。
 外は相変わらず絹糸のような雨が降っていた。けれど、暗い空を見上げると、微かに雲の切れ間が覗き、ぼんやりとした光が差し込んでいる。じきにこの雨もやむだろう。
「そうだね。もう、泣かないでいいんだもんね」

 願いごとが、三つあった。
 一つは、私の願い。
 一つは、私の大好きな人の願い。
 最後の一つは、私の大切な人の願い。

 私の願いが叶ったならば、あとの二人の願いは叶わない。
 けれど、大好きな人の願いを叶えられれば、大切な人の願いも叶うのだ。
 ひとつよりふたつ。その方が絶対にいい。

 ようやく少し心が軽くなった気がして、私はまだ少しだけ涙を流している空の下へ、ゆっくりと歩き始めた。