片恋水葬

片恋水葬

 夏が近づいている。
 窓の外を見下ろすと、マンション脇に植えられた小振りの紫陽花の花が目に入った。
 ピンクから青紫へと滲むようにグラデーションしているそれは、ゆっくりと歩み寄る梅雨の存在を知らせているようだ。
 遠からず、毎日のように続く陰鬱な雨に、気分が沈む日々を送ることになるのだろう。
「って、すでにへこみきってる、か」
 わずかに湿気を含んだ夜風を部屋に招き入れながら、そんな自嘲の笑みを零した。
 けれど、すぐにそれを引っ込めて、まっすぐに夜空を見上げる。
 厚い雲に覆われた空には月も星も見つけられず、ただただ重苦しいばかりだった。
 それでも、私はまっすぐに見上げた。
 強い決意と諦めを込めて。

 不意に、ローテーブルの上に放り出したままの携帯電話が鳴った。
 その着信音は最も聴き慣れたものだ。
 今まさに、日付が変わろうとしている時間。そんな些か非常識な時間にも構わずに、電話を寄越すような相手は、たった一人しか思い当らない。
 サブ液晶を確認すると、案の定その人物――拓人だった。
 通話ボタンを押すと、私が言葉を発するより早く陽気な声が聞こえた。
『もっしもーし! 今家の前! 遊ぶぞー!』
 約束なんてしていない。それでも呼べば来るものと当たり前のように思っているのだろう。
 そして、それは全く間違っていない認識だった。私が彼の呼び出しを断ることなど、皆無に等しいのだ。
 はいはーい、と相手のテンションに合わせた明るさで短く応えると、急いで身支度を始める。仕事から戻った後、メイクも落とさずにスーツを脱いだだけだった。
 クローゼットから去年の夏に買った白のシンプルなワンピースを取り出す。柔らかな素材のそれは、ラインが綺麗でスタイルが良く見えるから、かなりのお気に入りだった。
 仕事用のブラウスを脱ぐと、手早くそれに着替え、財布などを放り込んだバッグを引っ掴んだ。そのままいそいそと玄関まで行ったところで一旦逆戻りし、部屋の片隅に置いてあるドレッサーの鏡を覗き込む。
 ほんの数分前までゴロゴロしていたものだから、メイクがほとんど落ちた顔が滑らかな鏡面に映り込んだ。
 出しっ放しになっていたグロスを軽くつけ、「よし」と少しばかりの気合いを入れて、今度こそ玄関へと向かった。
 ワンピースに合わせて、華奢なデザインの白のミュールを履く。
 玄関の姿見で最終チェックを終えると、ドアを開けた。
 私の部屋は二階にあるから、エレベーターを待つよりも階段の方が早い。小走りに階段を下り、オートロックを抜けると、目の前にエンジンをかけたまま停まっている白いS14シルビアが見えた。
 駆け寄って、無造作に助手席のドアを開けると、
『おっす!』
 まったく同時にひょいと右手を上げ、笑みを交わし合う。この瞬間が、私は一番好きだ。
 満ち足りた気持ちに包まれながら、助手席に乗り込むと、シートベルトを締めた。それを確認すると、拓人はゆっくりと車を出発させた。
「どこ行くの?」
「飯は?」
「食べた」
「なら良し。今日はさー、騒ぎたい気分なんだよなー」
「騒ぐ? 歌うの間違いでは?」
「そうとも言う!」
 にっと少年のように笑う拓人に、私の表情も自然と綻ぶ。拓人の笑顔が、何よりも私を笑顔にするのだ。
「誰か呼んだー?」
「おう。いつものメンバー」
「あ、やっぱり」
 カーステレオから流れてくる曲を口ずさみつつ、予想通りの答えに微かな苦笑が零れた。
 『いつものメンバー』。
 それは私と拓人、そして私の親友である紗貴と、拓人の親友である悟。同い年の男女四人組のことだった。
 私と拓人は、大学時代からの付き合いだ。同じゼミだったというありきたり過ぎる出会いだったけれど、ドライブやアウトドアが好きということで気が合って、よくつるむようになっていた。
 アウトドアを楽しむには、やっぱり多人数の方が楽しい。ということで互いに親友を紹介し合った結果、紗貴と悟も含めた四人で行動することが多くなった。
 今では四人ともが個々に連絡を取り合うほどに仲がいい。
「とりあえず、あいつらといつもの場所で合流するぞ」
「わかった」
 家の位置関係で、いつも私は拓人に、紗貴は悟にそれぞれ車で迎えに来てもらって、中間点であるコンビニの駐車場で落ち合っていた。今日もそこで待ち合わせ、これからの行動を決めるのだろう。
 こんな仲になって、気がつけばもう四年。大学を卒業してからは二年が経つけれど、社会人になったからといって関係は変わらなかった。
 そう、関係は相も変わらず『友達』のまま。『遊び仲間』のまま。
 関係は変わらぬまま、感情だけが変わっていった。
 私はいつの時からか、拓人の隣にいることに安らぎを覚え、彼の側にずっといたいと臨むようになっていた。
 そして、拓人は――。
「それ」
「……え?」
 突然の指示語が何を指しているのかわからなくて、間抜けな声だけを返してしまった。
 拓人は、ちらと一瞬だけ視線を寄越す。
「ワンピース」
「ああ、うん」
「去年も着てたよな。水族館行った時」
 あまり人の服装に口を出さない拓人にしては珍しい話だ。
 少しばかりびっくりしたけれど、自然と出てきそうな喜びを押し殺す為、できるだけ普通に聞こえるように「よく覚えてるね」と返した。
「……あんまりそういうの着ないだろ、おまえは」
「そうだっけ?」
「そうだよ。パンツスタイルの方が多いし」
 そう言われてみれば、そうかもしれない。
 特に、拓人に誘われて出掛ける際は、キャンプだったり河原でバーベキューだったり、あまりスカートで行くには適していないイベントのことが多い。
 飲みに行く場合でも、会社帰りに待ち合わせることがほとんどで、パンツスーツを好んで身につけているからそのイメージがついてしまったのだろう。
 それに、このワンピースにはちょっとした思い入れがあった。その所為で、ついつい着るのを躊躇ってしまっていたのだ。
「たまにはね、女らしい格好もしないと、女だってこと忘れちゃうじゃない」
「おまえ、その辺の男より男らしいもんな」
「失礼な。まあ、確かに女らしくはないけどさー」
 投げやりに言い捨てると、拓人はすぐに「冗談だよ」と訂正し、その後にボソボソと一言二言続けた。だが、エンジン音の所為でそれは全く聞き取れない。
「何? 聞こえなかったんだけど」
「いや、何でもない。それよりさ、八月の海行き、いつにする?」
「あ……」
 誤魔化すように切り替えられた話に、それまでウキウキと弾んでいた心が栓を抜いたビーチボールのようにしなしなと萎んでいく。
 もう少しだけ、この居心地のいい時間を味わっていたかったのに、そうはいかないようだった。
「ごめん。私行けなくなった」
「はぁっ? あんだけ盛り上がってたのに?」
 拓人が驚くのも無理はないだろう。海の話が上がった時、私は真っ先に賛成したのだから。当時はこんな状況になるとは思っていなかったから、手放しで喜んで賛成していたのだ。そのことが、今になって悔やまれる。
「うん、ごめんね。忙しいんだ」
「忙しいったって、一日くらい休み取れるだろ」
 アウトドア好きなだけに、拓人は何とかして計画を進めたそうだった。去年は予定していた日に大雨が降って行けなかったから、今年こそはという思いもあるのだろう。もしかすると、すでに大まかなプランまで立てていた可能性もある。
 けれど、どうしても駄目なのだ。八月にはもう……。
「無理。引っ越しすんのに休みもらうから」
「引っ越し? そんなの、俺たちが休みの日に分割して手伝ってやるって! そしたらわざわざ休み取らなくてもいけるだろ」
「それも無理でしょ。引っ越し先遠いし」
「え?」
 できる限り何でもないことのように言ったけれど、言葉の後半に驚いた拓人がこちらへと振り向いた。運転中にもかかわらず。
「ちょ、前! 信号赤!」
 私の叱責に、慌てて拓人はブレーキを踏んだ。停止線どころか横断歩道も越えて、交差点に頭半分突っ込んだ形でシルビアは停まった。
 車通りも疎らだったため、事故にならずに済んだが、日中なら危なかっただろう。
 安堵の息を吐く私に、拓人はほっとしながらも訝しげな視線を向ける。
「遠いって、どこに行く気だよ。今のマンション、会社にだって近いだろ」
「実家帰るんだよ。会社は辞める」
「実家!? だっておまえ、あれだけ戻る気ないって!」
「うん、言ってたけどね」
 淡々と返事する私に対し、拓人の声は大きくなって非難するような色を帯びていった。
 以前から私は、両親に地元へ戻って来いと言われていた。そのことは拓人に話してあった。
 けれど、同時に「一生帰らねぇよーん」なんて冗談まじりに笑い飛ばしていたものだから、彼にとっては寝耳に水だったのだろう。
 「何で?」と詰るような口調の疑問が、拓人の口から吐き出されるのも、想定の範囲内だった。
 運転席からの真っ直ぐな視線を感じながら、私は努めて明るい声音と笑顔を作り出す。
「帰ってー、見合いするの」
「み、あいって……何考えてんの、おまえ」
「てか、青だよ」
 進めと信号に促されて、拓人は渋々前を向き、車を走らせる。
 タイミング良く拓人の視線から逃れることのできた私は、内心ほっとした。しかし、それで拓人の追求が終わったわけではない。
「何で見合いなんかすんだよ。おまえ、好きなヤツとかいないわけ?」
 ステアリングを握る拓人は、時折こちらにチラと視線を向けながら訊いてくる。
 拓人自身には訊かれたくない質問だ。それを表面的には何食わぬ顔をして聞いている私自身が滑稽で仕方ない。嗤いたくなる気持ちを抑えながら、短く「いるけど?」と返した。
「じゃあ見合いする必要なんてないだろ」
「好きな人がいることと、お見合いすることは関係ないでしょ」
「あるだろ、普通に。それに、会社辞めて実家帰るって、まさかそのまま見合い相手と結婚する気なのか?」
「うん、多分そうなるねー」
「そーなるねーって……」
 どこまでも他人事のように話す私に、拓人は片手でガシガシと自分の頭をかきまわす。
 納得できない。声、表情、動き、それら全てでそう物語っていた。
「おまえなら、見合いなんかしなくたっていくらでも相手いるだろうが」
「好きな人じゃないなら、誰でも一緒だよ。見合いだろうがそうじゃなかろうが、ね」
 話している間にも、シルビアは快適にアスファルトを蹴り、滞ることなくいつものコンビニの駐車場へと辿り着く。見たところ、まだ二人は来ていないようだった。
 エンジンを切ると、カーステレオの音楽も当然止まる。静かすぎる車内の空気が、重く身体にまとわりついてくるようだった。
「紗貴と悟には、まだ言わないでね」
「何でだよ」
「今から遊ぶのに気まずくなるでしょ。帰り間際に自分で言うよ」
 そういうと、拓人は不本意そうではあったけれど、了承してくれた。
 けれど、そこで会話が途切れてしまい、ますます重苦しい雰囲気が場を支配する。
 窒息しそうな静寂がどれほど続いただろう。
 低く唸るような排気音と共に、黒い車体が駐車場に滑り込んできた。悟の愛車のMR2だ。
「来たね。行こっか」
 助かったとばかりに助手席のドアを開けると、しっとりとした夜風が髪をふわりと舞い上げる。
 見上げれば、相変わらず空は厚い雲に覆われていた。むしろ、マンションを出る前よりももっと雲に厚みが増したようにすら感じる。天気予報は見ていなかったけれど、ひと雨くるかもしれない。
 そんなことを考えながら、停まったばかりのMR2にゆっくりと近付いていった。
 遅れて車から降りた拓人が軽い駆け足で追い付いてくる。
 悟と紗貴も笑顔で姿を見せた。
「もう、相変わらず拓人の呼び出しって急なんだからー」
 責めるような口調とは裏腹に、紗貴の表情は柔らかい。
 それに応える拓人を見たくなくて、私は悟へと視線を向け挨拶を交わした。
 きっと拓人は、今とても優しい表情をしているはず。
 私には向けられることのない、大切なものを一生懸命守ろうとしている『男』の顔。

 そう、いつからか、拓人は紗貴に対してそんな表情をするようになった。
 気付きたくなんてなかったけれど、気付かざるを得ないほど私は拓人を見ていたのだ。
 それでも、最初の内は勘違いだと思おうとした。
 好きだから不安になっているだけだと、自分の勇気を奮い立たせていた。
 けれど、ひと月ほど前に見てしまったのだ。拓人の部屋から、紗貴が出てくるところを。
 近くに来たからと理由をつけて、会いに行こうとなんてしなければ良かった。そうすれば、まだ夢を見ていられたのに。
 けれど、実際にはそれで良かったのかもしれない。
 いつまでも報われないのに希望を持ち続けるより、さっさと諦めを付けて結婚してしまう方が、結果的に幸せになれるのかもしれなかった。
「それで、今日はどこに行くつもりなんだ?」
「カラオ――」
「海行くぞ、海!」
 悟の問いに私が答えようとするのを遮って、拓人が声を張り上げた。
 私も悟も紗貴も、唐突過ぎる事態に二の句が継げられない。
 拓人は構わず私の手を強引に引いて歩き出すと、先程まで座っていた助手席へと送り返された。
「ちょ、ちょっと拓人?」
「悟、K海岸な!」
 自分も運転席に乗り込みながら行く先を告げ、さっさと拓人は車を発進させてしまう。
 常とは少し違う強引さに戸惑いながらも、私はシートベルトをつけるしかなかった。
「……カラオケ行くんじゃなかったっけ?」
「カラオケはちょっと前に行ったし。おまえが海行けないって言ったから、今日行くんだよ」
 拓人なりの優しさ、なんだろう。
 別れゆく『友達』への、できうる限り最大限の優しさ。
 その気遣いが、嬉しさと同時に痛みをもたらすことを知りもしないで。
「さすが、友達想いの拓人さんですねー」
「うるせぇよ、馬鹿」
 精一杯の優しさを茶化された所為か、拓人の声は不機嫌極まりない。
 けれど、私にとってもこれが精一杯なのだ。こうやってお調子者っぽく演じてでもいないと、今にも泣きだしそうだった。
「……なあ」
「何?」
「何で今更、見合いなんてしようと思ったんだ?」
 訊いて欲しくないことを、ストレートに訊いてくれる。
 拓人はいつもそうだ。私の見栄だとかプライドだとか、そんなもの一切考えずに踏み込んでくる。腹が立つの通り越して、いっそ清々しいほど不躾に。
 しかし、拓人はそれでいいのだ。
 そんな風に、真っ直ぐなままでいてほしい。
 代わりに私が、どこまでも捻くれてあげれば、巧くバランスが保てる。
「見合いでもしないと、貰い手がないでしょうが」
「結婚を急ぐ歳でもないだろう。それにおまえ、結婚願望なんてなかっただろ」
 言われているのは、私のことをよく知る者なら誰でも思うことだろう。
 まだ大学を卒業して二年。もうすぐそこに迫っている誕生日を迎えたとしても二十四歳だ。結婚に早過ぎるわけではないけれど、遅いと言える歳でもない。
 それに、働くことが嫌いなわけではないし、専業主婦に憧れる性質でもない。
 ただ、拓人が言うように結婚願望がまったくないわけでもなかった。
 女なら誰だって一度くらいは憧れるだろう。純白のウェディングドレスを着て、好きな人の隣に並ぶことを。
 私だって、例外ではない。雑誌やTVでウェディング特集などが目に入ると、どうしても自分に当てはめてしまう。そして、手を引いてくれる相手を想像して恥ずかしくなり、一人で顔を赤くしていたことだってあった。
 けれど、その想像は夢でしかなく、現実にはならない。
 拓人が手を引いて歩くのは、私ではなくて紗貴なのだとわかりきっていた。
「おい、聞いてんのか?」
 何も答えずに考えこんでいた私に、拓人が苛立ち混じりの問い掛けを寄越す。
 「聞いてるよ」と短く返し、ウィンドウへと視線を向けた。
 昼間ならそろそろ海が見えるあたりまで来ているはずだ。けれど、深夜のドライブでは、外の景色などほとんど見えない。代わりに見えるのは、ウィンドウに映る拓人の横顔だ。
「結婚願望ね、ないわけじゃないよ。好きな人となら結婚もしたいし、子どもだって産みたいし」
 透明な横顔に向かって、淡々と言葉を紡ぐ。
 拓人と紗貴の関係に気付いてからは、こうして間接的に拓人の表情を見つめるようになった。窓の外を見ているふりをすれば、私の想いは気付かれずに済むだろうから。
「けどね、どうにもならないことってあるでしょ。私が好きでも、相手が同じように思ってくれるとは限らない」
「そりゃ……そうだけど、さ……」
「私の好きな人ね、きっと遠くない未来に結婚すると思うんだ」
「え?」
「だからね、先に結婚してやるの。そうしたら、その人の結婚式に出ることになったとしても、笑って祝福できる気がするから」
「……馬鹿だろ、おまえ」
 拓人の横顔が苦渋に歪む。吐き出した罵声も、力がなかった。
 ああ、本当にこの人は優しい。
 どこまでも『友達』想いで、真摯に私のこれからを心配してくれている。
 それだけでもう、充分な気がした。

 左のウィンカーが点滅し、徐々にスピードを落としながら、シルビアが誰もいない海水浴場の駐車場へと入る。
 二台の車が並んで停まると、私は真っ先に砂浜に向かった。
 背後で三人が何か言っているけれど、無視をする。
 砂浜はヒールのあるミュールでは歩きにくくて、両足とも無造作に脱ぎ捨てた。裸足になると、一気に波打ち際まで駆け出す。
「おい! 危ないって!」
 寄せる波が足の甲を濡らす辺りで武骨な手に捕まり、それ以上海に入ることを阻止されてしまった。
 呆れたような溜め息が、拓人の口から洩れる。
「いくら浅いったって、夜なんだからな。それに、せっかくのワンピースまで濡れちまうだろうが」
「昔観たドラマでね……」
 しっかりと掴まれた左手首を見つめながら小さく呟くと、拓人の手がほんの少し緩んだ。
「純白のウェディングドレス着た花嫁が、水に沈んでいくシーンがあったんだ。それが、すっごく綺麗だった」
「その真似でもしようと思ったって? 馬鹿か、おまえは。それにまだ、花嫁になってねぇだろ」
「でもコレ、真っ白だしそれっぽいでしょ? ほら、シルエットだけなら、新郎新婦みたい」
 にっこりと笑ってみせる。暗闇の中、私が笑っているかどうかは拓人にはよく見えないだろうけれど、『笑っている』雰囲気が伝わるだけでいい。
 伝わったかどうかはわからないけれど、拓人からは戸惑いが零れ落ちた。ごつごつとした大きな手からも、完全に力が抜けている。
 その手を軽く振り解いて身を翻すと、私は暗い海へと勢いよく身を投げた。
「ちなっ――!」
 拓人の焦った声音は、水飛沫に遮られ遠退く。
 海は思っていたよりもずっと冷たくて、けれどそれが熱を持った目蓋には心地良かった。
 このまま、私ごと沈んでしまえたらいい。そんな思いが頭に過ぎったけれど、さすがにそれは許してくれないだろう。
 だったら、どこにも行き場のない想いだけ、この海に沈めていこう。
 永遠に叶うことない想いを、とろけるように柔らかな闇色の水の柩の中へ。

 力強い腕が水中に漂う私を手繰り寄せる。全身から塩水を滴らせながら、私は海上に引き上げられた。
「何回馬鹿って言わせる気だ! この馬鹿!」
「……ありがとう」
 今日一番の怒鳴り声に返したのは、心からの感謝。
 心配してくれてありがとう。側にいてくれてありがとう。今までずっと、ありがとう。
 どれほど言葉を重ねても言い足りないくらいの「ありがとう」を、噛み締めるように声にする。
 拓人は呆れていたのか、それとも、何か感じ取っていたのか、何も言わなかった。
「拓人はちゃんと、本当に好きな人と幸せになってね」
 誰よりも大切だから、誰よりも幸せになってほしい。
 紗貴とは拓人よりもずっと付き合いが長いから知り過ぎるほど知っている。
 誰に推薦しても恥ずかしくないくらい、本当に良い子なのだ。
 しっかり者だし、家事も得意だし、冷静に物事を判断できる。直情的な拓人には、ぴったりの奥さんになると思う。
 私なんかが心配しなくとも、二人は幸せな家庭を築くだろう。

 頬を滑り落ちた塩水の一雫が、顎を伝って水面に落ちる。
 広がった波紋が波に紛れそうになった頃、別の波紋が重なって、ぶつかって、更に生まれる新たな波紋に消された。
 降り出したのは知身雨(みをしるあめ)。名残り惜しげに心に留まろうとする私の無駄な足掻きを、拭い去って水底へと沈む道連れとなってくれるだろう。
 そして、嫉妬で醜く歪んでしまいそうな私の心を清める、どこまでも慈しみに満ちた禊の雨だった。
「ごめんね。行こうか」
 拓人の返事を待たず、私は岸へ向かって歩き出した。
 砂に足をつけるまでに、最高の友達の顔を作ろう。 
 大丈夫。彼への気持ちは全て、あの海の底で永遠の眠りについたのだから。
 あとはもう、抜け殻のようになった身体に、今までよりもずっと強固な友情を詰め込んでしまえばいい。
 私は、誰よりも彼らを祝福できる、無二の友に生まれ変われる。

 ところどころ湿った、けれど、まださらりとした質感を残した砂を踏みしめた。
 浜辺には心配そうに迎えてくれる二人の影がある。
 そちらに向けて小さく手を振ると、私は遅れて陸へと上がってくる『最愛の友』に、ゆっくりと振り返った。