はなひらかねど

幸い咲くとき 妙なる花を

 妙子の様子がおかしい。そう咲子が気づいたのは、双子だから特別片割れのやることに敏感だというわけではなく、ごく自然なことだった。
 つまるところ、妙子は隠しごとが下手なのだ。言動の端々に不自然さが滲み出て、ぎこちなく作られた笑顔には「絶賛隠しごと発動中」とでも書かれていてもおかしくはないほどである。
 だが、いつもは少し問い詰めれば素直に白状する妙子が、今回は無理やりなのが見え見えでも隠し通そうとしていることが妙に気にかかった。
「まあ、こっちに被害がなけりゃ別にいいんだけどね」
 溜め息混じりにそう呟くと、電話の向こうの万里江は軽快に笑って答えた。
『タエちゃんにも大人の事情ってのがあるんじゃない? いくらサキにべったりとはいえ、タエちゃんも今は彼氏いるんだしさー』
「そうねー。その彼氏とも何だかんだ言いつつ上手くいってるみたいだし。でも、とりあえずもう私が家を出るわけだし、もうちょっとしっかりして欲しいもんだわ。せめて、隠しごとが隠しごととわからない程度には、ね」
 それは確かに、とまた万里江がコロコロと笑う。それにつられて、咲子も小さな笑みを口元に刻んだ。
 高校時代の友人との久しぶりの電話は、珍しく咲子からかけたものだった。普段は咲子から連絡することなどあまりなく、出掛ける約束などももっぱら万里江からだ。
 しかし、今回はさすがに自分からでないと失礼にあたると咲子は判断してのことだった。
 理由はごく簡単。晴希と入籍することになったことを知らせる為だったからだ。
『しっかし、とうとうサキも人妻かー』
「私が一番違和感ありまくりなんだけどね。でも、お互いの両親に口を揃えて言われちゃったら、もうどうしようもないじゃない」
 晴希と咲子が、結婚を前提として付き合うようになって二年が過ぎようとしていた。その間、微妙な感情の変化はあったものの、二人の距離感は友人の頃とさほど変わりはない。
 しかし、双方の両親にとってはそんなことはお構いなしだったようだ。
 咲子は「渡辺君を逃したら、咲子は一生結婚できないわよ!」と母に言われ、晴希は晴希で「あんなしっかりした良い子は滅多にいないんだから、さっさと籍だけでも入れておきなさい」と命令をされてしまったのだ。余談だが、どちらの場合も父親が口を挟む隙はなかった。どこの家庭でも母は強し、ということだろうか。
 晴希が困ったような顔でその話を打ち明けた際、咲子もよく似た表情で自分側の事情を告げた。しばらく顔を見合わせた後、二人揃って自然にこみあげてきた笑いに身を任せた。 
 しばらくして笑いがおさまると、晴希は穏やかな声音でこう言った。
「じゃあ、もう入籍しちゃおっか」
 プロポーズのとき同様、世間話の延長のような言い方に、咲子は少しだけ意地悪そうに微笑むと、
「そうね。頑張って私が渡辺を養ってあげるわ」
 言葉よりもずっと柔らかな口調で答えたのだった。

『相変わらずな感じねー、サキと渡辺君は。でも、二人でお金貯めた方が、渡辺君の夢も早く実現するんじゃない?』
「そうね。それもあって、もう入籍してもいいかなと思ったのは確かよ。最近別のバイトも始めようかとか言い出したりしてたし。そんなことしたら無理して体壊すに決まってんだから。あ、これは晴希には言わないでね。絶対に気にするから」
『……へぇ』
 妙に含みを持った万里江の感嘆に、咲子は思わず眉を顰めた。
「何?」
『ああ、ごめんごめん。いつの間にか渡辺から晴希に替わってたんだなーと思って』
「え、っと、それは、アレよ。ご両親に会ったりするのに、名字で呼び捨てはさすがにできないじゃないっ」
『そうだねー。うんうん、いいんじゃないの。もう夫婦になるんだし』
 珍しく慌てたように弁解する咲子に対し、万里江は笑みを噛み殺したような声で応答する。
 絶対にニヤニヤ笑ってるだろう万里江の表情を想像しながら、咲子は努めて冷静に聞こえるような声を出そうとした。が、返す言葉が出てこない。
『それで、入籍はいつするの?』
「次の土曜日。本当に入籍だけだから、お互いの仕事の都合がつく日でいいかなと思って」
 万里江が気を利かせたのか、話題を変えてくれたので、咲子は幾分ほっとしながらいつも通り淡々と答えた。
『そっか。とりあえずおめでとう。でも残念。サキのドレス姿見たかったのに』
「そのうち写真だけでも撮ると思うわよ。そうするように親に言われてるしね」
 咲子としては別に花嫁衣装に憧れがあるわけでも何でもないのだが、自分たちの都合で式を挙げないのだから、写真くらい残しておかないと親不孝と詰られても仕方がない。その上、晴希からも「せっかくだし咲子さんのドレス姿見たいよね」などと満面の笑みで言われてしまうと、断ることなど到底できなかった。
『撮ったら私にも見せてね』
「わかってるわよ。というか、私が見せなくてもきっとタエが勝手に持ち出すと思うわ」
『確かに! あ、ごめん! そろそろバイト行かないと』
「花屋さんだっけ? ごめんね、時間とらせて」
 そういえばと、少し前にメールでやりとりした話を思い出す。子育ての落ち着いてきた万里江は、知り合いの花屋さんでアルバイトを始めたらしい。高校時代、華道部に入っていた万里江には適正な職だろう。
『いいよいいよ! じゃあ、またねー』
「うん。時間が合う時に、またご飯でも」
 咲子の誘いに、万里江は弾んだ声で了解と返す。終話を告げる電子音が聞こえる前に、咲子は携帯電話をしまうと、やりかけだった引っ越しの準備に取り掛かったのだった。



 六月の花嫁は幸せになれる。そんな言い伝えに相応しく、その日の二人を祝福するように晴れ渡った空だった。数日前に梅雨入りが報じられ、鬱々とした天気が続いていたのが嘘のようだ。
「じゃあ、行ってくるから」
 役所へと向かう準備を整えた咲子は、リビングにいた妙子へと声をかけた。
 妙子は反射的にビクリと肩を震わせ、「ああ、うん、いってらっしゃい」と何ともわざとらしい作り笑いを浮かべる。その手には、きらきらと派手にデコレーションされたスマートフォン。どうやら誰かと電話をしていたらしい。
 妙子の態度は気になったが、電話を邪魔するのはさすがに申し訳ない。咲子はそのまま玄関へと向かった。
 晴希とは役所の最寄り駅で待ち合わせしている。婚姻届を提出した後は、ランチでも食べよう。書類を出すだけとはいえ、自分にとってはそれなりに大きな人生の転機なので、今日くらいは少し贅沢をしてもいいかもしれない。
 そんなことを考えながら、パンプス履いた瞬間だった。
「ねえ、サキぃ。用事終わったらぁ、一旦家まで帰ってきてくれないかなぁ? もちろん、なべっちと一緒にぃ」
 電話を終えただろう妙子が、妙に下手に出たお願い口調でそう提案してきた。
 そこで咲子はピンとくる。
 妙子のこの手のお願い口調は聞き慣れたもので、毎度面倒事にしかならない。
 しかし、多分今日は違う。妙子は咲子と晴希の入籍を誰よりも喜んでいたのだ。だから、わざわざこの日にろくでもないお願いをすることはないだろう。
 となると、妙子の狙いはただ一つ。咲子たちを祝福するために、何か準備をしているのだ。以前からこそこそとしていたのも、きっとその為だろう。
 不器用な妙子が健気にサプライズを計画しているのだから、素直に乗ってやろう。そう思い、咲子は全く気づいていない素振りで「いいわよ」と答えた。
 途端に妙子の顔に安堵の笑みが広がる。
 本当にわかりやすい。思わずふき出しそうになるのを堪えるために、じゃあと素っ気なく答えて家を出た。
 自分らしくはないと思うが、妙に浮かれた気分だった。
 今日を境に、自分は名字が変わる。岡本咲子から、渡辺咲子へ。
 そして、それを祝ってくれようとしている双子の妹の必死加減が、おかしくもあり、愛しくもある。
「さて、タエは何をご馳走してくれるのかな」
 料理が得意な妙子のことだ。きっとはりきって豪勢な昼ご飯を作り待っていることだろう。洒落たカフェでのランチよりも、その方が何倍も美味しいものが食べられるはず。
 そんなことを考えながら、咲子は足取り軽く待ち合わせの駅へと向かったのだった。

「咲子さん、妙に嬉しそうだね。何かいいことあった?」
 先に来ていた晴希が、咲子の顔を見た瞬間にそう訊ねた。そんなに顔に出ていたのかと、少しばかり気恥ずかしくなり、反動で眉間に皺が寄る。
「いや、だからってそんな顔しなくても」
「嬉しそうとか言われたら、少し悔しいじゃない」
「何が悔しいの? 俺は別に咲子さんが、『入籍嬉しいなー! ルンルン!』って気分で来たわけじゃないことくらいわかってるけど?」
 晴希が振りつきで言った台詞に、咲子はうっかり小さな笑いを零してしまった。確かに自分はそんなキャラではない。
「ちょっとやめてよ、晴希。思いっきり想像しちゃったじゃない」
「うん。俺も咲子さんがそんなだったら、とりあえず病院に相談すると思う」
 至極真面目な表情で酷いことを言われている気はしたが、そんな軽口を叩き合える関係が心地よい。上機嫌のまま、二人は並んで目的の場所へと向かって歩き出す。
「で、何があったの?」
「えっと……その前に、届け出したら一度家に戻ってもいい?」
「いいけど、お昼どこかで食べようって言ってなかったっけ?」
「タエからのお願いなのよ」
「……ああ、そういうことか」
 咲子が皆まで言わなくとも、晴希は事態を把握したらしい。そして、それが咲子の滲み出る笑顔に繋がっていることも。
「妙子さん、本当に咲子さんのこと好きだよねー。引っ越し終わったら、寂しがるんじゃない?」
「さすがにそれはないわよー。引っ越すったってそんなに離れてないんだし。いつでも遊びに来れる距離じゃない。それに、引っ越し終わるまでまだまだ時間かかりそうだもの」
 入籍を決めた際、二人は新しく部屋を借りることにした。晴希が今まで住んでいたアパートではさすがに手狭過ぎるし、かといって晴希の実家は二人が通勤するには遠すぎる。
 そこで暇を見つけては雑誌やネットを駆使し、何とか探し出したのだ。新居は2DKのこぢんまりとマンションだが、築年数の割に綺麗で家賃も手頃。通勤にもなかなか便利とあって、一も二もなくそこに決めたのだった。
 だが、互いの多忙とお金の節約もあり、休みの日に友人などの協力を得て、現在進行形で少しずつ荷物を運びこんでいる最中だった。今日もできれば搬入作業を行いたかったのだが、妙子からのお祝いにどの程度時間が割かれるのかが問題だろう。
「そうか。もしかしたら、今日のお祝いは妙子さんが咲子さんが家を出るのを少しでも遅らせようと画策した結果かも」
「タエがそこまで頭回るわけないじゃない」
 冗談めかした晴希の発言を、咲子がぴしゃりと一刀両断する。咲子は妙子に甘いくせに、こういう部分では容赦がなかった。
「相変わらず、妙子さんに甘いんだか厳しいんだかわからないなー、咲子さんは」
「あら、これでも最近は前より甘やかしてる自覚はあるのよ?」
「その分、厳しくするところもより厳しく、ってことか。妙子さん、頑張れー」
「すごい投げやりな応援ね。一応、今日から晴希の妹になるんだけど?」
「……そっか。妙子さん、妹になるのか」
 咲子の言葉に、初めて気づいたように晴希は呟く。咲子自身も、自分で言っておいて不思議な感覚に陥った。
『何か、変なの』
 二人の声が重なる。まったく同時に同じ言葉を発した咲子と晴希は、面食らったように顔を見合わせ、数瞬後くすくすと笑い出した。
「どうするー? タエに『お兄さん』とかって呼ばれたら」
「嫌がらせとしか思えないなー。頼むから今まで通りでいてほしいよ」
「でしょうねー」
「まあ、でもね、妙子さんの大事なお姉さんを貰うわけだから、多少の嫌がらせは覚悟しとくよ」
「今さら嫌がらせするくらいなら、付き合う時点でされてるわよ」
「それもそうか」
 もっともな咲子の言葉に素直に納得すると、晴希は当たり前のように咲子の左手を取った。
「じゃあ、その可愛い妹君をあまり待たせちゃ悪いから、さっさと届け出して帰ろうか」
 いつからだろう。こんな風に晴希はごく自然に、咲子の手を引くようになっていた。そして、それを違和感なく、ましてや拒否感や嫌悪感を抱くでなく受け入れていることに、咲子は自分が変わったことを自覚した。
 変えたのは、間違いなく今手を引いて並んで歩いている相手だ。
 晴希に出逢わなければ、きっと咲子は男性に対して、そして恋愛に対して頑ななままだっただろう。
 同じ歩幅で歩いてくれる晴希に手を引かれ、咲子は新しい人生を迎えるための入り口を、静かな高揚感に彩られた笑みとともにくぐった。



 手続きを終えて家に戻ると、まるで飼い主を待っていた忠犬の如き勢いで妙子が玄関まで飛び出て来た。が、その姿が二人は少々意外なものだった。
 落ち着いた薄いピンクのワンピース。髪は綺麗に巻かれてアップになっている。まるで今から恋人とデートでもするかのようだ。
「タエ? どこか行くの?」
「行くわよ! ほら、二人ともタクシー待たせてるから出て出て!」
「え? どういうこと?」
 わけもわからぬまま妙子に強引に引っ張り出され、二人は家から少し離れた場所に停車していたタクシーに押し込められた。
 サプライズがあるとはわかっていたが、どうやら咲子が想像したようなものではなかったらしい。妙子の服装がそれなりにフォーマルな装いということから、もしかしたら少々お高いお店を予約でもしているのかもしれない。
 しかし、それでは少々妙子らしくない気がする。料理に自信もプライドもある妙子ならば、絶対に手料理で祝うものだと思ったのだ。
「タエ? どこ行くのよ?」
「まあまあ。すぐ着くからぁ」
 咲子の問いに、妙子はまたも嘘臭い笑顔で誤魔化して答えようとはしない。運転手はあらかじめ目的地を告げられていたのか、黙々と運転を続けていた。
「すぐ着くって言われても、アンタがそんな格好しなきゃ駄目な場所に連れていくんでしょ? 私も晴希も普段着なんだけど」
「だぁいじょうぶ! 問題ない!」
 二人が不安になるほどの明るさで妙子は請け合う。言われた通り、ほんの十五分ほど走った辺りで、タクシーは停車した。
「ここ……」
 降りた場所は、小さな教会だ。小学生の頃、この近所に友達が住んでいたために何度が覗いたこともある。
「はーい。こっちこっち! あ、ごめん。なべっちはあっちから入ってねぇ」
 妙子の促す先は、教会の大きな両開きの正面扉ではなく、その左右に少し離れて控え目に備え付けられた扉だ。咲子はその右側の扉へと引っ張られ、晴希はもう一つの左側の扉を示された。その妙子の声が聞こえたのか、晴希が促された方の扉が開き、中から同年代の青年が出てくる。何度か見かけたことがあったため、それが現在の妙子の恋人だとわかった。
 さすがにここまで来ると咲子も晴希も妙子の狙いに気づかないはずがない。入籍だけで済ませると決めた二人に、何とか形だけでも式を挙げさせようというのだろう。その為に恋人にまで協力を要請したのだ。
 しかし、驚きはそこで留まりはしなかった。晴希とは別々になって通された部屋は、案の定花嫁の控室で、そこには万里江と高校時代の友人である山崎京香もいたのだ。
「マリにキョウカまで何でいるの!?」
「はいはーい。話はこれに着替えながらねー」
 そう言って京香はハンガーに掛けられた純白のドレスを見せつける。マーメイドラインのロングトレーンドレスはシンプルではあったが、いかにも花嫁らしい豪華さと清楚さがあった。
「……それ、どうしたの?」
「作ったのよ。卒業制作のをちょっと手直ししただけだけどね! でも、タエにモデルになってもらったヤツだから、そんなに直さなくてもいけたけど」
 そういえば、以前に妙子は京香から何度かモデルを頼まれていたことを思い出す。京香は高校卒業後、服飾系の専門学校に進んでいたのだ。双子の姉妹だけあって体型の違いはほとんどないので、そのドレスはまるで咲子に合わせて仕立てられたかのようにぴったりだった。
「はい、これもね」
 そこに今度は万里江がブーケを手渡す。
「もしかして、これも?」
「そ。私が作ったの。少々形がいびつだけどそれはご愛嬌ってことで許してね」
 謙遜してみせる万里江だったが、大輪のカサブランカをメインに、ところどころに青いデルフィニウムのあしらわれたキャスケード型のそれは、充分過ぎるほど立派な仕上がりだ。
「髪は適当でごめんね」
「ヴェールとティアラで隠れるから問題ないわよぉ」
 慣れた手つきで咲子の髪を梳かして巻き上げる京香に、妙子が気楽な口調で答える。ここまで用意周到に準備してきたくせに、細かいことには大雑把なのが妙子らしかった。
 まるで着せかえごっこではしゃいぐ少女のような三人に、咲子は諦めの溜息をそっと零す。だが、その吐息には諦観以外の微かな感情が滲んでいた。咲子自身も気づかぬほどの小さな小さな喜びと感謝が。   
 楽しげな三人にさんざんいじくりまわされた咲子は、控室に入って二〇分ほどで見事な花嫁姿へと変貌していた。そのまま妙子を介添え人にして、礼拝堂の前室へと移動する。
 すると、今度は着慣れない礼服に身を包んだ父親が、そわそわしながら待っていた。
「ちょっと! お父さんまで巻き込んだの!?」
「あったり前でしょお! お父さん以外に誰が花嫁の手を引いてバージンロード歩くのよぉ!」
「父さんだけじゃないぞー。母さんも中で咲子の花嫁姿を楽しみに待ってるんだからなー」
 ちょっとした口喧嘩になりそうなところに、父ののんびりした声が重なる。一気に毒気を抜かれた咲子ががっくりと項垂れると、脱力したその手を妙子が父の右腕へと誘導した。
「ほらほら。お父さんも張り切ってたんだから、シャンと顔上げて! なべっちのご両親も呼んであるんだから、ヘマはできないでしょ!」
 予想以上に計画的な妙子に驚きを隠せない。が、きっと万里江や京香に相談した時点で、二人がアドバイスをした結果なのだろう。もしかしたら、さっき見かけた恋人も大きく貢献しているのかもしれない。もしそうなら、妙子にはちょうどいい相手なのかもしれなかった。
 そんなことを考えながらも、晴希の両親まで来ているとあっては、いつまでも気難しい顔をしているわけにもいかないと表情を改める。戸惑いはあるが咲子は妙子への文句は後回しにすることにし、父の腕にしっかりと掴まって顔を上げた。
 扉の向こうから、微かにパイプオルガンの旋律が漏れ聴こえている。ゆっくりと両の扉が開かれると、父が一歩踏み出した。それに合わせて咲子も一歩ずつバージンロードを進んでいく。まっすぐ伸びた白い通路の先には、真っ白な礼服をまとった晴希の姿があった。
 晴希の立つ場所まで辿り着くと、父から晴希へと咲子の手が渡される。そうして今度は聖壇までの残り数歩を晴希と歩んだ。
 リハーサルも段取りも何もしていない二人は、牧師や友人たちに手伝われながら、たどたどしくも結婚の誓約や指輪の交換が行っていく。多分略式なのだろうが、それでも厳かに粛々と、式は進行した。
「では、誓いのキスを」
 それまで何とか形式通りにこなしてきた咲子は、その言葉に改めて動揺した。何を隠そう、今まで恋愛経験ゼロの咲子は、キスなどしたことがなかったのだ。正真正銘、この誓いのキスが咲子にとってのファーストキスになる。初めてのキスが結婚式などといえばロマンティックに聞こえるかもしれないが、咲子にとっては両親や友人の前でそんなものを見せるなんて恥ずかしいどころではない。
 すぐ側に介添えでいる妙子に、ちらと視線を送ると、何とも楽しそうなニヤケ顔だ。わかってはいたが、回避はできそうになかった。
 そんなことを考えている間にも、晴希は牧師に促され、ヴェールの裾に手をかけていた。
「少しだけしゃがんで」
 小さな声で、妙子がアドバイスを送るのに、咲子は慌てて膝を折る。
 丁寧な手つきで晴希がヴェールをめくり、肩の後ろへとよけると、咲子は観念したように瞳を固く閉じた。
 ふわりと優しい温もりが、ほんの一瞬だけ唇に触れる。恐る恐る目を開くと、いつも以上に穏やかな笑みの晴希が咲子を見つめていた。その視線に、自ずと胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。先ほどまでの羞恥心など、溢れくる別の感情に綺麗さっぱり飲み込まれていった。
 こんなことで感動するなんて自分らしくない。そんな思いが頭によぎり、必死に涙を堪える。牧師が結婚宣言をし、新郎新婦の退場を告げても、押し寄せる波を抑えるのに精一杯だった。
 フラワーシャワーを浴びながら、再びバージンロードを出口に向かって進んでいく。本来なら堂内に残って退場を見守る列席者たちも、花びらを投げかけながら先回りして外へと急いだ。
 咲子たちが外への扉を出るのを見計らったかのように、青く澄んだ梅雨晴れの空に鐘の音が響き渡る。雨の代わりに、花弁と友人たちからの祝福の声が降り注いだ。
 そんな中、一番前を陣取っていた妙子が、唐突に咲子に抱きついてくる。勢いでよろめいた咲子の体を、咄嗟に晴希が横から支えた。
「ちょっとタエ、危ないじゃない」
 いつもの調子で叱りつけた咲子は、それでも無言で抱きついたままの妙子を不審に思い、じっくり観察する。そのおかげで、先ほどまで我慢していた涙は綺麗さっぱり引っ込んでしまった。
「タエ……?」
「……サキぃ、幸せに……なってねぇ……」
 途切れ途切れに聞こえてきたのは、あからさまな涙声。
「もう……。アンタが泣いてどうすんのよ」
 気が抜けた声でそう呟くと、咲子は妙子の背にそっと手を回し、あやすように撫でさする。そして落ち着くのを見計らってから、少々強引に妙子の体を自分から離した。
「心配しなくても私は大丈夫だっての。ほら、次はタエの番だからね!」
 万里江作のブーケを妙子に押し付け、強引に握らせる。泣き濡れた顔で呆然としていた妙子は、しばらくして更に顔をくしゃくしゃにし、涙腺を決壊させた。
「余計泣かせちゃったね」
「泣かせちゃったねじゃないわよー! ほらタエ! そんなに泣くと化粧が崩れるわよ! というかもう手遅れだけど!」
 何とか泣きやませようと奮闘する咲子だったが、妙子は一向に泣きやむ気配はない。仕方がないと、もう一度妙子の体を引き寄せ、その背中を撫でた。
「ホント馬鹿ね」
 柔和な悪態を呟きながら、咲子は少しだけ妙子を抱き締める力を強める。
 幸せだ。素直にそう思えた。
 身内からも友人からも祝福され、何よりもここまで自分を思ってくれる片割れがいる。こんなに幸せな花嫁は、世界中探してもそうそういないだろう。大袈裟だが、今日はそれくらい言っても許してもらえる気がした。
 六月の花嫁は幸せになれる。そんなジンクスも馬鹿にしたものではない。何故なら、自分はこんなにも幸せなのだから。そして、そんな自分からのブーケを受け取った妙子にも、その恩恵が舞い降りますように。
 そんな祈りを込めて、咲子は妹の耳元へ、彼女にしか聞こえないようにただ一言囁いた。

 ――ありがとう。