はなひらかねど

1122

 台所から流れてくる食欲をそそる匂いに、咲子は思わず口元を綻ばせた。隣に座る妙子も、テーブルに頬杖をついて、匂いから料理の内容を推理している。
「あらぁ、今日は洋風かしらぁ?」
「みたいね。一応、お祝いだしってことじゃない?」
 妙子がメニューを推理するのはいつもの癖だ。逆に妙子が料理を担当しているときの晴希も、同じことをしている。料理に関してだけは、晴希と妙子は似た者同士なのだろうと咲子は思っていた。
「お待たせ! 今日は欧風会席っぽくしてみた」
 料理を乗せた皿を運びながら、晴希はいつになく張り切った様子だ。常と同じく運ぶのを手伝おうと咲子は席を立ったが、途端に晴希に止められる。
「今日は何もしなくていいって。二人の誕生日なんだからさ」
 そう、今日十一月二十二日は、咲子と妙子の誕生日だった。そして、その誕生日を、晴希がぜひ祝わせてほしいと願い出てきたのだ。
 実は、晴希はつい最近まで二人の誕生日を知らなかった。咲子はいちいちそういう主張をしない性質だし、妙子にしてみても自分の彼氏でもない晴希にわざわざ教えたりはしない。だが、その妙子がある日、晴希に電話してきて訊ねた。
 ――ねぇ、もしかして渡辺君、サキの誕生日とか知らないんじゃなぁい?
 咲子は記念日などには無頓着なほうだと、妙子は重々承知している。だが、まさか恋愛経験のある晴希までそうだとは思っていなかった。
 だが、二人が結婚を前提にした付き合いに発展したあと、その事実に気づいた。イベントというイベントの度に、妙子が口出ししなければ二人は何もしようとしないのだ。そして、その電話に至ったわけである。
 結果、晴希がやる気を出したのだが、そこで咲子だけでなく妙子も一緒に祝おうというのが晴希が晴希たる所以だろう。妙子は自分はいいと遠慮したのだが、強引に了承させられたのだった。
 そんな成り行きはあったものの、結局三人は仲良く食事を楽しんでいた。
 そうして食事もほぼ終えようという頃、晴希が大したものじゃないけど、と前置きをし、綺麗にラッピングされた物を二つ取り出す。
「はい、こっちは咲子さんで、こっちが妙子さん」
「あ、ありがとう」
「私の分もあるのぉ! ありがとぉ! 早速だけど開けていい?」
 どうぞ、と晴希が返事するより早く、妙子は包みを開き始めていた。いつも通りの妙子に呆れはしたが、咲子も自分に渡された包みを丁寧に開封する。
「うわぁ。これめっちゃ手触りいい!」
 感嘆の声を上げる妙子の手の中には、オフホワイトの手袋があった。だが、見た目はそれほどおしゃれではなく、実用性重視に見える。
「それ、天然シルクなんだって。手荒れにいいって聞いたから、ちょうどいいかなって」
「良かったじゃない。アンタの手荒れかなり酷いもんね」
「寒くなってきたから特にねぇ。ありがとぉ! で、サキは何貰ったの?」
 嬉しそうに手袋をはめながら、妙子は咲子の手元を覗き込んだ。そこには、蒼い石のついた華奢なデザインのネックレス。石は十一月の誕生石でもあるブルートパーズだった。
「さすが渡辺君! センスいいじゃなぁい。フォーマルにも使えそうねぇ」
「うん、一応どっちでも使えそうなのにしたんだ。咲子さん、普段からアクセサリーの類、あんまりしてないみたいだし」
 そう簡単に説明はしたものの、実は悩みに悩んだ結果がこのネックレスだった。
 一応恋人同士という関係ではあるのだが、もともと恋愛感情で付き合ったわけではない。だから、指輪を渡すには躊躇いがあった。束縛したくもされたくもない二人にとって、指輪は重すぎる気がしたのだ。
 ピアスは開けていないし、イヤリングもつけているのを見たことがない。ブレスレットは機能性を重視する咲子なら邪魔に思うかもしれない。色々考えた結果、使い勝手も良くそれほど邪魔にもならなさそうなネックレスという選択になったのだった。
「ありがとう。確かにこういうの一つあったら助かるわ。ちょうど来年、友達の結婚式もあるしね」
 とても恋人からのプレゼントを喜ぶ若い女性には見えなかったが、それがまた咲子らしいと晴希は笑みを返す。
 と、何故か妙子が妙にニヤニヤと意味ありげに笑っていることに二人は気づいた。同時に、咲子の脳裏に嫌な予感が走る。こういう表情の妙子は、ロクなことを言い出さないと、経験則で知っていた。
「タエ、今日は何を企んでるの?」
「企んでるなんてひどいわねぇ。私からも二人にプレゼントがあるのよぉ」
 ニヤついたままでそう言うと、妙子は一旦席を外して小さな包みを二つ持ってきた。どちらも同じくらいの大きさだ。
「ちょっと待ちなさいよ。二人にってどういうこと?」
「そうそう。今日は咲子さんと妙子さんの誕生日であって、俺は関係ないでしょ」
「いいからいいから! ほら、開けてよ!」
 はい、とそれぞれに一つずつ包みを押し付け、妙子は開封するように促す。腑に落ちなくて互いに顔を見合わせるが、結局咲子も晴希も大人しく包みを開いた。
 出てきたのは、小さな木製の小箱。ふたの部分にはブランド名が焼印されていた。
 晴希と咲子はもう一度確認するように目を合わすと、覚悟したように箱を開ける。予想通りと言うべきだろうか。中身はシルバー製の指輪だった。しかも、同じデザインである。
「あのね、タエ。ペアリングって……」
「だって今日はいい夫婦の日じゃなぁい」
「まだ結婚してないわよ」
 すかさずツッコミを入れた咲子だったが、そんなものが妙子に通用するはずがなかった。
「いいでしょお、いずれするんだからぁ。そ・れ・に! サキも渡辺君ももうちょっと自覚した方がいいの!」
 声高に主張し出した妙子に、慣れている晴希でも少し気圧される。自覚って言われてもなーと、情けない声が洩れた。そんな晴希に、妙子はますます詰め寄る。
「渡辺君! この間、サキの会社の同僚から電話かかってきたのよ!」
「ちょっと、それ聞いてないわよ」
「そりゃ言ってないから当然でしょ」
 衝撃の事実に、さすがに咲子も立腹したようだったが、妙子に悪びれる様子もない。むしろ当然だとでも言わんばかりの態度だった。
「アンタねー、大事な電話だったらどうすんのよ!」
「大事なわけないじゃない! サキをデートの誘おうってだけだったんだから! どうせサキも断るんだし、手間が省けたでしょ!」
「いや妙子さん、それ、電話してきた本人にしたら、結構重要じゃ……」
 晴希にとって、その電話の相手を擁護する必要性は皆無なのだが、妙子の横暴さにはさすがに同情心が湧く。だが、それを妙子は鼻で哂って一蹴した。
「はぁん? 私とサキの声を聞き間違うような男よぉ?」
「わからなくて普通でしょ。昔からよく間違われてたじゃない」
「じゃあ訊くけど、今までに渡辺君が私とサキを一度でも間違えたことがある?」
 ピシリと問い返され、咲子も晴希も黙るほかなかった。
 晴希は決して間違えない。妙子が悪戯で咲子の真似をしたときですら、すぐに気づいたほどだった。
 何も言い返せない二人に、妙子は勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「でしょ? どうせ、サキの中身なんか見ずに外見だけで判断して、いざ付き合ったら勝手に幻滅するようなタイプよ!」
 妙に確信を持って力説する妙子だったが、すぐに我に返って話を戻した。
「って、それはどうでもいいの! こんな風に、サキってばモテるのよ! わかる? 悠長にしてたら、変なのが寄ってくるって言いたいの!」
「いや、まあ、それはそうかもしれないけど、咲子さんだって子どもじゃないんだから……」
「甘い! 甘過ぎるわ渡辺君!! 世の中、渡辺君みたいな紳士的な男ばかりじゃないのよ。草食系だとか言われてるけど、結局男なんて下半身で物を考えてるようなもんなの! 力ずくでどうにかするような輩だって馬鹿みたいにいるんだから!」
 いつになく熱く語る妙子に、晴希も咲子も呆気に取られていた。これは何かあったのではないかと疑うレベルだ。
「それはわかったけど、じゃあ何で渡辺にまで……」
「逆も然り! サキはわかってないけど、渡辺君は充分にイケメンなのよ? しかも料理上手で、夢もあって、働き者。接客の愛想もいいときてる。この間友達と渡辺君のお店行ったら、頭緩そうなOLが思いっきり色目使ってたんだから!」
「友達? あれ、彼氏じゃなかったんだ?」
「え、タエ、いつの間に彼氏できてたの?」
 ごく自然に浮かんだ疑問を晴希が口にすると、咲子はこれ幸いとばかりに話をすり替えようとする。が、途端にギッと音がしそうなほど睨まれた。
「彼氏じゃない! 私の話はいいの!」
 妙子の反応から推察すると、彼氏ではないものの多分普通の友達でもないだろう。だが、それを追求するよりも早く、妙子は体勢を立て直してたたみかけた。
「じゃなくて、二人ともそんななんだから、トラブル避けるためにもペアリングとかしてる方が絶対にいいの!」
「は、はぁ……」
 二人揃って圧倒されたように相槌を打つ。さんざん叫んで気が済んだのか、妙子は一息つくと今度は妙に晴れ晴れとした笑顔を見せた。
「安心して、そんなに高いものじゃないから。本物はそのうちちゃんと渡辺君が用意してくれるだろうしねぇ」
 最後にはからかうような台詞も忘れずに、妙子は自分の分の食器を持って席を立つ。台所の流しにそれを置いてくると、そのままダイニングを出ようとした。
「ちょっとタエ、どこ行くのよ?」
「渡すもの渡したし、あとは二人で仲良くやってていいわよぉ。私は私で、ちゃんと祝ってくれる人がいるからお気になさらずぅ」
 鼻歌でも歌いそうな様子で、妙子はその場を後にした。
 残されたのは、咲子と晴希と、二つのシルバーリング。二人の視線は、目の前に置かれたケースの中で、行儀のよい光を放つを指輪に自然と向かった。
「それで前に、指触られたのか」
「そんなことがあったの?」
「うん。何か、『男の料理人の手に興味があるの!』とか言われて。変だなーとは思ってたんだけどね」
 妙子の行動を想像すると、本当に怪しいことこの上ない。それをわかっていて、わざわざ咲子のいないところでその行動に出たのだろう。こういうところにだけは気が回るらしい。
「ま、せっかくもらったんだし、つけてみようか」
 少々のんきな晴希の提案に、少しだけ考えはしたものの咲子は素直に了承した。
「つけなきゃまたうるさいだろうしね」
 照れ臭さを誤魔化すように言い訳し、小さいほうの指輪を手を伸ばす。が、その前に晴希が手に取り、はい、と左手を差し出した。
「え、何よ、その手は」
「つけてあげようかと思って」
「いいわよ! 自分でつけれるし!」
 にっこり笑う晴希の右手から、乱暴に指輪を奪い取ると、咲子はさっさと自分ではめてしまう。その顔は、どこからどう見ても真っ赤だった。
 最近何かとこういう恥ずかしいことを晴希は平気でするのだ。しかも、それを楽しんでいるような節があるのが悔しかった。
「そうだね。それは本番までとっておいた方がいいよね」
 更に気恥ずかしさを煽るような台詞を口にしながら、晴希も自分の指に指輪をつける。
「どんだけ先の話してんのよ!」
 噛みつく咲子だったが、相変わらずの紅潮した顔では怖さも何もあったものではない。お、ぴったりだ、などとのたまいながら晴希は聞き流していた。
「そんなに先じゃないと思うけどねぇ?」
 突然妙子が顔を出し、咲子と晴希の薬指にはまった指輪にニヤける。
「あらぁ、ぴったりじゃなぁい! よく似合ってるわよぉ」
「タエ! 出掛けたんじゃ……!」
「今からよぉ。いってきまぁす。渡辺君、まったねぇん」
 どうやら自室で化粧を直していたらしい妙子は、ウキウキとした足取りで今度こそ玄関に向かっていった。晴希は手を振りながら、ありがとうと謝辞とともに妙子を見送る。その隣で、咲子は顔を赤らめたままむすっとしていた。
 さすがに話題を変えないと咲子が可哀想な気がして、晴希はコーヒーでも淹れようかと提案する。それに大人しく頷いた咲子は、自分の席に腰を落ち着けた。だが、
「渡辺の余裕がむかつく」
 ぼそり、と恨めしそうな呟きが洩れる。
 恋愛をまともにしたことのない咲子が、それなりに経験豊富な晴希に敵うはずはないのだが、どうしても癪なのだろう。それが負けず嫌いな咲子らしくて、ついつい余計な一言を、晴希はまた言ってしまうのだ。
「それはほら、旦那に余裕がないと、いい夫婦になれないでしょ?」
 途端に、烈火の如く怒りを露わにした咲子の声が響く。
 けれど、それすらも耳に心地よいと感じてしまう晴希なのだった。